<参考資料> 勝海舟 「氷川清話」 「日清戦争論と中国観」

以下は勝海舟全集21「氷川清話」(講談社 昭和48年=1973年 11月28日第1刷)の中の「日清戦争と中国観」と題するグループからの抜粋である。
「氷川清話」には幾つかの異本がある。その異本の中には必ずしも海舟の意図を正しく汲んでいない本もある。この件に関し松浦玲<http://ja.wikipedia.org/wiki/松浦玲>は次のように書いている。やや長くなるが平にご容赦。

 (*講談社)学術文庫版刊行に当って

流布本「氷川清話」について私は、勝海舟があんなことを喋る(しゃべる)筈が無いという疑いを長く持っていた。最初に「氷川清話」を編集した吉本襄(よしもと のぼる)が、海舟の話を勝手に書換えたのだと睨んでいた。他の編者名を冠して広く出回っている「氷川清話」も吉本襄のを新仮名遣や常用漢字にしただけで中身は全く同じである。吉本襄の怪しい手口の産物が現代風に焼直されて読書界に提供されている。

―中略―

・・・「氷川清話」は徹底的に洗い直す必要があると提案し、受け入れられた。吉本襄がリライトする前の新聞や雑誌の談話を探し出して、どこがどう改竄されたか突きとめようとしたのである。

―中略―

元来の海舟座談は圧倒的に時局談である。時事談話である。日清戦争前の明治25、6年(*1892年、1893年)に第二次伊藤博文内閣を痛烈に非難している談話から始まって27、28年(*1894年、1895年)の日清戦争中に敢然と戦争に反対したもの、講和会議批判や三国干渉後の新しいアジア侵略を憂えるもの、関連して清国とシナ社会の違いを論じたユニークな発言もある。また明治29年(*1896年)の全国的な大風水害に際しての対策の遅れ、特に渡良瀬川の氾濫で万人の眼に明らかにとなった足尾鉱毒問題、これについて海舟は、いまのエセ文明より旧幕府の野蛮の方が良かったのではないかと言いきる。

・・・1899年(明治32)で77歳だった海舟は、激動の19世紀を鷲掴みにした上で20世紀のアジアと世界を憂え、百年後の知己を待った。いま我々は20世紀について結果を知っている。海舟において既知の19世紀と未知の20世紀がどういう位相を呈していたか。それを正確に知ることは我々が未知の21世紀に対処するための何よりの勉強材料ではなかろうか。

2000年10月15日          
松浦 玲  』
見出しは全集原文のママである。また注も原文全集のママである。
(*青字)があればそれは私の註である。

(以下本文)



おれは大反対だったよ



  日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰はないヂやないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分からぬに限る。支那の実力が分かったら最後、欧米からドシドシ押し掛けてくる。ツマリ欧米が分からないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。

  一体支那5億の民衆は日本に取っては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋のことは東洋だけでやるに限るよ。

  おれなどは維新前から日清韓三国合従(がっしょう)の策を主唱して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものサ。今日になって兄弟喧嘩をして、支那の内輪をサラケ出して、欧米の乗ずるところとなるくらゐのものサ。

  日清戦争の時、コウいう詩を作った。

隣国交兵日(りんごくへいをまじうるのひ)

其戦更無名(そのいくささらにななし)

可憐鶏林肉(あわれむべしけいりんのにく)

割以与魯英(さきてもってろえいにあとう)

 黄村などは、「“其戦更無名”とはあまりにひどい、すでに勅語も出て居ますことだから」といって大層忠告した。それでも『これは別のことだ』といって人にもみせた。○○サンにも書いてあげた筈だ。

注 この項は、(*吉本襄の)底本に前後関係を抜きにしてバラバラに入っている日清戦争や講和条約、また三国干渉等についての発言を一箇所に集め、また、非常に多くを他から補った。この「おれは大反対だったよ」は、底本にない。改造版全集の『清譚と逸話』から採った。もっとも、詩は説明抜きで(*吉本襄の底本に)掲げてあったので、前に一行と後ろに二行とを、『女学雑誌』468号の「海舟老伯談話」から補った。「黄村などは・・・」は『海舟語録』に補うべきところ、うまく入らないので残っていたものである。黄村は『人物評論』(*同じく『氷川清話』の一グループ)のところに出てくる向山黄村。(*<http://www.ccv.ne.jp/home/tohou/sen13.htm>「勅語」はむろん宣戦布告の詔勅。また「維新前から日清韓三国合従の策」は『政治今昔談』の「(に)軍備と海軍」のところに、神戸海軍操練所を設立した意図の一つとして説明されていた。幕末文久元年(*1961年2月18日に万延2年が終わり19日から文久元年が始まる。)から元治元年(*1964年2月19日に文久4年が終わり20日から元治元年が始まる。)ごろにかけて、海舟は、このために奔走している。

*○○サンは誰のことか松浦玲も注を入れていない。『其戦更無名』とは痛烈である。)


吾が知りもせぬ事を

  客臘(*かくろう。昨年12月のこと)は病もやや快(よ)かりしに、日清事件とやら何とか吾(おれ)が知りもせぬ事共を聞きに来る奴輩(やつばら)のあるに腹がたちて重くなれり。二、三日前も強く逆上して中気になるかと思ひしにならなかった。なればよいのだ。吾は死ぬ事なんかなんでもない。

  吾は国を愛する眼中には官吏も大臣もない。先日も戦争(*日清)の始末を聞きに来た者がある。聞けば近頃は日々百人も死ぬそうだ。罪なき者を殺して知りもせぬ後の始末を人にきく。それだから腹も立つのだ。今より月余もたたば種々(さまざま)の苦情も始まるべし。軍気も阻喪すべし。その時こそ国人の大いに気を励ますべき時だ。

  支那もすぐに降伏すべしと思ひたらんが、案外長く抗抵(こうてい)する。わが国の軍事にも或いは不完のところあるにや。商人にも軍糧の運送などに従事して、不理の利を貪るものもあるさうだ。朝鮮も後には追々苦情を申立て我(われ)に背くに至らん。今はただ官吏の圧制に恐れて黙って居るのだ。自分ばかり正しい、強いと言ふのは、日本のみだ。世界はさう言わぬ。


注 これは底本『氷川清話』にも、改造社版全集『清譚と逸話』にも無い。『毎日新聞明治28年1月17日に「老伯病中中国事を語る』という題で掲載された戦争中の談話を、ここに出しておく。語調は、文語体がまじってひっかかるところもあるが、表記処理の他は一切手を加えなかった。これだけの談話からあまり多くを推測するのは危険だろうが、海舟は自分に相談もなく、いわば海舟の意に反してはじめられた戦争の、後始末を聞きに来るといって、腹を立てているようだ。誰が聞きに来たのかは明らかではないが「罪なき者を殺して、知りもせぬ後の始末を人にきく」という言い方から、政府関係者かという推定も、不可能ではなかろう。