(2010.7.18)
【参考資料】ヒロシマ・ナガサキ
トルーマン政権、日本への原爆使用に関する一考察

7.原爆は戦争を終わらせた−公式見解の形成 その2

原爆は戦争終結を1週間早めた

 最初に断っておきたいのは、「日本への原爆の使用は対日戦争終結を早めた。」という事実まで私は否定しているのではない。確かに早めたのである。

 いままでのおさらいにはなるが、もう一度確認しておこう。

 すべての出発点は、「ソ連の対日参戦予定日」である。ポツダムでスターリンがトルーマンに告げたように、ソ連は45年8月15日に対日参戦を予定していた。トルーマンはこのことをポツダム会談の初日7月17日に知った。

 もともと「日本への原爆使用」を急いでいたトルーマン政権は、さらに急がなくてはならなくなった。ソ連の参戦で「日本は降伏する」と見ていたからである。日本が降伏しては、「日本への原爆使用」の機会は永遠に失われる。

 実際にはスティムソンが観測していた通り、「ソ連参戦」は「日本降伏」の必要条件ではあっても必要十分条件ではなかった。「天皇制存続の保証」が与えられてはじめて必要十分条件となる。しかし、「ソ連参戦」は「日本降伏」の蓋然性を高めた、という言い方は許されるだろう。)

 7月25日、陸軍参謀総長代行のトーマス・ハンディは、陸軍航空隊(事実上の空軍)の戦略爆撃隊(509混成航空群がその傘下にあった。)総司令官、カール・スパーツに、「8月3日以降有視界爆撃で出来るだけ早く日本の4つのいずれかの都市に原爆を投下すべし」という指示書を出す。

 この4つの都市とは、広島、新潟、小倉、長崎である。「8月3日以降出来るだけ早く投下」、という指示と云い、この短い命令書に2つも不確定命令が含まれている。このことも私は、トルーマン政権が「日本に対する原爆使用」を急いだ証拠と考えている。なおこの4都市で「AA」の投下目標は広島だけだった。)

 「原爆使用の警告」は盛り込まれなかった「ポツダム宣言」は、翌日7月26日に出された。

 ポツダム宣言を受けた日本の鈴木貫太郎内閣は、最高戦争指導会議で東郷外相の提言を受けて、正式回答は保留し、しばらく様子見を決定したが、ポツダム宣言が出され、「和平」への期待で国民の動揺を恐れた陸軍の要求で、記者会見を開いて「ポツダム宣言はなんら価値あるものとは考えない。黙殺する。」と発言した。この「黙殺」は「拒否」(reject)と翻訳されて世界に報道された。7月28日(東京時間)のことである。

 これをトルーマン政権は「拒否回答」と受け止めた。

 広島への原爆投下は8月3日、4日、5日と毎日試みられた。

 これはスティムソン日記の8月4日の記述に「やっかいな日だった。陸軍省からひっきりなしにメッセージが入る。主にS−1のことだ。<日本の天候のため原爆投下が遅れに遅れた。>しかしまたバン・スリックの報告書のためでもある。<スティムソンは、バン・スリックの報告を、国務長官代行ジョセフ・グルーの元に届けさせ、よく読むようにといった。そして電話でグルーとその問題について話し合っている。> 私は取らなければならない休息が十分取れなかった。S−1作戦は結局金曜日の夜<8月3日>から、土曜日の夜<8月4日>に延び、さらにまた日曜日<8月5日>に延びることになる。」という記述があるのでほぼ確実だろう。なお「S−1」はマンハッタン計画の暗号名。また8月3日とされたのは、それまで原爆の製造が間に合わなかったからである。)

 8月6日、有視界爆撃が可能となったので広島に原爆が投下された。

 スターリンは、8月15日対日参戦の予定だったが、広島への原爆投下を知ると、当初予定の準備が完全に整わないまま、8月9日午前0時をもって対日参戦に踏み切った。

 これは、原爆の投下で日本降伏の蓋然性が高まり、ソ連参戦の価値が減ずること、戦後の分け前が減ずることを恐れた措置である、私は推測している。)

 ソ連の参戦を知ると、首相の鈴木は「ポツダム宣言条件付き受諾」の腹を固め、最高戦争指導会議を開いた。なおこの会議の最中に長崎に2発目の原爆が投下された。しかし「長崎原爆」の報は会議に何らの影響も与えなかった。

 軍部の強硬姿勢で決着がつかなかった最高戦争指導会議、その後の閣議を経て、8月9日深夜から御前会議が開かれた。この御前会議で「天皇の国法上の地位に何ら変更のないものとの理解の下に、ポツダム宣言受諾」を決定。

 正式回答を第三国経由(スエーデン政府及びスイス政府)で、トルーマン政権に送った。8月10日のことである。

 トルーマン政権は、基本的に天皇制存続を承認する形で、日本の降伏通知を受諾し、その回答を日本に送った。8月10日(ワシントン時間)のことである。

 トルーマン政権の回答を受けた鈴木内閣はなおも、小田原評定を続ける。そしてやっと8月15日に「終戦の詔勅」を発表し、戦闘行為を終了する。

 一応8月15日を「戦争終結の日」と考えて見て、8月15日を予定していたソ連参戦が、原爆投下のために8月9日に繰り上がった。ために戦争終結は約1週間早まった。

 だから、外観上「日本への原爆使用」は、「ソ連参戦」と玉突き状態の中で、戦争終結を約1週間早めた、ということができる。

 しかし「原爆の使用は対日戦争終結を早めた」という言い方はできても、「原爆の使用は対日戦争終結のためだった」ということはできない。


コンプトンが語らなかったこと

 トルーマン政権は、この外観上非常によく似た現象をフルに利用しながら、「公式見解」を形成していった。

 それを次に見ておこう。

 このため、カール・コンプトンの「もしも原爆を使用しなかったら」を使う。

 先に引用した「トルーマンのコンプトン宛の手紙」(「原爆は戦争を終わらせた−公式見解の形成 その1」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_
nagasaki/why_atomic_bomb_was_used_against_japan/06.htm
>の「トルーマンの不満」の項参照の事)
でもはっきり窺えるように、原爆投下直後からトルーマンは、「原爆への非難」をかわすためもあって、「戦争終結に原爆投下は必要だった」という世論作りを積極的に行う。その決定版がスティムソン名の論文「原爆使用の決断」だったことは先にも見たとおりだ。

 カール・コンプトンの論文は、こうした「公式見解作り」の一環だと云うことができるが、最大の弱点はコンプトン一人で書いていると言う点だ。つまり視点の見落としが多いのである。また今読めば明らかにウソとわかる点やありそうにもない話も交えている。だから1946年というほとんど機密情報が開示されていない時点、言い換えればこの論文を批判する材料に極めて乏しかった時点では、説得力をもったが、今読んで見るとあちこちに穴が明いている。つまりボロを出しやすい。

 しかしアメリカでは現在もなお、この論文を「マンハッタン計画の主要な科学者の一人で、マサチューセッツ工科大学学長のカール・コンプトンが書いた歴史的な記述」と高く評価する向きもある。(たとえば次のサイト<http://alsos.wlu.edu/information.aspx?id=1274>)

 現在の話題と関連した部分は次だ。

 多くの日本人は、自分たちが戦争に負けたとは考えていなかった。実際その多くは、目の前の自分たちが受けている罰にもかかわらず、自分たちは勝利しつつあると考えていた。』
 として、当時の終戦直前の日本人が勝利を信じていたとコンプトンはいう。しかし、それに続く記述はどうか?

 彼らは、風船爆弾が地上を離れるのを見つめながら風に乗って東方へ流れ、われわれの空襲爆撃に対して、アメリカへの仕返しとなることに自信をもっていた。』

 当時の日本人が、風船爆弾で戦えると信じていた、という記録はさすがにない。

 原子爆弾は戦争の終結をもたらしたのか?もしそうなら、スティムソン氏やマーシャル将軍、その他の仲間たちの計算した賭けは勝ち目に出たことになるし、希望は実現したことになる。』

 コンプトンはここでスティムソンやマーシャルの「原爆使用の目的」が、「対日戦争終結」にあったことを指摘している。

 話は違うが、トルーマンがカチンときたのも、恐らくここの部分だろう。これでは「原爆投下の決断」を下したのは、スティムソンやマーシャルであって、トルーマンではないような書きぶりだ。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
why_atomic_bomb_was_used_against_japan/06.htm
>の「トルーマンの不満」の項参照の事。)


 しかし、コンプトンは「原爆投下」の軍事面ばかりを強調したかったのであって、政治的側面はあえて無視したかったのでこのような書き方になったのだ、と私は推測している。

 事実はこうだ。1945年7月26日、ポツダム宣言が無条件降伏を宣告した。7月29日、鈴木(貫太郎)首相は内閣記者会見で、公式な降伏最後通告を価値のないものと嘲って、なおかつ日本は航空機生産に力点を置くとしたことを事実上の内容とした声明を発表した。その8日後の8月6日広島に最初の原爆が投下され、2番目の原爆が8月9日に長崎に落とされた。その翌日8月10日に日本は降伏の意志を表明した。そして8月14日にポツダム宣言を受け入れた。』

 確かに、当時の事実関係を並べると、ここでコンプトンが書いている通りの順番で事態は生起した。だから、この文章を読む限り、原爆が日本との戦争を終結させたかのように見える。またこれは先にスティムソンやマーシャルの意図が「対日戦争終結」にあったかのように書いた記述と合わせて、これを読んだアメリカの市民は、「原爆は対日戦争終結のために使われ、それは成功した。」と信じたことだろう。

 この文章にトリックが隠されていることを読み取るだけの情報は、この時点では、圧倒的多数のアメリカ市民には与えられていない。

 トリックとは云うまでもなく、8月9日未明の「ソ連の対日参戦」が省かれていることと、ポツダム宣言が表面上無条件降伏を要求していたかのように見えたが、その実「天皇制存続」の有条件降伏だったことに全く触れていないことだ。

 この2つの要素が、これまで見てきたとおり、日本の「降伏の条件」だった。コンプトンの記述はこの決定的な2つの要素に全く触れていない。

 しかしアメリカの市民は素直にコンプトンのいうことを信じたろう。


原爆の非人道性の“ぼかし”

 もう一つこの論文で注意しておきたいことは、さほど「原爆が非人道的な兵器」ではないことをさりげなく強調している点だ。

 ・・・こうした背景から、私は完璧な確信をもって、原爆の使用は、数万の、恐らくは数百万の、アメリカ人と日本人の命を救った、と信じている。原爆を使用しなければ、戦争はまだ数ヶ月は続いたろう。』
 原爆の使用は非人道的だったのか?すべての戦争は非人道的だ。』

 コンプトンの話の途中だが、ここでコンプトンは古ぼけた手を使っている。原爆の使用は非人道的だったのか、と自ら質問しておきながら、すべての戦争は非人道的だ、と受けている。「論点のすり替え」という古ぼけた手である。今は原爆が他の兵器と較べて非人道的かどうかが話題なのであって、戦争一般が、非人道的かどうかが話題ではない。「原爆」を「戦争一般」にすり替えている。しかし、深くものを考えない人はこの手にコロッと参る。

 「鳩山はウソつきか?すべての政治家はウソつきだ。」

 しかしこれでは問題は深まらない。いや余計な寄り道をしてしまった。コンプトンを続けよう。
 この後コンプトンは、恐らくは「米国戦略爆撃調査団報告」をこの時点ですでに読んでいたのだろう、広島と長崎の死者数に触れ、また2回の東京大空襲の死者数に触れて、この両者を比較する。また廃墟となった面積を比較していずれも東京大空襲が大きかったことを証明した上で、だから「原爆が特に非人道的だった」ということにはならないことを匂わせる。

 しかし、マサチューセッツ工科大学の学長であり、自ら優秀な物理学者で、もとアメリカ物理学会会長のカール・コンプトンが、放射線の人体に対する影響を知らないはずはあるまい。

 放射線の遺伝子に対する「攻撃能」、これが核兵器を通常兵器と峻別する、「質の異なる破壊力」だ。この点にコンプトンは全く触れていない。

(  あるところで、「核兵器の遺伝子に対する攻撃能」に触れて話をしていたら、いつの間にか話題が「遺伝するかしないか」の話に逸れていって、元に戻らなくなってしまった。「遺伝子に対する攻撃能」と「遺伝するしない」は全く別な話題である。私たちの体の中で遺伝子もまた再生産されている。この遺伝子が破壊されるのだ。私たちの体の中の遺伝子はいったん傷つけられるともとに戻らない。)


「公式見解」が社会に定着

 私は、46年、47年の間には、こうして「日本に対する原爆使用は戦争を終結させるためだった、そしてそれは成功し、ためにアメリカ人、日本人合わせて数百万人の命を救った」という「公式見解」が、アメリカ社会の中に形成されていった、と推測している。

 そのために新聞、雑誌など大手メディアが全面的に協力したことも大きな要素だった。しかも彼らのキャンペーンは執拗に繰り返し繰り返し行われた。

 やや時代が下るが1965年、ニューヨークタイムズ・マガジンは8月1日号で「広島の今:広島に“リトル・ボーイ”投下される決断はいかになされたか」と題する特集を組み、「もう一度原爆を落としますか?」という表題で、ロバート・オッペンハイマー、エドワード・テイラー、ユージン・ウィグナー、レスリー・グローブズなどを登場させて喋らせている。
(<http://www.antiqbook.com/boox/nort/827a4512.shtml>)


 この特集の中で、グローブズは「ほかのやり方で戦争を終わらせるより、早く戦争を終結させ、アメリカ人の命を救うことが目的である。わが軍は太平洋地域で1日におよそ250人の兵士を失っている。日本上陸を決行した場合、予想されるアメリカ人の死傷者は25万人から100万人で、日本人の死傷者は少なく見積もっても1000万人にのぼるであろう。」と語っているそうだ。(以上シーラ・ジョンソン著「アメリカの日本人観」1986年サイマル出版会 から引用)

 時代が下るにつれて「救った命」もふくれあがる傾向にある。

 戦後すぐにアメリカで定着し始めた「原爆正当論」は、アメリカ占領下での日本でも宣伝された。
私にはトルーマン政権の「原爆正当論」は日本では、特に広島と長崎がターゲットだったように思える。)

 マッカーサーの占領軍司令部は、「原爆被災者」の実態は、知られないように報道管制すると共に、「日本への原爆使用はあの悲惨な戦争終結のためだった。原爆があの惨めな戦争を終わらせたのだ。」とする宣伝を日本でも行った。それは「終戦の詔勅」の中に次の一節があったことと相まって比較的抵抗なく日本人の間に受け入れられていった。

 加之 敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ 惨害ノ及フ所 眞ニ測ルヘカラサルニ至ル』
之に加うるに、敵は新たに残虐なる爆弾を使用して、しきりに無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。」


原爆の中の「不幸中の幸い」

 1947年(昭和22年)8月6日、戦後初めての公選市長濱井信三は、「広島平和祭」の「平和宣言」の中で早くも次のように述べている。

 昭和20年8月6日は広島市民にとりまことに忘れることのできない日であった。この朝投下された世界最初の原子爆弾によって、わが広島市は一瞬にして潰滅に帰し、十数万の同胞はその尊き生命を失い、広島は暗黒の死の都と化した。しかしながらこれが戦争の継続を断念させ、不幸な戦を終結に導く要因となったことは不幸中の幸いであった。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
1947_0806_hamai.htm
>)

 「原爆」は不幸だったが、これが戦争を終わらせる事になったのは「幸い」だった、という濱井の認識は、トルーマン政権の「原爆正当論」「原爆に関する公式見解」の、まさに広島に向けての投射だった。

 そして、これまた早くも「原爆(核兵器)は平和をもたらした。」というアメリカ歴代政権の「原爆正当論」イデオロギーを濱井は展開している。

 この意味に於て8月6日は世界平和を招来せしめる機縁を作ったものとして世界人類に記憶されなければならない。』

 そして次のように「平和宣言」を結んでいる。
 この地上より戦争の恐怖と罪悪とを抹殺して真実の平和を確立しよう。
永遠に戦争を放棄して世界平和の理想を地上に建設しよう。
ここに平和の塔の下、われらはかくの如く平和を宣言する。』

 濱井においては「平和」とは、長い、苦しい、絶望的な戦争が終わった状態を意味している。それをもたらしたのは「8・6」であり「原爆」だった。

 濱井の認識は、その後、意識的にしろあるいは無意識にしろ(無自覚というべきか)、広島市民の、「トルーマン政権の日本に対する原爆使用」に対する歴史認識となって、底流を流れることになる。

 この歴史認識は、必要だったか不必要だったかは別として、アメリカの「戦争を終わらせるために原爆を使用した」という政策意図は認めている。

 これを根底で認めてしまっているがために、アメリカ・トルーマン政権に対する非難はまったくないか、あるいはあっても鈍く、弱々しい。なぜならその原爆の使用は、濱井がいうように、戦争を終結させたという意味において「不幸中の幸い」だったのだから。精々「戦争を終わらせるためには、原爆は不必要だったのだ」と内向きに呟く他はない。


トルーマン非難決議

 戦後広島市議会がこの時だけ、「トルーマン非難決議」を出したことがある。

 1952年、すでに引退してミズーリ州インディペンダント市に住んでいたトルーマンは、当時の人気TV番組、エドワード・マローの「See It Now」に出演して、在任中を回顧するという形でマローのインタビューに答えた。この番組は52年2月2日に放映された。

 中でマローの挑発的な質問に乗る形で、トルーマンは、

 この強力な武器を所有したとき、それを使用するにあたって、私は一切良心のとがめを持たなかった。戦争における兵器は常に破壊兵器だからだ。それが誰しも戦争を望まない理由でもあるのだが。またそのためにわれわれ全員が戦争に反対しているわけである。しかし戦争に勝つための武器があって、もしそれを使わないとしたら、それは随分愚かなことだ・・・。』

 と答えた。

 当時すでにアメリカは核兵器独占保有国ではなかった。49年にソ連が核実験に成功し核兵器保有国になっていたからである。アメリカはさらに強力な核兵器を保有しようと水素爆弾(熱核融合爆弾)の開発を行っていたが、ちょうどこの年1952年、その実験に成功する。

 冷戦のまっただ中である。マローは「必要があれば水爆を使うか?」とトルーマンに尋ねた。(よせばいいのに)トルーマンは、

 もし世界が大混乱に陥るなら、それは使われる。それは確かなことだ。』
(以上<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Robert-20.htm>による。)

 恐らくは新聞の報道でだろうと思う、このトルーマンの発言が日本に伝わり、広島市議会の保守系大物議員で当時広島市議会議長だった任都栗司(にとぐりつかさ)を怒らせた。

 任都栗は自分の影響力を行使して広島市議会で「トルーマン非難決議」を可決し、それをトルーマンに送った。トルーマンの手元に届いたのは番組放映後6年も経った1958年3月のことである。

 この非難決議は、「原爆のため広島市民は苦しんでいる。ために広島市民はこの兵器を2度と使わせないと決意している。であるのに、原爆の使用に良心の呵責を感じないばかりか、必要とあれば再び使用するという発言は容認できない。即刻取り消して欲しい。」という内容の比較的短いものだった。(なおこの英語の手紙はミズーリ州インディペンダントにあるトルーマン・ライブラリーに保存されているが、宛先が間違いなく、ミズーリ州インディアナポリス市となっている。よくトルーマンの手元に届いたものだ。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_shigikai_s33_3_1.htm>)


 トルーマンはこの手紙に(よせばいいのに)返事を書いた。手紙到着後2週間近くもたった3月12日付けになっている。

 その中で、パール・ハーバーに触れ、第二次世界大戦の経緯に触れ、ポツダム宣言とその拒絶に触れたあと、45年7月16日の原爆実験について触れて、次のようなことを書いた。

 原爆の投下を命令した最高責任者として、私は、広島と長崎の犠牲は、日本と連合国の幸福のために、緊急で必要な犠牲だったと考えております。もちろん、このような運命的な決断の必要性は、1941年12月のパール・ハーバーへの攻撃がなかったら、おこらなかったろうとはおもいます。』
(以上<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_shigikai_s
33_3_12.htm
>による。)


任都栗の限界と認識

 「広島の犠牲は緊急で必要な犠牲だった」の一言が任都栗の怒りに油を注いだ。任都栗は2回目の非難決議を出した。今度は1回目と違って長文の決議文だった。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_shigikai_s33_2_13.htm>)

 この決議文の中で、任都栗は、原爆の非人道性を激しくなじり、トルーマンの回答は、平和都市広島の建設を目指す広島市民の感情を傷つけるものだとして、激しい怒りで唇をわななかせている。

 しかし、

 原爆を製造した貴国が、その威力を熟知し、またその恐るべき破壊力をも当然予測されていながら、人類史上最初にして、しかも最大なる残虐行為をあえて行った犯罪が、勝者なるがゆえに許されると思われますか。この国際法上の明らかな犯罪をかつての歴史的いきさつや、真珠湾の軍事基地攻撃の名において、正当づけ、合法化させようとする貴下の言動は許されません。』

 とまで踏み込んでおきながら、それが「国際人道法を犯している」以上の斬り込みをすることは出来なかった。

 つまり、アメリカの原爆投下が戦後の「核兵器時代を現出し、今なお地球市民の安全を脅かしている。広島での犯罪は、現在アメリカが核兵器保有をしている犯罪に直結している」という命題にまで発展させられなかった。

 それは日米安保体制にどっぷりつかる自民党系大物地方政治家・任都栗の限界だったということができるし、また、「原爆の使用は戦争終結のためだった」という公式見解が任都栗の頭の中に深く刷り込まれていたためだった、という見方もできる。

 私が知る限り広島市議会なり、広島市が「原爆の犯罪性」にまで踏みこんで、公式に「原爆投下の当事者であるアメリカ」を非難したのはこの時だけである。

 また、この時ですらこの決議文は、

 しかしながら広島市民は、貴下のとった暴挙に対し、なおかつ寛容にこれを許し、貴国がこの過ちを再び繰り返すことのなきよう広島市民の苦しみと、犠牲の名において、今後世界のいずこにおいても、決して原子兵器を使用させないことを願い、終戦の翌年の原爆記念日には、爆心地の市民大会において、平和宣言を行っているのであります。』

 と簡単に「トルーマンの暴挙」を許してしまっている。だから上記文章が深い自己矛盾を抱え込んでしまう結果になっている。

 そしてこの深い自己矛盾は、現在もなおかつヒロシマ・ナガサキが抱える自己矛盾として、核兵器廃絶という命題に向けて、「ヒロシマ・ナガサキ」が本来持つべきパワーを著しく削いでいる。

 というのは、「貴国がこの過ちを再び繰り返すことのなきよう」また「決して原子兵器を使用させないことを願」うためには、トルーマン政権の「日本への原爆の使用」の、背景、原因、理由を、政治的に、軍事的に、そしてより重要なことだが経済的に、徹底して解明して置かねばならない。そうして解明の上に立って、「原爆使用」の要因を除去しておかねばならないからだ。

 これが唯一の「過ちを再び繰り返す」ことのない保証になる。またこれが「原子兵器を使用させないことの願い」を貫徹させる唯一の道でもある。

 このためには「貴下のとった暴挙」を「寛容にこれを許し」てはならないのだ。攻め続け、徹底的にこれを解明しなければならない。

 ところが、「ヒロシマ・ナガサキ」は寛容にも、この暴挙を許してしまっている。だから「ヒロシマ・ナガサキ」が、声高に「核兵器廃絶」を訴え、被爆者の悲惨を云い募り、「ノーモア・ヒロシマ」を叫び、「繰り返しませぬ、過ちは」と唱えれば唱えるほど、この自己矛盾は大きくなり、身動きが取れなくなっていっている。


秋葉のNGOセッションにおける演説

 戦後、すぐに「ヒロシマ・ナガサキ」は、「トルーマン政権の暴挙」を許してしまっている。そしてこの考え方は現在にまで一直線につながっている。

 たとえば、2010年5月7日、2010年NPT再検討会議のNGOセッションの場で、唯一広島市長の資格で演説した広島市長・秋葉忠利は次のように述べた。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/NPT/2010_akiba.htm>)

 閣下、またお集まりの皆さん、広島市民を代表して、特に被爆者を代表して、また平和市長会議に属する世界中の約4000人の市長を代表して、ここに一言述べさせていただくのを名誉に思います。』
一つの厳粛なる事実は、私たちすべて、市長や市民すべてが「二度と再び起こってはならない」という結論に、一致して達していると云うことであります。
 被爆者の言葉に、“私たちが経験した苦しみは他の誰も味わってはならない”。どうか、“誰も”という表現は文字通り、私たちが敵だと見なしている人々も含んで“すべての人が”という意味なんだ、ということを特筆しておいてください。それが和解の精神(the spirit of reconciliation)であり、報復を為さない精神であります。』

 ここで秋葉がいう「和解」とは、すべて許して水に流すことだということは明白だろう。そして「徹底的に解明して2度と起こらないように手当てし保証すること」は、「報復の精神」という極めて低次元な概念に置き換えられた上で、排除されている。

 この秋葉の考え方にも、1947年の広島市長・濱井信三のいう「原爆の中の不幸中の幸い」にしても、根底に流れている考え方は、「1945年トルーマン政権が行った決断、日本に対する原爆の使用は、戦争終結がその政策意図だった。」とする歴史認識であろう。

 2007年6月30日、長崎県選出の衆議院議員で当時防衛相(初代)だった久間章生が、
 アメリカの原爆投下の意図について、日本を降伏させ、ソ連の参戦を食い止める為との見解を示した。そして「(前略)…原爆を落とされて長崎は無数の人が悲惨な目にあったが、あれで戦争が終わったのだ、という頭の整理で今、しょうがないなと思っているところでございまして…」と述べた。また「米国を恨む気はないが、勝ち戦と分かっている時に原爆を使う必要があったのかどうか、という思いは今でもしているが、国際情勢や戦後の占領を考えると、そういうことも選択肢としては、戦争になった場合はあり得るのかなと」とアメリカの立場にも一定の理解を示した。』
(日本語Wikipedia<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E9%96%93%
E7%AB%A0%E7%94%9F#.E3.80.8C.E5.8E.9F.E7.88.86.
E3.81.97.E3.82.87.E3.81.86.E3.81.8C.E3.81.AA.E3.81.
84.E3.80.8D.E7.99.BA.E8.A8.80>
より引用)

 という事件があった。「トルーマン政権の原爆使用の政策意図は戦争を終結させるためだった。そしてそのためにあの悲惨な戦争が終わった。」とする歴史認識からは、久間の発言は妥当であろう。

 久間と同じ歴史認識に立ちながら、「久間発言は怪しからん」「許せない」とするのは自己欺瞞というものだ。

 だから、久間を非難する人たちは、「原爆投下は必要なかった。」「被爆者の感情を傷つける。」「許せない」といった非論理的な、また情緒的な非難しかぶつけられなかった。

 久間を根本的に批判するのなら、「トルーマン政権の日本への原爆使用の政策意図は対日戦争終結ではなかった。あなたは誤った歴史認識から、誤った結論を引き出している。」というものでなくてはならない。


「原爆使用」の政策意図

 原爆投下直後から開始されたトルーマン政権の「原爆使用公式見解形成」への努力は、アメリカと日本で成功を収め、「原爆投下不必要論」を含めて、アメリカと日本の市民、特にヒロシマとナガサキに強烈に刷り込まれていった。

 だとすれば、1945年8月、トルーマン政権が日本に対して「原爆の使用」を行った政策意図は一体何だったか、がいよいよ問題になる。

 再びコンプトンの論文「もしも原爆が使用されていなかったら」に戻る。

 このコンプトンの論文は次のように締めくくられている。

 ・・・もし500機の爆撃機が、東京の破壊の様な損害をもたらすとしよう、そしてこの爆撃機が1機1機、1個1個の原爆を搭載していたら、「明日の都市」(the City of Tomorrow)に対してどのような作用をもたらすであろうか?

 このような絶望的な見地は、必然的にこの話題に関して2つの政策の採用をわれわれの国家に強いてくる。

(1) われわれは、国家間における未来の平和を確実なものとする国際連合の努力を全面的に、そしてあらゆる能力を動員して、推進しようと奮起しなければならない。しかし、われわれの国家防衛の手段としての原爆を軽々しく放棄すべきではない。
(2) われわれが完全な自信をもって平和を構築する国際的な計画を採用できた時のみ、われわれは原爆を放棄するかあるいは(他の諸国と)共有すべきである。』
  
 優秀な物理学者であり、マサチューセッツ工科大学(MIT)の学長、またその後MITコーポレーションの理事長として、第二次世界大戦中、陸軍に深く食い込みながら、MITを世界有数の大学に育て上げたコンプトンは、また暫定委員会のメンバーでもあった。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/kono/Karl_T_Compton.htm>を参照の事。)

 そのコンプトンは、「日本に対する原爆使用」の政策意図をよく理解する立場にもあった。

 そのコンプトンは、まだアメリカ1国しか原爆を保有していなかった1946年に、(1)アメリカは国家防衛の手段としての核兵器を放棄すべきではない、(2)アメリカは最後の核兵器保有国であるべきである、というその後アメリカの核兵器政策の基本中の基本となる政策を提言して、この論文を締めくくっている。

 コンプトンはドジを踏んだ。語るに落ちたのである。ここにトルーマン政権が45年に「日本に対して原爆の使用」を実行した政策意図が表現されている。それを次に見ていこう。


(以下次回)