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No.23-5 |
平成20年12月24日 |
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どの社会にも、その社会の一線を画する事件があるものだ。たとえば多くの日本人は、「戦前・戦後」という言葉があるように、1945年8月で一線を引いている。神戸でタクシーの運転手さんと話をしていると、運転手さんはつい何気なく「震災前・震災後」という区切り方をする。神戸の人はあの震災を一つの社会の変わり目と見ているようだ。
1949年10月1日中華人民共和国成立前の中国社会を考えるとき、「5・4運動」は丁度そうした、中国社会の一線を画する事件、として捉えられているようだ。
それは前回指摘したように、中国人民にとって「民族独立革命」「近代的な人民民主主義革命」が当面の大きな政治課題であることを、中国が一般大衆レベルで深く自覚したことと大いに関係がありそうだ・・・。
1917年ロシア革命を達成したソビエト連邦は、まだ健康な社会主義理念、近代民主主義思想の価値実現に燃えていた。
1919年7月、ソ連政府の人民外務副委員レフ・カラハンがいわゆる『カラハン宣言』をおこなう。
『カラハン宣言』は、帝政ロシア時代に清国と取り交わし、その法的継承者である中華民国との間に存在する不平等条約を一方的に撤廃する、すべての秘密条約を破棄する、また民族自決の原則に基づき帝政ロシア時代に奪った中国領土を返還し、帝政ロシア時代に獲得した中国における利権をすべて一方的に返還する、と言うものだった。
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中国における利権とは、北満州・外蒙古における利権のことを指すが、この時東清鉄道の利権は返還されなかった。また、このカラハン宣言によって、日本とロシアが結んだ第三次日露協約は法的には無効となった。) |
『カラハン宣言』の精神は、帝国主義的侵略を否定した「ウイルソンの14ヶ条の提案」に沿ったものだということができよう。
中国が『カラハン宣言』の通知を受けるのは翌1920年(大正9年)3月のことである。「ウイルソンの14ヶ条の提案」が反古にされいわば裏切られた気持ちでいた中国人民は、当然のではあるが『カラハン宣言』を大歓迎した。 |
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ご記憶であろうが、佐藤内閣の時に「沖縄返還」があった。「古来、平和交渉で領土が返還された例はない。」という言い方で、当時宣伝されたものだ。佐藤内閣は最後の一仕事をして退陣した。
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実際には、沖縄はサンフランシスコ平和条約で日本の領土であることが確認されていたから、返還されたのは『施政権』だったのだが。しかも基地付き・核付き、おまけに毒ガス付きで返還されたので、軍事的には沖縄の『本土並み返還』だったのではなく、本土の『沖縄並み返還』だったのだが。) |
あの時のことを、(ご記憶の方は)思い出して欲しい。しかも『カラハン宣言』は、一切の交渉もなしに、また要らないお土産付きでもなく、一方的に、不平等条約を破棄した上、領土と利権が返還(全部ではなかったが)されたのだ。
中国人民が感激をもってこの宣言を受け止めたとしても何の不思議もないだろう。
「カラハン宣言」は、中国人民に新しい時代と「ポスト帝国主義」の政治的価値体系の到来を予感させるのに十分な出来事だった。
同時に新たな「価値体系」(ポスト帝国主義の価値体系)をもたらした、ソビエト連邦の権威と信頼が急速に中国社会の中に高まっていったことも自然な流れだろう。 |
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話は若干さかのぼる。1919年3月ソ連共産党の呼びかけで、世界の社会主義政党がモスクワに集まり、国産共産主義運動を団結して、「世界革命」をめざした組織を結成した。これが第三次インターナショナル、すなわちコミンテルン(Comintern)である。
コミンテルンは1919年(大正8年)から1943年(昭和18年)解散するまでその活動を続けた。鹿児島大学の平田好成の表現を借りれば、「国際共産主義運動を指導する一つの巨大な組織であった。」(「コミンテルン第七回大会論」より。この論文は下記のサイトで読むことができる。http://www.ls.kagoshima-u.ac.jp/ronshu/ronshu1/03/ronbun/A03890813-00-000030160.pdf )
コミンテルンは1920年4月、グレゴリー・ヴォイチンスキー(http://ja.wikipedia.org/wiki/グリゴリー・ヴォイチンスキー )を中国に送る。
ロシア革命に対して、1918年アメリカ・日本など列強連合軍は、ロシア革命干渉のためにシベリア出兵(http://ja.wikipedia.org/wiki/シベリア出兵 )をおこない、第一次世界大戦終結とともに順次引き上げていくが、最後までシベリアから兵を引き上げなかった日本が最終的に北サハリンから撤兵するのは1925年((大正14年)5月であることも念頭に置いておいて欲しい。
ヴォイチンスキーは精力的に中国各地を回って、中国共産党の結成を働きかけた。
この背景には、ドイツにおける社会主義革命が全面的な失敗に終わり、1920年のコミンテルン第2回大会で、レーニンが「民族及び植民地問題に関するテーゼ」を発表し、それが直接社会主義革命につながらないとしても、民族独立闘争や労働者や大衆のための民主主義を支援することが、コミンテルンの役割だ、ということを提案し運動方針となっていたからである。
コミンテルンのこの方針は、「5・4運動」を経験していた中国一般大衆の政治的要求ともよくマッチしていた。
「社会主義」だの「共産主義」だの言う前に、まず帝国主義者どもを追い出して、民族独立を果たし、一部金持ちのための民主主義ではなく、額に汗して働く一般大衆のための民主主義をまず確立しようというわけだ。 |
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こうして1921年(大正10年7月)、上海において中国共産党が結成される。この時の幹部は、李達(りたつ)、張国Z(ちょうこくとう)、毛沢東、董必武(とうひつぶ)ら13人であった。
ざっとこの時の客観情勢に触れておくと、1921年の4月には、同じような政治的要求を掲げていた孫文が南京で、第二次南京政府を組織している。
5月には、寺内正毅内閣に代わった原敬内閣が「東三省(*要するに満州のこと)の内政及び軍備を整理充実して牢固なる勢力をこの地方に確立する」との閣議決定。これは張作霖軍閥政権を念頭に置いて、満州を中国から切り離し、「満州の傀儡政権」樹立を念頭に置いたものだといえよう。すでに基本計画としてはのちの「満州帝国」創出の青写真がこの時できている。
話が変わるようだが、私が不思議なのは、私が読んだ教科書的な歴史の本の多くが、日本の中国侵略が、昭和期にはいって軍部の暴走で進められた式の記述、すなわち歴史認識が一般的であることだ。軍部の暴走を『文民政権』が阻止できなかったために戦争が泥沼化し、日米開戦に至って、45年8月を迎えた、という比較的単純な認識である。軍部の暴走がなかったわけではないが、こうして丁寧に中国近現代史を追っていくと、日本の大陸侵略は、日露戦争以来の、もう少しいえば明治維新以来の、日本の「国家意志」であり、藩閥政権であれ、政党政権であれ、軍閥政権であれ、まったく一貫してぶれた様子がない。こうした認識からすれば、日本の軍部は、この「国家意志」に暴力装置として手先に使われただけ、という気がしてくる。私の教科書的歴史書の読み方が誤っているのか、それとも私の歴史認識が誤っているのか、それとも私が正しいのか・・・。
7月には中国共産党が創設される、のは先に見たとおり。 |
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ベルサイユ会議が「第一次世界大戦」の後始末の会議だったとすれば、1921年(大正10年)11月には、第一次世界大戦後の列強世界体制を決定する会議、すなわちワシントン会議が開かれている。これも教科書的歴史書では、海軍主力艦の比率を日英米=3:5:5に決定した、と言う点ばかりが強調されているが、中国近現代史を丁寧に見ていくとこれは本質的な問題ではないことが分かる。
より本質的には、よく「ワシントン体制」という言葉で呼ばれるように、第一次世界大戦後の列強の権益を、より具体的により実務的に取り決めたことだ。このワシントン条約に附属して四カ国条約(日・米・英・仏)が締結され、太平洋島嶼に関する領土権の尊重をお互いに認め合ったことだ。日米英仏の協調体制が確立することになる。これに伴い明治以来の日英同盟が終了した。
断っておくが、これは日米英仏が4カ国でお互いに『領土権』を認め合ったのであって、太平洋諸島の人々の民族自決権を領土権として認め合ったのではない。主人公そっちのけで、4カ国の間だけで認め合ったのだ。
中国に関して言うと、中国関税条約が締結される。これも時の中国政府に相談して決めたのではない。一律従価5%関税、付加税2.5−5%を認めあった。9カ国条約(日米英仏伊中ベルギー・オランダ・ポルトガル)が締結された。これはアメリカの「門戸開放」の主張に沿って中国の主権尊重、領土保全、列強の機会均等を認め合った。ということは、それまで、ドイツ・ロシアなきあと、英・日が突出して中国の権益が大きかったわけだが、アメリカは日英の特権的地位を認めませんよ、ということだ。
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またまた歴史の本の話になるが、教科書的歴史の本を読むと、この時代あたりの日本に関して、書き手にどこか誇らしげなニュアンスを感じるのだ。別段右翼系の歴史の本と言うわけではない。私のような一般市民や学生が歴史的教養、政治的教養を身につけることを目的とした普通の本のことである。
たとえば次のような記述である。
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あたかもこのころ(*皇太子裕仁が皇位についたころ)、近代日本の歴史は、大きな転換点にさしかかっていた。1958(安政五)年の開国から七○年、日本の発展はめざましく、第一次大戦ののちには、世界の列強として自他共に許すまでになっていた。』
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これは岩波新書「昭和史」(遠山茂樹・今井清一・藤原彰著 1983年4月10日 第33刷 P3)の冒頭書き出し部分である。著者はいずれも立派な学者で、われわれがしょっちゅうお世話になっている方々ばかりである。この本自体も一般市民の教養書として読めば、十分すぎるくらいでおつりが来る。
にも、拘わらずこの冒頭書き出し部分には、明治維新以来めざましく「発展」し、第一世界大戦が終わってみると列強の仲間入りをしていた日本に、どこか誇りを感じている著者たちの姿勢が私には見える。私はこの時代の日本には決して誇りを感じない。世界の列強の仲間入りしていたことも恥ずかしいと思う。「列強」とは、すなわち自らの経済的利益のために、強大な軍事力を背景に他国の人々を半奴隷的状態におき、人間として扱わず、ある時は強圧的に、またあるときはいやらしい猫なで声で他の国の人たちにいうことを聞かせよう、とした国々のことである。そんな連中の仲間入りをしていたことは決して誇れることはない。自分たちがギャングや暴力団の仲間だったなどとは思い出したくもない話だ。
これは普通の一般市民の感覚であろう。
この本の引用部分は、そうしたギャングや暴力団の仲間だった日本に対する痛烈な自己批判がない、というとみなさんはどう思われるだろうか?
このシリーズは「田母神論文」批判を思い立ってはじめたシリーズであり、一般市民のレベルで、「日本の中国侵略史」に関する歴史認識を確立してみようという、私なりの試みである。その意味ではこのシリーズは誰のためでもない、私自身のためのものである。
ところが、気がついたことは、日本の多くの一般市民の中に、当然のごとく私自身のなかにも、田母神的な歴史認識が無意識に紛れ込んでいることだった。先に引用した岩波新書「昭和史」冒頭の一節は、そのほんの小さな例である。
われわれ21世紀に生きる日本の市民一人一人の中から「田母神的」な歴史認識の断片を発見し、それらを完全に追い出す仕事は、「田母神論文」そのものを批判するよりはるかに重要な仕事だろう。
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ここで第一次世界大戦後の中国をめぐる状況をまとめておこう。
まず「5・4運動」の成果を通じて、中国人民の当面する政治課題が明確になった。指導者層も養成されていった。中国共産党の成立や孫文の南京政府の樹立などがそれを象徴している。
一方列強の側は、ドイツ・ロシアが脱落し、最大勢力だったイギリスが大きく後退した。フランスもベトナム(仏領インドシナ)経営に専念する姿勢に返還していく。
残る列強のうち最大の勢力は日本であり、イギリスに代わって大きく勢力をのばしたアメリカである。こうした観点から1921年のワシントン会議を見てみると、大戦中ほとんど日本独壇場だった中国市場に新たに参入してきたアメリカ、これに日本が譲歩したと言う形だろう。
これがいわゆるワシントン体制である。従ってワシントン体制とは、1921年から1931年満州事変勃発までの10年間の体制であり、それまでの列強の野蛮な軍事的侵略から、軍事力を背景とした経済力の競争時代に入った、と規定できよう。もちろん中国は先にも見たように、一方的に搾取・収奪される対象である。 |
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ただ日本は列強から「満蒙」の特殊利権は認められた。残りの中国は「機会均等」「門戸開放」ですよ、ということだ。
勢い列強は地方政権である軍閥を傀儡化して勢力を伸ばそうとする。軍閥同士の戦争も激化する。また軍閥に支配される中国経済社会は、軍閥を通じて利益を列強が吸い上げるという構造になり、中国人民からの搾取・収奪は強まった。
軍閥間の戦争は列強の代理戦争だったのである。
1922年(大正11年)第一次奉直戦争が勃発する。これは英米を背後におく直隷派(曹金昆《金へんに昆と書く》―そうこん)と日本を背景にした奉天派(張作霖)の鉄道権益をめぐる代理戦争だった。直隷派賀勝し、張作霖は北京を撤退、東三省(要するに満州)の独立を宣言する。(閉関自治)
こうした大規模な戦争ばかりでなく、中国中に軍閥間の中小規模の戦争が幾度となく発生したのである。
こうした戦争の背景には、列強の中国への帝国主義的な経済進出があった。苛酷な労働条件で働く都市労働者ばかりでなく、農村でも苛酷な租税(地方軍閥が徴収した)や債務(地主層からいろんな債務を負った)のため、農作物は商品作物化でざるを得ず、中国は低価格の原料供給地として世界市場に登場する。
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中国人民にとって、打倒すべき相手は、必然的に植民地化を進める帝国主義と、その手先になって直接人民を抑圧、搾取する軍閥と言うことにならざるを得ない。
たとえば1921年(大正11年)1月、第一次奉直戦争の3ヶ月前、ずっと南のイギリスの植民地だった香港で海員ストが発生する。この時中国共産党員だった蘇兆徴(そちょうちょう)らに指導された中華海員工会は、大幅な賃上げを要求してストライキに入った。イギリスの植民地だから、当然労働運動は法律で禁止されている。香港のイギリス当局は戒厳令まで発動してこのストライキを弾圧した。同情ストに入った運輸労働者を含めて参加人数は約2万人。イギリス軍の武力弾圧で6名の死者、数百人の負傷者が出たが、彼らはストを貫き通し、ついに賃上げを勝ち取った。この間、孫文の政府や香港・広州の労働者や市民なども一致してこのストを支援した。
1921年7月には、日本資本の漢陽製鉄所の労働者ストが起こり、9月には同じく日本資本の安源路線(鉄道と炭坑経営)で1万人規模のストライキが起こる。このストライキは同じく中国共産党の、毛沢東、劉少奇、李立三らが指導した。
当時は「ILO勧告」などと言うものもない。政治権力は立法権・裁判権まで含めて完全に資本家階級・地主階級に握られている。また政治権力を握っている彼らは軍隊・警察といった暴力装置を掌握し、「法律違反」をした労働者を逮捕し、犯罪者として処罰する権限も能力もある。彼らが労働争議は非合法であり、厳罰をもってこれに対処する、といえば彼らのなすがままだ。
またこれが肝心な点だが、生産設備・大規模販売組織、原材料仕入れ機構など工業的生産活動に必要な仕組み、つまりは資本ということだが、これも彼らが全て握っている。なにものも持たない一般大衆は、彼らに自分の「労働力」を売って、家族を含めた自分の生活を維持する他はない。自分の「労働力」を販売した結果得られるのが「賃金」だ。その賃金がほとんど生活を維持できないほどの金額であれば、なにものも持たない労働者としては、自分の労働力の販売を拒否して、つまりストライキに入って絶大な政治権力と軍事・警察力をもった資本家階級と対抗せざるを得ない。つまり「ストライキ」は最後に残された「自衛手段」なのだ。 |
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近代資本主義社会では、労働者階級をあまりに圧迫しこれを搾取しすぎると、資本主義的生産システムそのものが危殆に瀕するとして、労働運動が合法化されている。また労働力以外売るもののない労働者たる一般市民が、こうした労働争議を繰り返して勝ち取った諸権利でもある。つまり労働運動や労働組合は、資本主義が健全であるための「安全装置」でもある。
しかしこの当時の半植民地的な中国社会では、こうした権利は一切認められず、すなわち非合法活動であり、即弾圧の対象であった。その意味では、資本主義とはいえ、前近代的な野蛮な資本主義の状態に置かれたままだった。
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そう言えば、公務員の団結権、スト権を認めなさいというILOからのたびたびの勧告にもかかわらず、これを認めない現在の日本社会は、近代資本主義社会以前の状態と言うことになるのかな?ま、そういうことになるのだろう。) |
『悪法もまた法なり』としてソクラテスは毒杯を従容としてあおいで死んでいったが、このソクラテスの論理は奴隷社会のイデオロギーである。『悪法』は良く議論をつくして変更しなければならない。これが近代民主主義社会のイデオロギーだ。
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またまた余計なことだが、こうした観点から例の『労働者派遣法』を眺めてみるとよい。近代資本主義社会が様々な学習を通して自らの体制を守る仕組みを考え出していったにもかかわらず、つまらない利益優先の考え方から、体制維持システムを自ら破壊し、日本の労働環境を近代資本主義社会以前に退行させている。新自由主義経済を推進し、これがあっけなく破綻すると、自ら個々企業の極短期的利益確保を目的にまず首切りに走る大企業は、「健全な資本主義体制」自体の根底を揺さぶっている。経団連は自らの墓堀人になっているのだ。小林多喜二の『蟹工船』がブームになっているのは理由のあることだ。) |
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しかし、植民地帝国主義は残忍だった。
1922年(大正11年)、現在の河北省唐山市(1976年の唐山大地震で有名である。)にある開欒(さんずいに欒と書く)に炭坑は、もともと清朝の開いた炭坑だったが、この時はイギリス資本の下にあった。華北最大の炭坑である。この年10月開欒(さんずいに欒と書く)炭坑の労働者たちは賃上げを要求してストライキにはいると同時に組合結成の要求をした。会社側はイギリス政府に支援を要請、イギリスはインドから軍艦でインド兵を送り、組合を弾圧した。唐山は直隷派軍閥の管轄だったが、直隷派軍閥も保安隊を送って武力弾圧を加えたのである。
1923年(大正12年)には更に残忍な事件が起こった。北京と漢口を結ぶ京漢鉄道の労働者が河南省鄭州で京漢鉄路総工会結成大会を開催しようとしたところ、直隷派軍閥の呉佩孚(ごはいふ)がこれを禁止した。ゼネストで対抗しようとした労働者側に対して軍隊を導入、弾圧を加えた。この時死者は44人、負傷者は300人だったという。映画『蟹工船』のラストシーンを彷彿とさせるような事件であった。この大虐殺事件は1923年2月7日に発生したので「2・7惨案」と呼ばれているという。
こうして第一次政界大戦後の中国全土を覆った労働運動は、各地の軍閥や直接帝国主義軍隊が軍事的暴力で弾圧し、残るのは孫文の国民党のあった広東と毛沢東は指導する湖南省(省都・長沙市)のみという状態になった。 |
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第一次世界大戦後の中国社会では農村にも、組織的な反封建闘争が生じ始めていた。
この頃中国の人口は約4億5000万人くらいではなかったかと思われる。
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若林敬子は「中国 人口超大国のゆくえ」岩波新書1994年6月20日第1刷のP34で『1840年アヘン戦争時から1949年までの109年間、4億1000万人から5億4000万人と1億3000万人、年率0.26%の人口増加率にすぎなかった。内戦や自然災害も多く、・・・人口は停滞し続けた。』と書いている。)
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その人口の約8割が農村だった。その農村は長い間外国の帝国主義を背景とする軍閥と大地主層に収奪され続け疲れ切っていた。
前掲「中国近現代史」によれば、
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1926年=大正15年の調査によれば、農村人口の14%の地主が耕地の62%を所有し、(人口の)68%を占める貧・中農の土地はわずか19%にすぎなかった。地主の取り立てる小作料はほとんどの場合収穫の5割をこえ、・・・端境期に食いつなぎの穀物を借りれば、年利にして50−80%の利息を取られた。軍閥の徴収する土地税は、戦費調達のために数年先まで先取りされた。しかも治水灌漑が放置されたために、洪水、旱害が毎年のように農民を襲った。」(101P) |
という状態だった。
全体として言えば、この頃は地主や帝国主義勢力にバックアップされた軍閥各政府の強力な軍事力の下に人民大衆が弾圧された時代、という見方ができよう。
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軍閥はたがいに勢力争いをしながら、北京政府の覇権獲得にしのぎを削るなかで、中国人民が頼りにできる政治勢力は、中国共産党をのぞけば、孫文の広東政府だけだった。
孫文は「真の民の国」を建設しようとした本物の革命家だったが、元来体質はエリート主義だった。そのためそれまでも単独の武装蜂起などを企て失敗してきた。その孫文がロシア革命を見、上海で『5・4運動』を目撃した後、大きく考え方を変える。すなわち彼もまた人民の大きな力に気づき人民の力を基盤にしなければ、革命はできないと悟り始める。
その孫文は1922年(大正11年)広東を本拠とする軍閥陳炯明(ちんけいめい)の反乱に遭い、上海に脱出しなければならなかった。
一方コミンテルンは前述のように、第二回大会で植民地における闘争は、社会主義革命や共産主義革命などではなく、まず民族の独立を果たし、帝国主義からの軛を脱することだ、まず中国国内の民主主義を達成することだという結論に達していた。
コミンテルンは中国共産党創立に際して、マーリンという人間を派遣していたが、マーリンはこの時、孫文に会い、また孫文が香港の海員ストを全面的に支持しているのを見て、孫文の国民党が、中国民族独立運動の中心勢力たりうることを確信した。また孫文はこの時、李大サや陳独秀など中国共産党の幹部とも接触する。 |
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こうしてマーリンは、孫文と共産党との民主連合戦線結成を両者に提案する。
1923年(大正12年)1月、孫文はソビエト政府代表ヨッフエと共に、「中国にとってもっとも緊急の課題は民国の統一と完全ある独立にあり、ソ連はこの大事業に対して熱烈な共感をもって援助する。」という共同宣言を発表して、いわゆる「連ソ容共」の方針を明確に打ち出す。
このあと、孫文は広東に戻り、国民革命の拠点とした。ソビエトからは、政治顧問ボロディン、軍事顧問ガレンを孫文のもとにおくり、孫文を全面的に支援する体制を作った。
中国共産党は1923年にコミンテルンの指令に基づいて、全共産党員が個人の資格に置いて、国民党に参加することを決定していた。つまり2重党籍となったわけである。(いわゆる党内合作)
1924年(大正13年)1月、広州で中国国民党第一回全国大会が開催される。大会宣言は「帝国主義の侵略に反対して民族解放と国内諸民族の平等」(民族主義)、「封建軍閥の専制に反対して民衆の自由と権利」(民権主義)、「また土地集中と独占資本を制限して民衆の福利」(民生主義)を高らかにうたいあげた。
ここに第一次国共合作が成立し、中国で史上初めて民族統一戦線が成立した。
この時選出された中国国民党の中央委員24名中、共産党員は李大サ、譚平山(たんへいざん)、干樹徳(うじゅとく)の3名、中央委員候補17名中、林祖涵(りんそかん)、毛沢東、張国Z(ちょうこくとう)ら7名が共産党員だった。
この1924年の中国国民党第一回全国大会が、現在でも中国革命史上の大きな出来事として特筆されるゆえんである。
この時革命軍の中核人材養成のための学校が作られた。これが黄埔軍官学校である。校長は蒋介石、政治部副主任が周恩来であった。
1893年生まれの毛沢東はこの年31才、1887生まれの蒋介石は37才、1898年生まれの周恩来は26才だった筈である。
コミンテルンが要請するまでもなく、中国の国民各階層は、ブルジュアジーまで含めて、国民が一致団結して、外国の侵略から中国を守らなければならないという危機感が浸透していた。第一次国共合作は、こうした気分を政治的に象徴していたともいえるし、もしこの国民の要求に応えられなければ、政治の表舞台から姿を消さざるを得なかった、ということもできる。 |
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それを象徴する事件が、ちょうどこの年1924年(大正13年)7月に起きた。第二次奉直線戦争である。第一次奉直戦争に勝利した直隷軍閥は、北京政府を思うがままに操縦する。その政策は相も変わらぬ軍閥覇権確立と買弁主義だった。
直隷派はかつての袁世凱同様、人民の意志を完全に理解できていなかったと言うべきであろう。この直隷軍閥に対して、張作霖の奉天派や段祺瑞の安徽派、それに孫文の広東政府まで加わって直隷軍閥包囲網ができあがる。この両者の間に先端が開かれたのが第二次奉直戦争である。ただこれはあっけなくけりがついた。直隷軍の有力将軍、馮玉祥が包囲軍に寝返ったのである。直隷軍の総帥呉佩孚は北京から南方へ脱出したが、二度と政治の表舞台に主役の一人として登場することはなかった。
直隷派が一掃された北京政府は、段祺瑞が臨時執政に立ったが、反日学生運動を弾圧するような段祺瑞では、とても北京政府をまとめることはできなかった。段もまた中国人民の要求を理解できなかったのである。
こうして人民の期待は孫文に集まった。北京政府の首脳、張作霖、馮玉祥、段祺瑞らは、広東にいる孫文に北京にきて政府をまとめることを要請するのである。(孫文の北上) |
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1924年11月10日孫文は「北上宣言」を発する。孫文の北上は広東から北京までの船旅で約1ヶ月かかった。その1ヶ月の間、真の国民議会を開設するための準備が全中国でおこなわれたのである。
おもしろいことに(当時は当たり前だったのかもしれないが)、孫文はこの船旅の途中、日本の神戸に立ち寄っている。
今でも神戸から天津まで船旅で三日三晩かかる。当時はもっとゆっくりで、寄港地ごとに演説会を開くと言った形の遊説の旅ではなかったか。
孫文は神戸でも在日中国人留学生や多くの日本人を前に演説会を開いている。この時、有名な「大アジア主義」と題する講演を行った。
インターネットというのは素晴らしい代物で、この時の孫文の講演の要旨をわれわれは、パソコンの前に座ったまま、タバコを吹かし、コーヒーを飲みながら読むことができる。
「孫文の大アジア主義」と題するサイト(http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=孫文+大アジア主義&lr=&aq=3&oq=孫文 )は孫文選集から引用したサイトである。
中で孫文は次のようなことを言った。 |
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『 |
我々が大アジア主義を説き、アジア民族の地位を恢復しようとするには、唯だ仁義道徳を基礎として各地の民族を連合すれば、アジア全体の民族が非常な勢力を有する様になることは自明の理であります。
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さて最後に、それならば我々は結局どんな問題を解決しようとして居るのかと言いますと、圧迫を受けて居る我がアジアの民族が、どうすれば欧州の強盛民族に対抗し得るかと言うことでありまして、簡単に言えば、被圧迫民族の為に共の不平等を撤廃しようとして居ることであります。……
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我々の主張する不平等廃除の文化は、覇道に背叛する文化であり、又民衆の平等と解放とを求める文化であると言い得るのであります。
貴方がた、日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持って居るのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。(「大アジア主義」1924年12月28日神戸高等女学校において神戸商業会議所外5団体におこなった講演――「孫文選集」1966) 』(同サイトより) |
この中で、孫文は「仁義道徳」「覇道」「王道」など中国伝統の儒教用語をちりばめて自分の説を述べているが、これは今の言葉に翻訳して理解すれば、「人民民主主義的正義・人道主義」、「軍事帝国主義」、「法と人権に基づく平和主義」などいった言葉に置き換えることが可能であろう。
東洋対西洋の図式で、「文明の衝突」的ハンチントンじみた陳腐な比喩は、同じ東洋人である日本人相手のわかりやすい例えにすぎない。当時の中国が置かれた政治的課題が、「民独独立」「民主主義の確立」だったと言う時代背景、また孫文がその政治課題を良く理解していたことを考えてみれば、以上のような結論となる。 |
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つまり孫文は、近代的に成功した最初のアジアの国である日本は、中国を含めた全アジア非圧迫民族解放、民主化のリーダーたれ、そうあって欲しいと日本国民に訴えたのである。
中国を圧迫している急先鋒が、その当の日本であってみれば、孫文のこの演説は「声涙共に下る訴え」と聞くことができる。
同時にこの孫文の訴えは、当時の日本に、その進むべき進路に関して、全く相反する選択を突きつけていることにもなる。
つまり「西洋」の「鷹犬」として帝国主義の道を進み続けるのか、「王道」に則って、軍事的覇権によらない、新しい文明史的価値を創造するリーダー国家に脱皮していくのか、と言う選択である。
当時の日本はこの孫文の訴えに全く耳をかさなかった。どころか当時孫文の講演を報道した毎日新聞を読めばわかるように(http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/greater%20asia.html )孫文の提起している問題の価値すら理解できなかったのである。
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現在の日本がこの孫文の訴えに耳をかすかどうかも疑問ではあるが・・・) |
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ただ当時、さすがに石原莞爾は、孫文の提起する問題を重く受け止めたようだ。
次のサイト(http://www.asyura2.com/2us0310/dispute14/msg/121.html )を読むと、『石原莞爾選集7』のP206が引用されており、石原は次のように論評しているそうだ。
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(孫文は)「日本民族は既に一面欧米の覇道の文化を取入れると共に、他面アジアの王道文化の本質をも持っているのであります。今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の犬となるか或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の慎重に考慮すべきことであります」
と結び、日本の大陸政策に対しひそかに厳重な抗議を提出したのであった。日本人はこの忠言に耳を藉さなかったのみか、支那事変勃発後も、自称大亜細亜主義者すら覇道の犬たる行為を反省せず、ついに今日の結果を招いたのである。』 |
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ファシスト石原莞爾であるが、なかなか立派な見識を持っていたものである。田母神などいうチンピラの出る幕はない。) |
こうして北京に到着した孫文であったが、すでに彼は肝臓がんであった。国民会議促成会全国代表大会が開かれている1925年(大正14年)3月、孫文は59歳で息を引き取る。神戸での演説のわずか5ヶ月後である。
民族統一戦線の支柱、孫文を失って、表面中国政界は方向を失って漂流し始めたかのようにみえる。
しかし歴史の主人公である中国人民は、ある意味確実に帝国主義への反撃を強めていった。
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5・30運動である。
1925年(大正14年)5月15日、上海にあった日本資本の内外綿株式会社の紡績工場の労働争議中、日本人監督が組合指導者の一人を射殺し、十数人を負傷させる事件がおこる。
( |
この内外綿株式会社は、戦後も生き残り新内外綿株式会社として大証2部に上場している。財団法人渋沢栄一記念財団の実業史研究情報センターの「内外綿株式会社50年史=<http://d.hatena.ne.jp/tobira/20080723/1216777788>によれば、『中国・インドから棉を輸入し、国内及び上海に紡績工場を作り業容を拡大する』とある。また新内外綿株式会社の沿革=< http://www.shinnaigai-tex.co.jp/kigyou/enkaku.html>によれば、
『 |
当社の歴史は、明治20年9月の内外綿株式会社の創立まで遡ります。内外綿株式会社は当時の日本の工業化のトップランナーとして華々しい生産活動で国内外に勇躍し、特に明治末期からの海外進出は、日本人を大いに勇気づけるものでした。
昭和10年頃の売上高は、日本企業のベスト10にはいるビッグカンパニーにまで成長していました。しかし、同社は第二次世界大戦の日本の敗戦により資産の大部分を失ってしまいましたが、幸い高度な技術と人材は残りました。』 |
とある。こうした企業の権益を、軍事的に守ってやるのが『中国侵略』の実態だったといった方がわかりやすいかもしれない。) |
この工場では、日本人監督の中国人労働者に対する非人間的な扱いに対して抗議するストライキが同年2月にも起こったばかりであった。
この『射殺事件』に対する抗議はたちまち上海中の日本資本の工場に広がったばかりでなく、青島の日本資本工場に広がった。これらの争議は会社側の譲歩でいったん沈静化を見せたが、火もとの内外綿は労働者側リーダーの解雇、ロックアウトを強行し、対立姿勢を鮮明にした。
一方、『射殺事件』に憤激した上海の学生たちは、労働者支援と犠牲者救済を訴えて街頭宣伝に乗り出した。当時上海はいわゆる租界であったが租界当局は、これら学生を「治安を乱した」として逮捕した。ちょうどその頃、青島にあった日本資本の紡績工場での労働運動を弾圧するため、奉天軍閥(当時は張作霖)の保安隊が導入され、争議中の労働者を8人射殺するという事件が起こった。軍閥の軍隊は中国人を守るためではなく、日本の資本を守るための存在であることも明るみに出された。
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これで中国人民の怒りは頂点に達した。
5月30日、約2000人の学生が労働者の射殺に抗議し、『租界回収』『逮捕学生釈放』を叫んでビラ配りをはじめた。租界当局はイギリス人警官を動員し学生を逮捕した。これに抗議して上海市南京路に集まった約1万の学生・市民に向けて発砲したのである。この事件は死者13人、負傷者数十の被害者を出した。
この事件は、発端は「争議中の労働者射殺」だったが、その後の事件のいきさつから、自然に反帝国主義闘争へと発展した。特に攻撃の矛先は日本とイギリスの帝国主義へと向かったのである。
上海全体の労働組合である上海総工会(委員長・李立三)は上海全体に全ストを指令、すべての労働者ばかりか学生・中小商人がこれに呼応し、統一指導組織、上海工商学連合会も組織もできあがった。
租界当局は、イギリス・日本・アメリカ・イタリアの陸戦隊で対抗し、民衆に発砲した。ためにさらに死者32人、負傷者57人の犠牲者を出した。
しかし民衆はひるまなかった。軍事的圧力に対して20万人が参加する市民大会を開き、『英日軍隊の撤退』『領事裁判権の廃止』など、民族独立全体にわたる要求を租界当局と北京政府に突きつけた。 |
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孫文未亡人、宋慶齢はこの時上海にいたという。「クリック21世紀」というサイトを見てみると、この時の宋慶齢の言葉が記されている。(http://www.c20.jp/1925/05530ji.html )
『 |
私たちは、この機会をとらえて、長期にわたる闘争のために、全人民の精神を奮い起こさなければなりません。 私たちの目的は、すべての不平等条約を廃棄することです。 この上海の惨劇は、中国が三〇年来、外国に依存してきた結果なのであって、 国民と民族の前進にとって非常に重要な意味をもっています。 この事件を上海における局地的な交渉、あるいは数日間の衝突事件とみなしてはいけません。 』 |
事態は宋慶齢の予言した通りの展開を示す。
この後は例によって「中国近現代史」(岩波新書 小島晋治・丸山松幸著)109Pから110Pの丸写しである。
「 |
反帝国主義の運動は、たちまち野火のように全国の主要都市に拡がっていった。すでに国共合作(*第一次)が成立し、国民会議促進運動で統一戦線を形成しつつあった民衆は、5・4運動の経験を踏まえて、一致して様々な形で運動を展開し、各地で列強の軍隊あるいは軍閥軍隊と衝突して多くに流血事件が起こった。
なかでも広東省と香港とが連携した商工ストは実に15ヶ月間も闘いを持続し、イギリスの東洋支配の根拠地香港を『死港』と化した。6月19日、25万人の労働者がストに入り、続々と国共合作の広東政府所在地広州に引き上げた。そして21日、広州市内の租借地、紗面(シアメン)の労働者もこれに呼応した。23日、これらの労働者と農民、学生、青年軍人10余万人が紗面の対岸の紗基をデモ行進していた時、英仏両軍が一斉に機関銃の掃射を浴びせて、死者52人、重傷者170余人にのぼる大虐殺を強行し、燃え上がる*民族運動を武力で押さえつけようとした。しかし労働者たちは、広東政府(国共合作政府)の全面的な支援のもとに一掃団結を固め、労働者糾察隊を組織して、香港・紗面を完全に封鎖し続けた。
商工ストは広東政府が北伐を開始する1926年10月まで続けられ、イギリスの華南支配に重大な打撃を与えたのである。
全国に拡がった民族運動に押され、またこれが反軍閥に転化することを恐れた北京の段祺祥政府は、列強に対して不平等条約の改正と関税自主権を要求したが、極秘に『これは即事廃棄をめざす過激な宣伝を緩和させることを目的としている』と通告しているように、全く国内向けのポーズにすぎなかった。
5・30運動は、全中国に『打倒帝国主義』の波を沸き立たせ、広汎な民族統一戦線を作り上げた。しかも民族的艇庫運動の先頭に立ったのが、5・4運動の学生に代わって労働者階級であったことは、中国革命の新しい段階を示すものであった。国共両党を政治的中核として、労働者階級を先頭に、中小ブルジュアジー、農民の参加する『真の国民革命』が、ここの第一歩を踏み出したのである。」 |
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ここで確認しておきたいことは、中国の人民民主主義革命の全過程を通じて(初期の段階としては、平英団、大平天国運動、義和団運動なども含む)、『5・4運動』運動の時は、まだ新知識人たる「学生」が革命の中核だったが、そのわずか6年後の『5・30』運動の時は、すでに労働者階級が革命の中核に座っていたことだ。
それと私が、中国の民主主義革命の全過程を通じて驚嘆することは、中国人民が、帝国主義的列強や半封建的軍閥の圧倒的軍事力に対抗するにあたって、ほとんど「素手」で立ち向かっていったことだ。それも幾度となく立ち向かって行っている。
戦前、軍国主義ファシズムの軍事警察暴力の前に、全体としては抵抗運動を粉砕され沈黙と服従を強いられた日本の歴史や、軍事組織を味方に引き入れつつ革命を成功させたロシアなどに較べても、この中国人民の不屈の闘いぶりには、驚嘆させられる。
確かにそのため、大きな犠牲を払い、時間がかかった側面があったかもしれない。後には、「紅軍」という自前の軍事組織を整備する中国の人民革命であるが、かなり長い期間自前の暴力装置をもたないまま、中国人民は暴力に対して「言論」で戦ったといえるのではないか。
つまりは、彼らは筋金いりなのである。「5・4運動」や「5・30運動」を通じて、軍事的暴力に対して敢然と素手で立ち向かう「遺伝子」を、中国人民は自らの中に産生したのかもしれない。
思い出すのは、第二次天安門事件の時、戦車の隊列の前に敢然と両手を拡げて、素手で立ちはだかった、痩せこけた無名の学生の姿である。私同様テレビで見た人も多かったかもしれない。
彼の中にもその『遺伝子』が伝わっていたのかもしれない。またこの学生を無惨に轢き殺せず、かわそうと試みた戦車の中の無名の兵士にも、この『遺伝子』は伝わっていたのかもしれない。
戦前・戦後を通じて、『5・4運動』や『5・30運動』のような、不屈の闘いを乗り越えてこなかった日本の市民は、今無意識に、忸怩たる『疼き』を内面に深く抱えているのかもしれない。
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太平洋洋戦争について良く指摘されることだが、日米間の工業生産力の差があれほど大きかったのにどうして日米開戦などしたのか、愚かで無謀な戦争だった、と言う話がある。それでは、開戦時東条内閣がこの工業力の差を知らなかったのか、といえば知らなかった筈がない。
昭和16年(1941年)日米開戦時の企画院総裁鈴木貞一(http://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木貞一 )の手元には、日米工業力の詳細な比較データが集まっていた。
五味川純平は『御前会議』(文藝春秋社 昭和53年―1978年―8月15日第一刷)の中で次のように書いている。
『 |
・・・しかし鈴木は当然次のようなデータを知っていたはずである。戦略重要物資の昭和15年度(開戦前年)の生産高の日米比較は
石油 |
1:513 |
銑鉄 |
1:12 |
鋼塊 |
1:9 |
銅 |
1:9 |
アルミニウム |
1:7 |
その他石炭・亜鉛・水銀・燐鉱石・鉛などの算術平均値をとると1対74.2(企画院調べ)
算術平均値は品種別重要度を示さないから、それが直ちに基礎戦力比を表すとはいえないが、それにしても1と74では問題にならないことは既に明らかなはずであった。日本はその比較を絶した差を精神力とか「作戦の妙」とかで補填し得ると考えていたのである・・・』(同書183P) |
開戦時の日本の指導者たちの無責任さ、愚かさは目を覆いたくなるような惨状だ。その意味でこの五味川純平の『御前会議』は、「戦争指導者迷妄の記録」とでも名付けたいような書物である。
しかしそれでも彼らは、アメリカがどんな相手かは知っていた。知っていて開戦に踏み切った。どんな屁理屈であれ、見通しらしきものはあった。
しかし中国戦線においては、彼らは正真正銘、自分たちがどんな人間を相手に戦っているのかを知らなかった。民族独立を希求して素手で大砲や戦車に立ち向かうことのできる不屈の人民を相手に戦っていることを全く知らなかった。
そしてこの戦争指導者の、21世紀における後継者たちは、田母神を含めて、いまだにこのことを理解していない・・・。
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