<関連資料> 21ヶ条条約 1915年5月
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表題に掲げて置きながら、こういうのも何だが、「21ヶ条条約」という言い方は余り一般的ではない。内容も21本の条約で構成されているわけではない。
ここでいう「21ヶ条条約」とは、
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「山東省に関する条約」
「山東省に於ける都市開放に関する交換公文」
「南満洲及東部内蒙古に関する条約」
「旅順大連の租借期限並に南満洲鉄道及安奉鉄道の期限に関する交換公文」
「東部内蒙古に於ける都市開放に関する交換公文」
「南満洲における鉱山採掘件権に関する交換公文」
「南満洲及東部内蒙古に於ける鉄道又は各種税課に対する借款に関する交換公文」
「南満洲に於ける外国顧問教官に関する交換公文」
「南満洲及東部内蒙古に関する条約第二条に規定する商租の解釈に関する交換公文」
「南満洲及東部内蒙古に関する条約第五条に規定する日本国臣民の服従すべき察法令及税課の決定に関する交換公文」
「漢冶萍公司に関する交換公文」
「膠洲湾租借地に関する交換公文」
「福建省に関する交換公文」 |
の13本の条約及び交換公文からなり立っている。外務省の資料を見ても、いずれもバラバラの条約または交換公文として出てくる。しかしこれでは、「21ヶ条の要求」の結末を見届けられない。
第一次世界大戦中、帝国主義日本は、「大正の天佑」とばかり、中国大陸への侵略を強化していった。こうして大隈重信内閣の1815年(大正4年)1月、中国の袁世凱政府に突きつけたのがのが「21ヶ条の要求」である。結局殆ど中国に対して保護国になれというに等しい第5号要求(いわゆる希望項目)を取り下げた格好で、1915年5月7日に最後通牒(<関連資料> 21ヶ条の要求に対する日本政府の最後通牒を参照のこと)を突きつけ、結んだ条約及び交換公文が先に書き出した項目である。
従って「要求」→「最後通牒」→「結末」という流れをひとかたまりで理解するには、これら一連の条約・交換公文を「21ヶ条条約」としてまとめておく必要が、私としては、あった。
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資料の出典は、外務省編「日本外交年表並主要文書」上巻(1965年=昭和40年 原書房)である。
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原文はカナ書きであるが、読みにくいのでかな書きに変えた。漢字はそのままである。また途中で句読点を入れた。また原文は一切行替えなしであり、行替えをいれた。
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文中(青字)は私の註である。
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第一次世界大戦と日本の中国侵略との関係については、岩波新書「中国近現代史」(小松晋治・丸山松幸著 1986年4月 第1刷)が簡潔でわかりやすい。以下関連箇所を引用しておく。(同書P76)
『 |
1914年にはじまった第一次世界大戦は、中国をめぐる国際関係を一変させた。英・独・仏・露の各国は欧州戦線に全力を注いでアジアをかえりみる余裕を失い、その間に日本は中国を独占的支配下に置こうと図ったのである。
大戦の勃発を「日本国運の発展に対する大正新時代の天佑」(元老井上馨)と考えた日本政府は、日英同盟を大義名分としてドイツに宣戦を布告し(*1914年8月)、ドイツの租借地で東洋艦隊の根拠地があった青島の攻略作戦を開始した。その真の目的は、単なる軍事目的ではなく、大隈重信首相が閣議で言明したように「わが国の支那における権利を伸張する」こと、具体的にはドイツが保有していた山東省の権益のすべてを奪い取ることにあった。
袁世凱政府は大戦直後に局外中立を宣言していたが、日本はこれを無視して青島とは反対側の山東半島北岸に上陸(*1914年9月)、ほぼ山東半島全域に軍事行動を拡げて省都済南を占領したのち、青島を陥落させた(*1914年11月)。
この既成事実をもとにして、15年1月、日本政府は中国に対するかねてからの要求をまとめて袁世凱に提出した。これがいわゆる「21ヶ条要求」である。』 |
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(以下本文) |
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「山東省に関する条約」
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて調印 |
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大正4年(1915年)6月7日批准 |
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大正4年(1915年)6月8日東京に於いて批准書交換 |
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大正4年(1915年)6月8日公布 |
日本国皇帝陛下及び支那共和国大統領閣下(皇帝陛下あるいは大統領閣下は原文のママである。)は極東に於ける全局の平和を維持し、且つ両国の間に存する友好善鄭の関係を盆鞏固(ますますきょうこ)ならしめむることを欲し、右の目的を以て条約を締結することに決し、之か為すに日本国皇帝陛下は特命全権公使従四位勲二等日置益を、支那共和国大統領閣下は中卿一等嘉禾勲章外交総長陸徴を各其の全権委員に任命せり。因て各全権委員は互いに其の全権委任状を示し、之が良好妥富なるを認め以て左の条項を協議決定せり。
第一条 |
支那国政府は独逸国か山東省に関し、条約その他に依り支那国に封して有する一切の権利利益譲興等の処分に付き日本国政府が獨逸国政府と協定する一切の事項を承認すべきことを約す。 |
第二条 |
支那国政府自ら芝罘(*しーふー)又は龍口より膠済鉄道(*青島とら山東省の省都済南とを結ぶ鉄道。ドイツが権益をもっていた。)に接績する鉄道を敷設せむとする場合に於いて獨逸国か煙維(さんずいに維と書く)鉄道借款権を抛棄したるときは支那国政府は日本資本家に封し借款を商談すぺきことを約す。 |
第三条 |
支那国政府は成るべく速に外国人の居住貿易の為、自ら進みて山東省に於ける適営なる諸都市を開放すべきことを約す。 |
第四条 |
本条約は調印の日より効力を生ず。 |
本条約は日本国皇帝陛下及支那共和国大統領閣下に於いて批准せらるべく其の批准書は成るべく速くに東京に於いて交換すべし。
右證拠として両国全権委員は日本文及び支那文を以て作成せられたる各二通の本条約に署名調印す。
大正4年5月25日即中華民国4年5月25日北京に於いて之を作る
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日本帝国特命全権公使従四位勲二等 |
日置 益(署名) 印 |
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支那共和国中卿一等嘉禾勲章外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
(* |
この「山東省に関する条約」は、その後ワシントン体制の中で、列強の反発にあい、これに中国側が後押しされる格好で取り消さざるを得なかった。
それが1922年(大正13年)の「山東省懸案解決に関する条約」である。この条約で日本は山東省におけるドイツから奪った権益、及び2条でいう鉄道権益を中国側に返還せざるを得なかった。次の日本語Wikipediaが比較的正確な記述をしている。
<http://ja.wikipedia.org/wiki/山東懸案解決に関する条約>。つまりワシントン体制では、列強は日本の満蒙における権益は認めるが、それ以外の中国では機会均等だ、ということを示したことになる。)
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「山東省不割譲に関する交換公文」
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて |
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大正4年(1915年)6月9日告示 |
外交総長より帝国公使宛来翰
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以書翰致啓上候陳者。本総長は支那国政府の名に於いて茲に左の如く貴国政府に封し聲明するの光栄を有し候。
支那国政府は山東省内若しくは其の沿岸一帯の地又は島興を何等の名義を以てするに拘らす外国に租興又は譲興することなかるべし。
右照会得貴意候。敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴(署名) 印 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
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帝国公使より外交総長宛往翰
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以書翰致啓上候陳者本日附貴翰を以て支那国政府は山東省内若は其の沿岸一帯の地又は島興を何等の名義を以てするに拘らす外国に租興又は譲興することなかるべき旨、貴国政府の名に於いて帝国政府に封し聲明相成致領承候。
右回答得貴意候。敬具。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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(* |
これは日本が中国に山東省における優先権を認めさせたものだが、これも「山東省懸案解決に関する条約」によって事実上取り消された。) |
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「山東省に於ける都市開放に関する交換公文」
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて |
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大正4年(1915年)6月9日告示 |
外交総長より帝国公使宛来翰
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以書翰致啓上候陳者。本日調印の山東省に関する条約第三条に規定せる開放すべき諸都市及商埠章程は。支那国政府自ら之を議定し豫め日本国公使に協議の上決定可致候。
右照倉将貴意候。敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴(署名) 印 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
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帝国公使より外交総長宛往翰
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以書翰致啓上候陳者。本日附貴翰を以て本日調印の山東省に関する条約第三条に規定せる開放すべき諸都市及商埠章程は支那国政府自ら議定し豫め日本国公使に協議の上決定可致旨御照会相成致了承候。
右回答得貴候。敬具。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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(* |
この内容も「山東省懸案解決に関する条約」によって事実上有名無実となった。) |
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「南満州及東部内蒙古に関する条約」
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて調印 |
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大正4年(1915年)6月7日批准 |
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大正4年(1915年)6月8日東京に於いて批准書交換 |
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大正4年(1915年)6月8日公布 |
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日本国皇帝陛下及支那共和国大統領閣下(*皇帝陛下や大統領閣下は原文のママ。)は南満州及東部内蒙古に於ける両国間の経済関係を発展せしめむことを欲し、右の目的を以て条約を締結することに決し、之か為に日本国皇帝陛下は特命全権公使従四位勲二等日置益を、支那共和国大統領閣下は中卿一等嘉禾勲章外交総長陸徴を、各其の全権委員に任命せり。因って各全権委員は互いに其の全権委任状を示し之が良好妥富なるを認め以て左の条項を協議決定せり。
第一条 |
両締結国は旅順大連の租借期限並南満州鉄道及安奉鉄道に関する期限を何れも99箇年に延長すべきことを約す。
( |
この条項は帝国主義日本の満洲支配に関して決定的重要性をもつ。日露戦争後に締結されたポーツマス条約に基づく「日清条約」では、旅順大連の租借権がロシア当時の租借権年限25年をそのまま引き継いでいた。このため、25年の期限がすぐにやってこようとしていた。これを99カ年とすることは事実上永久租借できることになり、帝国主義日本は心配の種を一つ取り除いたことになる。山東半島の問題よりある意味では喫緊の課題だった。) |
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第二条 |
日本国臣民は南満州に於いて各種商工業上の建物を建設する為又は農業を経営する為必要なる土地を商租することを得。
( |
当時の言葉で借地権のことを商租権といったが、日本人が土地を借り、その地で営業行為や農業を営むことは、やがて治外法権、警察権、行政権の獲得につながり、商租権獲得は重要な第一歩であった。) |
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第三条 |
日本国臣民は南満州に於いて自由に居住往来し各種の商工業その他の業務に従事することを得。 |
第四条 |
日本国臣民が東部内蒙古に於いて支那国国民と合辯に依り農業及附随工業の経営を為さむとするときは支那国政府之を承認すべし。 |
第五条 |
前三条の場合に於いて日本国臣民は例規に依り下附せらしたる旅券を地方官に提出し登録を受け又支那国警察法令及課税に服すべし。
民刑訴訟は日本国臣民被告たる場合には日本国領事館に於いて又支那国官吏に於いて之を審判し、互いに員を派し臨席傍聴せしむることを得。但し土地に関する日本国臣民及支那国国民間の民事訴訟は支那国の法律及地方慣習に依り両国より員を派し共同審判すべし。
将来同地方の司法制度完全に改良せらるるときは日本国臣民に関する一切の民刑訴訟は完全に支那国法廷の審判に帰すべし。
( |
典型的な領事裁判権条項である。中国の主権を認めず、日本人は日本の法律で裁くとしている。領事裁判権は侵略の典型的手法である。) |
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第六条 |
支那国政府は成るべく速に外国人の居住貿易の為自ら進みて東部内蒙古に於ける適当なる諸都市を開放すべきことを約す。 |
第七条 |
支那国政府は従来支那国と各外国資本家との間に締結したる鉄道借款契約規定事項を標準と為し、速に吉長鉄道(*吉林と長春間の鉄道。毎日新聞1917年=大正6年5月の記事を読むと、吉長鉄道は商機がまとまったので、次は吉会鉄道だとしている。
<http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?
METAID=00099288&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA>)に関する諸協約並契約の根本的改訂を行うべきことを約す。
将来支那国政府に於いて鉄道借款事項に関し外国資本に封し、現在の各鉄道借款契約に比し有利なる条件を附興したるときは日本国の希望により更に前記吉長鉄道借款契約の改訂を行ふべし。 |
第八条 |
満州に関する日支現行各条約は、別に規定するものを除くの外一切従前の通り寛行すべし。 |
第九条 |
本条約は調印の日より効力を生す |
本条約は日本国皇帝陛下及支那共和国大統領閣下に於いて批准せらるべく其の批准書は成るべく速に東京に於いて交換すべし。
右證拠として両国全権委員は日本文及支那文を以て作成せられたる各二通の本条約に署名調印す。
大正4年5月25日即中華民国4年5月25日北京に於いて之を作る
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日本帝国特命全権公使従四位勲二等 |
日置 益(署名) 印 |
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支那共和国中卿一等嘉禾勲章外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
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(* |
この条約には特に列強から異議がさしはまれなかった。すなわち日露戦争後の日露協商で、満洲と内モンゴルの特殊利権をお互いに認め合い、そのごこの特殊権益を列強と清に認めさせることが政治的課題となっていたが、この条約によってその政治的課題は達成されたことになる。) |
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「旅順大連の租借期限並に南満州鉄道及安奉鉄道の期限等に関する交換公文」
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて
外交総長より帝国公使宛来翰
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以書翰致啓上候陳者。本日調印の南満州及東部内蒙古に関する条約第一条に規定せる旅順大連租借期限の延長は民国86年即西暦1997年に至り満期となり、南満州鉄道還附期限は民国91年即西暦2002年に至り満期と可相成。尚其の条約第12条に記載せる運輸開始の日より36年の後支那国政府に於いて買戻すを得るの一箇は之を無効とすべく又安奉鉄道の期限は民国96年即西暦2007年に至り満期と可相成候。
右照会得貴意候。敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
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帝国公使より外交総長宛往翰
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以書翰致啓上候陳者。本日附貴翰を以て本日調印の南満州及東部淵蒙古に関する条約第一条に規定せる旅順大連租借期限の延長は民国86年即西暦1997年に至り満期となり南満州鉄道還附期限民国91年即西暦2002年に至り満期と可相成。尚其の原条約第12条に記載せる運輸開始の日より36年の後支那国政府政府に於いて買戻すを得るの一節は之を無効とすべく又安奉鉄道の期限は民国96年即西暦2007年に至り満期と可相成旨御照会の趣致領承候。
右回答得貴意候。敬具。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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(* |
先の「南満州及東部内蒙古に関する条約」第一条、租借期限99カ年延長の確認公文である。これを読むと帝国主義日本がいじましくすらなってくる。) |
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「東部内蒙古に於ける都市開放に関する交換公文」
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて
外交総長より帝国公使宛来翰
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以書翰致啓上陳者。本日調印の南満州及東部内蒙古に関する条約第6条に規定せる開放すべき諸都市及商埠章程は支那国政府自ら之を議定し豫め日本国公使に協議の上決定可致候。
右照会得貴意候。敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
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帝国公使より外交総長宛往翰
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以書翰致啓上候陳者。本日附貴翰を以て本日調印の南満州及東部内蒙古に関する条約第6条に規定せる開放すべき諸都市及商埠章程は支那国政府自ら之を議定し豫め日本国公使に協議の上決定可致旨御照会相成致領承候。
右回答得貴意候。敬具。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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「南満州に於ける鐵山採掘権に関する交換公文」
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて
外交総長より帝国公使宛来翰
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以書翰致啓上候陳者。日本国臣民に於いて南満州に於ける左記各鐵山(既に試掘又は採掘せられたる各鐵區を除く)を速に調査の上選定したる節は、支那国政府は其の試掘又は採掘を允許可致。但し鉱業条例確定に至る迄は現行法に準拠すべきものに有之候。
右照会得貴意候。 敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
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(以下日本が鉱山採掘権を有する鉱山名が詳細に列記されている。) |
左記
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一 |
奉天省 |
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所在地 |
県名 |
鐵種 |
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牛心壷 |
本渓 |
石炭 |
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田什付溝 |
本渓 |
石炭 |
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杉松嵐 |
海龍 |
石炭 |
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鐵廠 |
通化 |
石炭 |
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暖池塘 |
錦 |
石炭 |
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鞍山站一帯 |
遼陽県より本渓県に亘る |
鐵 |
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二 |
吉林省南部 |
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所在地 |
県名 |
鐵種 |
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杉松崗 |
和龍 |
石炭、鐵 |
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缸窰 |
吉林 |
石炭 |
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夾皮溝 |
樺甸 |
金 |
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帝国公使より外交総長宛往翰
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以書翰致啓上候陳者。本日附貴翰を以て日本国臣民に於いて南満州に於ける左記各鉱山(既に試掘又は採掘せられたる各鐵區を除く)を速に調査の上選定したる節は支那国政府は其の試掘又は採掘を允許可致但し鉱業条例確定に至る迄は現行辨法に準拠すべきものなる旨御照会の趣致領承候。
右回答得貴意候。敬具。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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「南満州及東部内蒙古に於ける鉄道又は各種課税に封する借款に関する交換公文」
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて
外交総長より帝国公使宛来翰
|
以書翰致啓上候陳者。本総長は支那国政府の名に於いて茲に左の如く貴国政府に封し聲明するの光栄を有し候。 支那国政府は将來南満州及東部内蒙古に於いて鉄道を敷設する場合には自国の資金を以てすべく、若し外資を要するときは先ず日本国資本家に借款を商議すべし。又支那国政府は前記地方の各種税課(但し既に支那中央政府借款の担保となれる塩税関税等の類を除く)を担保として外国より借款を起さむとするときは先ず日本国資本家に商談すべし。
右照会得貴意候。敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
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帝国公使より外交総長宛往翰
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以書翰致啓上候陳者。本日附貴翰を以て支那国政府は将来南満州及東部内蒙古に於て鐵道を敷設する場合には自国の資金を以てすべく、若し外資を要するときは先ず日本国資本家に借款を商談可致。又支那国政府は前記地方の各種税課(但し既に支那中央政府借款の担保となれる塩税関税等の類を除く)を担保として外国より借款を起こさむとするときは先づ日本国資本家に商談可致旨貴国政府の名に於て帝国政府に封し聲明相成致領承候。
右回答得貴意候。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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( |
両国の“合意”が具体的になるほど、帝国主義日本の中国侵略性が明らかになっていくという典型的な例であろう。この地域で鉄道を敷設するにあたっては、まず自国の資金を考えなさい、もし外国から借款する場合はまず日本の資本家に相談しなさい。もし塩税とか関税を担保にして外国から借款する場合も日本の資本家にまず相談しなさい、というわけだ。しかしこれほど“侵略”本質を表した文章もないだろう。われわれは“侵略”を決して抽象的に考えてはならない。“侵略”とはすべて「経済的利益」―それが互恵ではなく、一方的利益―を目的としたものだということがわかる。)
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「南満州に於ける外国顧問教官に関する交換公文」
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて
外交総長より帝国公使宛来翰
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以書翰致啓上候陳者。本総長は支那国政府の名に於いて茲に左の如く貴国政府に封し聲明するの光栄を有し候。
支那国政府は将来南満州に於いて政治財政軍事警察に関する外国顧問教官を傭聘せむとするときは最先に日本人を傭聘すべし。
右照会得貴意候。敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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|
支那共和国外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
|
日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
|
帝国公使より外交総長宛往翰
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以書翰致啓上候陳者。本日附貴翰を以て支那国政府は将来南満州に於いて政治財政軍事警察等に関する外国顧問教官を傭聘せむとするときは最先に日本人を傭聘すべき旨貴国政府の名に於いて帝国政府に封し聲明相成致領承候。
右回答得貴意候。敬具。
|
大正4年5月25日 |
|
|
日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
|
支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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「南満州及東部内蒙古に関する条約第二条に規定する商租の解釋に関する交換公文」
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて
帝国公使より外交総長宛往翰
|
以書翰致啓上候陳者。本日調印の南満州及東部内蒙古に関する条約第二条に記載せる商租の文字には30箇年迄の長き期限附にて且無条件にて更新し得へき租借を含むものと了解致候。
右照会得貴意候。敬具。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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外交総長より帝国公使宛来翰
|
以書翰致啓上候陳者。本日附貴翰を以て本日調印の南満州及東部内蒙古に関する条約第二条に記載せる商租の文字には30箇年迄の長き期限附にて且無条件にて更新し得へき租借を含むものと了解相成候旨御照会の趣致領承候。
右回答得貴意候。敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
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( |
ここの交換公文は、中国側発議・日本側同意のスタイルではなく、日本側発議・中国側同意のスタイルをとっている。この内容で行けば、いったん土地を借りてしまえば永久に租借できることになる。袁世凱政権もよくこんな内容に同意したものだ。) |
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「南満州及東部内蒙古に関する条約第五条に規定する日本国臣民の服従すべき警察法令及課税の決定に関する交換公文」
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて
帝国公使より外交総長宛往翰
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以書翰致啓上候陳者。本日調印の南満州及東部内蒙古に関する条約第五条の規定に依り日本国臣民の服従すべき警察法令及課税は、豫め支那国官憲に於いて日本国領事館と協議の施行すべき儀に有之候。
右照会得貴意候。敬具。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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外交総長より帝国公使宛来翰
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以書翰致啓上候陳者。本日附貴翰を以て本日調印の南満州及東部内蒙古に関する条約第五条の規定に依り日本国臣民の服従すべき警察法令及課税は、豫め支那国官憲に於いて日本国領事館と協議の施行すべき儀に有之候旨御照会の趣致領承候。
右回答得貴意候。敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
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この交換公文も日本側発議、中国側同意の形をとっている。一見、中国側に裁判権があるかのように見える箇所も、実はそうではなく、日本人を裁く法律も日本側と相談して決めなくてはならない、ということになる。) |
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「南満州及東部内蒙古に関する条約第二条乃至第五条の実施延期に関する交換公文」 |
大正4年(1915年)5月25日北京に於いて
外交総長より帝国公使宛来翰
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以書翰致啓上候陳者。本日調印の南満州及東部内蒙古に関する条約第二条第三条第四条及第五条は支那国政府に於いて諸般の準備を整ふる必要上、同条約調印後3箇月間月間其の実施を延期致度候に付貴国政府の御同意を得度候。
右照会得貴意候。敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
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帝国公使より外交総長宛往翰
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以書翰致啓上候陳者。本日附貴翰を以て本日調印の南満州及東部内蒙古に関する条約第二条第三条第四条及第五条は支那国政府に於いて諸般の準備を整ふる必要上同条約調印御3箇月間其実施を延期したき旨御照会相成領承帝国政府に於いて事情己むを得さるものと認め右に致同意候。
右回答得貴意候。敬具。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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また中国側発議、日本側同意のスタイルに戻っている。内容からしてやむを得ない。二条、三条、四条は商租権、日本人自由往来権、中国側との合弁権であった。私は何故、3ヶ月の実施延長が、どちらの側に必要だったのかは湧かない。) |
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「漢冶萍公司に関する交換公文」 |
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて |
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大正4年(1915年)6月7日告示 |
外交総長より帝国公使宛来翰
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以書翰致啓上候陳者支那国政府は日本国資本家と漢冶萍公司との関係極めて密接なるに鑑み、将来同公司と日本国資本家との間に合併の議成りたるときは之を承認すべく又同公司を没収することなかるべく又日本国資本家の同意なくして同公司を国有と為すことなかるべく又日本国以外より外資を同公司に入れしむることなかるべく候。
右照会得貴意候。敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
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帝国公使より外交総長宛往翰
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以書翰致啓上候陳者。本日附貴翰を以て支那国政府は日本国資本家と漢冶萍公司との関係極めて密接なるに鑑み、将来同公司と日本国資本家との間に合併の議成りたるときは之を承認すべく又同公司を没収することなかるべく又日本国資本家の同意なくして同公司を国有と為すことなかるべく又日本国以外より外資を同公司に入れしむことなかるべき旨御照会の趣致領承候。
右回答得貴意候。敬具。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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漢冶萍公司は現在の湖北省武漢市・漢陽にある製鉄会社。同じく湖北省の大冶<たいや>の鉄鉱、江西省の萍郷<へいきょう>の石炭をそれぞれ原料とする。「漢冶萍」の名前は「漢陽」「大冶」「萍郷」の3つの地名をとってつけれたものだそうだ。<http://www.tabiken.com/history/doc/E/E108L100.HTM>。だからもともと満洲の地にあったものではない。もともと清末に、清国の近代化事業の一環として設立された。日本が漢冶萍公司と関わりを持つようになったのは、辛亥革命時に破壊された同社を日本の借款で復興させた時である。日本は執拗に同社の支配権を狙い、この交換公文の内容になったものだが、その後の民族主義の高まりによって、現実にはこの交換公文通りにはならなかった。現在も中華人民共和国内の主要製鉄会社の一つだそうである。この時の日本はまるでしつこい蝮のようだ、と感じるのは私一人だろうか。)
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「膠州湾租借地に関する交換公文」 |
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大正4年5月25日北京に於いて |
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同 年6月9日告示 |
往翰
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以書翰致啓上候陳者。本使は帝国政府の名に於いて茲(ここ)に左の如く貴国政府に封し声明するの光栄を有し候。
日本国政府は現下の戦役終結後州膠州湾租借地にして、全然日本国の自由処分に委せらるる場合に於いては左記条件の下に該租借地を支那国に還付すべし。
一 |
膠州湾租借地全部を商港として開放すること。 |
二 |
日本国政府に於いて指定する地区に日本専管居留地を設置すること。 |
三 |
列国にして希望するに於いては別に共同居留地を設置すること。 |
四 |
右の外獨逸の営造物及財産の処分並其の他の条件手続等に付きては還附実行に先ち日本国政府と支那国政府との間に協定を遂ぐべきこと。 |
右照会得貴意候。敬具。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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山東省のドイツ権益の処分に関する日本発議の交換公文である。前述のように、のちに山東省の権益は列強の監視のもと全面的に返還することになった。帝国主義日本の怨みは深くかつ執念深い。のちに田中義一内閣の時に数次にわけて、口実を設け、山東出兵を行うが、伏線はこの時にあったわけだ。)
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以下の中国側の返事は中国語そのままであり、内容的に日本側書翰の内容そのままなので省略する。) |
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「福建省に関する交換公文」 |
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大正4年(1915年)5月25日北京に於いて |
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大正4年(1915年)6月9日告示 |
帝国公使より外交総長宛往翰
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以書翰致啓上候陳者。聞く所によれば支那国政府は福建省沿岸地方に於いて外国に造船所軍用貯炭所海軍根拠地其の他一切の軍事上の施設を為すことを許し又支那自ら外資を借入れ前記各施設を行はむとするか如き意志ある趣なるか支那国政府に於いては果して斯かる意志を有せらるるや否や御回答を得度比段照会得貴意候。敬具。
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大正4年5月25日 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 (署名) 印 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 殿 |
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外交総長より帝国公使宛来翰
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以書翰致啓上候陳者本日附貴翰を以て御申越の趣致領承候支那国政府は福建省沿岸地方に於いて外国に造船所軍用貯炭所海軍根拠地其の他一切の軍事上の施設を為すを許すか如きこと決して無之又外資を借入れ前記施設を為さむと欲するが如き意志なきことを茲に致声明候。
右回答得貴意候。敬具。
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中華民国4年5月25日 |
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支那共和国外交総長 |
陸徴 (署名) 印 |
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日本帝国特命全権公使 |
日置 益 殿 |
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これは一見間の抜けたやりとりのように見える。日本側は確認した事実としてではなく、伝聞として、福建省の沿岸のどこかに外国が海軍基地を作ろうとしているほか、あるいは中国が外国から借款をして、海軍基地を作ろうとしているとか聞いた、本当か?と日本側が尋ねている。
そうだ、と答えるとまたしつこく絡んでくるので、中国側は事実無根と答えている。日本側はこれで言質をとったということなのだろうが、日本側のしつこさはちょっと異様である。) |
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