【参考資料】外交問題評議会  2011.1.2

<参考資料> ピーター・G・ピーターソン(Peter George Peterson)について

 

2007年まで外交問題評議会会長

 ピーター・ピーターソンといえば、長い間外交問題評議会の会長だったデビッド・ロックフェラー(David Rockefeller)の後を継いで会長職を務めた人物である。2007年会長を辞めたあとは栄誉会長(Chairman Emeritus)の地位にとどまっている。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/CFR/02.htm>)


ニクソン政権時代の商務長官だった頃のピーターソン。
(英語Wikiからコピー・貼り付け<http://en.wikipedia.org/wiki/Peter_George_Peterson

 最近ピーターソンについて調べておきたいことがあり、英語Wikipediaの記述(<http://en.wikipedia.org/wiki/Peter_George_Peterson>)などを読んだ。

 ピーター・G・ピーターソンは1926年6月5日生まれと言うから今年85歳である。英語Wikipediaは、彼を「アメリカのビジネスマン」、「投資銀行家」、「財政保守主義者」、著述家、政治家として紹介している。

 政治家としてもっとも高い地位にあったのはニクソン政権の時の商務長官であろう。ただし1972年の2月から1973年の2月までの1年間しか在職していない。彼の本領は経営者であり、投資家であり、陰のセットアッパーというところにある。

 1963年から1971までは、ベル・ハウエル(Bell & Howell)の会長兼CEOだった。ベル・ハウエルといえば今はもう存在しないが、かつてはアメリカを代表する光学機器関連メーカーだった。日本のカメラ業界にはお馴染みの会社である。だからピーターソンはベル・ハウエルの会長からいきなり商務長官になったことになる。「いきなり」というのは、ベル・ハウエルは業界では有名な老舗企業ではあったが、アメリカを代表するというにはほど遠いいわば準大手企業だったからだ。

 商務長官を退任した後は、2008年の「リーマン・ショック」で倒産したリーマン・ブラザーズに入り1973年から1984年で会長兼CEOを務めている。この期間に外交問題評議会入りし、2007年の6月30日まで外交問題評議会の会長(chairman)を務めている。

 また、ピーターソンは未公開株専門の投資顧問会社ブラックストーン・グループの共同設立者でもある。ブラックストーン・グループは後でちょっと調べて見る機会もあるだろう。

ギリシャ移民の子
 
 2008年ピーターソンは、2008年フォーブス誌の“最も金持ちのアメリカ人400人”の149位にランクされた。この時純資産28億ドル。(1ドル=80円としてみると、2240億円。もちろん2008年当時は、ドルはもっと強かった。平均1ドル=100円くらいか。)

 同じ2008年、ピーターソンは「ピーター・G・ピーターソン財団(The Peter G. Peterson Foundation)を10億ドルの基金で設立している。

 ピーターソンは、ネブラスカ州のカーニ(Kearney)というとんでもない田舎町で生まれている。英語Wikipediaで見てみると(<http://en.wikipedia.org/wiki/Kearney,_Nebraska>)、わざわざ“Kearney is pronounced /□karni/ "kar-ney", not "ker-ney"”と発音記号まで記してある。一般アメリカ人に取っては発音もままならない田舎町だ。2009年人口は約3万人。ピーターソンが生まれた1926年当時は7000人から8000人だった。

 両親はギリシャ系移民。1923年以来この町で大衆食堂を経営していた。ギリシャ系の移民は何故か大衆食堂を経営する傾向が強い。私がニューヨークで暮らしていた1970年代から1980年代の終わりにかけて、ニューヨークでも大衆的なコーヒーショップは何故かギリシャ系アメリカ人が多かった。

 この町で、彼はギリシャ風の名前「ゲオルギオス・ペトロプーロス」を「ジョージ・ピーターソン」と英語風の名前に変える。

 中等教育はこの地域で受けたのだろうが、卒業大学はノースウェスタン大学だった。ノースウェスタン大学はシカゴに本部を置く有名私立大学だ。ピーターソンは卒業時「スーマ・クム・ローデ」“summa cum laude”の称号を得ているから最優等生だったのだろう。後のことになるが、ピーターソンはロックフェラー家に見いだされて出世街道をばく進していくことになるのだが、その意味ではロックフェラー家の政治的大番頭、ドイツ系移民の子、ヘンリー・キッシンジャーと非常に似かよった経歴をもつ。アメリカン・ドリームを自ら体現した立志伝中の人物といってもいいだろう。

 大学を卒業すると、シカゴの市場調査会社、「マーケット・ファクツ」(Market Facts)に入った。1951年シカゴ大学のブース・ビジネス・スクールで経営学修士(MBA-Master of Business Administration)を取得している。この直前に「マーケット・ファクツ」では執行副社長に昇進している。

 1953年広告代理店の大手マッキャン・エリクソン(McCann Erickson)に取締役の一人として入社。同社がヨーロッパ展開を一巡してラテンアメリカに進出しようとして頃だ。アメリカ国内ではすでにトップクラスの広告代理店だった。日本への進出は博報堂と組んでの展開だった。1958年、ベル・ハウエルに執行副社長として入社。(ベル・ハウエルは恐らくはマッキャンの顧客だったのだと思うが確認できていない。)そして前述のごとく1963年に同社の会長兼最高執行責任者(CEO)になり、1971年までその職に止まる。

 とここまでは、ありふれたビジネスマンの「出世物語」だ。普通ここが出世の終着点になるのだが、ピーターソンの場合は違った。

ロックフェラーに見いだされる

 1969年というから、ピーターソンがベル・ハウエルのCEOだった頃だ。ジョン・D・ロックフェラー三世(John D. Rockefeller 3rd)と当時外交問題評議会の会長だったジョン・J・マクロイ(John J. McCloy)、ダグラス・ディロン(Douglas Dillon)に招聘されて、「財団と私的慈善に関する委員会」(Commission on Foundations and Private Philanthropy−後にピーターソン委員会と呼ばれるようになる)の会長になったのだ。この委員会の設立資金はジョン・D・ロックフェラー三世が出したらしい。(<http://www.ulib.iupui.edu/special/collections/philanthropy/mss023>)

 さあ、どこから手をつけようか?

 まずジョン・D・ロックフェラー三世から見てみよう。彼はロックフェラー財閥の創始者でスタンダード石油グループを一代で築き上げた、まさに立志伝中の人物、ジョン・D・ロックフェラー一世の直系の孫にあたる。子供はアビー(Abby)、ネルソン(Nelson)、ローランス( Laurance)、 ウィンスロップ(Winthrop)そして末子のデビッド(David)と5人いた。このうちネルソンはフォード政権時の第41代副大統領、第49代ニューヨーク州知事になった人物。末子のデビッドは、チェース・マンハッタン・グループの会長として君臨し、現在のJPモルガン・チェースの事実上のオーナーの一人。外交問題評議会の事実上のオーナーでもある。現在ロックフェラー家の当主と目されている人物だ。

 ジョン・D・ロックフェラー三世は1906年に生まれて1978年に亡くなっているから、「財団と私的慈善に関する委員会」の設立を思い立ち、ピーターソンを招いたのはその最晩年の事業と言うことになる。

 この記事との関連で見ておかなければならないことは、外交問題評議会とJPモルガン財閥とロックフェラー財閥の関係である。


外交問題評議会とモルガン財閥

 外交問題評議会はもともとモルガン財閥系の人脈で作られた。

 『当初、外交問題評議会は、モルガンと利益関係を持つ人々との強いつながりがあった。法律家のポール・クラバスなどがそうである。クラバスのニューヨークの法律事務所はモルガンの仕事を代表していた。またモルガンのパートナーの一人、ラッセル・コーネル・レフィングウエルは、のちに評議会の会長になる。評議会の財政委員会委員長アレキサンダー・ヘンフィルは、モルガン・ギャランティ・トラストの会長でもあった。ニューヨーク・イブニング・ポスト紙の編集長だった経済学者のエドウィン・F・ゲイは、評議会のセクレタリー兼トレジャラーだったが、そのニューヨーク・イブニング・ポスト紙はモルガンのパートナーであるトーマス・L・ラモントが所有していた。このほかにモルガンと密接に関係をもっていたメンバーをあげると、元国務次官のフランク・L・ポークはJ.P.モルガン商会の弁護士だったし、元ウイルソン政権の国務次官だったノーマン・H・デイビスは、モルガン家の銀行業務担当役員だった。しかしながら時が経つにつれ、冷酷にも権力の中心はロックフェラー家へと移っていった。ポール・クラバスの法律事務所は、またロックフェラー家をも代理していた。エドウィン・ゲイは、季刊雑誌「フォーリン・アフェアーズ」の創刊を提案した。彼はアーチボルト・ケアリー・クーリッジを初代編集長に、そしてニュートーク・イブニング・ポストの記者だったハミルトン・フィシュ・アームストロングを編集長補に推した。クーリッジは評議の執行理事を兼任した。』(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/CFR/01.htm>の「モルガンとロックフェラーの関与」の項参照の事。)

 『最初のうちだけだったが、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニア(ジョン・D二世)も定期的な寄贈者になって、毎年寄付をしたし、彼の会社も(マンハッタンの)東65丁目にある評議会本部に多額の寄付金を送った。1944年、スタンダード石油の重役だったハロルド・I・プラットの未亡人は、パーク・アベニューと68丁目の角にあったプラット家の4階建ての邸宅を評議会に寄付した。これが現在も「ハロルド・プラット・ハウス」として評議会の本部建物となっている。』(前出)

 『ロックフェラー(ジョン・D三世)の息子たちも何人かは、その年齢になると評議会に参加した。1949年にデビッドが理事に就任した時、彼は最年少の理事となった。(デビッドは1915年生まれだから、30代半ばで評議会理事となったことになる。)その後1970年から1985年まで評議会会長を務め、現在彼は名誉会長である。1940年、彼が兄弟とともに設立した代表的な慈善団体、ロックフェラー・ブラザース財団はずっと評議会に、1953年から少なくとも1980年まで、資金援助をしている。』

ロックフェラーに実権が移行

遅くとも1950年代に入るまでに外交問題評議会の実権はロックフェラー側に移行したと考えられる。

 ジョン・D三世は、息子のデビッドやネルソンと違って、経済界や政治の世界で活躍した形跡がない。それよりも篤志家・慈善事業家(フィランソロピスト。Philanthropist)として歴史に名を止めている。それは「強欲ロックフェラー家」の世間の非難をかわすためだった、という以上にロックフェラー財閥の主流が石油産業から金融業にシフトしていたことと関連があろう。つまりジョン・D三世は世界を「金融業界」にとって都合の良い体制に作り替えることがその仕事だったと考えられるのである。

 そこで、「財団と私的慈善に関する委員会」(Commission on Foundations and Private Philanthropy)なる団体についても見ておこう。これは前述のごとくジョン・D三世が設立したものだが、結果としては「社会的慈善事業」に対する税制改革に大きな影響力をもった。社会的慈善や寄付事業においては税制優遇措置が与えられる制度構築に大きく貢献した、と云うことができるだろう。(もう少し詳しく調べてみないとわからないが、慈善団体基金を隠れ蓑にして相続税を免れる制度作りにも大きく寄与したのではないかと思える。)
 
 ジョン・J・マクロイ、ダグラス・ディロン(財務長官、国務長官の経歴がある)についても詳しくつっこみたいが、本筋を外れそうなので割愛する。ただ、マクロイは私に取っては印象深い人物だ。フランクリン・ルーズベルト政権そして第二次世界大戦中のトルーマン政権の陸軍長官だったヘンリー・スティムソンにいつも影のように寄り添っていた人物だ。「J・Jマクロイ」の名前はスティムソン日記にしょっちゅう登場していた人物だ。この時スティムソンの補佐官である。またマクロイはJPモルガンとチェース・マンハッタンを繋ぐ人物としても注目すべきで、チェース・マンハッタン銀行の会長も務めたことがある。この時期外交問題評議会の会長だった。

 さてこうして、ピーターソンはロックフェラー家のバックアップでアメリカの支配階級入りを果たすのである。

最近のピーターソン。(ネブラスカ大学リンカーン校のサイトからコピー・貼り付け。<http://enthompson.unl.edu/2005.shtml 


政界入りとブラックストーン・グループ

 1971年といえば、ピーターソンがベル・ハウエルのCEOだった最後の年にあたる。この年、ピーターソンはニクソン政権入りし、国際経済問題担当の大統領補佐官に指名される。キッシンジャーが外交問題担当の大統領補佐官になったころだ。1972年、前述のごとくニクソン政権で商務長官を1年間務めている。この時期「米ソ商務委員会」のアメリカ側委員長も務めている。

 こうなるとピーターソンは、単なるベル・ハウエルの経営者ではなく、押しもおされもせぬアメリカ政財界の大物の一人となった。

 そうして、商務長官を辞めた後、1973年リーマン・ブラザーズの会長兼CEOに迎えられる。リーマン・ブラザーズはこれもウォール・ストリートの名門企業クーン・ローブと合併しリーマン・ブラザース・クーン・ローブ(Lehman Brothers, Kuhn, Loeb Inc.)となるわけだが、この時期を含め1984年まで会長兼CEOとして君臨し、ニューヨーク金融業界の大立て者となっていく。

 1985年ピーターソンはスティーブン・シュワルツマン(Stephen A. Schwarzman−リーマン時代の同僚)と共にブラックストーン・グループを設立する。そしてその会長に納まる。

 ブラックストーン・グループ(the Blackstone Group<http://www.blackstone.com/cps/rde/xchg/bxcom/hs/Home.htm>)は、未公開株を扱う投資顧問会社で、ニューヨーク証券市場にも上場する大企業に成長した。従業員は約1300名という。(<http://en.wikipedia.org/wiki/Blackstone_Group>)2010年現在135億ドル規模の資金をもっているという。もっとも「金融工学」花盛りの2006年当時は217億ドル規模の資金をもっていたから、半減に近い。2008年のリーマン・ショックでバブルがはじけたのである。英語Wikipediaを見ても批判的な記事は見当たらないが、アメリカの現在の経済発展モデル、すなわち「金融産業発展モデル」の最先端を行く会社でもある。しかし、「金融産業発展モデル」もバケの皮が剥がれてきたといえば言い過ぎになるかも知れないが、アメリカの経済を実際経済(real economy)から遠ざけ仮想経済(virtual economy)化した張本人企業の一つであることは間違いない。

 もっともピーターソン個人は、このブラックストーン時代に厖大な個人財産を作り上げた。英語Wikipediahttp://en.wikipedia.org/wiki/Peter_George_Petersonは、2007年にブラックストーンが上場した時手にした19億ドルを含め、ピーターソンの個人資産はブラックストーン時代に作ったものだとしている。

連邦政府赤字削減派

 1992年ピーターソンは、「コンコルド連合」(the Concord Coalition)を共同で設立した。コンコルド連合は無党派の市民グループとされ、連邦政府の赤字削減を主唱している。英語Wikipedia「アメリカのシンクタンク・リスト」(List of think tanks in the United States<http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_think_tanks_in_the_United_States>)は「コンコルド連合」をシンクタンクの中に分類している。

 ジョージ・W・ブッシュ政権の記録的な財政赤字を見て、2004年ピーターソンは『私は依然として共和党員である。しかし共和党は理論や信念からほど遠い政党になってしまった。その証拠は枚挙にいとまがない。』と述べている。(<http://www.businessweek.com/magazine/content/04_52/b3914021_mz007.htm>を参照の事。)

 確かにジョージ・W・ブッシュ政権が作り上げた連邦政府の財政赤字は凄まじい。2001年3月末5兆8000億ドル規模だったアメリカ財務省証券の発行残高(事実上のアメリカ国債)は、8年後のブッシュ政権末期には2009年12月末で10兆700億ドルにふくれあがっている。ほぼ2倍の規模だ。しかし共和党・民主党には関わりない。アメリカ連邦政府が借金して支出しなければ、アメリカ経済は立ち行かない事態になっている。オバマ政権になってからでも、連邦政府の財政赤字は拍車がかかっている。(以上「財務省証券(アメリカ国債)の保有者−2010年12月発表」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Economy_of_the_US/05.htm>を参照の事)

 しかしピーターソンが「財政赤字」を非難するのも若干欺瞞であろう。というのはピーターソンを代表格とするアメリカの金融業界は、アメリカ政府の借金を促進し、その資金を「金融経済成長モデル」の原資としてきたいきさつがあるからだ。早い話2008年のリーマン・ショック後の経済危機で連邦政府が大規模な財政支出をして、金融業界に資金を注入しなければ、ブラックストーンやJPモルガン・チェースを含めて、今残っている大手金融企業は1社もなかったろう。

 1985年といえば、ピーターソンがリーマン・ブラザーズをやめて、ブラックストーンを設立した時だ。ピーターソンは、デビット・ロックフェラーの後を継いで外交問題評議会の会長になる。そして2007年にカーラ・ヒルス(Carla A. Hills。元アメリカ通商代表)とロバート E・ルービン(Robert E. Rubin。元ゴールドマン・サックス会長)の2人の会長の座を譲って、栄誉会長になる。

 ピーターソンは今でもロックフェラー家との関わりは深い。ロックフェラー家が設立した「日本協会」(Japan Society)やニューヨーク近代美術館(the Museum of Modern Art)の信託委員の一人でもあるし、ロックフェラー家の不動産会社「ロックフェラー・センター・プロパティ社」(Rockefeller Center Properties, Inc.)の役員の一人でもあった。

 2000年から2004年まではニューヨーク連邦準備銀行(the Federal Reserve Bank of New York)の会長(総裁)も務めた。

 2008年ピーターソンは、ピーター・G・ピーターソン財団(the Peter G. Peterson Foundation)を設立、その趣旨は国家負債、連邦政府赤字、国民の受給権計画、税金政策など国家財政の持続性に対する大衆の関心を高めるため、としている。2008年にはドキュメンタリー映画「I.O.U.S.A.」などを制作配給もしている。(<http://www.iousathemovie.com/>)

 (「I.O.U.」は借用証書のこと。USAとひっかけてもじった題名と思われる。)

 2010年8月ピーターセンは「寄贈誓約」("The Giving Pledge")に署名し、「寄贈誓約」に参加する40人の十億万長者の仲間入りをした。「寄贈誓約」は自分の保有する冨の半分を社会に慈善目的で寄贈することを誓う慈善団体で、ビル・ゲーツやウォレン・バフェットなどがはじめた。