(上より続く) |
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しかし、こうして核兵器を製造し続ければ、いつかはあふれてしまう。(現実にもそうなってしまった。)
どこかで核兵器を「消費」しなければ、現実には貯蔵するだけになってしまう。そう思っていると果たして、バニーバー・ブッシュが、
『 |
上記第2項目(非常事体制を備えた工場の設置)に関し、基礎的研究の中においても実用的原材料の生産の継続は必須である、一定の実験(核実験のこと)の実施はこうした生産工場への道をあけておく意味で必須である。』 |
と指摘した。核実験の実施は、「生産工場への道」をあけておくためなのだ。つまり核実験とは、生産工場での核兵器製造をスムースに回転させるための「核兵器の消費」なのである。
私たちの頭の中には、「核実験」とは、新たに開発した核兵器の性能テストのことだという刷り込みがある。しかもこれは事実である。が、事実の反面でもある。
アメリカ・エネルギー省歴史部の作成した「アメリカ原子力委員会の歴史」という文書がある。この文書から作成したアメリカの核兵器爆発件数という表がある。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/kono/AEC_26P.htm>を参照の事。)
この表を見ると、1945年の核兵器爆発件数は3件。これは1件がアラモゴードの原爆実験であり、後2件が広島・長崎の実戦使用だ。しばらくの間、核爆発件数は少ないが、朝鮮戦争が始まった翌年の1951年には16件。45年以降の核爆発はすべて核実験だ。そして1954年を除いて10件以上の年が続き、57年には24件、58年には55件と急増する。55件と云えばほぼ1週間に1回核実験を行っていたことになる。59年と60年と核実験ゼロの年があるが、これはアイゼンハワー政権の核実験を行わないという方針のためだ。
ケネディが政権をとった後は核実験が急増する。特にキューバ危機があった1962年には89件に急増する。ほぼ4日に1回核実験をやっていたことになる。4日に1回の実験を誰も性能テストとは云うまい。これは軍事的デモンストレーションという意味以外に、「核兵器の消費」、すなわちブッシュのいう「生産工場への道」を開けておくことの意味が大きい。
こうしてみてくるとこの時期のトルーマン政権は、核兵器の生産拡大・貯蔵という形で、戦後の原子力エネルギー産業の維持発展を図ろうとしていたことが指摘できよう。しかし、ここでも同じ疑問が頭をもたげる。果たしてアメリカ議会は、戦後もこうした予算をすんなり認めるだろうか・・・。 |
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この日の暫定委員会はここでいったん休憩にはいった。スティムソンが中座したため、残りの議事を委員長代行のジョージ・ハリソンの執務室で行うためである。4人の企業人もここで退席した。
午後2時15分から再開した議題は、4人の企業家の意見や提言を踏まえての「W.戦後における機構」である。
ハーバード大学学長で、国家防衛研究委員会委員長のジェームズ・コナントが4人の科学顧問団がまとめた戦後機構に関するメモランダムがすでにスティムソンに送付されていることを委員会に報告した。この戦後機構とは1946年に「マンハッタン計画」の機構と人員をそっくり引き継いで発足することになるアメリカ原子力委員会の原型プランである。
アメリカ原子力委員会(AEC)は、その組織設立に関する法律、すなわち「原子力エネルギー法」(通称マクマホーン法)によって設立されるのだが、その「原子力エネルギー法」が議会を通過して同日大統領の署名を得て発効するのが、1946年8月1日。そして「マンハッタン計画」をそっくり引き継いでAECが活動を開始するのが46年末。
この暫定委員会が開かれたのが45年6月。アメリカ原子力委員会は、準備期間から何からすべてひっくるめてわずか14ヶ月でその法律を議会通過させ、大統領署名にこぎつけている。この間、原案の作成から法案の作成、政府内外関係者の利害調整、予算措置、議会関係者の根回しなどをすべて行った。
この一文では扱えないが、45年7月19日の暫定委員会でその骨格がほぼ固まっている。
アメリカ原子力委員会の設立のポイントは、「核兵器開発」という形で開始された「アメリカの原子力エネルギー開発」という国家事業を、暫定委員会のメンバーが、戦時中と同様に、議会や政府関連他部局からも独立して、連邦予算を自由に使おうとしていた点にある。
このため、テネシー河開発公社(TVA)に置かれたような総会計局を設置することになる。総会計局は「会計検査を受けるのだが、もし国家利益上必要な一定の経費の場合、細目は検査されないことを確認できる力を持つ」(同議事録)ことができる。
つまり、ここでは戦時中のマンハッタン計画とそっくり同じ機構と機密性をもった組織が戦後も継続することが企画され、それが実現したことを確認すれば取りあえずの目的は達成する。 |
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そしてこの後の議題が、「X.直近の予算 (Appropriations)」である。一見するとなんのつながりもない議題のようにみえるが、そうではない。
直前の議題、「戦後機構」の議題は戦後のすぐの予算手当ての問題でもある。これは「戦後機構」、すなわちアメリカ原子力委員会を設立・発足させれば、問題は解決する。
ところが「マンハッタン計画」が議会から認められた予算の期限は45年6月末で切れるのである。
そうすると、45年7月から戦後機構発足(それは結果的には46年8月1日だが)の間の予算手当てが空白となる。従って、この議題は、その空白をどう埋めるかに関する議題でもある。
バーンズが口火を切った。1946年の6月末までに戦争が終了した場合、その後の未執行予算(すなわちこの場合日本が降伏して戦争が終了してから予算期限が切れる6月末までの期間での未執行予算)は、議会がその承認を取り消す感じがする、その場合、議会が引き続きこの計画(原子力エネルギー開発計画)に予算を割り当ててくれるかどうかという問題に直面することになる、その時に備えて、この計画に関連した総費用の見積もりを仕上げる必要がある、とグローブズに指示するような形で発言した。
もし「原爆計画」が日本を降伏させるためのものであるとするならば、随分奇妙な発言である。日本が降伏すれば万事メデタシで、その後の予算手当ての問題など考慮する必要はまったくない。
しかし、この一文をここまで読まれた人(もしいるとしての話だが)にとっては、この話題は何の不思議もない。マンハッタン計画は決して対日戦争終結のための計画ではなく、アメリカの原子力エネルギー開発計画の初期ステージであり、生まれたばかりのアメリカの原子力産業を力強く育成発展させていくためには、切れ目なしの原爆製造とその貯蔵、そしてその目的のため生産設備の拡大、ばかりでなく、基礎的研究が必須だと、結論したのであり、そのための空白期間が出来ることは大きな問題であることは、直ちに了解されるはずだからだ。 |
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このバーンズの発言に対して、グローブズは「最近テネシーの計画地を訪ねて来てくれた5人の下院議員は工場に非常に感銘を受け、計画の国家的重要性とその影響の大きさについて、最も高く評価している風であった。」と報告し、この議題は、議事録上終了している。
なんのことはない。グローブズら軍部はすでに議会に対して工作を行っており、予算が空白になることはない、という自信をグローブズは示しているわけだ。
ここでまた興味深い事実が浮かび上がってくる。「マンハッタン計画はトルーマン政権の高度の秘密事項で、トルーマン自身副大統領時代、このことは全く知らなかったほどだ。」と云う話自体が戦後作られた神話だということだ。
アメリカが「原子を分割してとてつもない爆弾を作っている」という話は、英米の政治家や知識人の間では広く噂になっていたことは、ジョージ・オーウェルが45年10月に発表した論文「あなたと原爆」(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/hiroshima_nagasaki/
George_Orwell.htm>)からも窺える。
ロンドンでニールス・ボーアから詳しく話を聞いたというアメリカ最高裁判事のフランクフルターが相当正確な知識をもってスティムソンを訪ねて、話しこんだことは「スティムソン日記」に出ており、前にも紹介した。
大体トルーマン自体、副大統領時代に「マンハッタン計画」のことを知っていたはずだと、トルーマン研究家が口を揃えて云っていることも先に見た。
どれほど正確な知識を持っていたかは別として、当時アメリカの議会人がまったくこのことを知らなかった、と推測するには相当無理がある。
そのことはこの議事録で、グローブズ自身が白状している。つまりこの問題、すなわち「マンハッタン計画」、すなわち「原子力エネルギー開発計画」は、濃淡の差こそあれ、議会人もある程度知っており、協力体制を組んでいた、ということがいえるだろう。
先に、この議事録で、ユニオン・カーバイド社長のラファーティが、『現在の政府・産業界・大学間のパートナーシップは継続すべきだ。』と述べたことは見た。
政府・産業界・大学の結束がマンハッタン計画を成功に導き、それが戦後も維持される必要性を一同が確認したことも見た。
しかしグローブズの話から窺えることは、この「鉄の結束」に議会人も加えなくてはならない、という事だ。 |
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結果から見ると、暫定委員会の予算獲得の努力は見事な成功を収めている。
前にも引用した「アメリカ原子力委員会の歴史」(アメリカ・エネルギー省歴史部作成)の中に「米連邦政府の原子力エネルギー計画への投資」という項目がある。
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/kono/AEC_27P.htm>)
これを見ると、「マンハッタン計画」を含む陸軍省の原子力エネルギー分野への投資総額は22億1830万ドルである。この分野で陸軍省が担当した期間は、科学技術開発局から移管を受けてマンハッタン計画がスタートした1942年9月から次のアメリカ原子力委員会に引き継ぐまでの46年7月までである。スティムソンの陸軍長官声明から45年6月末までの予算総額は19億5000万ドルだったことがわかっているから、差し引きすると、45年7月から46年7月までの13ヶ月で2億6380万ドルの予算を獲得したことになる。
こうして1945年の半ば頃までには、アメリカ社会の中に、少なくとも「マンハッタン計画」に関して云えば、政府・軍部・産業界・一流大学を中心とした科学界、それに議会を加えた「鉄の結束」ができあがりつつあったか、あるいはできていたことが十分推測されるのである。
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私は「マンハッタン計画」だけでなく、その他の主要な軍事分野でもこの「鉄の結束」が形成されつつあった、と推測している。) |
そして「直近の予算」の次の議題が、「Y.日本への使用」の議題だ。議事録は簡単に次のように伝えている。
『 |
バーンズ氏は次のように勧告し、委員会全体はそれに同意するものである。陸軍長官に以下の如くアドバイスがなされるべきである。最終的投下目標の選択は基本的に軍の決定に任すべきと云う共通認識を土台とした上で、現在の所の我々の見解は、できるだけ早く日本に対して原爆は使用さるべきである。
また工場従事者の住宅に囲繞された軍事工場に対して使用さるべきである。さらに事前の警告なしに使用さるべきである。テストで小爆弾を用い、そして日本への最初の一撃は発射型(Gun Mechanism)を用いることになる。』 |
前日の5月31日にも同様の決定が行われた、その時は全会一致とはいうものの、全員が納得した様子ではなかったことを見た。
前日と違う内容は、「最終的投下目標の選択は基本的に軍の決定に任すべきと云う共通認識を土台とした上で」という文言と「テストで小爆弾を用い、そして日本への最初の一撃は発射型(Gun Mechanism)を用いることになる。」という文言が入っている点である。
「投下目標の選択は軍の決定に任すべき」というのは、その通りで、暫定委員会は「日本に対する原爆の使用」という100%政治問題を扱い、原爆投下の方法や時期、投下目標は100%軍事問題として陸軍の専管事項と決められていたからだ。その意味では、ここにその文言が入っていること自体が「くどい」ということになる。ただ、わざわざこの文言が入っていることには意味がある。
というのは、陸軍は5月10日・11日の投下目標委員会で「京都と広島をAA」とし、京都を第一目標としてあげていたにもかかわらず、陸軍長官のスティムソンが京都を外すことを強硬に主張していたからだ。この記事の冒頭に引用した6月1日付のスティムソン日記からも窺える。
だから、バーンズの提案は、投下目標地は軍に任せて京都にしなさい、という意味になる。「トルーマン政権、日本に対する原爆使用の政策意図」という観点からはバーンズの主張の方が正しい。
「日本への原爆使用」が「警告なし」に決まったのは、原爆の華々しいデビューを飾るためだった。そしてそれはソ連の目の前で、人口密集地に投下して、原爆を実際に使って見せ、ソ連を恐怖させ、ソ連を原爆開発に狂奔させるためだった。ソ連が原爆(核兵器)を保有すると、それは「核兵器を中心に挟んだ準戦時体制」を招来することになる。このことも当時の常識としてトルーマン政権は織り込み済みだった。
こうした政策意図を実現するためには、言い換えれば原爆に華々しいデビューを飾らせるためには、「広島」より「京都」の方がはるかにふさわしい。
スティムソンは、「京都原爆爆撃」は戦後占領政策と対ソ関係に深刻な悪影響を与えると考え、これに反対したばかりでなく、トルーマンに面会して、京都を外すことの確約をとった。
しかし、この6月1日の暫定委員会の時点では、原爆の第一目標都市は恐らく依然京都だったろう。
さらに、この日は、「日本への最初の一撃は発射型(Gun Mechanism)」ということも決定している。すなわち爆縮レンズの構造をもった、そしてアラモゴードで実験を予定していたプルトニウム型原爆ではなく、ウラン型の原爆ということだ。ただしこれは決定と云うよりも、当時の兵器級核燃料の生産状況からして、もしアラモゴードでプルトニウム型を使えば、次の原爆はウラン型を選択せざるを得ず、決定と云うより、他の選択肢がなかったわけだ。トルーマン政権が原爆の使用を急ぎに急いだ事情が窺える。日本との戦争が終われば、原爆使用の機会は永遠に失われる。
この2点を除けば、6月1日の決定は5月31日の決定と寸分変わらない。いわば5月31日決定の確認と云うべきだろう。
要するにポイントは「警告なしの使用」にある。 |
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前回までで、この一文のテーマである「トルーマン政権、日本への原爆使用の政策意図」は何だったか、という問いに対する解答を、
『 |
1.ソ連を恐怖させて核兵器開発の道に追いやり、「核軍拡競争」を招来すること。2.この核軍拡競争で、戦後世界に準戦時体制をつくり出すこと。』 |
とした。しかしこの解答は実は結論になっていない、とも書いた。というのは直ちに「なぜ準戦時体制をつくり出したかったのか?」という疑問が出てくるからだ。
だが、ここまで検討してくると、この疑問に対する解答も出てきたように思う。ソ連との準戦時体制を創出したかった意図は、実際の戦争中と同様、議会からノーチェックで「原子力エネルギー予算」を引き出し、思うままに費消したかったから、ということになる。
しかもグローブズの「自白」を念頭に置くと、実はアメリカ議会は、すでにアメリカ国民の側にあったのではなく、政府・軍部・一部大手大学・一部大企業の側に立っていた。
だから、準戦時体制を創出したかった意図は、戦前同様、アメリカ国民からノーチェックで「原子力エネルギー予算」を思うままに費消したかったから、と訂正しておかねばならない。
( |
もちろんこの準戦時体制は、原子力エネルギー予算のためだけではなくて、恐らくは軍事予算全体のためにも必要だったろう。しかしそれにしてもソ連が本格的に軍事投資しなくては、準戦時体制は成立しない。) |
結果から見てこの狙いは見事にあたった、というべきであろう。第二次世界大戦が終了するとほぼ同時に隠微な形で反共産主義キャンペーンがアメリカで始まる。時には怪しい事件もでっち上げられながら、ニューディール時代に形成された「親共産主義」「親ソ」的なアメリカ社会の雰囲気は、急速に「反ソ」「反共」に染め上げられる。そして1948年から非米活動委員会が組織され、「赤狩り」が開始される。
1949年のソ連の核実験成功で、ソ連が核兵器保有国となり、赤狩りが終熄した1950年頃には、アメリカは「反共国家」に作り変えられていた。
この間、「冷戦」という名の「準戦時体制」は完全にアメリカ社会の中に定着し、「核兵器」に限らず、軍事・国防と名がつけば、多くの案件を機密扱いに出来、また予算もついた。そして早くも1960年頃には、アイゼンハワーが「軍産複合体制」と呼んでアメリカの民主主義の敵とした、一種の「帝国主義国家」が成立するのである。
この間のアメリカ国家の「原子力エネルギー関連投資」は、先のエネルギー省の資料から読み取ることが出来る。
1946年から65年の20年間は個別年の内訳はわからないが、総額346億4380万ドルで年平均にならしてみると、18億3000万ドルとなる。66年以降は毎年ほぼ23億ドルから24億ドルの予算がつけられている。
70年代に入るとアメリカ社会では、だれも「軍産複合体制」を問題としなくなった。軍産複合体制が消滅したからではない。逆に「軍産複合体制」は空気のように当たり前の体制となり、誰も怪しまなくなったためである。それは現在に続いている。
もしこの一文の見解が正しいものだとすれば、その淵源はトルーマン政権時「日本への警告なしの原爆使用」に求められるということができよう。 |
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ここに一つの興味深い「歴史のif」問題がある。もしこの一文の見解が、正しいものとして、もし、トルーマン政権が日本への原爆使用を行わずに、たとえば、アラモゴード砂漠の実験結果だけを公表していたとしたら、あるいは、一部科学者が主張するように、どこか日本近海の海でデモンストレーション爆発だけに止めていたとしたら、ソ連は原爆開発に狂奔し、時にはスパイまで潜り込ませてアメリカから原爆の秘密を盗み出し、1949年に、アラモゴード型そっくりの、あるいはナガサキ型そっくりのプルトニウム原爆を完成させていただろうか、という疑問である。
すべての「歴史のif」問題同様、この疑問には誰にも正解が出せない。「実験」や「デモンストレーション」だけでもソ連は原爆開発に狂奔したかもしれないし、そうでないかも知れない。
ただ誰の目にもはっきりしていることが2つある。
スターリンにとって、アメリカが「実験」や「デモンストレーション」でとどめる国ではなく、実際に多くの人々が生活している都市に残虐な原爆を打ち込んでしまう国であることを見せつけることは、その「恐怖の質」が全然違ったであろうことが1つ。「日本に原爆を使用したアメリカが、どうしてソ連に対して原爆を使用しないことがあろうか?」
もう1つは、ドイツとの戦争で多くの人命を失い、生産設備や生活基盤を失ったソ連にとって、戦後資金はすべて生産基盤の回復と生活水準の向上に回すべきであり、原爆開発に資金を投入する余裕などは、本来なかっただろうことだ。
トルーマン政権内部・マンハッタン計画内部で、原爆開発の状況をよく知る一握りの人々がすべて積極的にしろ、消極的にしろ、日本への原爆使用に賛成したか、というとそうではない。一部の科学者たちは積極的に反対した。そのことは前回「11.及び12.警告なしの投下と冷戦の選択 上・下」でも見た。
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45年6月1日の暫定委員会は、議事録にあるように、バーンズの主導で「警告なしの使用」の「全会一致決定」を行うのだが、それでもなお本当に全員が一致していたのではない、と思えるフシがある。
暫定委員の一人、海軍次官のラルフ・バードは6月27日付で暫定委員会委員長、ヘンリー・スティムソンにメモランダムを送り、自らもいったん賛成した「日本への警告なしの原爆使用」に異議を唱える。一般にはラルフ・バードは「警告なしの原爆投下」に異議を唱えただけ、として知られている。アメリカの歴史学者の解釈は圧倒的にこの見方が多い。しかし、今日このメモランダムを読んでみるとバードは、日本への原爆使用そのものに反対していたように思える。
バードは、自分も賛成した「警告なしの使用」だが、実際の使用に先立つ2−3日前に予備的な警告を受け取るべきだ、「警告なしの使用」は偉大な人道主義国家アメリカの考え方に反するし、またアメリカのフェアプレイの精神にも反する、と述べる。
それでは警告を与えれば、それでいいのかというとそうではない。
ポツダム会談の後(この時点では、ポツダム会談は7月16日に予定されていたアラモゴードの原爆実験の前、7月初旬に予定されていた。)、アメリカは秘密の使者を送り、中国の沿岸のどこかで日本の代表と直接会談を行う。そしてソ連が対日戦争に参加する予定になっているので、ソ連に仲介工作をすることは無駄だと教え、また原爆の使用をすることになっていることを述べ、その上で、
『 |
大統領が、無条件降伏に続く日本の天皇と日本国家の扱いに関して配慮するかもしれない保証をいかなる形にしろ、与え得る。私には、これが、日本が求めている機会を提供する可能性が大きいとみえる。』 |
バードは原爆を使用することを警告すれば、日本が降伏するかも知れない、と考えていたのではないことは明らかだ。
というのは、バードの提案には日本の降伏の条件、すなわち1.ソ連の対日参戦の情報、2.天皇制存続に関する何らかの保証、を含んだ上で「原爆の対日使用の警告」をしようと云っているからだ。先にも見たように「ソ連の対日参戦」と「天皇制存続」の保証があれば、原爆使用の警告などしなくても、日本が降伏する可能性は十分高い。大きな蓋然性があると言っていい。
バードのメモランダムは、日本を降伏させることによって、原爆使用の機会を永遠に奪ってしまおうというに等しい。
そしてバードは、『見つけうる限りでのこの唯一の方法は試してみるべきだ。(The only way to find out is to try it out.)』
と、このメモランダムを結んでいる。バードが単に日本に警告を与えようとしたのではなく、原爆の使用そのものを回避しようとしたことは明らかだろう。 |
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一方、暫定委員会から「警告なしの原爆使用」について意見を求められていた、4人の科学顧問団は6月16日になって、「警告なしの核兵器即時使用の勧告」を暫定委員会に提出する。(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee_ex01.htm>)この勧告は、
『 |
この使用は、われわれを取り巻く国際関係の満足のいく調整を促進するものであるべきだ。同時に、われわれの国家は、日本との戦争においてアメリカ人の命を救うためにこの兵器を使用する義務があるとも認識している。』 |
とするもので全く矛盾相反した内容になっている。「日本への警告なしの原爆使用」は、国際関係の調整を促進するどころか、直ちに「底なしの核兵器開発競争」「核兵器拡散」につながり、地球と人類を危険の淵に追いやることを重々承知していながら、科学顧問団は、「アメリカ人の命を救うため」、この兵器を使用する義務がある、と述べている。
しかも、対日戦争終結の決め手は、原爆の使用ではなく、「ソ連参戦」と「天皇制存続の保証」であることは、暫定委員会出席者の共通の見解であるにも関わらず、だ。
彼らがこうした矛盾した見解を出した意図はこの文章の最後に書かれている。
『 |
われわれは、過去数年の間、この問題を思慮深く考察する機会を与えられた数少ない市民の中の存在であることは事実である。しかしながら、われわれは、原子力の到来によって直面している政治的・社会的・軍事的諸問題を解決する特別な権能(special competence)を持つと主張するものではない。』 |
科学者として、原爆のもつ「政治的・社会的・軍事的諸問題を解決する」特別な権能を彼らはもたない、と云うのである。それは政治家・軍人が判断することだ、と云うのである。4人の科学者は自ら判断停止状態にはいった。それがこの矛盾した文章となってあらわれた、と言っていい。
またこの科学顧問団の態度は、フランク・レポートの科学者たちと好対照をなしている。フランク・レポートの科学者たちは、
『 |
・・・われわれは同時に、過去5年間この国の安全にとってまた世界の全ての国々の将来にとって、容易ならざる危険が存在することを知りうるひとつの小さな市民グループでもあった。しかもわれわれを除くその他の人類はこの危険を知らないのだ。それ故に、ことの重大さに鑑み、原子力に関して熟知している立場から想起せらるる政治的諸課題に注意を喚起し、なさるべき決定のための準備や研究へ向けてそのステップを示すことはむしろわれわれの義務であると感ずるに至った。』
(「フランク・レポート」の冒頭「発言するのは科学者の義務」の項参照の事。
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/flanc_report.htm>) |
と述べている。 |
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日本への原爆使用に反対するシカゴ・グループを中心とする科学者グループは、機密漏洩を禁じた軍事立法違反に問われ、軍法会議にかけられる危険を承知で、フランク・レポートを提出し、レオ・シラードは「大統領に対する請願書」を書き同僚の署名を集めた。
いずれも強大な権力に対しては、蟷螂の斧だったのかも知れない。しかし、シカゴ・グループの抵抗は、グローブズに「シカゴの雑草」呼ばわりされながらも、まだ続いていた。
シカゴ大学冶金工学研究所所長、アーサー・コンプトンを通じて、暫定委員会・科学顧問団の拡張を提案し、新たにハロルド・ユーリーを加えるように求めたのである。
ハロルド・ユーリー(Harold Urey)は、アメリカの物理化学者で、1934年のノーベル化学賞の受賞者である。マンハッタン計画では、同位体の分離研究の中心的存在だった。同位体分離研究は、ウランから同位体235を分離するためには必須の研究である。またユーリーはデンマークのニールス・ボーアの研究所でも共同研究した経験もあり、ボーアの影響を強く受けていた。
レオ・シラードとよく行動を共にしたことでもわかる通り「日本への原爆使用反対派」の重鎮であった。
シカゴ・グループの戦略はユーリーを科学顧問団に加える事によって、暫定委員会の決定に影響を与えようとするものであった。しかし、この提案は当然のことながら受け容れられなかった。
45年6月21日の暫定委員会の議事録は次のように伝えている。
『 |
ハリソン氏は、シカゴの冶金工学研究所のシカゴ・グループとクリントン研究所の一部から、ユーリー博士を、科学顧問団に加えるようにという請願を受け取った事を説明した。委員会はユーリー博士を顧問団に加えないことで合意した。また請願に対する回答としてハリソン氏は、科学顧問団はユーリー博士の専門の分野で、必要に応じ博士の意見を徴するようにと述べるべきという点に置いても合意した。』 |
また45年7月6日の暫定委員会では「ユーリー博士」という項目の議題が立てられて、議事録は次のように伝えている。
『 |
参考情報として、ハリソン氏は、6月27日付けのアーサーH・コンプトン宛の彼自身の手紙を読み上げた。その手紙で、暫定委員会としては現時点で、科学顧問団の拡張を考えていない、しかし科学顧問団はユーリー博士やその他の科学者の、この計画(マンハッタン計画のこと)に関する見解を、彼らが心配を表明しているごとく、得るべきであり、また科学顧問団は、その見解を受け入れるべきかどうかを決定すべきであり、また考慮すべき案件として委員会に上げられるべきである、とした内容だった。』 |
要するにハリソンは、ユーリーを受け入れられないとする内容を失礼にならない程度にアーサー・コンプトンに対して伝えた、という報告を委員会にしたのである。 |
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「トルーマン政権は1945年8月、何故日本に対して原爆を使用したのか?」「その政策意図は何か?」というテーマに対して、これまで公開され入手できる「同時進行資料」を使ってこれまで検討を加えて、一つの考察をしてきた。
結論としては、
1. |
トルーマン政権は、ソ連を核兵器開発に狂奔させるために、日本に対して警告なしの原爆使用を行った。 |
2. |
その政策意図は、ソ連に核兵器開発をさせて、核兵器を中心においた準戦時体制を構築することだった。 |
3. |
準戦時体制(それはすぐ後に冷戦と呼ばれる)構築の意図は、戦時体制同様、議会(正確にはアメリカ国民。というのは多くの議会人はすでに鉄の結束の内部にいたと見られるからだ。)からノーチェックで、厖大な投資が予想される原子力エネルギー開発へ予算を注ぎ込むことだった。 |
という事になる。
もしこの分析と見解が正しいものだとするならば、1945年、トルーマン政権がおこなった「日本への原爆使用」の犯罪性の本質は一体、なんだったのだろうか?
私はそれを皆さんに考えて欲しい。
少なくとも、広島の平和公園内に設置されている記念碑に刻まれているように「ノーモア・ヒロシマ」「繰り返しません、過ちは」といって済ますことができる性格のものではないだろう。
また、2010年5月7日のNPT再検討会議のNGOセッションで、現広島市長秋葉忠利が、
『 |
・・・一つの厳粛なる事実は、私たちすべて、市長や市民すべてが「二度と再び起こってはならない」という結論に、一致して達していると云うことであります。 被爆者の言葉に、“私たちが経験した苦しみは他の誰も味わってはならない”。どうか、“誰も”という表現は文字通り、私たちが敵だと見なしている人々も含んで“すべての人が”という意味なんだ、ということを特筆しておいてください。それが和解の精神(the spirit of reconciliation)であり、報復を為さない精神であります。』
(<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/NPT/2010_akiba.htm>参照の事。) |
と述べたが、「二度と再び起こってはならない。」保証を私たちは得ていない。秋葉のいう「和解の精神」で過去を水に流していい性格のものでもないだろう。また「報復」という言葉で表現できるような低次元な課題でもないだろう。
トルーマン政権がおこなった「日本への原爆使用」の犯罪性の本質は、明らかになったとは言い難いし、「その犯罪性の本質」があきらかになり、それが永久に除去されぬ限りは、繰り返されるだろうし、現実に繰り返されている。
私は、この「犯罪性の本質」は、「自らの体制利益のために、人類と地球を危険に曝すことをいとわなかったし、現在もそうしている」ところにあると考えているが、みなさんはどうだろうか? |
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(このシリーズ了) |
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