No.17 | 平成18年11月7日 |
評論家の立花隆が、朝日新聞で教育基本法を変えることについて鋭い指摘を行っている。(2006年11月7日付け、シリーズコラム「わたしの教育再生」) 「そもそも今なぜ教育再生問題がこのような形で政治問題化しつつあるのか。衆院に上程されている『教育基本法改正』が『やっぱり必要だ』という空気を作りたいからとしかいいようがない。 しかし、今の教育が抱えている諸問題はすべて教育基本法とは別の次元の問題だ。教育基本法改めなければ解決しない問題でもなければ、教育基本法を改めれば解決する問題でもない。 ・・・政府改正案を見ても、なぜそれほど拙速にことを運ぼうとするのか、理由が見あたらない。 考えられる理由はただひとつ、(教育基本法の)前文の書き換えだろう。」 そして立花は、教育基本法が日本国憲法と一体化した法律であることを指摘した上で、 「(安倍内閣は)憲法と一体をなしてそれを支えている教育基本法の存在が邪魔で仕方がないのだろう。憲法改正を実現するために『将を射んとすればまず馬を射よ』の教え通り、まず憲法の馬(教育基本法)を射ようとしているのだろう。」と安倍政権の狙いを解説する。 そして、第二次世界大戦(日本にとっては太平洋戦争であり、日中戦争だった)において日本が「極端な国家主義と民族主義」に走り、ファシズム、ナチズムと手を組む全体主義国家になってしまったのは、教育が国家の手段化していたからだ、と制定時の文部大臣の田中耕太朗(のちの最高裁判所長官)の言葉を引きながら、指摘し、 「教育は国家に奉仕すべきではなく、国家が教育に奉仕すべきなのだ。国家主義者安倍首相は、再び教育を国家の奉仕者に変えようとしている。」と結んでいる。 |
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われわれは忙しい。 家庭の主婦は、家計の心配と子供の教育に忙しい。 その旦那は、目先の仕事で、今月の個人成績のことで忙しい。 その旦那を雇っている中小企業の社長は今月の資金繰りで忙しい。 その中小企業を何とか安く使おうとしている大企業は談合と営業戦略遂行に忙しい。 超大企業は世界戦略と金儲けに忙しい。 役人は省益と天下り先の確保で忙しい。 政治家は選挙と利権の確保で忙しい。 小学生は中学受験で忙しいし、中学生は高校受験で忙しい。 高校生は大学受験で忙しいし、大学生は有利な就職で忙しい。 みんな明日を食うために、今何かしら忙しいのだ。 教育基本法などに関わりあってる暇はない。 こうして、戦前軍国主義が徐々に地ならしされ、準備され、足下を固めていき、あっと気がついたときには個人ではどうにもならない状況が作られ、「天皇陛下の命令」の下に戦争に駆り立てられていった。 政治をめぐる状況に正しい知識をもち、個人個人がその正しい知識から、政治に関する見識をもち、判断できることを「政治的教養」という。 民主主義とはこうした政治的教養をもった構成員の存在を前提としている。構成員が政治的教養を持たない場合は、衆愚政治とならざるを得ない。 |
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教育基本法第8条はこう定めている。
ここは政治的教養が、日本国憲法を下支えする民主主義を担保しているとも読むことができるだろう。 その政治的教養の立場から、小泉・安倍政権と続く憲法改変とそれに先行する教育基本法改変の意図を読み解くとどうなるであろうか? 教育基本法は、その前文に次のようにある。 「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」 ここで言っていることはおよそ次のようにまとめることができるだろう。 1.憲法は民主的・文化的国家、世界平和と福祉に貢献する国家の建設の決意を示した。 その根底には教育が必要だ。 2.その教育は、平和を希求する、個性豊かな人間を育てなければならない。 3.だから憲法とセットにしてこの教育基本法を定める。 教育基本法に関するごちゃごちゃした議論をすべてカットして、問題の本質だけを見据えれば、「平和に貢献する個性豊かな人間」を育てるのか、そうではないのか、という二者択一の議論になる。 それではこの二者択一のもう一方の議論とはどんな議論なのか。 それには、教育基本法がアンチテーゼとしている価値観を対局に置いて比べてみるのがてっとり早い。 教育基本法がアンチテーゼとしている価値観とは、教育勅語だ。 教育勅語は天皇が臣民に与える直々の言葉という体裁を取っている。全文を掲げておいたので一度参照されたい。(教育勅語) 教育勅語では、天皇と日本国民の関係を、「朕と汝ら臣民」と呼んでいる。もともと教育基本法のような教育全般にわたって議論している内容ではなく、「徳目」を列挙したものだ。その徳目の第一が「忠」である。 「 我(わ)カ(が)臣民(しんみん) 克(よ)ク忠(ちゅう)ニ 克(よ)ク孝(こう)ニ 億兆(おくちょう)心(こころ)ヲ一(いつ)ニシテ」だ。 教育勅語のいいたいことはこの一点につきる。あとはお飾りの付けたりのようなものだ。これは私が独断と偏見で言っているのではない。国会が決議までして言っていることだ。 教育勅語は法令ではない。戦前の帝国憲法下においても法律ではなかった。いわば「天皇談話」みたいなものだ。だから戦後、教育勅語の影響力を排除するに当たって、「法律を廃止」するという形では実施することができなかった。このため国会が、「決議」という形で教育勅語の影響を排除しようとした訳だ。 決議は、衆議院と参議院が別々に行っている。短いので全文引用しよう。 まず衆議院の決議は1948年(昭和23年)6月19日だ。 「ヘ育勅語等排除に關する決議 民主平和國家として世界史的建設途上にあるわが國の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことはヘ育基本法に則り、ヘ育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつているヘ育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他のヘ育に関する諸詔勅が、今日もなお國民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であつたがためである。 思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八條の本旨に従い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。 右決議する。」 いっていることは、教育勅語はもう教育の指導原理ではない、ということだ。それではなぜこの教育勅語が日本における教育の指導原理ではないかというと、「主権在君と神話的国体観」に基づいているからだ。 そして、新たな指導原理は「教育基本法」だというのだ。 参議院の決議はもう少し踏み込んでいる。 参議院の決議も同じく6月19日に行われている。これも短いので全文引用しよう。 「教育勅語等の失効確認に関する決議 われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失つている。 しかし教育勅語等が、あるいは従来の如き効力を今日なお保有するかの疑いを懐く者あるをおもんばかり、われらはとくに、それらが既に効力を失つている事実を明確にするとともに、政府をして教育勅語その他の諸詔勅の謄本をもれなく回収せしめる。 われらはここに、教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する。 右決議する。」 ここで、参議院決議がいっていることは、国民教育の観点から見て教育勅語等は全く誤りであった。しかし今なお教育勅語が正しいかのような誤解があるのではっきり誤りだということを念押しする、正しいのは教育基本法だ、ということだ。 |
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それでは、教育勅語のどの部分が誤りであったかというと、「神話的国体観」「朕と臣民」との関係、そしてそこからくる「天皇に対する忠」の部分である。あとはお互いに仲良く、けんかせずに暮らしなさい、というだけだから取り上げることのほどもない。 「天皇に対する忠」がもっとも大事だから、「一旦(いったん)緩急(かんきゅう)アレハ(ば) 義勇(ぎゆう)公(こう)ニ奉(ほう)シ(じ) 以(もっ)テ天壤(てんじょう)無窮(むきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スヘ(べ)シ」(教育勅語)であり、戦争になれば進んで戦場に赴いて、天皇中心の体制を助けなさい、ということになる。 これはまさしく現教育基本法のアンチテーゼである。 現教育基本法では、「平和に貢献する個性豊かな人間」を育てるために教育基本法があるのであり、憲法が存在し、国家が存在する。ところが教育勅語ではこの関係が全く逆立ちしている。「万世一系の天皇」=天皇制国家のために「臣民」が存在しているのだ。 現教育基本法では、国家が「平和に貢献する個性豊かな国民」のために奉仕する。(ことになっている) 教育勅語では「天皇=国家」のために国民が奉仕することになっている。 教育基本法に関するごちゃごちゃした議論をすべてカットして、問題の本質だけを見据えれば、「平和に貢献する個性豊かな人間」を育てるのか、そうではないのか、という二者択一の議論になる、それではこの二者択一のもう一方の議論とはどんな議論なのか、と冒頭に掲げておいたが、これでようやくはっきりした。 なぜ教育基本法改変をめぐる議論とは、突き詰めれば、「平和に貢献する個性豊かな人間」を育てるのか、それとも「国家に奉仕する国民」を育てるのかと言う議論になる。 さて、こうした目で、現在安倍内閣が国会に提案している、教育基本法案を見てみよう。 (教育基本法案は次の文部科学省のサイトから入手できる。http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/houan.htm) 詳細な議論は別として、「平和に貢献する個性豊かな人間」を育てるのか「国家に奉仕する国民」を育てるのかという観点から、教育基本法案を眺めてみよう。 まず、これは実に見事な換骨奪胎である。相手の言葉を借りながら全くその趣旨を逆立ちさせてしまうお手本のような文章だ。よほど頭のいい人たちが書いた文章と見える。 しかし、いくら頭が良くても、換骨奪胎は換骨奪胎、詭弁は詭弁だ。衣の下から鎧がちらちら見える。 現教育基本法と教育基本法改正案を比べてみて、すぐ気がつくことは、「平和に貢献する個性豊かな人間」の育成から「国家・社会に有用・必要な人間」の育成への大転換だ。つまり「国家に奉仕する国民」を育てると言う意味では、衆議院・参議院が否定した教育勅語の精神に大きく近づいている。 (こんなものよく公明党が了承したものだ。創価教育学会の初代会長牧口常三郎は戦前、天皇制警察国家に殺されたようなものではないか。) 現教育基本法と今国会に提出された教育基本法改正案とをもう少し、くわしく見てみよう。もっとも特徴的なことは、前文から「憲法との関連性」が削除されていることだ。 現教育基本法の前文にあたる部分を短いので全文引用しよう。 「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力の力にまつべきものである。 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。 ここに、日本国憲法の精神の則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。」 この前文では最初に、日本国憲法と教育基本法の関連を明確にして、平和な日本を作るためには、まず個人の尊厳と平和を愛する国民の育成が大切だ、と述べている。そして最後に念押しをするように、日本国憲法の精神の上に教育基本法ができあがっていることを明示している。わかりやすい、力強い文章だ。 この前文に相当する部分が、「教育基本法改正案」では次のように変えられている。これも短いので全文引用しよう。 「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造をめざす教育を推進する。 日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り開く教育の基本を確立し、その振興を図るために、この法律を制定する。」 最初に気がつくのは、主体が「日本国民」から「日本国家」になっていることである。現行法では「日本国憲法を確定し、「民主的で文化的な国家を建設して」、「世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。」のはすべて「われら」国民である。 改変法案では、主語の構造をわかりにくくしてあるが、結局、「我ら日本国民」が作ったが「国家」が更に発展することを願うという構造になっている。従って主体は日本国民ではなく「日本国家」である。 だから最後の文章、「日本国憲法の精神にのっとり」とは書いてあるが、日本国憲法の主体は、「日本国家」でなく、あくまで日本国民であるから、「日本国憲法の精神にのっとっていない」。文章が自己矛盾を起こしている。「日本国憲法の精神にのっとり」は、従って、詭弁ということがわかる。 次の問題は、現行法では、憲法と教育基本法との関係が、明確に1本筋が通っているのに対し、改変法案では、この関係がわかりにくい。しかし、改変法案での「日本国憲法の精神にのっとり」が詭弁であることさえ押さえておくと、改変法案では、実は日本国憲法との関連を断ち切ろうとしていることが分かる。 立花隆が、「・・・政府改正案を見ても、なぜそれほど拙速にことを運ぼうとするのか、理由が見あたらない。 考えられる理由はただひとつ、(教育基本法の)前文の書き換えだろう。」といっている部分だ。 |
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整理すると、国民主体(主権在民)の立場で貫かれている日本国憲法・教育基本法の精神を、改変法案ではこれを分断し、国民主体ではなく国家主体(主権在国家)に逆立ちさせているということだ。 「主権在民」から「主権在国家」、これが改変法案の基本的精神だ。このことさえ押さえておけば、その後の条文は、現行教育基本法に似せようとしているため、いかにわかりにくい文章となっていても、その意図するところは容易に察しがつく。 たとえば第二条、「教育の方針」。 現行法では、第一条で「教育の目的は、真理と正義を愛する自主精神に充ちた国民の育成」にあるとした上で、第二条「教育の方針」で簡潔に次のように述べている。 「教育の目的は、あらゆる機会にあらゆる場所において実現されねばならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に則し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」 この方針は、普遍的・地球的に当てはまる一般的方針だ。特に日本的特徴を意識したものではない。 ところが、改変法案では、第二条が5つの項目に分けられ、「教育の方針」から「教育の目標」に言い換えられている。第一条は「教育の目的」だから、目的、目標と続くことになる。 「目標」は、自立した個人がそれぞれ自分でたてるべきものだ。例え「目的」と「方針」が同じでも、私とあなたの目標は違っていてもいいし、また違っているのが当然だ。それをこの第二条は、現行教育基本法で使っている言葉を、ビーズ細工のように巧みにちりばめながら、国民の目標を決めていく。国民がほぼ等しい、目標を持てば、同じ基準だから評価もしやすい。「個人の尊厳」「自立」「自主性」という言葉を使いながら、全く逆の結論を導き出している。まさに言葉のアクロバットだ。 特に国民の目標として、何が一番重要なのか。それは項目の5に遠慮がちにではあるが、しかし、はっきりと明示している。 「(第二条 教育の目標)五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国をと郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。」 「他国を尊重し・・・」以下はもちろんつけたりで、主眼は「日本を愛すること」にある。私個人は日本を愛しているし、郷土である広島も愛している。しかし、愛さない人の存在も認める。それは思想・信条の問題だからだ。法律で「愛すべし」と束縛する問題ではない。ここは現憲法下でいえば、「憲法違反」の疑いなしとしない。 私は日本を愛しているし、郷土も愛している。が、その愛し方まで束縛されたくない。日中戦争の際、中国大陸を侵略した旧日本軍が行った、集団強姦、殺戮などは犯罪行為だと考えているし、従って大東亜戦争は、それ自体日本の犯罪だったと考えている。しかし、犯罪でなかった、アジア解放のために戦いだったと考える人の存在を否定しない。少なくともそう考える人を法律で規制しようとは考えない。「大東亜戦争はアジア解放の戦いだった」と考えることは思想・信条の自由に属することだからである。 同様に、日本を愛せ、その愛し方はこうだ、それ以外の愛し方は法律に違反する、という考え方は、まさしく国家主義であり、ファシズムの精神だ。 「(第二条 教育の目標)五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」と言う表現は、すでに国家主義・ファシズムの入り口に立っている、恐ろしい条項だ。この条項が通れば、次には「愛し方」も法律で規制してくるだろう。 日本の伝統と文化をはぐくんできたのは、「我が国」ではない。それを創造し、受け継いできた有名・無名の一般民衆だ。「我が国」は、時には民衆が「創造し、育んできた伝統と文化」を弾圧しさえした。戦前軍部と特高警察は、「伝統と文化」の担い手たちを片っ端から投獄し、あるいは拷問で殺害しさえした。自由主義法律学者・美濃部達吉を追放し、哲学者・西田幾多郎を暴力で沈黙させた。優秀な経済学者・野呂栄太郎、小説家・小林多喜二をはじめ、獄死した文化人の屍は累々である。「我が国」が伝統と文化を育んできたのでは、断じてない。 日本国憲法は、こうした国家主義を完全に扼殺するものではなかったか? 「教育基本法改正案」がめざすのは、「平和を愛する個性ある日本人」の育成から「国家・社会にとって有用な日本人の育成」にあることは、先に指摘したとおりだが、その意図は「改正案」のそこここに、まるでテロリストの時限爆弾のように埋め込まれてある。 たとえば、「第五条 義務教育」。(現行教育基本法では第四条が義務教育) 第五条ではわざわざ、第2項が新たに設けられ、次のようにいう。 「義務教育は・・・各個人の能力を伸ばしつつ社会に置いて自立的に生きる基礎を培い、また国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする」 注意しなければならないことは、ここで「各個人」は「国家社会の形成者」であると捕らえていることだ。 社会がつけたりとすれば、「個人は国家の形成者」というとらえ方だ。 義務教育は、国家の形成者である個人が自立的に生きる基礎を培い、必要な資質を養うことを目的としている、ということだ。 現行教育基本法の単純な規定「国民はその保護する子女に九年の義務教育を受けさせる義務を負う。」と較べてみよ。 たとえば「第六条 学校教育」。ここも第2項が新設されて、次のように規定している。 「教育の目標が達成されるよう・・・教育を受けるものが学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行わなければならない。」 ここでいう教育の目標とは、言うまでもなく先に見た、第二条の「愛国心を備えた国家社会に有用な人間を育成すること」である。学校教育は、こうして「愛国心を備えた国家社会に有用な人間を育成すること」の道具になりはてるのである。 |
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安倍内閣が今国会に提出している「教育基本法改正案」と教育勅語との親和性は、「第十条 家庭教育」に至ってその頂点に達する。 「家庭教育」の項目は、現行教育基本法にはない。当然だ。どのような家庭教育を施すかは、各自の創意工夫によるものだからだ。国や行政は、家庭教育にまで立ち入るべきではない。 私の自分の長男に対する教育方針は2つしかなかった。一つは人の痛みを分かる人間たれ、もう一つは自分の頭でものを考える人間たれ、と言うことだった。しかしこれは私の方針で、すべての家庭が同じ教育方針をもたねばならないとは、考えない。 天皇陛下を敬い、国家・社会に有用な人間たれ、と教える家庭があってもいいし、立身出世をしなさい、と教える家庭があってもいいと思う。同様にどんなことがあっても戦場に行ってはならない、またその手助けをしてはならない、という家庭があってもいいと思う。 それはその家庭がそれぞれきめていいことだからだ。 ところが、「教育基本改正案」はその家庭教育の中にずかずか踏み込んで次のように言う。 「父母その他保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身につけさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るように努めるものとする。」と、父母の「教育の第一義的責任」を明確にする。 そして「国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。」(第十条 第2項)と公然と家庭教育に対して、国家が介入できる法的根拠を与える道を開いている。 教育勅語が公然と家庭教育に介入したのと、その精神は全く一つである。 私の結論は、「教育基本法改正案」は、日本国憲法の精神を骨抜きにし、本来「個人の価値」は「個性」であるにもかかわらず、「個人の価値」を「個人の能力」に置きかえた上で、国家・社会に有用な人材を作ることを目的にしているとしか思えない。そしてその国家・社会とは、行き着くところ、先に見たような国家主義社会である。 戦後文部省は、教育基本法の精神「個人の価値は個性である」を、その教育行政の中で全く生かしてこなかった。文部省は「学力・能力重視」の教育行政を行ってきた。そして「国家・社会に有用な人材」作りを一貫して追及してきた。このため、「個」を認めない横並び主義の、国家目的に沿った従順で勤勉な国民作りを目指してきた。 いわば、文部省は教育基本法をサボタージュし、骨抜きにしてきた。 今回提出された教育基本法改正案は、そうした文部省のサボタージュの最終仕上げだともいえる。 もし教育基本法通りの教育行政がこれまで行われてきたのなら、高い政治的教養を持ち、平和を愛する、人間の価値として「個性」を第一に置く、世界に尊敬される日本人が生まれていたろう。 個性を大事にする社会では、「いじめ」などは起こらないであろう。平和と真理を愛する国民の間では、決して、政府の求めに応じた「やらせ質問」などは受け入れないであろう。 安倍内閣は今国会で、「教育基本法」を最重要法案として位置づけその成立を目指していると伝えられる。 また、ネオ国家主義者安倍晋三がCNNなどに語ったところによれば、彼の首相在任中の一番大きな仕事は、日本国憲法の改変だという。 われわれはとんでもない時期に、とんでもない人物を総理大臣として許しているのかも知れない。 われわれの今在る時期は、戦後を通り越して、「戦前」と呼ばれる時期かも知れない・・・。 |
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