【誤訳訂正】2010年4月8日

広島に原爆を落とした男たち−BBCニュース電子版
The men who bombed Hiroshima


匿名のある人からメールで、この記事の誤訳を指摘された。長いメールを丁寧に読んでいって見ると、なるほどこの人の指摘の方が正しい。そこで謝罪させていただくと共に誤訳部分を指摘に沿いながら訂正することにした。なお指摘部分は、小さめのポイントで『赤字』で記載し、この方の訳は小さめのポイントで『青字』で記載する。私の誤訳部分は自戒と反省の意味を込めて、そのまま残した。やや弁解じみるが翻訳とは基本的に英語力の問題ではない。“ねばり”と“わかって腑に落ちるまで考え抜く”という知的エネルギーの問題なのだ。(もちろんこの2つは“英語力”が下支えしているが。)この努力を怠ると、この人の指摘のようになる。なおこの人には返事を出していない。この誤訳訂正記事をもって返事に替えさせていただく。この人の指摘にはお礼を申し上げる他はない。


 この記事は2005年8月4日、被爆60周年を目前に、BBCニュース電子版に掲載さえた。BBCワシントン支局のマシュー・デイビス(Matthew Davis)の記事である。なお本文中(*)は私の註である。本文は次のサイトで読める。
http://news.bbc.co.uk/go/pr/fr/-/1/hi/world/americas/4718579.stm

 なお、エノラ・ゲイは第393爆撃飛行大隊(重爆)に属し、393飛行大隊は第509混成航空群に属していた。その509混成航空群の標語(motto) は“Defensor Vindex”―「復讐するものの守護者」だった。「復讐」とは真珠湾攻撃を指していることは想像以上のものがあろう。


 (以下本文)





 彼らは第二次世界大戦終結を助けたいとした若者だった。しかし、彼らの使命の批判者にとっては、彼ら日本に原爆を投下した乗組員は戦争犯罪(* a war crime )の一部だった。

 爆撃に関わった3人の男が、60年間ずっと彼らと共にあった「日の思い出」をBBCに語った。


セオドア・“ダッチ”ヴァン・カーク 84歳

(* セオドア“ダッチ”ヴァン・カークは、エノラ・ゲイ12人の乗組員の一人。階級は大尉で、役割は航空士。当時24歳だったことになる。詳細は次。http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/509/special_mission_13
_name_list.htm
 )

 『 ミッションの前日、テニアン島で着席して説明を受けた。そこでだれがどの飛行機にのり込むかなどを言われた。またこれから何をするかの一通りの説明を受けた。

 午後2時頃、睡眠を取って置くように言われた。でも彼らが、われわれがこれから最初の原爆を落としに行くことをどのように言うつもりかわからなかったし、それから睡眠をとっておくように、というのも分からなかった。

 一睡もできなかった。(*I didn't get a wink)他のほとんどの連中もそうだった。しかし午後10時にはおきなきゃいけなかった。午前2時45分には飛ばなきゃいけなかったからだ。

 天候はいいと説明と説明があった。でも今天候観測の飛行機を飛ばしているから、目標としている広島に関するベストな情報が入ってくるだろうと言った。

 最後の朝食をとり、真夜中ちょっと過ぎに飛行機に乗り込んだ。

 飛行機はひどく揺れた。床に投げ出されたほどだった。だれかが「対空砲火だ(*flak)だ」といったが、もちろんそれは原爆の衝撃波(the shockwave)だった。

 リトルボーイ(ウラン爆弾)を点検して発射準備をしていた頃は、「イオウジマ」の上空を低く飛んでいた。「イオウジマ」をいったん通過したら、爆撃高度の3万フィートをちょっと越えた高度に上昇し始めた。

 完璧だった。私は航空士としてなすべきすべてを常にやり遂げていた。飛行経路の作成、コースに乗っていることを確認する一連の作業、風速の読み、だから風速は分かっていた。

 瀬戸内海上空を飛んでいる時、何マイルも先から広島市を目で確認できた。最初に浮かんだ考えは、「あれが目標だ。よしあのいまいましいやつ(*the damn thing)を爆撃しよう」ということだった。

 しかし上空は静かだった。私はそれまでヨーロッパやアフリカで58回もミッションに携わってきた。そして乗組員の一人に言った。「おい、このままここに長いこといたら、空中にふきとばされるんだろうな。」

 われわれがいったん目標を確証したのち、私は後部へ行って、ただ座っているだけだった。次に感じたことは、9万4000ポンドの爆弾が飛行機を離れたことだった。もの凄い衝撃だった。われわれは、直後に右手の方に飛ばされ、高度を2000フィート落下した。

(* 9万4000ポンドは約4万5000Kgだが、もちろん重量のことではなくTNT火薬換算の破壊力のことを指している。終戦直後米国戦略爆撃調査団が調査した結果、破壊力は広島原爆で1万3000トン、長崎原爆で2万トンと推定している。なお第二次世界大戦中、もっとも破壊力が大きいとされた爆弾はイギリス空軍がもっていた1トン爆弾であるが、重すぎて効率が悪かった。)

 われわれがいわれていたことは、もしあいつが爆発した時に(*the thing went off)8マイル離れていれば、おそらくOKだろう、だからできるだけ、自分たちと爆発との間の距離を遠く置きたかった。

 飛行機はひどく揺れた。床に投げ出されたほどだった。だれかが「対空砲火だ(*flak)だ」といったが、もちろんそれは原爆の衝撃波(the shockwave)だった。

(* この時のパイロットは、ポール・W・ティベッツJr.大佐。エノラ・ゲイの臨時機長でもあり、約1800名を抱える第509混成航空群全体の司令官でもあった。といってもティベッツは07年に92歳で亡くなっているから、この時30歳ほどだったことになる。)

 尾翼射撃手が後で、それ(衝撃波)は、暑い日に駐車場の上にできる陽炎みたいだった、それがわれわれに向かってきているように見えた、といった。それも凄い速度で。

(* この時の尾翼射撃手は、ジョージ・R・"ボブ"・カロン技術軍曹)

 われわれは広島を振り返ってみた。すでに巨大な白い雲ができており、4万2000フィート以上にも達していた。その下の地上の方はというと、厚い暗いほこりと破壊の跡しか見えなかった。熱い油を煮えたぎらせたポットみたいだった。

 われわれは、計画通り爆発したことを喜んだ。そしてこのことが戦争にどんな影響を与えるかを後で話し合った。

 われわれは終わるだろうと結論した。強情で薄ぼんやりした(日本)の指導者連中ですら、この後では降伏を拒否することはできないだろうと。

 数週間のあと、実際に、私は幾人かの、「原子計画」に携わったアメリカの科学者と幾人かの日本人を乗せて日本へ飛んで戻った。

(* この日本敗北の話になると、それまで精彩に飛んでいた体験談が急にしぼんでとってつけたように感じるのは私だけか?)

 私たちは広島上空を低く飛んだ。どこにも着陸できずに、実際は長崎に着陸した。

 われわれは自分たちがアメリカ人である事実を隠しはしなかった。多くの人は顔をそむけた。しかし滞在したところでは大変な歓待を受けた。そして人々は戦争が終わったことを喜んでいるのだと思った。 』


モリス“ディック”ジェプソン 83歳

(* モリス・R・ジェプソン少尉。23歳だったことになる。エノラ・ゲイには機長のティベッツの他に、爆撃司令官兼核兵器攻撃士−weaponeer−のウイリアム・S・"ディーク"・パーソンズ海軍大佐が乗り込んでいた。機長は機を目標投下地点まで運ぶことに責任を持ち、パーソンズは原爆攻撃に全責任を負うという役割分担である。ジェプソンはパーソンズの補佐役で、正確な機能名称はassistant weaponeer―核攻撃士補であった。なお話の中で、アメリカ空軍=US Air forceといっているが、この時点ではまだ米空軍は存在せず、米国陸軍航空隊であった。空軍が創設されるのは1947年のことである。ジェプソンが間違う筈はないので、この記事を書いたBBCのデイビス記者が誤記したものと見える。)

 『 私は、アメリカ空軍の若い少尉でした。エノラ・ゲイでは兵器テスト担当の士官としての役割を担っていた。

 原爆は高度1500フィートかまたは地上に達する1.5秒前に爆発するように設計されていた。爆発範囲を可能な限り最大限にすることを保証するためだ。

 そのため原爆はレーダー指示の電子部品を内蔵していた。

 ミッションの準備のため、私はハーバード大学で5ヶ月過ごし、3ヶ月をマサチューセッツ工科大学で過ごし、レーダー設計を研究した。

(* ここまで読んで、509混成航空群が1944年12月の編成以前から、予備活動を行っていたように勘違いする人があるかもしれない。同航空群の活動は同年12月がその開始だ。ジェプソンは明らかに、原爆開発全体のひとつの歯車として、起爆装置の一部の開発に携わったに過ぎない。そしてマンハッタン計画からの要員として、44年12月の編成時に、509混成航空群に加わったものと考えられる。)

 数ヶ月の間、私は、原爆が地上で爆裂するようにできる電子部品の開発に携わった。そして南カリフォルニアでテスト飛行のミッションに携わった。

 マンハッタン計画(原爆を製造した)は、完全にコンパートメント方式で運営されており何千の人が働いていた。一人で全体計画の詳細を把握することなどは誰もできなかった。しかし私は原爆投下の訓練をしているのだと言うことを疑ったことはなかった。

(* 私は、話が若干専門わたっていると感じた時は、爆裂=detonate、爆発=explode、爆縮=implodeと訳し分けることにしている。ウラン型の原爆は爆発であり、プルトニウム型の原爆は爆縮である。別に原爆だけに使う特殊な言葉ではなく、たとえば、真空管が内側に割れる、といった場合でもimplodeが使われている。detonateは爆発の方向を問題としないことばである。米原子力委員会の資料をみても、核実験の爆発といった時にはdetonationがかならず使われている。ジェプセンはこのインタビューで専門家らしく、正確にdetonateといっているので、爆裂と訳出した。もちろん一般的に言う場合は、3つのいずれの場合も「爆発」と訳出して構わないのではないかと思う。)

 ミッションの当日、原爆を操作する電子部品に関するいくつかの最終テストを実施しなくてならなかった。

 誰が考えても、爆裂は下方に向かってすすむと考えるのが普通だ。われわれのみんながそう思っていた。というのはわれわれみんな原爆の働きがすでに分かっていたからだ。

(* アラモゴードの実験はウラン型ではなく、プルトニウム型の爆縮だった。広島の原爆はウラン型では最初の爆裂だった。)

 飛行機の前方部の部屋に原爆とケーブルシステムでつながっている箱があった。

 私の最後の仕事は、原爆格納庫に降りていって、原爆の周りをかにのように這っていって、その装置を装着させることだった。そして原爆とは孤立している3つのテスト用の着火プラグを外して、3つの赤い発射プラグを装着することだった。

(* ここの一連の記述はどうしても辻褄が合わない。なにか記述をはしょっている感じがする。私の訳出が誤っているのかもしれない。もうひとつ考えられることは、デイヴィス記者が、ジェプソンのやや専門的な話を十分理解できずに、途中をとばしてしまった可能性だ。)

 まずモリス“ディック”ジェプソン氏の話の中で、
「そして原爆とは孤立している3つのテスト用の着火プラグを外して、3つの赤い発射プラグを装着することだった。」と訳されておりますが、これは誤訳だと思います。

 "I took out three testing plugs that isolated the bomb and put in three red firing plugs. " の部分を訳されたのだと思いますが、「isolated」とは「孤立していた」ではなく「孤立させていた」という意味です。例えば爆弾に導火線がなければ爆発はしません。導火線のあるべき場所に代わりに燃えないものを突っ込めばその爆弾は外から遮断されて(孤立させられて)爆発しない、安全な状態になります。

 身近な例でいうと、家の電気のコンセントの部分に埃などがたまって事故が起こらないようにするために、コンセント(凸の方)と同じ形の安全プラグ(?)を挿している例を考えていただければ分かりやすいと思います。

 つまり該当部分を正しく日本語に訳すと
【私は(誤爆しないように)、原爆を外部から遮断していた安全プラグを取り外して、赤い発射プラグを取り付けた(ことが仕事であった)】という意味になると思います。』

 私の中の最も重要な考えは、これが爆裂し戦争が終わる、ということだった。

 他の連中と違って、これは私の唯一の実戦経験だった。しかし私が心配していたたったひとつのポイントがこれだった。

 私は原爆が投下されて爆裂するまでの時間を知っていた。43秒だ。だからカウントした。しかし何も起こらなかった。私は何もかも目茶苦茶だ、と思った。

 しかし、興奮の中で、私のカウントは早すぎた。その瞬間、乗組員が、巨大な閃光を告げた。爆発したのだ。

 その2−3秒後に私は最初の衝撃波を感じた。

 次の衝撃波がやってきた。その時間差で、私は正しい高度で爆弾が爆裂したことを知った。この2番目の衝撃波は、爆弾の力が地上にぶつかって戻ってきた衝撃波だった。

 すべて正しく運んだ。』

その他にも色々と誤訳があるように感じました。
この人のコメントの最後の方の、
"Everyone's thoughts turned to what devastation there would have been down below - we all had that thought on our mind because we had seen what the bomb could do. But it was the right thing to do."という箇所ですが、

【みんなの関心(thoughts)は(爆弾が正常に爆発するかということから)「どんな爆発がこの下で(down below)起こっているんだろう」ということに変わっていきました(turned)。
−我々はそのとき原爆がどのくらいの破壊力があるかを直接現場で見ていたのですから。しかしあれ(原爆を落としたこと)は正しい行動(right thing to do)だった。】


という意味です。「すべて正しく運んだ。(正確に爆弾を爆発させた) correct」という意味の正しい(1+1=2が正しいという意味合いの正しい)ではなく「これは正義の行い、よい行動である right」という意味合いの正しいです。(3人は共通して自分たちの行動には正義がある、という主張をしています)

また、原爆の威力を既に見て知っていたとは言っておらず(もしそうならばwe had had seen という表記になります。)目の前で広島原爆の爆発を見ているからどんな威力なのか気になった、ということです。』


ハロルド・アグニュー博士

(* アグニューはマンハッタン計画から派遣された科学者で、任務は爆発の観察と測定だった。搭乗機は、「グレート・アーチステ」だった。同機には、同じ任務をもった科学者で、ルイス・アルバレスとローレンス・H・ジョンストンものっていた。アルバレスも、ジョンストンもアラモゴードの実験を目撃している。3人とも身分は民間人である。)

  『 私は、ロス・アラモスのマンハッタン計画の作業班からやってきていた。私の中に一貫して残っている記憶は、とてもエキサイティングな時であり、その時代の最も優秀な科学者たちと一緒に働いたという記憶だ。

(* マンハッタン計画の、オッペンハイマーが所長のロス・アラモス研究所のこと。アグニューはプロジェクト・アルバータという作業グループに属していた。)

 その時代の私と言えば、「ぶうたれ屋」(grunt)だった。言われたことはきちっとこなした。しかし私は「偉大なる企て」の一員だったのだ。

 ヒロシマ・ミッション(*特別ミッション13)の時、私は、爆撃ゾーンまでエノラ・ゲイの尾翼に2番目にぴったりついていた「グレート・アーチステ」(*原爆観察・観測機)に乗り込んでいた。

 5−6マイルずつ離れながら、ずっと並んでわれわれは飛んで、広島のある面に到達した。そこでパラシュートで原爆の範囲を測定するゲージを投下した。

 ゲージ投下後、私が覚えているのは、右に急旋回を切ったことだ。爆風に捕まらないためだ。それでも原爆で飛行機は相当激しく揺れた。

 その時何が起こったか、誰かが理解できるとは思えない。それは投下されたウラン型の爆弾にすぎない。(長崎はプルトニウムを使っていた。)

他にもハロルド・アグニュー博士の話の中で、
I don't think anyone realised exactly what would happen. It was the only uranium bomb to be dropped. [The Nagasaki bomb used plutonium].
という箇所で only の訳ですが、「〜にすぎない」ではなく「ただ一つの」と訳すべきところだと思います。
【(原爆の投下によって)何が起こるだろうかということは、「その当時の」誰も正確に予測できなかったと思う。リトルボーイは地球に落とされたただ一つのウラニウム爆弾なのだから(初めての前例のないことなのだから予測できない)。−ちなみに長崎では(より威力の強い)プルトニウム爆弾が使用された。】とでも訳すべきところです。』

 その時の、私の正直な感情をいうと、彼ら(*日本人)はそれ(*原爆)に値した。私に関する限り、今日でもそう感じている。

 人々は今振り返ってみて、一体何がそれ(*原爆)をもたらしたのか、考えて見ようとしない。パール・ハーバー、南京。戦争に置いては、罪のない民間人など一人もいない。誰もが何かをやっていた。戦争努力に貢献していた。爆弾を作っていた。

 われわれのやったことは長い目で見れば多くの生命を救ったことだ。私はその一員だったことにずっと誇りを持っている。

 戦争の後、私はシカゴ大学に戻って私の研究を続けた。そしてその後ロス・アラモスに再び入った。そこでは事実上所長にもなった。

 現在アメリカが保有する核兵器の兵庫の3/4は、ロス・アラモス研究所で、私が監督したもとで設計したものだ。それは私の遺産だ。』



さて、冒頭部分で明らかにBBCはエノラゲイ乗組員に対して同情的な内容のコメントをしています。

 彼らはあの凄惨な第二次大戦を終わらせようと思っていた若者たちだった。「しかし」彼らの批判者から見ると彼らは戦争犯罪者である、としてインタビューをしています。

 当然、彼らのコメントとしてはその対立軸を踏まえた上で自分たち乗組員やアメリカという国家全体の行動の正当性を主張することになります。(当然ですがBBCはどちらかというとアメリカよりの書き方をしています。こうした事情を認識しておくとより良い訳が出来ると思います)

 彼ら乗組員個人個人に対する批判者の主張としては、

「1. あなたが自分自身の手で十万以上の人を殺しました。そのことについてどう思いますか?
2. この爆弾を落とすことによってすさまじい数の人間が死ぬことは分かっていたはずだ、落とす瞬間にためらいはなかったのですか?一人の人間として良心が痛まないのですか?」

などが考えられますが、乗組員はそういった批判に対して、

1. についてBut it was the right thing to do(正しい行動だった)という反論を行い(これは当然アメリカという国家全体に対する弁護でもあります)

2. について“I don't think anyone realised exactly what would happen. It was the only uranium bomb to be dropped.”(落とされた唯一のウラニウム爆弾なんだから、私を含め誰も威力の予想がつかない。我々は10万人以上死ぬというようなことは知らなかった。予想できなかった)と反論しているのです。(本当は普通の爆弾とは桁違いの死者が出るだろうということくらいは予想がついていたと見るほうが妥当だとは思いますが。ちな みにこの主張はエノラ・ゲイの乗組員への弁護にはなりますが、ボックスカーの乗組員に対する弁護にはならないと思います。)

また、モリス“ディック”ジェプソン氏の、
「数ヶ月の間、私は、原爆が地上で爆裂するようにできる電子部品の開発に携わった。」
という部分で「地上」という訳が曖昧で気になりました。

例えば、
1. 私は地上にいる(この場合地面に足がくっついている状態)という意味の「地上」と(on the ground)
2. 地面から浮いた状態を表す「地上」 (above the ground)
の2つの意味が考えられます。

今回の地上は明らかに2の意味であるべきです。(最大限の有効殺傷半径を確保するために明確に地面から浮いていないといけない)
その紛らわしさを避けるために「地面よりも上」と訳すことを提案させていただきます。

細かいことに感じられるかもしれませんが、外国との関係で言葉の違いというのは大きな壁になると私は感じています。

「地上」という日本語がabove the ground とon the ground という2つの違う意味の英語に訳される。「正しい」という日本語にright とcorrectとproper(適切な、箸やのこぎりなどの「正しい」使い方という意味での「正しい」)などの複数の英語が対応する。

“ignore”という英語に「無視する」と「黙殺する」の2つの日本語が対応する。
(“ignore”の件については反論も多いかと思いますが、これはあくまでも例の一つということで目をつぶっていただけると幸いです。)』


 コメントに注釈するようであるが、“ignore”は、1945年7月の「ポツダム宣言」に対する鈴木貫太郎内閣の声明、ポツダム宣言は「黙殺する」に対する英訳を連想させる。”ignore“と訳すべきところを、英訳では”reject“となっていた。トルーマンは、これを「無視する。」と解釈せずに、当然「拒否する。」と解釈した。

 トルーマン研究家の歴史学者、ロバート・ファレルは次のように書いている。

・・・日本政府はやや侮蔑に近い反応を返してきた。日本の首相は「宣言を無視」という選択をした。その時使った言葉は、多義性をもった言葉「mokusatsu(黙殺)」であり、字義通り訳せば「黙って殺す」と言うことになる。しかし実際ははっきりしないニュアンスをもった言葉だった。東京ラジオは、日本政府は宣言を「mokusatsu」し、戦争を続行する、と放送した。英語の翻訳は「拒否」(reject)となった。そこでトルーマン大統領は、好意の申し出をはねつけられた、と取ったのである。後年トルーマンはこの時のことを回想して、「ポツダムで、降伏してはどうか、と聞いたのに(ask)、日本側の返事は実にすげないものだった。私のとらまえ方は、ウーン・・・。要するに彼らは私に地獄へ堕ちてしまえ(go to hell)、と云ったわけだよ。実に効果的な言葉だったね。』
 
 と書いている。さてこの人のコメントを続けよう。


「お互い」に言語の違いにより誤解が生じてしまう、このことの危険性は私などよりもむしろ哲野イサク様の方がよく理解されていることと思います。

最後に話が完全に脱線してしまいますが、上記のように異なる言語で、対応する言葉の意味が完全に合致する(ちょうど1:1に対応。exactly same)ようなことは稀だと私は思っています。
そしてそれぞれの言語において、表現が難しい内容(その言語が苦手とする分野)があるとも感じます。

日本語は数学や物理学をやるには不向きな言語だと常日頃から感じています。above the ground の状態を普段使っている日本語で何気なく表現すると「地上、あれ、地上じゃ地面にくっついた状態だっけ?
でも浮いている状態も地上って言うよな。えーい、地面よりも上ってことだ。あー、あと0m上ってのは無しだぞ。そのとき浮いている値は正の数でないとだめだ。・・・」もう無茶苦茶です。

長い、紛らわしい、分かりにくい。英語だったらabove the ground で終わりです。
こういった欠点を克服するために該当する妥当な新しい単語を作成し導入するなどして、言葉の土台を整備をすることが必要だというのが私の持論です。』

 またまたコメントにコメントを重ねるようで申し訳ないが、この人は、『日本語は数学や物理学をやるには不向きな言語だと常日頃から感じています。』と書いている。

 私も同感である。しかし、それは日本語固有の問題ではない、とも感じている。

 明治以来色々外国語が日本に翻訳されて入ってきた。いや大和時代以来、日本はいろいろな外国の概念を日本語(ヤマト言葉)に翻訳して、社会に取り入れてきた。しかし、確かにこの人の云うように日本語は、数学や物理の記述に不向きな言語である。言い替えれば科学的な記述には適切な言語ではなく、感情表現をするのに適した言語だろうと思う。

 しかし、それでも私は日本語固有の問題ではない、と思う。

 これはすでに翻訳の問題ではなく、その翻訳された概念を使って自由に、自分の頭でモノを考えてこなかった日本人の問題のような気がしている。

 「科学的」という言葉を使いながらちっとも科学的でない学者や知識人の文章、民主主義を論じつつ少しも民主主義的手法を取り入れない政治家、哲学という言葉を使いながら、実は信念を語っているオピニオン・リーダー、折角近代民主主義(たとえそれがブルジュア民主主義だとしても )の成果に触れながら、それを豊かな日本語の中で育ててこなかった日本人(特に知識階級や文学者の責任が大きいと思う)の責任の方が問題にされなければならないと思う。

 大野晋は「日本語をさかのぼる」(岩波新書)の中で紫式部の「源氏物語」を、豊かな日本語を創造した素晴らしい書物と絶賛した後で、「何故平安時代の男達は、日本語を豊かにする書物が書けなかったのか?」という問いを発し、次のように答えている。

 一つは当時男が当時、漢文を読み漢文が書けるようになろうと心をくだいていたからだろうと思う。・・・男達の目の前には厖大な漢籍、仏典があった。男は、それらを消化せずには、知恵も地位も自分のものとならなかった。・・・それが男の自由な心にとって、まず第一の重圧でなかったはずはない。」(学者大野晋の実感がこもっている。)
 ・・・してみれば、それは結局物まねの域をでない。・・・漢字文化に身をよそおっていた男たちには、・・・生きることの真実の苦悩を・・・生き生きとした感受性で真実を見つめ、既成の概念ではそれをとらえないということがかえって不可能だったに違いない」
 模倣によって身につけたとらわれた物の見方で、日本の自分たちの現実の相を見ても、そこからはすぐれた創造の生まれ出ることはあり得ない。」

 幾つかのキーワードを取り替えれば、なぜ多くの社会科学用語が日本語や日本語の文脈の中で豊かに育ってこなかったのか、の回答になりそうだ。

 だから、日本語が「科学的記述」に不適切なのは、日本語固有の問題ではなく、日本語を「科学的記述」に適した言語として、豊かに育んでこなかった日本人や日本の社会の問題なのだ、と私は考えている。

 いかがだろうか?とりあえずこの人にはお礼を申し上げておきたい。いろいろなことを学んだ。