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第99回広島2人デモ 6月20日報告

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みなさま
(いくつかのメーリングにお送りします)

第99回広島2人デモ6月20日の報告です。
第98回広島2人デモが5月2日、その間、6回金曜日がありました。
1か月半、お休みをしていたことになります。

予定通り、6月20日から再開することができるめどが立ったのはいいんですが
チラシのテーマに悩みました。
1か月半の間、色々ありました。
どれを取り上げてもいいようなものですが、
やはり大飯原発福井地裁運転差止め訴訟の判決について取り上げよう、ということになりました。
というのは、この裁判の意義が必ずしも正しく評価されていないような気がしたからです。
裁判は結局、原告と被告の論争を裁判長がどう判断するかで進行します。
ごくまれなケースを除けば、原告の主張を超えた判決が下る事もありますが、
基本的には原告の主張以上の判決は出ないものです。
福井地裁の判決は極めて正当であり、科学的論理的な内容でした。
裁判長の首尾一貫した論理とその卓見は大いに評価されなければなりませんが
基本的には原告の主張が論理的・科学的・包括的な内容だったため
裁判長もこれを認めざるを得なかった、と考えるのが順当だと思います。

原告の訴状の中に、この種の裁判で原告が勝訴したケースは2例しかない、という意味合いの指摘がありましたが
それは決して単に『不当判決』が連続した、裁判所が電力会社・政府寄り、という要因がなかったわけではありませんが
基本的には原告の主張が現在の法体系に照らして真っ当であれば
裁判所も認めざるを得ない、という単純な事実を示したという解釈ができます。

そのことをチラシでやはり一度は跡づけてみたい、ということで
1か月遅れの福井地裁判決をチラシにすることにしました。

網野「何部もっていく?」
哲野「30部もあれば十分じゃない?
   こんな地味な話題、興味持つ人はまだまだ少ないと思うよ」
網野「時期も逸してるしね」

というわけで、30部だけ持っていくことにしました。
いつもより早めに現場に着いてみると、日はまだ高く、出発間近の雰囲気ではありません。
2人で待っていると警備の警察の方が来たので指令書の確認。
雑談をしているとじゃけえさんが近づいてきました。
じゃけえさんはチラシを読んでくれて、誤植をメールで指摘してくれたんですが
直しが一か所、間に合いませんでした。(現在は修正してPDFにしてアップしています)
チラシの中身についておしゃべりしていると見覚えのある女性が近づいてきて
「チラシをください」と話しかけてきました。
「今日はチラシだけいただいていきます。これから集団的自衛権反対デモに参加します」
そういえば、当日は広島の労働組合や市民団体がこぞって、
いま問題になっている集団的自衛権行使反対の大規模なデモが行われるという話が入ってきていました。
哲野「すいませんでしたね、一か月半お休みしてましたけども、やっと再開できることになりました」
女性「そうですね、待ってましたよ。」
網野「集団的自衛権反対の方も大事ですから、頑張ってください。」
女性「ありがとうございます。」

音楽が鳴って3人で出発です。

▽第99回チラシ
http://www.inaco.co.jp/hiroshima_2_demo/pdf/20140620.pdf

トップバッターはじゃけえさんです。

じゃけえ「毎週金曜日恒例の2人デモです。
   6週お休みしておりました。ご無沙汰しております。
   原発に反対して個人が集まり、みなさんに知っていただきたいことをスピーチしながら歩いております。
   プラカードをかかげ、みなさんに知っていただきたいことをチラシにまとめ
   お配りしながら歩いております。
   よろしかったらお手にとってご覧ください。
   チラシの内容はwebでもご覧いただけます。
   広島2人デモで検索してみてください。」

出発して間もないころ、これも見覚えのある男性が「怒」のプラカードを持って3人に加わりました。
哲野「あれ?集団的自衛権のほうのデモじゃないんですかね?」
男性「うん、そのつもりですけど、デモ開始が18時半なんで、それまで一緒に歩こうと思って。」
哲野「そりゃあ、ありがとうございます。」
男性「話には聞いてたけど、一緒に歩くのは今日が初めてだなぁ。」

じゃけえさんのスピーチが続きます。
  「今回のチラシは福井地裁大飯原発運転差し止め判決についてです。
   原告団が勝利できたのは訴えの内容が誰の目からみても正当なものだったからです。
   裁判所はその内容を全面的に認め、関西電力に運転差止めを命じました。
   訴状の中で原告団は論理的にも科学的にも倫理的にも原発は不要であるばかりか
   人間が安心して暮らせる権利を侵害するものであると証明しました。
   その根拠は日本国憲法です。
   憲法が私たちの安全で安心して暮らす権利を守ってくれています。
   憲法は国民を統制するものではなく、権力の暴走を抑え、国民を守るためにあります。
   権力が憲法を変えるというのはあってはならないことです。
   それは憲法違反です。」

じゃけえさんは、チラシにも取り上げた、判決文の中の文章をいくつか読み上げました。
次は哲野にマイクが渡ります。

哲野「福井というともんじゅまで含めると15基くらいある、いわゆる原発銀座と呼ばれている所です。
   『福井から原発を止める裁判の会』という市民団体が中心となって、
   大飯原発運転差止め請求訴訟を起こしたのは1年半くらい前でした。

   1か月前、原告の請求をほぼ命じる形で、関西電力に大飯原発に運転差止めを命じました。

   被告の関西電力は控訴しました。
   地裁の判決を高等裁判所、最高裁で覆ることはよくありますが、今回は難しいのではないかと思います。
   原告団の訴状をチラシにしてお配りしておりますが、この訴状が実によくできている。

   差し止め訴訟の法的根拠は今回、原告は憲法に求めました。
   特に第13条と第25条、一般的に13条は我々国民の幸福権の追求、
   25条は生存権の追求、どちらも日本国憲法が我々に保証した基本的人権の一部です。

   原告団はこうした基本的人権のなかで言葉としては人格権という言葉で
   大飯原発の運転は人格権を侵害すると訴えました。
   人格権とはプライバシーの侵害でよく使われます。
   人が人としてふさわしい生活をする権利。
   福井地裁は現在の法体系の中で人格権より重い価値はないと言っています。
   例えば憲法第22条第1項では経済活動の自由を保証しています。
   しかし、経済活動の自由と人格権と、どちらが優先する価値なのか、
   これは福井地裁の判決文を読むと明確に人格権より重い価値はない、
   今の日本の全ての法分野において人格権より重い価値はないと言い切っています。

   私たちとすれば非常に学ぶべき言葉だと思います。

   私たちはともすれば、毎日の生活に追われ、金を稼いだり、
   家族の面倒をみたり、介護したりと重要なことをともすれば忘れがちになります。
   憲法に保証された権利を私たちがしっかり守っていく、
   一人一人ではなく多くの人たちが安心して安全な生活を送ることができる。
   福井地裁の判決は単に原発問題というだけでなく、
   極めて奥の深い問題を提示し教えてくれているように思います。」

哲野のスピーチの間に、Kさんが参加しました。
チラシの売れ行きは案の定はかばかしくありません。
ただ、プラカードは「いったいなんだろ?」という意味が強かったのだと思いますが
よく見ていく人が多かったです。
次はKさんのスピーチです。

Kさん「毎度お騒がせしております。
   広島2人デモです。
   原発の再稼働に反対して歩いております。

   みなさんに考えてほしいことがあります。
   福島原発から放出されつづけている放射能のことです。
   テレビや新聞ではたいしたことないかのように汚染水の問題や
   食品の放射能検出問題を報道しています。
   それなのにさも当然のように復興と言うことがいわれています。

   震災から何年も経っているのに未だに手を付けられない原発内部
   増え続ける汚染水や放射能汚染廃棄物などあまり報道されないままです。
   問題はいくらでもあります。
   問題に触れないまま、
   放射能がたいしたことではないかのように言われています。
   まるで放射能が漏れても病気も起らず誰も健康に問題がないかのようにいわれています。

   放射能は目に見えずにおいもなく味もしません。
   毎日福島原発からは大量の放射能が環境中に放出され続けています。

   津波や地震の被害は人の手でもどすことができますが
   放射能を無害にすることはできません。」

Kさんのスピーチ中に哲野の横に、これもいつもチラシを取りに来てくれるので顔を覚えている男性がスッと横について
「チラシください」
哲野が一部渡しながら「今日ね、一か月半ぶりなんですよ。なぜかボク緊張してましてね。気が付きませんでした」
男性「ああ、一か月半も経ちますかね?今日2人デモがあるというのはネットで知ってました。
    もう一か月半も経つんですかね。」
哲野「そうなんですよ。来週からは真面目にやりますので。」
男性は軽く頭を下げてそのまま先を急いでいきました。

次にスピーチはじゃけえさん。
じゃけえさんは1回目と同様、チラシの中身を要約して説明しました。
今度はじゃけえさんのスピーチ中に若い落ち着いた女性が哲野の横にすっと近づいて
「あ、これが2人デモなんですね。どの人が2人なんですか?」
哲野「僕と、ホラ、あそこに先頭でスピーカー担いで歩いている女性がいるでしょ?
    これが2人なんです。チラシ、お渡ししましょう」
女性「あ、もうネットで読んだんですけど。やっぱり貰っておきましょう。」
と、チラシを受け取って足早に去って行きました。

次は網野です。
網野もチラシの内容を説明していると
かなり年配の男性が「君らね!」と近づいてきました。
哲野が応対係りになって、長引きそうなので2人を置いてどんどん進んでいきました。

網野は福島第一原発は現在も緊急事態宣言中であること、
放射能はまだ出続けていること、などをスピーチ。
元安橋に帰ってデモ終了。

ところが哲野がまだ来ません。
警察「帰りがけに、様子を見ておきましょう。
    乱暴するような方とは見受けられませんけど、一応・・・」
と警察の方が去ってしばらく待っていると、哲野と大歳さんが元安橋に帰ってきました。

網野「どうだった?」
哲野「うん。どうってことはなくて、要するに原発に賛成なんだけど
    賛成してもいいんだろうか、と不安に思っている人だと思う。
    決して僕たちに批判的ではなかった。
    だけど、心情的には原発賛成の人なんだけど、ぐらついてる。
    納得したわけじゃないが、別れ際に握手を求めてきたよ。
    そしたら、大歳君が現れて、大歳君にもう今日は終わりだよ、と
    声をかけたところ」
網野「警察の人はいかなかった?」
哲野「会った。会った。どうしたんだろうね?」
網野「いや、心配して帰りがけに様子を見るって言ってくれたんだよ。」
哲野「そうだったんだ。」
大歳「やっぱり間に合いませんでしたね。今日僕はスピーチ原稿作って来たのに。」
というわけで最後に大歳さんのスピーチ原稿をご紹介します。

その前に、チラシ30部はほぼはけました。
Kさんとじゃけえさんによると、若いビジネスマンや中高生が積極的に取りに来てくれたのが特徴だったそうです。
また、アンデルセン付近に座っている人などにチラシを差し向けると、すぐに取ってくれたりしたそうです。
網野も商店街のオーナーさんが店前にでてスピーチを聞いている様子をみかけました。
地味な話題と思ったのですが、何かまた新しい方向の兆候かもしれません。よくわかりません。

以上ご報告いたします。

以下大歳さんのスピーチ原稿です。

 今から1か月前のことになってしまいましたが、
大飯原発差し止め訴訟において福井地裁・樋口裁判長は原告側の主張をほぼ100%認める、
大飯原発再稼働は認められないという判決を下しました。
この判決はいろいろな意味で画期的であり、論理的にも一貫性を持った大変優れたものでした。
このすばらしい判決をもたらした最大の要因は、まさに原告側の主張が論理的にも科学的にも優れていたということに尽きます。

 こうした判決と原告の主張の一体どういうところが優れていたかというと、
この訴訟が『人格権に基づく差し止め請求』であり、判決でそれが認められたということです。

我々は憲法によって生命や、最低限の健康的で文化的な生活を保障されています。
現実には悲しいかな、必ずしもそうはなっていませんが少なくとも憲法においてはそう書かれていますから、
この人格権が侵害されたり、侵害される恐れがある場合は堂々と司法や行政に対して訴えることができます。

 この人格権に基づいて、大飯原発は、大飯原発の再稼働は差し止めてほしいというのが、
原告側の主張でありこの要求を完全に認める判決を出したのがこの裁判でした。

 判決要旨から引用します。

(引用)原発は電気の生産を担うが、それは経済活動の自由に属すに過ぎず、人格権より劣位におかれる。

 つまり、原発には発電コストうんぬんといった諸問題がたくさんあるが、
そういったものは人間の生命や生活とは比較にならない、優先順位上、劣位のものであると言っているわけです。
このことがこの裁判において最も主要な部分です。
また、私たちがデモを行って主張してきたものと完全に一致するものです。

大変すばらしいものですが、これは大飯原発だけに限らず、その他すべての原発についても云えることであるし、
更に原発問題だけでなく人格権、生存権を侵害する、または侵害する恐れのある全ての事象において有効なものです。
そういった意味でも大変画期的なものでした。
また、判決要旨には次のようにも書かれています。

(引用)大きな自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広汎に奪われるという事態を
招く可能性があるのは原子力発電所の事故のほかは想定し難い。

大きな自然災害というものは我々の力ではどうすることもできませんから、
これ以外では原発事故の被害に相当するのは戦争ぐらいだ、というふうに表現してもよいと思います。
このような表現で、原発事故の特殊性を認めたということは大変意味が大きいです。
今までは、原発の運転にはリスクやコストがかかっても、
それ以上のベネフィットがあるのだから続けていくべきだという意見が優勢でした。
上の文章から「そんなもので済むようなレベルではない」ということを感じるとることができます。
これは今の福島を見れば簡単に理解できることです。

これらのことが、この裁判において主要な部分であると言えます。
しかし、それ以外でもとても重要なことが争点となりました。
沢山ありますが、一つだけ紹介すれば、関西電力は3・4号機の再稼働に関して
加速度1260ガルの地震まで想定しているということに対して、
原告側は近年で最も大きな加速度を記録した地震は2008年岩手宮城内陸地震の4022ガルなのだから、
これを対策基準にすべきであると主張したということです。
関西電力は大飯では4022ガルなどという地震動は考えられないと反論しましたが、
私から見てもこれは脆弱な論理だと感じずにはいられません。
なぜならば、4022ガルの地震は現に起きているわけだし、
さらに大きい地震が起きる可能性もあるのだから、
本来ならば4022ガルにいくつかの安全率をかけた数字を対策基準にしてもおかしくないわけです。
私には原告側が無茶苦茶な要求をしているようには思えません。

では、現実に4022ガルの地震動に耐えうる原発を建設することは技術的に可能でしょうか?
これはほぼ不可能な数字でしょう。
311以前の設計では500ガルぐらいまで耐震強度で設計が行われていました。
仮に4022ガルの耐震構造を作ることが可能であったとしても、
その建設コストは1兆円をはるかに超えるようなものになるでしょう。
少なくとも関西電力にも、関西電力以外の日本の電力会社でも、
そのような資金力が残されている会社はどこにもありません。
つまり巨大地震に耐えうる原発を作ることは不可能であるということです。

したがって、原発を再稼働させるためには想定地震動を可能な限り少なく見積り、
それを認めてもらう以外電力会社には方法がないのです。
これ以外にも様々な争点で議論が行われましたが、
関西電力側からはいずれも有効な反論が出ることはありませんでした。
関西電力は判決が出た後すぐに控訴を出しましたが、
関西電力がこれらの争点で今より有効な反論を行うことは難しいでしょうから、
もし高裁で地裁の判決が覆されることがあるとするなら、
よほどの政治的な力が働いたとき以外は考えられません。

この判決が出た後、原発推進の大手新聞社である読売新聞社の社説には
以下の文章が掲載されました。

「ゼロリスク」に囚(とら)われた、あまりに不合理な判決である。
定期検査のため停止している関西電力大飯原子力発電所3、4号機について、
福井地裁が運転再開の差し止めを命じる判決を言い渡した。原発の周辺住民らの訴えを認めたものだ。

 判決は、関電側が主張している大飯原発の安全対策について、
「確たる根拠のない楽観的な見通しのもとに成り立ち得る脆弱(ぜいじゃく)なもの」との見方を示し、
具体的な危険があると判断した。
福島第一原発の事故原因が確定できていない」ため、
関電は、トラブル時に事態把握や適切な対応策がとれないことは「明らか」とも一方的に断じた。
 昨年7月に施行された原発の新たな規制基準を無視し、科学的知見にも乏しい。
判決が、どれほどの規模の地震が起きるかは「仮説」であり、
いくら大きな地震を想定しても、それを「超える地震が来ないという確たる根拠はない」と強調した点も、理解しがたい。
非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない。
大飯原発は、福島第一原発事故を受けて国内の全原発が停止した後、
当時の野田首相の政治判断で2012年7月に再稼働した。
順調に運転し、昨年9月からは定期検査に入っている。
関電は規制委に対し、大飯原発3、4号機が新規制基準に適合しているかどうかの審査を申請している。
規制委は、敷地内の活断層の存在も否定しており、審査は大詰めに差し掛かっている。
 別の住民グループが同様に再稼働の差し止めを求めた仮処分の即時抗告審では、
大阪高裁が9日、申し立てを却下した。
規制委の安全審査が続いていることを考慮し、
「その結論の前に裁判所が差し止めの必要性を認めるのは相当ではない」という理由からだ。
常識的な判断である。
最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、
「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、
行政側の合理的な判断に委ねられている」との見解を示している。
原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった。
各地で起こされた原発関連訴訟の判決には、最高裁の考え方が反映されてきた。     
福井地裁判決が最高裁の判例の趣旨に反するのは明らかである。
関電は控訴する方針だ。上級審には合理的な判断を求めたい。」

この終始一貫して悪質な社説を、どこから批判していけばよいか悩みます。
大まじめにやろうとするとそれは結構な仕事量になってしまうからです。
大体、裁判の概要を(意図的にか?)きちんと捉えていません。
人格権のところは一言も出てこない代わりに、一言もでてきていないゼロリスクなどという言葉が登場しています。
判決は、ゼロリスクにできないのであれば、再稼働してはいけないといった内容のものではありませんでした。
まったく事実を知らない人がこの記事を読めば、
「大飯原発の裁判では非合理な判決が出たのだな」という印象だけが残ってしまうでしょう。

(引用)判決が、どれほどの規模の地震が起きるかは「仮説」であり、いくら大きな地震を想定しても、
それを「超える地震が来ないという確たる根拠はない」と強調した点も、理解しがたい。
非現実的な考え方に基づけば、安全対策も講じようがない。

はて、裁判はこのような抽象的な内容であったでしょうか?
地震の予知がどこまで行っても仮説なのは当然の話です。
問題はどこに安全対策の基準値をおくかということです。
原告側は安全対策の基準を1260ガルではなく、4022ガルにすべきであるとはっきりと数字をあげて主張しているのです。
さらに判決要旨においては、こうしたことを踏まえたうえで「基準値振動を超える地震は来ないという
関西電力の見方は根拠のない楽観的な見通しである、」という書き方をしています。
なぜ、そのままのこの文章を引用せず、わざわざ表現を変えてまで、このように書くのでしょう?

それは先に述べたように「大飯原発の裁判では非合理な判決が出たのだな」という印象を
読者に植え付けるためです。
全く裁判の内容知らずに読売の社説だけ読んだ方はどう思うのでしょう?

私がもし裁判について情報ゼロの状態で読売の社説だけを読んだなら、
「大きな地震は来るのか来ないのか、そういう雲をつかむ議論をしていたのか」と感じるでしょう。
この社説を書いた人間が、読者をどこに着陸させたいかは社説後半を読めばよくわかります。

最高裁は1992年の伊方原発の安全審査を巡る訴訟の判決で、
「極めて高度で最新の科学的、技術的、総合的な判断が必要で、
行政側の合理的な判断に委ねられている」との見解を示している。
原発の審査に関し、司法の役割は抑制的であるべきだ、とした妥当な判決だった。
この社説を書いた人間が、いまだ安全審査という不適切な語句をわざわざ使って言いたいのは
「司法が原発問題に介入するな」ということです。
まるで「専門である規制委員会が判断するのだから、司法が首をつっこむな」とばかりの論調ですが、
そもそも司法は原発の是非について判断しているのではなく、
それが人格権の侵害に当たるのかどうかを判断しているのです。
正直なところ、この社説を書いた人間も酷いですが、
それを掲載する読売新聞も輪をかけて酷いと書かざるを得ません。