更新 2009.5.6
「中国近現代史」(小松晋治・丸山松幸 著 岩波新書 1986年 4月21日 第1刷) の巻末資料年表より及び「日中戦争」(古屋哲夫 著 岩波新書 1985年 6月5日 第2刷)などより作成。
(青字)の解説記事は一部私の記述があるものの、ほとんどは「中国近現代史」「日中戦争」本文中の内容か、見解である。


西暦 日本暦 主 要 事 件
1816 文化13年   イギリスのアマースト使節団が清を訪問。港湾の開放、広東13行による貿易独占・統制の廃止、貿易根拠地の租借などを要求。
1839 天保10年 6月 欽差大臣・林則除、広州で没収アヘン約2万箱を虎門海岸で廃棄。
1840 天保11年 6月 英パーマストン内閣、このアヘンの「賠償」等を求め20隻の艦船派遣を決定。アヘン戦争勃発。
1841 天保12年   広州城陥落。賠償金支払い、清軍の広州城撤退、イギリス軍の広州城駐留を内容とする広州和約締結。
5月 イギリス軍の暴行に対して人民組織「平英団」が組織されイギリス軍を包囲。(平英団三元里闘争)
1842 天保13年 8月 イギリス軍戦線を拡大、インドから約1万名を増援、厦門、寧波、上海、鎮江を占領、南京に迫る。
清はイギリス軍の要求を全面的に受け入れ南京条約を締結。香港島を割譲したほか、2500万ドルの賠償金の支払いなど。
1843 天保14年 南京条約の追加条約で、清は関税自主権を失い、領事裁判権、土地賃借権を認める。洪秀全、拝上帝会を設立。(太平天国運動)
1844 天保15年   アメリカは厦門条約、フランスは黄埔条約をそれぞれ清と締結。南京条約とほぼ同じ内容。

(なお、アヘン戦争、南京条約は日本の支配層に強い衝撃を与えた。)
1850 嘉永3年 拝上帝会各地で蜂起。
1851 嘉永4年 太平天国樹立。
1853 嘉永6年 3月 太平天国南京を占領、天京と改称。日本にペリー来航。
1856 安政2年 9月 太平天国内部分裂。
10月 アロー号事件。清の官憲がイギリス国旗を掲げていた中国船の船員を海賊容疑者を逮捕。イギリスはこれを口実として、フランス軍と共に共同出兵。

(なお中国では第二次アヘン戦争と呼んでいる。)
1858 安政4年 5月 清の混乱に乗じてロシアは清と愛琿条約を結び、アムール河(黒竜江)左岸、沿海州を清との共同管理とした。このためネルチンスク条約での国境線は消滅した。
6月 英・米・仏・露とアロー号事件の結果として天津条約締結。各種の権益を認めさせたほか賠償金を獲得、清朝はアヘン貿易の合法化を認めさせられた。
1860 万延元年 10月 英仏軍北京占領。英・仏・米・露と北京条約を締結。英仏軍略奪、円明園を徹底的に破壊。
1861 文久元年 12月 清朝宮廷政変、西大后実権を掌握。清朝は列強の傀儡政権化。パーマストンは英国議会において清朝支持を表明。
1864 元治元年   清正規軍に替わる湘軍(曾国藩が組織した軍隊)が南京占領。太平天国滅亡。
1865 慶応元年 9月 李鴻章上海に江南製造局設立。(銃砲・弾薬・汽船製造)このころ洋務運動本格化。
1871 明治3年 7月 ロシア軍イリ地方占拠。
9月 日清修好条規締結。(明治4年)日清両国がはじめて結んだ近代的対等条約。
1874 明治7年 5月 日本台湾出兵。琉球王国の日本への服属を認めさせる。
79年沖縄県設置、完全に日本領土下に。
1875 明治8年 9月 江華島事件。
1876 明治9年 2月 日朝修好条規締結。領事裁判権を認め、朝鮮は関税自主権を喪失。
1878 明治11年 7月 開平鉱務局設立。10月上海機器織布局設立。
1881 明治14年 2月 ロシアとペテルスベルグ条約締結。
外交交渉によりロシアはイリ地方を清に返還。
1882 明治15年 7月 朝鮮で壬午の変。朝鮮の半植民地化進行。
1883 明治16年 8月 フランス、ベトナムを保護国化。12月清仏戦争勃発。
1884 明治17年 12月 朝鮮で甲申政変。
1885 明治18年 4月 日清天津条約締結。
壬午のへの結果、日清両国は朝鮮半島からの撤兵を約す。
6月 清仏天津条約締結。フランスのベトナム支配承認。
1886 明治19年 1月 イギリス、ビルマ併合。
1888 明治21年   北洋海軍成立。
1891 明治24年   庚有為「新学偽経考」刊行。
1894 明治27年 3月 朝鮮に甲午農民戦争勃発。
8月 日清戦争勃発。
11月 月孫文ハワイで興中会設立。
1895 明治28年 2月 孫文広州で興中会設立。
4月 下関条約締結。朝鮮の「独立」を承認。
遼東半島・台湾・澎湖島の割譲、2億両の賠償金(清国政府の歳入総額の2.5年分)、片務的最恵国待遇、海港場における企業経営権を得る。
この賠償金を基礎に日本に金本位制を確立。露・独・仏下関条約に三国干渉。
5-6月 台湾民主国設立。日本の台湾総督府これを徹底的に弾圧。
1898 明治31年      ドイツ膠州湾、ロシア旅順・大連、イギリス九竜半島・威海衛をそれぞれ租借。戊戌の変法とその失敗。
京師大学堂設立。
米西戦争勃発。アメリカはラテンアメリカを支配下に置いたほか、フィリッピンも支配下に置く。
1899 明治32年   山東の反キリスト教暴動激化。
9月 アメリカの対中国門戸開放宣言。
1900 明治33年 6月 義和団、北京の列国公使館を包囲。清朝列国に宣戦。中国人民10万人が参加。
8月 8カ国連合軍北京占領。(日・独・英・仏・米・露・伊・襖3万6000の主力は2万2000の日本軍)連合軍略奪・暴行を恣とする。
日本軍馬蹄銀120万両を奪い国家に献上。
9月 義和団事件の最終議定書、清と11カ国との間に締結。
これにより日本は北京近郊の駐兵権を獲得。(翌年、天津にも駐兵権)。
日本は清国駐兵軍としした。
10月 孫文ら恵州挙兵。
1901 明治34年   西太后「新政」の詔。
1月  
9月 辛丑条約(北京議定書)締結。中国半植民地化を決定的にする。
賠償金元利合計9億8000万両。

北京の公使館区域を設定、外国軍駐留を認める。北京から山海関の間の外国軍隊駐留権など。
1902 明治35年 1月 シベリア鉄道全面開通。日英同盟成立。
1903 明治36年 7月 東清鉄道開通。ロシア満州里からハルピンをへて大連・旅順へ。
1904 明治37年    日露戦争勃発。
華興会成立。黄興、宋教仁らは「反露運動」から清朝打倒をめざす。
11月 上海に光復会会成立。反満革命論など。若き日の魯迅も参加。
1905 明治38年 8月 東京で中国同盟会結成。孫文の三民主義が承認される。
9月 日露ポーツマス条約締結。日本の朝鮮支配権をロシア承認。
遼東半島(関東州)の租借権を継承、東清鉄道の南満支線(長春・旅順関)の経営権を継承する。
12月 ポーツマス条約に基づき、日本は「満州に関する日清条約」で東清鉄道の守備兵駐兵権を認めさせる。

(この鉄道守備軍が後の関東軍である。この時1キロメートルにつき15名以内)
1906 明治39年 6月 南満州鉄道成立。
9月 立憲準備宣布。
12月 中国同盟会、各地で蜂起。科挙制廃止。
1907 明治40年   中国同盟会、黄崗・恵州で蜂起。
7月 第一次日露協約。
満州を両国で分割することを密約。北満州がロシア、南満州が日本。
同時にロシアは朝鮮の日本の特殊権益を認め、日本はロシアの外蒙古における特殊権益を認める。
1908 明治41年   欽定憲法大綱公布。
1909 明治42年 10月 各省に諮議局設置。
1910 明治43年 1月 立憲派、国会早期開設同志会結成。
7月 第二次日露協約。鉄道・電信利権の分界線が「特殊権益」の分界線と規定。
8月 日韓併合。朝鮮を植民地化。
10月 資政院設置。
1911 明治44年 5月 幹線鉄道の国有化宣言。
10月 武昌蜂起、辛亥革命。
(日本の清国駐兵軍を支那駐兵軍と改称。)
1912 明治45年 1月 中華民国南京臨時政府成立。孫文臨時大総統就任。
アジア最初の民主共和国誕生。
2月 宣統帝退位。清朝滅亡。
3月 袁世凱臨時大総統就任。臨時約法公布。
7月 第三次日露協約。日本の特殊権益の分界線は内蒙古まで延長。
この時「満州問題」は「満蒙問題」となった。
大正元年 8月 中国同盟会改組、国民党成立。
1913 大正2年 3月 袁世凱、国民党の中心人物宋教仁を暗殺。

袁世凱、議会の反対を無視して5カ国銀行団(英・独・仏・日・露)から2500万ポンドの借款。傀儡化を強化。
6月 国民党急進派、討袁蜂起(第二革命)。
10月 袁世凱正式大総統。国民党に解散命令。
1914 大正3年 5月 袁世凱新約法公布。
6月 孫文、中華革命党結成。
7月 第一次世界大戦勃発。
「日本国運の発展に対する大正新時代の天佑」(元老井上馨)
8月 日本、ドイツに対して宣戦布告。9月山東半島上陸。11月青島陥落。
1915 大正4年 1月 日本21ヶ条の要求を袁世凱に提出。事実上保護国化をめざす。5号条項を削除の上、袁世凱これを承認。

中国人民の反日運動激化。
5月 日本と袁世凱政府の間に「21ヶ条条約」を締結。条約は以下の構成。
1. 山東省に関する条約(山東省不割譲に関する交換公文、山東省における都市開放に関する交換公文含む)
2. 南満州および東部内蒙古に関する条約

(旅順大連の租借期限並びに南満州鉄道および安奉鉄道の期限等に関する交換公文、東部内蒙古における都市開放に関する交換公文、南満州における鉱山採掘権に関する交換公文、南満州および東部内蒙古における鉄道または各種税課に対する借款に関する交換公文、 南満州における外国顧問教官に関する交換公文、南満州および東部内蒙古に関する条約第二条に規定する商租の解釈に関する交換公文、南満州および東部内蒙古に関する条約第五条に規定する日本国臣民の服従すべき警察法令及課税の決定に関する交換公文、南満州及び東部内蒙古に関する条約第二条乃至第五条の実施延期に関する交換公文を含む)
3. 漢冶萍公司に関する交換公文
4. 膠州湾租借地に関する交換公文
5. 福建省に関する交換公文
12月 帝政復活。袁世凱皇帝に就任。これに対して第三革命起こる。
1916 大正5年 3月 帝政取り消し。
6月 袁世凱死去、北洋軍閥は、日本の支持を受けた安徽派(段祺瑞)と英米の支持を受けた直隷派(馮国璋、後に曹金昆(金へんに昆と書く)、呉佩孚)に分裂。満州には日本と結びついた張作霖、山西には閻錫山、など各地に軍閥割拠、人民苛酷な搾取に苦しむ。
1917 大正6年 1月 西原借款。大隈内閣に替わった寺内内閣、段祺瑞に利権と引き替えに3億円の資金提供。
1月 北京大学の学長に蔡元培就任、大学改革、人材集まる。陳独秀、胡適、李大サ、周作人(魯迅の弟)など全国から優秀な学生が集まる。
8月 段祺瑞ドイツに宣戦布告。孫文広東軍政府を組織。
11月 ロシア10月革命。列強による世界分割支配構想が崩れる。
11月 石井・ランシング協定。アメリカ、中国における日本の特殊利益を認める。同時に中国の主権と独立を認め、商工業に関する機会均等を承認。

(非常に矛盾した内容である。)
1918 大正7年 1月 米大統領ウィルソンが14ヶ条原則を発表。
5月 ロシア革命干渉を念頭に日中秘密軍事協定を段祺瑞と締結。
学生が反対デモ。
この頃全国各地で「学生救国会」成立。
長沙で毛沢東が「新民学会」、天津で周恩来が「覚悟社」を組織。
6月 ロシア国内の反革命勢力と結んでシベリア出兵開始。日・米・英・仏。
8月 日本で1000万人が参加した米騒動。
11月 第一次世界大戦終結。
1919 大正8年 1月 ベルサイユ講和会議開始。
3月 朝鮮で日本の植民地支配に対する激しい抵抗運動(三・一運動)
3月 ソ連、コミンテルン結成。
4月 列強中国に対する武器輸出禁止を申し合わせる。
5月 「五・四運動」開始。列強による14ヶ条原則裏切りに学生が憤激、一般市民がこれに呼応、逮捕された学生の釈放、売国賊の罷免、講和条約調印拒否を要求、民族独立・抗日運動に発展。
6月 排日運動取り締まり、学生運動禁止の大総統令により学生の大量逮捕。
6月 上海で、学生大量逮捕に抗議して、罷課(大学スト)に呼応して罷市(商店スト)、罷工(労働者スト)の三罷闘争が起こる。
港湾労働者は日本船の荷揚げを拒否、交通・通信労働者がスト、上海が麻痺状態となる。以降日本製品ボイコットは1年続く。
6月 中国代表、ベルサイユ講和条約調印を拒否。
7月 第一次カラハン宣言。ソ連が帝政ロシア時代に中国から奪った利権を無償で返還、一切の秘密条約の廃棄を宣言・通告。
10月 孫文が中華革命党を中国国民党に改組。
11月 福州事件。日本製品ボイコット運動を進めていた学生を武装した日本人数十名が襲い重傷を負わせる。
1920 大正9年 5月 上海共産主義小組結成。
7月 安直戦争。安徽派の段祺瑞が直隷派の曹金昆(金へんに昆と書く)に敗れ没落。
7月 コミンテルン「民族・植民地問題テーゼ」採択。
1921 大正10年 4月 孫文第二次南京政府組織。
5月 原敬内閣、「東三省の内政及び軍備を整理充実して牢固なる勢力をこの地方に確立する」との閣議決定。
張作霖を念頭に置いて満州の傀儡政権充実を意図したもの。
7月 中国共産党創立大会が上海で開催。李達、張国Z、毛沢東、董必武ら。
9月 衙前農民協会結成。農民の対地主闘争拡がる。
11月 ワシントン会議開催。
第一次世界大戦で主導権を握ったアメリカ主導の海軍軍縮会議。
ワシントン体制確立。
会議の主な結果は以下の通り。

海軍軍縮条約主力艦米英日=5:5:3
四カ国条約=太平洋島嶼に関する領土権の尊重、日米英仏の協調。
日英同盟の終了。
中国関税条約=一律従価5%関税、付加税2.5−5%を認める。
9カ国条約=アメリカの「門戸開放」の主張に沿って中国の主権尊重、領土保全、列強の機会均等。9カ国は日米英仏伊中ベルギー・オランダ・ポルトガル。山東懸案の解決。中国利権は日英の独占から門戸開放へ。

このため中国国内は軍閥の抗争激化、植民地化が進展。
1922 大正11年 1月 香港海員スト開始。
2月 日本と中国(中華民国政府)、「山東省懸案解決に関する条約」を締結。
日本、山東省権益を中国に返還。
4月 第一次奉直戦争。
英米支持の直隷派、日本支持の張作霖の奉天派を関外に駆逐。
張作霖東三省の独立宣言。
5月 第一回全国労働大会。
7月 中国共産党民主連合戦線を提起。
10月 イギリス資本が経営する華北最大の開欒(シに欒と書く)(かいらん)炭坑スト。イギリスはインド兵、直隷派は保安隊を送って武力弾圧。
1923 大正12年 1月 孫文・ヨッフェ宣言。連ソ容共へ方針転換。「中国にとって最も緊急の課題は民国の統一と完全なる独立にあり、ソ連はこの大事業に対して熱烈なる共感をもって援助する。」
2月 旅順・大連回収運動。民族資本家主導による対日経済絶交運動。学生・労働者も参加。
2月 ニ・七惨案。京漢鉄路総工会結成大会に対して直隷派呉佩孚が行った虐殺事件。
以降中国で各軍閥が労働運動に武力弾圧を加える。
3月 北京政府(直隷派軍閥政府=曹?・呉佩孚ら)が「21ヶ条条約」の廃棄を通告、日本拒否。
旅順・大連回収運動ますます盛ん。
9月 岳北農工会結成。10万余の農民が結集。11月軍閥趙恒タ(ちょうこうてき)が軍隊を送って弾圧。
指導者67名が銃殺、農工会解散。
10月 金昆(金へんに昆と書く)賄選。直隷派の総帥曹金昆(金へんに昆と書く)、多数の国会議員を買収して大総統に就任。
11月 孫文国民党改組。
1924 大正13年 1月 中国国民党第一回全国大会。第一次国共合作成立。
「帝国主義の侵略に対して民族解放と国内諸民族の平等(民族主義)、封建軍閥の専制に反対して民衆の自由と権利(民権主義)、土地集中と独占資本を制限して民衆の福利(民生主義)」の新三民主義。
連ソ・容共・労農援助と共に統一戦線の綱領化。中央委員24名中3名、17名の委員候補のうち毛沢東など7名中国共産党員。黄埔軍官学校開設。(校長・蒋介石、政治副主任周恩来)農民運動講習所開設(のち毛沢東が所長)
1月 レーニン死去。
2月 イギリス・イタリアソ連を承認。
5月 中ソ国交回復協定・中国東省鉄道(東支鉄道)暫定管理協定成立。
このため関東軍はその法的駐留権の根拠を失う。
5月 日本の外務・大蔵・陸軍・海軍4省間の「対支政策綱領」完成。
中ソ国交回復に対抗して、日本は北満州進出をめざすこと、「満蒙における秩序の維持」「自衛上必要と認むる時は機宜の措置をとる。」ことを決定。
9月 第二次奉直戦争。直隷派に対して、奉天派(張作霖)、安徽派(段祺瑞)、広東政府(孫文)の連合軍が対抗。
直隷派の馮玉祥が寝返り直隷派が総崩れとなり、北京から勢力一掃される。孫文の北上を要請。

(馮玉祥の寝返りは張作霖の買収工作の結果であり、この買収工作を仲介したのは日本陸軍とされている。)
10月 幣原喜重郎外相、満蒙における日本の権益を尊重・保全することを求める覚え書きを関東軍、支那駐留軍に交付する。
関東軍は単なる鉄道守備隊から満蒙治安維持の主役に躍り出る。
11月 段祺瑞が北京政府の臨時執政に就任。張作霖はその下で奉天・直隷・山東・安徽・江蘇をその勢力下におく。
11月 孫文北上宣言。北京の途上神戸に立ち寄り「大アジア主義」の講演を行う。
日本は功利と強権をほしいままとする『西洋覇道の番犬』となるのか、それとも公理にかなった『東洋王道の牙城』となるのか」
中国だけでなく全アジア被圧迫民族の解放に力を貸すことがアジアで最初に独立と富強を達成した日本の進路である。」
1925 大正14年 3月 孫文、北京で死去。
5月 5・30運動。
上海の内外綿紡績(日本資本)の労働争議中に日本人監督が中国人指導者を射殺。これをきっかけに上海22工場、青島10工場(いずれも日本資本)で争議が拡大。青島での争議では奉天軍閥の保安隊が導入され、労働者8人が射殺される。
5月30日2000人の学生がこれに抗議、「租界回収」「逮捕学生釈放」を要求。
これに対してイギリス警官隊がこれを逮捕。これに抗議して集まった1万人の学生市民にイギリス警官隊が発砲して死者13人、負傷者数十という事件となった。
これをきっかけに全上海で反帝(特に日・英)がわき起こった。
成立したばかりの上海総工会(委員長・李立三)は全市にゼネストを指令。
租界当局は、英・日・米・伊の陸戦隊を投入し、発砲で死者32人。
20万人が参加する市民大会が開かれ、「英日軍隊」のの永久撤退」「領事裁判権の廃止」を含む17項目を租界当局と北京政府に突きつけた。この運動は全国の主要都市に拡がった。
6月 香港スト開始。広東省と香港が連携した省港ストが15ヶ月にわたって続いた。
6月19日香港で25万人がストに突入。
6月23日10万人のデモ行進中、英仏両軍が機銃掃射を浴びせ死者52人重傷者多数を出した。
5・30運動は全中国に「打倒帝国主義」「民族統一戦線」成立の大きな契機となった。
7月 国民政府の成立(主席・王精衛)。
5・30運動はまた広東国民党政権を一地方政権から全国革命運動の中心勢力へと押し上げた。
8月 廖仲ト暗殺。
国民党の中で大ブルジュアジーを中心とする右派と農民・労働者を中心とする左派の対立激化。
左派の指導者廖仲トがイギリスとつながる右派に暗殺された。
10月 孫文亡き後、北京政府内の軍閥抗争激化。浙江軍閥孫伝芳が華中まで南下していた張作霖に反撃(反奉戦争)。これに馮玉祥、呉佩孚らが呼応して張作霖を北方へ排除。
11月 西山会議。国民党右派の理論的指導者戴季陶らは国民党左派排除を狙って北京郊外の西山で会議を開き公然と広東政府に対立。
11月 郭松齢事件発生。張作霖麾下の最強部隊郭松齢が突然張作霖に叛旗を翻す。関東軍が軍事介入し郭松齢軍を張作霖が鎮圧。郭松齢は銃殺。
11月 西山会議。右派の理論的指導者戴季陶らは左派排除を狙って北京郊外の西山で会議を開き公然と広東政府に対立。
1926 大正15年 2月 中山艦事件。蒋介石が戒厳令を敷き、共産党員を逮捕しソ連人顧問団の住居と省港罷工委員会を蜂起。

西山会議、廖仲ト暗殺事件によって蒋介石は新右派のリーダーとなり、国民党内の左派・中国共産党ブロックと鋭く対立。
6月 国民党北伐決定、中国共産党も最終的に支持。
7月 国民革命軍総司令蒋介石によって全軍(約10万)に動員令、北伐開始。
 「帝国主義と売国軍閥を打倒して人民の統一政府を建設する。」
7月長沙、10月武漢を占領、湖南・湖北から、呉佩孚軍(直隷派)を駆逐。
11月南昌占領。
12月福州を占領。
翌年2月杭州を占領、3月南京陥落(軍閥孫伝芳の本拠地)。
27年3月までに北伐軍は長江一帯を制圧、広東、広西に加え、湖南、湖北、江西、福建、浙江、安徽、江蘇の9省を支配下に収めた。
1927 昭和2年 1月 国民政府広東から武漢に移転。
1月 漢口と九江のイギリス租界で英兵と民衆との間で流血事件。民衆は実力で両租界を回収。
2月 国民政府とイギリスの外交交渉で漢口と九江の租界は正式に中国に返還。
3月 北伐南京攻略戦のさなかに外国領事館・住宅・教会が襲われ英・仏・米人6名が殺害される。(南京事件)

英・米の軍艦が南京を砲撃、軍民2000名が死亡。(南京砲撃事件)

(この事件に関連して英・米・日・仏・伊は国民革命軍に武力干渉を突きつける。若槻礼次郎内閣の外相幣原喜重郎は武力干渉は事態を紛糾させるだけであり、「蒋介石のような人物を押し立てて時局を収拾させ」解決すべしと反対。この時幣原はすでに蒋介石の派遣した戴季陶と接触し、蒋介石には帝国主義と対立する意志ないことを確認していた。しかしこの幣原の姿勢は日本国内では軟弱外交と非難される。)
3月 周恩来指導で、上海でゼネスト・武装蜂起。軍閥軍を一掃、臨時政府を樹立。(上海武装蜂起)

蒋介石、このころ各地で農民運動、労働運動を弾圧。
国民党の左右抗争激化。
4月 若槻内閣倒れ田中義一内閣成立。
4月 4・12クーデター。蒋介石指揮のもとの軍隊及び上海の暴力組織(青邦(邦の下に巾と書く)・赤邦(邦の下に巾と書く)など)は上海の共産党組織、労働者組織を襲撃、大量虐殺。

(この時の惨劇はアンドレ・マルローの「人間の条件」に描かれている。)

広州でも同様な大量虐殺。北京でも張作霖の軍隊がソビエト大使館を襲い、李大サら共産党員を逮捕・処刑。
4月 国民党武漢政府は蒋介石の党籍を剥奪、逮捕令を出した。これに対抗して4月18日蒋介石は、南京に独自政府を樹立、共産分子の粛清を宣言。国民党は武漢と南京に分裂、統一戦線は崩壊。
4月 4月12日中国共産党第5回全国大会(武漢)で、陳独秀ら党中央は「国共合作」「国民革命における国民党の主導権」路線を決定。
5月 唐生智(第八軍長、もと湖南の軍閥)麾下の連隊が長沙で省総工会、農民協会、共産党諸機関を襲撃、1週間にわたって処刑。(馬日事変)
5月 田中義一内閣が山東省に出兵。(第一次山東出兵)
6月 スターリンからの訓令が中国駐在コミンテルン代表に届く。国民党は左派も含めて共産党排除に動く。
6月 田中内閣、東方会議を招集。「対支政策綱領」を決定。「満蒙」を中国本土と切り離して直接支配下に置く構想を打ち出した。

(これが満州帝国成立の伏線になる。)
7月 共産党、武漢政府を退去、国民党容共政策を破棄、第一次国共合作は崩壊した。
8月 中国共産党はコミンテルンの指導の下に「武装蜂起路線」に転換。賀竜、葉挺、朱徳の部隊が南昌に集結、蜂起した。(南昌蜂起)。
国民党軍に制圧され広東に南下。

(なおこれが中国共産党はじめて独自の軍隊。南昌蜂起の8月1日が中国人民解放軍の建軍記念日となっている。)
8月 中国共産党中央は緊急会議を開いて、湖北・湖南・江西・広東で秋の取り入れに合わせて武装蜂起することを決定するが失敗。湖南を指揮していた毛沢東は長沙を放棄して山岳地帯に撤退。
9月 南京と武漢の国民党は、蒋介石のもとに統一。
9月 井岡山に撤退した毛沢東は軍と党の一体化、財政公開、軍隊内民主主義を実施。(三湾改編)
10月 毛沢東井岡山を「根拠地」化。
12月 共産党の都市武装蜂起失敗。葉剣英の指揮する部隊は広州で蜂起、広州コミューンを樹立したものの、国民党軍の包囲を受け数千の犠牲を出して全滅。残る拠点は毛沢東の井岡山だけとなった。

(のちこの都市武装蜂起は「極左冒険主義」として批判を浴びる。しかしもともと都市武装蜂起路線はコミンテルンの指導によるものだった。)
1928 昭和3年 2月 コミンテル執行委員会は中国では、ソビエト化された農民地域において土地革命と紅軍建設を主要任務とすると決定。中国共産党の実権は李立三(5・30運動の指導者)が握った。なお長沙蜂起の責任を問われていた毛沢東はこの時中央委員に選出された。
4月 蒋介石の第二次北伐開始。第一次北伐とは異なり「軍閥、帝国主義打倒」ではなく、軍閥混成軍の「軍閥内戦」の様相を呈す。北伐軍は4軍構成。第1軍は蒋介石、第2軍は馮玉章(もと直隷派軍閥)、第3軍は閻金易(金へんに易と書く)山(山西軍閥)、第4軍は李宗仁(広西軍閥)。6月3日張作霖は北京脱出。
4月 田中義一内閣は、居留民保護を名目に山東半島に出兵。(第二次山東出兵)
5月 斉南事変。斉南の日本軍と北伐軍が武力衝突。
国民党軍2000、日本軍230、日本人居留民16の死者。
5月 井岡山において、朱徳の軍隊と湖南南部の農民軍が合流し兵力1万の労農紅軍第4軍が編成。紅軍の誕生。

軍長朱徳、党代表毛沢東、政治部主任陳毅。人民のための革命軍の自覚教育が行われる。
6月 張作霖北京脱出の際、奉天駅付近で爆殺される。
これは張作霖を見限った関東軍の謀略で、これを機会に満州を傀儡政権ではなく直接支配下に置こうとしたもの。
6月 北伐軍、北京無血入城。
国民党は南京を首都としていたため、北京を北平と改称。
6月 7月にかけて、モスクワで中国共産党第6回全国大会開催。
10月 南京国民政府発足。蒋介石主席に就任。実際は新軍閥連合。軍閥の長は各省主席に就任。
12月 井岡山土地法公布。すべての土地を地主から没収して家族数に応じて再分配。村に土地革命委員会が組織。
12月 張作霖の後をついだ張学良、南京国民政府に参加。北伐の完成、全国統一。
1929 昭和4年 3月 桂蒋戦争。蒋介石が軍事指揮権を中央に集中しようとしたことから各軍閥が反発。広西派軍閥との間に戦争。
5月 西北軍の馮玉章が叛旗を掲げ、10月には同じく宋哲元が叛旗。12月唐生智が叛旗。
5月 紅軍、福建省に進出。
6月 田中内閣、米英に追随する形で南京政府を承認。翌月総辞職。浜口雄幸内閣成立。
10月 世界大恐慌始まる。日本経済も深刻な不況。失業者300万人。労働争議頻発。米と繭暴落、農村疲弊。右翼台頭。
1930 昭和5年 4月 中原大戦。国民党の内戦。蒋介石軍と反蒋で結束した各軍閥が戦った。
最終的には張学良(奉天軍)が南京政府側についたため、蒋介石軍(南京政府)が勝利。北方政府は瓦解、蒋介石の軍事指揮権集中が強化。

(蒋介石政権の性格:蒋介石の権力基盤は強大な軍事力と浙江財閥に代表される大ブルジュアジーである。浙江財閥とは上海を本拠とする大金融資本家・産業資本家の総称で、その中心が江蘇・浙江省出身者だったからである。蒋介石も浙江の出身である。これらは洋務運動に起源をもつ官僚資本と外国資本に従属した買弁資本から成長したもので、本来帝国主義と敵対関係を持つものではない。同時に必然的に地主・高利貸資本とも一体化していた。従って蒋政権は大ブルジュアジーを基盤としながら、反封建的地主階級の軍閥的性格をそのまま受け継いだ軍閥でもあった。
ただ蒋政権が他の軍閥と異なる点は、孫文以来の中国国民党の政治的正統性を受け継いでいた点にある。孫文の国民党が「人民の解放」と「近代国家の創設」という二面性を持っていたとすれば、蒋政権は「人民の解放」の側面を切り捨てることによって、大ブルジュアジーのための近代国家創設をめざしたものと考えられる。これは日本の明治維新とほぼ同質の権力体制だといえる。)


4月 浜口雄幸首相狙撃事件。
5月 中国共産党、上海に全国ソビエト区域代表者会議を招集。「革命農村をもって都市を包囲する」戦略の萌芽。
6月 中国共産党の都市武装蜂起。コミンテルンの指示に忠実な李立三指導の中国共産党は、蒋介石政権の弱体を狙って、各都市武装蜂起を計画。

(朱徳・毛沢東の第1集団軍は南昌、賀竜らの第2集団軍、彭徳懐の第3集団軍は武漢。この蜂起は壊滅的失敗に終わるが、ただ第3集団軍だけが7月長沙を占領し、湖南省労農兵ソビエト政府の成立を宣言する。(長沙ソビエト)長沙ソビエトは、日本・アメリカなどの艦隊からの艦砲射撃に援護された国民党軍の反撃にあってわずか9日間で長沙を撤退した。この結果李立三は失脚し、中国共産党の指導部はソ連留学生グループの王明らが掌握した。)

12月 第一次囲剿(いそう)。共産勢力の伸張に対して蒋介石は大規模な掃討包囲作戦を、江西省南部の赤色根拠地に対して行う。第1次は動員兵力10万人。総司令魯滌平(江西省主席)
1931 昭和6年 1月 中国共産党王明路線開始。
3月 第二次囲剿(いそう)。動員兵力20万人。総司令何応欽(軍政部長)
3月 汪精衛、広東に国民政府樹立。統一権力樹立をめざす蒋介石に反発する軍閥連合勢力。
5月 関東軍参謀石原莞爾、武力による「満蒙問題」の解決を主張。
7月 第三次囲剿。動員兵力30万人。総司令蒋介石(政府主席)。この囲剿戦は満州事変の勃発により中断。
9月 奉天近郊柳条湖で満鉄が爆破され線路1メートル内外損傷。(柳条湖事件)関東軍は「暴戻なる支那軍」によるものだとして軍事行動を開始。(満州事変勃発)蒋介石軍は第三次囲剿で軍を割く余裕はなく、また張学良は全軍に撤退・不抵抗を指示。
9月 日本の軍事侵略と国民政府の不抵抗方針に対して、中国人民空前の抗日運動が発生。
上海では学生10万港湾労働者4万がストに入り、20万人の抗日救国大会が開催され、対日経済断交決議。
北平(北京)では20万人の抗日救国大会、政府に対日戦争を要求、市民による抗日義勇軍が結成された。

(この抗日救国運動はたちまち中国全土に拡がり、「停止内争、一致対外」をスローガンに政府に対日徹底抗戦を要求すると共に、排日ボイコットを推進した。9月以降、満州を除く中国全土の日本商品輸入は前年対比1/3、12月には1/5にまで低下、上海では対日輸入がほとんど途絶、日本商船を利用する中国人の積荷は皆無となった。人民は蒋介石の北上抗日を迫った。国際連盟は日本に有効な制裁措置をとることができず、蒋介石の不抵抗方針はまったく説得力を持たなくなった。この頃から抗日救国運動は蒋介石国民党反政府運動の様相を帯びることになったのである。)

10月 錦州(張学良本拠地)爆撃。翌32年2月ハルピン占領、5ヶ月間で満州全域を軍事占領下に置く。
11月 中華ソビエト共和国臨時中央政府樹立。(瑞金)

(蒋介石の三次にわたる共産分子囲剿戦は、軍事的には毛沢東の「深く敵を誘い込む」作戦にはまり、失敗だった。結果「根拠地」は拡大し湖南省境から江西南部、福建西部がひとつの赤色地域となり国民政府の勢力は、完全に一掃された。中国共産党軍である紅軍の勢力も4万人から、第三次囲剿戦が終わる頃には30万人と拡大した。1931年11月7日、ロシア革命記念日にちなんで江西省南部の瑞金で、中華ソビエト共和国臨時中央政府の樹立を宣言した。政府主席は毛沢東。この政府は最盛期人口1000万人程度の小さな政府であり、しかも3年続いただけだったが、蒋介石の政府に対して、はじめて「人民権力」の創出を実現した点で歴史的な政府であった。)

12月 蒋介石、汪精衛広東国民政府と妥協成立。蒋介石一時下野。新政権主席は林森。
しかし上海事変が起こると蒋介石は復帰、最高軍事指導者となる。
1932 昭和7年 1月 上海事変勃発。関東軍高級参謀大佐板垣征四郎が上海日本公使館付き武官少佐田中隆吉に依頼して上海の日本人僧侶を襲撃させた謀略事件。(1人死亡3人重傷)。日本はこれを口実にして陸戦隊で上海付近を軍事占領した。

(この時上海の日本人居留民は「直ちに陸海軍を派遣し自衛権を発動して抗日運動の絶滅を期すべし。」と決議、武装自警団を組織して中国人にリンチを加え虐殺した。当時重光葵は上海公使であったが、時の外務相芳沢謙吉に報告書を送り、その中で次のように述べている。「彼ら<凶暴化した日本人居留民のこと>の行動は、便衣隊<平服を着て一般市民の中に紛れ込んだ中国兵>に対する恐怖と共にあたかも大地震<関東大震災のこと>当時の自警団の朝鮮人に対する態度と同様なるものがあり、支那人に対して便衣隊の嫌疑をもって処刑せられたるもの数百に達するもののごとく、中には外国人も混入し居り将来の面倒なる事態を予想せしむ、ために支那人外国人は恐怖状態にあり。」この日本人居留民の凶暴化の背景には、強力な日本軍隊の存在があったことは想像に難くない。まさに虎の威を借る狐であり、重光の報告を読むと暗澹たる気持ちにならざるを得ない。)

米国務長官ヘンリー・ステムソン、「スティムソン・ドクトリン」を日本と中国に送る。9カ国条約とパリ不戦条約に違反する、日中間のいかなる条約・合意も承認しない、中国の領土的・統治的一体性を損なういかなる既成事実も承認しない、と声明。
3月 1日「満州国」成立。9日清朝廃帝溥儀執政に就任。

(執政溥儀が就任の翌日10日、関東軍司令官中将本庄繁にあてた書簡。
「 一、 弊国(満州国)は今後国防及び治安維持を貴国(日本)に委託しその所要経費はすべて弊国に於いて之を負担す。
二、 弊国は貴国軍隊が国防上必要とする限り既設の鉄道、港湾、水路、航空等の管理ならびに新路の敷設はすべて之を貴国または貴国指定の機関に委託すべきことを承認す。
三、 弊国は貴国軍隊が必要と認める各種の施設に関して極力これを援助す。
四、 貴国人にして達識名望あるものを弊国参議に任じ其の他中央及び地方各官署に貴国人を任用すべく其の選任は貴軍司令官の推薦に依り其の解任は同司令官の同意を要件とす。」
歴史上これほどあからさまな傀儡国家もないだろう。日米安全保障条約もこれほどではない。もちろん溥儀が自発的にこの書簡を書いたわけではない。満州国成立から溥儀の執政就任まで時間がかかったのは、溥儀にこの書簡に署名をさせるのに手間取ったからだ。「満州国」は関東軍の傀儡国家としてスタートした。しかし関東軍ももっとスマートにできなかったものか。頭の悪さ丸出しである。)

4月 瑞金の中華ソビエト共和国臨時政府(主席・毛沢東)対日戦争宣言。
5月 上海事変に関して上海停戦協定調印。
6月 蒋介石、第4次共産分子囲剿戦開始。動員兵力50万人。

(蒋介石にとって正面の敵は日本からの侵略ではなく、中国内部に蔓延する共産分子であった。)

1933 昭和8年 1月 中国共産党、本部を上海から瑞金に移す。このころから王明らのソ連留学生派の発言力が増し、毛沢東、ケ小平ら毛沢東派が厳しく批判され、瑞金の実権を奪われる。
2月 日本軍熱河侵攻。蒋介石第4次囲剿戦中止を余儀なくされる。
2月 国際連盟リットン調査団報告を採択
3月 日本国際連盟脱退。
3月 宋慶令ら、40余りの抗日団体を結集して国民禦侮自救会結成。
5月 日本軍、長城戦を越えて北平(北京)に迫る。
5月 塘沽協定締結。関東軍と国民党政府との間に結ばれ、日本軍は長城以北にとどまり、事実上国民政府は満州国の国境を承認したことになる。
5月 国民政府、アメリカから1500万ドルの借款。
10月 蒋介石、第5次共産分子囲剿戦開始。動員兵力陸軍100万人、空軍200機。
10月 19路軍を中心に、反蒋抗日を掲げて福建人民政府成立。王明主導の共産党中央は「第三勢力」として連帯せず。

(この頃中国共産党は、コミンテルンの権威を背景にしたソ連留学生派が実権を握り、毛沢東派を圧迫していた。対立の争点は、コミンテルン派が「都市労働者中心のソ連型革命」を推し進めていたのに対し、毛沢東派は、農村に根拠地を作って都市を包囲する路線<中国型革命路線>を主張していた点にある。統一戦線論でも大きな対立が見られ、コミンテルンがプロレタリアート独裁路線を主張していたのに対し、毛沢東派はブルジュアジーを含む広汎な民族統一戦線を主張していた。蒋介石の第5次共産分子囲剿戦に対して、コミテルンから派遣された軍事顧問リトロフ(オットー・ブラウン)の指導のもと、正規軍による正面対決路線をとった。共産党軍は国民党軍のため各個撃破され紅軍の拠点は次々と陥落、ほとんど壊滅状態となった。)

1934 昭和9年 2月 蒋介石、新生活運動を提唱。儒教イデオロギーによる国民精神統一運動と考えることができる。

(第5次共産分子囲剿戦にほぼ成功した蒋介石は、日本の武力侵略との全面対決を避けつつ経済建設に力点を置いた。彼の権力基盤は軍事力であったため、そのスタイルはファシズム的にならざるを得ない。「暫定反革命治罪法」「危害民国治罪法」「出版法」などを制定し、反対勢力を押さえ込むと共に、C・C団、戴笠の藍衣社などの特務機関系の白色テロ組織なども利用した。本源的蓄積の乏しい中国で経済建設を進めようと外国資本を導入せざるを得ないが、蒋介石はこれらを帝国主義列強からの借款と公債発行でまかなった。公債発行額は北洋軍閥時代の15年間で総額6億2000万元であったが、国民政府の27−37年10年間で26億元にのぼった。公債には6−7%の利息がつけられたほか、引き受け銀行団は額面の3−5割引で引き受けできたから、彼らの利益は莫大となった。公債の使途は86%までが軍事費であった。公債発行を通じて権力を背景とする官僚金融資本が形成され、いわゆる四大家族(蒋介石、宋子文、孔祥煕、陳果夫)がこれを支配した。結局こうした収奪は中国人民から行うほかはなかった。また外国からの借款を通じて経済的には列強従属を強めるほかはなく、こうした従属関係を通じて莫大な富が、列強に収奪された。)

5月 宋慶令ら2000人の著名人が「中国人民対日作戦基本綱領」発表。すべての中国人民が武装蜂起して、日本帝国主義と闘うことを訴える。
10月 壊滅寸前の紅軍主力(第一方面軍)包囲網を突破して瑞金を脱出、いわゆる「長征」が開始。このとき総勢8万6000人だったという。残り約3万人は陳毅・項英の指導の下山岳地帯のゲリラ戦に入る。
1935 昭和10年 1月 遵義会議。長征の途上貴州省遵義で開かれた共産党中央政治局拡大会議。この会議ではじめてコミテルンの指導を脱した指導部が確立するきっかけとなった。コミンテルン路線が批判される。総書記には張聞天。(ソ連留学生派)。毛沢東は政治局常務委員(軍事担当)
3月 宋慶令ら、40余りの抗日団体を結集して国民禦侮自救会結成。
4月 宋子文、中国銀行理事長就任。
6月 梅津・何応欽協定。33年5月の塘沽協定で、長城の南帯に非武装地帯を設定したがこの非武装地帯でテロが頻発。これを国民党の排日策動によるものだとして支那駐屯軍が、国民党軍及び特務機関の河北省からの撤退を要求、これを国民党が認めたもの。梅津美治郎は支那駐屯軍司令官、何応欽は南京政府北平軍事分会主任
6月 土肥原・秦徳純協定。関東軍が察哈爾(ちやはる)省内からの国民党軍・特務機関の撤退を要求、これに国民党が応じたもの。土肥原賢二は奉天特務機関長、秦徳純は察哈爾省主席代理。なおこの時撤退した国民党軍が宋哲元軍である。
6月 国民党邦交敦睦令を発し、いっさいの排日行為を禁止。
8月 中国共産党8・1宣言。中国共産党と中国ソビエト政府の「抗日救国のために全同胞に告げる書」発表。 「すべてのものが内戦を停止し、全ての国力を集中して抗日救国の神聖なる事業に奮闘すべきである。」「全中国を統一した国防政府と抗日連軍を組織する」(モスクワ駐在の中国共産党コミンテルン代表団)
10月 中国共産党紅軍、12ヶ月1万2000キロの長征を終え呉起鎮(陝西省)に到着。8万6000人で出発した長征軍は呉起鎮についた時は8000人。すぐに第二方面軍、第四方面軍と合流、紅軍は4万人に。
11月 国民党幣制改革。イギリスの経済使節の勧告によって進められ、銀貨・銀塊をすべて国家が買い上げ流通を禁止した上で、4大銀行が発行する銀行券だけが法定通貨と定められた。法定通貨はすべてイギリス・ポンドにリンクし、回収した現銀は全てアメリカに売却の上、法定通貨の安定基金となった。このため中国元はすべてドル・ポンドの支配下に置かれることになった。人民は唯一のインフレ防禦策(現銀の保有)を奪われることになった。
11月 冀東政権成立。日本軍部は満州国成立のあと、同様な傀儡政権を樹立することで中国大陸支配をめざした。河北省東北部の非武装地帯に冀東政権(殷汝耕首班)を設立し華北5省(察哈爾、綏遠、河北、山東、山西)の政治・経済圏独立を企図した。
12月 河北・察哈爾を管轄する冀察政務委員会(宋哲元委員長)が成立。
12月 12・9運動。北平(北京)の学生5000人が「日本帝国主義打倒」「華北自治反対」を叫んでデモ行進。宋哲元の軍隊がこれを弾圧。12月16日さらに1万人がデモ行進。軍隊・警察と衝突。
12月 「上海文化界救国会」「上海婦女会救国会」結成。
1936 昭和11年 1月 蒋介石、「学生運動禁止令」公布。
2月 蒋介石、「治安維持緊急治罪法」公布。
2月 中国共産党、中国人民紅軍抗日先鋒軍を組織、山西省西部を占領。
5月 蒋介石、10個師団を出兵し人民紅軍に対抗。人民紅軍、戦闘をさけ撤退。蒋介石にも抗日参加を呼びかける。
11月 抗日7君子事件。全国各界救国会の抗日指導者7人を「民国に危害を加えた」として逮捕。
11月 日独伊防共協定締結
12月 西安事変。12月16日、西安で「内戦停止派」の張学良が蒋介石を監禁し、8項目の要求を突きつけた事件。蒋介石は張学良の要求を飲んで、抗日に転ずる。第二次国共合作の開始。

(張学良の8項目の要求:
 @南京政府の改組、諸党派共同の救国
 A内戦の停止
 B抗日7君子の釈放
 C政治犯の釈放
 D民衆愛国運動の解禁
 E人民の政治的自由の保証 
 F孫文遺嘱の遵守 
 G救国会議の即時開催

 結局張の要求は中国人民全体の要求そのものだった。当時は何がおこったか全く分からず、ソ連の新聞は「親日分子の陰謀」「反日勢力の団結を破壊する動き」と報じたし、日本の新聞は「張学良独立政府とソ連が協定を結んだ」と報じた。
日本人では朝日新聞の尾崎秀実一人が「抗日民族統一戦線結成」と鋭く予見した。一方日本政府は蒋介石後の南京政府を親日派が掌握するよう画策した。南京政府も親日派の何応鈞が「張学良を討伐すべし」とした。馮玉祥・宋美齢(蒋介石夫人)は和平解決を望んだ。共産党内はソ連からの指令「蒋介石を即時釈放すべし」という意見と「蒋介石を公開裁判の上処刑」という派まで揺れた。17日張学良の依頼を受けて西安にやってきた周恩来は蒋介石を説得、南京政府代表の宋子文、宋美齢らと協議を重ねて、8項目にほぼ合意する形で合意に達し12月25日蒋介石は解放された。内戦は停止された。張学良は蒋介石に同行した。)


1937 昭和12年 2月 共産党4項目の提案、共同救国が実現されるならば、@反国民政府の武装暴動を停止する。A労農民主政府を中華民国特区政府に、紅軍を国民革命軍に改称し、南京政府の指導を受け入れる。B特区政府の区域内では普通選挙による民主制度を実施する。C地主の土地没収を停止する、を提出。
7月 7日蘆溝橋事件、勃発。@中国軍代表の謝罪、責任者の処罰 A廬溝橋付近からの中国軍撤退 B抗日団体の徹底的取り締まり を要求。11日近衛内閣日本国内から3個師団、満州から2個旅団、朝鮮から1個師団派遣を決定。17日蒋介石廬山談話発表。「万一、真に避けられぬ最後の関頭に至ったならば、われわれは当然犠牲あるのみ、抗戦あるのみである。」 日本側の要求を拒絶。
7月 アメリカ、日米通商条約の破棄(6ヶ月後自動消滅)
8月 国民党、ソ連と中ソ不可侵条約を締結。この条約に基づいてソ連国民党に武器援助。
8月 居留民保護のために派遣していた陸戦隊と中国軍が上海で衝突。(上海戦線、全面戦争)日本政府は二個師団の上海派遣を決定。「支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省をうながすため、今や断固たる措置をとるのやむなきに至れり。」の声明。
8月 蒋介石「日本軍の止まる事なき侵略に対して自衛抗戦」声明。
8月 上海で戦線拡大
8月 中国共産党、陝西省洛川で中央政治局拡大会議。(洛川会議)「抗日救国十大綱領」を発表。
8月 国共両党合同で軍の改編。紅軍3万は国民革命軍第八路軍三個師団に編成。(総司令朱徳、副司令彭徳懐)華中・華南の紅軍1万は新四軍に改編。国民政府の国防最高会議に朱徳、周恩来が参加。
9月 中国共産党「国共合作宣言」。国民党がこれを受け入れ、正式に第二次国共合作が成立。
9月 河北南部作戦開始。
10月 山西作戦開始。日本軍華北全体の鉄道地域占領。八路軍板垣師団に大打撃。

(山西作戦に参加して戦死した中佐杉本五郎氏の遺稿「大義」には次のような記述がある。
一度適地を占領すれば、敵国民族をなる所以を以って殺傷して飽くなし。略奪して止まる所を知らず、悲しむべし、万端悉く面目更になし。」<宮武剛 「将軍の遺言」>)
 
12月 山東作戦開始。
12月 13日南京入城。南京大虐殺。

(当時第16師団長・中将、中島今朝吾の日記には次のような記述がある。
大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタルトモ千五百一万ノ群衆トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラデキズ・・・後ニ至リテ知ル所ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、大平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三○○其仙鶴門付近に集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル 此七八千人之ヲ片付クルニハ相当大ナル濠ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百ニ分割シタル後適当ノ箇所ニ誘キテ処理スル予定ナリ」)

1938 昭和13年 1月 近衛声明。「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して更正新支那の建設に協力せんとす。」

(近衛声明にいう「新興支那政権」とは日本占領地域に作られた行政機関のことで、具体的には「中華民国臨時政府<北平・王克敏行政委員長>、「蒙疆連合委員会」、「中華民国維新政府」<南京・梁鴻志行政院長>などを指している。もちろんいずれも見事な傀儡政権である。)

3月 台児荘の戦闘。
5月 徐州占領。漢口作戦(日本軍がはじめて毒ガス兵器を実戦使用)
5月 毛沢東「持久戦論」を発表。三段階論。
10月 戦時首都部漢陥落、広州陥落。広東上陸作戦。
12月 汪精衛、重慶脱出。このころまでに日本軍は大規模作戦ほぼ終了、後は膠着戦となる。中国大陸に大規模な日本軍が釘付けとなった。
1939 昭和14年 2月 日本軍海南島上陸。
1940 昭和15年 3月 汪精衛、南京に国民政府を樹立。

(このころ解放区を育て、「根拠地」としていた中国共産党の軍隊は急成長を遂げる。八路軍は開戦時の3万から40万人、新四軍は1万から10万人の軍隊になっていた。共産党軍の急成長に不安と脅威を感じ取っていた蒋介石は共産党軍にたびたび攻撃を仕掛けるようになっていた。)

8月 八路軍「百団大戦」。全華北の交通網と駐屯日本軍に対して115個連隊(団)で総攻撃、打撃を与える。
ナチス・ドイツ、ヨーロッパ電撃作戦開始。
9月 日本軍、北部仏印に進駐。
1941 昭和16年 1月 皖南事変。安徽省南部の新四軍(9000名)が8万の国民党軍に襲われる。蒋介石は新四軍を反乱軍とした。この事件によって、第二次国共合作は事実上崩壊した。しかし国内の統一戦線は崩壊せず、中間グループは「内戦反対」の立場から共産党支持となった。統一戦線は国共合作中心から共産党中心へと移行。

(このころ日本軍は、「解放区」に対してそれまでの掃討作戦から、「敵主力の撃滅とその根拠地及び施設の覆滅と治安粛清工作を徹底的に敢行」する大作戦を展開した。三光作戦「焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす」がそれである。このため解放区の人口は減少した。)

7月 南部仏印に進駐。アメリカ鉄くず・石油の対日輸出禁止で対応。
10月 近衛内閣総辞職、東条内閣成立。
12月 太平洋戦争開始。日米開戦によって国民政府は連合国の一員となり、日中戦争は世界大戦に組み込まれる。
1942 昭和17年 2月 共産党、整風運動はじめる。このころ毛沢東指導権確立。党内ソ連派一掃。コミンテルンの影響を脱す。
3月 国民党「国家総動員法」施行。国民党の腐敗進行。

(国民党の腐敗:アメリカの武器貸与法によって流れ込んできた物資は、高級幹部の私腹を肥やした。四大家族の支配する金融機関は無制限に紙幣を発行し(抗戦前夜の7300倍)、為替投機と公債引き受けを通じて莫大な利益をあげた。資源委員会と兵工署<軍需省>を握って工業を独占的に支配したが、生産より投機に熱心だった。塩・酒・茶・マッチ・タバコなどが専売制になり、これも「四大家族」が支配した。「国難」はこれら特権支配層にとって絶好の「発財」(フアツアイー金儲け)の機会となった。凄まじいインフレと官僚資本の独占によって民族商工業は苦境に陥り生産は停滞した。農民は年々加重される土地税と強制供出に苦しんで流民となるものが続出した。)

1943 昭和18年 1月 汪精衛の南京政府と日本は租界還付・治外法権撤廃協定に締結。米英も蒋介石政権との間に不平等条約による特権を放棄する条約を締結。
3月 蒋介石「中国の命運」を発表。(伝統的な儒教主義を主張)
11月 蒋介石カイロ宣言に参加。
1944 昭和19年 4月 日本、最後の大作戦「大陸打通作戦」開始。北平から広州まで大陸縦断鉄道の京漢線、粤漢線の全線占領に成功、さらに西南の桂林、柳州、南寧にまでに達した。

(この大陸打通作戦の最大の目的は、中国西南地区に設置されたアメリカ空軍基地軍を占領することだった。日本は中国戦線の制空権を完全に奪われていた。中国の基地から出発したB29爆撃機は九州、山陰、朝鮮を爆撃していた。満足な装備をもたない日本軍がこの作戦に成功した要因は国民党軍が戦わなかったからである。桂州、柳州では在華米軍基地を日本軍に明け渡した。7月ルーズベルトは蒋介石に書簡を送り、在華米軍、国民党軍、共産軍を統合した最高指揮官にスティルウェル将軍を任命するよう提案したが、蒋介石はこれ拒絶している。スティルウェルはその日記に次のように記述している。 
蒋介石は自分に補給される軍需品をためておき、日本軍の退去につれ、共産主義者の地域を占拠してこれ を粉砕するつもりである。(日本軍と)真剣に戦う努力はしないであろう。」)

9月 中国民主同盟成立。「国民党の一党支配を即時終結し、各党各派の連合政権を樹立して民主政治を実行せよ」と主張。
1945 昭和20年 2月 ヤルタ会談。ルーズベルト、チャーチル、スターリンの会談。ルーズベルトはスターリンに対日参戦を要請。代償に「大連商港におけるソ連の優先的利益、旅順海軍基地の租借権、東清・南満州鉄道の中ソ合弁ーソ連が優先的利益をもつー、外モンゴルの現状維持」を蒋介石に無断で承認。なおヤルタ協定には、南樺太、千島列島のソ連領有権の承認が含まれてる。
4月 6月にかけて延安で中国共産党第7回全国大会開催。毛沢東「新民主主義」を提案。ブルジュアジーを含め、民主連合政府の樹立を呼びかけた。
5月 ベルリン陥落。国民党は重慶で国民党第6回全国大会を開催。
6月 米軍沖縄上陸。

(中国では、44年から八路軍、新四軍の反攻が始まっており、解放区は拡大に向かっていた。45年春には北は内蒙古、南は海南島にいたるまで19の解放区が成立していた。人口は約1億、正規軍91万、民兵は220万に達していた。)

8月 広島・長崎原爆投下。ソ連対日参戦。日本、ポツダム宣言受諾。
8月 10日八路軍総司令朱徳は全軍に日本軍の武装解除を指示。11日蒋介石は朱徳に対して「現在地に駐屯して命令を待つ」ことを指示。朱徳は拒否。
8月 14日ソ連、蒋介石と「中ソ友好同盟条約」締結。国民政府を唯一政党政府と認める。
見返りに蒋介石は、ヤルタ協定で承認されたソ連の中国における権益を承認。
スターリン、共産党軍を解体して国民党軍に参加するよう勧告。
8月 15日昭和天皇「終戦の詔勅」 蒋介石「怨みに報いるに怨みをもってすべからず」の演説。
支那派遣軍総司令官大将岡村寧次に「国民党軍」への投降と「現装備を維持し所在地の秩序維持」を命令。
また日本軍占領下の中国軍(いわゆる傀儡軍)に対しても同様に指示。
朱徳も岡村に八路軍、新四軍、華南抗日縦隊にのみ投降せよ、と命令した。
8月 18日2つの命令を受けた岡村は、「もし共産軍が抗日侮日の行動をとるならば断固膺懲すべし」と全軍に指示。

(大後方に退いていた国民党軍とちがって前線にいた共産党軍は、占領地域をいち早く接収した。華北では8月末までに県城のほぼ7割を接収。一方8月9日に進撃したソ連軍は瞬く間に満州を制圧、北平・天津をうかがう姿勢をとった。一方国民軍の動きは全体に遅かった。南京で行われた岡村と国民党軍副参謀長冷欣との会談では、共産軍の攻撃に対して日本軍が占領地域を確保することが協議された。実際山西省では閻錫山が日本軍と共同して共産軍と戦ったし、国民党軍の到着が遅れた山東省、江蘇省では日本軍が単独で共産軍と戦った。)

8月  28日蒋介石の呼びかけで重慶で「国共会談」が実現。会談は難航。両論併記の「双十協定」となった。
共産党は48個師団を20個師団に縮減し、内戦回避の姿勢を示した。
1946 昭和21年 1月 10日国共間停戦協定。
10日政治協商会議開催。(国民党8人、共産党7人、民主同盟9人、中国青年党5人、無党派9人)新しい統一政府のための「5項決議」を採択。
2月 政治協商会議成功祝賀会の会場に国民党特務機関が襲撃をかけ、郭末若、李公樸、馬寅初(ばいんしょ)など60名余りが負傷。
3月 国民党6期2中全会は政協が決定した憲法原則を否認する決議。
5月 中国共産党「清算・減租および土地問題に関する指示」(五・四指示)を出す。地主の土地没収と農民への分配。

(農民は一気に土地革命の方向に向かった。半封建的地主勢力を基盤とする国民党との対立はこれで決定的となった。)

5月 トルーマンは特使ジョージ・マーシャル(米陸軍元帥)を送り、国共の調停を試みた。
6月 26日蒋介石は中原解放区への進撃を命令。
7月 国共内戦勃発。
7月 毛沢東全党に指示。@持久戦を準備せよA運動線を中心とし、地域を固守するなB広汎な人民大衆の支持を獲得せよ。一時的に都市や解放区を放棄する作戦をとる。
7月 昆明で民主同盟の李公樸が暗殺される。その4日後国民党独裁を糾弾した聞一多が暗殺。
11月 上海暴動。国民党政権下では、インフレが進行。このため米騒動から暴動に発展した。
11月 国民党国民大会 国民党の永久政権を保証する中華民国憲法を通過させる。
12月 北平反米デモ。米軍兵士が女学生を強姦した事件をきっかけに反米デモ。
1947 昭和22年 2月 台湾2・28事件。タバコ密売の老婆を取締官が殴り殺した事件がきっかけ。抗議に集まった台湾人に発砲して一人が死亡。抗議のデモ隊に軍隊が機銃掃射をあびせ多数の死傷者をだした。台湾民衆は台北市内で暴動おこし全党にひろがった。3月4日に全省処理委員会が組織され、台湾の自治と基本的人権を求める「32ヶ条の要求」が出された。国民政府長官陳儀は妥協するみせて増援軍2個師団が到着すると、殺戮を開始し指導者を逮捕処刑した。この時殺害された人は1万人以上と言われている。
3月 国民党軍、中国共産党の本拠地延安を占領。

(46年7月に全面的な内戦が始まって以来、国民党軍は圧倒的な勢いで進攻した。総兵力430万、うち米軍の最新装備を持つ正規軍が200万。アメリカは国民政府に20億ドルの援助を与えた他に、軍事顧問団を派遣、余剰軍需物資を放出した。対する共産軍は120万、装備は日本軍から奪った旧式兵器だった。蒋介石は南京の軍事会議で「5ヶ月以内に中共軍を全滅させる。」と発言。こうして延安が陥落した。しかし結局国民党軍は旧日本軍同様、点と線を確保したにとどまり補給線は伸びた。)

6月 人民解放軍(中国共産党紅軍は47年に人民解放軍に改称)、全面反攻の開始。
10月 「中国土地法大綱」発表。「耕すものが田畑を持つ」のスローガンのもと土地改革・土地均分が進められた。

(農民は熱狂的にこれを支持し共産党に対する支持は絶対的になっていった。農民は一度手に入れた土地を奪われまいとして人民解放軍に参加した。内戦期を通じて華北では100万人、東北では160万人が人民解放軍に加わった。)

1948 昭和23年   (形勢は明らかに逆転した。東北、華北、中原、山東、西北の各戦場で人民解放軍は勝利を重ね、兵力は国民党軍365万ーうち正規軍198万ーに対して、解放軍は280万人ーうち正規軍は149万人ーとほぼ勢力は拮抗するようになった。国民党軍は大都市に釘付けにされ戦線の主導権を失っていく。)

9月 遼瀋戦役開始。錦州、長春を攻略、11月はじめまでに全東北を解放。(東北野戦軍・林彪)
11月 淮海戦役開始。中原・華東野戦軍が中原・華東を解放。(劉伯承・ケ小平・陳毅)
12月 平津戦役開始。東北・華北野戦軍が49年1月の北平・天津を解放。
1949 昭和24年 1月 蒋介石、総統辞任。人民軍北平入城。
4月 国共和平交渉。共産党、国民党に無条件降伏を迫る。蒋介石これを拒否。人民軍進撃。南京陥落。
5月 上海占領。
10月 中華人民共和国成立。
12月 国民党、台湾に逃亡。