No.4 | 平成17年12月14日 |
2005年12月11日付けの中国新聞にちょっと目を引く記事が出ていた。 ノルウェイのオスロで10日、ノーベル賞授賞式がおこなわれ、IAEA(国際原子力機構-International Atomic Energy Agency)が2005年のノーベル平和賞を受賞した、という記事だ。「被団協の活動賞賛」、と4段抜きの中見出しが打ってあり、記事を読むと、「ノーベル平和賞授賞式でノルウェイ・ノーベル賞委員会のウーレ・ダンボルト・ミエス委員長は核廃絶運動に取り組んできた日本原水爆被害者団体協議会の活動をたたえ、核廃絶と平和を訴えた」とある。 (記事自体は共同通信のオスロ特派員の打電記事で、なにも中国新聞でなくても寸分違わぬ記事を読むことができる。余計なことだが通信社の配信記事で最もらしく紙面を埋めて、自社の記者が書いた原稿が隅っこに追いやられる地方紙のあり方は何とかならぬものか。 これでは、広告取りが目当てのクリーニング・ジャーナリズムと言われても仕方がない) この委員長が授賞式でどんなスピーチをしたのか広島の人間としてはすこぶる興味のあるところである。このスピーチの全文はインターネットで簡単に入手できるので興味のある人はそちらにアクセスされると良い。 (http://nobelprize.org/peace/laureates/2005/presentation-speech.html) そもそもノーベル平和賞は、他の科学系の賞に較べて政治色が強くやや絶対的権威にかける側面もないではない。1901年に第1回の受賞が行われているが、この時の受賞者は国際赤十字社の創設者であるスイス人のアンリ・デュナンと国際仲裁委員会の提唱者でフランス人の経済学者フレデリック=パシーの2名の共同受賞だった。 第二次世界大戦前の受賞者については、なかなか評価しにくい、と言うよりも評価をするだけの知識と基準を持たない。いわば私に勉強が足りない。第二次世界大戦後になると同時代人として、ケチをつけてみたくなる人物も現れてくる。(http://nobelprize.org/peace/laureates/index.html) 1953年の受賞者ジョージ・C・マーシャルは第二次世界大戦中のアメリカ陸軍参謀総長である。戦後はマーシャル・プランで有名でヨーロッパ復興に力を尽くした。軍人が受賞するというのも平和賞の趣旨からして釈然としないが、専門家の判断はまあそんなものかなとも思う。 1952年のアルバート・シュバイツア、1964年のマーチン・ルーサー・キング、1979年マザー・テレサなどは誰が見ても異存のないところだ。 ところが1973年のヘンリー・キッシンジャーとなるとちょっと首を傾げたくなる。ベトナムのレ・ドクトとの共同受賞だから、ベトナム和平に力を尽くしたと言うことだろうけど、侵略したアメリカ側の人間だから、これはいわばマッチ・ポンプではないかと言いたくなる。 同じことは1994年のヤーセル・アラファト、シモン・ペレス、イツハク・ラビンの共同受賞についてもいえる。中東和平に貢献したと言うことだが、その後の状況はこの授与が間違っていたことを証明している。 1989年のダライ・ラマ14世も大きな疑問である。チベット支配をもくろむ中共軍(最近はだれも中共とは云わなくなった)と正面から闘ってチベットの自由化のために力を尽くしたということが受賞理由だ。ハリウッド映画「セブン・イアーズ・イン・チベット」でおなじみのストーリーである。 しかしよく考えてみれば、ダライ・ラマを頂点とする宗教支配制度は、宗教革命以前のカソリック支配制度とそっくりであり、僧侶層が政治の実権も握って、経済的にも民衆を搾取し続けてきた。その当時の中国は解放をうたい文句にチベット侵攻を行って、僧侶階級を大虐殺した。 これとダライ・ラマは対決したのだが、主たる目的は「自由化」ではなく、中世的な宗教支配・権力の維持だったと言う見方もできる。そのダライ・ラマにノーベル平和賞とはいささか早とちりであろう。 極めつけは1974年のショーン・マクブライドと佐藤栄作の受賞である。マクブライドについてはともかく佐藤栄作に関しては何とも言いようがない。日本人唯一の平和賞受賞者だから本来は喜んでいいはずなのだが、全く納得がいかない。 受賞理由は核兵器保有に反対し、世界平和に貢献したということなのだが、もともと最初の被爆国として、核兵器を保有するなどは国民感情が許さない。佐藤栄作自身がそれを叫んだわけでもない。憲法9条の歯止めもある。彼が核兵器廃絶のアドボケーターだったという話しも聞かないし、むしろ折りあらば、なければ作ってでも憲法9条を骨抜きにして、事実上の再軍備を図ろうとするタイプの政治家だった。ノーベル平和賞の選考委員会も時にはミステークをすると云うことだろう。 その選考委員会は、正式にはノルウェイ・ノーベル委員会という。 (The Norwegian Nobel Committee http://nobelprize.org/peace/articles/committee/index.html) 委員が5人なので5人委員会とも呼ばれている。選考委員はノルウェイ国会が任命する。アルフレッド・ノーベルの遺言でノルウェイ国籍を持たないものは委員になれない。国会が任命権を持つが、選考に関しては全く独立し、国会の容喙を許さないということになっている。またヨーロッパの辺境国ノルウェイが世界の平和賞を決定するという点で、一体公平な判断ができるのかと言う批判があることは委員会も気にしているところと見えて、委員会を説明した文章に、「20世紀を通じて、スカンジナビア人の受賞者は8名である。5名がスエーデン人、1名がデンマーク人、ノルウェイからは2名の受賞者しかでていない。」とちょっと弁解がましく述べている。ノルウェイからの受賞者は、一人はフリチョフ・ナンセン。有名な冒険家であるが、受賞理由はもちろん冒険家としてではない。国際連盟の難民高等弁務官として難民救済にあたったことが理由である。もう一人はクリスチャン・L・ランゲでこの人は外交官・政治家だったらしい。 さて、肝心の今年のノーベル平和賞である。ノルウエィ・ノーベル委員会の委員長、オーレ・ダンボルト・ミョース教授(共同通信の記事では、ウーレ・ダンボルト・ミエスと表記してあったが、ノルウエィ大使館に確認してみると、オーレ・ダンボルト・ミョースの方が原音に近いらしい。もっとも世界一音の種類の少ない日本語だから、カタカナに音を移したとたんに原音とは似ても似つかぬ表記になってしまう。ここはお隣朝鮮半島のハングルと大きく違うところだ。共同通信の表記が間違いというわけではない。ギョエテとはオレのことかとゲーテ云い、と言う川柳もある。)のプレゼンテーション演説はまずこう述べている。 (日本語全文に興味をお持ちの方はこちらを読まれたい。ただし拙訳である。謙遜でなく拙訳なのでそのおつもりで) 「核兵器の脅威が再び大きくなりつつあるまさにこの時、ノルウェイ・ノーベル委員会は、この脅威に対してできる限り広範な国際協力を通じて立ち向かわなければならないという点を強調したいのであります。この原則(核兵器に対する脅威には広範な国際協力をもって立ち向かうと言う原則-訳注)は、国際原子力機構とその事務局長において、今日最も明確に見出すことができます。核不拡散(the nuclear non-proliferation)時代の今日にあって、核エネルギーの軍事目的誤使用を制御管理しているのは国際原子力機構(IAEA)でありますし、核不拡散時代の新しい方法論を揺るぎない確信のもとに主唱しているのは、事務局長その人なのであります。軍縮への努力が暗礁に乗り上げ、核兵器が世界の国々やテロリスト・グループへ拡散せんとしているまさにこの時、また原子力が、再び重要な役割を演じようとしているこの時、この仕事(IAEAとその事務局長のなしている仕事-訳注)は数値化することができないほど重要であります。」 委員長はこうしてまず、今年のノーベル平和賞授与理由を簡潔に述べている。国際原子力機構(IAEA)こそ核不拡散運動の旗頭というわけだ。もともと国際原子力機構は、一歩間違えば既核保有国に核兵器を独占させ、核保有の現状維持を図る仕組みにもなり兼ねなかった。(その危険は今でも十分にある) この危険に歯止めをかけたのが核不拡散条約だったとミョース教授は指摘する。 「IAEAの成文上は明確に書かれずいわば暗黙の了解事項であった項目が、1970年の核不拡散条約(NPT)では明確な成文となりました。この成文はIAEAにとっても大きな意味を持つものでした。・・・基本的核兵器は『世界的に削減さるべきであり、究極的には全面廃棄される』ことを義務化する、と言う項目です。」なるほどこれなら大国の核独占を許さないことになる。 従って核兵器を独占したい大国、特にアメリカにとっては極めて都合の悪い流れになったわけだ。 ミョース教授は、このアメリカの態度には腹を据えかねていると見えて、ノーベル平和賞受賞式の場で名指しこそしないものの大いに当てこすっている。 「他者が核兵器を獲得することを妨げつつ、自分は自身の核兵器開発を続けるなどといったことは偽善的と言わざるを得ません。いみじくもエルバラダイはこういっています。『自分はタバコを美味しそうにくゆらせながら、他人には禁煙を説くようなものだ』と。」 IAEAが、複雑な国際政治情勢の中で極めて良心的にその本来任務を果たさなければならない事情は、まったく素人である私には窺いもしれない。しかしエルバラダイ(エジプト人である)という事務局長でなかったなら、違った展開を見せていたかも知れない。 ミョース教授は次のように指摘している。 「2003年に起こったイラク侵攻以前の時期、IAEAと国連監視検証査察委員会では、イラクにおいて正しいやりかたで全く独立して検証しようと云う仕事自体が大変なプレッシャーに晒されました。イラク侵攻の後明らかになったように、そのような兵器(大量破壊兵器-訳駐)はイラクに存在していなかったことが証明されたのです。」いうまでもなく、これはブッシュ政権が自分に都合がいいように国際原子力機構と査察団に圧力をかけたことを指しているのであり、イラク侵攻理由をヒトラー張りに堂々とでっち上げたことを指している。 (参考記事http://tanakanews.com/f1101whitehouse.htm) なるほどエルバラダイでなければ、こうしたハイパー大国アメリカの圧力を跳ね返せなかったのかもしれない。これだけでも、今年の平和賞受賞がエルバラダイとIAEAに与えられることは納得がいく。 ミュース教授はこのあと一通り、エルバラダイ氏とIAEAをたたえたあと、今後のIAEAに期待する役割に触れ、そしてノーベル平和賞の理念や受賞のいきさつに触れた後、これで終わりかと思うと突如として話しを日本被爆者団体連絡協議会に持っていく。 「・・・そして選んだ後で、国際政治情勢の中で、核兵器削減に努力する人たちが受賞することになったんだと気がついた次第です。 60年前広島と長崎に原爆が投下されました。以来世界は、このようなことが二度とあってはならないという思いで心を一つにして参りました。そのような兵器はあまりに破滅的で、実際の戦争においても兵器として無意味なのです。当然と言えば当然ですが、日本では、原子爆弾の記憶が強烈に残っております。その日本では2つの原爆生存者の人々を今もなお見出すことができます。この生存者の人は特別な名前、ヒバクシャ(Hibakusha)という名前をもっており、彼らの組織ニホン・ヒダンキョウ(Nihon Hidankyo)もあります。私どもはこの被爆者の方々にもおめでとうといいたい。」 中国新聞の記事の中見出しで「被団協の活動賞賛」とあったが、ミョース教授が「被団協」に触れているのはここの箇所だけである。これでどうして活動賞賛となるのか。いやそんなことよりも、前後の脈絡もなしに何故ここで唐突に被団協が出てくるのか?しかもこの下りの直後に佐々木禎子さんの話しがこれも唐突に出てくる。 「ここでみなさん一緒に佐々木禎子という少女の話を思い起こしてみましょう。彼女は広島の原爆で放射線を浴びた子供です。12歳の彼女は死に至る病である白血病に苦しみました。1000羽の鶴を折れば、どんな願いでも叶うという伝説を耳にしたサダコは、白血病の全快を願って1000羽の鶴を折りはじめました。一般に伝えられている話しでは、彼女は644羽を折ったところで息絶えました。残りの356羽は同級生が折りました。サダコは花輪のような、1000羽となった折り鶴と共に葬られました。サダコの同級生やその友達は、広島の平和公園の中に御影石でできた彼女の立像を作りました。(像そのものはブロンズ製。石碑が御影石。-訳注)その像は若き乙女となったサダコを表現し、両手を拡げ、その両手には折り鶴を捧げ持っています。今でも毎年何千もの折り鶴がこの像の周りにおかれています。」 ここの2つの箇所だけが、ミョース教授の演説のなかで極めて唐突なのだ。想像をたくましくせざるを得ない。 ノーベル平和賞の候補は自薦他薦でこのところ100以上あるそうだ。毎年1年前の9月頃から候補者を捜し始めその年の2月頃に締め切る。その後専門家チームの調査などの助けを借りながら10月中旬には受賞者を決定するということだ。授賞式は毎年12月10日と決まっている。 (http://nobelprize.org/peace/articles/committee/index.html) ミョース教授によると2005年の候補者は199あったという。それもすんなり、IAEAに決まったわけではなく「長い議論の末」決まったという。しかもこれは平和賞委員会のルールで、平和賞の候補者は50年間公表してはいけないことになっている。当然2005年の候補者は発表してはならない。委員長が誰それが候補だったなどということはもってのほかだ。こうした文脈の中で、ミョース教授の演説を読んでみると、原爆被爆者(すなわち特定できる団体としては日本原爆被爆者団体連絡協議会)がIAEAと最後まで争った有力候補ではなかったかという推測が生まれる。少なくとも最有力候補の一つだったということは間違いない。 ミョース教授が他の箇所でも触れているとおり、第二次世界大戦後は国連機関から多く受賞者がでていること、ノーベル賞が西ヨーロッパ社会のクライテリアを根底においていることなどから、IAEAの受賞になったものとは思うが、「ヒバクシャ」も最有力候補だったに違いない。 やや感傷的に佐々木禎子さんを引用したミョース教授の心情もこうしてみれば、唐突などではなく、十分理解できる。 考えてみれば、広島・長崎のヒバクシャの人たちがノーベル平和賞を受賞するのは当然のことだ。自ら被爆体験をもち、一貫して核兵器の恐ろしさを世界に訴え続けて来たアドボケーターなのだから。少なくとも(比較するのも大変失礼な話しだが)、佐藤栄作よりもはるかにふさわしい。ただ世界的に見ればほんのちょっぴり説得力に欠けるというだけだろう。それは自分たちを被害者という枠組みでしか見ていないことに由来するのではないだろうか?(もちろん被害者には違いない)。被害者という立場を含めてその体験を相対化し歴史化できれば、IAEAをダントツに引き離してノーベル平和賞を受賞できたに違いない。 私は「ヒバクシャ」がノーベル平和賞を受賞することを夢見ている。 |
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参考資料 「被爆都市ヒロシマ」 |