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一般には読売争議は「労働争議」ととらえられている。それはそれで間違いないのだが、別な光を当てると「報道の自由」と「自主規制」の間の戦いともいえる。
この後はWikipedia 「読売新聞」の題目の5.「読売争議」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AD%E5%A3%B2%E6%96%B0%E8%81%9E の記事をまるごと引用しよう。
「1945年11月から1946年10月にかけて、2度にわたって起こった争議。一時的とはいえ、労働組合側が新聞の発行権を握った。
第一次争議
第二次世界大戦終結後、各マスコミでは経営陣の戦争協力について糾弾する動きが見られた。読売も例外ではなかったが、他社と違ったのは正力(松太郎)の力が極めて強かったことであった。この力を背景に、正力は開き直って糾弾していた記者のうち急先鋒格だった5名を解雇した。従業員側はこれに反発し争議が勃発した。ところが、程なくして正力がA級戦犯指名を受けて巣鴨プリズン収監が決定し、経営側は急遽「リベラル派の馬場恒吾(1875〜1956。ジャーナリスト出身)を社長にする」ことを交換条件に5名の復職と民主化を従業員側に提案。従業員側も同意して12月に一応の争議終結を見た。
それから程なくして読売社内に労働組合が結成され、委員長には、徹底したリベラリストで知られていた鈴木東民(1895〜1979。後の釜石市長)が据えられた。鈴木は「民主読売」をモットーに「人民の機関紙たること」を宣言。編集局長・主筆・社会部長の主要3職も兼ねた。また、印刷部門の支配も労組に委ねられた。この頃、北海道新聞や西日本新聞などでも経営陣追放などの動きが見られた。
第2次争議
「民主読売」の成立は他のマスコミに大きな影響を与え、さらには記者クラブ改革や新しい新聞の発刊にまで波及した。しかし、1946年に入るとチャーチルの「鉄のカーテン」発言から冷戦が事実上開始され、GHQの方針に微妙な変化が起こり、これが「民主読売」の前途に暗雲をもたらした。
(冷戦は原爆投下をもって華々しくその幕がきって下ろされたのだが・・・。)
1946年5月、馬場はいきなり鈴木の解雇を発表。これがきっかけで争議が再発した。民間情報教育局(CIE)は第1次争議では従業員側を影ながら応援していたが、この第2次争議では馬場ら経営側を応援した。従業員側はストライキで抵抗し、経営側の人間だった務台光雄はこれに対抗すべく警察担当となって、従業員排除のために警察やMPの出動を要請した。GHQの後ろ盾が急に無くなった従業員側は初めから不利であり、警察やMPともみ合いになって血まみれになりながら輪転機を守ったが、10月には鈴木ら労組の幹部だった37名が退社処分となって「民主読売」は崩壊した。
日本共産党などはこの争議を高く評価しているが、大勢的に見れば冷戦とそれによるGHQの方針転換に大きく振り回された争議と見ることもできる。また、馬場のイメージもあまり芳しくないが、馬場サイドから見ればGHQの方針転換に忠実に従ったまでのことであり、鈴木がそれを見抜けなかっただけだという見方もある。」
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このように読売争議は、確かに労働争議の外見を呈しているが、ことの本質は「戦前の軍国主義日本を徹底的に批判」しようとする編集陣とこれに対抗して戦前の体制を出来るだけ維持しようとする経営陣(それは結果として報道の自主規制につながらざるを得ない。)との対立だった。
Wikipediaの記事は
「大勢的に見れば冷戦とそれによるGHQの方針転換に大きく振り回された争議と見ることもできる。また、馬場のイメージもあまり芳しくないが、馬場サイドから見ればGHQの方針転換に忠実に従ったまでのことであり、鈴木がそれを見抜けなかっただけだという見方もある。」
と解説しているが、上記のような観点からみれば、GHQは特に大きな方針転換をしたわけではない。GHQは自分に都合がいい限り、戦前の言論統制の体制を維持しようとしただけであり、正力松太郎はそれに乗って「儲かる商売」を維持しようとしただけだ。また鈴木東民と当時の多くの読売従業員は「言論の自由」を確立するためにGHQと正力に戦いを挑んで敗れただけだ。
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もっと生々しく現場のことを語った証言がある。マーク・ゲインだ。
マーク・ゲインは「7月17日(1946年=昭和21年)東京」、の中でこう書いている。この時マーク・ゲインは争議のまっただ中の読売新聞社に出かけて一部始終を観察している。長い引用だがご辛抱頂きたい。
「組合側の敗北によって読売のストライキは終わった。
事実戦闘は行われなかった。読売のストライキ中、新聞従業員組合の他の新聞支部は高みの見物をしていた。他の労働組合も同様だった。そして読売新聞内部ですら半数以上の従業員はストライキに参加しなかった。罷業者たちにいかに同情していたにしろ、彼等は社長馬場が一言、総司令部(GHQ)が後ろにいると彼等の危険をよびさます度縮みあがった。
馬場は御用組合をつくりあげ、昨日その御用組合員に罷業団員を放りだすように命令した。職業的暴力団を先頭に一隊が植字室に雪崩れ込み、そこを占拠していた争議団員をほうりだした。他の一隊は四階の争議団本部に押しかけ、団員を殴り飛ばし、これまた追い出してしまった。日本人の警官が数十名面白そうにながめていたが、別に干渉しようとはしなかった。
私が読売のビルディングを出ようとすると、二三人の印刷工が追っかけてきた。そして、ただ恐怖の念だけが自分たちを御用組合に加入させたので、ほんとの気持ちは罷業団員と同じだということをアメリカの人たちに伝えてくれといった。年を取った一人がこうつけ加えた。
『マッカーサー元帥は馬場がなにをやっているのかご存じないのだ。どうか元帥に知らせて上げて下さい。なにもかも』」
(マーク・ゲイン著「ニッポン日記」下巻 井本威夫訳 筑摩書房 P20-P21)
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こうして戦後日本の言論の自由は葬送をもって出発した。
殊勲甲は読売新聞であり正力である。現在読売新聞が発行部数1000万部を誇り、ナベツネが日本のジャーナリズムのドンとなりつつあるのは決して偶然とは思えない。
読売争議が終結した1946年7月、まったく偶然にも社団法人日本新聞協会が発足する。現在加盟する日刊新聞は106社。読売新聞・朝日新聞・毎日新聞・日本経済新聞・産経新聞の5紙が全国紙と称せられ、北海道新聞・中日新聞・西日本新聞がブロック紙3紙、後は県紙と大別される。ほぼ戦前軍部が構想したとおりの数・体制になっている。
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この事件から30年後、平成8年(1996年)第136国会で、6月5日 規制緩和に関する特別委員会が開かれた。この日のテーマは「著作物に関する再販制度」である。わかりやすくいえば、日刊新聞のカルテル価格制度を、独占禁止法の除外指定とし続けるか、それとも指定を外して自由価格とするか、がテーマである。参考人には慶応大学教授金子晃(現名誉教授)と読売新聞社代表取締役社長渡邊恒雄(現読売新聞グループ本社代表取締役会長兼主筆)が呼ばれていた。
新聞の再販制度(カルテル価格制度)がなくなると、いかに価格競争に陥り、新聞各社の体質が弱って、言論の自由が損なわれるかを力説した渡邊は、つい口を滑らせている。
委員会議事録から引用しよう。
(議事録はhttp://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/136/0580/13606050580009c.html で読むことが出来る。)
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再販制度がなくなると値引き競争になります。値引き競争になると、先ほども販売従業員の質の問題について、労働環境の問題についてご質問があったとわけでございますけれども、不心得な店員の中には、値引きしたと称して店に納金しない、例えば五割に値引きしたと称して、実質には十割取っていながら五割しか納金しない。そして販売店主は、それをいいことにして発行本社に対して、新聞社に対して、例えば百万円納めるべきところを五十万円しか納金しない、新聞の原価について。そのようなことが起こったために、十数紙あった東京の新聞社が片っ端からつぶれ始めて、新聞統制に入った戦時には、朝日、毎日、読売、都新聞、中外商業新報、つまり現在の日経でありますが、この5紙しか残らなくなくなってしまった。これは、みんな安売競争で、弱いものはつぶれていったのです。そういうことが今後起こる。」 |
まず第一に渡邊は、ここでとんでもない事実認識の誤りを犯している。有り体に言えばウソをついている。
5紙しか残らなくなったのではなく、軍部が5紙に統廃合したのである。(このいきさつを渡邊が知らなかったはずはあるまい。)
安売り競争のために新聞社はつぶれていったのではない。むしろ安売り競争をしながらでも、当時の新聞は、軍部の厳しい検閲にあえぎつつ、それなりに命脈を保っていたのである。それでも5紙に統廃合されるよりまだ言論の自由があったのだ。
渡邊のウソをそのままひっくり返せば、現在の新聞業界の体制は言論を統制するためだ、と言っているに等しい。
余談だが、この渡邊の発言を全国の読売販売店主とその従業員はなんときくだろうか?
いろいろ教えてくれるので、渡邊には主筆ではなく「読売グループ主舌」の肩書きを進呈しよう。
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(以下そのC) |
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