【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ
 (2011.5.5)

<参考資料>欧州放射線リスク委員会
(European Committee on Radiation Risk – ECRR)
2003年勧告(ECRR2003翻訳委員会-改訂版)


▽PDFリストに飛ぶ

 欧州放射線リスク委員会(以下ECRRと略。<http://www.euradcom.org/>)は、現在世界的な放射線影響に関するモデルとして使用されている国際放射線防護委員会(International Commission on Radiological Protection。以下ICRPと略。<http://www.icrp.org/index.asp>)の思想、医学的研究姿勢、そのモデルを根本的に批判するところからスタートした。

 2003年勧告の「実行すべき結論」でECRRは自らのリスクモデルの性格について次のように述べている。

 『  このモデル(ECRRモデルのこと)の開発は、現在法的に制定されている放射線リスクの全ての基礎とされ、かつ支配している国際放射線防護委員会(ICRP)の現在のリスクモデルを分析することからはじまる。本委員会は、このICRPモデルについて、それを体内に取り入れた放射性同位元素による被曝に適用するについては、基本的に欠陥を持つものであると見なしている』

 そして第4章「放射線リスクと倫理原理」では次のように痛烈にICRPのよって立つ哲学的基盤を批判している。

 『  民生原子力計画の結果としての電離放射線への被曝に対する規制指針の作成(すなわちICRPモデル)は、そのような人間偏重主義のひとつの典型的な実例である。ヒトよりも、全ての野生動物と大部分の家畜動物の方がより多くの時間を野外で過ごしている。したがって放射線により多く被曝しているにもかかわらず、そのモデルは全てにおいてヒトの被曝線量を定めるように設計されている。』

ここでいう人間偏重主義は、「ヒューマン・ショービニズム」(human chauvinism)である。「人間は万物の尺度である」と述べたのは古代ギリシャの哲学者、プロタゴラスである。この人間中心主義思想(ヒューマニズム)がヨーロッパ・ルネッサンスで華開き、そのルネッサンスが近代ヨーロッパ合理主義を育み、その近代ヨーロッパ合理主義が近代科学技術を産出していった。その過程はまた近代資本主義の発展の過程でもあった。しかし人間中心主義思想(ヒューマニズム)は、近代資本主義から高度に発達した独占資本主義への発展段階で「ヒューマン・ショービニズム」も生んでいった。この思想では、すべて人間にとっての価値・功利(utility)が尺度となり、人間(ヒューマン)もまた自然の一部であるという厳然たる事実が忘れ去られていく。「人間は万物の尺度」であるは事実にしても、それは「人間にとって」という但し書きがついていることが見失われて行く。海や自然や馬やワニや宇宙にとっては決して「人間が万物の尺度」ではない。こうして近代ヨーロッパ合理主義思想は、人間を含む宇宙・自然・地球にとっての非合理思想に転化していく。これが人間偏重主義(ヒューマン・ショービニズム)である。それは自然科学の世界で「ニュートン力学」が唯一絶対の真理と思われていた時、アインシュタインの相対性原理の世界が登場し、ニュートン力学は「相対性原理の世界」では但し書き付きの、限定された真実でしかないことがわかったいきさつと極めてよく似ている。

 ECRRはそうした人間偏重主義の典型的な例が「ICRPモデル」だというのだ。

 『  この章で示す放射性核種による人々の日常的な汚染に関する倫理的問題は、それ自体まったく避けて通れないものであるが、動物の権利について真剣な考慮するならは、引き起こされる害(harm)のレベルは巨大な急膨張を示すことになるであろう。本委員会は、ヒトの防護とは別に、様々な機関(例えば、IAEA 2002、ICRP 2002)が環境を保護するための多様な倫理的アプローチを探求してきている努力を歓迎している。

本委員会は、それらを詳しくは述べないが、環境がそれ自体の道徳的地位(moral standing)を有していることを承認している。すなわち、それの人間の功利(human utility)のためというよりも、むしろそれ自体のために環境を保護する妥当性を認めるような、一般的な傾向があることに注目している。』

本委員会は、ICRPモデルにある暗黙の原則の倫理的な基礎、したがってそれらの法的な基礎を検討する。本委員会は、ICRPの正当化は、時代遅れの哲学的推論、とりわけ功利主義的な平均的費用-便益計算に基づいていると結論する。功利主義は、行為の倫理的な正当化のための根拠としては、それが公平な社会と不公平な社会あるいは条件とを区別する能力を欠いており、すでに長い間退けられている。功利主義は、例えば、計算されるのは全体の便益だけで個々人の便益ではないという理由から、奴隷社会を正当化するためにも使われ得る。本委員会は、ロールズの正義論、あるいは国連の人権宣言にもとづく考え方等の人権に基づく哲学を、行為の結果として公衆の構成員の回避可能な放射線被曝の問題に適用するべきであると提案する。本委員会は、同意のない放射能放出は、それがもたらす最も低い線量であっても、たとえ小さくても有限の致死的な危害の確率を持つので、倫理的に正当化できないと結論する。』

 「人間偏重主義」の思想はICRPに典型的に示されるばかりでなく、そこには一定の意図がある。その意図を支えている思想は、ベンサム流の功利主義思想である、とECRRは結論する。ベンサムは「最大多数の最大幸福」を説いた。ベンサムの理論は「不幸な小数」の存在を「社会の最大幸福」の前に無視した。それを原子力産業界にあてはめれば、原子力発電は放射能を社会に産み出すが、それによってガンになる人は100人に1人である、と説く。(それが1000人に1人であろうが、100万人に1人であろうが事情は全く変わらない。)残り99人は原子力発電が産み出す電気によって高い生活水準と幸福な生活を送ることができる。従って放射能による害は、社会全体の便益の大きさに比べれば無視できるほど小さい、という考え方になる。従って原子力発電によって得られる便益は正当化されるべきだ、という結論になる。ICRPの思想は「人間偏重主義」の上に立った「功利主義思想」だとECRRはICRPを批判している。

 実際ICRPは、この点をどう説明しているかというと、

 『  放射線防護の基本原則の維持

放射線防護の3つの基本原則(正当化、最適化、線量限度の適用)は1990年勧告から引き続き維持している。なお、1990年勧告に比べて、被ばくをもたらす放射線源と被ばくする個人に基本原則をどのように適用するかについて明確化している。

・正当化の原則 
   放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定は、害よりも便益が大となるべきである。
 ・防護の最適化の原則
   被ばくの生じる可能性、被ばくする人の数及び彼らの個人線量の大きさは、すべての経済的及び社会的要因を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低く保つべきである。』
(国際放射線防護委員会-ICRP-2007年勧告<Pub.103>の国内制度等への取入れに係る審議状況について-中間報告-平成22年1月 放射線審議会 基本部会<
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/pdf/ICRP2007kankoku_Pub103_shingi.pdf>)

 ここでICRPがいう「正当化の原則」とは「放射線被ばくの状況を変化させるようなあらゆる決定」は害を最小化するよりも「便益」が大となるべきである、となるようなそのような原則である。今直接関連する話題を「原子力発電」に限定して言えば、「原子力発電」によって「放射線被曝の状況を変化させるような決定」をなすに当たっては、少数が被る放射線被曝による「害」よりも、社会全体が受け取る「便益」が大となるように決定するべきである、ということになる。

 「防護の最適化の原則」もほぼ同じ考え方で成り立っている。ヒトが被曝する時、その人数や被曝線量の大きさは、経済的及び社会的要因(つまり原発の社会的、経済的必要性)を考慮に入れながら、合理的に達成できる限り低くする、という原則である。

 原発の社会的ニーズと調和・バランスを取りながら被曝人数や被曝線量の上限を決めなさいと言うことだ。

 ICRPやECRRの学者・研究者の間では、「被曝線量」に安全値はない、できれば自然の放射能も避けるべきだという医学的知見がコンセンサスになっていることを考えれば、ICRPの主張は原発存続発展のためには少々の放射線被害者がでてもやむを得ない、という主張に他ならない。

 もう少しわかりやすく平たく説明すれば、京都大学・原子炉実験所、助教・小出裕章が次のように言うとおりである。

(放射線被曝の安全値)そんなものはない。今日本の放射線被曝線量限度は、国際放射線防護委員会(ICRP-International Commission on Radiological Protection)の勧告を基にして基本的には決められていますが、そのICRPも一貫して「絶対安全な被曝量」はない、と云っています。
    ただし彼らは(ICRPは)、原子力産業界の片棒を担ぐ立場ですから、被曝線量基準値を決めて、それを守りなさいという風な勧告を出す。そしてそれがあたかも安全値であるかのように装っているわけです。その彼らも言うように、被曝線量に関して絶対安全値はありません。』
(小出裕章インタビュー第2回②の「被曝に絶対安全値はない」の項を参照のこと)

 こうしたICRPの基本思想、基本的立場に痛烈な批判を加えるのがECRRである。

本委員会は、ロールズの正義論、あるいは国連の人権宣言にもとづく考え方等の人権に基づく哲学を、行為の結果として公衆の構成員の回避可能な放射線被曝の問題に適用するべきであると提案する。本委員会は、同意のない放射能放出は、それがもたらす最も低い線量であっても、たとえ小さくても有限の致死的な危害の確率を持つので、倫理的に正当化できないと結論する。』

 アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズの正義論について日本語Wikipediaは次のように説明している

ロールズはロックやルソーの政治思想で展開されている社会契約の学説を参照にしながら、社会を規律する正義の原理は、自己の利益を求める合理的な人々が共存するために相互の合意によってもたらする構想ととらえる。このような正義の原理を考案する方法を公正としての正義と定義する。しかし、正義を公正性から解釈することは功利主義で論じられている効率としての正義の概念と対立せざるを得ない。効率としての正義の問題点とは社会の成員を全て同一視してその個性を排除し、また充足させる欲求の性質も効率的であれば区分されない。公正としての正義は功利主義の原理とは異なる二つの原理から成り立っている。それは政治的自由や言論の自由、身体の自由などを含む基本的諸自由を全員に平等に配分する第一原理と、社会的または経済的な不平等を機会の均等を図りながら最も不遇な人々の利益の最大化する第二原理であり、この二つの原理である。加えて結果的に発生した社会的・経済的不平等に対しては最悪の状況は可能な限り改善するという格差原理も選択される。以上の正義理論は社会契約の仮想的状況から導出されるだけでなく、まっとうな道徳判断から帰納的に求める試みがあり、この手法はカント的構成主義と呼ばれている。カント的構成主義において人々は自由に正義の構想を形成する道徳的人格であり、社会は当事者の合意によって構築されるものである。

この著作には、リバタリアニズムの立場からノージックによって平等主義的な再分配の原理に批判が加えられた。また、社会主義の立場からも、マクファーソンが資本主義的な市場の原理がロールズの理想的社会に含まれているという考察を行った。これら批判に対してロールズは自説を修正し、1993年に『政治的リベラリズム』を発表している。』

 つまりロールズの正義論は、基本的諸自由が全員に平等に与えられること、社会的・経済的不平等を最小限にすること、の2つの要素をもっている。このことだけでもベンサムの功利主義とは真っ向から対立する。

 国連の人権宣言(<http://www.unic.or.jp/information/universal_declaration_of_human_rights_japanese/>)はその前文で「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳と平等で譲ることのできない権利とを承認することは、世界における自由、正義及び平和の基礎である」と述べているとおり、1人1人の固有の平等と尊厳を認め、これを社会の基礎としている。すなわちこれを原発に当てはめれば、原発の放出する放射能のために、例え1億人に1人がガンになったとしても、その1人の平等と人間としての尊厳が冒されることになり、これを容認していない。この思想は第二次世界大戦で被った人間1人1人の悲惨な体験を念頭において述べられていることはいうまでもない。また日本の現行憲法にも同様な精神が根底に流れている。

 いずれもベンサム流の功利主義思想とは相容れないものだ。

 従ってECRRは『本委員会は、ICRPの正当化は、時代遅れの哲学的推論』と結論し、ICRPの基盤となる哲学を厳しく批判している。

 やや前置きが長くなったが、ECRRの2003年勧告はこのような思想のもとに成立している。従ってECRRのスタンスは「反原発」とならざるを得ない。

 ECRRは2010年に最新の勧告を出しているが、山内知也(神戸大学大学院教授)によれば基本的に、2010年勧告は2003年勧告を基礎としているとのことである。

 しかしスウェーデンにおけるマーチン・トンデルらによるチェルノブイリ原発事故後の疫学調査をはじめとするチェルノブイリ事故からの新しいデータ、及び、ウラン兵器がもたらしている被害を詳しく記述した新しい章(第12章)を追加するなど、いっそう説得力を増している。
【追加訂正2011.5.8】

 以下が2003年勧告の全文である。それぞれの部分をクリックするとPDFファイルでダウンロードできる。福島原発事故による放射能の影響、特に子供たちに対する影響が深刻化する中、菅政府の指示、指導待ちになるのではなく、それぞれ自ら防衛するすべを持たない子供たちを護る立場の方々は、この勧告を十分に参考にして対応して欲しいものだと思う。



欧州放射線リスク委員会 2003年勧告 翻訳改訂版

日本語版へのメッセージ
目次  科学的原理について
第1章 欧州放射線リスク委員会設立の背景
第2章 本報告の基礎と扱う範囲
第3章 科学的原理について
第4章 放射線リスクと倫理原理
第5章 リスク評価のブラックボックス 国際放射線防護委員会
第6章 電離放射線:ICRP線量体系における単位と定義、ECRRによるその拡張
第7章 低線量における健康影響の確立:リスク
第8章 低線量における健康影響の確立:疫学
第9章 低線量における健康影響の確証:メカニズムとモデル
第10章 被曝に伴うガンのリスク、第1部:初期の証拠
第11章 被曝に伴うガンのリスク、第2部:最近の証拠
第12章 被曝のリスク:ガン以外のリスク
第13章 応用の例
第14章 リスク評価方法のまとめ、原理と勧告
第15章 欧州放射線リスク委員会のメンバーとその研究や助言が本報告に貢献した諸個人参考文献
実行すべき結論
付録A 放射線学上重要な主要な同位体についての線量係数
この翻訳について
訳の改訂にあたって及び世界ウラン兵器会議決議文