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509混成航空群の部隊章
(インシグニア・パッチ)
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編成: |
1944年12月17日 |
国名: |
アメリカ合衆国 |
所属: |
米国陸軍航空隊 |
タイプ: |
混成爆撃用航空群 |
役割: |
核兵器爆撃 |
規模: |
人員1767名、B−29/15機、C−54/5機 |
直属: |
第20航空軍・第313爆撃航空団
駐屯/基地:マリアナ諸島・テニアン島・北部飛行場(North Field) |
標語: |
Defensor Vindex ―復讐するものの守護者。(1952年7月10日承認)
(なお、上記部隊章の下段のリボンの表記はDefensor Vindexと入れてある) |
実戦任務: |
ヒロシマ、ナガサキ |
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第509混成航空群は第二次世界大戦中は、米国陸軍航空隊の編成単位だった。現在は第509作戦航空群として、米国空軍の編成単位となっている。
同航空群は、原爆の戦闘輸送システムの採用及び展開をその任務として位置づけられ、また1945年8月における日本の広島と長崎に対する攻撃を担当した。
同航空群は後に戦略航空軍(Strategic Air Command)の中規模航空群となり、「509爆撃航空団」(509th Bomb Wing)としてその構成要素となった。1952年に活動を停止した。
その後40年以上にわたる活動停止期間をへて、同航空群は第509爆撃航空団の一翼を担い、第509作戦航空群として活動を再開し、戦闘任務遂行及び「B-2スピリット」爆撃機の訓練作戦に従事している。
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第509混成航空群の組織 |
戦時における命令指揮組織
航空群内の位置 |
名 前 |
着任日 |
司令官 |
ポール・W・ティベッツ大佐 |
44年12月17日―46年1月22日 |
副司令官 |
トーマス・J・クラーセン中佐 |
45年5月4日― |
群作戦士官 |
ジェームズ・I・ホプキンスJr.少佐 |
44年12月17日― |
群執行士官 |
ジェラルド・E・ビーン中佐 |
44年12月17日― |
群副官 |
トーマス・L・カーネス大尉 |
44年12月17日― |
飛行大隊指揮官
第393爆撃飛行大隊(重爆) |
戦時指揮官 |
着任日 |
トーマス・J・クラーセン少佐 |
44年3月12日 |
ポール・W・ティベッツ中佐 |
44年9月14日 |
トーマス・J・クラーセン中佐 |
44年12月17日 |
チャールズ・W・スウィーニー少佐 |
45年5月4日 |
戦後指揮官 |
着任日 |
バージル・M・クロイド中佐 |
46年7月1日 |
フィリップ・Y・ウイリアムス中佐 |
48年6月1日 |
ロバート・B・アーウイン中佐 |
48年9月3日 |
フィリップ・Y・ウイリアムス中佐 |
48年10月15日 |
ジェームズ・I・ホプキンスJr.中佐 |
49年1月3日 |
フィリップ・Y・ウイリアムス中佐 |
49年1月20日 |
ジャック・D・ノール中佐 |
49年5月3日 |
フィリップ・Y・ウイリアムス中佐 |
49年6月13日 |
ウイリアム・S・マーテンセン中佐 |
49年6月30日 |
*註1 |
第393爆撃飛行大隊は44年5月12日から同年9月14日まで第504航空群の指揮下に入った |
第320部隊輸送飛行大隊 |
戦時指揮官 |
着任日 |
ヒューバート・J・コノパッキー少佐 |
44年12月17日 |
チャールズ・W・スウィーニー少佐 |
45年1月6日 |
ジョン・J・ケーシーJr.大尉 |
45年5月4日 |
*註1 |
第320部隊輸送飛行大隊は44年12月17に編成され、46年8月19日に解散した。 |
構成要素支援組織 |
編成単位 |
指揮官(司令官) |
所要人員 |
司令部及び基地業務飛行大隊 |
ジョージ・W・ウェスコット少佐 |
99名 |
第390飛行業務航空群 |
ジョン・W・ポーター中佐 |
190名 |
第1024飛行物資飛行大隊 |
ガイ・ゲラー少佐 |
140名 |
第603飛行工務飛行大隊 |
アール・O・ケーシー大尉 |
225名 |
第1395憲兵中隊 |
ルイス・シェーファー大尉 |
127名 |
第1補給飛行大隊(特別・航空) |
チャールズ・F・ベッグ少佐 |
298名 |
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第509混成航空群の歴史
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編成及び訓練
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第509混成航空群はユタ州ウエンドオーバー陸軍航空基地において、1944年12月9日編成され、同月17日に、ポールW・ティベッツ大佐の指揮下に活動を開始した。ティベッツ大佐は、それまでにドイツと日本をターゲットとした航空機による原子兵器の輸送の手段を開発する爆撃航空群を指揮し、また組織していた。
この航空群の飛行大隊は、爆撃機と輸送機から成り立っていたため、爆撃単位とするよりむしろ「混成」航空群として位置づけられた。
ニューメキシコ州ロスアラモスにある「Yサイト」の中のマンハッタン工区で業務に従事しつつ、ティベッツはウエンドオーバーを訓練基地として選んだ。(ウエンドオーバーはカンサス州グレート・ベンド及びアイダホ州マウンテン・ホームの向こう=オーバー=にある)つまり相当な僻地だったからである。1944年9月10日、B−29スーパーフォートレスの編成単位である、第393爆撃飛行大隊がウエンドオーバーに到着した。
同年5月12日以来、航空群訓練をしてきたネブラスカ州フェアモント陸軍航空基地・第504爆撃航空群(重爆)からの飛来であった。
(註:スーパーフォートレス=超要塞、は当時B−29の愛称だった。)
第509混成航空群が創設されるまでは、第393爆撃飛行大隊は、その母群が1944年11月初旬にマリアナ諸島に展開していたので、第2航空軍に直属していた。もともとは21名の乗組員がいたが、うち15名が選抜されて訓練を続け、5名づつ、3つの飛行中隊が組織されて、それぞれA中隊、B中隊、C中隊と名付けられた。
第320部隊輸送飛行大隊は、第504爆撃航空群のもう一つの航空単位である。この航空軍の極度に高い機密性のため、あらたに組織された。この飛行大隊は、元来が第393爆撃飛行大隊の任務遂行に必要な兵員・物資を輸送するために要請されたもので、その成立はアド・ホック的なものであり、「グリーン・ホーネット・ライン」とあだ名された。
(註:ホーネットはスズメバチ)
この飛行大隊の乗組員は、第393爆撃飛行大隊からも6名参加している。かれらは、爆撃訓練の選抜からもれた要員で、第2航空軍の交代要員になるよりも、むしろ部隊輸送飛行大隊の要員になることを選んだのである。機材はすでにウェントオーバー基地にあった、「カーティスC−46コマンドス」や「C−47スカイトレイン」などを使ったが、1944年の11月以降は、5機の「C−54スカイマスター」を獲得して、509航空群が活動開始となる同じ頃に正式に活動を開始した。
その他の業務支援組織は、ウェントオーバーですでに稼働している要員のうち、「Yサイトプロジェクト」に関連したプロジェクトである「プロジェクトE−47」や第216基地編成単位の要員から集めて、その活動を開始した。
第390飛行業務航空群は、第1024飛行物資飛行大隊、第603飛行工務飛行大隊及びウェントオーバー航空隊基地飛行大隊のために梯形命令指揮下の下に創設されたが、実際は独立して509航空群のための支援をおこなった。食糧・衣料・燃料などの割り当て、配給、医療品の支給、郵便サービス、その他の基礎的な必要物資・サービスの提供を実施した。 第603飛行工務飛行大隊はユニークな役割を担っており、B−29爆撃機の現地実戦修理・メンテナンス部隊といった役割だった。このおかげで、B−29をアメリカの主要な修理施設へ送り返さなくても良くなった。またこの第603飛行工務飛行大隊は、最初の契約による「銀板B−29」に何度も改良を加え、後には戦闘機のスペックまで備えさせることになった。
393爆撃飛行大隊は、1944年10月半ばに、支給された「銀板B−29」の改良を加える「入れ替え」を始めた。これらのB−29は「爆弾格納装置」(bomb bay )の拡張に大きな改良が加えられたし、核兵器発射調整基(weaponeer station)も取り付けられた。しかしながら使命達成の目的のためには、その他の幾多の改良にあわせた初期訓練作戦が必要だった。特に問題になったのは、全体重量の削減である。重い爆弾を輸送するにの見合った機体重量の削減が必要だったのである。新たに5機の「銀板B−29」が11月に、また追加6機が12月に支給された。そして訓練用の機材は合計14機となった。
1945年の1月と2月には、グループS−3(作戦遂行士官)の指揮下の15人の乗組員のうち10人が、キューバのサンアントニオ・デ・ロス・バニャーオスにあるバチスタ基地で仮の任務に就いた。ここで長距離渡航飛行訓練を行ったのである。
1945年3月6日、第1補給飛行大隊(特別・航空)がウェントオーバー基地で活動を開始した。人員はまた第2航空軍ですぐ調達できるものか、あるいはロスアラモスですぐ調達できるものに限られていたし、しかも「プロジェクト・アルバータ」の稼働開始と兼務だった。第1法令飛行大隊の目的は、509航空群がその作戦基地で原子兵器を正しく扱えるように、必要な特別装置と訓練された人員を供給するところにある。従って 原子兵器をより安全に部品にわけて、輸送することができることとなった。これら人員は極めて厳格な基準のもとに候補者が選定されていった。報告に拠れば、消去率は80%だったと伝えられる。こうして選定された人員は戦争が終わるまで、転属できないし、軍部諜報部員の監視同行なしには旅行もできなかった。テニアンに行く途中には、カリフォルニア州にあるマザー航空隊基地があり、ここに立ち寄るわけだが、この基地の司令官の将軍は銃を突きつけられた上、B−29の1機である「グレート・アーチスタ」への乗り込みを許されなかったという話がある。
第1補給飛行大隊(特別・航空)からの参加によって、509航空群は225名の士官、1542名の兵士という強化を行った。これら兵士のほとんどはテニアンに展開していた。
320部隊輸送飛行大隊は公式には明らかにされてはいなかったが、依然としてウェントオーバーに基地をおいていた。これに加えて、509航空群はテニアンにおいて51名の民間人と「アルバータプロジェクト」の軍関係者をスタッフに加え、ワシントンDCから2名の代表者が参加することになる。すなわちレスリー・グローヴズ将軍の高級スタッフのひとり、トーマス・ファレル陸軍准将と軍事政策委員会のウィリアム・R・パーネル海軍少将である。
509航空群は、1945年2月に14機の訓練用「銀板B−29」の入れ替えを開始し、4機を216基地編成単位に移送した。そして4月には第三次改良が済んだ「銀板B−29」の受け取りを開始している。残り10機のB−29は格納庫に入った。爆撃手は一人一人50回以上の練習用パンプキン弾(不発弾)の投下訓練を終了し、航空群の戦闘準備が終了したことを宣言した。45年4月には「海外移動の準備」作戦が始動するのである。
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作戦全体の経過
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509航空群のために編成された梯形状地上支援部隊は、1945年4月に移動命令を受け取り、部隊は列車で出発港であるワシントン州シアトルに移動した。5月6日、この部隊は「SSビクトリー岬号」にのってマリアナ諸島目指して出港した。やはり梯形状編成になっていた飛行部隊はすでにテニアン島「北部飛行場」(The North Field)に到着しており、5月18日、こうして飛行部隊と地上部隊は合流したのだった。5月29日、正式に509航空群はその基地を(ユタ州ウェントオーバーからテニアン島「北部飛行場」に)変更した。
「プロジェクト・アルバータ」の「運命チーム」もそのほとんどの要員がテニアンに送られ、「第1技術業務独立隊」(The 1st Technical Detachment)の管理名称のもとに、原爆の組み立て、積載、投下業務を管理・監督したのであった。
梯形飛行編成作業は、1945年6月4日のウェントオーバーから6月11日最初のB-29の「北平地」到着にかけて、その展開が開始された。
第509混成航空群は第313航空団の中に正式に編成されたが、第313航空団に属する4つの航空群は(45年)2月中旬ごろから、日本に対する飛行ミッションに従事していた。(*これはテニアン島からの日本に対する渡航爆撃任務のことを指す)しかし、テニアン島の中央部にあった主要施設から数マイル離れていた北部端(*ここが509混成群の基地のある「北部飛行場」である。なお北部飛行場は一貫して固有名詞として扱われている。)には、保安上の考慮が払われていた。
(* |
この保安上の考慮は、security consideration。このWikipediaの書き手は、梯形状の編成―echelon、気象偵察―Weather reconnaissanceなど軍隊用語を多用しており、また当時の編成が詳細に語られていることから、おそらく退役軍人関係者かあるいはその研究者ではないかと思われる。) |
509航空群の爆撃機のうち2機はマーチン-オマハからの納品が7月初旬にずれ込んでしまった。それで7月27日までウェントオーバー基地にとどめられ、ファットマンの2個の部品をテニアンに輸送する任務を担当することになった。
509航空群は当初、前進方向を示す矢印を丸く囲った尾翼マークをつけていた。しかし8月の初旬の航空戦闘ミッションの後、群の15機のB−29には保安上の措置として、別な第21航空総軍が使用している尾翼マークがつけられた。
(* |
509航空群は大きく言えば第20航空総軍に属している。) |
従ってビクター番号も、もともと借りた尾翼マーク(*別表の尾翼コードのこと)との混乱を避けるために変更された。
ビクター番号は、第6爆撃航空群の尾翼マーク、「○にR」をつけた機が82、89、90、91(エノラ・ゲイを含む。エノラ・ゲイのビクター番号は82)、第497航空群の「大A」をつけた機が71、72、73,84、第444航空群の「三角にN」をつけた機が77,85、86、88、第39航空群の「四角にP」をつけた機が83、94、95、だった。
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このWikipediaの記述は仲間内なら大いに興味をもつだろう、だいぶマニアックな話になってきている。) |
戦闘要員の地上訓練の後、509航空群は手持ちの9機のB−29で飛行経路測定飛行(calibration flight)をもって、45年6月30日に正式に作戦を開始した。7月中と8月の最初の8日間で、393爆撃飛行大隊は、かなり激しい飛行訓練とミッション遂行リハーサルを繰り返した。主なものは以下である。
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補給部隊(ordnance)なしの出撃(sorties)訓練、17回 |
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7月1日から22日まで、のべ90機のB−29による、500ポンド爆弾と1000ポンド爆弾での日本群占領下のトラック島、マーカス島(*南鳥島と思われる)、ロタ島(*マリアナ諸島北端)、ググアン島(*同じくマリアナ諸島)に対する実戦爆撃訓練、15回 |
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7月23日から8月8日まで、8回の部品試験、5回の不発リトルボーイによる投下リハーサル、3回のファットマン構成部品による投下リハーサル。 |
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7月29日の硫黄島に対する訓練ミッション。この時緊急時において、バックアップ爆撃機を使用するための不測事発生対策計画(the
contingency plan)の一環として不発リトルボーイの積み込み・積みおろし訓練をおこなった。 |
この訓練を実施する一方、2つの原爆のアセンブリ部品が、いろいろな船便でテニアン島に到着した。この時、暗号名「リトルボーイ」となづけたれたウラン型原爆のU−235発射体(projectile)と組み立て前部品は、カリフォルニア州ハンターポイント海軍造船所に留め置かれたため、巡洋艦「インディアナポリス」が(それを積み込んで)、7月16日に出港し、7月26日に(テニアン島に)到着した。同じ日に第320部隊輸送飛行大隊の3機のC−54機が、U−235ターゲットリングを1個づつ積載して、カークランド陸軍航空基地を出発、7月28日テニアン島北部飛行場に到着した。
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*書き手はカークランド陸軍航空基地といえば、読み手には誰でもすぐわかると思っていて、どこにあるか書いてない。私は調べなければ分からない。そこで調べたらニューメキシコ州、アルバカーキの南東にあるのだそうだ。今は米国空軍カークランド基地になっている。ロスアラモス研究所からも近い。海軍のことになるとハンターポイント海軍造船所はカリフォルニア州にある、とちゃんと書いてくれているのに、空軍のことになるとまるでみんな知っているはずだと言わんばかりだ。ぼくのように何も知らない人間も読むのだぞ、ッたく。) |
暗号名ファットマンの爆弾部品はすべて7月26日に到着していた。爆弾のプルトニウム・コア(挿入カプセルの中に格納されていた)とベリリウム−ポロニウム着火装置は、「プロジェクト・アルバータ」からのクーリエの保管箱の中に収まって、カークランド基地を飛び立ったC−54で、やはり7月28日に到着した。ファットマンF−31の組み立て前部品は7月28日にカークランド基地で、7月28日に、B−29が積んで、8月2日に「北平地」に到着した。
作戦準備の最後の項目は7月29日にやってきた。カール・スパーツ将軍、当時全太平洋地域の戦略爆撃を命令指揮していたが、攻撃命令書を携えてテニアン島に到着したのだ。レスリー・グローヴズ准将が原稿を書き、7月25日にポツダムのマーシャル将軍から送られたもので、命令書は4つの目標を指定していた。すなわち広島、小倉、新潟、長崎である。この命令書は8月3日以降、天候の許す限りできるだけ早く攻撃をおこなうこと、を命令していた。
( |
*元軍人としては胸躍る場面だが、ここの記述は誤りとはいえないが、若干不正確とはいえるだろう。この7月25日の命令書は、ポツダム会談でトルーマンに同行していたマーシャルから直接送られたものではない。・・・ぼくもマニアックだな・・・。
マーシャルがポツダムにいたので、命令書では陸軍参謀総長代行トーマス・ハンディ大将の名前で、米国陸軍戦略航空隊司令官カール・スパーツ大将に送られている。なおこの時マーシャルは戦時陸軍元帥=The General of The Armyに昇格していた。スパーツは全員に「この命令書はポツダムのマーシャル将軍からの直接の命令書」だとでも説明していたのかもしれない。) |
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原爆ミッション |
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広島・長崎に対する原爆投下ミッションを、一言で表現すれば、それぞれの目標地点上空の天候を偵察しそれを1時間以内に、暗号電で送ることだった、といっても過言ではない。爆撃隊は、爆撃機、爆発計測機、写真撮影機から成っていた。
爆撃機は、目標地点まで到着するのに必要なすべての判断決定権をもっていた機長および原爆投下に関するすべての決定に責任をもっていた爆撃司令官(weaponeer)の2つの役割をもっていた。爆発計測器は、目標地域でパラシュート降下させる原爆を投下する爆撃機と翼を並べていた。また写真撮影機はまた科学的観察装置を積載していた。また広島・長崎のミッションでは、それぞれ「スペア機」一機を伴っていた。これはもし爆撃機に何か不測の機械的問題がおこったら、原爆を硫黄島まで輸送する任務を負っていた。
「広島ミッション」は計画通り飛行し、またさしたる問題あるいは重要な計画変更なしに予定通りの実施ができた。しかし「長崎ミッション」は、当初小倉が第1投下目標であり、様々な問題に遭遇して、長崎に投下目標が変更され、投下が予定よりほぼ2時間も遅れ、また当初予定していた地点よりやや外れて爆裂し、燃料の不足により帰還地を沖縄に変更しなければならなかった。しかしミッションの基本的な要素はこうした問題にも関わらず満たした。
広島・長崎の両方の爆撃機に居合わせた乗組員は、ジェイコブ・ベーザー中尉ただ一人だけだった。他には、チャールズ・W・スウィーニー少佐が、広島投下の時に観測機「グレート・アリステ」に乗り込みかつ長崎投下の時の爆撃機「ボックスカー」に乗り込んでいた。また「プロジェクト・アルバータ」のローレンス・H・ジョンストンが、トリニティの原爆実験を含めて3つの核爆発を目撃している。
長崎ミッションの遂行中、509航空群の2機のB−29が、テニアンを離れウェントオーバーに帰還した。航空群の副司令官でもあるクラーセン少佐はB−29「ルーク・ザ・スプーク」に乗って、B飛行中隊6名の乗務員、地上支援部隊員をともなって帰還したのである。これはさらなる原爆をテニアンに持って帰る局面に備えるためであった。しかし、プトニウム・コアは依然、「サイトY」にあった上、8月13日グローヴズ将軍は、原爆資材の出荷を停止する命令を出した。将軍の命令は三番目の爆弾がまさに出荷される直前にロスアラモスに到着し間に合った。こうして最初の「原爆戦争」(The
First Atomic War)は、8月6日にはじまり、8月15日まで9日間続いた。
( |
*このWikipediaの記事は、もし509航空群関係の退役軍人あるいはその研究者がかいたものと考えてみると、ここの記述は、非常に興味ある記述となる。彼らは戦後「アトミック・ヘリテージ・ファウンデーション」(http://www.atomicheritage.org/)を結成し、マンハッタン計画や509航空群の活躍を顕彰しようとしている。日本で言えば靖国神社の資料館みたいなものだ。
戦後わかったことだが、長崎に続く第3の原爆はまだ使用できる状況ではなかった。しかし彼らは3つめの爆弾は、今も使えたと考えていることが第一。
第二は、われわれは、太平洋戦争の終了時広島と長崎に計2回原爆が投下されたと考えているのに対し、彼らは、広島と長崎の原爆投下を「最初の原爆戦争」ととらえ、この戦争は8月6日にはじまって敗戦の8月15日に終わった、ととらえていることだ。アメリカしか原子爆弾を持っていなかった時に「原子戦争」が発生したと考えることができるかは、いろんな解釈ができよう。大事なことは、彼らー原爆投下推進勢力―と呼んでおこう、は今もアメリカに根を張っており、広島と長崎の原爆投下を、「最初の原子戦争」だったと考え、「日本を無条件降伏させるために原爆を投下した」と信じ、またそれを誇りに思い、今も必要なら核兵器をつかうべきだ、と考えていることだ。映画「ストレンジラブ博士の異常な愛情」のラストシーンに出てくる、水爆にまたがって投下されていくアメリカのカウボーイ兵士は決して空想上の存在ではないことを銘記しておかねばならないだろう。) |
長崎ミッションの後、戦闘作戦は継続され、8月14日に一連のパンプキン爆弾投下作戦を実施した。(12個投下)
しかしながら日本の降伏声明によって、509航空群は、8月18日、20日、22日を含む31回の訓練ミッションを最後にその作戦を終了した。509航空群は、6月30日から8月22日の間合計210回の作戦出撃を行った。その他に飛行中止が4回あった。離陸に失敗した航空機は1機だけである。命令指揮のもとの投下は140回を数える。62回は戦争出撃として記録されている。このミッションで投下したパンプキン爆弾は49個であり、原爆出撃は13回を数える。
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(戦後の歴史は省略)
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B−29“エノラ・ゲイ”、44-86292、45年8月6日広島に“リトルボーイ”を投下 |
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B−29“ボックスカー”、44-27297、45年8月9日長崎に“ファットマン”を投下 |
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