(2009.5.6)

<参考資料> ヘンリー・ルイス・スティムソンの略歴

アメリカ第46代国務長官、第54代陸軍長官、ヘンリー・ルイス・スティムソンの略歴である。出典はほぼ、英語版Wikipedia“Henry L. Stimson”
<http://en.wikipedia.org/wiki/Henry_Stimson>であるが、一部私が加えた注釈部分もある。私が加えた部分は青字で表示した。
黒字の見出しは英語版Wikipediaの見出し、青字の見出しは私が加えた見出し。
なお日本語版Wikipedia
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%
E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3
%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3>
も参照されたい。



ヘンリー・L・スティムソン

 ヘンリー・ルイス・スティムソン(Henry Lewis Stimson)(1867年9月21日―1950年10月20日)はアメリカの政治家。陸軍長官(Secretary of War)、フィリッピン総督(Governor-General of the Philippines )、国務長官(Secretary of State)などを歴任。保守的な共和党員、ニューヨーク市の指導的な法律家の一人。スティムソンがもっともよく知られているのは、第二次世界大戦時の非軍人陸軍長官であり、ナチス・ドイツに対する攻撃的な立場で選ばれたことである。この時、陸軍および空軍に対して責任を負った。

(* 当時は三軍の一つとしての空軍は存在せず、陸軍航空部隊だった。独立した空軍が創設されるのは1947年である。)

そして1200万人にも及ぶ兵士、空軍要員の徴兵と訓練を担当し、国内の工業生産の30%にも及ぶ物資を購買し戦場に送った。また原爆を製造し、その使用の決定をも担当した。

(* スティムソンは暫定委員会の委員長であり、その暫定委員会は大統領に原爆の使用を勧告したのだから、こういう言い方は妥当であろう。)


経歴

 共和党の政治に長い間深く関わっていたニューヨークの裕福な家庭に生まれ、マサチューセッツ州アンドバーのフィリップス・アカデミーで学んだ。現在その寄宿舎の一つはスティムソンの名前が冠せられ、彼に捧げられている。1888年イェール大学で学士号を取得。またイェール大学で、秘密結社のスカル・アンド・ボーンズ(Skull and Bones)のメンバーに選出された。後の人生においてスカル・アンド・ボーンズでの人脈が彼に大いに役だった。

(* スカル・アンド・ボーンズ。
<http://ja.wikipedia.org/wiki/スカル・アンド・ボーンズ>
または<http://en.wikipedia.org/wiki/Skull_and_Bones>
真面目に取り上げるのも気恥ずかしいような話だが、現実にイェール大学にある秘密結社。実際には会員間の相互援助組織で、社会に出てお互いに出世を助け合うような親睦組織。会員名も秘密でもなければ、秘密結社という割には写真を含めて公開されている。イェール大学のWebサイトにはわざわざ“Skull and Bones”のコーナーもある。
<http://images.library.yale.edu/madid/showthumb.aspx?q=skull
+and+bones>
。とはいえ人脈作りには、極めて有用なものと見える。)


 1890年にハーバード大学のロー・スクール卒業後、1891年ウォール・ストリートの格式の高いルート・アンド・クラーク法律事務所に入り、2年後にはパートナーの1人になっている。エリヒュー・ルート(*同法律事務所の共同代表の1人)は、未来の陸軍長官、国務長官であり、スティムソンに大きな影響を与え、行動様式の規範ともなる人物であった。

(* エリヒュー・ルート=Elihu Root
<http://en.wikipedia.org/wiki/Elihu_Root>は、第38代国務長官、第41代陸軍長官も務めた当代一流の人物であった。スティムソンの入所した法律事務所も、単なる法律事務所ではなく、アメリカの政治のシンクタンク的存在であった。実際、ルートは1921年、外交問題評議会が創立された時の共同創立者の一人であり、初代の評議会長を務めている。スティムソンにとってエリヒュー・ルートは、自分のモデルとなるべき人物であった。)


 1893年、スティムソンはメイベル・ウエリントン・ホワイト(Mabel Wellington White)と結婚した。彼女はアメリカ建国の父の一人、ロジャー・シャーマン(Roger Sherman)の子孫でもあり、またエリザベス・セルデン・ロジャーズ(Elizabeth Selden Rogers)の姉妹でもある。二人の間には子供がなかった。

(* ロジャー・シャーマンは、法律家・政治家で独立宣言起草グループの一人。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Roger_Sherman>。またエリザベス・セルデン・ホワイトはニューヨークの公立学校の制度改革や女性の権利向上に力を尽くした社会改善運動家。スティムソン日記を読んでいると、スティムソンが自分で思索を深めたい時に、妻のメイベルに文書を読み聞かせる場面にしばしばぶつかる。最後まで深く信頼する妻だったようだ。)


 1906年セオドア・ルーズベルト大統領は、スティムソンをニューヨーク南地区担当検事総長に任命した。ここで、スティムソンは反トラスト法事件で辣腕をふるい、一挙にその名前を高めた。1910年ニューヨーク州知事選挙に出るが敗北。

(* セオドア・ルーズベルト=Theodore Roosevelt
<http://en.wikipedia.org/wiki/Theodore_Roosevelt>
<http://ja.wikipedia.org/wiki/セオドア・ルーズベルト>
第26代アメリカ大統領。大宅壮一によれば、新渡戸稲造はルーズベルト家の後援で、『武士道』=“The Soul of Japan”を1900年に出版したという。日清戦争に日本が勝利した後のことでもあり、日本に対する本格的な理解が深まっていく時代的潮流もあった。スティムソンは決していわゆる親日家ではないが、日本の社会の仕組み、天皇制に対する理解は並々ならぬものがあった。おそらくこうしたこともスティムソンが、日本に対する深い理解を示す契機にもなっているのではないか?)


タフト政権及びウイルソン政権下

 1911年、ウイリアム・ハワード・タフト大統領政権下で、スティムソンは陸軍長官(Secretary of War。第45代。)に指名される。スティムソンは、第一次世界大戦の爆発的な陸軍拡張の以前に、すでにルートによって手がけられていた効率化を目指して、陸軍再構築の仕事を継続した。第一次世界大戦が勃発すると、悲惨な状況にあるベルギーの人々を援助するアメリカの努力を代表するリーダーの一人になった。

(* 1914年、第一次世界大戦が始まると、ドイツとフランスに挟まれたベルギー地方は悲惨な戦争のまっただ中に曝されることになった。特に戦争史上はじめてドイツ軍によって使用された毒ガス兵器はその悲惨を増幅することになった。ここらへんの記述は読者にアメリカ国民を想定していたとしても若干不親切。スティムソンが陸軍長官を務めたのは、1911年5月から1913年3月まで。だから大戦勃発時にはもう陸軍長官ではなかった。)


セオドア・ルーズベルトは、ルーズベルトの「大戦志願兵システム」のための18人士官の1人にスティムソンを指名した。志願兵からなる歩兵師団創設を目指したものである。この志願歩兵師団は1917年に実際フランスに従軍した。この時指名された18人士官の中には、セス・ブロック、フレデリック・ラッセル・バーンナム、ジョン・M・パーカーなどが含まれる。米議会はルーズベルトに4個師団増設までの権限を与えた。これはラフ・ライダース=第1合衆国志願騎兵連隊(1st United States Volunteers Cavalry Regiment)やイギリス陸軍第25<前線兵>大隊(The British Army 25th <Frontiersmen>Battalion)、フュージリア連隊(Royal Fusilier=ロンドン市の志願兵による歩兵連隊。)などと似たような組織だった。しかし、総司令官として、ウッドロー・ウイルソン大統領は志願兵部隊を使用することを拒否したので、この部隊は解団した。しかしスティムソンは、通常陸軍の砲兵士官としてフランスにとどまり、1918年8月には大佐(colonel)に進級している。

(* ここも若干不親切な記述。ルーズベルトは第一世界大戦が始まった時にはすでに大統領ではない。任期は1909年3月までだった。大戦勃発時の大統領は、ウイリアム・ハワード・タフト<http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・タフト>=第27代大統領で任期は1913年3月まで、を挟んですでにウッドロー・ウイルソンだった。つまりセオドア・ルーズベルトは元大統領として、志願兵制度を提唱し、議会もそれを認めたわけだが、大統領のウッドロー・ウイルソンはそれを嫌い、志願兵制度を中止させた、ということだ。しかしもともと志願兵としてフランスに赴いたスティムソンは通常米陸軍の一士官として大佐に昇進した、ということになる。元陸軍長官が一介の大佐として従軍するというのも奇妙な話だが、これは事の成り行きというものだろう。なお、スティムソンは、ウイルソンの前政権タフト時代の陸軍長官であり、ルーズベルト政権の陸軍長官ではない。

 ウッドロー・ウイルソン<Woodrow Wilson>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Woodrow_Wilson>
第28代大統領。任期は1913年3月から1921年3月まで。彼の名前は第一次世界大戦とその戦後世界の構築と共に記憶されている。18年1月に発表された「14ヶ条の原則」<Fourteen Points>は特に有名。
なお、英語のWikipediaの<Woodrow Wilson>も書きかけ項目となっている。このところ、歴史的に評価が定まっていると見られたアメリカの政治家が、Wikipediaで「書きかけ項目」となるケースが目立っている。評価が動き始めたということだろう。それは今歴史が大きな転換点にさしかかっていることと無関係ではないだろう。

セス・ブロック<Seth Bullock>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Seth_Bullock>
カナダ生まれのアメリカ連邦保安官。

フレデリック・ラッセル・バーンナム<Frederick Russell Burnham>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Russell_Burnham>
有名な探検家、冒険家、軍人。

ジョン・M・パーカー<John M. Parker>
<http://en.wikipedia.org/wiki/John_M._Parker>
政治家。ルイジアナ州知事。民主党の有力政治家でありながら共和党の大統領セオドア・ルーズベルトと親しかった。)


クーリッジ政権下

 1927年、スティムソンは民間外交の一環として、カルビン・クーリッジ大統領によってニカラグアに派遣された。スティムソンは、ニカラグア人は「独立の責任を負うにはふさわしくなく、また一般大衆による自立政府を組織するにはまだふさわしいとは云えない。」と書いている。後に、スティムソンは、レオナード・ウッド将軍の後任としてフィリッピン総督に任命され、1927年から1929年までその任に就いたが、その時も同じ理由によって、フィリピンの独立に反対した。
 
(* カルビン・クーリッジ<Calvin Coolidge>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Calvin_Coolidge>
アメリカ第30代大統領。クーリッジの時代も、ニカラグア、ハイチ、ドミニカなどの国々の軍事占領を続けた。1924年にドミニカからは撤兵している。国務長官フランク・ケロッグとフランスの外務大臣アリスティッド・ブリアンの間にケロッグ−ブリアン協定<不戦条約>が成立したことは有名。)

フーバー政権下

 1929年から1933年(*昭和4年から昭和8年)の間、ハーバート・フーバー政権下でスティムソンは国務長官を務めた。1929年、国務省の暗号解読担当部局であるMI-8を閉鎖した。その時スティムソンは「ジェントルマンはお互いに手紙を盗み読みしない。」といった。のちに彼はこの態度を変えた。

(* 有名なエピソードである。MI-8は第一次世界大戦後に国務省、陸軍省、海軍省などに設立された情報解読分析部署である。といっても、当時は専ら電信の盗聴解読、手紙などの開封解読などであった。スティムソンの言うように、他人の手紙の盗み読みできないでは仕事にならないので、閉鎖するほかはなかった。スティムソンは後に陸軍長官になったときにMI-8を再開させている。MI-8は後に国家安全保障局=National Security Agencyに発展する。

ハーバート・フーバー=Herbert Hoover
<http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_Hoover>
第31代大統領。在任は1929年から1933年。大恐慌に有効な手を打てなかった大統領として知られる。なお在任期間中の1931年=昭和6年は満州事変の年。)


 1930年から1931年にかけてのロンドン海軍軍縮会議では、スティムソンはアメリカ代表団の代表を務めている。1932年(*昭和7年)1月、合衆国は、日本の満州侵略の結果「スティムソン・ドクトリン」を発表、アメリカの条約上の権利を制限するいかなる条約や状況、あるいは侵略によってもたらされるいかなる結果をも承認することを拒否した。フーバー政権の終焉期、民間人の生活に戻りつつ、スティムソンは日本の攻勢に対する強力な反対を叫ぶ陣営の主唱者となった。

(* このスティムソン・ドクトリンの要約については不十分と思われるので、別途<参考資料>「スティムソン・ドクトリン」を参照のこと。)


フランクリン・D・ルーズベルト政権下

 1940年、フランクリン・D・ルーズベルト大統領はスティムソンを、この時彼は73歳だったが、陸軍長官という古巣のポストに任命した。スティムソンは敏腕をふるい、陸軍を急速にかつ厖大に拡張をし、1000万人を越える軍隊にした。

 パール・ハーバー攻撃の10日前、彼は日記に有名な、そして議論の多い記述を書き残している。スティムソンが大統領に面会した時、日本の行く手を阻む敵対行為について話し合い、『いかにして、われわれが大きな危険を受けないで、日本に最初の一撃を出させるようにもっていくべきか』それが問題だ、としている。


トルーマン政権下

 スティムソンは、原子爆弾に関する最高司令官(the supreme commander)だった。マンハッタン計画の責任者だった、レスリー・グローヴズに対しても指揮命令権をもっていた。ルーズベルトもトルーマンも、原爆に関するすべての観点で、スティムソンのアドバイズに従っていた。また軍事的にも、必要あれば決定を覆すこともできた。(たとえば、文化の中心地、京都は彼がハネムーンを過ごした場所であったが、彼は投下目標リストから外させた。)1945年8月6日、最初の原子爆弾攻撃で広島は破壊された。

 スティムソンはモーゲンソー計画に強く反対し、ドイツの非工業化および幾つかの小さな国に分ける案にも反対した。

(* モーゲンソー計画は、ルーズベルト政権下の財務長官、ヘンリー・モーゲンソーによって立案された計画。ドイツ占領計画のひとつで、ドイツから戦争を起こす能力を未来永劫奪うために過酷な手法を用いる懲罰的な計画。後に国務長官、ジェームズ・バーンズなどによって撤回される。
<http://ja.wikipedia.org/wiki/モーゲンソー・プラン>


 またこの計画では、ナチスの戦争犯罪に責任があるという疑いだけで、だれでも即決の投獄や国外追放ができることももくろんでいた。当初はルーズベルトはこの計画に同調的であったが、しかしスティムソンの反対に遭って、またこの計画が世間に漏れた時に怨嗟の声が高まったこともあって、大統領は思いとどまった。このようにスティムソンは、ドイツにおける占領地域での全体的な制御権を保持していたが、またモーゲンソー計画が、正式な占領政策として採用されたことがなかったとはいえ、その計画がドイツ占領初期には一定の影響力を及ぼしてはいた。スティムソンはルーズベルトに、ロシアを含む10カ国のヨーロッパの諸国は、ドイツの輸出入貿易、原材料の生産などに依存しており、この“自然のたまもの”、すなわち“エネルギーと活力、進歩性”に満ちた人々が住む地域を“ゴースト地域”“ゴミ捨て場”にするなどとは、全く考えられない、と主張した。しかし、スティムソンが本当に恐れていたことは、最低限の生存を確保できなければ、ドイツの人たちの怒りが連合国側に向いていき、“彼らのドクトリンや行為の邪悪性あるいはナチスの罪が隠蔽されていくこと”だった。1945年の春、スティムソンはハリー・S・トルーマン大統領に対して似たような議論をしている。

 スティムソンは、法律家として、最初はルーズベルトとチャーチルに対する希望として、主要な戦争犯罪人にたいして適切な司法上の手続きをおこなうことを主張した。スティムソンと陸軍省は国際司法裁判に関する最初の提案の下書きを作成した。その提案は、すぐに大統領になったトルーマンに支持された。(*ルーズベルトの急死の後をうけてトルーマンが大統領に就任したのは45年4月である。)スティムソンの計画は、1945年から46年にかけてのニュールンベルグ裁判を事実上主導したのであり、ニュールンベルグ裁判は、その後の国際法の発展に意義ある影響を及ぼした。


スティムソンの死とその追想

 スティムソンは1950年10月まで生存した。タフト大統領内閣の最後の生存者だった。ロングアイランドの北海岸、ニューヨーク州ハンティントンの屋敷で死去した。83歳。隣接の町、コールド・スプリング・ハーバーの聖ジョン教会で埋葬された。スティムソンはハンティントン・ステーションにあるヘンリー・ルイス・スティムソン中学校の名前でロングアイランドでは記憶されている。またストーニー・ブルック大学のキャンパスにある寄宿棟にもその名が冠せられている。民間の研究機関でワシントンDCにはヘンリー・L・スティムソン・センターもある。スティムソンは「実際的で超党派的なアプローチ」で国際問題に取り組んだ、とされている。またベンジャミン・フランクリン級の弾道ミサイル潜水艦、“ヘンリー・L・スティムソン”にもその名が冠せられている。

ヘンリー・L・スティムソン(Henry Lewis Stimson)

第46代合衆国国務長官 在任 1929年3月28日―1933年3月4日
大統領 ハーバート・フーバー
副長官 ジェセフ・P・コットン (1929年―1931年)
ウィリアム・R・キャッスル・ジュニア (1931年―1933年)
前任者 フランク・B・ケロッグ
後任者 コーデル・ハル
第54代合衆国陸軍長官 在任 1940年7月10日―1945年9月21日
大統領 フランク・D・ルーズベルト (1940年―1945年)
ハリー・S・トルーマン (1945年)
副長官 ロバート・P・パターソン (1940年)
ジョン・J・マクロイ (1941年―1945年)
前任者 ハリー・ハインズ・ウッドリング
後任者 ロバート・P・パターソン
第45代合衆国陸軍長官 在任 1911年3月22日―1913年3月4日
大統領 ウイリアム・ハワード・タフト
副長官 ロバート・ショウ・オリバー
前任者 ジェイコブ・M・ディッキンソン
後任者 リンドリー・M・ギャリソン
第8代フィリピン総督 在任 1927年12月27日―1929年2月23日
大統領 カルビン・クーリッジによる指名