<参考資料>ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ 2013.11.27 

<参考資料>『放射能安全神話の克服』
−市民講座への哲野イサク報告 レジュメ

 今日2013年11月26日(火)は記憶すべき日となろう。衆議院国家安全保障特別委員会で政府与党提出(自民党・公明党)の『特定秘密保護法案』(みんなの党、維新の会修正提案)が賛成多数で採決され、そのまま衆議院本会議に送られ、本会議で可決成立したからだ。(賛成:自民、公明、みんなの党、反対:民主、共産、生活の党、棄権:維新の会)

この法案を巡る情勢でいくつか明らかになったことがある。

1. 公明党は完全に自民党の補完勢力に成り下がっていること。公明が自民のいうなりになるには理由がある。恐らくは公明党の実質的オーナーである創価学会名誉会長の池田大作“国会証人喚問”の脅しがいまだに効力を発揮しているのだろう。池田が生きている限り公明党・創価学会は自民党のいうなりである。またマスコミは“鶴ダブー”の呪文と広告・広報記事出稿など一連の鼻薬が効いてこの問題には沈黙を守ったままである。
2. みんなの党、維新の会も基本的には自民党補完勢力であること。
3. マスコミの異様な報道ぶり。マスコミの(特に朝日新聞の)この法案反対のへ力の入れ方自体のことではない。その異様な“バランス”の欠きぶりのことだ。『特定秘密保護法案』は『国家安全保障会議設置法』(日本版NSC法)とセットの法律であり、日本をブッシュ政権以降のアメリカの現状『警察国家=Police State』(ロン・ポール下院議員の表現)に一歩も二歩も近づける目的をもつ。マスコミは『日本版NSC法』にはさほど大きな反対をせず、『特定秘密保護法案』だけ異様に大きく取り上げて、反対のキャンペーンを張っている。『反憲法』『警察国家実現』の方向性をもつこの法律はセットにして反対しなければならないところを、片方はやすやすと見逃している。「特定秘密保護法」に対するマスコミの異常な力の入れ方には、別な目的があると見て逆に警戒を強めなければならないだろう。
4. しかし何といっても安倍自民党政権はかつての自民党とは全く異なった体質をもつ「ファシズム政権」の本質を露わにしたということが特筆されなければならないだろう。天皇制軍国主義に蹂躙された歴史的記憶をもつ諸国、特に中国が安倍自民党政権に警戒心を強めるのはむしろ当然のことだろう。
5. いずれにせよ、最高裁の「一票の格差違憲状態判決」、「福島第一原発 大本営発表報道」、「ファシズム自民党に対する盲目のアカデミズム」、「教育改悪」など日本を巡る政治情勢は、チェック機能を欠いたまま、私たち庶民の「生存権」が蹂躙される方向へさらに傾斜を強めていることは間違いないだろう。

 日本の政治情勢を巡る基本問題は行方の全く見えない『福島第一原発の危険』(崩壊した原子炉内にある、極めて不安定な大量の放射能の危険)と『事故で大量に放出され、今も気体・汚染水という形で放排出されている放射能の健康影響』の2つである。「チェルノブイリ事故の重い負担」が旧ソ連体制崩壊の一因となったように、『フクシマ事故の重い負担』が日本の支配体制崩壊の一因となる可能性は、時間の経過とともに増していくだろう。

 安倍自民党政権はこの2つの基本問題の政治的不安定さを、一種の新ファシズム体制で乗り切ろうとしているかのように私には見える。今回の「特定秘密保護法」騒ぎも決してこの2つの基本問題と無関係ではないのだ。

 (それにしても不可解なのは大手マスコミの対応だ。2012年原発再稼働問題で日本中が揺れ、東京の首相官邸付近では連日10万人を超える大衆が「原発反対」「再稼働反対」を唱えて集まった。この時マスコミはほとんど報道しなかった。「特定秘密保護法案」では、数千人から1万人の反対デモ・集会で大々的に報じている。「特定秘密保護法」はニュースになるが「反原発」ではニュースにならない、ということではあるまい。
 さらに、昨年の反原発デモも今回の特定秘密保護法反対集会やデモも、単に集まって騒ぐだけでは世の中が動かないことも確かだろう。2012年初夏から秋口にかけての反原発の国民的うねりも、安倍自民党政権の「アベノミスク」経済発展のスローガンを掲げられると簡単に目先を変えられ自民党に票を入れた。反原発国会デモに集まった人たちの中で、「アベノミクス経済再生」をスローガンとする自民党に票を入れた人、「東京オリンピック」を掲げる猪瀬直樹東京都知事候補に票を入れた人も少なからずいたに違いない。福島第一原発事故を契機に新しい段階に入った日本の市民運動だが、まだまだ底が浅いことを私たちは知らなくてはなるまい。これも大きな課題だ。情緒的市民運動から、理性的・知的な市民運動への大きな流れを推し進めなくてはなるまい)


 この日そんなことを考えながら、「さようなら原発 安佐南区市民講座」の会場である安佐南区民センターへ向かった。小さな規模の勉強会である。たまたま私が報告者となって問題提起をし、そこから質疑応答を通じて問題を深めようという企画である。当日主催者が作成した案内チラシに“ヒロシマ・フクシマは連帯して、放射能汚染のない安心・安全な、生存権が保障された暮らしを実現しましょう”の一文があり、私はこの一文にこころ惹かれた。そうだ、と思った。

 経済発展の“伸びしろ”を失った“先進国資本主義”は、「金融産業」を成長のエンジンとして乗り切ろうとして、いわば、「仮想経済」(Virtual Economy)が「実質経済」(Real Economy)を乗っ取る形で、成長を達成しようとした。それは私たちの「生存権」を圧迫する形で実現する他はない。成長のエンジンが仮想経済であってみれば、結局のところ「実質富全体」の配分を変更する他はないからだ。しかしその試みは「仮想経済自体の破綻」、すなわち「リーマン・ショック」という形で頓挫した。が、私たちの「生存権」を圧迫し、制限する方向で乗り切ろうとしている流れには変化が見られない。それを象徴するのが日本においては、「ポスト・フクシマ」の現状だろう。

 「経済発展のためには、少々の放射能による健康被害などはとるに足りない」

 私にはこの社会を支配する階層がそう考え、タカを括っているように見えて仕方がない。しかし実際は「少々の健康被害」では済まない。それは実は彼らもわかっている。にもかかわらず、彼らは私たちの健康や安全な暮らしよりも自分たちの成長・利益を優先させている。ならば私たちは、「生存権」を守っていく闘いを展開させざるを得ない。「フクシマ放射能危機問題」はその最もわかりやすい、そして私たちにとってもっとも切実な「生存権問題」なのだ。しかも「フクシマ放射能危機問題」では私たち最初の被爆地「ヒロシマ」には特別な使命がある、そう考えながら当日報告のレジュメを作成した。それが以下である。

 

「放射能安全神話の克服」(約30MB)
「放射能安全神話の克服」(約6MB)