<参考資料> 本島等 「広島よ、おごるなかれ」を読んで


 私はテキストとしては「日本原爆論大系第7巻 日本図書センター 1999年」所収で読んだ。しかし本稿にあげた論文は次のサイトのテキストをコピー・貼り付けしたものである。
http://blog.goo.ne.jp/stanley10n/e/3c3acc9eea15dc73b331cd62a7c236ab

 なお行替え、句読点等は「日本原爆論大系第7巻」所収の原文に従った。また「見出し」も原文のママである。


 尚、次のサイトは、きわめて参考になるサイトである。
http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/hiroshima/2005/050529-1.html
 本島がこの論文を発表したのは1997年(平成9年)である。広島平和研究所の雑誌「平和教育研究」VOL.24(1997年4月号)に発表したものだ。本島は1979年(昭和54年)から1995年(平成7年)の間長崎市長を務めているので、この論文は長崎市長を退いてからさほど時間を置かずに発表したことになる。

 この論文は副題風に「原爆ドームの世界遺産化に思う」が附属している。広島の原爆ドームは、1996年(平成8年)ユネスコの世界遺産審査委員会で「世界遺産」登録が決まった。日本語Wikipedia「原爆ドーム」は、『このときアメリカ合衆国は、原爆ドームの登録に強く反対。調査報告書から、世界で初めて使用された核兵器との文字を削除させた。また、中華人民共和国も、日本の戦争への反省が足りないとして、棄権に回った。』としている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/原爆ドーム

 またユネスコの公式サイトUNESCO World Heritage Centre - Official Site<http://whc.unesco.org/>を見ると英文正式登録名は“Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome)”となっており、あくまで「広島平和記念」という抽象概念が世界遺産であり、それを体現化した「物体」が原爆ドームであるというやや重層的な構造で登録理由となっている。<http://whc.unesco.org/en/list/775

 このサイトの説明によれば、
 The Hiroshima Peace Memorial (Genbaku Dome) was the only structure left standing in the area where the first atomic bomb exploded on 6 August 1945. Through the efforts of many people, including those of the city of Hiroshima, it has been preserved in the same state as immediately after the bombing. Not only is it a stark and powerful symbol of the most destructive force ever created by humankind; it also expresses the hope for world peace and the ultimate elimination of all nuclear weapons.」

となっているように、広島市民を含む多くの人たちの努力で、1945年8月6日のほぼそのままの姿で保存され、人類がかつて創造した最大の破壊力の象徴でありまた気味の悪い荒涼とした風景(a stark)であるだけでなく、世界平和とすべての核兵器の究極的廃絶への希望も表象している、としここもやや複雑な説明となっている。

 私は、本島のこの論文を、うかつにも2009年2月(つまりごく最近)になってはじめて読んだ。(もっと早く読んでおくべきだった、と後悔している。)

 本島が、この論文の中で展開している論旨は、かなり粗削りであり、「核兵器廃絶」へ向けての地球市民の論理としては、まだまだ多くの努力と議論が加えられなければならないと私は感じているが、「核兵器廃絶へ向けての地球市民の団結の大前提は歴史的和解であり、その和解の出発点は謝罪である。」とする骨子はまさしくその通りであり、「核兵器廃絶へむけての地球市民の理論構築」にとって一つの重要なたたき台になるものだと考える。

 なお、本島もこの論文の中で触れている、「広島の原爆投下」に対する中国市民の考え方は、21世紀に入って劇的な変化を見せているようだ。

 たとえば中国社会科学院の現代歴史研究所・所長、歩平(ほへい、Bu-pin)は次のように語っている。

 『中国人民の広島の原爆投下に対する考え方は近年、とくに21世紀に入ってから大きく変わりはじめた。

 それまでは、中国侵略を行い、残虐な行為を行った日本に原爆が投下されたのはある意味当然だ、という考え方から、原爆の惨禍にあった広島市民と南京大虐殺の惨禍にあった南京市民とは、(軍国主義による)同じ被害者である、その意味では両者は同じ地平線上に立っているのであり、これから共に手を携えて戦って行かねばならない、と変化し始めている。』(2008年11月、北京の社会科学院現代歴史研究所における私のインタビューに答えて。)
 (*青字)は私の註またはコメントである。もちろん読み飛ばしてもらって結構である。




「広島よ、おごるなかれ―原爆ドームの世界遺産化に思う」


1. 中国、米国に認められなかった原爆ドームの世界遺産登録

 メキシコ、メリダで開かれた世界遺産委員会(*1996年の世界遺産登録審査委員会のこと。)で、日本が推薦した「広島原爆ドーム」が世界遺産に登録されることに決定した。

 今回の登録は、米国、中国、日本、メキシコ、フィリピンなど21カ国の代表の合意で決定するものだった。「広島原爆ドーム」は原爆の悲惨さ、非人間性をすべての国で共有、時代を越えて核兵器の廃絶と世界の恒久平和の大切さを訴え続ける人類共通の平和記念碑として推薦された。しかし登録決定の過程で、米国と中国が不支持の姿勢を示した。(*正確にはアメリカは積極的に反対、中国は棄権だった。)

 米国は世界遺産登録に参加しない。「米国が原爆を投下せざるを得なかった事態を理解するには、それ以前の歴史的経緯を理解しなければならない」と指摘、「こうした戦跡の登録は適切な歴史観から逸脱するものである」と主張した。中国は「われわれは今回の決定からはずれる」と発言した。

 このようなことは満場一致で、拍手の中で決定されるべきものである。

 私は、この記事を新聞で見て日本のエゴが見えて悲しさと同時に腹が立った。

 広島は原爆ドームを世界の核廃絶と恒久平和を願う、シンボルとして考え、米国、中国は日本の侵略に対する報復によって破壊された遺跡と考えたのである。どちらの考えが正しいかは、日本軍の空襲によって多くの人々がもだえ死んだ重慶の防空壕や、真珠湾の海底に沈むアリゾナ記念館が世界遺産に登録されたときの日本の心情を思えば「原爆ドーム」を世界遺産に推薦することは、考えなければならなかったことと思う。

 アジア、太平洋戦争は90%中国と米国を相手とした戦いであった。両国の不支持はまさに「恥の上塗り」であった。

 アジア、太平洋戦争については日本と中国、米国の間には共通の認識と理解が成立していない。広島に大戦への反省とがあれば、世界遺産登録はなかったと思う。

(* ここの一連の本島の認識については私は、必ずしも同意することができない。本島のいう『アジア、太平洋戦争は90%』というのはそれぞれ「15年戦争」「太平洋戦争」ということだろう。「15年戦争」は、日本側からいえば極めて凶暴な天皇制軍国主義による一方的な侵略戦争だった。中国側から見れば「民族独立解放戦争」だった。

 しかし「太平洋戦争」はそうではない。「民主主義対ファシズム」という対立構図を色濃く残しながらも、その本質は「中国という蜜の地」を巡る「帝国主義間戦争」だったのである。この2つの戦争を「日本対中国、アメリカ」という単一の構図に置くことはできない。

 次に「広島への原爆投下」に対する歴史的評価の問題である。本島は、「広島への原爆投下は対日戦争終結のためだった。」あるいは「凶暴な天皇制軍国主義日本に対する報復のためだった。」と考え、それを前提に議論を進めている。

 しかし私は、この本島の前提は、1945年8月6日以降、トルーマン政権を始めとする歴代アメリカ政権が一貫してとってきたプロバガンダに完全に惑わされた前提のように思う。広島への原爆投下は、ソ連を恐怖させ、ソ連をして核兵器開発に狂奔させ、もって「ソ連との冷戦」という準戦時体制を創出するために、実施された、と私は分析している。この意味で広島への原爆投下は「必要」だったのである。

 従って「戦争終結のために原爆投下をせざるを得なかった。」というアメリカの主張は、まったく歴史の真実を覆い隠している。この理由によって、アメリカが「原爆ドーム」の世界遺産登録に反対したものとすれば、アメリカは自ら創造した「歴史的プロバガンダ」の論理的首尾一貫を企図したものに過ぎない。

 次の問題は原爆=核兵器のもつ文明史的意味である。原爆=核兵器は、従来の兵器とはまったく異なった破壊力を持っている。その破壊力は従来兵器とは全く異なった「質」をもっている。単に物理的に桁違いの破壊力を持つばかりではなく、すべての生物のもつ「遺伝子」をも破壊する。つまり「地球上の生物の存在」そのものを否定する兵器であり、まさしく1945年9月トルーマン政権の陸軍長官であり、原子爆弾の政治的産みの親であるヘンリー・スティムソンが指摘するように、「原爆は人類がもつには余りにも革命的であり、危険すぎる。」のだ。
<スティムソン・メモランダム「原爆管理のための行動提言」http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-memo/stim19450911.htm

 つまりこの問題は、「日本の侵略」や「帝国主義間戦争」といった歴史的課題をはるかに超えた「地球文明史」的課題なのだ。広島であれ、世界のどこであれ、地球文明史的に危険なこの兵器を最初に実戦使用された土地があり、そこにその使用のモニュメントが存在し、そのモニュメントが、「地球文明史的に危険なこの兵器」の存在に警鐘を鳴らし続けているとすれば、それは十分世界遺産登録に値するし、それは日本とか、アメリカとか中国とかという近代国家の枠組みをはるかに飛び越えた、地球全体の問題なのである。

 アメリカの支配層は、歴代このことを十分良く理解している。1945年7月、広島・長崎への原爆投下1ヶ月前提出されたフランク・レポートではこのことを「このような無茶苦茶な兵器の実態をアメリカの市民がもし良く理解したなら、このような兵器を使用する最初の国がアメリカであるなどと言うことは決して容認しないでしょう。」と表現している。
<フランク・レポート http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/flanc_report.htm

 日本語Wikipediaにいう、「原爆ドーム」世界遺産登録時、『このときアメリカ合衆国は、原爆ドームの登録に強く反対。調査報告書から、世界で初めて使用された核兵器との文字を削除させた。』の本当の意味はこれである。今もアメリカの支配層は「原爆の文明史的意味」をアメリカの一般市民の視野から遮断しておきたいのだ。

 従って、「原爆=核兵器」の問題だけは日本とかアメリカとか中国とかといった近代国家の枠組みの視点から、思い切って飛躍し、かつてスティムソンが45年9月にそうしたように、「地球市民」の視点で眺め考えなくてはならないのだ。

 この論文の本島にその視点が極めて弱いのは、志を同じくする同志として極めて残念である。)

 広島の被爆者たちは「核兵器廃絶のスタート地点に立とう、という世界の意志が読みとれる」と歓迎している。しかし中国、米国が核兵器廃絶のスタートに立たないと言っているではないか。

 「何よりも、原爆は、この国ではいつでもそうであるように、歴史、因果、責任さらには政治と権力から隔絶した記憶の中に自由に漂う、世界の悲劇的真実として扱われた。原爆投下の原因より、原爆の惨事そのものに関心を集中するこうした傾向は、第2次世界大戦に対する日本社会全体の態度を表している。このような態度のおかげで戦争責任を問われた時、日本はドイツより素直さに欠けるようになってしまった。」(1)(*原註。文末註一覧参照のこと。以下同。)

(*  これはワシントンポスト東京特派員東郷茂彦のコメントだそうである。『原爆は・・・歴史、因果、責任さらには政治と権力から隔絶した記憶の中に自由に漂う、世界の悲劇的真実として扱われた。』という東郷の指摘は正鵠を射ている。私はこれを「原爆/歴史切離論」と名付け、「消極的原爆投下肯定論」に分類したことがある。<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/022-5/022-5.htm>及び<http://www.inaco.co.jp/isaac/back/022-6/022-6.htm>を参照のこと。ただ東郷と違って私はこの「原爆/歴史切離論」を日本固有の風土から自然発生的に生成されたものではなく、歴代自民党政府とその背後のアメリカ支配層によって、意識的に創り出されたものではないかと疑っている。

 東郷茂彦は、東郷茂徳の孫。父は外務省事務次官、駐米大使を務めた東郷文彦。双子の弟は、元駐オランダ大使・外務省欧亜局長東郷和彦。茂彦は度重なる痴漢行為で社会的に葬られた。)

 原爆の惨害は多く語られている。しかし原爆投下の原因は語られることは少ない。私はここでそれを語らなければならない。広島は戦争の加害者であった。そうして被害者になったということを。


2. なぜ原爆は投下されたのか、なぜ原爆投下は喜ばれたのか

 日本の最重要軍事基地、広島

 明治初年、徴兵令の公布と陸海軍の創設はその後の広島の街を規定するものだった。
広島は陸軍第五師団がおかれ、明治政府は大陸への軍事的進出が国策となって、地理的に大陸との交通至便な広島を軍事上の重要拠点とした。

 そのため練兵場を始め陸軍の運輸、被服、食料、兵器、病院、監獄、陸軍幼年学校などの重要軍事施設が地域の広大な部分を占めるに至った。また広島港(宇品)は軍事輸送基地として大陸への出兵など重要な役割を果たすことになった。また各種の軍需工場は歩兵銃、大砲、弾薬、機械、タービン、造船などを生産した。

 日中戦争後半は陸軍船舶司令部ができ、船舶兵団、船舶歩兵団がおかれた。

 特に陸軍第五師団(広島、山口、島根)は日清戦争、北清事変(*義和団事件のこと)、日中戦争、太平洋戦争で常に先頭に立って戦った。

 青島出兵(*第一次世界大戦勃発すると日本はドイツに戦線布告し、その拠点である青島を攻撃し陥落させた。)シベリア出兵(1917年ロシアに社会主義政権が成立すると列国は共同してシベリアに出兵し、新生ソ連に干渉戦争を試みた。列強が順次ソ連を承認しシベリアから撤兵する中で一番最後までシベリアに派兵し続けたのは帝国主義日本であった。)、満州事変、シンガポール占領など敵に大きな打撃を与えた。広島は大型爆弾の投下を待つ状態になった。東京、大阪、名古屋を始め全国の中小都市まで瓦礫の山だったから。

 広島は強制疎開が行われ、学童疎開も実施された。広島市にB29、300機が来襲する想定のもとに、各河川に筏を設けて、避難の便に供し、浮き袋20万人分を市民に配布し、船艇を河川要所に配備し、罹災の折の食料の準備。火たきの準備、消防ポンプの増強、バケツ操作の訓練など。

 広島は日清戦争では大本営ができ、明治天皇は対清作戦の指揮をとり、帝国議会の仮議事堂が開かれ広島は臨時首都であった。(2)(*原文註)

 日中戦争、太平洋戦争を通じて宇品港から中国大陸や南方に輸送される軍隊を見送った広島市民の「万歳万歳」の歓声は地面が揺れ動くようだった。

 日の丸の小旗をちぎれるようにうち振って軍隊の出撃に熱狂的に歓声の声を浴びせた、としより、主婦、娘さん、中学生、女学生、学童こそ数年のちの「被爆者」たちだった。(3) (*原文註)

 1941年(昭和16年)12月8日、広島第五師団は「マレーの虎」陸軍中将山下奉文を軍司令官とする第25軍の基幹師団として、近衛(*師団)、第18両師団と共に、マレー半島のシンゴラに上陸し、ジョホールバル占領、ブキテマ高地を奪いシンガポールを占領、13万人の捕虜を虐待し、六千人から数万人を虐殺した。第五師団は凶暴なる殺人軍団であった。また広島の誇り、郷土のほまれだった。広島の若者、若い父親たちだった。
(* 恐らくこれはシンガポール華僑虐殺事件として知られる事件であろう。華僑とはいうが、これはシンガポール住民のことである。<http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5383/sub2.html>または<http://ja.wikipedia.org/wiki/シンガポール華僑虐殺事件>)

 シンガポールの陥落は全国小学生の「日の丸」行進、夜は全国提灯行列でわいた。(4) (*原文註)

 昭和20年6月国民義勇兵役法が制定され、男子15歳から60歳まで、女子17歳から40歳まで義勇兵役に服することになり、各種婦人会、大政翼賛会、勤労報国隊、警防団、隣組、町内会などでまさに広島は戦争指導者と戦争協力者(小学生を含む)だけであった。また日本本土の防衛を二分して東京に第1総軍、広島に第2総軍の司令部がおかれ、広島は本土決戦の枢軸となった。

 昭和20年6月、広島はそれ自体一個の巨大な軍事施設と化していた。

 最重要軍事基地が最大の爆弾攻撃を受けるのは当然であった。
(* 1945年5月10日11日にマンハッタン計画のロス・アラモス研究所で開催されたTarget Committee =原爆投下目標委員会の議事録<http://www.dannen.com/decision/targets.html>を見ると、京都と広島が「AA」として第一候補にあがっている。その理由として「6. Status of Targets」という項目では、重要な軍事後方拠点・軍事侵攻拠点という点と共に、原爆の効果を確認するのに適切な地形という点もあげられている。なお京都は、陸軍長官ヘンリー・スティムソンの強力な反対で、原爆投下目標委員会のトップリストに挙げられながら、候補から外された。<たとえばスティムソン日記の「京都は投下してはならぬ=1945年6月1日」や「再び京都不投下に念押し=1945年7月24日」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450601.htm>あるいは<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-diary/stim-diary19450724.htm>を参照のこと。)


 アメリカ人たちの憤激

 1941年12月初旬の数日間で、太平洋におけるアメリカの海軍力とスエズ以東のイギリスの海軍力は粉砕された。東南アジアにおける西欧諸国の領土支配は、すべて壊滅の脅威にさらされた。遠くオーストラリアやインド、さらにはアメリカの西海岸までが、新たな攻撃の的となりかねなかった。

 アメリカの戦略指導の責任者達が、真珠湾とフィリピンの敗北の打撃に加えて、とくにバターン半島陥落後に多くのアメリカ兵捕虜に対して加えられた理不尽な残虐行為のことを耳にしたとき、なおもこの戦略上の原則を守るかどうかは別問題だった。アメリカ国民の大多数もドイツよりも日本を「第1の敵」と考えた。

 オーストラリアの一新聞の言葉を借りれば「この残忍な民族、武器の上でも欲の上でも兵士達を十二分に訓練した民族に、原子爆弾を使用することはまったく正しい。彼らは敗北を受け入れようとはしないから」(*私はこの新聞の名前と発表の日付に大いに興味があるが、引用元は明示されていない。)

 「シドニー・デイリー・テレグラフ」によれば、天皇は「われわれがその全滅にために戦った蛮行のシンボル」である。アメリカにおいても1945年7月、8月に行われた世論調査の結果では約三分の一が天皇即時処刑、約五分の一が監禁もしくは追放、現状のまま認めているのは3〜4パーセントに過ぎなかった。(5) (*原文註)


 原爆投下−アメリカの声明

 アメリカ空軍機は日本の最重要軍事基地広島に原爆を投下した。爆弾の威力はTNT高性能爆薬2万トン以上の威力がある。

(* 原爆の破壊力をTNT火薬に換算することが無理があるのだが、ともかく広島の原爆の破壊力を当初2万トンと発表していたが、「米国戦略爆撃調査団報告―ヒロシマとナガサキ」では、ヒロシマの破壊力を1万2000から1万3000トン規模と訂正している。<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/01.htm

 日本軍は開戦にあたりパールハーバーを空襲したが、今や何十倍もの報復を受けたのである。太陽の熱源が極東を戦果の巷とした者を絶滅するために解放されたのである。(6)(*原文註)

 世界は、広島の原爆投下を喜んだ

(1)  戦後フランスで最も活動的な作家ボーヴォワールの「レ・マンダラン」(1954年)に作者とサルトルとカミュが登場する。

 3人は南フランスを旅行中、新聞を買った。巨大な見出しで「米軍ヒロシマに原爆を投下す」
日本は疑いもなく間もなく降伏するだろう。大戦の終わりだ…各新聞は大きな喜びの言葉を重ねていた。しかし3人はいずれも恐怖と悲惨の感情しか感じなかった。

 「ドイツの都会だったら、白人種の上にだったら彼らも敢えてなし得ていたかどうか疑問だね。黄色人種だからね。彼らは黄色人種を忌み嫌っているんだ」このようにフランスの新聞にとって原爆は大きな喜びであった。(7)(*原文註)

(2)  シンガポールのセントサ島の「ワックス(ロウ人形)博物館」の、第2次世界大戦コーナーでは、広島の原爆雲と焼け野原の市街地の写真が展示されている。

 それも上下は天井から床まで、横幅はその2倍ほどの大きさで。それは他の展示物に比べて、ひときわ大きいものである。また他の展示物が戦時下のマレー半島とシンガポールのことばかりであるのにくらべて異質なものである。なぜ広島の原爆投下が強調されるのか。

 1942年2月15日シンガポールは陥落し、3年8ヶ月、日本軍に占領された。日本軍は華僑の抗日組織を探すために、シンガポールの華僑約20万人を集めた。検問する憲兵も各部隊から派遣された補助憲兵も中国語も英語も満足に話せなかった。当然の結果として検問はおおよそでたらめなものだった。日本側は戦犯法廷で華僑約6000人を虐殺したと言っているが、現地では数万人虐殺されたと言われている。

 シンガポールの人々にとって、広島の原爆は日本の敗北を決定づけ、自分たちを死の苦しみから解放してくれた「神の救い」であったことを意味している。(8)(*原文註)

 中国、方励之さんのことば

(方励之−中国の反体制物理学者、天安門広場事件の後アメリカに亡命。*原文記事中註

 最初に原爆の歴史を目にするために、私は広島に行った。資料館の配置は行き届いており、被爆後の惨状をよく復元している。

 原爆投下はまことに驚くべきものであった。6000度の高温、9000メートルものきのこ雲、強い高圧、大火と黒い雨、熱風。

 焼死した者、潰されて死んだ者、反射熱で死んだ者、即死し、次々に息絶えていった。このようなありさまに心を痛めぬ者があろうか。毎年8月6日ここで式典が催され、西欧人も参加し、平和を祈願する。
だが中国人である私は解説の最後の言葉をそのまま受け入れるわけにはいかなかった。「戦争の名の下に大量殺人を許してはならない」−このことば自体、間違ってはいない。

 しかしある種の日本人から中国人にむかって言われるべき言葉ではない。

 広島は明治になって、軍事基地化した。瀬戸内海最大の軍艦製造所を持ち、日清戦争の前進基地とされた。戦争の名の下に中国人を殺すことはこの街から始まった。だから広島の壊滅は仏門の言葉で言えば因果応報なのである。

 もとより、多くの罪なき者がこの報いにあったことはまことに悲惨なことである。

 けれども、広島がこの100年の戦禍のうち最大の受難の地、最も心を痛めるに値する場所で、それゆえに平和のメッカ、ヒューマニズムを心から愛する聖地だというのであれば、私はやはり断固として首を横に振るだろう。なぜなら日本軍の爆撃によって、万にのぼる人がもだえ死んだ重慶の防空壕の跡。南京の中華門に今も目につく弾痕。中国こそこの100年間の戦争における、最大の受難の地なのである。悲惨の程度においても、悲惨の量においても。

 にもかかわらず、中国じゅう、どこへ行っても平和記念公園は一つもない。1年に1度のための国際大会もない。慰霊の常夜灯も、その前におかれた献金箱もない。

 もしかすると、一つの民族も一個人も同様に、あまりに悲痛に過ぎると、泣くこともわめくこともしなくなると言うことがあるかも知れない。(9)(*原文註)

(*  この方励之のことばと次の大江健三郎の記述を較べてみよ。

・・・20世紀におけるもっとも苛酷な人間の運命を体験しなければならなかった。彼らのあるものは一瞬、蒸発してしまったし、あるものはいまなお白血球の数におびえながらその苛酷な運命を、生き続けている。」<ヒロシマ・ノート P16>

「はばかることなく率直に言えば、この地球上の人類のみなだれもが、広島と、そこでおこなわれた人間の最悪の悲惨をすっかり忘れてしまおうとしているのだ。・・・そういう個人の厖大なあつまりである全人類が、広島を、人類の最悪の悲惨の極点を、忘れようとするのに不思議はない。」<ヒロシマ・ノート P102>

「・・・ユダヤ人虐殺の実態は、世界中に知られている。しかし広島は、アウシュビッツをこえるほどの人間的悲惨でありながら・・・決して十分に知られているというわけにはいかない。すくなくともアウシュビッツとおなじように、広島でおこなわれたことの人間的悲惨の実態は、広く正確に知られなければならない。」<ヒロシマ・ノート P163>

 広島と長崎の惨劇が、世界の人々に知られなければいけないのはその通りだし、今までこのことが、曲がりなりにも核兵器の実戦使用を防いできた(劣化ウラン弾を除けば)ことは事実だ。しかし「広島と長崎の惨劇が、世界の人々に知られなければいけない」のは大江の云うように「アウシュビッツとおなじように」知られなければならないからではない。それは「二度と起こってはならないこと」だからだ。しかし「二度と起こってはならないこと」は何も広島や長崎ばかりではない。だから「広島や長崎」を世界に知らしめたい人間は、全く同様な理由によって、例えば、「1937年の南京」で起こったことを知らなければならないし、世界に知らしめなければならないのだ。

 この大江の視野狭窄症気味の独善と「広島の人間的悲惨の絶対化」を通して示される浅薄なヒューマニズムは、私に反吐を催させるほどだ。そしてこの独善と浅薄なヒューマニズムはそのまま「広島」に受け継がれている。この独善と浅薄なヒューマニズムがある限り、広島は、世界と歴史的和解を達成し得ないだろう。

 人間的悲惨はそれを体験したものに取っては常に「最大の人間的悲惨」なのだ。)



3. 広島に欠ける加害の視点 峠三吉の「原爆詩集」を読んで

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ


 峠三吉は、36年の生涯のうち、戦後わずか8年生きて、原爆の非人間性を告発し続けた原爆詩人の第1人者である。

 峠三吉は誰にむかって「ちちをかえせ ははをかえせ」と言っているのだろうか。

 この詩を読んで私は日本軍が中国華北で繰り広げた「三光作戦」を思い起こした。

 日本軍は中国華北において、特に1940年、中国共産党、八路軍と「百団大戦」を戦い、大変な痛手を受けた。この戦いで日本軍は八路軍とそれを支える抗日根拠地の実力を知った。そこで抗日根拠地の討伐作戦を行い、村や集落を焼き払って「無人区」にした。その残虐さがあまりに凄まじいものであり、中国側はこれを「三光作戦−@殺光(殺しつくす)A焼光(焼きつくす)B搶光(奪いつくす)」と名付けた。(10)(*原文註)

−中国華北で−
 私の部隊は毎日、谷間に残る家を焼き払い無人地帯から立ち退きに遅れた人々を射殺しました。ある時、谷間に一軒屋があるのを見つけました。家の中には年老いてやせ細った重病人と二人の男の子がいました。まず屋根に火をつけました。老人は焼け落ちる梁の下で焼け死にました。
 そのとき焼ける屋根の下で、ボロを着てはだしで恐怖に震え、立ちすくみ、父母の名を呼んで二人で泣きじゃくり、目は日本鬼子を見据え、銃弾を浴びて血しぶきを上げて吹き飛んで死んだ幼い二人の男の子。(11)(*原文註)

−広島−
 日本侵略軍の根拠地、最重要軍事基地広島に原爆が落ちて、熱と爆風と放射線でボロ切れのような皮膚をたれ、焼けこげた布を腰にまとい、泣きながら群れ歩いた裸体の行列。片目つぶれの、半身赤むけの丸坊主、水を求め、母の名をつぶやきながら死んだ娘。(12) (*原文註)

 この3人の子供の死はどちらが重かったのか。

 峠三吉よ、戦争をしかけたのは日本だよ。悪いのは日本だよ。無差別、大量虐殺も日本がはじめたことだよ。原爆の違法性は言われているよ。しかし世界中原爆投下は正しかったと言っているよ。原爆で日本侵略軍の根拠地、広島は滅び去った。広島、長崎で昭和20年8月から12月までに約22万人が被爆で亡くなった。

 日本侵略軍に、皆殺し、焼き殺され、何の罪もない中国華北は無人の地となった。

 1941年から43年までに247万人が殺され、400万人が強制連行された。(13)( 原文註)

 「ちちをかえせ ははをかえせ なぜこんな目に遇わねばならないのか」

 峠三吉よ、この言葉は親を皆殺しにされた中国華北の孤児たちの言葉だったのではないか。広島に原爆を落としたのは「三光作戦」の生き残りだったのではないか。


むすび

 原爆の被害は人間の想像を越えるものであった。特に放射線が人体をむしばみ続ける恐ろしさ。しかし日本の侵略と加害による虐殺の数は原爆被害をはるかに越えるものであった。

 今我々がやらなければならないことは、中国はじめアジア、太平洋の国々に謝罪することである。心から赦しをこうことである。日本の過去と未来のためにも。

 しかし、そのための条件は、日本人が真珠湾攻撃について謝罪し、広島と長崎が原爆投下を赦すということである。怒りや悲しみは個人にとっても国家にとってもよいことではない。娘を殺された父親が相手を殺すというように、赦しえないことを赦す考え方、それが必要である。

 広島、長崎は「和解の世界」の先頭に立つべきであろう。21世紀は「和解の世紀」でなければならない。

 核兵器のない世界への努力と「和解の世界」への努力は同一のものでなければならない。

(* もし本島の言いそびれたことを私が補うとすれば、21世紀を「和解の世紀」とするためには、次の3つの原則が必要である。

1. 過去の事実を明らかにし明確にその責任を認め、きっぱりと心からの謝罪すること。補償をすること。
2. その原因を追求し、普遍的レベルにまで遡及して、理由を明らかにし、その原因を取り除くこと。
3. 将来二度とこのような悲劇が起こらないように、この問題を語り、次世代に対して教育を行い、語り継ぎ、そこから得られた教訓を人類の普遍的価値にまで高めること。

 しかしすべての出発点は、事実の発見とそれに基づく心からの謝罪である。こうした3つの原則を踏まえない「謝罪」は口先だけの謝罪であり、それは、「歴史的清算」に繋がらず、従って「21世紀を和解の世紀」とすることはできないだろう。

 こうしたプロセスをたどれば、「広島と長崎の原爆問題」は歴史的清算の段階に達し、恐らくはその時、地球市民の固い団結と決意によって、「核兵器廃絶の日」がやってこよう。

 しかしそのためには、まことに本島の言うとおり、広島、長崎は「和解の世界」の先頭に立つべきだろう。21世紀は「和解の世紀」でなければならない・・・。)


 (*原文註である。)

(1) ワシントンポスト東京特派員東郷茂彦「太平洋戦争は終わっていない」文藝春秋1996年9月特別号。
(2) 新修廣島市史1巻 p537〜565。
(3) 伊藤明彦「原子野のヨブ記―かつて戦争があった」(径書房、1993年) p172。
(4) 橋本左内「国民学校1年生―ある少国民の戦前・戦後」(新日本出版社、1994年)
(5) クリストファー・ソーン「太平洋戦争とは何だったのか」(草思社、1989年) p17,p150,p159
(6) 小倉豊文「ノーモアヒロシマー50年後の空洞と重さ」(風濤社、1994年) p33
(7) シモーヌ・ド・ボーヴォワール/朝水三吉訳 レ・マンダラン」(人文書院、1981年) p349
(8) 高島伸欣「旅しよう東南アジアへー戦争の傷跡から学ぶ」(岩波ブックレット、1987年)
(9) 方励之「自選集その1」
(10) 姫田光義「三光作戦とは何だったかー中国人の見た日本の戦争」(岩波ブックレット、1995年)
(11) 『日本は中国に何をしたのか』 映画「侵略」上映委員会。
(12) 峠三吉「原爆詩集」。
(13) 姫田光義「三光作戦とは何だったかー中国人の見た日本の戦争」(岩波ブックレット、1995年)
[初出]広島平和教育研究所『平和教育研究年報 Vol.24 1996』1997年3月発行