哲野イサクの地方見聞録 
(2012.3.14)

   2011年3月11日、「3・11」からちょうど1年後のその日、広島市内の原爆ドーム前で広島の市民グループによる『3.11ヒロシマ発 内部被曝はいやだ!原発はハイロ!』集会が開かれた。この市民集会の実行委員会代表だったのが森本道人(28歳)である。

 集会の冒頭、基調報告をした森本は、市民運動にも無縁で、新聞やテレビ、政府や世間一般で云われていることを無批判に信じていた自分を率直に反省し、この世界はいったいなんだったのか、と自問自答した上、世の中を変えなければならない、と市民運動に身を投じていったいきさつを短く語った。

 そのきっかけは「3.11」だった。

 私が森本と親しくなっていったのはいったいいつ頃だったのか、記憶が定かではない。63歳の私は、この世界に対して森本ほど無批判だったわけではないが、森本同様市民運動に無縁であり、「3.11」をきっかけに市民運動に参加したいきさつも共鳴し合ったのかも知れない。思いが同じだったことも間違いなく結びつきのきっかけだったろう。この場合「3.11」とは、東北大震災のことではない。福島第一原発事故のことだ。気がつくと顔を合わせれば「お疲れさまです」と言い合うほど親しくなっていった。森本は猛勉強し、「3.11」をきっかけに市民運動の闘士に急速に成長した。わずか半年あまりのことである。そして2012年の「3.11」には皆に推されて市民集会実行委員会の代表となった。

 私は想像するが、日本全国に今、無数の森本がいるのではないか?あるいは無数の森本予備軍がいるのではないか?そのことを思うと私の気持ちは明るくなる。日本の未来に希望の灯火を見いだす。ある時私は森本に『3.11をきっかけに自分がどう激変したのか、書いてみないか』と言った。その要望に応えて彼が寄せてくれたのが以下紹介する一文である。読んでみて欲しい。森本道人の自分史であると同時に、「3.11」を契機に世界観を変えていく一人の「日本市民史」でもある。青字の小見出しは私が勝手につけたものである。 

 
    『盲いても倒れず』・・・ラルフ・ネルーダ  


 千葉コスモ石油施設が爆発炎上

 2011年3月11日、東日本大震災が発生した時、私は千葉県の市原工場出張の真っ最中だった。

 地震発生時、工場内はプラントの緊急停止によるものと思われるサイレンが鳴り響き、設備の配管が大きく揺れ、配管の保温材がボロボロと落下していた。

 高さ60m以上の煙突が大きくゆっくり横揺れし、倒れてくるのではないかと恐怖を感じた。その日が、出張の最終日だったこともあり、すぐに帰宅するように指示がでた。工場最寄りの市原市五井駅まで車で送ってもらった。しかし、電車や高速バス(アクアライン)など全ての交通機関が停止していた。他の地方からの出張者は、交通機関の復旧を待つと言い、私は今日は帰れないと思い、荷物を預けていた市原マリンホテルに延長予約をしに歩いて向かった。

  その途中、真黒い煙をあげている工場が見え、あれはコスモ石油だろうと駅周辺の住民の人たちが話をしていた。市原マリンホテルに到着し、自分と他の出張者分の仮予約を済ませた。そして、ロビーでテレビを見た。その時、はじめて今回の震災の大きさを知った。

 これまで私の人生の中では見たことのない津波の映像を見て、これが現実なのかと言葉を失っていた。阪神大震災をこえる地震になるだろうと感じた。あたりが少し暗くなりかけてきたころ、他の出張者も自宅のある土地へ帰ることを諦め、ホテルにやってきた。
 ロビーで宿泊手続きなどを終え、ロビーのテレビを見ていた時だった。突然の爆発音、ロビーのガラス窓がガタガタと揺れ、割れると思うくらいの衝撃波が起った。外へ飛び出すと、真っ赤な炎を上げて燃えているコスモ石油の工場が見えた。

 少し暗くなりかかっていた空は、明るく照らされていた。
  
2011.3.11 コスモ石油の火災
<yahoo 311デジタルアーカイブより引用転載>
 その後、「コスモ石油周辺の住民は避難」とテレビにテロップが流れた。受付の人にここは大丈夫かと聞くと、大丈夫ということであった。夕食を買いに行く時には、危険物が燃えているのかもしれないと思って走って往復をした。その夜は、何度も体に感じる余震があり、緊急地震速報はひっきりなしになっていた。近くではコスモ石油の工場が激しく燃え続けていて、時々爆発音が聞こえた。仮にもう一度度大きな地震が起こり、津波がコスモ石油の工場を襲ったらもう死んでしまうと考え、朝までほとんど寝ることはできなかった。


 日本の技術力、原発安全神話を信じていた

 翌日3月12日、広島へ帰ろうとするが交通機関はまだ十分には復旧していなかった。JR千葉駅まで向かおうとバスに乗るが、コスモ石油の事故影響で交通規制などもあり1Km進むのに約1時間かかるほど道路は渋滞していた。バスの中も満員状態だった。

 途中でバスを降り、電車の復旧している駅まで歩いて向かうことに決めた。地震の被害状況を知ろうと携帯でYahooニュースを見ていると、原発の燃料棒が溶けた恐れがあるという情報を知った。1986年のチェルノブイリ原発事故が頭をよぎり、最悪な場合どうなるのだろうかとウィキペディアで調べながら歩いた。チェルノブイリ事故では、300km圏内で健康被害があった事を知り、今自分のいる関東地方も危ないと恐怖を感じた。

 その後、電車の運転が再開した駅まで行き、電車を乗り継いで東京駅へ向かった。この日、当初の予定なら会う約束をしていた友人とそれぞれの恐怖体験を電話で話した後に、原発の燃料棒が溶けた恐れがあって、チェルノブイリ事故に状況が似ているから、気をつけた方が良い、爆発するかもしれないと伝えた。友達はテレビを見てみると言った。

 しかし、その時私は、まぁ爆発はしないだろうと心の底では思っていた。日本の技術力、原発の安全神話を信じて生きてきたからだろう。

 余震がまだ続いている中、また大きな地震が起きるのではないかという不安を持ちながら、広島に戻るため東京駅で新幹線に乗った。その車中で山口県の消防士の人と話をした。今回の地震は、阪神大震災と違って津波で油などが流されてきており、最も探索に役立つ犬の鼻も利かず、土砂に埋もれた人を見つけることが極めて難しいと話していた。新幹線の中でも、震災の状況や原発の行方を携帯でニュースを確認していたところ、福島第一原発が爆発したという最悪のニュースを知った。

 頭が真っ白になり1人冷静さを失っていた。地震、津波、原発爆発。今、自分は日本の大きな歴史の最中にいることを感じた。被災地では多くの人達が救助を求めている状況で、自分は被災地へ向うでもなく広島に逃げているような感覚にすらなった。

 広島へ帰って来てからも、「3,11」から約1週間は、震災や原発のことが頭から離れずに仕事が手につかなかった。その週、妻に自分には何が出来るかと相談をしたところ、自分達が出来ることは被災者の人達への募金しかないと話し、コンビニへ1万円を持って行った。


 中電上関原発建設阻止を心に決めた日

 原発についてのニュースを見るうちに、中国電力が建設中の山口県上関の原発建設予定地の状況や原発そのものについて疑問を持ち始めるようになっていた。

 3月21日には、原発や核による被害について知りたいと思い、広島の原爆資料館を妻と訪れてみた。原発については知ることはできなかったが、改めて核兵器の恐ろしさや放射線の被害について知ることが出来た。

 今になって考えて見ると、広島の原爆資料館では一度に大量の線量浴びた、外部急性放射線ヒバクシャの事や原爆については知ることはできても、戦後も長く低線量放射線被害に苦しめられたヒバクシャ、今尚も苦しんでいるヒバクシャ、体内被曝についてはあまり知ることはできない資料館だと思う。

 そして、私自身山口県出身者でありながら、3月時点で、上関原発の建設が決まっているのか、始まっているのかすら分かっていない有様だった。インターネットで調べたところ、まだ建設されていないということにほっとした。

 4月3日原発推進派、反対派のそれぞれの意見を聞いてみたいと思い上関町を訪れた。自分の目で、上関の状況を確認して見たかった。この頃には、日本経済が一旦ストップしても良いから日本全国全ての原発の稼働を止めたいという考えになっていたのである。

 上関町に到着して先ずは中国電力原子力発電所PR館の「みらい館」の職員の方に話を聞いた。何故、上関原発が必要なのかという問いには、「今後の中国地方の経済発展を考えての建設です。君は経済が発展しないと思うかい」ということを言われた。自然エネルギーへ転換する動きはないのかという問いには、発電量が少なすぎる事と、莫大な土地が必要ということを言われた。

 今の福島原発事故のような事態が起きた時は大変なことですよねという問いには、同意してくれていた。

 そこで見た子供たちの書いたポスターが印象に残っている。「未来を作る原子力」、「地球に優しい原子力」といった類のポスターだ。

 この状況で、このようなポスターが貼られている異常さと、このポスターで表彰され、喜こんだ子供のことが思い浮かび、悲しい気持ちになった。

 そして、次に上関郷土館を訪ね、そこの方と話をした。原発建設には反対の意見の方だった。その方はお金をもらっていないけど、漁師さんは1000万円ぐらいのお金をもらっていること、親族でも意見が違ったりするから無銀の圧力でなかなか反対の声をあげにくいことも言っていた。

 安全であり、環境に良いと言われている発電所を作るのに、電力会社は何故お金を配らないといけないのか?何故、そんな大金を配っているのかという事に疑問を感じた。

 また、そんなにお金を配らなければならないほど、原発は危ないのか?という思いもした。もし、事故が起こった時には上関町だけの問題では無く、私の故郷の岩国、今住んでいる広島も放射能に汚染されてしまい今の福島のような事態になるということを話した。

 その方は、同意してくれた。上関の問題に部外者が声を出すなという人もいるだろうが、決して他人事ではなく上関原発建設を絶対に許さない、私自身心に決めた日でもあった。


 講演を聞きに岡山へ

 震災後、経済がいったんストップしても良いから原発を無くしたいと思うようになった人達が他にもいるだろうと思い、同じ考えの人達に会いたくて、そんな考えの人を増やしたくて、ツイッターを始めた。

 その中で、計画停電は必要なく、電気は足りている。そして、電力会社の送電線を自由化にして、自然エネルギーへ転換をしようと言っている人がいた。田中優さんだった。

 最初は電気が足りているなんて嘘だと思ったが、話や資料を見ると、どうやらそれは本当のこと言っていると思い、講演会を聞きに行きたくてたまらなくなった。会社を一日休み、4月15日に講演会のある岡山に向かった。

 この話を多くの人が聞けば、必ず原発をなくすことが出来ると希望に満ち溢れていた。神戸にいる幼馴染にも、絶対に人生観が変わる良い話だから来てくれと誘ったら、兄弟で来てくれた。また、岡山駅で見知らぬ人に、とても良い講演会があり、原発無くても電気が足りている事が分かります、と一人で道行く知らない人達にも話しかけていた。

 今冷静になって思えば。私は相当に怪しい奴だと思われたに違いない。よくそんな勇気があったものだとも思う。

 この講演会を聞き、「原発は必要なく、電気は足りている」ことを確信した。そして、自然エネルギーへも希望を持つことができた。また、放射線の知識についても詳しく知らない私には非常に分かりやすく、内部被爆と外部被爆について、簡単ではあったが知ることが出来た。どうしても田中優さんと話がしたいと、主催した市民団体のNGOチーム「はるはる」の方に打ち上げに呼んでもらった。私にとって、初めての市民団体との出会いで、一般市民が公演会を主催していることにびっくりした。とても凄い人達にみえた。とても真似できないですと話をし、広島でもこんな市民団体を探してみると私は言った。

 ある人は、市民団体を作れば良いじゃないかと私に言っていた。無理ですよ。と笑って答えていた。とてもじゃないが、そんなことは無理だと私は私自身に決めつけていた。この時は、自分が市民団体を作ったり、入ったりすることを全く想像もできなかった。


 鎌仲ひとみの映画上映会

 その2日後の4月17日に、鎌仲ひとみ監督のとても見たいと思っていた映画『ミツバチの羽音と地球の回転』を同じ岡山でやることを知り、そのまま岡山へ残り映画を観に行った。

 前日の4月17日に妻も広島から来ていた。上映会は大盛況で午前の部は入場すら出来なかった。昼部も予約が一杯だった。私は「広島から来ており、1日待っているのでなんとかお願いします」と頼んで、夜の部の席をなんとか抑えてもらい、やっと観ることができた。


 祝島を訪ねてお礼をいいたい

 この映画を観て、自分は山口県で20年間育ちながら、上関原発建設予定地の祝島の人達は私が生まれる以前から上関原発に反対していたことを初めて知った。電力会社を選べる国があることも知らなかった。上関原発は建設されるのが当たり前だと思っていた。今まで反対してこなかったことを謝らなくてはいけない、またこれまで反対し続けてきた祝島の人達にお礼を言わなければならないと思った。自分の故郷の山口県だけではなく、今住んでいる広島県や中国地方の人達を祝島の人達が守ってくれたのだという気持ちになった。

 祝島を訪ねてお礼を言いたいと思った。

 その後、原発は今すぐゼロに出来るし、全く必要ないと、電話やメールを多くの友達にした。会社でもそんな話をしていた。友達、仕事、職場、彼らからのこれまでの信頼をなくす可能性もあることは覚悟の上、とても感情的になって話し、きちんとした説明はできていなかったであろう。その事を、今になって悔やむ。

 この頃は大手マスメディアや政府、日本社会へ対しての怒りが抑えきれなくなり、余震も続くなかで原発を運転していることがとても恐ろく、今すぐ止めてくれと思っていた。4月24日に、広島で開かれた「原発なしで暮らしたい100万人アクションinヒロシマ」という集会と反原発デモ(パレード)へ一人で出かけた。


原発なしで暮らしたい100万人アクションinヒロシマ 集会の様子

デモパレードに出る直前(中央左が森本さん)

 原発は全く必要ないという同じ思いの人に会いたかった。肥田舜太郎さんの話を聞き、これまで知らなかった放射線の恐ろしさ、福島の状況、日本にいるアメリカ人はアメリカ政府から80km以圏への避難勧告が出ていたことなど数多くの知らなかったことを知った。

 また、デモで出会ったWebフォトジャーナリストの方からは、市原のコスモ石油火災では隣接するチッソ石油の劣化ウラン保管施設も延焼の恐れがあったということを聞いた。その後、調べてみると原子力対策本部の報告書(12日15P文部科学省の項)にも「延焼の恐れあり」とはっきりと書いてあった。本当にこの国の大手マスメディアや政府が恐ろしくなり、何が本当で何が嘘なのか訳が分からなくなってしまっていた。

 それまでデモ自体にはこれまで偏見をもって見ていたが、この日1000人以上の参加者は、いたって普通の一般市民の人ばかりだった。日常生活の中、本音で話す機会を失い、いてもたってもいられなくなっていた私は、デモでは声が枯れるほど叫んだ。久しぶりに多くの人と本音で話すことができた。今後のデモなどの手伝いがしたいと話し、若い人などを何人か紹介してもらった。

 ゴールデンウィーク、帰郷してきていた友達と飲んだ。その時に、「森本はおかしくなってしまった」と友達に心配されていることを知った。これまでの経緯を話すと、その友達は納得してくれた。


 祝島をはじめて訪れる

 翌日、山口県出身の友達4人ではじめて祝島に行った。

 とても綺麗な島で、島の人たちは助け合って半ば自給自足で生きていることを感じさせられた。また、地元の平さんと言う人の棚田は、古代遺跡のような棚田で、みんな本当に感動していた。しかし、海を見ると、そこからは四国電力の伊方原発や風力発電機が見えた。上関原発の建設は絶対に阻止しないとならないし、伊方原発が事故を起こした時は同じくこの島も、中国地方も終わりだと思った。

 その日の夕方に、上関建設予定地の田ノ浦海岸を訪れた。その海岸へ行く途中、多くの立ち入り禁止の看板が立っていた。内容は、工事関係者以外の立ち入り禁止、埋立工事を妨害した者には違反金の支払いを命ずるなどといったものだった。工事は中断されていたが、想像していたよりもこれまでの工事は進められており、田ノ浦海岸から見える山は削られていた。

 5月29日、鎌仲ひとみ監督の映画『ミツバチの羽音と地球の回転』の広島での自主上映があり、その中でのトークを頼まれた。私は人前で話をするのは苦手で、トークできるような人間じゃないと思っっていたが、「3.11」からの自分の行動や祝島への思いなどを話した。この日、2度目の『ミツバチの羽音と地球の回転』を観た。

 祝島や上関を自分の目で見ていたこと、これまでの原発の仕組みについてや、恐ろしさを知った上で観たので、とても感慨深いものがあり涙が流れた。

 5月〜6月頃には、私が4月24日に生まれて初めてデモへ参加した主催グループの「原発・核兵器なしで暮らしたい人々」のメンバーに加えてもらっていた。デモに1人でも多くの人に参加してもらい、原発は必要ないことを知ってもらおうと思い、ビラ配りや準備会に積極的に参加していた。また、デモで出会ったWebフォトジャーナリストの網野さんと時々連絡を取っていた。その関係で、哲野イサクさんの事務所を訪れて、哲野イサクさんと話をした。日本の放射線被曝基準値がとても緩い事は知っていたが、日本の基準や世界基準をとなっているICRP(国際放射線防護委員会)の基準自体がおかしいということを、哲野イサクさんは言っていた。また、そのICRPをおかしいというECRR(欧州放射線リスク委員会)という委員会があって、今はECRRについて猛勉強中だと言っていた。

 言っている事が難し過ぎて、自分が足を踏み入れる分野ではないと思った。ただこの日、日本の根本の基準値となっているのがICRPであり、そのICRPの考え方は間違っているということは、ICRPの基本原則を読んだだけではっきりと理解できた。

 3月11日以降に自分が調べてきた基準や知識が壊れて行く感覚と、振り出しに戻ったような感覚にさせられた。とにかく、この日は私の頭はとても混乱させられた。


 低い広島の意識

 6月11日、私も準備会に加わった「脱原発100万人アクションin広島」のデモへ参加した。初めて参加した4月24日ほどの参加者はいなかった。広島は、最初の被爆地で、放射線の知識もあり核に対しても敏感に反応し、声をあげていると思っていたがそんなに甘くはなかった。

 東京などのデモと比較すると人数も少なく、今回の事故に対して広島市民の意識が低いことを実感した。この頃には、無謀かもしれないが世界中の核を全てなくしたいと強く思うようになっていた。そのためには、先ずは日本の原発をなくし、核をなくしたいと考えるようになった。

 間違った放射線防護基準を作成しているICRPを完全否定することで核をなくせる可能性があり、これからの大きな知的武器になると思い始めていた。そして、ECRRを勉強し、ICRP基準が間違っていることを明らかにしていき、多くの人に分かってもらいたいと思った。

 そのようなきっかけで、ECRRを学ぶ事と、ECRR市民研究会-広島を発足する1人となった。

 その後も幾つかの講演会(小出裕章さん、田中優さん)などに参加した。テレビからは知ることのできない多くの知識を得ることができた。8月5日、6日は、広島にいて全国の原発に反対する人達の情報を知る事ができ、交流をする事ができた。

 そして、その中でも福島の生の声を話された福島の県会議員佐藤和良さんの言葉はとても心に響いた。小出裕章さんの講演を聞いた時にも同じ思いにさせられたが、被曝地の広島に訴えかけるような内容であった。また、広島は何をやっているんだという言葉のように感じた。福島のために広島からできることは何かを真剣に考えさせられた。

 8月27日、東京、渋谷・原宿ツイッターデモがあったので参加した。にぎやかで、若者も多くとても雰囲気の良いデモだった。この日、主催者やスタッフの人とデモの後に話をし、連絡先を交換した。東京の人達は福島原発を身近に感じており広島に比べ意識が高いように感じた。しかし、放射線に対する知識は私を含め、一緒に広島で運動している人々の方が高いように感じた。


 「とんでもない国に住んでいる」

  9月11日の広島でのアクションは、福島のためになるアクションをしたいと話し合いが行われ、放射能の基準値を作った根本であり、福島での放射能影響を軽視し、福島からの避難を妨げている旧ABCC(現在の放射能影響研究所−放影研)へのデモを実施した。

 参加人数は少なかったが、私にとって現在主流となっている放射線防護基準が作られてきた歴史や、放射能影響研究所(旧ABCC)について知るきっかけになった。また、ICRPを完全否定する大きな一歩につながる行動となったと思う。

 9月19日には、明治公園で6万人集会が行われ、11月13日には福岡1万6000人集会とそれぞれのデモが行われるが大手マスコミはほとんど報道しなかった。政府や東電、大手マスコミに多くの市民の声が届いていないはずがない。


11月13日の福岡集会。1万6000人集まった

 これらは確信犯で、国民には真実の情報を隠そうとし、国民の声は聞こえていないふりをしているのだと考えるようになった。悲しい事だが、脱原発デモや署名を提出するだけでは、この国は変わらないと思った。

 事故当初、私は福島だけが放射線汚染地域であり健康影響が起こると考えていた。しかし、関東や東北も深刻な汚染地域があることを知った。そんな野菜が全国に流通する事を恐れた。

 また、本当は通常運転時の原発からも大量の放射性物質が空や海に放出されていることを知った。とんでもない国に住んでいること改めて思うようになった。

 そんな状況の中で、東北の農産品や食品を食べて応援、瓦礫を受け入れて応援など、この国の進めようとすることが、放射線による人体への影響を勉強している私にとっては、恐ろしくてたまらない。6月から発足したECRR市民研究会-広島での毎月一回の勉強会などで、放射線への正しい知識や人体に対する影響、これまでの放射線防護基準の歴史を学んできたことで、テレビや講演会から聞こえてくるおかしな発言は、自分の頭で少しずつ判断できるようになってきた。また、そのほかのTPPや消費税増税を強行しようとする政府のおかしさなど、政治問題についても少しではあるが分かるようになってきた。


ECRR市民研究会-広島で学習中の様子

 核心に触れる運動を目指す

 2011年3月11日の震災以降は、これまで知らなかった事を次々に知り、これ以上知りすぎると普通の生活ができなくなってしまうかもしれないと悩み苦しみ、調べる事を辞めようかと考えた事もあったが、がむしゃらに脱原発デモ、瓦礫受け入れ反対などの声を上げてきた年であった。

 2012年以降も、積極的に脱原発・反被爆デモや集会に参加して行くつもりだが、がむしゃらにではなく、根本の問題をしっかり理解し、声を上げていくつもりだ。

 これまでの放射線防護の考え方の根本には、人々の生命や健康よりも原子力産業の経済的利益が重視されてきた。その思想を批判すること、ICRPとその勧告を批判することが極めて重要だと考えている。

 また、放射線による人体への影響や被曝線量がきわめて過小評価されたものであることを多くの人に理解してもらい、声が高まった時に放射線被曝に関係する全ての基準を大幅に引き下げることが可能だと希望を持っている。それら問題の核心に触れる諸点を多くの人へ伝え、訴えていく運動を行っていくつもりだ。



2012年3月11日に行われた「311ヒロシマ発内部被曝はいやだ!原発はハイロ!」のパレード