カール・テイラー・コンプトン(Karl Tailor Compton)


*以下は英文Wikipediaの記事の翻訳である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Karl_T._Compton




 カール・テイラー・コンプトン(1887年9月14日―1954年6月22日)は著名なアメリカの物理学者であり、1930年から1948年までマサチューセッツ工科大学(MIT)の学長だった。


生い立ち(1987−1912)

 カール・テイラー・コンプトンは、3人の兄弟と一人の妹の長兄としてオハイオ州ウースターに生まれた。父親はエリス・コンプトン、古くからの米長老教会家庭の出身である。母親はオテリア・オーガスパージャー・コンプトンで、アルザス地方とヘッセン地方の系統のメノー派の、当時アメリカに移民してきたばっかりの家庭の出身だった。コンプトンはめざましい業績を上げた家族の出身と言うべきで、弟のアーサーは著名な物理学者だったし、妹のメアリーは伝道師となった。

(* 弟のアーサー・コンプトンは、1927年ノーベル物理学賞を受賞している。マンハッタン計画ではシカゴ大学冶金工学研究所の所長であり、暫定委員会の4人の科学顧問団の一人でもあった。)

 1897年からは、コンプトンは夏はミシガン州オテゴ湖でキャンプをして過ごし、一方で秋、夏、冬はウースターの公立学校へ通うという生活だった。11歳の頃からは、大学(カレッジ)へ通う費用をすこしでも捻出するため肉体重労働の仕事に従事するようになった。建設現場での煉瓦箱運搬、農作業従事者、ロバ追い、本の勧誘員、タイル・煉瓦工場での作業、オハイオ州最初の1マイル舗装道路での調査の仕事。

 1902年コンプトンは1年飛び級をして、ウースター大学(ユニバーシティ)予科部に入った。高校での最後の2年間と重なっている。1908年ウースター大学を優等卒業し、高等教育終了学位(philosophy degree)をとって学士となった。それから1909年、彼の修士論文「ウェルネルト電気断続器(Wehnelt electrolytic interrupter)の研究」が、「物理学レビュー」に掲載された。プリンストン大学の大学院に入る前、1909年から1910年にかけてウースター大学化学部の講師をつとめている。プリンストンでは、ポーター・オグデン・ジェイコブズ研究員となり、オウエン・ウィリアムス・リチャードソンと共同研究をし、彼といくつかの共同論文も発表した。テーマは「紫外線による放出電子」、「電子理論」「光電効果」などである。リチャードソンはこの時コンプトンも貢献した分野で研究を続け、のちにノーベル賞を取っている。1912年コンプトンはプリンストン大学で最高優等(summa cum laude)の成績で博士号を取得した。


リード・カレッジと第一次世界大戦

 1913年6月、コンプトンはロウィーナ・レイモンドと結婚した。二人はオレゴン州ポートランドのリード・カレッジに移り住む。そこでコンプトンは物理学講師の職を得た。1915年物理学準教授でプリンストン大学に戻る。またジェネラル・エレクトリック・コーポレーション(GE社)のコンサルタントの仕事も得る。コンプトンはプリンストン大学で、また米国陸軍通信隊(Signal Corps)とともに、「戦争努力」(the war effort)への貢献をする。1917年12月彼はパリにある駐仏アメリカ大使館の科学担当準大使館員として駐さつした。


プリンストン大学(1918年―1830年)

 1918年の「休戦」(the Armistice)、すなわち第一次世界大戦終結の後、コンプトンは帰国してプリンストンの妻と3歳の娘、メアリー・エブリンの元へ戻った。1919年6月コンプトンは教授に昇任、パーマー研究所で研究にいそしんだ。研究所でのコンプトンの「教える才能」は伝説的となっている。彼の研究の分野は電子学及び分光学の分野であるが、特に「金属を通しての光電子の通過」「イオン化」「蛍光発光」「電弧」「水銀蒸気におけるスペクトルの発散と吸収」「電子と原子の衝突」などである。

 不幸なことに1919秋、ロウィーナが死去する。1921年コンプトンはマーガレット・ハッチンソンと再婚する。マーガレットとの間には、娘ジーンと息子チャールズ・アーサーをもうけている。1927年コンプトンはパーマー研究所の所長に任命され、サイラス・フォッグ・ブラケットの教授にも任命される。1929年彼は物理学部長に任命される。プリンストン大学にいた間の彼の名前の論文は100を超えた。

 1923年コンプトンはアメリカ哲学学会(the American Philosophical Society)の会員に選出され、1924年全米科学アカデミー(the National Academy of Science)の会員に選出された。1927年から30年まで物理部長をつとめている。1925年にはアメリカ物理学会(the American Physical Society-APS)の副会長に選出され、1927年には会長となった。コンプトンはアメリカ光学学会(the Optical Society of America)の特別会員でもあり、アメリカ化学学会(the American Chemical Society)の会員、フランクリン・インスチテュート、その他専門工学学会の会員でもあった。


マサチューセッツ工科大学(1930年―1954年)

 1930年、コンプトンはMITコーポレイション(*マサチューセッツ工科大学を経営する法人。詳しくは以下。http://web.mit.edu/corporation/about.htmlの招きを受けてマサチューセッツ工科大学の学長に就任する。MITは工学と科学の関係を再定義しようとしていた。彼が学長に就任したのは、「大恐慌」がはじまる頃だった。経済大混乱の時代であり、社会的病根と国民的絶望の元凶として科学が指弾されていた時でもあった。コンプトンは大学の基礎科学の研究に力を入れ、一方では科学と科学技術のスポークスマンともなった。

 コンプトンが学長にある間、MITは革命的に変化していった。彼は科学と工学の分野における新しい教育へのアプローチを開発していった。そのアプローチはMITをはるかに超えるものとして感じられた。注目すべきことは、工学教育促進学会(the Society of the Promotion of Engineering Education)の活動に力をいれ1938年にその会長ともなった。
「専門的発展のための工学者評議会・工学教育機関委員会」(the Committee on Engineering Schools of the Engineer's Council for Professional Development )の委員長としての仕事を通じて、工学評価に関する新しい認定基準を確立するリーダーとなった。彼は、科学者と工学技術者に基盤をおいた幅の広い教育が、時代の要請に応えることであり、科学が産業発展のひとつの要素である、と信じていた。

 1930年代のはじめ、コンプトンはアメリカ物理学会の会員とともに、アメリカ物理工学会(the American Institute of Physics-AIP)を設立する。1931年から1936年の間AIP理事会理事長であった間に、アメリカ物理工学会は、物理学の分野における、いろいろな課題を専門とする、本質的には全く異なる各学会の連合組織へとなっていく。この学会は、その時代を通じて急速に拡大していく物理学分野の研究成果の発表を積極的に後援した。

 1948年コンプトンはMIT学長を辞任しMITコーポレイションの理事長に選出され、1954年6月22日の死の当日まで、その地位にとどまった。


陸軍との協力関係(1933年―1949年)

 1933年アメリカ大統領ルーズベルトは、その後2年間続く新たな組織、科学諮問委員会(Scientific Advisory Board)の主宰をコンプトンに依頼した。このことはコンプトンを、政権の最も高い分野における責任ある科学諮問の要請に応える科学者たちの最前線に押し出すことを意味した。
第二次世界大戦の始まりは、国家防衛研究委員会(the National Defense Research committee―NDRC)の立ち上げの動機となった。NDSCはバニーバー・ブッシュを委員長として1940年に創設されたものである。コンプトンはNDSCの委員となり、やがてD部会の部会長となる。
D部会は、学界と産業界における科学者と技術工学者のグループを集結することに責任を負う部会で、主として「レーダー」「射撃統制」「熱放射」の研究を行った。
1941年、NDRCは科学研究開発局(the Office of Scientific Research and Development―OSRD)に吸収され、コンプトンはOSRDでは、米国対英レーダーミッション(the United States Rader Mission to the United Kingdom)を統括した。
1945年、コンプトンは原爆の使用に関するハリー・S・トルーマンへの諮問提言委員会「暫定委員会」(the Interim Committee)(*註)8人の委員の一人に任命された。1945年、日本が降伏し第二次次世界大戦が終了すると、コンプトンはOSRDを去った。
1946年、陸軍訓練に関する大統領諮問委員会(the President's Advisory Commission on Military Training)を統括した。また1948年、共同研究開発理事会(the Joint Research and Development Board)を統括するが、1949年健康の衰えから理事会を辞した。


(以下受賞、栄誉賞、参考文献、参照資料等省略)


*註  極めて興味深いことにこの英文Wikipediaの執筆グループも、暫定委員会(the Interim Committee)の役割を大統領に「原爆の使用」に関する諮問提言を行うとことだ信じている、もう少しいえば誤解している。

 1945年5月31日(木)、午前10:00〜午後1:15 午後2:15〜午後4:15で開催された暫定委員会で、委員長の陸軍長官(the Secretary of War)のヘンリー・ルイス・スティムソンは、冒頭の「委員長あいさつ」でつぎのように述べている。(書記はゴードン・アーネッソン陸軍中尉)

 スティムソン長官は以下のことを説明した。暫定委員会は長官自身が大統領の承認を得て指名したこと。そして委員会の役割は、(原子爆弾の)戦時暫定管理、公式声明、法制化、戦後機構などについて勧告を行うことである。陸軍長官は、我が国の科学者がなした輝かしいそして効率的な支援に対して、最高度の賞賛を示した。そして出席している4人の科学者の業績と暫定委員会が当面する複雑で困難な問題に進んで助言をなすことに最高度の感謝を表明した。陸軍長官は、科学者が、全く自由にその所信をあきらかにすることを希望すると表明した。

 委員会は暫定委員会(Interim committee)と名付けられているが、これはこの計画がさらによく知られるようになると、議会によってなされるもっと恒久的な組織、あるいは必要な条約でなされる恒久的な組織にとって替わられることが期待できるからである。」


   また翌6月1日1945年6月1日(金)、午前11:00〜午後12:30 午後1:45〜午後3:30で開かれた暫定委員会では、スティムソンは「あいさつ」でその日の懐疑の趣旨を次のように述べている。


 開会に当たり、スティムソン長官は、戦争遂行における産業界の得難い貢献を称揚した。また長官は本日参加した産業人の人たちの特別な貢献に対して感謝すると共に、その貴重な見解を提出する目的で委員会に参集したことについても謝意を表明した。

 長官は委員会のメンバーを紹介した後、委員会は長官自身によって大統領の承認の下に設立されたこと、戦争期間中、この兵器(核兵器)の統御に関し、大統領になすべき勧告内容について陸軍長官とマーシャル将軍支援することが目的であること、また戦後における統御組織に関する勧告に関する支援なども目的であることを説明した。

 長官はまた長官とマーシャル将軍の両方のグループが核エネルギーの分野における一連の発見が意味するところ関し、完全に認識を一にしていることも保証した。戦争中に必要となる即座の軍事的有用性をはるかにこえた潜在拡張力が第一の関心事であることについても認識している。この開発(核エネルギー分野における開発)は人類の福祉にとって巨大な潜在力を持つと共に、この分野の統御を考える際には、その意味する所を考慮に入れなければならない。

 長官は、本日参集の産業人が国際関係における諸問題について何か意見を開陳して欲しい旨、表明した。また、国際協力の問題に関し何らかの意志決定をする際、最も重要な要素は、他諸国が合衆国に追いつくのにどれほどの時間がかかるかという問題であることを指摘した。」


 このように、暫定委員会は「原爆の使用」に関して大統領に諮問提言を行うことが主たる役割ではなかった。

 この点英文Wikipedia「暫定委員会」(項目名:Interim Committee
http://en.wikipedia.org/wiki/Interim_Committee)の方も、やや正確とはいうものの似たような記述をしている。引用も議事録の中から「原爆の使用」部分だけを抜き出しており、全体観がつかめない。

 暫定委員会の役割・機能、その歴史的任務などの研究は、一部をのぞけばアメリカでもまだ未開拓分野のようだ。

なお、暫定委員会の議事録は次のサイトで読むことができる。

5月31日:
http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/
large/documents/fulltext.php?fulltextid=7

訳は
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_531.htm

6月1日:
http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/large/
documents/fulltext.php?fulltextid=8

訳は
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee1945_6_1.htm