【ヒロシマ・ナガサキ参考資料】
(2011.2.7)
平和都市広島に来て
あるベトナム人留学生の確かな視点をもつエッセイ


 ベトナム人留学生グェン・ティビック・ハウさんの書いたエッセイを紹介する。なおこのエッセイは第12回(2010年度)拓殖大学「後藤新平・新渡戸稲造国際協力国際理解賞コンクール」の留学生の部で「新渡戸稲造賞」(最優秀賞)を受賞した。「平和」に対する鋭い政治性を含んだこのエッセイに最優秀賞を与えたこの賞の選考委員会に敬意を表したい。
(<http://www.takushoku-u.ac.jp/g_public/contest/result_foss.html>)

 グェン・ティビック・ハウさんは1989年ベトナム社会主義共和国(ベトナム)のタインホワ(清化省)の省都タインホワ生まれ。現在21才。タインホワ省は東はトンキン湾、西はラオスの国境に接している。タインホワ地区はベトナム戦争当時物資輸送の要の一つでもあり、アメリカ軍の猛烈な空爆に曝された。

 ベトナムで2年間日本語学校に通った後、2年前に広島の広島YMCA専門学校に留学、今年広島市立大学と九州工業大学の情報関係の学部を受験し日本の大学に留学するのが本人の志望。なお、ハウさんは「新渡戸稲造賞」を受けて賞牌(盾)と副賞20万円をもらった。20万円とは彼女にとっては大金だが、それは使わずとってあるという。「大学資金にしようと思っています。父に負担をかけなくても済むように。」とも言った。

 このエッセイでハウさんは、広島に来て原爆について学んだことを書いている。そしてただちにベトナム戦争で故国が受けた深刻な被害のこと、特に枯葉剤による被害のことに思いをはせる。しかし枯葉剤による被害に対する彼女の視点は、単にベトナム人にのみ向けられているのではない。「ベトナム戦争に参戦した同盟国、韓国、タイ、フィリッピン、ニュージーランド、オーストリアの兵士たちにも被害を受けた人がいた。」と書き、特に被害者の多いアメリカについて触れる。彼女の同様な視点は広島の原爆にも注がれる。「広島の原爆でも同様に、広島・長崎の人々だけではなく、在日韓国人や収容されていた米国軍人中国や南方からの特別留学生も被爆した可能性があると聞いた。」非日本人被爆は可能性ではなく厳然たる事実であるが、重要なことは彼女が「戦争の被害」をより一般化しより普遍化しつつ、世界の多くの人たちと感情共有を行い、これを一つの「平和への原動力」としようとしていることだ。それはこのエッセイの結びの言葉、「私が広島の原爆について知り、ベトナムの過去の戦争を思ったように、この作文を通して、他の人と私の気持ちが重なることができればうれしいと思う。」という言葉に端的に示されている。優れた視座だと思う。

 翻って広島の被爆者や広島市民の視座はどうであろうか?「原爆の恐ろしさは原爆に会ったものでなくてはわからぬ」「原爆の恐ろしさを知るにはもう一度原爆を落とせばいい」(これを「ワンスモア・ヒロシマ」というのだそうだ)という一部の主張に見られるように、自らの体験を絶対化し、「広島の原爆は、歴史上もっとも大きい人間的悲惨である」
(大江健三郎「ヒロシマ・ノート」)として神聖化し、他者との感情共有を拒絶する「愚か者の視座」をいまだに濃厚に抱え込んでいる。

 ハウさんの「感情共有」が連帯を産み、「平和への原動力」となるのだとすれば、ヒロシマの「原爆体験の絶対化」は、他者との感情共有を峻拒し、地球市民の連帯を妨げるものとして大いに批判されねばならない。と同時に私たちがハウさんから学ばなければならない点も多々あると思う。

 もう一つ余計なことを。ハウさんの文章は(当然のことながら)日本語で書かれている。今日本の同世代の人たちの中で、これだけ論旨の通った日本語のエッセイを書けるものが何割いるだろうか?

 以下本文。なおところどころ私の註で補っている。註は青字の小さめのフォント。




平和都市広島に来て   
photo by sarah amino
 広島YMCA専門学校 グェン ティバック ハウ

 ベトナムの日本語学校での予備学習を終えて、2009年4月1日に私は広島へ来た。広島はまだ少し寒い空気と満開の桜の中だった。広島に来る前はテレビで原爆について見たことがあるが、現在の広島がどうなっているか想像がつかなかった。
 
 映像で見た広島は一面の霧と廃墟の町で、泣き声や叫び声が煙と混ざった景色だった。爆弾が上空から地上に落ちるまでは一瞬で、ただボタンを押すという簡単な操作でおよそ14万人という多くの命が奪われた。そのほとんどが非戦闘員、つまり一般の人々であった。
 
 それから考えると、今の広島は小さくて、静かなところではないかと思っていた。しかし、実際に来てみると静かではあるが、とても速く復興して大変発展していることに驚いた。平和公園の原爆ドームがそのまま残っていなければ、たぶん私は原子爆弾のことを知らなかっただろう。

 広島で留学するうちに、広島市の国際センターを通して日本語のボランディアチューターの先生と出会い、何度も先生に平和公園へ連れて行っていただいた。散歩をしたり、花見をしたりすることもあったが、先生と一緒に地下の展覧会を見て回ったり、被爆者の話のテープを聴いたり、8月6日の記念行事に参加したりした。行く度に原爆が投下された当時の広島が少しずつ頭の中に現れてきた。そして先生が涙をこぼしながら放射能を受けた人間の形のない赤ちゃんの話をしてくださったとき、それは私の心を捉えて、先生の気持ちに静かに重なるように、昔のベトナムの戦争の被害が思い出された。

 ベトナムから広島へ留学したことは私にとって因縁ではないかと思った。美しかった私の母国ベトナムは戦争が終わって30年以上経ったが、今でも病気や身体の奇形や戦争の傷跡の痛みなどに苦しんでいる人がいる。1954年から米軍は一歩ずつ進攻し、南ベトナムを侵略した。激しく抵抗していたベトナム軍に対して、兵士の隠れていた森林を破壊するために枯葉剤を散布し始めた。もともとは樹木が高くそびえた森林であったが、荒れ果てた原っぱになった。また、酸性雨で土地や湖なども被害を受けた。水源が汚れたために住むところを失った大量の動物が死んで、残った動物も移動しなければならなかった。

 もちろん人間も枯葉剤の毒に汚染されて、現在も重病にかかり、毎日奇形や痛みなどを我慢している人々がたくさんいる。それに子供や孫に病気が現れる恐れがあるので、結婚しない、出産しないと決めた人もいる。

 ところが、枯葉剤の影響を受けたのはベトナム民族ばかりではなかった。ベトナム戦争に参戦した同盟国、韓国、タイ、フィリピン、ニュージーランド、オーストラリアの兵士たちにも被害を受けた人がいた。アメリカでも約5万人の退役軍人が強迫神経症や心気症などになり、自殺をした人が多くいた。アメリカ人のElmo Zumwalt海軍司令官の話は良く知られている。息子がベトナム軍と戦っている時に、彼は枯葉剤の散布を命令した。戦争後、息子はその被害によって日常生活が出来なくなり、孫も知的障害を持って生まれた。

 Elmo Zumwaltはエルモ・ラッセル・ズムウォルト・ジュニア(Elmo Russell Zumwalt, Jr.)のこと。ベトナム戦争当時、1970年ニクソン大統領によってアメリカ海軍作戦部長に指名された。陸軍で言えば参謀総長にあたる海軍最高位。ベトナム戦争従軍中だった息子のエルモ三世は枯葉剤の被害で骨髄疾患(一種のガン)にかかり、闘病生活の後42才でなくなった。エルモ三世の息子も枯葉剤の毒素が遺伝し重い知的障害を負った。後にズムウォルトは、息子のガンはほとんど間違いなくエージェント・オレンジ(枯葉剤の代名詞として使われている)のせいだと思う、また孫のラッセルの重い学習能力障害も多分そのことに起因する、と語ったと英語Wikipediaは書いている。(<http://en.wikipedia.org/wiki/Elmo_Zumwalt>)

 そして広島の原爆でも同様に、広島・長崎の人々だけでなく、在日韓国人や収容されていた米国軍人、中国や南方からの特別留学生も被爆した可能性があると聞いた。

 戦争というのはいったいなんだろう。戦争が起こった歴史の背景はわかるが、戦争を起こした人の気持ちは理解できない。戦争は夫を失った妻、子供を失った母親、バラバラになった家族をつくるものだ。

 ベトナムの偉大なホーチミンが宣言したように「人間として誰でも生存権と自由権と幸福を享受する権利がある」。なぜ同じ人間を殺す手段を選択したのか。その行為に対する怒りは言葉で言い表せない。だが、その怒りは静かなものだ。私は戦争を体験したことがない。もし体験していたらもっと激しく、声や行動などで怒りを表したかもしれない。
 
 今ベトナムの私たちの世代は「国のために戦争に行こう」「敵が家に来ても負けまい」というような考えをもたなくてもよくなった。これからは平和を守るために出来ることを考える時代だ。
 
 父は「何かの問題に気づいてから、考えたままで実行出来ないなら、成長とはいえない。何か行動して出来ることがあればそれは本当の成長だ」とよく言っていた。私は広島に来て感じたことを自分の言葉で伝えたいと思う。私が広島の原爆について知り、ベトナムの過去の戦争を思ったように、この作文を通して、他の人と私の気持ちが重なることができればうれしいと思う。