(2012.8.19) | |
No.047 |
広島2人デモ
「原発がないのは誇るべき現実」という思想 |
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大飯原発再稼働のロードマップ | ||||||||||||
朝日新聞を通してみていくと、大飯原発再稼働へのシナリオは、ほぼ2012年3月までに立案され、4月になって、つまり原子力規制委員会が予定された4月に成立しない、言い換えれば原子力規制行政の空白を利用して、内閣が「再稼働の安全判断」を行う、という一種の政治的奇術を行うことで実施に向けてのスタートが切られる。そして、「暫定基準」の設定を経て、4月13日(金)の夜、この暫定基準に基づいて、時の内閣が「原発再稼働」に向けての「安全宣言」を行う、という離れ業を演じる。時の内閣が「大飯原発再稼働が安全であるかどうかは判断できません。しかし政治判断で再稼働いたします。」ということは許されるかも知れない。しかし「原発再稼働は安全だ」と判断することはできない。どこを押しても日本の法体系はそんな権限を内閣に与えていない。良く言って超法規的措置、有り体に言って違法行為だ。 しかし当時世論は「内閣の違法行為」だという具合にはならなかった。「暫定基準はまやかしだ。たった2日でできるわけがない」と暫定基準の妥当性の問題に景気よく話をそらせていった。その旗振り役を務めたのが、大阪市長・橋下徹であり、その拡声器役を務めたのが朝日新聞をはじめとする主要マスコミだった。 もう一度ここで繰り返すのが、4月7日付け朝日新聞に掲載された「大飯原発再稼働へ向けてのロードマップ」である。この時点では、すでに暫定基準ができあがっていた。 ①のステップは前述のように、4月13日(金)の夜に実施された。次はステップ②である。これは翌日14日、土曜日にも経産相枝野幸男が福井市を訪ねて実施される。 |
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「反原発」と「脱原発」の違い | ||||||||||||
傑作なのはこの記事で、『「脱原発依存」を唱える枝野氏が西川知事の前で後退したのは、再稼働への理解を得るため、原発の必要性を強調したものとみられる。』と書いていることだ。「後退」というのは、もともと脱原発の枝野が、原発の必要性を強調したことを指すのだろうが、これは後退でも何でもない。「脱原発」、「卒原発」、「さよなら原発」はもともとそういう主張である。つまり現在ただ今は原発は必要だが、将来はなくしていく、という主張だ。だから現在ただ今必要性を強調する枝野が「脱原発」から後退したわけではない。 「脱原発」、「卒原発」、「さよなら原発」と「反原発」とを区別するのはただ1点である。すなわち「現在ただ今原発を全て止め、原発はただちに廃炉」という点である。この1点を認めれば「反原発」だ。「脱原発」、「卒原発」、「さよなら原発」はいつまでも的を射抜かぬ「ヘラクレスの矢」なのである。 チェルノブイリ事故のあと、無事だった1号機、2号機、3号機を再稼働させたように、そしてウクライナ政府に原発からの撤退をさせなかったように、もっと国際的な大きな力が働いている。その国際的な大きな動き、仮にここでは国際核利益共同体とでも呼んでおくが、その核利益共同体から見れば、野田政権そのものが手駒の一つみたいなものだ。仙石や西川をキーマンだと持ち上げることによって、「大飯原発再稼働」の国際的に大きな意味を矮小化する効果をこの記事は持っている。 |
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「生活のためにはやむを得ない」という視点 | ||||||||||||
(少なくとも小浜市は、地元として「再稼働」を待ってくれ、という雰囲気ではなかったことは、確かだ。というのは、小浜市議会は6月9日に「原子力発電からの脱却を求める意見書」決議をあげているからだ。中身を読むとただちに反原発、というわけではないが、原発に対する嫌悪感、不安がよく表現されている。<http://d.hatena.ne.jp/san10moon12sun/20110708/1310095485>を参照のこと。朝日新聞は小浜市のこの雰囲気を全く伝えていない。) 朝日新聞の記事は、「原発再稼働」を待ち望む多くのおおい町民を、どちらかといえば肯定的に描いている。それは「生活のためにはやむを得ない」という視点である。だが本当にそうか?本当にその視点でいいのか? |
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「原発拒み続け和歌山の記録」 | ||||||||||||
「原発が恐い女たちの会」というブログから引用する。(やや長くなるかも知れない)
『原発がないことは、誇るべき現実だ』― これが、今私たちが持つべき視点ではないか?
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世界的に貧困につけ込む原発産業(核利益共同体) | ||||||||||||
日本全国の原子力発電所の数の恐らく数倍ほどの「誇るべき現実」がある。原発を拒否してきた日本の市民の歴史がある。多くの地域は原発を拒否したという「誇るべき歴史」を持っている。その意味では、政府や電力会社の利益誘導と住民分断作戦に敗北した地域が原発を受け入れたのだとも言える。 原発は、過疎地域や低経済開発地域を選んで立地された。よく知られた事実である。これは何も日本だけの現象ではない。国際的に共通した現象だ。これもよく知られた事実である。失業率の高い地域、貧困な地域、これといって産業のない平均収入の低い地域を狙って原発を立地してきた。 さしずめ私は、欧州放射線リスク委員会(ECRR)2010年勧告第4章「放射線リスクと倫理」から引用しておこう。国際的な原発推進勢力の「功利主義」、「費用―便益主義」(コスト―ベネフィット論)を厳しく批判し、結局社会的弱者に高いコスト(健康リスク)を押しつけている、と原発産業の不道徳性、倫理意識、人権意識の欠如を激しく糾弾した章である。
これは朝日新聞の描写する「おおい町」の姿と完全にダブって見える。 |
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フランスの言語圏と原発所在地 | ||||||||||||
今や世界最大の「原発大国」の一つ、ある意味ではアメリカを凌ぐ原発大国、フランスではこうした「あからさまな利益誘導」に加えて、フランス国家主義の圧力が原発立地政策に加わっている。 田中克彦という言語学者は『ことばと国家』(岩波新書 1981年11月 第1刷)の中で次のように書いている。(若干引用が長くなるかも知れない)
ローマ時代大ざっぱに「ガリア」と呼ばれ、歴史的に色々な民族が交錯してきた現在のフランス本土で、フランス語だけが話されているわけではない。フランスの、
p80には「フランスにおける言語分布」という図が掲載されているが、下の図はそれをトレースしたものである。 フランス国家は長い間(現在もそうだが)、こうした非フランス語言語をジャルゴン(言語としては未完成の卑俗な言葉)として正式に独立した言語として扱ってこなかった。当然こうした地域はまた、フランスでは低経済開発地域であり、高失業率地域でもある。
原子力百科事典「ATOMICA」に「フランスの原子力発電分布地図」があるが、これを「フランスにおける言語分布」に重ねて得られたのが、下図「フランスにおける言語分布と原発所在地」である。 フランス語圏にも確かに原発は存在するが、これは恐らくロワール川沿岸に原発を建設する必要があったからだと思われる。主要な原発は「オック語圏」やアルザス語、プロバンス語、フラマン語、ブルトン語あるいは旧ブルトン語圏に集中している様子がよく見てとれる。カタロニア語圏やバスク語圏に原発がないのは、山の中でありまた近くに大きな川がなかったせいだと思われる。決してそのままではないが、田中克彦の指摘に良く当てはまっている。 原発立地は、その意味ではあらゆる差別の象徴とも言える。こうしてみていくと、先に紹介した和歌山県民の反原発の闘いがいかに偉大だったがわかるだろう。彼らは単に原発を拒否したのではなく、そこに塗り込められた「差別」そのものと闘い、これを敢然と拒否したのだ。まさに「原発のないことは誇るべき現実」なのである。 またこうしてみていくと、朝日新聞の描写する「おおい町」が、いかにこうした「差別の受け入れ」を、生活のためと称して「是」とするものであるかがわかるであろう。(私はおおい町民全部が、ここに描写されている通りだとは思わない)「生活のため」に原発を受け入れることは「恥ずべき」である―こうした考え方が一般的にならない限り、日本から、世界から原発はなくならないであろう。少なくとも朝日新聞のこの記事は、「原発のないことは誇るべき現実」と高らかに宣言する和歌山県民の思想と真っ向から対立しているとはいえよう。 |
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世論調査という名の世論誘導 | ||||||||||||
さて4月15日(日曜日)、朝日新聞はまた性懲りもなく「橋下持ち上げ記事」を書いている。32面(社会面)に掲載された『橋下維新 民主と対決へ』と題する記事だ。中身は、『橋下徹大阪市長は率いる大阪維新の会は14日の緊急幹部会で、国政進出に際し民主党政権と全面対決する方針を固めた。』と書き出している。ほほう、どう全面対決するのかと読んでみると、中身は「再稼働は妥当と判断したことを激しく批判」し、「民主党政権を倒すべきだ」と発言した、というだけのことである。(署名は池尻和生、坪倉由佳子の連名)
一見朝日新聞の世論調査で、国民の大多数が反対していることをアピールする記事かのように見せている。しかし、大手新聞社やNHK、共同通信の実施する世論調査で世論誘導の意図をもっていない調査はないという鉄則をこの世論調査に当てはめてみると、設問に少なくとも2つ世論操作の意図をもったものが含まれていることに気づく。 一つは「野田政権が再稼働を妥当と判断した」ことについて賛成か、反対かという設問である。これまでその②やその③で見てきたように、野田内閣には政治判断で再稼働を決断する権能をもっている。しかし、野田内閣は独立した原子力規制組織ではないので、再稼働が安全であるかないかを判断する権能はない。しかるべき機関が判断した結果を実施に移すだけだ。従って野田内閣としては「大飯原発再稼働が安全かどうかは判断できないが、政治決断として再稼働を妥当だとする」ということはできる。しかし「大飯原発再稼働は安全だ」という事はできない。これは、その②やその③で見たように原子力規制官庁の機能不全や空白を利用した、一種の政治的奇術だった。 この設問は、「野田内閣の関係閣僚会議が大飯原発の安全性を妥当と判断した」ことについて賛成か、反対かという設問にしてみれば、世論調査の結果は恐らく90%以上「反対」だったろう。一方「再稼働という政治判断は妥当だったか」という設問にしてみれば、反対の答えは55%程度だったかもしれない。要するにこの設問は、野田内閣が「安全性」について判断したことの違法性を覆い隠すことによって、野田政権の「政治的奇術」を免罪してやったようなものだ。 前回でも見たように、野田内閣には原発再稼働を安全かどうか判断する権能はない。この問題を「暫定基準の不信性」に景気よく逸らせていったのが、大阪市長の橋下であり、朝日新聞だった。果たしてこの世論調査では『暫定的な安全基準について「信頼する」は17%で、「信頼しない」は70%。』だった。冷静に考えれば、もともと安全性について判断する権能のない内閣がどんな基準を決めようが、そんなものは信頼する、しないの話ではなく、問題にすらならない。 |
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「国民」が当事者から除外される調査 | ||||||||||||
もうひとつ世論操作の意図をもった設問で、こちらの方がさらに重要な操作意図をもったものが、原発を再稼働する場合「地元の市町村や県の同意が必要か、それとも政府が判断すればよいか」という設問である。 この設問で特徴的なことは、同意の必要な対象に「国民全体」が入っていないことだ。かくいう私もその1人だが、そして今首相官邸前に集まる夥しい数の首都圏の諸君も大飯原発再稼働を人ごととは考えていなかった。それはそうだろう、日本の将来、ということは私たちの未来を左右する福島電発事故が目の前で発生し、まだ放射能は止まっていない。この現実を目の前にして、もうひとつ原発が再稼働するというのだ、いい加減にしてくれ、君たちは気が違ったのか、といいたいのが多くの人々のホンネではなかったか?問題は近畿圏だけの問題ではない。いまや国民全体が当事者なのだ。なのにこの質問は同意を得る対象を地元の市町村や県に限定している。国民全体が慎重に排除されている。朝日は国民全体の同意は求めたくないのだな、と私が感じる理由である。国民全体の同意は必要ないと考えるのは、野田政権も同様である。何度も引用する4月7日づけ朝刊に掲載された、「大飯原発再稼働へのロードマップ」をもう一度見てみよう。 このロードマップは3月までに野田政権によって立案されたシナリオなのだが、このシナリオには「国民全体の同意」などいうステップは入っていない。野田政権の朝日新聞も、「国民全体の同意」が必要だとはさらさら考えていなかった。(これが大誤算であることが、今や私には明白なのだが、野田政権も朝日新聞もまだわかっていないようだ。朝日新聞は7月下旬大飯原発の2つの原子炉がフル稼働したあとは、一丁あがりとばかりに大飯原発に触れた記事はほとんど姿を消す。政局がらみのき記事の場合も、大飯原発は出てこない。野田政権にとっても、関西広域連合にとっても、そして朝日新聞にとっても「大飯原発再稼働問題」はすでに過去の問題なのだ。) つまり、朝日新聞の世論調査は、野田政権のシナリオに沿った設問票だということが了解されるだろう。この設問に対する回答は88%までが、「地元の了解が必要」と答えているが、それは他に選択肢がなかったのでそう回答したにすぎない。要するに世論誘導の意図をもったこの設問に多くの人がひっかかったのである。「地元」をロードマップの「⑦ 滋賀・大阪・京都に理解を求める」という意味に限定するならば、もともと野田政権のロードマップには織り込み済みである。そしてこの地元を「関西広域連合」という狭い意味に解釈すれば(実際野田政権も関西広域連合も、そして朝日新聞もそう解釈するのだが)、その同意が取れることはすでにこの時点で織り込み済みであった。 「地元の同意」とは「関西広域連合の同意」と同義、とみなして事態はどんどん進んでいく。後は橋下徹の「降参宣言」を待つばかり、という仕掛けである。 |
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枝野が「一瞬ゼロ」で示した自信 | ||||||||||||
とこの記事はトンチンカンなことを書いている。4月15日の時点で5月5日までに大飯原発が再稼働する見込みはない。再稼働までには政府が示したロードマップでクリアしなければならないステップがいくつも残っている。「5月6日以降にずれ込む」のは一つの見方ではなく、避けがたい現実だ。従って「原発がゼロになる」のは見通しでも何でもない。避けがたい現実を指摘したに過ぎない。それよりも枝野の発言が重大なのは、北電泊原発の停止から「一瞬」と表現できるほどの時間差で、「大飯原発再稼働」ができると枝野が見ているという点だ。つまりこの時点で枝野は「一瞬」と表現できるほど短時間で大飯原発再稼働ができると考えていることになる。 一体この見通しはどこから生まれたものだろうか?4月の時点では、「反原発の闘士」橋下徹は、すなわち関西広域連合は完全に、「反再稼働」のポーズを崩しておらず、対決姿勢丸出しだった。ちょっと注意深い観察者には、橋下の真意は「再稼働反対」にはなく、「再稼働反対をダシに、国民的人気をさらい、来るべき国政選挙で維新の会の大躍進を狙ったもの」という状況が見えていた。しかし、多くは関西広域連合はなかなか手強いだろうと見ていた。にも関わらず「一瞬」と表現する枝野の自信はどこからきていたのか? 唯一合理的な説明は、すでに「再稼働までのシナリオができていた」というものだろう。枝野は徳島で所属派の議員の面々を前にその自信を示したにすぎない。 毎日新聞も次のように書いている。『政府は15日、国内の原発54基の一時的な全面停止を容認する方針を固めた。枝野幸男経済産業相が15日、徳島市内で講演し「(原発は)5月6日から一瞬ゼロになる」と明言した。』(<http://1topi.jp/1/mainichi.jp/select/news/20120416k0000m020031000c.html>) こういう記事をみていると、野田内閣や枝野、あるいは朝日新聞、毎日新聞の編集幹部や現場の記者と私たちの一般市民の間に越えがたい認識の溝が存在していると思わざるを得ない。 繰り返すようだが、4月15日の時点で、5月5日までに(後20日しかない)、大飯原発を再稼働する見込みはない。これは避けがたい現実だ。決して野田政権が「見通しを示した」だの「一時的な全面停止を容認した」と表現されるべき事象ではない。にも関わらず朝日は「見通し」と書き、毎日は「容認」と書いている。私は朝日や毎日が「野田政権」の目線に立って記事を書いていると、思わざるを得ない。 |
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「枝野の自信」から論点そらし | ||||||||||||
枝野は大飯原発再稼働について、「一瞬」と表現できるほどの自信を示した、と書いた。朝日も先の記事を掲載した後で、ことの政治的重大さに気がついたと見える。問題の本質は、枝野が「一瞬」と表現するほどに再稼働に対して自信を示した、点にある。
次の『枝野氏に批判集中』の見だして書かれている内容は、「枝野の失言」にしてしまうことを眼目にしている。そして枝野の発言はこれまでも大揺れに揺れてきた、と枝野の発言の定見のなさに問題をすり替えていく。ご丁寧にこの記事の横に『枝野幸男経産相の発言は揺れる』と題した一覧表をつけている。簡単に見ておこう。 「1月15日 大臣の立場を離れれば、原発再稼働慎重の心情に限りなく近い」 「1月26日 原発なしで夏は乗り切れる可能性がある」 「3月8日 安定供給よりも安全性が優先」 「4月2日 安全性について精査している段階。得心していない。現段階では反対」 「4月3日 安全性について精査中で、賛成という段階ではない」 「4月6日 電力に余裕があれば、電力需給逼迫の観点からの必要性はない」 「4月13日 将来の原発依存度ゼロ目標は内閣の方針だ」 「4月14日 日本経済の現状を考えると原発は重要な電源だ」 「4月15日 原発が、5月6日から一瞬ゼロになる」 これがどうして枝野の発言が揺れている根拠になるのか理解に苦しむ。枝野は一貫して個人としては原発に嫌悪感をもっている、しかし経産相としてはそうはいかない。将来はゼロにすべきだが、現在ただ今は必要だ。(これが脱原発論である)再稼働については4月初旬の時点では、安全性、需給関係の両面からただちに賛成とはいかない。しかしこの表には出てこないが、4月13日夜の閣僚会合ですでに「安全宣言」を出している。つまり精査したが安全だと判断したわけだ。これもそれまでの発言と矛盾するものではない。「一瞬ゼロ」発言も前に見たように、枝野の見方を示したものではなく、避けがたい現実を指摘したものに過ぎない。 つまり朝日は「揺れる枝野発言」を印象づけることによって、問題の本質である「枝野の自信」から、「枝野の失言、信頼の置けない枝野発言」に逸らせようと必死なのだ。 この記事全体で興味深いのは『大飯原発の再稼働「すぐ」と裏読み』の見出しである。普通新聞の見出しをつける時、記事中の重要なキーワードやキーフレーズを拾って見出しに立てるものである。でなければ、ちょうど週刊誌やスポーツ紙のように羊頭狗肉の批判を免れないからだ。ところが、記事中に「すぐと裏読み」に相当する本文記事がないのだ。 あえて指摘すると、関連記事の「経産相の発言に官房長官不快感」の見出しの記事中に、『藤村氏は(官房長官・藤村修)「一瞬」というと、その日にまた次が稼働するのかと受け止められない』と述べ』とあるぐらいだろう。 つまりこの見出しは、全体ができあがった後で、誰かもののわかった編集幹部が後付でつけたものだ。それは「一瞬ゼロ」は、「枝野の自信を示したものではない。それは裏読みに過ぎますよ」というメッセージを表現したものに他ならない。 |
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「枝野自信発言」打ち消しに走る社説 | ||||||||||||
これでは足りないと見たのか、17日付け紙面では『原発政策 首相は方向性示せ』のタイトルで社説を掲載している。内容は、
要するに、野田政権が原発・エネルギー政策の中長期的方針を示さないから、国民の信頼を得られていない、という論旨である、逆に言えば、中長期方針を示せば、大飯原発再稼働に理解を得られるという論旨でもある。しかし、大飯原発再稼働反対は、一言で云えばフクシマ事故がメドもついていないのに、次の危険因子のタネをまくな、そんな危ないことはするな、というものだ。中長期方針があろうがなかろうが、取りあえず別問題だ。 この社説の眼目も、野田政権の中長期方針(今すぐそんな方針ができるはずがない)にはない。言いたいことは、次の一言である。『担当大臣である枝野経済産業相の発言が、ぶれているとの批判も強まっている。』 枝野は「次の再稼働対する自信を示したのでない。単にぶれているだけだ」と打ち消すのがこの社説の狙いである。 |
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電気料金値上げ批判記事? | ||||||||||||
さてしつこようであるが、もう一度「再稼働ロードマップ」を見ていただこう。 これまで見たように、福井県やおおい町で再稼働反対が打ち出されるわけはない。従ってロードマップとは言いながら②から⑥及び⑧はいわば儀式である。 本当に取り組みの対象とするのは⑦である。しかも単に関西広域連合と称する「首長会議」では不十分である。そこに住んでいる住民を納得させなければならない。(野田政権が国民全体を納得させなければ、再稼働は順調に運ばない、と考えた形跡はこの時までも、その後もない。ことの重大さに気がつくのは再稼働を決めた6月中旬以降のことである。これが私には本当に不思議である。理解がつかない。) 関西圏の住民を納得させるツールはすでに決まっていた。「電力不足=計画停電」と「電気料金値上げ」の2つの脅迫である。
しかしその中身は、「電力会社の社員の給与は高い」と「電力会社には利益の積立金がある」、これを吐き出さないうちは電気料金の値上げを認められない、というものだ。 燃料費高騰による経営圧迫の話と「利益の内部留保」や「社員の平均給与が高い」問題、いいかえれば経営合理化の話とは本来別物だ。この論旨に従うと、「社員の平均給与が世間並みになって、利益積立金を吐き出してしまえば、電気料金値上げはやむをえない」という結論になってしまう。 「原発なしでは火力発電に依存せざるを得ない、そのために燃料費が高騰している。従って料金値上げを」というシナリオそのものに斬り込まなければ全く「説得力がない。」 |
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高コスト体質の関電火力 | ||||||||||||
発電用原油や重油は日本の環境基準によって低含有硫黄ものと決まっている。ということはあまり選択の余地(油種数)がない。全原発停止で、ただでさえつけ込まれて値段をつりあげられやすいところへ、電力会社と原油や重油を納入する商社や石油会社を限定している。つまり電力会社は高い原油や重油を購入していることになる。 次の問題は、1kWhあたりの火力発電の燃料別コストである。一般に次のように言われている。(というのは私自身確認したわけではないからだ。)
つまり原油や重油を燃料とする火力発電所は高コストなのだ。以下の表は関電火力発電所の燃料源表である。 一瞥して了解されることは、高コストの石油系燃料、すなわち原油や重油を燃料とする古いタイプの火力発電所が多い、ということだ。関電は原発依存型で火力発電を低コスト化する努力を怠ってきた、ということでもある。 今火力発電の主要な燃料源は、LNGなどのガス燃料、それからさらに低コストのシェールガスに向かっている。関電は火力発電についても高コスト体質(その体質には、少なからず大手商社や石油会社との癒着構造があると考えられる)なのである。この問題に深く立ち入らない限り、関電のいう「燃料費高騰」の話は検証できない。 従って関電批判記事と見えるこの『電力値上げ 説得力は?』と題する記事は、その実関電援護射撃記事ではないかと思うほど説得力がない。 |
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ウソで固めた関電島本恭次の話 | ||||||||||||
この日4月18日には6面(経済面)で明らかに関電援護射撃記事が登場する。『火力再稼働進まず』、『関電慎重 費用足かせ』と題する記事だ。(署名は北川憲一)
リード記事から引用する。
一読してわかるのは、完全に関電の立場に立って書かれた記事、ということだ。従って「3.11」以降原発稼働が難しくなる情勢がわかっていたのに、なぜ再稼働を準備しなかったのかなどと言った批判の視点はない。また関電の火力発電所の高コスト体質を批判する視点もない。以下本文。
すでにこの時点では、「今夏原発なしで関電管内は電力不足」、その幅は15%、あるいは18%、19%といった数字が出され、厳しい節電を要請せざるを得ない、と言う話が出ていた頃だ。今みなさん、この記事を読んで関電の言いぐさを聞いてどのように思われるだろうか?
とこの記事を書いた北川憲一は平然と言い放っている。2000億円もあれば、出力100万kW級の火力発電所が建設できる。神戸製鋼所が神戸市内にもつ石炭火力の神鋼神戸発電所は出力140万kWの日本でも最大級の石炭火力発電所で、2002年に1号機が、2004年に2号機が営業運転を開始したが、総工費は約2000億円である。(<http://www.kobelco.co.jp/column/topics-j/messages/154.html>)また2002年4月の話だが、『当事業を採算面からみると、1号機稼働中は300億円程度の売上高、2号機が運転開始となる2004年度以降は600億円程度の年間売上高を見込んでいます。売上高経常利益率も15年平均で20%以上を見込んでいます。』ということだ。(同) 関電の話とは相当違う現実が進んでいる。それとも関電の経営陣は救いがたいほど無能なのか?
島本の話は頭から終いまでウソなのだ。そして北川はそのウソをまことしやかに読者に伝えている。 |
(以下その⑤へ) | |