トルーマンと原爆、文書から見た歴史
           編集者 Robert H.Ferrell(ロバート・H・ファレル)


第14章 アルバート・アインシュタインからルーズベルト大統領へ 
1945年3月25日 それに伴う通信

  マンハッタン計画が核兵器の完成へと向かいつつあるとき、アインシュタインは、時の大統領、ルーズベルトに手紙を送って、物理学者のレオ・シラードを紹介した。シラードは他の物理学者と同様、原爆の研究を行っていたが、計画に参加していることで多くの一般市民を含む何万人もの日本人を殺すかもしれないと、心配していた。

 トルーマンが大統領になってから、シラードは友人と一緒に、新しい大統領の面会調整官、マシュー・J・コナリーを訪ねた。コナリーは後にトルーマン大統領のコンサルタントを務めるのだが、この時、シラードと二人の同僚物理学者が、サウス・カロライナに住んでいる、ジェームズ・F・バーンズに会いに行くように調整した。バーンズは核兵器使用に関する問題を検討する暫定委員会の委員の一人だった。1945年7月の初旬、国務長官になる。(これはファレルの間違いで実際にバーンズが国務長官に任命されるのは1945年6月である)3人の物理学者が驚いた事に、まだ実験も済ませていない原爆のことを、バーンズはまるで勝ち誇ったように、ヨーロッパや東アジアでソビエト・ロシアにアメリカの政策を受け入れさせる道具であるかのように話をするのであった。

 1945年7月、シカゴ大学の冶金工学研究所(マンハッタン計画の研究所の一つ)の科学者たちは、警告なしに日本に原爆を投下する事に反対する請願書に署名する。同様な請願書はオークリッジ(テネシー州クリントン工場のこと。オークリッジは工場の住宅都市の名前)でも署名された。不幸なことに、科学者たちはその請願書を陸軍省に送る。陸軍省は忙しくてんてこ舞いだった上に、スティムソン長官を含む高官たちは留守だった。(スティムソンはその時ポツダムにいた)。あるいは後に科学者たちが疑ったように、この請願書に不快だった陸軍が、その後数日あるいは数週間、この請願書をほったらかしにしたのかも知れない。

(以下は、アインシュタインが大統領ルーズベルトに送ったレオ・シラードを紹介する手紙)


112マーサー通り
ニュージャージー州プリンストン
1945年3月25日
フランクリン・D・ルーズベルト閣下
合衆国大統領
ホワイトハウス
ワシントンDC

 拝啓

 私は、レオ・シラード博士をご紹介します。博士は閣下にお伝えしたいある考察と勧告をもって御提言するはずです。あとでご説明しますが、今は通常の状況ではないので、シラード博士がそのような考察と勧告を閣下になすつもりか、私は存じないままにこのような行動を取りました。

 1939年の夏、国防にとって重要なウラニウムの潜在的能力に関する見解を私の前に示しました。彼は、この問題についてできるだけ早く合衆国政府に助言すべきだと考え、頭を悩まし、また憂慮もしておりました。シラード博士はウラニウムの中性子飛出現象の発見者の一人であります。現在すべてのウラニウムに関する研究は、これにその基礎を置いております。シラード博士は、近い将来未分離のウラニウムの中で連鎖反応を起こさせることが可能であることを説明し、彼が組み立てたその特殊な装置について詳述してくれました。私は彼を20年以上、その人柄についてもその科学上の研究についても知っております。私は彼の判断力には自信を持っておりますし、この問題に精通していることにも確信があります。彼の判断力の確かさと私自身の判断とで、この問題に関し、閣下にからを近づける事を決めました。私が1939年8月2日にお出しした手紙に、閣下はブリッグズ博士を委員長に指名することで応えて頂きました。このようにして、この合衆国政府の第一段階の活動がはじまったわけです。

 シラード博士が現在携わっている研究が秘密保持条項のもとにあり、彼がこれに関する情報を私に漏らしてはならないことは承知しております。しかしながら、シラード博士は、この研究に携わっている科学者たちと政策形成を行うべき閣下の内閣の閣僚たちとの間に、適切な接触が欠けていることを憂慮しています。このような状況で、私はシラード博士をご紹介することはむしろ私の義務だと考えるに至りました。博士が閣下に対してプレゼンテーションできることと、その内容が閣下の個人的注意を喚起することを心から望んでおります。
敬具
{A. アインシュタイン−署名}


敬具