【参照資料】フクシマ放射能危機と汚染食品 2012.7.31

<参考資料>食品安全委員会 
食品安全評価ワーキンググループ 第1回会合 議事録解説

 
核利益共同体に魂を売り渡した
日本の食品安全委員会

その⑤ 被曝を強制するICRP勧告とそれを正当化する広島・長崎の被爆者データ

調べなければ何もなかったことになる

 食品安全評価ワーキング第1回会合は、「放射線問題」に明るくない専門委員や食品安全委員に対して基礎的な知識や知見を提供する、いわば「ご進講」という性格も持っていた。その講師のトップバッターに立ったのが、なんと元原子力委員会委員長代理の松原純子だった。松原の話は、いまだにIAEAやWHOの見解や報告をなぞった不誠実で、時には「ウソ」といっていいような、話に終始した。彼女がほとんど「信仰告白」といっていいほど信頼するICRPのリスクモデルのそのまた基盤を支えるのが、ABCC(原爆障害調査委員会)=放射能影響研究所(現在の放影研)が手掛けた一連の研究、広島・長崎の「原爆生存者寿命調査」(LSS)だったことを前回簡単に見た。簡単に言ってしまえば、福島原発事故に端を発する「フクシマ放射能危機」対処するにあたって、LSSのデータから演繹された「科学的事実」をもって汚染食品防護体制を構築しようという意図がはっきり見て取れるワーキングの方向であり、事実その後の「影響評価書」はその方向でまとめられている。

 このため松原は、チェルノブイリ事故のために発生したヨーロッパでの健康損傷に関する厖大な研究や報告を価値のないものあるいは誤りであるとして無視せざるを得なかった。そしてドイツで行われた「KiKK」研究を誤りとして食品安全委員会に報告している。たとえば小児白血病についていえば、チェルノブイリ事故が原因の過剰な「小児白血病」はウクライナ、ベラルーシ、ロシア以外では発生しなかった、と断じている。

 チェルノブイリ事故による広汎なヨーロッパ全体の影響のうち、事故の影響で過剰な小児白血病が、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ以外で出たかどうか、というのが今のテーマである。松原は、「もとの研究に遡って調べたが、どれも怪しい研究やデータで信頼するに足りなかった」、といっている。どの研究のことを言っているのかはっきりしないのが話題はドイツとギリシャであることは明確だ。

 ECRR2010年勧告は次のように言っている。

 1986 年のチェルノブイリ事故の後、放出された放射性同位体への被ばくを彼ら彼女らの母親の胎内で受けた子どもの集団は、人生の最初の年に白血病を発症する過剰なリスクに曝された。この「小児白血病」の集団的影響は、6つの異なる国々で観察された。スコットランドにおいて報告されたのが最初であり(1988)、その後に、ギリシャ(1996)、合衆国(1997)、ドイツ(1997)でみつかっている。』(第11章11.2節「チェルノブイリの乳幼児たち」日本語テキスト p18)

 こういうことである。チェルノブイリ事故では、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアだけではなく、ヨーロッパ全体に放射性降下物があった。特に事故直後ヨウ素131がヨーロッパ全体を覆った。ヨウ素131は希ガス状で物理的半減期も8日と短い。しかし飲食物や呼吸で摂取し体内にはいるとベータ崩壊し放出エネルギーも大きい。これが母体を通じてまだお腹の中にいる胎児が被曝した。このため被曝線量の大きかったベラルーシやウクライナでは相当数の流産や死産、人工中絶などがあった。これがいわゆる「ヨウ素ショック」である。しかし、スコットランドやアメリカ、ギリシャ、ドイツではそのような目に見える形での「ヨウ素ショック」はなかった。しかし、母親の胎内にいた胎児は極低線量の放射線に被曝した。このため生まれた後、小児白血病を発症した、とこういう報告である。

 松原の言い分とは全く対立した報告である。6つの異なる国、といっているのは、スコットランド、ウェールズ、イングランド、ギリシャ、アメリカ、ギリシャのことである。ほかのヨーロッパ諸国ではこの現象はなかった、といっているのではない。これは目的意識的に調査しなければ発見できることではない。だから、これらの国で目的意識をもった研究者がほぼ手弁当で、あるいは市民団体からの財政的支援や研究委託を受けて調査したから、結果がでたのである。

 「フクシマ放射能危機」でも同様である。誰かが、目的意識をもって科学的な、あるいは疫学的な調査を行わなければ、どんな被害が出ているかわからない。調べないで「被害はなかった」という事はできない。調べないことと「なかったこと」は別のことだ。しかし日本政府や日本の核利益共同体は、調べないことを「なかったこと」の証としようとしている。だから彼らの特徴は「調べないこと」である。

 話が横道にそれるようであるが、福島原発事故が起こった2011年は厚生労働省にとって「医療施設」「医療機能」そして「病院の患者」について調査する「静態調査」を実施年に当たっていた。3年に一度実施される。ところが厚労省は、「福島県全域と宮城県の一部については患者調査をしない」と「第17回社会保障審議会統計分科会」に報告している。(2011年10月20日。分科会提出資料5参照のこと)

 その理由について、厚労省の早川という統計企画調整室長は、この分科会で次のように説明している。

 それから患者調査につきましても、これも3年に1度の調査なんですが、今年が調査の年になっておりまして、まさに今月が調査月になっているわけですけれども、宮城県の一部地域と福島県の全域については、調査を行わないということで対応しております。』

 この説明に不審をもった分科会委員の一人から、地域保健医療計画の策定に障害を及ぼさないのかという趣旨の質問が出る。これは当然の質問だろう。患者の実態が判らなければ、計画策定どころか国として適切な医療体制の整備ができない。医療法(<http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S23/S23HO205.html>)第1章「総則」第一条の3では『国及び地方公共団体は、前条に規定する理念に基づき、国民に対し良質かつ適切な医療を効率的に提供する体制が確保されるよう努めなければならない。』と明確に国の義務を定めている。患者実態がわからないでは、この義務の遂行もできないではないか。

 これに早川は次のように答えている。

 患者調査なんですけれども、これは今、福島県は特に地震だけの影響ではなくて、原発の影響もあって、平時でない状況が続いているということで、そういった状況をあえて調査したとしても、その後の利用に耐え得るかという考え方から、患者調査の方については今回見送るという形を取っております。』
(同議事録参照のこと。<http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001vpr2.html>)

 震災の混乱のために調査できないというのではない。原発の放射能のために「平時」ではない状況が続いている、そこで得られた調査結果は、その後の(つまり事態が落ち着いて平時になって)データとして使えるか、というと使えない。あまりに特殊だから、というのである。だから調査しない、というのである。これはおかしな屁理屈で、特殊で緊急な事態だから念入りに調査し、実態把握をした上で特別な医療体制を構築するというのが、医療法の趣旨であり、法の精神・理念であろう。調べれば放射線障害の患者が出てくる、これは都合が悪いので調べない、としか読めない。(しかし逆に言えば、厚労省は日頃の宣伝とは裏腹に、フクシマ放射能危機の影響は少なくとも福島県全域と宮城県の一部には発生する、と見ていることになる。)

 調べなければ何もなかったことになる、隠す必要もない、の典型例だろう。

次々と公表される各国の調査研究

 ウィンズケール核施設事故(ウェールズのウィンズケール兵器級プルトニウム工場の原子炉火災で大量の放射能が流出)で小児生白血病が発生したイギリスがこの問題に敏感に反映したのは当然のことだったであろう。

 1988年、早くもイギリスで“LEUKAEMIA IN YOUNG CHILDREN IN SCOTLAND”(「スコットランドにおける幼い子どもたちの白血病」)という研究が発表される。これはグラスゴーやエディンバラにある王立病院小児科の医師、B.E. ギブソン(Gibson)やO.B. イーデン(Eden)ら4人が共同で調査研究したものだ。1996年にはギリシャのアテネ大学教授(現在:発表当時は准教授)のイレーニ・ペトリドウ(Eleni Petridou)ら10人の共同研究として、“Infant leukaemia after in utero exposure to radiation from Chernobyl.”(「チェルノブイリからの放射線胎内被爆後の小児白血病」)が「ネイチャー誌」に発表されている。

写真はアテネ大学医学部教授、イレーニ・ペトリドウ。
(医学生向けのサイト“The Lancet Student”のサイトから引用
http://www.thelancetstudent.com/legacy/2009/10/22/
eleni-petridou-and-the-european-code-against-injuries/
>)

 1997年には、アメリカのジョセフ・マンガーノが“Childhood leukaemia in the US may have risen due to fallout from Chernobyl(「アメリカの小児白血病はチェルノブイリからの降下物で発生しているかも知れない」)という研究を「英国医療ジャーナル」に発表。また1997年にはドイツのJ. ミヒャエリ(Michaelis)ら4人が“Infant leukaemia after the Chernobyl Accident(「チェルノブイリ事故後の小児白血病」)を発表している。

 これら研究はいずれも、チェルノブイリ事故による放射性降下物のために、それぞれの国(地域)において、小児白血病が有意に増加していることを示している。

 その他この分野の研究は、英国放射線防護局のデータや後続研究や関連研究が山ほどある。またこうした先行研究を使った解析研究も出ている。

 NRPB(英国放射線防護局。イギリスにおけるICRP派の牙城の一つである。) のミュアヘッド(Muirhead)や、英国核燃料公社のウェイクフォード(Wakeford)による解析は、様々な国における小児白血病の過剰が(ICRPのモデルで)およそ100 から1000 の誤差の範囲であることを示した。それでも、CERRIE(Committee Examining Radiation Risk of Internal Emitters=「内部放射体の放射線リスク検証委員会」。2001年イギリス政府が作った内部被曝に関する独立科学委員会。少数派だが非ICRP派の科学者も参加している。ECRR科学幹事のクリストファー・バスビーも委員の一人)の最終報告書はこれらの結果を本文から除外した。付録の表の中には実際の数字と信頼区間が示されているにもかかわらず。

 後に、英国のデータは、ドイツとギリシャのデータとあわせて、英国・ドイツ・ギリシャの合わせたコホート集団のなかでの小児白血病のリスクが43%過剰であることを、高い統計的有意性を持って示した』(ECRR勧告 第11章 同p19)

 もし松原が「非常に信頼性に乏しいデータであったり、不確実であり、白血病の増加は信じがたい」というのなら、そうした厖大な研究にそれこそ一つ一つ反論して行かなくてはならないだろう。

 この松原の答えに、専門委員であり東京大学大学院 医学系研究科・教授の遠山千春は「わかりました」と答えている。(私には遠山が納得しているとは到底思えない)

被曝線量調整の放射線防護体制

 次に質問するのは、食品安全委員会の委員長、小泉直子である。小泉の質問は、ICRPの放射線防護政策の根幹に関わる重要な質問であった。といって小泉がICRPの放射線防護政策に特に批判的というわけでもない。本当に誰にとっても理解しがたいのだ。取りあえず、小泉の質問は、

 私ども緊急取りまとめをするときに用語について非常に困難がありました。それは介入と回避とか、あるいは生涯なのか、非常にわかりにくい面がありました。例えばICRP では防護対策指標とか介入レベルとか言っています。IAEA は回避線量とか書かれていますし、原子力安全委員会では介入線量レベルとか、そういう言葉がいろいろ出てきまして、それらにどんな違いがあるのかということと、最終的に原子力安全委員会で決められた50 mSv というのは緊急時の曝露量なのか、あるいは生涯の曝露量として考えればいいのか、その辺を教えていただければありがたいのですが。』

 これに対する松原の答えは全く的外れであり、省略する。松原はまるでわかっていない。その松原に替わって答えるのが当日専門参考人として出席していた、日本アイソトープ協会の常務理事、佐々木康人である。放射線防護を専門分野としている。東京大学医学部放射線科教授歴任。東京大学付属病院放射線部部長、東京大学医学部付属看護学校長兼務。科学技術庁放射線医学総合研究所所長、独立行政法人放射線医学総合研究所理事長を経て日本アイソトープ協会の常務理事に納まっている。国際放射線防護委員会(ICRP)主委員会委員、原子放射線の影響に関する国連科学委員会(UNSCEAR)日本代表、同議長を務めた。ICRP学派の日本での大物の一人である。

言葉のことでありますけれども、ICRP で介入、もともとの言葉はインターベンション(intervention)というのは、放射線被ばくを下げるような行為、放射線を下げるような行為をインターベンション、介入と呼んで、それから放射線の被ばくを増やすような行為、プラクティス(practice)と呼んでおりました。これは1990 年の勧告までは放射線防護の体系をプラクティスとインターベンションという2つのプロシージャーベース(procedure based)と言っていますけれども、そういうことで体系をつくっておりました。』


「原発安全」「放射能安全」の2つの神話

 その「プラクティス(被曝線量の増加)とインターベンション(被曝線量の削減)」という放射線防護体系が変わった、と佐々木は言うのである。新しい体系は、ICRP2007年勧告から打ち出された、と佐々木は言うのである。

 1950年に国際放射線防護委員会(ICRP)が成立して以来、ICRPは「変更に次ぐ変更」の歴史でもあった。なかでも大きな変更は、「線量限度の概念」、「線量制限の一般原則」、「被曝限度」であろう。それに伴い、放射能濃度の単位(キュリーからベクレルへ)、放射線吸収線量の単位(レムからシーベルトへ)も変更している。そして変更するたびに、それ以前の放射線防護体系の痕跡が消し去られ、歴史的に概観し、その変遷を批判することを困難にしている。

 リスク体系全体に関わるような主な変更だけでも、「被曝は可能な最低レベルまで」とした1950年の最初の勧告を以来、「被曝は実行可能な限り低く」とした58年の勧告、放射線作業者の被曝と公衆の被曝(一般市民)を被曝限度をわけ、「容易に達成できる限り低く」とした65年勧告、原発先進国で続出する放射線被害に対処しようと、はじめて公衆に「線量等量」(実効線量概念)を適用し、「経済合理的に達成できる限り被曝は低く」とした77年勧告、公衆被曝線量が高すぎるという国際的な批判に答える形で出した85年のパリ声明、チェルノブイリ事故を受けて放射線作業者に大幅な被曝を可能とした1990年勧告、そしてやはりチェルノブイリ事故を受けて今度は一般大衆に大幅な被曝を可能とした2007年勧告とその放射線リスク体系はめまぐるしく変わってきている。その変遷を見てみると、核実験や、核再処理工場、軍事用核施設、原発など核施設が普段に放出する放射能や核事故によって発生する放射線被害が世界的に拡大していく中、原発ビジネスなど核産業が放出する様々な形の放射能被害の責任逃れと経済合理性(たとえば原発で作る電気は経済発展のためには必要という主張)や政治的必要性(たとえば核兵器は安全保障のためには必要というという主張)を「放射線被曝強制」を正当化し、理論的に支えるための変更だった、というほかはない。

 そして彼らの主張を支えるために2つの神話が作られた。一つが「原発安全神話」であり、もう一つが「100mSv未満の低線量被曝は人体に害がない」とする「放射能安全神話」である。

 こうしたICRPの防護基準の変遷の中でもっとも重要といえる変更(大幅改訂)は、1977年の変更だった。2007年の改訂のポイントを佐々木康人から講義を受ける前に、1977年の改訂について学んでおく必要がある。そこには現在のICRPの思想・防護基準のすべての出発点があるからだ。(やや長くなるかも知れない。)

ICRP1977年勧告

 科学史家の中川保雄は、その著「放射線被曝の歴史」(1991年9月「科学と技術」社発行)の中で次のように書いている。

CRPは・・・1965年勧告の全面改定に着手することを1974年に決定した。その際ICRPは、つぎのことを申し合わせた。

許容線量という概念を放棄して、「線量等量」を使用すること。
最も敏感な特定の臓器への線量で被曝を制限しようとする「決定臓器」という従来の考えを放棄すること。
(被曝上限)3ヶ月3レムの制限量および5レム×(年齢-18歳)の年齢公式を放棄して全身(一律)5レムとすること。
公衆の(一般市民の)被曝に関してはALARA原則を基礎に大幅に改訂すること。

新勧告をこのような線でまとめることを確認した上で、具体的な検討に入った。』(前掲書 p137)

 この勧告改訂は、1970年代に入ってから原発からの放射能によって、アメリカや一部ヨーロッパ諸国が深刻な健康被害に襲われ、一般市民から「反原発」「反被曝」のうねりが高まり、これに誤魔化しで対処しなくてならなくなった、という事情がある。

 典型的には「線量当量」概念の導入である。それまでの許容線量(permissible dose)は単純に許される「被曝線量」のことである。当時単位としては「レム」が使われていたが、全身に対して3ヶ月間で3レムまで、皮膚に対して同じく3ヶ月間で8レムまでなどとされていた。

 1Sv(シーベルト)=100レムという換算値が用いられているので、1レムは10mSvということになる。だから放射線作業者3ヶ月で3レム=30mSvというと今日から見ると大きな被曝量のように見えるが、これは単純な吸収線量である。

 しかし「線量当量」の概念はそうではない。吸収した放射線から「健康影響をうける線量」という意味である。この概念が今はさらに進化をとげて(つまり放射線影響の過少評価を重ねて)、実効線量概念になっている。現在「フクシマ放射能危機」でさかんに言われている「シーベルト」はこの線量等量概念の発展形である。中川保雄によれば、1977年の「線量等量概念」とそれまでの「許容線量概念」との間に、対象とする放射性物質にもよるが約10倍の過少評価があった、という。こうして単位概念そのものを変更して、放射線の危険を10倍程度箇所評価することから1977年勧告は出発している。相撲に例えるなら勝負に負けそうになったので、自分のところだけ巨大な徳俵を作ったようなものだ。

 「決定臓器」の考えとは、体全体の中でもっとも放射線感受性の高い臓器を選んでその臓器に対して「許容線量の上限」を決定しよう、ということだ。今日から見ると合理的な考え方だが、これは放棄した。被曝の上限が低く抑えられるからである。

 年齢公式とは「被曝の上限値=5レム×(年齢-18歳)」である。だから18未満は5レム×0=0レム、すなわち被曝してはならない、ということになりこれも今日から見ると合理的である。(5レムとか18歳が妥当かどうか別として)しかしもともと職業被曝に対するこの公式を引き続いて堅持すれば、一般市民の被曝限度が決められなくなる。したがってこれも放棄した。

 さて肝心の公衆(一般市民)の被曝限度だが、これはALARAの原則、すなわち「経済合理的に達成できる限り被曝は低く」の原則を基礎に据えて設定することになる。

ICRPの経済合理性とは

 わかりやすい例を挙げよう。今再稼働が問題になっている関西電力の大飯原発は2001年から2010年の10年間の間に原子炉で生成された放射性物質トリチウムを液体の形で、すなわち汚染水という形で若狭湾に70.8兆ベクレル放出した。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/fukushima/10.html>を参照のこと。まず若狭湾でとれた魚は食べられないだろう。)関西電力はこれを1/10、あるいは1/100にとするために初期投資を100億円、毎年の維持費を10億円かけるとしよう。すると10年間で合計200億円の追加投資となる。これは「経済合理性」がない、という考え方だ。だから「10年間で200億円の追加投資をしない範囲で被曝は低く」という原則がALARAの原則だと理解できる。あるいは、「原発の電力がなくなると経済活動が立ちゆかない。少々の放射線犠牲者はやむを得ないが、経済合理性の範囲で被曝は最小化すべきだ。」という考え方でもあろう。その意味では、福島原発事故の後でも日本政府をはじめ多くの人たちが「ALARAの原則」に頭のてっぺんまでどっぷり浸かっていることになる。

 こうしてICRPは、65年勧告を大幅に変更する準備をおこなった。さらに中川の引用を続ける。

もっとも重要なALARA原則やコスト-ベネフィット論などはすでに出揃っていたので、後はそれらを体系化することだけが残されているにすぎないといえなくもなかった。』(同 p138)

 「コスト-ベネフィット論」は「1977年ALARA原則」を支える決定的な基盤である。(ま、良くできた屁理屈なのだが)

 1970年代に入ると、ほぼ野放しだったアメリカ原子力委員会の「原子力規制」のために全米のいたるところで、放射線障害が発生した。原子力委員会は放射能と健康障害の関係を躍起になって否定したが、否定しきれるものではない。

 アーネスト・スターグラスは、その著「赤ん坊を襲う放射能」(新泉社刊 1982年6月発行。。反原発科学者連合訳。英語原題“Secret Fallout”)の中で、イリノイ州のドレスデン原発のことを書いている。その放出放射能を表にまとめたのが下表だ。

 

 こうなると大飯原発の10年間で70.8兆テラベクレルのトリチウム(液体)放出などはカワイイものである。アメリカ原子力委員会による規制値などはあってないも同然である。(私はしかし、トリチウム以外にも大量の危険な核種が放出されていると疑っている。事故時の話ではない。通常運転時の話である。)

 これで放射線障害が起こらない方がおかしい。これに対してアメリカの原子力業界は手を打たなければならなかった。規制を厳しくするのである。規制を厳しくすることは、原発の研究開発コスト、建設コスト、運営コストの上昇に直結する。実際70年代にはいるとアメリカでは原発の発注が激減した。電気事業者にとって見れば原発はふれこみほど安い電力製造手段ではなくなっていた。

 原発コストを下げなくてはならない。それまでの伝統的な考え方は「リスク-ベネフィット論」であった。つまり原発で受ける社会的なリスクよりもベネフィットの方が大きい、という考え方である。これもおかしな考え方である。「社会的な便益」と「個々人の健康」という本来比べてはならない、比べることができない2つの要素を比較考量して、「社会的な便益の方が大きい。だから原発は必要だ。」と結論づける論法である。一人の若い母親にとって自分の赤ん坊の健康はどんな社会的便益よりも重大で比較するものがないことを考えてみれば、この詭弁論法はすぐ見破れる。

 しかし、繰り返すようだが「原発再稼働」を推進しようとする現民主党野田政権や核利益共同体の人々は、この「リスク-ベネフィット論」の信奉者である。(それは科学的結論というよりも“原発教”という宗教の宗教的信念に近い)

“原発教”のコスト-ベネフィット論

 「コスト-ベネフィット論」は「リスク-ベネフィット論」の発展形である。

・・・BEIR委員会(全米科学アカデミーの「電離放射線の生物学的影響」委員会)は・・・コスト-ベネフィット論の一般的な原則を次のように示した。

(1) いかなる放射線被曝も、それに見合う利益が期待されぬなら、認められるべきではない。
(2) 公衆は(一般市民は)放射線から防護されねばならないが、その防護の程度は、放射線を避けたためにいっそう大きな害を生じさせるものであってはならない。また他に費やされたならば、より大きな利益を生み出すほど多額な金をかけて、小さなリスクの引き下げが追求されてはならない。(言わずもがなだが、小さなリスクとは個々人の健康リスクのことである。)
(3) 公衆の一人一人には、医療(被曝)を除いて、人工放射線からの被曝に対してある上限値を設定すべきだが、それはその個人に及ぶ放射線による重篤な身体的影響の障害リスクが一般に受け入れられている他のリスクに比べて小さくなければならない。
(4) 原子力産業に対しては、コスト-ベネフィット分析を基礎にして、利用可能な他の技術による生物学上及び環境上のリスクを減少させる場合のコストを考慮に入れるよう指導すべきである。(リスクそのものではなく、リスク減少に関わるコストに注意が向けられている。)「実行可能な限り(被曝を)低く」という考え、および社会の福祉(この場合は福利という意味)への総合的利益という考えを共に定量化することを急ぐべきである。』(同 p127-p128)

 そしてICRPは77年勧告で、ここに示された「コスト-ベネフィット論」をほぼ全面的に受け入れるのである。

77年勧告の特徴と問題点

 そうして中川保雄は、77年勧告の全面改定の重要な特徴と問題点を次のように8項目にわたって整理している。やや煩雑かも知れないが、「フクシマ放射能危機」に対する日本政府の対応、またその基本原則であるICRP2007年勧告の骨子を理解し、福島県民のみならず、私たち一般市民がいかに被曝の押しつけを迫られているかを理解するにあたって重要と考えるので、丁寧に中川の整理を見ておきたい。

 第1点目。

 放射線被曝防護の根本的な考え方の大転換である。1977年勧告は次のような言葉ではじまる。

 「放射線防護は、個人、その子孫および人類全体の防護に関係するものであるが、同時に放射線被曝を結果として生ずるかも知れない必要な諸活動も許されている」
 
  この文言は勧告全体の特徴を象徴的に示している。ICRPが、「い」の一番に述べたことは、原子力発電などの諸活動を正当化し、それを擁護することであった。放射線被曝を可能な限り低くするというような過去の勧告に見られた表現は、1977年勧告からはすっかり消し去られた。手厚く防護すべきは、労働者や住民の健康よりも原子力産業やその推進策のほうである、と宣言したのである。』(同 p138)

(そしてそれは2007年勧告に見事に継承されている。中川は1991年に死去しているのでICRP2007年勧告を読むことはなかった。この時、国際放射線防護委員会は、名実ともに国際核産業防護委員会であることを宣言したに等しい。)

 第2点目。

 放射線のリスク、被曝の容認レベル、被曝の上限値について、社会・経済的観点を重視した新しい体系を打ち出した、ICRPはそれを(1)正当化、(2)最適化、(3)線量限度と呼んで、三位一体の体系として提出した。

 まず放射線のリスク、すなわちガン・白血病の発生率については、ABCCの過小評価されたデータを使ったリスク評価を維持することに固執した。それに基づいて評価された被曝労働者と一般の人々の放射線による被害は、当然過小評価されたものになる。(すなわち第Ⅰ段階のトリック)そうした上で、それらの被害を社会的・経済的な基準から、すなわち、ALARA原則に基づいて容認するように求めた。ICRPは、その容認レベルの上限値を「線量当量限度」としたが、リスク評価が変えられなかった結果、この線量限度の値もそのままとされた。』

 三位一体の体系については、この後佐々木康人の講義にも出てくるので説明を割愛する。ただ、ここでは正当化、最適化、線量限度の体系が77年勧告から登場し、今に至っていることを記憶に止めておきたい。

ABCC=放影研のLSSの問題点

 それよりここでは、中川が早くも「ABCCの過小評価されたデータを使ったリスク評価を維持することに固執した。」と指摘していることが重要だ。中川がこの文章を書いたのは、恐らくは「チェルノブイリ事故」の深刻な健康影響が明らかになる前の1989年から1990年、91年ではないだろうか?(1986年のチェルノブイリ事故の影響が各国の研究者の努力によって明らかになっていくのは2000年代に入ってからである)

 また電離放射線の人体に対する影響を明らかにするにあたって必須の学問分野、分子生物学や細胞に関する科学が急速に発達するのはこれも2000年代にはいってからである。

 こうした早い段階で「ABCCの過小評価されたデータ」と指摘していたことは重要である。「ABCCのデータ」とは、ABCC(原爆障害調査委員会)そしてその後身である現放射能影響研究所(放影研)と連綿と続く、原爆生存者寿命調査(LSS)から得られたデータである。このLSSから得られたデータが、ICRPの放射線リスクモデルの基礎となっている。ほとんど唯一のデータと言っていい。

 またこの記事のテーマとしている、2011年食品安全委員会「食品安全評価ワーキンググループ」がその「リスク評価書」完成に当たって、有力な「科学的データ」として大きく依拠したのもこのLSSだったことは、この記事の前段でも見たところだ。

 いまだに「LSSの亡霊」が表通りを大手を振って歩いている。そしてそのデータを金科玉条として、電離放射線の健康影響が過小評価され、「フクシマ放射能危機」による放射線被曝(特に重要なのは内部被曝)が私たちに押しつけられている。

 今LSSの「非科学性」、その「政治・経済性」に深入りすることはできないが(本当はそうすべきであるが)、ここでは簡単にECRR2010年勧告の第5章「リスク評価のブラックボックス 国際放射線防護委員会」の5.3節「原子爆弾による被害研究における最近の議論」に掲げられている表「ヒロシマ研究(LSS)から被曝の結果を説明あるいは予測することの間違い」を再掲載するに止めることにする。(日本語テキスト p46)


 なかでもABCCの原爆生存者寿命調査(LSS)が、1950年1月時点での生存者を対象としており、1945年8月から1949年12月までに放射線障害で死亡した多くの被爆者の存在を全く無視して、データから除外していることは致命的な欠陥だろう。このことはただちに原爆被害の過小評価に繋がっており、またICRPのリスクモデルにおける放射線健康損傷の過小評価となっている。この過小評価モデルが、チェルノブイリ事故の被害者対応の遅れとなって被害を拡大する要因となった。そしていままた「フクシマ放射能危機」で、被害を拡大させる要因となっている。

 さらに言えばLSSの弱点は、被曝線量が曖昧な推定に基づいていることがあげられる。被曝線量の推定資料として「Ichibanプロジェクト」が実施されたが、この推定体系では「ガンマ線」と「中性子線」しか問題とされず、内部被曝では特に問題とされるアルファ線とベータ線による被曝は一切無視された。この「Ichibanプロジェクト」の結果に基づいて、1965年に被曝線量推定システム「T65D」が決められた。アルファ線やベータ線の被曝線量を全く含まない、T65Dそのものも問題だったが、その後T65Dには「広島原爆の中性子線被曝線量推定」に10倍の過小評価があることが発見され、1986年に新たな線量推定システム「DS86」が決められた経緯がある。
(「Ichibanプロジェクト」からT65D、DS86の経緯については下記を参照のこと。
 ・広島・長崎原爆線量推計体系「T65D」 と「ICHIBANプロジェクト」
 ・マンキューソの研究と「T65D」のほころび

被曝の死の商人

 さて、中川保雄が指摘するICRP1977年勧告の特徴、第3点目。

放射線被曝管理に公然とカネ勘定が持ち込まれた。「コスト-ベネフィット解析」という経済的手法に従って人の生命の価値をもカネの価値で測ることをはじめた。しかもそれを行うのは原子力産業と政府なのであるから、労働者や住民の生命の値段も安く値切られ、その安い生命を奪う方が被曝の防護にカネをかけるよりも経済的とされるのである。軍需産業は「死の商人」と呼ばれる。ヒバクを強要して人の生命を奪う原子力産業もまた「ヒバクの死の商人」と呼ぶことができよう。』

 「コスト-ベネフィット解析」は今や「放射線被曝管理」に使われるだけではない。科学的な学問の手法として、社会の隅々で使われるようになった。独立行政法人中小企業基盤整備機構のサイト「化学物質のリスクマネジメントテキスト」(<http://www.smrj.go.jp/keiei2/kankyo/h11/book/3rab/index.htm>)を見ると、「コスト・ベネフィット分析」という項目が立てられており、次のようにいう。

リスクマネジメントの段階でいくつかのリスクの削減策が提案された場合、必要に応じ選ばれた削減策の評価を行うための手法であり、企業や、場合によっては行政当局も、リスク削減策を実施するための必要な経費と、実施に伴い得られるベネフィット(削減されたリスクに伴うすべての便益)とを評価し比較する手法。』<(http://www.smrj.go.jp/keiei2/kankyo/h11/book/3rab/html/kagaku1i.htm)>

 そして次のような項目が「ベネフィット」の範疇に入るという。

 『 1. 経済的なもの(利益、売上増、コスト削減)
2. 人の生命の値段によるもの(死亡、傷害、疾病のリスク削減)これらはいずれも人の生命の値段に換算される。
3. 入院加療費によるもの(疾病、傷害、交通事故などのリスク削減)
4. 環境生物の値段によるもの(種の減少、生態系の崩壊のリスク削減)人がこれら環境生物を保護するために支払う値段(WTP:Willing to Pay)で決定される。
5. 環境に対する値段によるもの(大気、水質、土壌、産業廃棄物による汚染のリスク削減)人がこれら汚染防止、環境保護に支払う値段(WTP、WPA:Willing to Accept)で決定される。
6. 事故発生確率、大きさ予測によるもの(設備投資による事故未然防止)事故発生確率、大きさを予測し、設備投資で修理、点検、整備の拡充を行う。ベネフィットは予想被害額(発生確率×大きさ)から設備投資額を引いたもの。
7. 社会的・倫理的評価によるもの(製品や製造、廃棄物処理に対する社会的・倫理的 責任による評価)例えば、対応策の実施による社会的評価の向上が起これば、それによる製品の売上増や質の高い社員の採用が可能になったり、必要資金の借入れがより低利で可能になったりすれば+に評価される。』

 「リスクが許容できないレベルであり、どうしても削減しなければならない場合を除いては、原則的にベネフィット>コストである。」と但し書きがついているものの、「許容できないリスク」とは、誰が何を根拠に判断するのか?

 私はこの表を見て考え込んでしまう。もともと「コスト-ベネフィット解析」(費用便益分析-cost-benefit analysis)は、社会投資の効果(便益)を判断する手法として開発された。日本語ウィキペディア「費用便益分析」は次のように定義する。『事業が社会に貢献する程度を分析する手法である。』また英語Wiki“Cost–benefit analysis”は次のように言う。

費用便益分析(CBA)は、ある事業(プロジェクト)、決定、あるいは政策の費用と便益を比較したりまた計量したりするための体系的なプロセスである。CBAは二つの目的をもっている。
(1) それが健全な投資あるいは決定であるかどうか判定する。(正当性や実現性)
(2) 事業を比較する基礎を提供する。
一つ一つの選択肢の総予測コストと総予測便益を比較考量することが必然である。そして便益が費用を上回っているか、そしていくら上回っているかを理解する。』

 この限りにおいては、「費用便益分析」は恐らくは有効な手法だろう。この手法で宿命的に避けられない作業は、まだ未知の費用や便益を「金銭に換算する」ことだ。恐らくこれも適切で科学的な手段を用いれば可能であろう。日本政府の官僚が「総費用」や「総コスト」が未知であることを利用して、都合のいい分析結果を引っ張り出す、そして無理矢理価値のない費用ばかりかかるプロジェクトを推進し、借金の山を作る、こういうケースも多い。しかし、それは手法の悪用であって、手法そのものの欠陥ではない。

 しかしもし、この手法がその適用範囲を拡大し、そして無限に拡大していったならどうであろうか?それは本来「金には換算できない」価値までも金に換算するであろう。それが、「中小企業基盤整備機構」が掲げる「コスト・ベネフィット分析」である。ここでは「人の生命」や「環境」にまで値段がつけられている。それは手法そのものの欠陥である。

 東京電力福島第一原発事故で失われた一人一人の健康や生命、つつましくも幸せだった一人一人の生活、美しかった海岸、自然の山々、海の幸、山の幸、自然環境、その他言葉にならない諸々の価値、これらに誰が正当な値段をつけられるというのか?

 補償はできる。また金銭という形で謝罪はできる。しかしその値段は、決してその本来持っている価値ではない。それには値段がつけられないのだから。

 中川が言うように、「コスト・ベネフィット解析」(費用便益分析)を放射線防護の基本方針に取り入れた途端、それは無限に拡大された「コスト・ベネフィット解析」にならざるを得ない。ありとあらゆるものを「金」に変えていく「ミダス王の手」とならざるを得ない。そして命や健康や「ふるさと」が金に換算される。その命や健康や「ふるさと」は必ず安く値踏みされる。高く値踏みすれば、「原発」が立ち行かなくなるのだから。その姿は「被曝の死の商人」そのものである。


 ここに面白い資料がある。私は仮に「フィルタベントのコストベネフィット評価」となずけておいた。出所は原子力安全委員会らしい。何かの専門委員会での検討資料であろう。話題は沸騰水型の原子炉(MK-Ⅰ)にあとづけでフィルタベント装置を取り付けるべきかどうかという議論である。いうまでもなく、福島第一原発事故で問題となったのはGE型の原子炉MK-Ⅰのシリーズである。

 この資料は「3.2 フィルタベントのコストベネフィット評価」の中で次のようにいう。

 Benjaminらのシビアアクシデント時の防止対策及び緩和対策のコストベネフィット解析によれば、FVCS(フィルターベント装置)はBWR(GE型の沸騰水型軽水炉-東電系)に対してコスト効果的であり、PWR(ウェスティングハウス型の加圧水型軽水炉-関電系)に対して明らかにコスト効果的でないが、水素燃焼対策はPWRに対して効果的でありBWRには効果的でないことが指摘されている。』

そして次のように評価している

 FVCS設置を決定する際の要因(つまりはベネフィット)として以下のことがあげられる。
一個人死亡リスクや社会リスクの大きな低減
一長期の土地汚染を考慮した場合の経済的影響
ーFVCS設置のコスト
一機能要求時の系統や運転員の性能評価
一技術的でない考察や政治的な考察』

 そして次のように結論づけている。

 米国の現行規制では、米国プラントにフィルタベントの設置は要求していないし、許可もしていない。また、米国にフィルタベントを設置する場合のコストは、クライテリア(評価基準というほどの意味)にもよるが、$10million ~$30 million(1000万ドルから3000万ドル)と考えられる。多くのリスク評価及びコストベネフィット解析では、加圧による格納容器破損の事故シーケンスでのリスク低減効果は小さいことを示している。また、コスト解析は技術ベースでコストが正当化されないことを示している。さらに、FVCSの設置に伴い新たなリスクがある。』

 私はこの文書を読んで、「この思想」が「福島原発事故」を起こし、そして今その被害を拡大しているのだな、と思った。「この思想」とはもちろん、本来金銭に換算できない様々なとり返しのつかない「価値」を無理矢理金銭に換算して、安く買いたたく思想、中川のいう「被曝の死の商人」の思想である。

(そして安く買いたたかれた東電福島第一原発の立地地元は、いまその取り返しのつかない、失った価値の大きさに呆然とし、そして同じく安く買いたたかれた福井県大飯町は町をあげて原発再稼働を待ち望んでいる。それにつけ込むようにして民主党野田政権は6月16日、大飯原発再稼働を決めた。)

 現在様々な形で「福島原発事故検証委員会」が開かれているが、もっとも問題とし、裁かれなければならないのは、この「被曝の死の商人」の思想であろう。
  
(以下その⑥へ)