No.23-10 平成21年2月27日

田母神論文に見る岸信介の亡霊
その10(抜き書き) 近代国家建設を進める張学良政権と成果を簒奪した「満州国」

被害妄想史観学者のターゲット

 前回までで検討してきたことの中でうすうすわかってきたことの一つは、「田母神論文」なる雑文は、田母神が自身で研究してきた成果というよりも、田母神が誰かに教え込まれことを、粗雑に書き散らしたものだということだ。

 それでは誰が田母神にそうした「時代錯誤的な歴史」を教え込んだのかといえば、今見えているのは、「被害妄想史観」の学者・研究者グループだろうということだ。こうした学者・研究者は、マスコミの一部や出版界の一部を使って、「あの戦争は正当だった。」「日本は被害者だった。」というイデオロギーを社会に流すばかりではなく、日本語Wikipediaなども積極的に利用して、意外と広く社会に浸透しはじめている。

 ところが学術的には彼らの仕事は殆ど見当たらない。たとえば、国立情報学研究所の学術論文データバンク“CiNii”(サイニイ)<http://ci.nii.ac.jp/>で検索をかけても彼らの仕事は余り見ることができない。まっとうな歴史学者はわずかに、秦郁彦くらいか。

 つまり彼らがターゲットにしているのは、歴史学会や学術研究グループではない。雑誌や新聞では華々しく論争を展開している彼らは、学術研究グループの間では沈黙を守っているのだ。
一つには学術研究グループを相手に努力を費やしても金にならない、有名にもならないという点もあるのだろう。ちゃっかりした連中だ。)

 彼らは文部科学省や防衛省などとつながって仕事をすることによって十分メシが食っていける。有名にでもなろうものなら、雑誌からの執筆依頼、講演依頼で収入が期待できる。

 そうした彼らが、ずっとターゲットにしてきたのは、一体何だったかというと「日本の大衆」である。戦前世代が次第に減っていく社会構造の中で、「戦争」や「凶暴な天皇制ファシズム」を直接体験として記憶している世代は少なくなっていく。それではそうした「戦前」の記憶を今われわれが正しく継承しているかというと、そうでもない。
 
 今もしこれを読まれている戦後世代の人があれば、自分の中学・高校時代を思い出してみるといい。学校で歴史は習ったが、日本史で言えば「昭和史」はほとんど駆け足だった。戦後の歴史になると教師自体も及び腰でほとんどなにもやっていない。それに都合よく「受験の三学期」にぶち当たり、ここをすっ飛ばす口実もある。高校受験や大学受験では、日本の現代史は出題されないという事情もある。

 われわれ一般の日本市民は、日本の現代史に関する素養はないのだ。従ってわれわれは、「日本の現代史」については無知である。

 「被害妄想史観」の学者たちがターゲットにしているのは、こうした日本の現代史については基礎教養のない、「日本の一般市民」である。

 こうして見たとき、この「被害妄想史観」の学者たちにとって田母神は極めて都合のいい存在だ。彼が「現役航空幕僚長」だからであり、田母神というキャラクターと彼の単純幼稚さ加減が、「ちんどん屋」という役割にぴったりだったからである。

 考えても見て欲しい。彼が現役の「航空幕僚長」でなければ、あの雑文がこれほど社会の話題になりはしなかったろう。アパグループは最初から「田母神論文」を“第一席”に選ぶつもりだったのだ、という推測は恐らく間違ってはいないだろう。

 2つ疑問がある。田母神の背後のこうした学者グループのそのまた背後には、どんな勢力があるのか?そして彼らの狙いは一体何なのか?・・・・。

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中国の保護国化を狙う「希望条項」

 それではどんな項目が「希望」だったのか?6項目ある。

@ 中国政府は日本人の政治・財政・軍事顧問を雇うこと。
A 必要な地方の警察を日中合同とするか、警察に日本人を雇うこと。
B 兵器は日本に供給を仰ぐか、日中合弁の兵器工場をつくること。
C 華中・華南にも日本の鉄道敷設権を認めること。
D 福建省の運輸施設に対する日本資本の優先権。
E 日本人の布教権を承認すること。           』

 ここで福建省が唐突に出てくるように見えるが、これは地図を思い描いてみるとわかりやすい。日本が日清戦争で清から奪った台湾のちょうど対岸が福建省だ。つまり台湾を足がかりにしても大陸に進出しようという露骨なまでの侵略意図である。

 特に五号「希望条項」は、もしこのまま話が通れば、事実上中国は日本の保護国となるに等しい。こんな「希望」が叶えられるはずがない。

 また同じ帝国主義侵略国である「列強」からしても、日露戦争でやっと南満州の一部権益を得たばかりで、第一次大戦中のどさくさに山東半島を攻略しただけの日本が、これだけの要求を出すのは行き過ぎだと感じた。

 後でも見るように第一次世界大戦後、日中戦争が始まるまで、アメリカ帝国主義主導の「ワシントン体制」は、満州における日本の特殊権益は承認するが、その他の「中国市場」は「門戸開放」「機会均等」、すなわちどこか特別な国の特殊権益はみとめませんよ、ということだった。

 田母神は、
この要求が、列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして、それほどおかしなものとは思わない。』
と書いているが、これがおかしいと思う、思わないは田母神やその背後にいる「被害妄想史観」の学者グループの勝手なのであって、『列強の植民地支配が一般的な当時の国際常識に照らして』もこれらの要求は過大で、「おかしかった」のである。つまりやり過ぎだったのである。

(* インターネットで読んでいると、時々ブログの中に、『この5号条項は、中国側に秘密条項にして欲しいという要望をしていたのに、これを袁世凱は列強に暴露するといった、不誠実な態度をとった。』と憤慨している記述にお目にかかる。これは当時日本の主流の現実認識だが、この当時の現実認識をそっくりそのまま、現在の自分の歴史認識にしている。

 しかし、よく考えて欲しい。これは暴力団かテロリストの自分勝手な屁理屈ではないか?

警察や世間には黙っていろ、といったのにお前はバラした。この落とし前はつけてやるぞ。』)

 特に第五号は、帝国主義列強にとっても重大問題である。このままでは中国全体が日本の保護国になってしまう・・・。

 従って五号「希望」条項は列強の猛反対にあった。従って日本も取り下げざるを得なかった。

 田母神は『中国の言い分もいれて』と書いているのは恐らくこのことだろう。といって田母神がここまで理解して書いているとは到底思えない。「中国側の言い分も入れた」という誰かの受け売りか、頭に刷り込まれたことを消化不良の理解のまま書いているのだと思う。


列強の反対は列強自身のため

 というのは、田母神の文章全体におかしな「トーン」があるからだ。たとえば、『袁世凱政府との4ヶ月にわたる交渉の末、中国の言い分も入れて、いわゆる対華21箇条の要求について合意した。』という箇所である。

 「対華21箇条の要求について合意」とは、余りお目にかからない表現である。「中国は21ヶ条の一部を要求を受け入れた。」とか、「21ヶ条の要求に基づいて“「山東省に関する条約」”などが締結された。」とか書くはずである。

 1915年1月大隈重信内閣の「21ヶ条の要求」から5月の最後通牒、それから連続して起きる、一連の条約締結と両国公文交換、までをたどった人間なら、「対華21箇条の要求について合意」という表現には異和感を覚えると思う。

 これは私の全くの推測だが、田母神は「21ヶ条の要求」がそれぞれ部分的に手直しされて、最終的に中国と「合意」したと思いこんでいるのではないか。

そうでなければ、上記の表現は生まれないと思う。

 確認しておきたいは、列強がこの第五号「希望」条項に猛反発したのは、決して中国や中国人民のためだったのではないことだ。あくまでそれぞれの帝国主義が中国を侵略するにあたって、この第五号「希望」条項が大きな障害になるからである。

 日本の大隈政府と中国の袁世凱政府の交渉は25回にも及んだという。
<関連資料>21ヶ条の要求に対する日本政府の最後通牒を参照のこと。)
 
 この間両政府がお互いに譲歩し合ったのかというと、そうでもない。袁世凱政府はすくなくともアメリカなどとの列強とこの問題を相談し合った節があるし、両者の妥協点といえば、第五号「希望」条項を取り下げるという点だけだった。今からみれば、袁世凱政府は欧米帝国主義列強を背景にして、帝国主義日本と交渉をしていたわけだ。

 後にこの「21ヶ条の要求」を一つの重大な伏線として、『5・4運動』という一大民族主義運動が起きるわけだが、『5・4運動』における中国人民の怒りが、直接圧迫を加えてくる帝国主義日本に向けられていると同時に、この帝国主義日本に弱腰だった袁世凱政府にも向けられる。この中国人民の怒りをもう少し詳しく分析してみると、袁世凱政府に対する怒りは、欧米列強ばかりを頼りにする姿勢に対して、なぜもっと中国人民に依拠し、頼りにしなかったのかという怒りでもあったのではないかと思う。

 もともと帝政復辟を狙う袁世凱政権であってみれば、袁世凱政権に人民に依拠する姿勢を求めることは無理な相談ではあったが、袁世凱政府が、21ヶ条の要求を挟んで帝国主義日本に対決する際、中国人民の力を過小評価した点は、帝国主義日本も全く同様であった。

 帝国主義日本は、その後も、1945年の敗戦までのどの時期に置いても、歴史を動かす力としての「中国人民の力」を正当に評価したことは一度もなかった。それが彼らの一貫した「現状認識」であった。

この全く不当な「現状認識」が、彼ら帝国主義日本を惨めな敗北に導いていく重要な要素になるわけだが、戦後60年以上も経っている今日からみれば、この「現状認識」は、今日田母神やその背後に隠れている学者・研究者府ループの、現在における「歴史認識」ということになる。

 「田母神論文」を貫く一大特徴は、その「歴史認識」が、例えばこの「21ヶ条の要求」の時の、大隈政府、すなわち当時の帝国主義日本の「現状認識」とそっくりうり二つであると言う点だ。すなわち「歴史を動かす原動力」としての中国人民の力を全く見落としている。

 結局、この時の袁世凱政府も、大隈重信政府も、片眼で帝国主義列強の動向を睨みながら、また中国人民の力を全く見落としつつ、「交渉」は膠着状態にはいった。


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 南満州鉄道の経営権にしても、旅順・大連の租借権にしても、ロシアと清国の条約を引き継いだもので、そのロシアの租借期限は25カ年であり、日本のその租借期限ごと引き継いでいたから、上記の「特殊権益」の期限も実は25年だった。だからそのままほっておくと租借期限がまもなく切れて、南満州鉄道や旅順・大連も中国に返さなくてならなくなる。だから帝国主義日本はこの租借期限延長の機会をずっとうかがっていたのである。


末広重雄の安堵

 この問題を、京都帝国大学教授・末広重雄は、1915年(大正4年)5月14日・15日付けの大阪朝日新聞で、「南満洲及東部内蒙古に関する条約」が成立するのを見届けるようにして、次のように語っている。やや長くなるかも知れないが、引用する。

 日露戦争の結果南満洲は我が勢力範囲となったが、従来其実を挙ぐる事の障害となったものが二つあった。

 其一は南満洲に於て有する我が重大な権利、勢力範囲の根帯ともなる可き権利の薄弱なる事であった。関東州(*これは遼東半島の租借のこと)は日露講和条約第五条に依って、露国より租借権を譲受けたものである。露国は此地を・・・調印の日より二十五年を期限として、租借して居たものであって、我が国は露国の権利を其儘、継承したのであるから、千九百二十三年(*1923年)即ち大正十二年に租借期間が満了となる筈であった。

 南満洲に於ける我が最大の利益たる、南満洲鉄道及該鉄道に属し、又は其利益の為に経営せらるる一切の炭鉱は、日露講和条約第六条に依って露国より譲受けたもので、・・・該鉄道は運転開始の日より、・・・、三十六年の後支那政府が、代金を支払うて之を回収するの権利があり、八十年後には代金を支払う事を要せずして、支那の有に帰する事となって居た。・・・其権利丈は疑なく存して居った。

 更に日露戦争中我が国が、軍事上の目的の為安東県(*現在の丹東)奉天間に敷設した狭軌鉄道(*安奉線)は、・・・は工事完成の日より起算して十五年、即ち大正十五年(*1924年)に支那政府に売渡すべきものであった。

 以上説明するところに依って明かなる如く、関東州の租借期間は余すところ僅に八年、安奉鉄道は十一年、南満洲鉄道は二十四年後に期限が来るのである。 

 即ち関東州と之に附帯して二つの鉄道の期限は、何れも久しからずして到来することになって居たから、南満洲に於ける我が国の地位は甚だ不安のものであった。

 ・・・日露戦争という大戦争を為し、大犠牲を供して漸く獲得したる権利を、むざむざ返すことは国民の忍ぶ能わざるところ、好機会に乗じて租借継続の交渉を為すべき事は、関東州を得て以来我が当局者が寸時も注意を怠らなかったところである。

関東州許りではない。同じく戦争の獲物である南満洲鉄道及安奉鉄道も失ってはならぬ。此れ亦何人も期間延長の必要を感じて居たのである。

 十年目にして待ち構えた機会は到来した。列強は今や未曾有の大戦争の為、到底極東を顧みるの暇がない、若し此の大戦争起らざりせば、或は我が国は関東州租借期間満了の時迄に、交渉の好機会を得なかったやも知れぬ、実に我が国は天佑なりと云わねばならぬ。

 ・・・是に於て我が国の南満洲に於ける地位は、極めて鞏固のものとなった。南満洲に対する我が国民の不安を省き、其発展に対する障害は除去された。』
   
 <参考資料> 南満州における2つの障害 末広重雄談 1915年 大阪朝日新聞を参照のこと。)

 なんとも帝国主義的侵略イデオロギーむき出しの議論であるが、田母神的「被害妄想史観」学者・研究者の、「白を黒と言いくるめる」ような、詭弁論法よりも、率直なだけにまだましというべきであろう。

 末広のこの談話は、南満州の権益が何とか守られたことにホッとしている当時の、帝国主義日本の雰囲気をよく代表している。

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ワシントン体制の本質

 アメリカ帝国主義主導の戦後体制は、1921年(大正10年)11月のワシントン会議でようやく決定する。この時会議では、海軍軍縮条約で主力艦米英日=5:5:3の比率が決まった。しかしこのことよりももっと重要な決定は、「四カ国条約の締結=太平洋島嶼に関する領土権の尊重、日米英仏の協調」、「日英同盟の終了」、「中国関税条約=一律従価5%関税、付加税2.5−5%を認める。」、「9カ国条約の締結=アメリカの『門戸開放』の主張に沿って中国の主権尊重、領土保全、列強の機会均等」が決定されたことである。

 9カ国は日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、中国であるが、この条約の趣旨は、それまで、イギリス・日本の独占状態になりかけていた中国市場を、それまでの既得権益を尊重しつつ、全体的には『門戸開放』をしようということだった。

 これで有利になるには、中国には出遅れていた帝国主義アメリカである。

 日本について言えば、満蒙における権益は認めるが、それ以外の中国では、列強帝国主義各国の機会均等が決定された。山東半島の権益は「日本の既得権」とは認められなかったのである。このことを条約化したのが、ワシントン会議からわずか4ヶ月後、1922年2月に締結された「山東省懸案解決に関する条約」だったのである。

 「アメリカに後押しされた中国」だの「日本の言い分を支持してくれたイギリス、フランス」だのは、田母神的「被害妄想史観」学者の無知・無理解からする「たわごと」である。

 もし山東省の権益を返還したくなかったら、少なくとも帝国主義日本は、第一次世界大戦後の帝国主義列強の世界支配体制の枠組み、すなわちワシントン体制から飛び出すことを覚悟しなければならなかった。しかし大正時代の帝国主義日本には、まだそれだけの度胸はなかった。言い換えれば、列強帝国主義国として思慮分別はもっていたということが言える。

 しかしそれだけに、帝国主義日本の内面では、「被害者意識」は強まっていったものと思われる。

 現在の田母神的「被害妄想史観」の学者や研究者グループにはその「被害者意識」が潜在記憶のように遺伝しているのだといえよう。


高橋亀吉の喝破

 ここでもう一度、1915年(大正4年)の「21ヶ条の要求」を振り返ってみよう。

 帝国主義日本は、中国人民の反発と敵意、列強帝国主義国の警戒心を買いながら、愚かな「21ヶ条の要求」を中国に突きつけた。その結果得たものは何か?

 こうして見てみると南満州における権益だけだったのである。

 その結果失ったものは何か?中国人民の信頼と友情である。おまけに列強帝国主義各国の信用も失った。日英同盟は、ワシントン体制と共に終了し、それから徐々に、帝国主義アメリカとは敵対関係に入っていく。

 帝国主義国としてみても、日本にとっては、割に合わない損得勘定だといえるだろう。この時の帝国主義日本は余りにも愚かだと思えるのである。

 「21ヶ条の要求」は、帝国主義国としてもあまりに愚劣だった、という感想は何も私だけの感想ではない。

 この事件(1915年=大正4年)から12年後といえば、ちょうど大正から昭和への境目になる。この間、帝国主義日本の中国侵略は、「ワシントン体制」の枠組みの中で、がんじがらめになり思い切った処置が取ることができなくて、いわば竦んだ状態になる。
 
 一方中国では、国民党と共産党との間に第一次国共合作が成立し、中国は「民族独立統一国家建設」に向かって、大きな一歩を踏み出したし、また1917年成立した、まだ「健全なソビエト・ロシア」は、この近代国家中国を全面的に「民族自決主義」の立場から強力に後押しする。

 その間日本は、「第一次大戦」の好景気もあだ花に終わり、世界恐慌に入る前にすでに昭和恐慌に突入していた。

 この時期、昭和2年(=1927年。昭和2年といっても、昭和元年は年末の1週間しかなかったのだから、ちょうど大正から昭和への替わり目になる)、当時にエコノミスト高橋亀吉は、「改造」3月号に次のような一文参考資料:「軍縮提議の経済的解釈と日本の立場 高橋亀吉」を参照のこと。)を寄せている。ここは当時のアメリカ大統領クーリッジの『補助艦建造制限に関する軍縮交渉に関する提案』に関する記述だ。なおこの「補助艦建造制限交渉」は後に、フーバー政権で「ロンドン軍縮交渉」として実現する。

 しかし乍ら、その故に然らば、日本は此の際軍縮そのものに反対すべきかというとそうではない。一体、今日の世の中に於いて、今日の日本の実力を以て、英米仏の如きと競争して、領土の「拡張」を企図することが全然間違っている。このことは対支21ヶ条の強要、シベリア出征の大失敗等によって、已に試験済みのことである。』

 この論文の中で高橋は、次のことを主張している。
1. 世界の帝国主義は、揺籃期ではなく確立期である。
2. 確立期において、日本のような遅れてきた資本主義国が軍事で領土拡張をすべきではない。それは必ず失敗をする。
3. 日本は帝国主義を越えた新しい価値基準と世界秩序確立に貢献すべきで、そのため朝鮮、台湾、南満州の権益を放棄すべきである。
4. 昭和恐慌に代表される日本の経済的行き詰まりを打開するにはこの方法しかない。

 この論文の中で、それでは高橋亀吉は、帝国主義的世界秩序に変わるあらたな「価値体系」とはなにかについて明示していない。というよりまだ出来ていなかったと言うべきであろう。またこの高橋の主張は、取りようによっては「大東亜共栄圏」を理論的に準備したものと考えることも出来る。しかし、恐らくはそうではないであろう。それは、「軍国主義によらない世界秩序」の確立を主張していること、そのためには、朝鮮、台湾、南満州の権益の放棄を主張していることでもわかる。
 
 (*実際には高橋亀吉は、その後経済政策家として、軍国主義日本の国家総動員体制の中に自らを組み込んでいくことになるのだが・・・。)


高橋には愚劣に見えた「21ヶ条の要求」

 その高橋から見ると、大隈政権の「21ヶ条の強要」(高橋はこの論文の中で「21ヶ条の要求」ではなく「強要」と書いている)やシベリア出兵などは、下の下策としか見えなかった。

 ここで私はふと「自虐史観」という言葉を思い出した。私などはこの「自虐史観そのもの」ということになるかも知れない。

 ところが私は自分で全然「自虐」だと思っていない。「自虐」とは自分で自分を虐め、苛むことだ。そこまで考えてやっと自分で気がついた。私は「帝国主義日本」を自分のこととは全然考えていないのだ。

 私は日本人であるし、日本人であることに誇りを持ちたいと思う。その私からして「帝国国主義日本」は、同じ日本という言葉を使っていながら、私とは縁もゆかりもないものと考えている。つまり「帝国主義日本」は、私にとって「自分」の範疇に全く入らない概念なのだ。

 つまり私にとって、同じ日本という言葉を使っていながら、「帝国主義日本」と信頼と友情を基本とする「平和主義日本」とは全く別物、あるいは対立概念として考えていることに自分で気がついた。

 もちろん私は「平和主義日本」の一員であることを自認し、その一員であることに誇りを持っている。その私にとって「帝国主義日本」は、自分のことどころか、徹底的に批判し去るべき「正面の敵」なのだ。だから帝国主義日本を批判することは私にとっては「自虐」どころか、「正面の敵に対する攻撃」なのだ。「自虐史観」どころか「帝国主義日本サディズム史観」と呼んでもらってもいい。

 一方「自虐史観」という言葉を使う人たちのことを考えてみよう。彼らは、「帝国主義日本」を批判することを何故「自虐」だと感じるのか?もう言うまでもないだろう。

 彼らは「帝国主義日本」のことを、「自分の味方」であり、「自分はその陣営に属している」という帰属意識がある。だからこれを批判することは「自分で自分を虐め、苛む」ことだと感じるのだろう。

 ところが「帝国主義日本」は私にとっては「抹殺さるべき敵」なのだ。

 彼らと私の間には、絶対越えがたい深い深い溝があるようだ。


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 こうして、「張作霖切り捨て政策」を採用し、合わせてこの混乱に乗じて一挙に軍事侵攻を行おうというのが「張作霖爆殺計画」だった。この時の関東軍の戦略は満州の傀儡は誰でもいい、なければなくてもいいという極めて乱暴な方針で、その意味では先ほどの方向(選択肢)の中の、「1.満州直接統治」に限りなく近いものだったといえよう。


張学良政権の意外性

 ところが、「張作霖爆殺」は思いもかけぬ方向へ事態を一挙に進めてしまうのである。「思いもかけぬ方向」とは表現したが、それはあくまで「関東軍」なり、日本の軍部にとっての「思いもかけぬ方向」なのであって、あくまで彼らの主観的思いこみ、言い換えれば「独善」がいかに強かったかの証拠でもある。

 古屋哲夫は「日中戦争」という本(岩波新書 85年6月5日 第2刷)の中で次のように書いている。

 河本(*大作。張作霖爆殺事件の直接責任者)は爆殺事件につづく次の具体策を用意していたわけではなく、・・・この事件は、満蒙独立政権の樹立という関東軍の目標にとって、直接にはマイナスの効果をもたらした事は確かであった。国民革命(*これは蒋介石国民党の中国統一政策のことだろう。)から満蒙を切り離そうとする点では関東軍と共通の立場に立っていた田中外相(*首相田中義一のこと。田中は外相を兼任していたので古屋はこう書いた。)、事件後、張作霖の息子の張学良に対して、国民政府と妥協しないように圧力をかけたが、それも張学良の態度決定を数ヶ月引き延ばすことが出来ただけであった。』

 古屋が言っていることは、以下のことである。
1. 河本になにか次の手があって、張作霖を爆殺したわけではない。
2. 田中義一も手法の若干の違いがあるものの、張作霖の存在は邪魔になっており、「満蒙の切り離し政策」という点では、河本や関東軍と一致していた。
3. 張作霖の後の傀儡は、誰でもよかったが、とりあえず田中義一や関東軍は、張作霖の息子の張学良を想定していた。
4. その張学良に圧迫を加えたが、張学良は結局、国民政府の側についた。

 どうしてこんな事態になったのか?

 河本や関東軍は「張作霖爆殺事件」を起こして、どうしようとしていたのか?


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もし「河本手記」と「学良証言」の記述を矛盾なく説明しようとすれば、何通りもの推測が生まれようが、それは枝葉末節だろう。要は「奉天軍では、荒木を含む冷静で賢い人たちが指導しており、ミエミエの関東軍の挑発行為に乗らなかった。」ことを確認しておけば十分だろう。


張学良の冷静な捌き方

  ここで、日中戦争史全体を通じて最も魅力的なキャラクター、毛沢東よりも、あの周恩来よりも魅力的なキャラクター、張学良が初めて登場する。

 歴史では、各時代各所にそれぞれ魅力的なキャラクターが、まるで神様の悪戯のように、忽然とあらわれる。そして誰にも出来ない大仕事をして、さっと消える。ちょうど幕末の坂本龍馬のような、震いつきたいほど魅力的なキャラクターだ。張学良はちょうどそうしたキャラクターだ。張学良に入れ込むと大脱線しそうなので、話を前に進めよう。

張学良は、1901年張作霖の長男として生まれた。若い頃から軍人としての才能は誰しも認めるところだった。張作霖爆殺事件の時にはまだ27歳かそこらだったことになる。この後1936年の西安事件の時に、上司であり尊敬していた蒋介石を監禁してまで国共合作を迫り、翌年第二次国共合作が成立、民族統一抗日戦線ができあがる。学良自身は、西安事件の直後、自ら進んで蒋介石に同行しそのまま歴史の表舞台から姿を消す。蒋介石は冷酷無惨に同胞や政敵を殺した男だが、張学良は殺さなかった。殺せなかった。学良はその後ずっと軟禁状態に置かれる。蒋介石は台湾逃亡の際にも学良を連れて行き、台湾で軟禁する。軟禁が解かれるのは1990年、学良の90歳の誕生日をきっかけとした時だった。この時学良は、日本のNHKの取材班の求めに応じて、インタビューに応じる。この時の学良の言葉は『日本の若い人と話がしたかった。』だった。その後学良はハワイに行き、そこで100歳の生涯を閉じる。日本語Wkipediaは比較的冷静な描写をしている。<http://ja.wikipedia.org/wiki/張学良>


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「私は中国人だ」

 「張学良の昭和史最後の証言」という本は、張学良のインタビューを含んでいる。というより、90歳の誕生日を機会に台湾での軟禁状態が事実上解けた張学良に、NHKがインタビューしテレビ番組を作るのがもともとの目的であった。このテレビ番組はNHKスペシャル『「張学良はいま語る」―日中戦争への道―』と題されて1991年に放映された。そのときの取材材料とこれに伴う研究材料がまとまってこの本ができたのだから、張学良のインタビューがこの本の中に含まれていて当然である。

 この本は直接張学良にインタビューした歴史学者の臼井勝美と当時のNHKの特別主幹だった磯村という人物が表に出ているが、実際の執筆者は当時の番組ディレクターだった、長井曉と塩田純である。そう、あの長井曉である。こういう優秀な人物が、NHKの中心から遠ざけられ、NHKが「体制プロバガンダ」ジャーナリズムになっていくのは、残念である。

 ともかくこのインタビューで張学良は、林権助との会見をどう説明しているのかそれを見てみよう。

 林権助さんは再三にわたって、私に国民政府と合作しないように働きかけてきました。私は最後まで明確な返答をしませんでした。避けていたのです。私は、彼が帰る時食事に招待し、お酒も飲みました。

 その時、林さんはこう言いました。「あなたのお父さんと、私とは古くからの友人です。しかも、私は政府の命を受けてあなたのもとを訪れたのです。それにもかかわらず、あなたは終始明確な回答をしませんでしたね」

 そこで私はこう答えたのです。「林先生。あなたが私の代わりになって考えてくださったことは、私自身が考えるよりも、もっとすばらしいものでした」

 すると彼はとても喜びました。

 「でも、ひとつだけ考えていらっしゃらなかったことがあります」と私が言うと、彼は怪訝な顔をして、「いったいそれはなんですか?」と尋ねたので、私は答えました。「それは私が中国人だということです」』

 張学良が南京政府との合同を考えていたのは、なにも日本軍に父張作霖を殺されたという理由ばかりではないようだ。

 第一次国共合作が成立して、南京政府が北伐を開始する。そして軍閥・北京政府の打倒を目指して怒濤の如く北上してくる。その6「真性民主主義と我々市民の責任」<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-6/023-6.htm>参照のこと)張作霖はこの北伐に介入し、南京政府に対決姿勢を示すようになる。またこのことが、満蒙分離政策を推進し、張作霖には満州に閉じこもって温和しく傀儡でいて欲しかった帝国主義日本が、張作霖を見限る要因にもなったのだが、張学良は、帝国主義日本とは全く反対の立場から悩んでいた。

当時私は父のことで悩んでいました。私は父が行っている内戦に反対だったからです。ですから私は父に、「私たちが戦っているこの戦争に、どのような意味があるのですか?なぜ私たちは、こんな戦いをしているのですか?」と詰め寄りました。私は河南省で路頭に迷う多くの人を見て、とても可哀そうに思いました。私は涙を流しながら叫びました。「これは一体どういうことなんです?一体何のために?」あの時、あのように人々が苦しんでいたのは、すべて内戦のせいだったのです。』
(「張学良の証言」前掲書)

張学良のこの言葉に全くウソが混じっていなかったことは、後に起こる「西安事件」で立派に証明される・・・。

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中央銀行接収を真っ先におこなった日本軍

 さらに、奉天軍閥による満州経営、経済の近代化が整備されていたのではないかという傍証としてあげたいのが、満州事変直後の日本軍の動きである。

 柳条湖事件を口実として、日本軍は一斉に軍事行動を起こし、満州全土を占領するのだが、あとで詳しく見るように、最強の軍事力をもった奉天軍は軍事的抵抗をまったく見せなかった。

 それだけに日本軍の動きから、その占領計画とその意図が窺いやすい。

 以降は、古屋哲夫の『満州国の研究』第1部「満州国」の成立第2章「満州国」の創出、と題する論文に沿って見ていくことにする。

古屋の主要な論文は、実は、ほとんど彼のWebサイトから自由に無料で読むことができる。<http://www.furuyatetuo.com/>

「ご挨拶」<http://www.furuyatetuo.com/goaisatsu.htm>を見てみると、「私、古屋哲夫は、2006年12月2日午後2時2分、この世を去りました。」と随分人を食った書き出しではじまっている。

自分の人生は、自分の能力からすれば出来すぎだ。
日本人として、初めて敗戦を経験する事も出来て満足している。
神様がもう一度初めから人間をやらせてやると言われても、御断りして、その分長生きさせてくれるよう御願いしたい。
今、死と言うこの世の運命を受け入れ、あの世の新しい運命と取り組みます。」

 しかし、
 昭和6年3月21日、私は、この世に生まれた。  
 この頃はアメリカから始まった世界大恐慌の波が日本にも押し寄せてきており、世の中は不況のさなかであった。そしてその背後では、軍部は戦争への道に歩み出そうとしていた。私の生まれる前日には、未遂に終ったとはいえ、軍部内閣をつくるためのクーデターが予定されていた。後に『三月事件』と呼ばれるようになったこのクーデター計画は、極秘のうちにもみ消されてしまったが、然しそれは、『満蒙侵略』についての暗黙の了解が、軍中枢部に成立した事を意味していた。・・・」

 読んでいるうちに古屋の思いが伝わってきて目頭が熱くなる。古屋の「あの世の新しい運命」とは何か?私には分からない。確実に云えることは、インターネット時代という新たな時代を利用して、古屋は自分の研究を広く市民に公開し、これらを我々市民が読んで考え研究することで、そこから我々市民が学び、権力に騙されない、自分の頭でものを考えることのできる真性民主主義社会の市民を一人でも多く作りたかったに違いない、ということだ。私も古屋の好意にすがってこれら貴重な労作を活用させてもらっている。

 「これから先は著作・論文で又会いましょう。活用して頂ければ本望です。では、さようなら…。」と古屋は結んでいる。)

 古屋論文の引用からはじめよう。

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健全な金融システムを乗っ取った「満州国」

 ここに、満州事変当初から関東軍が、張学良体制の中央銀行をいち早く接収しようとした秘密があるように思われる。逆に言えば、「満州国」は、健全な張学良政権の金融システムをそのまま乗っ取り、最後にはこれを破滅させたという言い方も可能であろう。

 先ほど引用した古屋哲夫の論文にも、

・・・従って(*日本軍)による金融資産の保護とは、その資産を張学良政権より切り離して、軍政の安定化のために利用できる状態に置くことに他ならなかった。そしてそのことはまた、張学良政権の一定の安定度を、貨幣を通じて吸収しようとすることを意味した。

張作霖時代の末期、1925年の郭松齢事件を直接のきっかけとし、以後の張作霖軍の関内進出、国民革命軍(*北伐軍)への敗北という事態の中で、「奉天票の暴落」現象が深刻化していったが、張作霖爆殺事件後満州を掌握した張学良は・・・この混乱を収拾して相当程度の幣制の安定を実現していたと見られる。この問題については、西村成雄の最近の研究に詳しいが、当時矢内原忠雄は次のように指摘していた。』

 西村成雄は元大阪外語大学の教授で中国研究の権威である。
<http://read.jst.go.jp/public/cs_ksh_012EventAction.do?action4=event&
lang_act4=J&judge_act4=2&code_act4=1000031855>
また古屋が参考にした研究は『張学良政権下の幣制改革-「現大洋票」の政治的含意-』(東洋史研究 50巻4号 1992年)の事である。

 また矢内原忠雄は元東大総長で経済学者の矢内原忠雄<http://ja.wikipedia.org/wiki/矢内原忠雄>のことであり、古屋が引用している論文は『満州日報 1931年9月24付け寄稿論文』のことである。

  古屋は矢内原を次のように引用する。

 (張学良)政府は1929年(昭和4年)5月、東三省官銀号、辺業銀行、並に中国・交通両奉天支店を以て遼寧4行号発行準備庫を組織せしめ・・・聯合準備制度の下に現大洋兌換券を発行し、同年6月現大洋一元に対し奉票60元の公定相場を定めた。これにより奉天票は現大洋票の補助貨となり、新通貨たる現大洋票の下に貨幣価値は一応安定を恢復したのであった。』

 これら一連の記述は、さきに引用した東京朝日新聞のプロバガンダ臭い記事とは相当趣を異にする。

 前期の記述に続けて、古屋は次のように言う。

 のちの満州国の幣制統一が、こうした現大洋票の安定性を基礎とスるものであったことは、32年満州中央銀行の発足にあたって、東三省官銀号の現大洋券に「満州中央銀行」の朱印を押して暫定的な満州国通貨としたことを見ても明らかであった。』
(32年7月1日付け 満州中央銀行公告。なお、前掲東京朝日新聞の記事ではこの事実に全く触れていない。)
   

「満州国」は、張学良政権の財産を乗っ取ってスタートしたという徴候は他にもある。


健全な社会自体を乗っ取った?

 それはリットン調査団報告書にもあるように、日本軍は、
 (*1931年)9月19日奉天占拠の直後、支那銀行(*これは先にも見た張学良政権下の各発券銀行のこと)、鉄道事務所、公共事業事務所、鉱山管理事務所等の内部又は門前に護衛を置き、然る後、これら事業の財政的又は一般的状況の調査行われたり。』
(外務省仮訳『リットン報告書全文』朝日新聞社 1932年)
とあるように、既存の主な官庁・事務所を制圧し、そこに日本人官吏を送り込んで、既存のシステムを再開させるだけでこと足りたからである。

 こうして見てくると、「田母神論文」に示された「満州は無住の荒野であり、1932年満州国成立によって初めて開発に着手され、わずかの間に近代工業国家に生まれ変わった。」という認識は大いに怪しくなってくる。

 この認識は何も「田母神論文」やその背後で田母神を操作している「被害妄想史観」の学者・研究者だけの認識ではないのではないか。相当多くの日本人が、「満州」に対して抱いているイメージではないだろうか?

 これまで見てきたように、張作霖・張学良政権下で満州は、相当な経済開発と、民生の安定を実現していたということが云える。

 帝国主義日本は、こうした安定した満州をほぼ無傷で乗っ取り、いわば「張政権」の遺産の上に、「満州国」という傀儡国家を打ち立て、さらに戦時体制下の、極めていびつな近代工業化を進め、収奪と搾取を強化しながら、最終的には、「満州」をその根底から破壊してしまったのだと思える。

 もし私が正しいとするなら、何故多くの日本人は、「満州を工業化したのは日本」という誤った認識を戦前から戦後一貫して持ち続けたのか・・・。

 「田母神論文」などよりもその方が、遙かに基本的な問題だと思えてならない・・・。


(以下次回)