(原文:http://www.doug-long.com/stimson2.htm )
(スティムソン日記の註)

1945年4月23日
国連第1回会合を前に


「・・・私はここに来て以来(政権入りして以来)、一つのもっとも難しい状況に陥った。

 ステティニアス(エドワード。当時国務長官。45年6月末辞任、7月初めからジェームズ・バーンズが国務長官に就任する。)は、昨日到着したロシアの外相、モロトフの間でジャムっている。議題はポーランドだ。ロシアは、ポーランドからの混成使節団選択を実行するというヤルタでの協定を認めることを、明らかににべもなく拒否している。ロシアはルブリン人はポーランド政府として認められるべきだと主張している。われわれはこの問題でロシアと仲違いしているが、私の意見ではこれは非常に危険だ。ロシアはこの問題で実質的に譲歩しそうにない。

ルブリンはポーランド東部の町で、当時ソ連の占領下にあった。ソ連はここに政府を作って事実上ポーランドの首都にしようとしていた。ルブリンは歴史的にユダヤ人の勢力が強く、ナチス・ドイツが占領した時、強制収容所を作って、ユダヤ人絶滅作戦を実行していた。日本語Wikipedia「ルブリン」は非常に優れた記述を行っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%
AA%E3%83%B3
>)

    さらに、ロシアはヤルタで、ポーランドの代議員の究極的に選択するに際して、自由独立選挙に、明らかに合意してはいるが、しかし私は他の国の経験から、世界中でアメリカとイギリス以外に、何が真の自由独立選挙かがわかっている国はないことを知っている。それを私はニカラグアと南アメリカで学んだ。われわれとロシアとの間で生じているもっとも重要で困難な問題に関してロシアとの関係が壊れる状況に急ぎ進んでいるという恐れ私はとても強く持っている。

スティムソンは、アングロ・アメリカン民主主義が世界唯一の民主主義という信念の頑固な信奉者で、世界には、歴史や文化や伝統によって様々な形の民主主義がある、という考え方を決して認めなかった。カルビン・クーリッジ政権下でニカラグアに調査団団長として派遣されたことがあるが、ニカラグア人は「独立の責任を負うにはふさわしくなく、また一般大衆による自立政府を組織するにはまだふさわしいとは云えない。」という報告をしている。またその後植民地だったフィリピン総督に就任しているが、この時も同じ理由によって、フィリピン独立に反対している。「ヘンリー・スティムソンの略歴」<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stimson/profile.htm>を参照の事。私は、スティムソンを東部金融資本の利益を代表した政治家、という認識に立った上で尊敬しているが、彼の頑固なアングロ・アメリカン主義にはほとほとあきれる。ま、いいか、誰もパーフェクトではない。)

 「私は、大統領にそれで非常に困っていると云った。そして私が話しているこれら難しさについて指摘した。そして、私の意見では、正面衝突をしないでこうした状況に関して調整することができるかどうか見守って、極めて注意深く扱うべきだといった。大統領は、目に見えて私の警告とアドバイスにがっかりしていた。“とことん行くまでお声がかからないマーシャルのところにこの問題が行くまで誰も私を援護してくれない。”(武力対決に行くまで誰も私を援護してくれない、の意味か?これはトルーマンの発言と思える。)“私の助けは、勇気があって賢い人間だ。”そして大統領は、私同様、困っており、警戒感がもたげた。

 国務省がこの問題を台無しにしてしまうことは見て取れる。私が賢いやり方だと考えていることとは反対に、サンフランシスコでの公的会議の前の交渉によって、アメリカ、ロシア、イギリス、フランスの大国間に横たわる問題を解決していない。(この公的会議というのは国際連合=the United Nationsのこと。第1回会議が45年4月25日の予定されていた。)しかし彼ら(国務省)は、前進号令をかけ国連会議を招集してしまった。そしてその問題(ポーランド問題)を軌道に乗せるため参加国の意見を得ながら、その問題を乱暴に扱って強いて望み通りになると感じている。

 それはみっともない会議だ。最後に大統領は、(海軍長官の)フェレスタル、私、マーシャル、(海軍作戦部総長のアーネスト・)キングにサヨナラを告げ、続けて話し合いを継続し、決断を下す、といった。以来、私はこれから起こることに関して、容易ならざる不安を持っている。」

私は、当時の、国連の第1回会合とそれを取り巻く大国間の情勢について全く勉強していないので、ここでスティムソンが云っていることの内容がわからない。ただ、スティムソンがトルーマンの、大統領としての技倆や懐の深さについて疑問をもったのだな、と感じている。)

「私はグローブズ将軍とジョージ・ハリソンと(ニューヨーク生命保険会社社長で、当時陸軍長官顧問。陸軍省におけるスティムソンの忠実な右腕。)来るべき大統領とのS-1に関する会議について会合をもった。

S-1とはマンハッタン計画の暗号名。スティムソンの日記では原爆の暗号名としてもしばしば使われている。)

彼らは極めて興味深い全体状況の概括を描いて見せた。そして私はそれについて読み、彼らと話した。」