フランク・レポート

ノーベル賞級科学者による警告の書

 フランク・レポートは1945年6月11日、シカゴ大学冶金工学研究所の科学者たちが、原子爆弾の完成を目前にして、「原爆の使用」に深い憂慮を抱き、陸軍長官スティムソンにあてて提出した「警告と勧告の書」である。報告書のタイトルが「政治ならびに社会問題に関する委員会報告」となっているように内容は、科学理論や工学的なものではなく、日本に対する原爆の使用は、必然的に核競争を招来するとした警告の書である。通称フランク・レポートと呼ばれているのは、この委員会の委員長、ジェームズ・フランクの名前を取っているからである。ジェームズ・フランクやレオ・シラードを含めてこの委員会の委員は、一度も陸軍長官ヘンリー・L・スティムソンに会ったことがなく、このレポートは通常のルートをたどって陸軍省に送られた。当時陸軍省は、諸問題に忙殺され、この貴重な報告はいわば黙殺された格好となった。後に原爆投下前、この報告はスティムソンの手元に届けられ、戦後核兵器・核エネルギーの管理・統御機構の問題を真剣に考えていたスティムソンは、この報告の内容に大いに心を動かされた、と自分の当時の日記に書いている。またこの報告書の共同執筆者の一人、レオ・シラードはフランク・レポートや自分がたびたび出した請願書に関連して、1960年USニューズ・ワールド。レポート誌のインタビューに答えて、
「今日(考えてみて)、日本に侵攻するかあるいは日本の各都市に原爆を投下するかと言う問題の立て方自体がまやかしだったのであり、全ての混乱の根本原因だった、と私は思います。」
と述べている。

 フランク・レポートは「政治ならびに社会問題に関する委員会報告、シカゴ大学・冶金工学研究所、1945年6月11日」が正式タイトルである。(Report of the Committee on Political and Social Problems Manhattan Project "Metallurgical Laboratory" University of Chicago, June 11, 1945 
原文は以下のURLでも入手できる。 
http://www.dannen.com/decision/franck.html

 「冶金工学研究所」は、実際に冶金工学を研究していたのではなく、マンハッタン計画のうちシカゴ大学での研究グループのカバー・ネームである。ここに名前のあがっている委員は次の科学者たちである。
ジェームズ・フランク(委員長)<James Franck (Chairman)>、
ドナルド・J・ヒューズ<Donald J. Hughes>、
J・J・ニクソン<J. J. Nickson>、
ユージン・ラビノウィッツ<Eugene Rabinowitch>、
グレン・T・シーボーグ<Glenn T. Seaborg>、
J・C・スターンズ<J. C. Stearns>、
レオ・シラード<Leo Szilard>。

このうちジェームズ・フランクは1925年のノーベル物理学賞を、グレン・シーボーグは1951年のノーベル化学賞をそれぞれ受賞している。
 
 フランク・レポートは、
 T 緒言(Preamble)
 U 予期される軍拡競争(Prospective of Armaments Race)
 V 予期される合意(Prospective of Agreement)
 W 統御の方法論(Methods of Control)
 X 梗概(Summary)
の5章よりなる。念頭に置いて欲しいことは、当時こうした発表そのものが第一級の軍事機密で、科学者一人一人が秘密保持条項で縛られており、一般への公表はできないことだったことだ。従ってこの報告そのものが機密事項だった。

 本来いけないことではあるが、文章を読みやすくするため、私が自分で小見出しを付けた。
私のつけた小見出しは青色にしておいた。




<フランク・レポート>

政治ならびに社会問題


T. 緒言

発言するのは科学者の義務

 物理学の分野に置いて原子力(nuclear power)を特殊なものとして扱わなければならぬ、たった一つの理由は、その平和に及ぼす政治的圧力の手段として、あるいは戦争において瞬時に破壊をもたらす手段として、それがとてつもない可能性を持っている点である。原子工学の分野における研究機構、科学的開発や一般産業界における開発機構、あるいはその発表や広報に関する現在の全ての計画は、当然そう運営されるべきものとして、政治的かつ軍事的環境によってしつらえられている。従って、原子工学の戦後における機構についてなにか意見を述べること自体、不可避的に政治問題に論究することとなる。この大規模計画に関与する科学者は、国内政策であれ国際政策であれ、問題に関して発言してはならないものと措定されている。しかしながらわれわれは同時に、過去5年間この国の安全にとってまた世界の全ての国々の将来にとって、容易ならざる危険が存在することを知りうるひとつの小さな市民グループでもあった。しかもわれわれを除くその他の人類はこの危険を知らないのだ。それ故に、ことの重大さに鑑み、原子力に関して熟知している立場から想起せらるる政治的諸課題に注意を喚起し、なさるべき決定のための準備や研究へ向けてそのステップを示すことはむしろわれわれの義務であると感ずるに至った。原子工学のあらゆる観点から問題を取り扱う、暫定委員会が創設されたことによって、政府がこうした意味合いまでも認識するようになることを望んでいる。われわれは、状況の科学面からの諸要素を熟知しており、また世界レベルでの「政治的意味合い」についても長期にわたって深く関わってきた。従って、これらゆゆしき諸問題の可能な解決策に関し、暫定委員会に一定の勧告を行う義務を負う、と感じている。
 (暫定委員会については次を参照のこと。暫定委員会について


適切な政治機構が唯一の保護装置

 科学者はこれまでしばしば、各国の幸福を促進するよりもむしろ国同士がお互いに破壊し合うための兵器を提供してきた、と告発されてきた。たとえば「空を飛ぶこと」の発見を例に取って、これまでの所、人間に楽しさや利益をもたらすより悲惨さをもたらしてきたことをみても、それは疑うべくもない真実である。しかし科学者は人類に取って利益にならない科学の使用については、過去には、直接の責任を免れてきた。しかし今やわれわれ科学者は、同じ態度を取ることはできない。原子力の開発で達成した成功は、過去における諸発明をすべて合わせてもまださらに大きな危険を、永久に孕んでいるからである。われわれ全員、原子工学の現在の状態をよく知っているわれわれ全員は、真珠湾の何千倍もの惨劇に相当する一瞬の壊滅が、我々自身の国に、この国のひとつひとつの主要な都市に襲ってきている姿を目に浮かべながら、今日を生きている。

 過去に置いて、科学はしばしば攻撃者の手の中にある新兵器に対して、適切な保護装置をも提供することができた。しかし、原子力の壊滅的な使用に対しては、そのような有効な保護装置を提供できると約束することはできない。世界の政治的機構だけが、このような保護装置を招来することができる。世界平和のための国際機構の必要性が大いに叫ばれる中、核兵器の存在こそは最もそれが必要なものである。(the most compelling one)国際紛争を不可能とするような強制力をもった国際的権威が存在しない中、世界の諸国は、完全な相互破壊に導くに違いない道から逸れて、ある特定の国際的合意を達成することによって核装備競争を遮る道がまだ残されている。



U.  予期される軍拡競争
(Prospective of Armaments Race)



基礎的知識は秘密ではない

 少なくともアメリカに関する限り、核兵器による壊滅の危険から防御できる、ということができるかも知れない。一つは核兵器に関する諸発見を無期限に秘密にしておくことである。あるいはもう一つは、圧倒的な報復を恐れてアメリカを攻撃しようとは夢にも思わない速度で原子力兵器開発を進めることである。アメリカがこの分野に置いて現在の所、他の諸国より一頭地を抜いていると言うことは事実にしても、原子力に関する基礎的知見は世界で共有されている、と言うのが最初の方法に対する答えである。イギリスの科学者は基本的な戦時中の原子工学の発達について、工業技術的な発展のある特定の過程に関する部分を除けば、われわれと同等な知識を持っている。もともと原子物理学者のバックグラウンドを持っていたフランスは、時々われわれの大規模計画に接触していたこともあり、少なくとも基本的な科学的事実に関する限り、急速に追いつくことができるだろう。ドイツの科学者については、そもそもこの分野における彼らの発見が核開発の出発点だった。戦争中はアメリカが成し遂げたことと同程度の発展はできなかったものの、ヨーロッパの戦争の最後の日まで、アメリカの科学者はドイツの科学者が達成するかも知れないという心配の中で過ごしてきたのである。そもそもドイツの科学者がこの兵器の研究をしており、ドイツ政府はこの兵器が完成し次第何の良心の呵責なしに使用するだろうという見方が、アメリカに置いて、大規模に、軍事利用を目的とした原子力開発をしようというアメリカの科学者の主要な動機になったのである。ロシアに置いてもまた、原子力に関する基本的事実及びそのことの意味するところは1940年までによく理解されていた。核研究におけるロシアの科学者の経験は、恐らく2−3年のうちにわれわれのたどったステップを忠実に追いかけことができるほど十分なものである。たとえどんなにわれわれが、それらの知識をロシアに対して封印しようとしたとしてもだ。さらに云えば、平和時においては基本的情報を秘密にしておこうという努力にあまり大きな期待をかけるべきではない。平和時に置いては、この研究についてよく知る科学者たちは、お互いに交流を深め、関連するプロジェクトは科学者仲間やいろんな研究機関に分散拡大し、われわれの開発がそれを基礎に置く問題と密接に関係して研究を続けるからである。言い替えるならば、われわれが、この問題について成し遂げた全ての結果や関連した計画の結果を秘密にすることによって、ある一定期間原子工学の基本知識の分野で主導権を取ることができたとしても、保護できるのは精々2−3年のことで、それ以上を望むのは馬鹿げていると言うことだ。


原材料の独占は不可能

 原子力の原材料を独占することはできないだろうかという質問があるいは出てくるかも知れない。答えはこうだ。たとえ現在知られているウラン鉱石の最大部分が、いわゆる西側グループ(カナダ、ベルギー、英領インド諸島)に属しその統制下にあるといえども、チョコスロバキアの古くからの埋蔵部分はその範囲外にある。ロシアはその領土内にラジウムを産出することで知られている。ソ連邦内でいままでに発見された埋蔵量の規模は知られてはいないが、地表面積の1/5(その他に影響下に置かれた追加の部分がある)を占めることを考えて見れば、保安を脅かすほど大規模なウラン埋蔵はありえないという確率は極めて小さいと云わざるを得ない。

 このように原子力に関する基本的な科学的事実を競争相手国から秘密にし続けるなり、必要な原材料を囲いこむなりして、核装備競争を回避できると期待することは不可能である。

 また次のような議論もあるかも知れない。すなわち―――。

 アメリカは核装備競争に置いて安全である。というのはアメリカには、核分裂に関する大きな科学的かつ技術的知見、大規模な熟練労働者軍団による効率性、より大きな経営技量があるからだ。確かにこうした要素は、今回の戦争中にその重要性が発揮され、もって連合国側の兵器廠と化した。しかし答えはこうである。こうしたわれわれが持っている利点は、より多くの、より大きなそしてより優れた原爆の蓄積の結果である。従って、平和時に置いてもなおかつ最大限原爆の生産を行った場合にのみこの利点は維持できる。宣戦布告をした後、平和時の原子力産業を転換すると言うわけにはいかない。
 (すなわち平和時に置いても、核兵器の生産を続けなければ、こうした利点は維持できない。従って核装備競争において、常に優位性を保とうとすれば、平和時に置いても核兵器を作り続けなければならないと言うことになる。これは暫定委員会での産業人の指摘とも一致する。しかもこれは産業人の経済的利益とも一致する見解だ。)


先制奇襲攻撃には無力

 しかしながら、そのような相手を封じ込めるような破壊的力を保持する数量的利点は、突然の攻撃に対しては安全を保障しない。潜在敵は、「数量的優位」や「火力的優位」を恐れるからのみ、突然の、挑発行為なしの攻撃をしたいという誘惑に負けないでいられるのである。突然の攻撃は、潜在敵にとっての保全や勢力範囲に対して、こちらが攻撃的意図を持っているのではないかと心に疑いを抱いた時によく起こる。これ以外の戦争の形態に置いては、先ほどの利点は、攻撃側に対してさほど大きな要素を占めない。敵は「地獄の機械」(すなわち原爆のこと)を、あらかじめわれわれの主要な都市にセットし、同時に爆発させれば良いのである。このようにして、アメリカの主要な産業を破壊し、集中して人口が集積するメトロポリタン地区の人々は殺傷される。われわれの報復の可能性は、報復が破壊された都市や殺された数千万人に人々に対する補償の手段として見なされたとしてもの話だが、相当のハンディを背負ったものとなるであろう。と言うのはわれわれは、爆弾を空輸に依存せざるを得ず、敵の広大な地域にその産業や人口は拡散しているだろうからだ。

 
 実際の所、もし核装備競争が進行していくならば、敵の奇襲による甚大な影響から身を守る唯一有効な手段は、明らかに、戦争遂行に欠くべからざる産業の分散とメトロポリタン地域からの人口の分散しかない。核爆弾が希少性を持つ限り(これとても原爆製造に必要な不可欠原材料がウランやトリウムでなくなるまでの話だが)、産業の分散やメトロポリタン地域からの人口の拡散は、敵の核攻撃をしようという誘惑を減ずる効果があるだろう。

 これから10年間、原子爆弾は恐らく20Kgの有効物質を含み、爆発効率は6%となるだろう。これはTNTに換算すると効果に置いて2万トン相当となる。
 (これは1945年6月時点の科学者の予測であり、実際にはたとえば45年7月核実験では、使用したプルトニウム爆弾はすでにTNT換算で2万トンと見られていた。10年間というと当時の科学者の予測をはるかに超えた強力で大型の核爆弾が開発された。)

 このうちには、都市圏の3平方マイルを破壊するのに使われるものもあるだろう。原爆はもっと多くの量の有効物質を積載することもできるが、それでも重量は1トン以下である。10年以内には、1トンで10平方マイルの一つの都市全部を破壊する原爆ができると予想される。この国を奇襲しようと準備している国が10トンの核爆発物を使えば、500平方マイル以上の範囲の人口と産業を破壊できることになる。アメリカの領土のうち500平方マイルを選んで、その中に攻撃目標を決めないで攻撃したとしても、必ず国の重要な産業地帯を含んでいるだろうし、大きな人口稠密地帯を含んでいるであろう。そして国の防衛能力や戦争遂行能力に壊滅的な打撃を与えることは必至である。それからの反撃は恐らく引き合わないだろうし、企てもされないであろう。アメリカの領土内で5マイル平方に区切った区画を100個選んで、そこに同時攻撃をかけることは容易なことだし、もしそうなればこの国には唖然とするような打撃となる。(全海軍力の全面的壊滅などと言ったことですら、この滅亡全体からみれば、ほんの部分的一コマにすぎない)。アメリカは600万平方マイルの広さがあるので、核攻撃の目標として、500マイルごとに離れて産業と人的資源を散在させると言うことは可能と云うべきであろう。

 しかしこのような社会的かつ経済的な構造を根本から変えるにあたっては、呆然とするような困難が横たわっていることは容易に見て取れる。われわれは次のように感じている。すなわち―――。
もし国際的な合意が成功裏に達成できないとしたら、我々自身を守ってくれるどのような方法を考えても、その代替案はディレンマに逢着する、と。この分野では、より人口が分散していたり、産業がより拡散している国、あるいは人口移動や産業用工場を分散させる力を持つ政府のある国より、アメリカは不利な立場にある、と指摘しておかねばならない。

 もし効果的な国際合意に達しないとすれば、核兵器の存在を最初に誇示した翌日の朝から、最も早ければ核装備競争が始まることだろう。そして3年から4年のうちにはわれわれが現在スタートしている位置に追いつき、その後10年以内には、もしわれわれが核分野でかなり重点をおいた開発を続けるものとして、彼らとわれわれは対等の力関係になるだろう。これではわれわれは絶えず産業や人口の再グループ化をしなければならなくなるかも知れない。明白なことは、専門家によるこの問題に関する研究を開始するのに失うべき時間はないということである。


 V. 予期される合意(Prospective of Agreement)

核戦争防止協定が先決

 予想される核戦争と核爆撃がもたらす全面的壊滅から国を守るべき手段の型は、他の国にとっても同様、合衆国にとっても、厭うべきものとなるだろう。イギリス、フランスその他のヨーロッパ大陸におけるより小さな諸国は人口や産業が稠密であり、そのような脅威の前には、ほとんど絶望的状態に置かれている。ロシア、中国などは核兵器攻撃に生き残る数少ない大国であろう。しかしながら、たとえどんなに、こうした国々における人命の価値が西ヨーロッパやアメリカにおけるよりも低く値踏みされていようとも、また特にロシアにおいて分散させるべき広大な領域があり、分散を強権的に命令できる政府があろうとも、そのような手段が必要とされるあかつきには―特にロシアに置いてそういえるのだが―モスクワとレニングラードが突然の壊滅状態となり、ほとんど奇跡的に戦争に生き残ったとしても、シベリアとウラル山脈のみが産業地帯である、といった可能性はやはり身を震わせるような恐怖であろう。従って、相互信頼の欠如のみが、そして合意に対する意欲の欠如が、効果的な核戦争防止協定への道に立ちふさがっているだけである。

 この見解からすると、今現在秘密に進められている核兵器を、初めて世界に明らかにする方法が非常な、ほとんど運命的といえるほどの重要性を帯びるのである。

 可能な一つの方法は―核を秘密兵器として開発し、今回の戦争を終わらせる主要な手段として見なしている人々には、特に説得力をもつ方法だろうが―日本で適切に選択した目標に対して警告なしに使用することである。その場合、最初に使える原爆が、―それは比較的効率が悪くまた小型だろうが―、日本から抵抗への意志や能力を打ち砕くのに十分かというとこれは疑問である。特に通常空爆で時間をかけてほとんど廃墟と化した、東京、名古屋、大阪あるいは神戸といった主要都市に爆撃した場合にはそうだ。重要な戦術的結果を招来するであろうことは、恐らく、いや確実に、間違いない。しかしながら、云うまでもなく、対日戦争で最もはじめに稼働できる原子爆弾を使用する問題は、単に軍事当局によってのみ考量するのではなく、この国の最高レベルの政治的リーダーたちによっても慎重に考量されるべきだと考える。もし全面的核戦争防止協定が、なににも替えがたい最高の目的だと、われわれが見なすならば、またそれは達成可能だと信じているならば、原爆をこのような形で世界に登場させると、いとも容易に条約の締結成功の機会を打ち壊すことになる。ロシア、また同じ同盟国や中立国ですら、われわれの方法論と意図に対して不信感を募らせ、深い衝撃を与えることになるだろう。何千倍も破壊的でロケット爆弾のように無差別的な爆弾を秘密裏に準備する能力を持ち、かつ突然その兵器を発射するような国が、自分だけしか持たないその当の兵器を国際条約で廃止しようとの主張が信頼されるかというと、その主張を世界に納得させることは難しいであろう。


毒ガス兵器は承認しないのに・・・

 この国には相当量の毒ガス兵器の蓄積がある。しかしそれは使用しない。世論調査によればそれがどんなに極東における戦争でわれわれの勝利を早めようとも、この国の世論は毒ガス兵器の使用を容認しないからだ。確かに大衆心理には非理性的な要素があり、毒ガス戦争が爆弾や銃弾による戦争よりも議論の余地なく非人道的であるにも関わらず、毒ガス爆弾を使用せよという傾きもないではない。しかしいうまでもなくそれはアメリカの一般世論では全くない。同様にもしアメリカの国民が核爆発物の影響を正しく知らされていたなら、一般市民の生命を完全に壊滅するような、そういう無差別な方法を講ずる最初の国がアメリカであることを決して支持しないであろう。

 このようにして国際核戦争防止協定を期待し、楽観的な見地から見ると、軍事的利点やアメリカ人の命を救うこと―それは日本に対して予告なしに原爆を使用することによって達成されるのだが―、はそれによって生起される自信の減退や恐怖や嫌悪感の一連の波はアメリカ以外の世界を覆い尽くし、アメリカ国内で世論を二分すら
するやも知れず、結局後者の方が優るかも知れない。


ベストは核実戦使用の放棄

 またこの見地から見ると、新兵器のデモンストレーションが最も優れているかも知れず、それは砂漠か無人島で国際連合すべての代表の眼前で実施するのが最も良いのかも知れない。もしアメリカが世界に向かって、「われわれが保有している兵器がどんなものか分かったと思う。しかしわれわれはそれを使わない。われわれはそれを将来にわたって使用することを放棄する用意がある。そしてこの核兵器の使用に関して適切な管理の方法を検討すべく、他の諸国と共同作業に入る用意がある」と云うことができれば、国際協定成立の方向で、可能で最も望ましい雰囲気が醸成できよう。

 これは素晴らしいことに響くかも知れない。しかし核兵器では、われわれは、その破壊力の衝撃度は全く新しい経験だ。そしてその保有がもたらす全くの優位性をフルに活用しようとするなら、私たちは全く新しくて創造力に富む方法論を採用しなければならない。そのような兵器のデモンストレーションを実施した後でなら、日本に対する使用もありうるかも知れない。ただし、国際連合の同意(それとアメリカ国内世論の賛同も)を得られるならの話だが。その上、日本に降伏を勧める最後通牒を行った後にか、あるいは最低限、全面破壊される目標の地域から退避が行われた後、ならの話だが。


突然の使用から無期限の核競争

 もし悲観的見解に立って効果的な国際核兵器統制協定の可能性を低く見るものがあれば、その人は早期の段階における日本への原爆使用がより適切と見るようになるだろう。そして人道主義的考察から完全に離れてこの問題を見るようになるだろう。このことは特に強く強調しておかねばならない。原爆のデモンストレーションの直後にもし国際合意がなされていないとすれば、このデモンストレーションはいわば無期限の核装備レースにおけるフライング・スタートみたいなものだ。もしこのレースが不可避だとしたら、当然できるだけこのレースの開始を遅らせ、レース開始の時点でははるかに先の地点にたとうと考えるのは極めて筋の通ったことである。戦時の緊急性のことを考慮に入れておかねばならないが、われわれは核爆発物の生産という最初の段階に到達するのに大まかに云えば3年かかっている。最初の段階とは、希少な核分裂物質同位元素U-235を分離する段階と云ってもいいし、あるいはもう一つの核分裂要素から同量の製造を実用化した段階と言っても云い。この段階は極めて大規模な、そして費用がかかる建設と研究過程を要した。われわれは今第2段階の入り口に立っている。第2段階とはそうした核分裂物質をウランやトリウムに含まれる、比較的豊富でより希少でない同位元素に替えていくという段階である。この段階はさして入念な計画を必要とせず、おおよそ5−6年もあれば相当量の原子爆弾の在庫蓄積をもたらすことだろう。このようにして、第2段階を成功裏に完了させるまで核兵器競争のスタートを遅らせることはわれわれの利益にもかなうことだ。早期の段階におけるデモンストレーションを放棄し、他の諸国が、「うまく行く」ために必要なはっきりした知識をもたないまま、当て推量に頼らざるを得ないようなレースに参入する気持ちを挫けさせることは、この国の利益にもかなうことだし、また将来におけるアメリカ人の生命を救うことにもなる。これは、比較的効率の悪い最初の原爆を日本に対して即座に使用するより、はるかに優れたやり方なのである。最低限云えることは、原爆の使用に賛成であれ反対であれ、この国の最高限の政治的・軍事的指導者層によって慎重に比較考量し決定されねばならないと云うことだ。そしてその決定は単に軍事上の戦術の見地からのみなされてはならない、と言うことだ。

 この秘密兵器の開発で主導権を取ってきたのはわれわれ科学者であり、それがいざ使える段階になると、当の科学者が敵に対して使いたがらないと言うのは奇妙なことだ、という指摘があるいはなされるかも知れない。その疑問に対する答えはこうである。このようなスピードで核兵器開発を急がなくてはならなかったやむにやまれぬ理由は、ドイツが核兵器を開発するのに必要な技術的技能を持っており、彼らは全く人道上の正義からの観点からこの問題を検討せずに、躊躇なく使用しただろうからだ。

 また、準備でき次第原爆を使用したいとする側からは、あるいはこの大規模計画に納税者の金を莫大に費やしており、議会やアメリカの世論は費消した金の見返りを要求するだろうという、指摘があるかも知れない。前述の如く、日本に対する毒ガス兵器使用の問題に見られるアメリカの世論の姿勢は、絶対に緊急の時にしか使ってはならない兵器が存在するという意見に与するものである。核兵器の力に関する全容がアメリカ国民の前に明らかになれば、そのような兵器の使用を不可能とする全ての企てに支持するだろうことは火を見るより明らかだ。

 いったん、国際核兵器使用防止協定ができあがれば、現在軍事的使用にのみ特徴づけられている、大規模な爆発物質に関する施設及びその蓄積は、重要な平和利用開発にもすぐ振り向けられる。発電、大規模な工業技術的試み、放射性物質の大量生産などにすぐ転用できる。このようにして戦争中、原子工学の分野に投下された資金は、平和時の国家経済への恩恵として戻って来るのである。




 W. 統御の方法論(Methods of Control)

統御を目的に国家主権の一部を放棄

 さて今やわれわれは、いかにして核装備に関する効果的な国際統御を達成するかという問題を考慮すべき段階に来た。これは困難な問題である。しかしわれわれは解決できると考えている。政治専門家や法律家による研究が必要ではあるが、われわれはここに研究のためのごく基本的な提案を提示してみよう。問題に関わるあらゆる側が、この協定を成立させたいとする熱意と相互信頼に基づき、各国家経済のある段階を国際管理とすることを承認し、それぞれの国家主権の一部を放棄するのである。そして統御自体をそれぞれ異なる二つのレベルで実行するのである。(その実行は交替にでもいいし同時でも構わない。)


 最初のレベル、そして恐らくは最も単純な方法は、原材料―さしあたりはウラン鉱石―を配給制度にすることである。核爆発物質の生産は、大規模な同位元素分離工場かあるいは膨大な製造物蓄積を処理する工程から始まる。地球上のいろんな地域で採掘されるウラン鉱石の量は国際統御理事会(the International Control Board)
から派遣される現地駐在管理員(resident agents)が管理しうる。
そして各国は、大規模な核分裂物質分離が不可能なだけの量の割り当てをうけるのである。

 そのような制限は、平和時利用目的の原子力生産をも不可能とする障害でもある。しかしながら、放射性物質要素の生産に取っては妨げにはならない。そのような放射性物質だけでも、産業上、科学的技術上の使用に革命をもたらすのである。また原子工学約束している人類にとっての恩恵を損なうものでもない。

 協定の高度なレベルでは、さらに緊密な相互信頼と相互理解が必要になってくるが、無制限の生産が許される。ただし採掘されるウランの一ポンド一ポンドまでが極めて厳密に記帳される運命にある。ここで第2段階におけるある種の統御上の困難が浮上してくる。一ポンドの純粋な核分裂同位元素は何度も何度も繰り返し使用でき、トリウムを使って追加の核分裂物質を製造できるからだ。しかし、これは恐らくトリウムの採掘と使用にまで統御を延長することによって克服できそうである。もちろんこの金属の商業的使用に置いては統御が複雑に入り組んでは来るだろうが。

 ウランやトリウム鉱石から純粋核分裂物質への転換がチェックし続けられるなら、次の課題が浮上してくる。すなわち一つやそこらのわずかな国の手中に、核分裂物質が蓄積するのをいかに防止するかという課題である。この種の蓄積は、もしある国が国際協定を破ろうと思えば、すぐに核爆弾へと変換しうるのである。純粋核分裂同位元素の強制的性質変換はあるいは合意に達しうるかも知れない。
軍事的目的でなければ、生産の後に適切な同位元素を生成することにより、これらの純粋核分裂物質は薄めることができるからである。
(もし2年か3年かけてこの工程を進行させることにより、純化する場合は除いて)。残りの部分は原子力機関に取って有用ではある。

 明白なことが一つある。いかなる国際核装備防止協定も、実際的で有効な統御機能にしっかり下支えしておかれなければならないと云うことだ。単に書類上の協定では不十分である。この国にせよ、他の国にせよ、その国の存在そのものを各国の署名に対する信頼のみに賭ける、と言うわけにはいかない。国際的統御代理機関を妨げるいかなる試みも、こうした国際協定に対する事実上の廃棄通告に等しい。

 われわれ科学者が、今思い描いている統御のシステムが、恒久的な世界安全のために、原子工学分野における平和的開発をできるだけ自由にしておくことが必要だと考えていることは、改めて強調するまでもないと思う。



 X. 梗概(Summary)

軍事的便宜主義より長期的政策

 原子力の開発は、単に合衆国の技術力及び軍事力に対する重要な追加物ではなく、この国の将来にとって極めて甚大な政治的及び経済的課題を生成するものである。

 原爆は、ここ2−3年以上にわたって、この国の排他的専有物である「秘密兵器」として維持しうるものではない。その建設に基礎を置くべき科学的事実は他国の科学者にもよく知られている。もし核爆発物に関する効果的国際的統御の仕組みが構築されないならば、世界に向かってアメリカが核兵器を所有していることが明らかになるやいなや、核装備競争が間違いなく生起するであろう。10年以内に他の諸国も5平方マイル以上の都市地域を破壊しうる、重量1トン以下の核爆弾を保有するに至るかも知れない。そのような核装備競争が逢着する戦争にあっては、合衆国のような比較的限られたメトロポリタン地域に産業と人口が集中している国は、広い領土に産業と人口が分散している国に較べて、不利となるであろう。

 われわれは、これらの考察を通じて日本に対する無警告の、また初期の段階における原爆の使用は全く勧奨できないものと信ずる。もし合衆国が人類に対して無差別の破壊をもたらすこの新しい手段を最初に放つならば、合衆国は世界中の人々からの支持を失うことになり、核装備競争を促進し、将来に置いてそのような兵器の統御に関する国際的合意を形成する可能性にとって偏見を残す結果となるであろう。

 そのような合意を実効的に形成するにあたって、より望ましい状態は、適切に選択した無人の地域でデモンストレーションすることによって、最初に世の中に公開することである。

 もしこのような効果的な国際核兵器統御協定成立の見込みが、現在薄いものならば、日本に対して核兵器を使用することだけでなく、早い段階でのデモンストレーションですら、アメリカにとっては不利益なものとなろう。その場合、デモンストレーションを延期することが、できるだけ核装備競争の開始を遅らせることになる。こうして時間にゆとりが生ずる期間に、もしこの国の原子力エネルギーに関する開発がさらに進めば、それは莫大な支援となり、デモストレーションの延期は、今次戦争期間中に確立した優位性を補強し、核装備競争におけるこの国の立場を強化することになり、ひいては後にいずれかの日の国際合意の企てにとっても、それを強化することにもなる。

 その一方で、仮にもし、デモンストレーションを行わず、原子工学における開発に適切な世論の支持が集まらないものとすれば、デモンストレーションを延期することは、決して勧奨できるものとは思量されない。と言うのは十分な情報が流出し、他国を核装備競争に駆り立てるだろうからだ。その競争に置いてはアメリカはより不利な立場に立たされるに違いない。同時に秘密裏に開発を進めていることを他国が確認すれば、不信感を増大させ、国際的合意を形成するに当たりそれを事実上困難にするからである。

 もし合衆国政府が、核兵器のデモンストレーションにより好意的な決断を行えば、それはこの戦争で日本に対して核兵器を使用すべきか否かを決定する前に、この国や他国の世論を十分取り入れる可能性を持つことになる。このようすれば、他国もまた、この運命的な決断に対する共同責任を負うことにもなる。

 要約しよう。われわれは、今次戦争に置いて核兵器を使用することは、軍事的便宜主義からではなく長期的国家政策の問題として考えるべきだと主張するものである。そしてこの国家政策とは、核戦争を取り除く効果的な国際統御を許す合意形成の方向に、第一義的に向かうべきだと主張するものでもある。

 この国にとってそのような統御が決定的に重要だと云うことは、われわれが知る限り、この国を守る唯一の代替案は主要都市や基幹産業の分散しかないという事実から見て、明白である。