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帝国主義日本の中国侵略のテーマを続けることにする。
田母神は次のように書いている。
『 |
我が国は満州も朝鮮半島も台湾の日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国での中で植民地の内地化をしようとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝国は、成立当初の1932年1月には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は。わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。』 |
まず小さな誤りから訂正しておこう。「満州帝国」が成立したのは1932年ではない。1932年(昭和7年)に成立するのは満州国(大同元年)であり、この時は、政体は共和制だった。
(* |
もちろん後で詳しく見るようにこの「満州国」なる国は「国民」も確定できない擬制国家だった。) |
執政溥儀が皇帝になるのは1934年(昭和9年)3月であり、この年元号を大同から康徳に変更している。公文書では「満州国」と「満州帝国」を併用している。それではいつから正式に「満州帝国」を使用するようになったか、これははっきりしていない。だから歴史書でも擬制国家としては「満州国」という表現を用いており、「満州帝国」と表記したものは少ない。が、「満州帝国」としても間違いではないだろう。しかし「満州帝国」が1932年からスタートしたとするとこれは明白な間違いだろう。
帝国主義日本が「満州」「朝鮮」「台湾」を開発したのは事実だし、開発し収奪することが目的だったわけだから、ここの田母神の論旨は混乱している。田母神のいう「内地化」がどんな概念を持っているのかが不明だが、「皇民化」という意味なら、それは田母神の言うとおりだろう。
しかし、それは「侵略」の意図がなかった証拠ではなく、逆に侵略の意図があった証拠だ。すなわち「皇民化」によって、「満州」「朝鮮」「台湾」の人民を天皇制イデオロギーで統一してしまえば、「民族主義」に手を焼くこともなければ、「反帝国主義闘争」に対抗することもない。もっともてっとり早い侵略だ。それに安上がりでもある。
しかし人の感情や思想、民族意識、帰属意識を変えて、自分の都合のいいイデオロギーに変えてしまおうとするほど無謀な試みもない。だから経験のある欧米帝国主義はそのような無謀な試みは行わなかった。天皇イデオロギーがキリスト教イデオロギーほど思想的深みのあるものならば、また一定の成功を収めたかも知れないが、それが粗雑な政治イデオロギーであってみれば、ひっかかる人もまずなかった。
( |
今日は2009年1月21日であり、バラーク・フセイン・オバマ=Barack Hussein
Obama II政権の2日目である。つい3日前のジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権は、他の民族や市民社会の思想や帰属意識、宗教心まで、自分に都合のいいイデオロギーに変えてしまおうとした希な政権ではなかったか?もちろんブッシュ政権のイデオロギーとは「民主主義」だったが、その民主主義とは、経済的に強いもの=支配者のための「自由」だけが存在する民主主義だった。これは当然混乱を避けるために「強欲民主主義」と言う別な名前で呼んでおかねばならない。知らない人が聞いたら、ブッシュ政権の民主主義を「真性民主主義」と勘違いする。もちろん「強欲民主主義」は「民主主義」という言葉が使われていることを除けば、「民主主義」とは似ても似つかない代物であり、一皮むけば「帝国主義」、それも「金融寄生虫帝国主義」である。) |
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次に植民地について。
田母神論文はそこかしこに論旨の「不」首尾一貫があり、戸惑うことが多いのだが、ここの論旨の混乱ぶりは尋常ではない。
「 |
台湾や朝鮮半島、そして満州においても、その政治形態は異なるものの、基本的には、その地域の住民の意志によって、台湾・朝鮮は日本の統治下に入り、満州は旧北京政府の政治指導者たちが中心になって満州3000万の住民の自発的意志で、『五族共和』をスローガンとして建国されたのである。その意味では満州国の理念は『東洋のアメリカ合衆国』だったのある。台湾や朝鮮半島、満州を日本の植民地であったかのようにいう歴史学者も散見するが、それは、以上指摘したように誤りであって、台湾・朝鮮・満州はいわゆる植民地だったのではない。」 |
これは私の作文である。
この作文のようになるなら話もわかるが、田母神自身が、
「 |
我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。」 |
と「侵略」だったことを認めてしまっては、話にならない。それとも「侵略」でない「植民地統治」があったとでもいうのだろうか?
田母神の「論旨」の混乱ぶりは、一体なんだろうか?私には、誰かに教え込まれたことを、田母神が未消化に文章にしたためと思える・・・。
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次に「満州国の人口」という時、「満州国の国民人口」なのか「満州国の住民人口」なのか、また住民人口だとすれば、「満州国の住民」の定義は何なのか、という問題がある。
「満州国」には戸籍法がなかった。今考えると驚くべきことだが、「満州国」は擬制としても「国民」を定義していなかったのである。この問題はあとでも詳しく出てくることだが、ともかく「満州国」には住民はいたけれど「国民」は一人もいなかったのである。たとえば私の父親は1918年(大正7年)生まれで、1936年(昭和11年)に満州に渡り、1947年(昭和22年)日本に引き揚げて来、それまで一貫して鞍山製鉄所の発電所・電話局で電気技師をしていたが、一度も満州国民であったことはなかった。私の母親は満州に渡って、満州で父と結婚したが彼女も一度も満州国民であったことはなかった。私の兄は満州で生まれたが、満州国民であったことはなかった。3人とも日本の戸籍法に従ってずっと日本人だった。
従って上記Wikipediaの記述でいう人口とは、「国民人口」ではなく「住民人口」であったはずである。これは満州に流入していった漢族、朝鮮族についても同じことが云える。そうすると上記統計でいう「満州人」とはいったい何か?
学術的に満州人とは、満州族をさすだろう。すなわち「女真」の流れを汲み、満州語を話す人々のことだろう。
ところが上記Wikipediaの引用している統計では、
『 |
1934年(*昭和9年)の初めの満洲国の人口は3088万人、・・・と推定されていた。
人口の構成としては、
満洲人(漢族、満洲族、朝鮮族) |
30,190,000人 |
(97.8%) |
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日本人 |
590,760人 |
(1.9%) |
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ロシア人・モンゴル人等の他人種 |
98,431人 |
(0.3%) |
』 |
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だった、というのである。ここで満州人の定義の話になる。満州国人はありえない。満州国人は一人もいなかったのだから。それでは満州に住居し、満州を生活の本拠としている人またはその家族という定義をあたえるなら、日本人のうち、たとえば私の父親のように少なからぬ部分は、満州人に数えられなければならない。ところが間違いなくこの統計では、日本人は日本国籍をもつもの、という定義が与えられたはずである。
それでは上記統計で漢族、とはどんな人を指すのであろうか。それは間違いなく、出身地が中国で中国語を話し、漢族と分類されている人またはその家族あるいはその子孫ということだろう。しかしこれを満州に住居しているから満州人と分類するなら、同じく同じ理由をもって大半の「日本人」も「満州人」に分類されなければならない。
こう考えてみると、この統計でいう「満州人」とはなんらの科学的根拠のない、また法的根拠もない分類だとわかる。つまり一定の政治的意図をもった恣意的な分類だと言うことがわかる。
それでは、どんな政治的意図をもっていたか。それはもう明らかだろう。歴史的にも政治的にも実態をもたない「満州国」にあたかも実態があったように見せかける意図だろう。
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伊藤の後を受けて発言する成沢は、満洲労工協会・北京出張所長・成沢直亮である。満州労工協会は満州における労働者かき集め機関で、成沢はその供給地に送り込まれた現地指揮官といった格好だ。
『 |
成沢 |
北支自体では殖産工業の勃興を真先にする石炭、鉄鉱、鉄道、港湾、道路の修理、治水、運河、それから紡績とか製粉という様な方面に将来相当苦力を要する事は事実ですが、何も満洲国のように急激に勃興は出来ないのじゃないかと思います。
為替管理とか資材入手の困難から考えてですが、それから労働資源の方では北支の約三割が青年層であるとして、二千万河南を入れると、三千万位でしょう、而もこの農村の農民は大部分小貧農程度で約七割乃至八割を占めており、ここ数年来の天災水災、旱害、戦争に依り疲弊しており、現地で自分の土地を耕作しても暮して行けぬようになり、最近では益々深刻化しているように思います、従って労働資源の枯渇は心配しなくていいのではないですか。』 |
小松、伊藤の悲観論に対して成沢は楽観論である。その根拠は、華北地方は「労働力の最大供給地である。」という一般論と、戦争や災害で、農村は疲弊している、だから落ち着いて農業のできる状況ではなく、どうしても出稼ぎにでなければならない、という論拠だ。
成沢の一般論はその通りだが、それも日本軍が支配していてはじめて成り立つ一般論であり、農村地帯が次々に中国共産党支配地域に入っていけば、その一般論は成り立たない。
それより見逃せないのは、この成沢の帝国主義者としての発想だ。なるほど華北には青年層が二千万、三千万も存在し、労働力の源泉なのかも知れない。しかし、その二千万、三千万の青年一人一人に、人生があり、可能性があり、妻や子や、恋人があり、両親兄弟があり、友人があり、夢があり、希望があったのである。そうした青年の夢や希望をできるだけ叶えてやるような仕組みを作るのが政治の役割ではないのか。
しかし成沢には、こうした青年は、満州に送り込む「労働力」としか見えていない。こうして送り込まれた「満州国」とは、華北の青年たちにとっては「地獄」「監獄」以外のなにものでもなかったろう。
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この成沢の労働者観は、2009年現在の経団連、御手洗某の労働者観と一直線につながっている。キヤノンU.S.A.にいた時の彼は決してこんな人間ではなかった・・・。)
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確かに「満州国の住民人口」を確定していく作業はむつかしい。その難しさの根源は、「満州国」が国家としての実態をもたない擬制国家であり、「国民」が確定できない、と言う点にあったわけだ。
にもかかわらず田母神は「満州帝国の人口は1932年には3000万人、45年には5000万人」と断定しているのである。
この数字を田母神は一体どこからもってきたのか?
田母神自身が独自に研究した痕跡はまったくないから、田母神にこの数字を教え込んだ、恐らくは被害妄想史観の学者グループが背後に存在する、ということになる。
そうすると問題は、この学者グループは一体この数字をどこからもってきたのか、という問題に置き換わる。
一つの推測だが。当時軍国主義日本政府は満州国の将来についていろいろな計画をもっていた、その学者グループはそうした資料を見ながら、あたかも実際当時その計画通りであったかのように見せかけているのではないか、という推測が十分成り立つ。
これは全く私の当てずっぽうなのではなく、傍証がある。
1936年(昭和11年)時の広田弘毅内閣は「満州開拓移民推進計画」を閣議決定し、1936年から1956年の20年間の間に500万人の日本人の移住を計画、推進した。実際送り込むことができたのは30万人足らずであった。1944年(昭和19年)になると、肝心の海上制海権を失っており、船で中国に渡ること自体が困難になるのである。
この計画では「500万人の日本人を送り込めば、満州全体人口の約10%を日本人が占めることになる。」という目論見がつけられている。すなわち満州の将来人口は5000万人と計画されていたのである。
この学者グループはこうした計画人口を、「事実」のように田母神に吹き込んだと推測されるのである。しかも田母神はその論文の中で、この数字を、
『 |
満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。』 |
と「満州国」が、あたかも日本の帝国主義が、満州を近代的な国家に変えたかのような印象を与える文章の根拠として使っているのである。満州の人口が満州国成立後、爆発的に増えたのかどうかはこれまで数字としては検討してきた。それはウソであった。それも臆面もない大ウソであった。
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今ここでの問題点は、こうした学者グループが、単純幼稚な田母神を使って、「大東亜共栄圏」の虚構を、今21世紀の日本の中で、あたかもそれが歴史的事実であったかのように、社会の中に刷り込もうとしていることだ。狙いがどこにあるかはこれから、追々明らかになるであろう。
今ここで指摘しておきたいことは、この学者グループのターゲットは、田母神レベルの単純幼稚な、21世紀の日本人層にあるということだ。
現在の日本人は、全体として決して愚かとは云えない。市民社会の進展とともに、かなり賢くなってきている。しかしこと歴史問題に関して言えば、その大層は無知だ。この学者グループは、その無知につけ込んで、田母神を使って誤った歴史観(被害妄想史観)を21世紀の日本人に刷り込もうとしている。
田母神は恐らく1回こっきりの使い捨てだろう。私が田母神を道化者と呼ぶゆえんである。
この稿の冒頭のところで、日本語Wikipediaの「満州国の人口」を取り上げその変梃さを検討したことを思い出して欲しい。あの日本語Wikipedeaの執筆陣の書き方と資料引用の手法、田母神の主張とその手法は、よく似ているではないか? 本当ではないことを、本当らしく見せかける手口である。
(* |
もっとも田母神の場合は本当らしく見せかけることすらできないが。) |
この「満州国の人口」を書いた人間は、同じ学者グループの誰かであろうことは恐らく推測以上のものがあろう。
彼らは日本人の頭に刷り込もうとしている。あの戦争は「正当だった。」「正しかった」と。
田母神の「満州帝国の人口は5000万人だった。」という記述をめぐって、ここまでやってきた。そしてその背景に、田母神を操る学者グループが恐らく存在するだろうことを推測した。
しかし問題はそれでは終わらない。
本当の問題は、日中戦争勃発後、華北から流入した中国人労働者の数字にあるのではなく、その流入の中身にあるのだ。その中身こそ、帝国主義日本の満州支配の実態を暴き立てるものなのである。
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要するに華北の中国人は、満州に出稼ぎに行くのである。「満州国」だの、「中華民国臨時政府」(華北に一時成立していた帝国主義日本の傀儡政権)だのと言ってみたところで、所詮擬制である。華北・満州の経済は一体化していたのだ。
華北労働者にしてみれば、出稼ぎにいった先でとっつかまって「徴兵」されてはかなわない、だから華北の中国人が、満州に出稼ぎに行くことをためらうようになったのは当然である。
「国内資金調整強化に伴う送金制限」というのは、満州日日新聞の座談会でも最大の問題になっていたことでもわかるように、「出稼ぎ中国人」が故郷へ送金し、満州国内での投資資金が枯渇してくる問題である。そればかりではない。華北に資金がダブつき、生産の裏付けをもたない「軍票」同然の紙幣は、華北にインフレをもたらす。「満州国」はこれは本来「貯蓄」して欲しかった。その貯蓄の資金を開発資金に回そうという目論見だったのである。このため送金制限を行ったのである。
しかし出稼ぎ中国人が苛酷な労働を覚悟で満州に渡るのは、自分のためではない。故郷に残してきた家族、時には愛する妻や子のために働くのである。働いて稼いで故郷に送金するためといっても過言ではない。ここを制限してしまっては、彼らが満州で働く動機そのものを奪ってしまうに等しい。
この調査報告が行われる翌年42年(昭和17年)には国勢調査も行われる予定だったのだろう。この国勢調査で「満州国民」とされてしまっては、今度は故郷に帰ることもできなくなる。このことも満州にいくことをためらわせる要素になった。どころか満州から逃げ出す要素にもなりうる。だから、満州から華北行きの列車を止めてしまうのである。列車を止められては、後は徒歩で故郷に帰るしかない・・・。
にもかかわらずこの年(41年=昭和16年、太平洋戦争の勃発した年)、満州から逃げ出した中国人労働者は約70万人にも上るのである。 |
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こうして「満州国」が次々と法律を出して、帝国主義日本のための「後方兵站基地化」を行おうとしても、その肝心の労働力資源は細り、また労働力の質も「悪化」の一途をたどっていく。それに伴い「満州国」は「地獄」化を強めていく。
それにしても「満州国」では、やたらと法律がでる。そのたびごとに組織が変わり、人々の生活も変わっていく。
岸信介は、満州国の労働事情が次第に深刻化していく状況を尻目に見ながら、1939年(昭和14年)10月、日本へ引き揚げ、第一次近衛内閣の商工次官に就任する。満州にやってきたのが1936年10月だったから、ちょうど3年間の満州生活だった。
満州時代を振り返って岸は次のように述べている。
『 |
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――岸さんが第二次近衛内閣(*1940年=昭和15年7月から1941年=昭和16年7月)の商工次官(*岸信介にとっては二度目の商工次官である。)として、時の商工次官小林一三さん(1873年―1957年。阪急社長。近衛内閣の商工大臣)と大喧嘩なさいましたね。(自由経済論の小林氏が岸氏の国防国家・統制経済論を「アカの思想」と批判し、両者は公然と対立した)あの時は(*あなたは)すでに半分政治家であったと思うんですが。 |
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岸 |
確かに小林一三さんと喧嘩したときは、役人(*この場合岸は官僚という言葉のかわりに役人という言葉を使っている。)のあり方を逸脱していたと思うんだ、私自身がね。
例えば、右すれば法律に違反し、左すれば法律に適うが結果がうまくいかんという場合、純粋な官僚である以上は左をとって几帳面(きちょうめん)にやっていかなければならんのです。
満州から帰ってきたときには、どうもそれを逸脱して右の方に行きかねない状態であったと思うんです。
満州では、こういう場合には結果のいいほうを選んでいたからね。よい結果を得るためには法律を改正しようではないか。つまりこれは勝手にできたわけだ。事実上国会なんていうのはないからね。
しかし法律改正をするまでは、悪い結果の道をとるかといえばそれはとらない。法律が悪ければ法律を変えようではないか。
(*岸はここで、「いい」「悪い」という価値基準をすでに含んだ言葉を使っている。この場合の価値基準は「満州国」であり、従って「満州国」にとって「いい」「悪い」という文脈になる。)
こういうやり方を満州ではとってきたんです。』
(『岸信介証言録』 原彬久著 毎日新聞社 2003年4月20日 P35−P36 なおインタビューは原彬久である。) |
つまり、満州にやってきた中国人労働者にとっては、岸が「結果がいいと思われる法律」を出せば出すほど、働く環境が悪化し、追い詰められていくことになったわけだ。
それも当たり前である。傀儡国家「満州国」の利益と「満州国」で働く中国人民との利益は全く重なり合うところはなく、根本から対立していたのだから。 |
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王紅艶の『「満州国」における特殊工人に関する一考察(下)』によれば、1942年ごろまでは、特殊工人は一般工人と同じ宿舎だったが、それ以降は、鉄条網に監視員付きの宿舎に変わっていったという。文字通り奴隷的な状況におかれていたのである。
もっともよく考えてみれば、鉄条網に囲まれていなくても厳しい「逃亡防止体制」の中に中国人労働者自体がいたわけだ。それでも鉄条網があったかなかったかの差は大きい。
特殊工人の就労先については、<参考資料>満州における特殊工人の人数を参照して欲しいが、1942年4月当時の資料によると軍事部門就労者は、現在の黒竜江省などソ連との国境地帯に送られていた実態がよくわかる。一方産業部門(当時の日本軍の用語では“地方部門”)は、満州の炭坑・鉄鉱に幅広く送られていたことがわかる。
就労先の事業所は、東辺道開発、満州炭坑など鮎川義介の満州重工業の子会社、満鉄の子会社が圧倒的に多い。
注目すべきなのは、42年(昭和17年)4月当時、この資料で判明する限り、「満州国」で働かされていた特殊工人は、軍事部門・産業部門を会わせて3万3342名だった。それが1年2ヶ月後の43年6月現在には、5万8708名だったことである。(「満州国」警務総局が作成した「鋪導工人使用業者別実態調査表」および「保護工人使用業者別実態調査表」による。)
全く同じ調査ではないが、わずか14ヶ月で「満州国」で働かせる特殊工人が2万5366名と倍近くに増えている。労働者不足の深刻化に伴ってこうした特殊工人に大きく依存し始めた実態が見て取れる。 |
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単一事業所で、「特殊工人」をもっとも多く使っていたのは、満鉄傘下の撫順炭坑ではあるまいか?1940年(昭和15年)から1945年8月まで撫順炭坑で働かされていた特殊工人は4万人に上るという。(撫順警察局長・柏葉勇一と撫順憲兵分遣隊特高課・宝田振策の供述による。「柏葉勇一的口供材料」および「宝田振策的反省材料」)
また「特殊工人」は軍事的目的には使役しなかったと言われることもあるが、実際にはそうではなかった。王紅艶の研究と聞き取り調査によると、
『 |
・・・軍関係の作業では主に道路工事、木の伐採などに使役されたことが多数の証言から確認された。』 |
しかし軍事機密性の高い軍事工事に、「特殊工人」や一般工人をつかわなかったわけはない。
王は次のように書いている。
『 |
黒竜江省東南部に位置する五項山の秘密軍事工程には、華北、遼寧、吉林などから捕まえられた抗日武装人員および一般市民が夜間極秘裏に運ばれ、労役に従事させられたが、工程完成後、全員が秘密裏に殺害され・・・』 |
と、郭素美他が編集をした『日軍暴行録』(黒竜江文巻:中国大百科全書出版社 1995年)を引用しながら書いている。
この「五項山の秘密軍事工程」ではどれくらいの中国人労働者が工程完成後、秘密保持のため殺されたかというと、1942年から1945年までの間に、2万人余りだったという。
王は次のようにも書いている。
『 |
ソ連と戦争するために構築されたこのような秘密軍事工程の数は、(*五項山以外にも)少なくない。そして、そこで殺された特殊工人および一般労工が多数あることも疑う余地がない。』 |
一般労工や「特殊工人」など、多くの中国人労働者とって「満州国」は、文字通り「墓場」だったのである・・・。
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<参考資料 中国人労働者入離満数の年度別統計>を見ると、1942年度入満中国人労働者数は106万8,625名を数えている。この入満者は以上のようにして達成されたのである。しかし、厳重な「逃亡防止策」にもかかわらず、同じ年66万1,235名が満州から逃げ出している。この中には苛酷な労働のための死亡、軍事機密保持のための殺害も含まれている。
田母神はその論文の中で次のように書いた。
『 |
満州帝国は、成立当初の1932年1月には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は。わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。 』
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実際は、中国人労働者にとって「満州は地獄」であり、また少なからぬ中国人にとっては文字通りの「墓場」だった。田母神の言う「工業国家満州」は中国人の血と汗で築かれたものであった。
『花岡鉱泥の底から』(中国人強制連行を考える会 第3集 1993年)には、「私は強制連行の実行者でした」と題する小島隆男の文章が収められているという。
小島は、その中で次のように証言しているという。
『 |
1942年(*昭和17年)、済南の第12軍が日本に労働力として中国人を送るために、どうやったら中国の人たちをたくさん、多く捕らえることができるかということで、まず2ヶ月ぐらい方法を研究し、訓練いたしました。そのときに私たちは、その訓練に参加しております。
一番最初、決まったのは、半径16キロ、直径32キロの円を描いて、日本軍が大きな包囲網をつくり、それをだんだん縮めて行き、その中に中国の人を追い込み、機関銃を打ち、大砲を打って中心へ追い込んで、それで、畑や部落におる人たちを捕まえて、その中から労働に耐え得る元気な人たちだけを選んで、日本へ連れて行こうと、こういう方法を決めたのです。・・・・この作戦で、約8000名の中国の方を捕まえた。』 |
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私は、この小島をなんと勇気のある人間か、と思わざるを得ない。私が小島の立場であれば、戦後沈黙を守るであろう。怖いからだ。自分が歴史的事実に直面することが。自分の恥部を自分で暴くことが。そして秘密を語る自分自身への、世間からの非難や中傷が。
その怖さを小島も味あわなかったはずがない。それでも小島はこの恐怖を乗り越えて証言した。それはこのまま黙っていてはいけない、と思ったからに違いない。それは中国人への謝罪の気持ちだったに違いない。
中国人との和解の第一歩が謝罪であり、謝罪は事実を認めるところから出発するとすれば、小島の勇気は、和解への第一歩を踏み出したことと同じだ。
多くの中国人は小島を賞賛しこそすれ、決して非難しないだろう。それは小島の「真の和解への動機」を敏感に感じ取るからだ。小島の勇気を認めるからだ。
仮にわれわれ広島の人間が、原爆を投下したアメリカの市民から、「原爆投下の真の動機」を告げられ、心からの謝罪を受けたとしたらどうであろうか?われわれは彼らアメリカ市民の率直さと勇気に打たれないだろうか?
われわれがアメリカの市民を非難するのは、今なおかつ「原爆投下は戦争終結のためだった」と虚偽の主張をし、心からの謝罪をしないためであって、「原爆投下そのもののため」ではない。彼らが「歴史的和解」の姿勢をみせていないからだ。
田母神やその背後に隠れている「被害妄想史観」の学者グループも、歴史の真実から頑なに目を背け、あの戦争を「正当化」し、「歴史的和解」を拒んでいる。
彼らはこの21世紀の日本をどこに連れて行きたいのであろうか・・・。
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(以下次回) |