(原文:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/
ferrell_book/ferrell_book_chap18.htm )
1.註nで番号付きの記述は、「トルーマンと原爆」の編者ロバート・ファレルの註である。
2.(*)で青字は私の註である。
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「歴史学者ジェームス・ケイトからトルーマンへの手紙」
痛いところを衝かれたトルーマン
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シカゴ大学の歴史学教授、ジェームズ・L・ケイトは、執筆・編集中だった「第二次世界大戦中の米陸軍航空隊」(完成後全7巻)のテーマに関して、任期最終年1952年12月、トルーマンに質問の手紙を送る。質問の中心は、『ポツダム宣言は45年7月26日に発布されている、その1日前の7月25日に軍事的には、「日本への原爆投下」が命令されている。』、これは『ポツダム宣言で警告したにもかかわらず、日本が拒否したので原爆を投下した。』という戦後の公式的なトルーマン政権の説明と矛盾している、というものだった。 |
(以下手紙本文) |
シカゴ大学 シカゴ37、イリノイ州
歴史学部 1126東59番街
大統領 ワシントンDC
拝啓、
ここ数年、歴史「第二次世界大戦中の陸軍航空隊」の執筆者・編集者の一人としてこの仕事にあたったのは私にとってまことに僥倖でした。この歴史書は、シカゴ大学・米国空軍の共同予算のもとで発行する、非営利目的のものです。(1)
(*第二次世界大戦中、米空軍は陸軍に属し、陸軍航空隊だった。陸軍から空軍が独立し、米空軍―U.S. Air Forceとなるのは1947年のことである。)
現在発行されたばかりの第5巻における私の仕事の一つが、広島及び長崎に対する原爆攻撃に関して執筆することでした。「原爆の使用」の決断に関して、私がどうしても解決できなかった、事実関係での明らかな跛行的問題に直面しております。大統領のお時間を取ることについて恐縮に存じておりますが、あなたがベストの、そして恐らくは単一の権威であると存じ、ご教示いただきたいと存じます。
私は、多大な興味を持って、1945年8月6日に発表されたあなた自身の声明を読みました。
(*ケイトは「原爆投下直後の大統領声明」のことを言っている。これは、米広告代理店業界出身のアーサー・ページなどにスティムソンが書かせて、当時ポツダムにいたトルーマンのもとにクーリエ便で送って署名を取り、原爆投下直後直ちに発表したものである。アーサー・ページは一民間人の立場でありながら、時々暫定委員会に招聘者として参加していた。)
また私は1947年2月号のアトランティック・マンスリー誌に掲載されたカール・T・コンプトン博士の論文、また1946年12月16日付のあなたのコンプトン博士に宛てたお手紙も読みました。
(*アトランティック・マンスリーの47年2月号といっているが、これは46年12月号の間違い。ロバート・ファレルは読むものに取って自明のこととし、特に註を入れていない。)
また私は1947年2月号のハーパーズ・マガジンに発表された故スティムソン氏のさらに詳細にわたる記事も読みました。7月26日の「ポツダム宣言」に含まれている警告に対しての鈴木(*貫太郎)首相の拒否に「直面し」、それが主たる要因となって、あなたがポツダムで勇気をもってなさるるべき、恐ろしい決断をなされた一連の完全な証言、それから11月に予定されていた九州侵攻に伴う大きな損害を避けるためが、(*原爆使用の)動機であることなどが、スティムソン氏の記事に読み取ることができます。
つい最近、私はカール・スパーツ将軍へあてた命令で、予定されていた4つの爆撃投下目標地のうちの一つに爆撃するようにとした内容の指示書を、写真複写で見ました。秘密解除文書で複製を同封しておきます。この手紙(*指示書のこと)は1945年7月25日の日付で発信地はワシントンとなっており、マーシャル将軍がポツダムに出向いて留守のため、トーマス・ハンディ陸軍参謀総長代行の署名が添えられています。アーノルド将軍の発言によれば<H・H・アーノルド、“グローバル・ミッション”、ニューヨーク:ハーパーズ社 1949年 589P>、この指示書は、7月22日アーノルド自身、マーシャル将軍、スティムソン長官の間の会議での後、クーリエでワシントンにもたらされたメモランダムが元になっている、との事です。(2)
この指示書は、「1945年8月3日の後、有視界爆撃を許す天候の下、できる限り早く」爆撃を行うようにという不確定命令が含まれております。翌日(この指示書の翌日、7月26日)に発せられるポツダム宣言のことは全く触れられておりません。また8月3以前に日本が降伏した場合にはどうするかについても全く触れられていません。書面での命令が口頭での指示に基づく可能性もあります。あるいは日本がポツダム条項を受け入れた場合、無線電信で(*原爆投下の)命令を取り消す場合もあり得ます。またこの指示書が、スティムソン陸軍長官の真の意図を誤って表現したのかもしれません。
いずれの場合にしろ、この指示書の意味するところは、ポツダム宣言発布の最低限1日、すなわち東京時間7月28日、鈴木(*貫太郎首相)の拒否の2日前に、原爆投下の命令がなされているという事であります。このような理解は、すでに発表された発言(*この場合は、スティムソン署名論文のことをさしていると思われる)に含意される説明と明白な矛盾を起こしております。
この問題の極めて大きい重大性に鑑み、あなたがこの最終決定にいたる状況及び時間軸に関する、より完全な形での情報を出していただくこと、また私が手がけた第5巻であなたの回答に言及する許可をだしていただきたいと強くお願いするものです。
歴史に関してあなたが強い興味をお持ちであることはよく知られております。そのことが私をして、直接の情報源に情報をもとめることを励ましてくれました。正確にこの問題を叙述したいという要求でこの長い手紙をしたため、あなたの極めて過密なスケジュールに闖入することに対してはお詫びを申し上げます、しかし歴史家としてはそうすべきであります。
敬具
ジェームズ・L・ケイト |
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註記:
(1)
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「第二次世界大戦中の陸軍航空隊」全7巻はウエズリー・フランク・クラバン、ジャームズ・リー・ケイト共編で完成された。(シカゴ:シカゴ大学出版 1940−1958) |
(2) |
ヘンリー・H・アーノルド陸軍元帥(General of the Army)は戦時中、陸軍航空隊総司令官。 |
(* |
トルーマン政権中枢としては痛いところを衝かれた、というべきであろう。確かに戦後のトルーマンや47年2月号のハーパーズ・マガジンに掲載された、スティムソン署名入りの論文では、『ポツダム宣言で、十分警告していたのに、鈴井貫太郎首相がこれを拒否した。だから原爆を投下した』と受け取れるような説明をしている。
するとポツダム宣言発布の1945年7月26日の1日前に、すでに軍事的には、陸軍統合参謀本部から、陸軍航空隊に原爆投下の命令が下っていたこととは矛盾が生じる。
この事実から、『日本がポツダム宣言を受諾しようがしまいが、トルーマンは日本に原爆を投下するつもりだったのだ。すでに日本は降伏の意志をもっていた。その実、トルーマン政権はそれを知っていた。原爆投下は不必要だったのだ。』という解釈をするのは自由である。
しかし私は、これは「対日戦争終結と日本に対する原爆の最初の使用とは直接の因果関係はない』(それはたまたま広島だったが・・・)証拠として解釈している。
歴史学者のケイトは、この手紙の中で、45年8月6日の大統領声明の中に、『ポツダム宣言で十分な警告をした。しかし日本はポツダム宣言を拒否した。よって原爆を投下した』という意味合いのことが書かれてある、といっているが、良く読むとそうなっていない。この声明では次のような構成になっている。
1. |
原爆を完成し、本日広島へ原爆を投下した。 |
2. |
(これとは別に)ポツダム宣言で日本に警告をして置いたが、日本はポツダム宣言を拒否した。 |
3. |
これ以上ポツダム宣言を拒否し続けるなら「破壊の雨」をさらに降らせるぞ。 |
すなわち、「原爆投下」と「ポツダム宣言での警告」の関係は切れている。
これはケイトに、「原爆投下は対日戦争終結のため」という刷り込みがあったため、「ポツダム宣言で原爆攻撃のことを警告した」と読んでしまったのだろうし、トルーマン自身がそう説明しているためもある。
ポツダム宣言では原爆のことに全く触れていない。それは暫定委員会で「原爆の使用については、事前に警告を一切しない」と決定されていたからである。
この大統領声明は、陸軍長官スティムソンが、ジョージ・ハリソン、ハーベイ・バンディ・レスリー・グローヴズ、アーサー・ページを使って作成したもので、7月30日に手直しを完成させている。(スティムソン日記45年7月30日:
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450730.htm )
それからクーリエ便で文書をポツダムのトルーマンのもとに送って、署名を取り8月6日に間に合わせたものだ。
この文書作成の責任者スティムソンの頭の中では、「日本に対する原爆の使用」と「ポツダム宣言受諾」との因果関係はないから、上記のような文章構成になっている。) |
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