「核兵器がない世界」
(A World Free of Nuclear Weapons)
4人は遅れてきたカール・コンプトンか−世界はもう一度他愛もなく騙される?


ジョージ・シュルツ、ウィリアム・ペリー、ヘンリー・キッシンジャー、サム・ナン共同論文
(2007年1月4日付け ウォール・ストリート・ジャーナル 意見欄に掲載)



(原文は以下。http://www.nuclearsecurityproject.org/atf/cf/%7B1fce2821-c31c-
4560-bec1-bb4bb58b54d9%7D/A-WORLD-FREE-OF-NUCLEAR-WEAPONS.PDF
 )


なお、2008年1月、この続編とも言うべき「核のない世界へ向けて」(Toward Nuclear-Free World)が発表された。
原文はhttp://online.wsj.com/public/article_print/SB120036422673589947.html で読むことができる。日本語翻訳は、原水協のサイトの「資料保管庫」で読むことができる。

 両論文は、世界に大反響を巻き起こしたということになっているが、英語世界では少なくともインターネットの世界では、ブッシュ政権によるヨーロッパミサイル配備計画の方が反響を呼んでいる。日本では「有名人コンプレックス」もあって確実に大反響である。
4名による共同論文の第1回目である。第2回目は2008年1月15日に掲載された。
執筆陣が凄いというか、おどろおどろしいというか、いずれもアメリカの支配階級中枢の人物である。また発表した新聞が保守の牙城、ウォール・ストリート・ジャーナルというのも凄い。核兵器に関するアメリカ支配層の考えが変わったのか、それとも、1945年のヘンリー・スティムソンの時がそうであったように、「老いぼれのたわごと」なのか。それともブランドと権威を利用して国際世論をどこかの方向へ導きたいのか。
見出しは原文にはなく私がつけたもの。

ジョージ・シュルツ
(George Pratt Shultz http://en.wikipedia.org/wiki/George_P._Shultz
 1920年12月13日生まれ。1982年7月16日から1989年1月20日までレーガン政権の時の国務長官である。前任者がアレキサンダー・ヘイグ、後任者がジェームズ・ベイカーである。1969年から1970年まで労働長官(ニクソン政権)、1970年から1972年まで予算局長、1972年から1974年まで財務長官(いずれもニクソン政権)で共和党の能吏の一人。ニューヨーク生まれ。

 大学の学位はプリンストン大学で、博士号はマサチューセッツ工科大学で得ている。1948年から57年までMITで経済学、大学院で経営学を教えている。1955年アイゼンハワー大統領の時に経済諮問委員会の上席エコノミストに就任。1957年シカゴ大学の経済大学院の教授に就任。62年には大学院学部長に就任している。ここまでの経歴を見てみると、その優秀さで、順調に出世街道を駆け上り、アメリカの「軍産学複合体制」に「採用」された人物のように見える。

 先にも見たように、ニクソン政権で中央政界入りするが、シュルツが財務長官の時に、金本位制およびブレトン・ウッズ体制が終焉した。ドルの金兌換にとどめをさした人物の一人であることを記憶しておくべくだろう。

 ニクソン政権崩壊の後一時中央政界を去るが、この時身を置いた場所がベクテル・コーポレーションである。世界的な建設エンジニアリング会社で、軍産学複合体制中枢企業の一つと言っていいだろう。

 1982年7月16日、アレキサンダー・ヘイグの後、第60代国務長官に就任、官僚としてはその頂点に立つ。国務長官時代は、「力の外交」が目立つ。1989年シュルツは国務長官を去るが、その後も共和党の戦略家としての地位を保ち続けている。2000年には、ジョージ・ブッシュを政策指導するグループ、いわゆるバルカンズ(Vulcans)の主要メンバーとなった。このグループにはディック・チャイニー(現副大統領)、ポール・ウォルフォウィッツ、コンドリーザ・ライス(現国務長官)などそうそうたるネオコンの名も見える。つまりシュルツはいまでも、現ブッシュ政権に影響力を持つ人物である。

 一方で多くの人たちを驚かせたのは、国務長官を辞めた後、彼が「麻薬撲滅運動」に立ち上がり、その先頭に立ったことだろう。またこの頃シュルツはキューバ経済封鎖政策を批判しはじめている。「経済封鎖政策は狂っている。自由貿易こそがフィデル・カストロとその体制を追い詰めるのであって、政財封鎖政策は彼らの立場を正当化するだけだ。」

 現在、キューバ、ベネズエラ、ボリビア三国は経済協力を進めており、まったくアメリカの政策の影響を受けないラテン・アメリカ・カリブ地域を産出しようとしている。シュルツの発言はこうした動きを予測したものかもしれない。

 2006年1月、シュルツはホワイトハウス、国防長官・国務長官経験者会議に参加し、ブッシュ政権の高官たちとアメリカの外交政策について話し合っている。

 現在、シュルツはJPモルガン・チェース銀行の国際諮問委員会の委員長であり、スタンフォード大学のフーバー・インスティチューションのメンバーでもある。
サム・ナン
(Samuel Augustus Nunn―http://en.wikipedia.org/wiki/Sam_Nunn
1938年9月8日生まれ。法律家・政治家。ジョージア州選出の民主党上院議員を長く務めた。ジョージア州は、民主党保守層の地盤である。また国防支出関連予算によって州経済が支えられている。ナンは1972年から1997年の長きにわたってこの州選出上院議員を務めた。彼の経歴でもっとも注目すべきは、1987年から1995年まで上院軍事委員会(Senate Armed Services Committee)の委員長を務めていることである。ちなみに彼の前任者は共和党のバリー・ゴールドウォーターである。上院軍事委員会は、1947年の国家防衛法が成立したときに、それまでの陸軍委員会と海軍委員会が一緒になって誕生した。アメリカの軍産学複合体制の金城湯池である。恐らくペンタゴンは大統領よりもここの委員長により多くの敬意を払うだろう。

 委員会の委員長は、その時の多数派から選出されるしきたりになっており、現第110米議会、上院軍事委員会の委員長はミシガン州選出の民主党上院議員カール・レビンだが、共和党側の代表(ランキング・メンバーと呼ばれている)は共和党大統領候補のジョン・マケインである。ちなみに民主党大統領候補をバラク・オバマと最後まで争ったヒラリー・クリントンも上院軍事委員会のメンバーである。とにかくこの軍事委員会のメンバーになるのは容易ではないとされる。1947年以降の上院軍事委員会の委員長の顔ぶれを見てみると、リチャード・B・ラッセル上院議員(ジョージア州選出)が、1951年から1953年までと1955年から1969年までの2回委員長を務めている。彼は、1945年広島に原爆が投下されたときに、「日本が無条件降伏を懇願するまで原爆を落とし続けろ」とトルーマンに長文の「激励電報」を送った人物である。

 ナンはジョージア州の政治に関係の深い家庭に生まれた。たとえば現職の下院議員カール・ビンソンは、ナンの孫甥である。エモリー大学の法科大学院は修了したものの、どこにも州の司法試験にパスしたとは書いていない。1964年に酔っぱらい運転で事故を起こしたことが、1989年に報告されたが本人は否定した。南部の有力な家庭で育った典型的な裕福な青年時代をイメージさせる。

 ジョージア州議会の下院議員に当選して1968年政界入り。生年からすると30歳である。それまでの経歴から考えると有力なコネがあったとしか思えない。1972年にはジョージア州選出の上院議員に当選する。

 ナンは上院軍事委員会と上院常設調査小委員会に長く属した。常設調査小委員会(Permanent Subcommittee on Investigation)も相当有力な委員会で、たとえば「エンロン事件」などでは、強力な調査権限でエンロンの不正を暴いたりもした。軍事委員会は、先述したとおりアメリカの軍産学複合体制の議会における牙城である。

 ナンの軍事委員会委員長時、成立した法律としては、バリー・ゴールドウォーター上院議員と共同で提出した「国防総省再編法案」(1986年レーガン政権時)やロシアや旧ソ連諸国の過剰な核兵器、生物兵器、化学兵器の廃棄を支援する「ナン―ルーガー共同脅威削減法案」(1992年ヘンリー・ブッシュ政権時)などがある。

 ナンはもし2000年にゴア政権が誕生していたら、国務長官か国防長官は確実と見られていた。全体として言えばナンは穏健保守政治家と見なされている。(アメリカで保守政治家といえば、私の感覚では右翼軍国主義政治家ということだが。)

 注目すべきことに1992年の湾岸戦争には反対を表明した。アメリカが軍事力をもって、アリスティド大統領の擁立・追放劇を演じた「ハイチ紛争」にも関与している。(ハイチ紛争はクリントン政権時。この時のクリントン政権はペンタゴン傀儡政権のように見える。)

 ナンが上院を去るにあたっては、超党派的な賞賛が寄せられている。(たいていの時は去る者をけなす人間はいないが。)ヴァージニア州選出のジョン・ウォーナー上院議員は次のように評している。

ナンは議会に置いて極めて早い時期に議会指導者の一人の地位を築いた。事実、国家安全保障および外交問題についてはそのことが良く当てはまる。彼はわが国の評価を上げた。彼自身が何者であれ、彼の永年にわたって貢献した分野で、地球的に物を考えた人であった。(a global thinker)彼の国家安全保障問題に関するアプローチは、われわれの基本的価値基準に基づいたものであった。サム・ナンが信じていることは合衆国の最良の利益である。」

 ナンは、NTIの共同会長であると同時に、ジョージア工科大学を拠点としていろいろなNPOに関係し、アメリカの外交問題について論じ、活動している。現在次の企業の取締役会のメンバーである。シェブロン・コーポレーション(ロックフェラー系の石油会社)、コカコーラ・カンパニー、デル・コンピュータ、GEカンパニー。

 2005年、元上院議員フレッド・トンプソンと共に「最後の最良の機会」と題する映画制作に携わった。それは核兵器と核分裂物質の過剰に関する映画である。この映画は2005年10月HBO系列で放映された。

 前述の「ナンールーガー法」の功績によって、ノーベル平和賞の候補に2000年、2002年、2005年の3回上がっている。

 2007年、ナンが2008年大統領選挙に出馬するのではないかという噂が出た。この噂が打ち消されたのは、2008年4月18日ナンがバラク・オバマを民主党大統領候補として支持表明したときである。それ以来ナンは副大統領候補になるのではないかという噂が絶えない。ジミー・カーター元大統領は、同じジョージア仲間として、ナンが副大統領候補になることに好意的である。ロナルド・レーガンとジョージ・ブッシュのスピーチライターだったペギー・ヌーナンも彼が副大統領になることを支持表明している。


ウィリアム・ペリー
(William Perry http://en.wikipedia.org/wiki/William_Perry
 1927年生まれ。経済人でありまたエンジニア。1994年2月から1997年1月までのクリントン政権時の国防長官である。1993年から94年までは国防副長官だった。(クリントン政権は1993年の1月から2001年の1月まで。)

 スタンフォード大学で学士号と修士号、ペンシルバニア州立大学で博士号(数学)を取得している。1954年から1964年までカリフォルニア州のシルバニア/GTEの電子防衛研究所の所長を勤めた後、1964年から1977年自らも出資したELS株式会社の社長を勤めている。

 ELS株式会社は1964年シリコンバレー、パロ・アルトに設立されたベンチャー企業で、電子偵察システムに優れた技術をもった。ペンタゴンを顧客として急成長した。その後TRWに買収され、2002年にはTRWごとノースロップ・グラマン社(戦後急成長したノースロップとグラマン社の合併企業。いずれもペンタゴンが最大の顧客だった。)に買収されている。ペリーはELS社に出資もしていたから、これら一連の買収劇で相当大きな収入を得たと思われる。

 1977年から1981年カーター政権の時に、研究および実施設計担当国防次官に就任。兵器体系の調達および研究開発に責任を負うことになった。この時の彼のもっとも大きな成果は、ステルス航空機技術の開発だろう。かれはこの技術開発の中心人物だった。

 1981年国防総省をいったん後にする。その後サンフランシスコに本社を置くハムブレット・アンド・クイストというハイテク企業を専門とする投資銀行の役員となる。その後、1993年にペンタゴンに戻る間、テクノロジー・ストラテジー・アライアンス等位会社の会長を務める傍ら、スタンフォード大学の工学大学院の教授に就任、またスタンフォード国際関係協力センターの防止防衛計画の共同所長も務めている。ある意味典型的に軍産学複合体制を一人で集約した人物ということができる。

アメリカへの核戦争脅威廃絶を目指したペリー

 1994年の国防長官就任(すでに彼は67歳だった)は、ペンタゴン、議会、防衛産業のいずれからも好感をもって迎えられた。国防長官指名承認のための議会公聴会で彼は国防長官の任務として6つのポイントをあげている。

1. 軍事作戦指示全体を良く把握しておくこと。
2. 軍事的即応性を常に準備保証しておくこと。
3. 大統領国家安全保障チームの鍵を握るメンバーとなること。
4. 軍事戦略に責任を持つこと。
5. 年次国防予算を準備すること。
6. 防衛資源を管理運営すること。

後にペリーは国防長官を引き受ける動機として3つのポイントをあげている。

1. 冷戦時代へ戻ることを回避しつつ、アメリカへの核兵器の脅威を終了させること。
2. 大統領に対し、いつ、いかなる形で軍事力を使用すべきか、またその使用を拒否すべきかについてアドバイスを送ること。
3. ポスト冷戦時代における軍事力削減を運用管理すること。

 ペリーのポスト冷戦時代における国家安全保障政策の基本は「防止的防衛」(Preventive Defense)という言葉に代表される。冷戦時代、アメリカの国家安全保障戦略は「防止」より「抑止」により依存していた。

  これに対して、ペリーの「防止的防衛」は3つの主義主張によってその概要を知ることができる。

1. 脅威と緊急事態を峻別すること。
2. 実際の緊急事態を抑止すること。
3. もし防止と抑止に失敗するなら、軍事力をもって脅威を叩き潰すこと。

 このドクトリンに従って、ペリーは従来型の兵器体系を、ポスト冷戦時代にふさわしい兵器体系に変換するため努力を費やしたとも言える。(この目的でペリーはNATOとの軍事協力も促進した。なおペリーの作ったESLはのちにNATO軍も重要な顧客とする。)

 こうした兵器システムの変換にかかる費用として、ペリーは1995年会計年度に、2522億ドルの軍事予算を要求した。これには膨大な兵器システムにかかる費用、あらたな航空母艦、3つのイージス艦、6機のC-17航空機も含んでいる。しかし人員などこれまでの予算を削った関連した部分を合わせて考えると、議会が承認を与えた直接軍事予算は2539億ドルで、20億ドル94会計年度に比べて増えたように見えるが、実質的には、関連部分を含めると1.2%のカットとなる。

 1995年ペリーは、2460億ドルを96会計年度の直接軍事費として議会に要請した。これに対して議会は国防上の理由から、70億ドルの上乗せを回答した。クリントン政権は、国家予算の均衡に取り組んでおり、議会と折衝した結果、その中をとる形で2542億ドルで決着した。95年予算より増額ではあるが、関連予算を含めると実質2%の削減となる。

 ペリーの国防長官時代は極めて興味深い研究対象ではあるが、ここでは彼の時代、アメリカの兵器システムがより近代化、ハイテク化したことを記憶にとどめたい。

 彼のドクトリンからして、彼が「国防長官というより国務長官のようだ」(英エコノミスト誌)と評されることになったのは自然である。ペリーの時代、アメリカはNATO軍との結びつきを深めた。アジアでは中国と日本との結びつきを深めた。国防長官としてはじめて中国本土を訪問してもいる。ボスニア戦争にはNATOと共に深く介入した。北朝鮮の核兵器開発には最初から警告をならしたが、結局、北朝鮮が核兵器開発をあきらめる見返りにエネルギー政策を支える費用として40億ドルに相当する援助を約束する。以降北朝鮮は、アメリカが直接の交渉相手と見抜き、IAEAを軽視するようになる。

 中東問題、特にイラク問題、パレスティナ問題にも深く関わっているがここでは触れない。

 国防長官退任後は、先のハムブレッド・アンド・クエスト社の上席顧問の傍ら、スタンフォード大学と深く関わっている。またロス・アラモス国家安全保障社の取締役会のメンバーでもある。同社はエネルギー省のロス・アラモス研究所の運営管理会社である。このロス・アラモス研究所はマンハッタン計画時、オッペンハイマーが所長を務めた、ロス・アラモス研究所が前身である。その後米原子力委員会の所管となり、米原子力委員会解体後は、エネルギー省の所管となっている。

 2006年1月、ホワイトハウスで開かれた、元国防長官・国務長官経験者会議に参加し、国際政策を話し合っている。

 2006年3月イラク問題研究グループに指名された。同グループはイラク問題に関しする大統領諮問グループである。


ヘンリー・キッシンジャーについては何冊も本がかけるほどでここでは扱えない。彼がニューヨークの伝統金融・産業資本、特にロックフェラー資本グループの、一貫しての政治的大番頭だった、という視点を持っておかなければ、彼の言動は理解できないということだけ指摘する。


「核兵器のない世界へ」


翻訳にあたっては原水協通信 On the Web 0.1の日本語訳を参照した。青字は例によって私の註である。
署名の順番は、シュルツ、ペリー、キッシンジャー、ナンである。(シュルツ1920年生まれ、ペリー1927年生まれ、キッシンジャー1923年生まれ、ナン1938年生まれ、だから年齢の順でもない。)

テロ国家を念頭に置いた論文

 今日、核兵器は極めて大きな危険を表出している。しかし同時に歴史的チャンスでもある。合衆国のリーダーシップで世界を次のステージに導くことが要請されるであろう。すなわち、核兵器が、潜在的に危険な者たちの手の中に拡散することを防止するという目に見える形での地球規模での貢献を通じて、核兵器に対する依存性を逆転させる固いコンセンサスである。そして究極的には、世界への脅威としての核兵器を終焉させるという合意である。

上記パラグラフで、記憶しておかなければならないことは、第一義的には核兵器が「危険な者たち」の手にわたることが、現在の「大きな危険を表出」していると指摘し、究極的な核兵器の廃絶はいわば付けたりになっているということだ。彼らの現状認識はこのパラグラフで尽くされていると言っていいだろう。


 核兵器は、基本的には冷戦時代、国際的な安全を維持してきた。というのは、核兵器は「核抑止」の手段だったからである。冷戦の終了は、「ソビエトーアメリカ相互核抑止力」ドクトリンを無意味なものにしてしまった。核抑止理論は、まだ多くの国で他国からの脅威に関して有効な理論であると見なされ続けている。しかし、この目的(他国からの脅威に対処する目的のこと)で、核兵器に依存することは、危険性を増し、かつその効果を減じ続けることになる。



早くも馬脚を現した格好だ。もうこの後は読まなくてもいいくらいだ。まず相互確証破壊理論に基づく「核抑止論」が冷戦時代も平和の理論として有効だったか、という点だ。核抑止論は、核兵器は破滅的な兵器であるために、核兵器を所有すること自体が仮想敵国に核兵器の使用をためらわせ、躊躇させると説く。従って結局核兵器を持つことは相手国に対する核兵器使用抑止になるので全面核兵器戦争は起こらない、という。これは子供だましの詭弁論法で、「核兵器を持つことが相手国の核兵器使用をためらわせる」自体が証明不能な仮定だ。そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。この証明不能な命題を、いつの間にか「公理」として使用して理論展開するのが特徴で、典型的な詭弁論法である。

 「証明不能な仮定」を公理として使っているために、その結論も従って証明不能である。「核抑止論」があったために冷戦時代は、「核戦争」が起きなかった、とする見解である。そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。もともと証明不能なのだ。この証明不能な理論を使って、導く結論は「従って核武装することは国際平和に貢献する」という点である。

 要するに核抑止論は、核装備に対する予算付けを正当化するために使われたに過ぎない。それが証拠にペンタゴンの将軍たちで、核抑止論者は一人もいない。フランク・レポートが1945年に指摘したように、核兵器は先制攻撃した方が圧倒的に有利なのだ。核抑止論は、たとえばハーマン・カーンやランド・コーポレーションに代表されるペンタゴンのために働く学者やシンク・タンク、議会指導者、政治家それに取り巻きの有名ジャーナリズムが唱え続け、アメリカの権威に弱い各国の学者や政治家が、増幅装置よろしく世界に広めた詭弁理論である。


さて、お立ち会い、ここにどんな矛にも刺し貫かれない盾がある。また、ここにはどんな盾をも刺し貫く矛がある。かように私は、もっとも強力な武器を扱う者である。』
そんじゃ、その矛でその盾をついて見ちゃくれないかい。』
・・・』

 この核抑止論が、詭弁論法であり真理ではないことは、ポスト冷戦時代に暴露された。相互確証理論は仮定の論理として、核仮想敵国がはっきりお互いに確認されなければならない。これが相互確証ということである。「冷戦」という準戦時体制が終了すると、世界の軍国主義勢力(私はそれをとりあえず軍産学複合体制)は、新たな準戦時体制を要求した。彼らは「広島への原爆投下」によって冷戦を創り出したように、「対テロ戦争」を今創り出しつつある。しかし、このテロ戦争時代には、「核抑止理論」はてんで、役に立たないのだ。相互確証ができないからである。相手がはっきり確証できないから、テロ勢力なのだ。相手がはっきりすれば、もうそれは仮想的国ないし地域なのであって、テロとは呼ばない。

 核抑止論者は自分の屁理屈に自縄自縛となった格好だ。このパラグラフの表明は、詭弁論法としても、核抑止論は破産したと言っているに過ぎない。

 長くなるが、もう一点。シュルツらはこのパラグラフで、『核抑止論は多くの国でまだ有効だと考えられている』と言っている点だ。世界で核抑止論を本気で有効だと考えている国は、シュルツらの指摘に反して少ないだろう。私は多くの国の例を挙げることができる。

・・・5年前、われわれの各同盟国である合衆国に、われわれは核兵器で守って貰うことを望まず、核抑止戦略がわれわれの安全保障に役立っているとは考えず、またわれわれは西側の価値、すなわち民主的価値を信奉しているので、これを通常兵器のみで守って貰いたいと考えていることを合衆国に分かって貰いたいと思って、その意思表示のために合衆国に次のように言いました。『われわれは原子力推進または核武装した軍艦がわが国を訪れることを望まない』」(ニュージーランドの学者、ケビン・クレメンスの言葉。「太平洋の非核化構想」岩波新書 54P)

 これは今、から20年以上も前の1984年、ニュージーランドにデビッド・ロンギ政権が誕生した時、ニュージーランド市民がアメリカのレーガン政権に突きつけた最後通牒だ。このニュージーランド病の蔓延を恐れて、1900年以来の軍事同盟国ニュージーランドを徹底的に干しあげ、経済制裁まで発動し、「世界の平和体制をかき乱す精神錯乱者」としてロンギ政権を描き出したのは、他ならぬ当時の国務長官、ジョージ・プラット・シュルツではなかったか。シュルツはこのロンギの言葉を今忘れているわけはなかろう。
(まだやっと第2パラグラフが終わったところだ。先は長いな。) 


イランについて執拗に流し続けるデマの意図


 北朝鮮の最近の核実験やイランのウラニウム濃縮計画―それは兵器級の濃縮への潜在性を持っている―停止への拒否などは、世界が新たな危険な核時代の瀬戸際にいるという事実のハイライトである。最も警鐘を鳴らされるべきは、非国家テロリスト(nom-state terrorists)の手に核兵器が渡るような場合であるが、その可能性も高くなっている。テロリストたちが世界秩序に抗らう形での今日の戦争では、核兵器は究極の大量破壊の手段である。非国家テロリストグループが核兵器を持った場合、概念上は核抑止論戦略の枠外にあり、新たな安全保障への挑戦として、困難性を表徴している。


 イランも北朝鮮も、アメリカはテロ支援国家に指定している。従って、彼らは念頭に置いている仮想敵は、テロリストおよびテロ支援国家であることがここで明確になる。

 イランが核兵器開発を計画している、というのはアメリカが執拗に流し続けるデマである。ウソも100回言えば本当になる、というヒトラー主義の信奉者らしい。第一原子力発電用のウラン濃縮事業(濃縮率4%程度)と兵器級のウラン濃縮(濃縮率90%以上)はまったく異なる事業だ。一般のウラン濃縮、核兵器開発の無知につけ込んで最もらしいウソを並べる。イラクの大量破壊兵器の場合とまったく同様だ。

 以下はIAEAのエルバラダイ事務局長とCNNのクリスチャン・アマンプールのインタビューの一節である。このインタビューは2005年に放映された。

『アマンプール:  ナン上院議員によれば、1994年のアメリカと北朝鮮との合意の際、少なくとも北朝鮮の核物質はピョンヤンにある原子炉に保管されていました。今どれがどこにあるかご存じですか?
エルバラダイ:  全くわかりません。だからイランに置いてもスローペースだとおしかり受けるわけですが、 しかし北朝鮮とイランの情勢を比べてもらえれば一目瞭然だと思います。多かれ少なかれ、 何がどうなっているのかは把握しています。

 北朝鮮については、全くブラックボックスです。だって私たちはそこにいないんですから。どこにしろ査察権限のない国に置いては、憶測に頼る他はありません。だから北朝鮮に対してはそうしています。衛星探査で彼らが、使用済み核燃料の処理を行っていること、プルトニウム型原爆が製造直前にあることなどはわかっています。(注:このインタビューは2005年3月)また彼らが原爆を保有していることを明言していることもわかっています。北朝鮮についてはできるだけ早く戻りたいと思います。希望的には私を北朝鮮に呼んで、IAEAとの話し合いを再開してくれないものかと思っています。これが正しい方向への第一歩だと思います。私は彼らが自国の安全について大きな関心を抱いていることは当然のこととして理解しています。しかし同時に国際社会も彼らの核開発計画に大きな関心を抱いているのです。だから一緒にテーブルについて、自国の安全と国際社会の安全について話し合いましょう、と言うわけです。
アマンプール: 北朝鮮は原爆を製造していますか?
エルバラダイ: すぐ原爆を製造できるプルトニウムを保有していると言う事実を除外するわけには行きません。しかしそれよりも重要なことは、彼らが原爆を製造するつもりだと明言していることです。私たちの技術的評価基準から見れば、彼らが原爆を製造する、あるいはすでにもっていると考えるのに何らの技術的障害はありません。
アマンプール: 核兵器の脅威という意味では、イランと北朝鮮はどちらが大きな脅威だと思いますか?
エルバラダイ: 北朝鮮はすぐに核兵器化するプルトニウムをもっている、しかしイランには全くそんなものがない、もし核兵器をつくる物質がなければ、核兵器を作るわけにはいかないでしょう、私はそういっているんです。核兵器を作る意図があり野望をもっていたとしても、肝心の原材料がなければ、核兵器は作れません。北朝鮮は核兵器の材料をもっている、イランではそれが見いだせない。北朝鮮とイランを比較して、顕在化している脅威なり危険なりを論じる時、これだけの決定的な違いがあります。イランについては、「核兵器製造計画があるのではないかという疑い」について論じているんです。全然違う話です。 』

 北朝鮮の核開発に関心を持ったアメリカは単独で北朝鮮と交渉を持った。その結果、北朝鮮がプルトニウム型の核および核兵器開発を放棄する見返りに、2基の軽水炉型原子炉を提供することを内容とした協定に調印した。この2基の軽水炉型原子炉は約40億ドルに相当する。これがアマンプールの言う1994年の合意である。この時にカーター元大統領に頭を下げて交渉に行って貰った張本人は当時クリントン政権の国防長官だったウィリアム・ペリーである。ペリーはまさかそのことを忘れているわけであるまい。結局アメリカは、北朝鮮と単独で交渉を行うという致命的なミスを犯している。というのは当時、北朝鮮はIAEAに加盟しており、この件に関する唯一の権威はIAEAである。このことをエルバラダイは「私がまず北朝鮮に行くべきだ。」とやんわり皮肉っている。果たして、北朝鮮はアメリカさえウンと言えば何でもできると勘違いした。恐らくはインド、パキスタン、イスラエルの例が参考になったであろう。その後北朝鮮はIAEAを脱退し、アメリカを唯一の交渉相手とした。アメリカの狙いは今考えても理解に苦しむ。北朝鮮の原子力市場を自国に取り込もうと言うことだったのかもしれないが(イスラエル、インド、パキスタンがそうだ)、それにしても話がケチすぎる。この問題で北朝鮮が、アメリカが唯一の交渉相手と主張するのは、1994年の合意が根拠になっている。手に負えなくなったアメリカは問題の解決を中国の手に委ねた。それが6カ国協議の本質である。もとはといえば、核兵器不拡散問題の唯一の権威であるIAEAをないがしろにして、国際的核兵器不拡散体制の形骸化を図ってきたのは、この論文の共同執筆者のウィリアム・ペリーなのだ。現在米印原子力協定を結ぼうとしているが、これも同じ本質をもったことがらである。核兵器拡散の危険性を増大させたのはアメリカである。

 この人たちの言うことはウソが多くてとてもまともに取り合えない。人間として、とても誠実とは思えない。でも信じる人たちもまだいるんだなあ。

 「世界が新たな危険な核時代の瀬戸際にいるという事実のハイライト」は、イランやありもしない非国家テロリストではない。私も多くの人と同様、9・11事件には疑問を持っている。21世紀のトンキン湾事件である可能性を捨てきれない。北朝鮮ですらない。国民が満足に食えてすらいない国家に何ができるというのか。この事実のハイライトは、アメリカとロシアで世界の核兵器のほとんど全部を保有しているという事実である。これが地球を破滅の瀬戸際に追いやっているのである。しかもこれは新しい危険ではない。1945年アメリカが準戦時体制としての冷戦を開始するため広島へ原爆を投下して以来、大気圏核実験時代をはさんで、一貫して増大している、古くて新しい危険だ。

 こんなわかりきった「危険」をいま事新しく、おごそかに指摘するには必ず持っていきたいゴールがある。この論文を読み進めていくうちにおいおい明らかになるだろう・・・。



核兵器廃絶に実情に関する逆立ちした世界観

 テロリストの脅威を横に置いたとしても、今緊急に何らかのアクションを採らなけれアメリカは、すぐに、より足下の不確かな、心理的にもよりギザギザした、経済的にも「冷戦時代の核抑止」よりまだ金のかかる、新たな核時代に向けての突入を余儀なくされるだろう。古きソビエトーアメリカ「相互確証」体制は確かなものだった。今、世界中で増え続ける核兵器保有潜在敵とこうした「相互確証」体制を構築することは、核兵器を使用するというリスクの劇的な増大なしには難しい。新たな核兵器保有国家は、誤判断や不許可発射といった「核事故・核事件」を防いできた冷戦時代の、段階的なセーフガードの永年にわたる有利性をもっていない。ソビエトとアメリカは、致命傷には至らなかったミスから学ぶことができた。二つの国は意図的であれ、偶発的にであれ冷戦の間、核兵器の使用がないことを保証するのに精力を費やしてきた。(were diligent to ensure)新たな核国家(*ここはnuclear nations となっておりnuclear weapon nationsと書かれていない)と世界は冷戦時代同様次の50年間も幸運であり続けられるであろうか?


 このパラグラフは必ずしも文意がはっきりしない。なにか奥歯に物の挟まった言い方になっている。まず「テロリストの脅威」は別としてといっているわけだから、彼らが危機感を抱く対象はいったい何だろうか。後段で「states」「nations」と言っているから、国家を指していることは明らかだろう。核兵器不拡散条約(核不拡散条約ではない)が事実関係として確認した核兵器保有国は5カ国である。その後確実に核兵器を保有している国家はインド、パキスタン、イスラエルである。南アフリカ共和国は白人政権時代、核兵器を保有し実戦配備までしたが、マンデラ政権誕生後、これを回収廃棄した上で核不拡散条約に参加した。旧ソ連から核兵器を受け継いだ国のうち、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンの3カ国は1996年までに自国領土内の核兵器を完全廃棄するかそれに引き渡し「クリーン」になってNPTに加盟した。ラテン・アメリカにおいて、「パキスタン・インド対立の再来」と心配されたアルゼンチンとブラジルは1994年共同で非核兵器宣言を発表し、核兵器を永久に持たないことを世界に誓った上で「ラテン・アメリカおよびカリブ海非核兵器地帯条約」参加した。これを見たチリも1995年、またブラジルとアルゼンチンの参加を条件としていたキューバも1996年、非核兵器宣言を行った上で同条約に加盟した。アメリカが「ならず者国家」と名指ししたシリアもはっきり非核兵器宣言を行いNPTに加盟した。イランのアハマディネジャドですら、「核兵器保有はイラン国民の権利である。しかしイランは核兵器を持たない。」と再三再四明言している。

 世界はシュルツらが指摘する「危険性」とはまったく逆の方向に進み、既存核兵器大国を「非核兵器保有の思想」で「核兵器保有国」を包囲し始めている。シュルツらの目にはこうした動きは取るに足らぬものとしか映っていない。

 これらの国々に共通する思想は、「核兵器は持つこと、配備すること自体が危険である。だから持つだけではなくて、自分の住んでいる地域にすら持ち込んで貰っては困る。」という考え方だ。フィリピンの「非核兵器法案」なると、核兵器そのものだけでなくそれを取り扱うものも「犯罪者」扱いだ。

 このパラグラフで指摘している事態は、一体どんな事実関係を指しているのであろうか?
 次の問題。冷戦時代の「相互確証」体制がいたくお気に入りのようだが、冷戦時代「核兵器戦争」が最後の一線で押しとどめられたのは、「相互確証」があったからではない。シュルツらは「核抑止論」はもう有効ではないといいながら、しっかり「核抑止論者の論理」を使って世界を眺めている。曲がりなりにも核兵器戦争が起きなかったのは、人々に、特に各国の指導者の脳裏に「ヒロシマ・ナガサキ」の記憶がしっかり焼き付けられていたからだ。完全な証明とはならないが「マクナラマラ回想録」を読んでみればその傍証は得られる。


核実験は「核兵器の使用」

 次の問題。「核事件」「核事故」が起きないようなセーフガードが冷戦時代に存在し、そのため核兵器戦争が起きなかったように描いているが、それは誰も保証はできない。人間はミスをする動物なのだ。(特に私はそうだ。)核戦争に至らなかったのは、誰かが言ったように、単に幸運だったに過ぎない。だから「ヒロシマ・ナガサキ」のあと、1945年9月「マンハッタン計画」の総責任者ヘンリー・スティムソンは、「大統領への提言」の中で「原爆を封印してしまおう。」と呼びかけその理由として「人類にとって原爆はあまりにも革命的すぎ、危険すぎます。」といったのだ。核兵器の危険を回避するには、ややこしいセーフガードなど必要ではない。核兵器そのものを廃棄することだ。それは明日からでもはじめられることだ。

 次の問題。冷戦期間中核兵器は本当に使用されなかったか?いいかえれば核実験は「核兵器の使用」ではなかったか?特にケネディ政権の1962年(キューバ危機の年でもある)、米原子力委員会は、89回の核爆発実験を行っている。1年は365日しかない。4日に1回の割で核爆弾を炸裂させている。私の見解ではこれは立派な核兵器の使用だ。それが証拠に地球は今取り返しがつかないほどの汚染に見舞われている。いかに地球が汚染されたかを知っているのはシュルツら当事者だ。しかしその記録書類やデータ文書は未だにすべて公開されていない。フランス大統領サルコジはサハラ砂漠での実験記録やムルロア環礁での実験記録を永久に封印する法案を2007年に成立させてしまった。こうした事柄は、核実験が地球に被害を与えた「核兵器の使用」だったことを傍証している。

 このパラグラフで、シュルツらが指摘したい「核兵器の危険」とは、いったい何なのかますます分からなくなる。

 最後にもう一つ。シュルツらの危機感は、「世界に核兵器戦争が起こる危険」に由来する危機感ではない。この論文で指摘されているように、「アメリカが核兵器攻撃にさらされる危険」だ。同じことのように見えるが良く峻別しなければならない。

(文章はここで***で区切られ、章が改まった印象を与える書き方になっている。)


引用する指導者は全部ミスキャスト

 指導者たちは、早い時期にこの問題に関して意見を述べている。1953年、ドワイト・アイゼンハワーは国連で行った「平和のための原子力」(Atoms for Peace)と題する演説の中で「この人類の奇跡的な発明を人類の死のために献ずるのではなく、人類の生のために捧げる(consecrated)ため、全身全霊をもってその道を見つけ出し、この恐ろしい原子のディレンマを解決する決意」に対する誓いを表明した。ジョン・F・ケネディは、核兵器軍縮のもつれを打開する道を模索しつつ、「世界は自らその処刑を待つのみの留置場ではない。」と述べた。

 ラジブ・ガンディは1988年6月9日、国連総会で演説し、次のようにアピールした。
核戦争は単に1億人の人々の死を意味しない。10億人ですらない。それは40億人の終焉を意味する。それは私たちの惑星、地球の上の、私たちが知る限りの生命の終熄を意味する。私たちはあなた方の支持を求めて国連にやって来た。私たちはこの狂気をやめるべくあなた方の支持を求めている。」

 ロナルド・レーガンはすべての核兵器廃絶を訴え、核兵器を「完全に不合理で、完全に非人道的で、殺戮以外の何の役にも立たず、地球上の生命とその文明を恐らくは破壊してしまう」と考えていた。ミハイル・ゴルバチョフもまたこの「核兵器観」を共有していた。またこの「核兵器観」はそれまでの歴代大統領も表明してきたのである。

 レーガンとゴルバチョフはレイキャビクで、すべての核兵器から逃れるという合意に達することには失敗したが、目前の軍拡競争から引き返すことには成功した。彼らは、すべての等級の攻撃用ミサイル全廃を含む、配備済み中距離・長距離の核軍備の大幅削減にいたるステップを開始したのである。


 立派なものだ。この話の通りならすでに核兵器廃絶は実現している。確かに歴代アメリカ大統領はほとんどすべて「核兵器全廃」あるいはそれに近い話はしている。しかしそれには2つの条件がつく。核兵器全廃をする最後の国がアメリカであること、他の国が核兵器を確実に廃棄したことを確認する検証手段が確立されていること、の2つである。しかしこれは事実上、「私は核兵器廃絶は致しません。」といっているのに等しい。シュルツらはこんな話を持ち出してどうしようというのか。

 一人一人見てゆこう。まず、アイゼンハワー。私はこの人の個人的善意は疑わない。しかし、アメリカの大統領の傀儡化がトルーマンの時に始まり、アイゼンハワー政権の時にはすでに体制化していた。アイゼンハワーは恐らくそれに抵抗したのだろう。その苦悩が、1961年1月の「アイゼンハワーの退任演説」に出ているのだろう。アイゼンハワーは、核実験凍結宣言を行って、その任期最後の2年間1959年、60年、核実験は一度も行っていない。しかし、任期中の1954年、フランスはディエンビエンフーの戦いに敗れ、ベトナムから撤退を決め、以降植民地経営をアルジェリアに集中することになる。

 ベトナムでの戦いはフランスにとって、すでにアメリカの代理戦争の様相を呈していたが、この時の国務長官ジョン・フォスター・ダレスは、フランスの外務大臣・ジョルジュ・ピドーにベトナムに原爆を使ったらどうかという提案をしている。

 ピドーの回顧によれば、「最初の提案はベトミン共産軍に対する中国の補給路に対する反撃としてインドシナ国境に接する中国領に、一つか二つの原爆を落としたらどうかというものであった。2回目の提案は、ディエンビエンフーのベトミン軍に二つの原爆を投下しようという提案だったと覚えている。」

 これはピドーに直接インタビューしたロスコー・ドラモンドとガストン・ゴブレンツの二人が書いた「Duel at the Brink」(1960年ニューヨーク。ダブルビー社)に出ている話(だそう)だ。私は直接この本にあたっていない。この時ダレスはアイゼンハワーの承認をとっていなかったか?
 
 ケネディは、一般の印象と違って、核兵器には極めて積極的な大統領だった。キューバ危機ももとはといえば、ケネディが計画したキューバ侵攻作戦にその原因がある。(ピッグス湾作戦がその象徴的事例だろう。)脅威を感じたカストロはフルシチョフに助けを求める。フルシチョフは、そのためキューバに中距離核ミサイルの配備を決定する。こうしてキューバ危機が始まる。
(今、アメリカは中距離ミサイルをポーランドやハンガリーに、これらをレーダー制御するために、チェコに通信基地を配備しようとしている。アメリカは、イランに対する押さえのため、と説明しているが、そんなものは誰も信じていない。ロシア包囲網である。このため、ロシアはキューバにミサイル基地を建設しようとしている。この状況はキューバ危機の状況とよく似ている。)

 セオドア・ソレンセンはケネディの側近であり、後に「ケネディ」と題する伝記(1965年ニューヨーク、ハーパー社)を書いているが、その中で、
アメリカ統合参謀本部は、(1961年のラオス危機の時、)パテト・ラオに停戦をのませるために、第一段階としてタイとベトナムに通常兵力の上陸を提案した。これが失敗した場合参謀本部は第二段階としてパテト・ラオの拠点に対して、空爆と戦術核兵器の配備を提案した。もしもそれでも共産軍の大部隊が動員されるならば、核爆弾投下の脅しをかけ、そして必要ならそれを実行する。もしもソ連がそれについて介入してくるなら、われわれは『全面核戦争の可能性を受け入れる覚悟』をしなければならない。」
 という話を書いている。

 ラジブ・ガンディに至っては、なぜこの論文でラジブ・ガンディを登場させるのか分からない。ガンディ家の威光がまだ有効と思っているのか。インディラ・ガンディの長男で第6代のインド首相である。ガンディがこの演説をする10年以上も前、インドは核実験に成功しすでに核兵器保有国になっているのである。まったく説得力がないと言わざるを得ない。しかもインドはその後、NPTの枠外に立ち続け、これに対抗する形でパキスタンがやっと1998年に核実験に成功し核保有国になるのである。シュルツらのいう「核兵器拡散の危険性」の代表例みたいなものである。

 レーガンとゴルバチョフがレイキャビクで云々、は1986年10月11日、12日にわたって開かれた米ソ首脳会談のことだろう。ゴルバチョフ書記長、中距離核(INF)、戦略核、宇宙兵器の全三分野にまたがる包括的で大幅かつ具体的な削減提案がおこなわれ、一時は中距離ミサイル、戦略核の削減などかなり大胆な合意事項が成ったかにみえた。だが、レーガン米大統領は焦点となった戦略防衛構想(SDI)に対する規制を拒否、結局、レイキャビク会談は決裂した。ゴルバチョフの核兵器廃絶につながる提案に対してレーガンが拒否したという格好だ。レーガンはここで描かれている大統領では決してない。スピーチライターの書いた原稿を上手に演説して見せるだけの大統領だ。知らない人が聞いたら本気にする。


気になる微妙な言い換え

 レーガンとゴルバチョフが共有する「核兵器観」を復元するには何が必要なのだろうか?核の危険性(*ここも核兵器の危険性ではなく、核の危険性になっている)大幅に削減する道に通ずる、一連の実効性のあるステップを明確にする世界的コンセンサス形成することは可能だろうか?

 不拡散条約(The Non-Proliferation Treaty-NPT)は、すべての核兵器の終結を目指したものだ。この条約は、(a) 1967年現在核兵器を所有していない国家はその取得をしないことに同意し、(b) 核兵器保有国は、時間をかけて(over time)その保有する核兵器から脱却する(divest)ことに同意する、ことを謳っている。リチャード・ニクソン以来、超党派的にすべての(アメリカの)大統領はこの義務を再確認してきたが、しかし非核兵器国家は核兵器大国の誠実さに対してその疑念をますます大きくしている。


 このパラグラフでは、シュルツらの微妙な言い換えがとても気になる。まず不拡散条約はThe Non-Proliferation Treatyではない。Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons (NPT)である。核不拡散条約ではない。核兵器不拡散条約(http://disarmament.un.org/wmd/npt/npttext.html)である。この微妙な言い換えは、無意識なのか意図的なのか。シュルツらは核兵器不拡散条約のポイントを上記2点に絞ったが、この絞り方は正しいのか。そうではあるまい。外務省の概要説明(http://www.mofa.go.jp/Mofaj/gaiko/kaku/npt/gaiyo.html) では、前文的文章を省略しているが、その中でも条約締結国の「原子力平和利用の権利」を謳い、第4条第1項では「この権利は奪い得ない権利」としている。

 すなわち核兵器不拡散条約では、締結国の原子力平和利用も重要な骨子なのだ。つまりこういうことである。1967年時点で、事実関係として核兵器保有国は5カ国ある。しかし、できるだけ早い機会に核兵器は廃絶しなければならない。だからこの条約に参加する非核兵器保有国は将来にわたって核兵器を保有しない義務を負う。一方核兵器保有国はできるだけ早い機会にその保有する核兵器を廃棄しなければならない義務を負う。非核兵器保有国には核の平和利用の権利がある、この条約はその平和利用を援助し推進する義務を負っているということだ。

 シュルツらの要約は、無意識か意図的か、この締結国の「平和利用の権利」に触れていない。また核廃絶の時期についても前文的文章で、「at the earliest possible date」と謳っており、シュルツらの論文の、時間をかけてとかやがては(over time)という表現とは相当ニュアンスが違う。こうした微妙な言葉の言い換えがとても気になる。

 次が事実関係。歴代大統領はこの義務を再確認して来た、というが本当にそうか。締結国はIAEAを唯一の権威として、その査察を受けなければならないが、アメリカはいわば抜き打ち査察を受け入れることを承認した追加議定書を未だに批准していない。約束通りのことが行われているかどうかを検証するには査察を受け入れなければならないが、そのためにはこの追加議定書の批准が不可欠である。批准は歴代大統領の仕事ではなく、議会の仕事というかもしれないが、少なくとも歴代大統領がこの批准を議会に強力にもとめた形跡はない。

 非核兵器保有国の不満は、こうしたアメリカのこれまでの態度にその根本的理由がある。


レイキャビク会談の本質を歪めている

 強力な不拡散努力が今進行中である。共同脅威削減(The Cooperative Threat Reduction )計画、地球規模脅威削減イニシアティブ(the Global Threat Reduction Initiative)、拡散に関する安全保障イニシアティブ(Proliferation Security Initiative)そして追加議定書は、NPTに違反し世界を危険にさらす活動を発見するための強力な新しいツールを提供する革新的なアプローチである。これらは全面的に実施すべきである。

(* ならばアメリカも早く追加議定書を批准するように強力に米議会に働きかけるべきであろう。)

 北朝鮮とイランによる核兵器核拡散(*ここはNuclear Weaponとなっている)に関して、国連安全保障理事会・常任理事国にドイツと日本を加えた国々が関与する協議を行うことは極めて重要である。これらはエネルギッシュに追求されねばならない。

 しかし、それらの措置はいずれもそれだけでは、この危険に対処するには不十分である。20年前レーガン大統領とゴルバチョフ大統領は、レイキャビク会談でそれ以上のものを達成しようとした。つまり核兵器の完全廃棄である。

(* 確かにゴルバチョフはそうだ。核兵器などというものはゴルバチョフにとっては重荷以外の何物でもなかったのだから。しかしレーガンにはそうではなかった。時代遅れの核兵器を廃棄し、イージス・システム、ステルス・システム、ミサイルを自由に発射できる潜水艦、大型航空母艦など、ポスト冷戦時代の核兵器の更新を進めたかったのだ。それを象徴するのが当時のSDI計画だった。お互いの思惑が違ったのだ。それがレイキャビク会談決裂の本質だ。その核装備の近代化を強力に推し進めたのが、この論文の共同執筆者のペリーである。)

 彼らのビジョンは、核抑止専門家に衝撃を与えたが、世界中の人々に希望を抱かせた。最大の核兵器備蓄をもつ2国の指導者が、最も強力な兵器の廃絶について議論したのである。

ここで再び***で区切られ章替えといった体裁となる。しかし、この論文の散漫さはどうだろう。NPT体制に対する非核兵器保有国の不満を掘り下げるのかというそうでもない。歴代大統領の言葉は並べるが、その政策を検証するわけでもない。レイキャビク会談などいう核兵器廃絶の過程から言えば、およそ無意味な会談が出てくるだけだ。それも中身に触れず、無内容な言葉の羅列だ。誰が実際の執筆者なのか。広告代理店的無内容さだ。)


狙いはイラン国際包囲網形成だった

 何をなすべきであろうか?NPTが約束した内容とレイキャビクで思い描かれた可能性は実現するだろうか?具体的な段階を通じて前向きな解答を生み出すためには、アメリカが大きな努力をすべきだとわれわれは考える。

 なによりもまず、核兵器を保有する指導者たちに、核のない世界を目指すことを共同の事業とするために熱心に働きかけることが必要である。

(* それはその通りだが、なにかがおかしい。この言葉の内容のなさだろう。NPT体制を守るために必要な具体的なステップが語られていないからか。)

 核兵器を保有する国々の基本戦略の変更を含むこの共同事業は、北朝鮮とイランの核武装化を避けるためにすでに行われている努力にさらなる重みを付け加えることになるだろう。

問いに落ちずに語るに落ちた、という案配だ。
「核兵器廃絶を核兵器保有国の指導者に呼びかけ、核兵器廃絶共同事業」も、北朝鮮、イランに対する圧力の『重み』でしかないわけか。

もちろん狙いは北朝鮮にはない。イランにある。実際に核兵器実験を行った北朝鮮―それも実験に成功したかどうかは疑わしいがーとまったくその証拠がないイランを並列に置いて、これが現在の核兵器拡散の証拠である、と決めつける論法は最初からおかしいと思っていたが、この論文の目的の一つは、イラン国際包囲網形成にあったわけだ。ここではいつの間にか、もっとも危険なはずのテロリストもいなくなっている。パキスタン、インド、イスラエルもいなくなっている。

彼らの世界観では「危険の元凶」は北朝鮮とイランだ。北朝鮮はつけたりとすれば、狙いはイランだ。

アメリカのイランに対する執着は、CIAが1950年代、モサデク政権を倒して以来、凄まじい。IAEAのカントリープロファイルを見ると、イランは今のまま輸出を続けても300年間は継続できるほどの石油埋蔵量がある。天然ガスの埋蔵量はロシアに次いで第二位だ。地熱発電にも適しているし、風力発電にも適している。おまけにウラン埋蔵量もなかなかだ。おまけに人口もこのところ急増して2007年には7000万人を越えた。USドルとアメリカ国内物価による購買力平価―PPP―によるGDPは、CIA報告・世界銀行のいずれのランキングによっても、2007年、世界15位にまで急進している。アメリカの経済制裁などは何の役にも立っていないのだ。

そのイランは急成長する電力需要を原子力発電で相当量まかなう計画をもっている。これから世界の中で急成長が見込める原子力発電需要の中でも、トップクラスの市場力だ。そのイランの原子力発電市場はすでにロシアの手に握られている。その市場の魅力はとてもイラクなどの比ではない。アメリカの軍産複合体制グループとそのまた背後にいる金融資本グループはどんな思いで、このイラン市場を見ていることか。

もうこのつまらない論文の先を続けるのは意味がない。彼らの狙いの少なくとも一つははっきりした。問題は、世界がこれら論文グループの口車に乗ってイラン包囲網国際世論づくりに力を貸すかどうかだ。今年の広島・長崎の平和宣言を見る限り、進んで乗っていっているようにも見えるが・・・。)



(* 以下は田中宇の8月5日付け「エネルギー覇権を広げるロシア」- - -http://tanakanews.com/080805russia.htm-からの抜粋である。なかなか正確な記事で、シュルツらの論文の背景を考える上で参考になる。)

 イランの核兵器開発疑惑をめぐっては、(08年)7月19日の交渉で米が譲歩を示したものの、米が指定した2週間の期限が8月3日にすぎてもイランは譲歩せず、欧米はイランに対する経済制裁の再強化を検討している。だがもはや米欧がイランを制裁しても、イランは中露などに石油ガスを売れるので、悪影響は少ない。制裁は単に、欧米企業がイランで持っていた石油ガス利権が中露やインドの企業に奪われて終わる傾向が強くなっている。

 経済制裁が有名無実化しつつあるのを見て、欧州勢の中からは、中露などに利権を奪われるより、米イスラエル主導の制裁に協力せず、イランとのビジネス関係を強化した方が良いと考える傾向を強めている。

 ドイツ政府は7月30日、独エンジニアリング会社SPGがイランの3カ所に天然ガス液化工場を建設する事業に対し、許可を出した。対イラン制裁強化を求めるイスラエルは、独政府の決定を「イラン制裁の精神に反している」と非難したが、独政府は「イラン制裁は核関連技術の輸出禁止のみであり、天然ガスは関係ない」と反論している。イランとの経済関係が最も太く、国連とイランとの交渉の中枢にいたドイツの今回の決定は、対イラン制裁の有名無実化を象徴している。

 欧州企業では7月末、ノルウェー国有石油ガス会社(StatoilHydro)が、米政府からの圧力を受け、イランの油田(Azar)の開発計画を延期することを決めた。

 しかし同時に、ノルウェー国有石油ガス会社は、アゼルバイジャンのガス田開発を手がけているため、ロシアとイランが拡大しようとしているガスOPEC(GECF)への参加を誘われている。アメリカやEUは、ノルウェーがガスOPECに入ることに不賛成だが、イラン制裁が有名無実化し、米の強硬姿勢の失敗のせいで欧米が露中にイランや中央アジアの石油ガス利権を次々と奪われる中で、ノルウェーなど欧州の企業が今後どこまで米の反露・反イラン政策につき合うかは疑問だ。米がノルウェーに圧力をかけ、力づくでイランの油田開発から手を引かせたことは、むしろノルウェーをガスOPECに近づけてしまっている。

 最近のイラン制裁の有名無実化によって、欧米が経済制裁によってイランにウラン濃縮を止めさせることは不可能になっている。イスラエルが、米チェイニー副大統領から頼まれているイラン空爆をこのままやらない場合、イランは国際社会から許され、受け入れられていく方向に進みそうだ。 』