(原文:http://www.doug-long.com/stimson6.htm) (スティムソン日記の註) 1945年6月12日 ニルス・ボーアの主張 フェリックス・フランクフルター(最高裁判事)が私に10時半の面会を宣告した。 そして彼がやってきて30分ほど話し込み、偉大なデンマーク人(the Great Dane)、ボーア教授の話をした。ボーア教授の主張はほとんど全部すでに私も知っている。 ボーアはフランクフルターを通じて有益な提言もしている。 バンディ(国務長官補)の所へ行って、S−1計画にその提言を注入した。 (ニルス・ヘンリック・デビッド・ボーア。 http://nobelprize.org/physics/laureates/1922/bohr-bio.html あるいは、http://en.wikipedia.org/wiki/Niels_Bohr。 デンマーク生まれの物理学者。原子構造の発見者・提唱者で量子力学を生み出した。 1922年ノーベル物理学賞受賞。ナチスがデンマークを占領した時に、スウェーデンに逃れ、そののちロンドンに亡命。1943年にマンハッタン計画に参加。ロス・アラモス研究所にいた。 マンハッタン計画ではニコラス・ベーカーの仮名で研究に携わった。多くの助言を研究全体に与えた。原子爆弾の知識を国際的に共有して、国際管理にしなければならないと早くから説いた。 ボーア自身は「私がいなくても原爆はできる。私がマンハッタン計画に参加した目的は、核競争を防ぐためだ」というほどだった。 オッペンハイマーは、このボーアをルーズベルト大統領に紹介し、ボーアは1944年、ルーズベルトに、核兵器の国際管理を説いた。 ルーズベルトはこれに対して、チャーチルを説得するようにとイギリスに送った。 チャーチルはこの案を却下した。ボーアはもしアメリカとイギリスが原爆を実際に使った後、ロシアがこれを知れば、ロシアは恐怖に駆られて、原爆の開発を急ぎ、止めども知らぬ、核競争が始まるだろう、これは核戦争の危険性が大きくなると予測し、これを防ぐことに全力をあげた。 この日記で言うフランクフルター判事に面会したのも、その主張をトルーマン政権に届けるためだった。 スティムソンはこの日記で見る限り、ボーアに大いに共鳴したかのように見える) |