(2012.8.19)
No.047
広島2人デモ

その④ 大飯原発再稼働、政府・関電のウソと
朝日新聞の拡声器ぶり

「原発がないのは誇るべき現実」という思想

 大飯原発再稼働のロードマップ

 朝日新聞を通してみていくと、大飯原発再稼働へのシナリオは、ほぼ2012年3月までに立案され、4月になって、つまり原子力規制委員会が予定された4月に成立しない、言い換えれば原子力規制行政の空白を利用して、内閣が「再稼働の安全判断」を行う、という一種の政治的奇術を行うことで実施に向けてのスタートが切られる。そして、「暫定基準」の設定を経て、4月13日(金)の夜、この暫定基準に基づいて、時の内閣が「原発再稼働」に向けての「安全宣言」を行う、という離れ業を演じる。時の内閣が「大飯原発再稼働が安全であるかどうかは判断できません。しかし政治判断で再稼働いたします。」ということは許されるかも知れない。しかし「原発再稼働は安全だ」と判断することはできない。どこを押しても日本の法体系はそんな権限を内閣に与えていない。良く言って超法規的措置、有り体に言って違法行為だ。

 しかし当時世論は「内閣の違法行為」だという具合にはならなかった。「暫定基準はまやかしだ。たった2日でできるわけがない」と暫定基準の妥当性の問題に景気よく話をそらせていった。その旗振り役を務めたのが、大阪市長・橋下徹であり、その拡声器役を務めたのが朝日新聞をはじめとする主要マスコミだった。

もう一度ここで繰り返すのが、4月7日付け朝日新聞に掲載された「大飯原発再稼働へ向けてのロードマップ」である。この時点では、すでに暫定基準ができあがっていた。



 ①のステップは前述のように、4月13日(金)の夜に実施された。次はステップ②である。これは翌日14日、土曜日にも経産相枝野幸男が福井市を訪ねて実施される。

 それを伝えるのが朝日新聞大阪本社版(14版)の一面トップ『大飯再稼働 国が協力要請』の4段見出し記事である。この記事によると、枝野は福井県知事西川一誠と福井県庁で会談、再稼働に「理解を求めた。」理解を求めるも何も西川は「原発推進派」だから、待ってましたとばかりに、県の安全審査手続きに入ると回答する。ロードマップで言えば③のステップに入ることを意味する。さらに枝野はおおい町長・時岡忍と県庁で会談する。時岡は県庁で待機していたのだろう。これは④から⑤のステップが始まることを意味する。

 西川も時岡も異口同音に枝野に対して要求したのは、「関西圏の同意」である。関西圏の同意を取り付けるのは政府の仕事だ、という。枝野はこれに対して「再稼働に慎重な滋賀県と京都府にも理解を求めていく考えだ。」とこの記事は書いている。(なお、このトップ記事は無署名である)

 
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「反原発」と「脱原発」の違い

 傑作なのはこの記事で、『「脱原発依存」を唱える枝野氏が西川知事の前で後退したのは、再稼働への理解を得るため、原発の必要性を強調したものとみられる。』と書いていることだ。「後退」というのは、もともと脱原発の枝野が、原発の必要性を強調したことを指すのだろうが、これは後退でも何でもない。「脱原発」、「卒原発」、「さよなら原発」はもともとそういう主張である。つまり現在ただ今は原発は必要だが、将来はなくしていく、という主張だ。だから現在ただ今必要性を強調する枝野が「脱原発」から後退したわけではない。

 「脱原発」、「卒原発」、「さよなら原発」と「反原発」とを区別するのはただ1点である。すなわち「現在ただ今原発を全て止め、原発はただちに廃炉」という点である。この1点を認めれば「反原発」だ。「脱原発」、「卒原発」、「さよなら原発」はいつまでも的を射抜かぬ「ヘラクレスの矢」なのである。

 4月15日の朝日は、この1面トップに関連して2本の関連記事を掲載している。1本は2面に掲載した『再稼働に突き進む』と題した記事である。リード記事は次のように書く。『・・・東京電力福島第一原発事故から1年余り。水面下では再稼働への道のりを敷いてきたのは、政権と地元の2人のキーマンだ。』この2人のキーマンとは民主党政調会長代行の仙石由人と福井県知事・西川一誠のことである。

 記事の中身は愚にもつかぬたわごとだ。仙石は大飯原発の再稼働をめぐる関係閣僚会合にオブザーバーとして毎回出席しているだの、民主党内を根回しして再稼働へ向けてハッパをかけているだの、といった内容だ。仙石がこの通りの動きをしていることは間違いないにしても、大飯原発再稼働はこうした丁稚みたいな人物の動きによって実現しているわけではない。
 
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 チェルノブイリ事故のあと、無事だった1号機、2号機、3号機を再稼働させたように、そしてウクライナ政府に原発からの撤退をさせなかったように、もっと国際的な大きな力が働いている。その国際的な大きな動き、仮にここでは国際核利益共同体とでも呼んでおくが、その核利益共同体から見れば、野田政権そのものが手駒の一つみたいなものだ。仙石や西川をキーマンだと持ち上げることによって、「大飯原発再稼働」の国際的に大きな意味を矮小化する効果をこの記事は持っている。

「生活のためにはやむを得ない」という視点

 それよりさらに本質的な問題を孕んでいるのが、33面(社会面)に掲載された『再稼働 生活と安心と』と4段見出しが打たれた記事だ。この記事では大飯原発の地元、おおい町とおおい町に隣接する、というよりもおおい町より大飯原発に近い小浜市の地元の人たちの反応を対比させている記事だ。(この記事も無署名である) 

「おおい町」を扱った部分では、

 『  ・・・大飯原発のあるおおい町の大島半島の民宿で、おかみの女性(59)は祈るような口調で話した。「一刻も早く再稼働して欲しい」

半島には約50件の宿泊所は軒を連ねる。客のほとんどが大飯原発関連の作業員だ。だが昨年12月16日を最後に発電を止め・・・5月以降の予約はない。』

 そして町の人たちがいかに原発再稼働を待ち望んでいるかを描写している。

 
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 『 町の今年度当初予算の歳入のうち、6割が関電からの固定資産税などの原発関連だ。町商工会の木村喜丈会長(64)は「この町は原発なしに成り立たない」という。

大島半島に住む下西きよ子さん(76)は「原発ができて、この地区は成長してきた。なくなれば干上がる。地震や津波が心配と言うが、その前に私たちが飢え死にしてしまう。」と話す。』
と、「おおい町」の表情を結んでいる。

 一方小浜市を扱った部分では、

 『 ・・・主婦の荒井紘乃さん(26)にとっても、原発のある風景は当たり前だった。だが福島の事故で、生後5ヶ月の長女を抱える荒木さんの考えは変わった。「再稼働に安全を期するまで待って欲しい」と訴える。

小浜市は原発再稼働について事前に協議ができる内容の安全協定を関電に申し入れているが、実現していない。』

 もちろんおおい町や小浜市の町民や市民の全員がここで紹介されている意見と同じとは思わない。しかしおおい町については町を挙げて再稼働に賛成の雰囲気を伝えている。小浜市については、よく読むと必ずしも再稼働に反対という雰囲気ではない。安全に稼働できる条件ができるまで、待って欲しいという雰囲気だ。それはこの記事につけられた『万全期すまで待って』という見出しによく現れている。朝日がこの記事で読者に刷り込みたかったことは、大飯現地では「必ずしも反対ではない」、それどころか「おおい町では町を挙げて大歓迎だ」という雰囲気だろう。それはこの記事全体の見出し『再稼働 生活と安心と』という見出しにもよく現れているし、何よりおおい町の最後のコメント、「地震や津波が心配と言うが、その前に飢え死にしてしまう」によく現れている。

(中国電力は山口県上関町の長島の西端に原発建設を計画している。計画は3.11で中断しているが長島とすぐ真向いの祝島の市民たちはこれに激しく反対運動を展開してきた。
写真は山口県上関町の入口に設置している看板。上関町の原発賛成グループが設置したもの。「原電」とは耳慣れない言葉だが誘致賛成の人たちは「原発」とは言わずこう呼ぶらしい。ここでもご多聞に漏れず中国電力による札束攻勢と住民分断作戦が続いている。2012年5月に撮影。金属の立派な看板だ。)


(同じく上関町の立派な保養施設。3か年事業で交付金から約9億円がこの施設だけに費やされた。下は建物に埋め込まれている特別交付事業であることを示す表示)


(All photo by Sarah Amino)

 (少なくとも小浜市は、地元として「再稼働」を待ってくれ、という雰囲気ではなかったことは、確かだ。というのは、小浜市議会は6月9日に「原子力発電からの脱却を求める意見書」決議をあげているからだ。中身を読むとただちに反原発、というわけではないが、原発に対する嫌悪感、不安がよく表現されている。http://d.hatena.ne.jp/san10moon12sun/20110708/1310095485を参照のこと。朝日新聞は小浜市のこの雰囲気を全く伝えていない。)

 朝日新聞の記事は、「原発再稼働」を待ち望む多くのおおい町民を、どちらかといえば肯定的に描いている。それは「生活のためにはやむを得ない」という視点である。だが本当にそうか?本当にその視点でいいのか?

「原発拒み続け和歌山の記録」


photo by Sarah Amino

 今年5月11日、札幌の寿郎社という小さな出版社から、『原発を拒み続けた和歌山の記録』という本が出た。内容はなぜ和歌山に原発が1基もないのか、それには原発を作りたい関電や政府の圧力を粘り強くはねのけた和歌山県民の闘いがあり、それに勝利したからだ、という記録本である。

 「原発が恐い女たちの会」というブログから引用する。(やや長くなるかも知れない)

 『  和歌山そして紀伊半島には1基の原発もありません。

 福島第一原発事故によって放射能の恐怖におびえ、ふるさとを奪われた人々をみるにつけ、(申し訳ないが)原発のないことは私たち地域住民にとって僥倖である、と誰しも思います。沖縄の次に原発から遠い県、それが和歌山なのですから。

 原発がないこと、これは誇るべき現実であり、(近畿の僻地である)立地条件からみてもほとんど奇跡といってよいでしょう。しかしそれは偶然などではなく闘い取られたもの、ということを本書によって痛感させられます。

 1960年代から、日高町阿尾、同小浦、日置川町、那智勝浦町、古座町、が建設候補地にあげられ、国や県に後押しされた関西電力による執拗な推進策に町政住民組織が狙われ、すんでのところで地元でもGO・・・ということも度々。
 フクシマはおろか、スリーマイル島もチェルノブィリ事故もまだなかったころ、「原発は安全、国民に貢献」が何の疑いもなしに広く受けとめられていたころ、ほとんど直感的に原発の危険性を見抜いた住民がいたこと。「お上」にたてついて、関電の執拗な攻撃に闘い挑んだ女たち、男たちがいたこと。近所同士でいがみあわねばならない苦しい闘い、薄氷を踏む攻防をしながら、人々は鍛え上げられ英知を結集させ、持続してきたのです。

 電力需要の調整、自然エネルギーの開発、原子力発電コストの再計算、電気料金の総括原価方式の見直し、これは福島原発事故を受けて打ち出された日本政府の政策ではない、のくだり(p.146)は膝を打つところです。今から30年も前に、和歌山の住民が主張していたのです(宇治田理論)。そのほか、早くから原発の誤りを指摘して手弁当で住民の運動を支援する人たちもいました。

 あとがきに「和歌山県に原発計画があったんですか?」多くの人から聞く言葉だ、とあります。そして原発の歴史を記録しておくことを決意させる出来事が、2011年3月11日の福島原発事故だったのです。

 「紀伊半島にはなぜ原発がないのか?」――和歌山で原発を拒み続けた人々の運動の具体的な事実と経験を知ることによって、あとに続くものとしてまちがいなく勇気づけられます。たとえこの記録が「和歌山県の原発の歴史のごく一部に過ぎない」であったとしても。

 原発を拒み続けてくださったみなさん、ありがとう。』
(<(http://blog.zaq.ne.jp/g-kowai-wakayama/daily/201205/19)>)

 『原発がないことは、誇るべき現実だ』― これが、今私たちが持つべき視点ではないか?
 
(「原発を拒み続けた和歌山の記録」P209)

 世界的に貧困につけ込む原発産業(核利益共同体)

 日本全国の原子力発電所の数の恐らく数倍ほどの「誇るべき現実」がある。原発を拒否してきた日本の市民の歴史がある。多くの地域は原発を拒否したという「誇るべき歴史」を持っている。その意味では、政府や電力会社の利益誘導と住民分断作戦に敗北した地域が原発を受け入れたのだとも言える。

 原発は、過疎地域や低経済開発地域を選んで立地された。よく知られた事実である。これは何も日本だけの現象ではない。国際的に共通した現象だ。これもよく知られた事実である。失業率の高い地域、貧困な地域、これといって産業のない平均収入の低い地域を狙って原発を立地してきた。

 さしずめ私は、欧州放射線リスク委員会(ECRR)2010年勧告第4章「放射線リスクと倫理」から引用しておこう。国際的な原発推進勢力の「功利主義」、「費用―便益主義」(コスト―ベネフィット論)を厳しく批判し、結局社会的弱者に高いコスト(健康リスク)を押しつけている、と原発産業の不道徳性、倫理意識、人権意識の欠如を激しく糾弾した章である。

 『 誰であっても、これを(アメリカにおいて有害廃棄物処理施設などの商業的危険施設の4つのうち3つがアフリカ系アメリカ人の居住区にあったことを指している。)、すべての原子力発電所が失業率の高い地域に立地されている英国における状況と容易に対比させることができる。引き合いに出されたその立地の理由は、技術革新の恩恵を(そうした高失業地域に向けて)広める試み、ということであった。しかしセラフィールド(イギリス・ウェールズ地方の核施設。1957年に大規模な核事故を起こして周辺及び対岸のアイルランドに深刻な健康被害を及ぼした。この事実が判明するのに30年間の歳月を要した。)の白血病発生群によって証明されるように、その費用(ここでは健康リスクのこと)はこれらの人々に不当にも負わせられてきていることは容易に見て取れる。この政策はそれ以来、企業家を引きつけるために、高失業率地域を区画規制し、そこでの環境保護基準をより低くすることを許容する計画指針を作ることで、(低失業地域や低開発地域を振興するという意味で)神聖化すらされてきている。』(日本語テキストp27)

 これは朝日新聞の描写する「おおい町」の姿と完全にダブって見える。

 フランスの言語圏と原発所在地

 今や世界最大の「原発大国」の一つ、ある意味ではアメリカを凌ぐ原発大国、フランスではこうした「あからさまな利益誘導」に加えて、フランス国家主義の圧力が原発立地政策に加わっている。

 田中克彦という言語学者は『ことばと国家』(岩波新書 1981年11月 第1刷)の中で次のように書いている。(若干引用が長くなるかも知れない)

 『 国家と言語のふかい結びつき、そこから国語―より厳密な言い方をすれば国家語―の概念が出現することになるのだが、この両者の関係をはっきりと法律で規定した最初の例はフランスであった。・・・フランスは、フランス語の特権的地位を明らかにしたのみならず、他の言語のいっさいの使用を排除することを目的としていたのである。』
(同書p79)

 ローマ時代大ざっぱに「ガリア」と呼ばれ、歴史的に色々な民族が交錯してきた現在のフランス本土で、フランス語だけが話されているわけではない。フランスの、

 『 西端にはブルトン語が、スペインとの国境地帯にはバスク語とカタロニア語が、アル
ザスとロレーヌ(ドイツ語ではエルザスとロートリンゲン)ではドイツ語に似たこと
ばが、また全土の三分の一にあたる南部には、プロバンス語を含むオック諸語が話さ
れている。島であるため見落とされやすいが、コルシカの言語も忘れてはならない。
これらの言語を母語(母の話す言葉という意味で田中克彦は母国語と明確な一線を引いて使い分けている)にするものはフランス国民のほぼ四分の一に達するものと推定される。』(同p79-p81)

 p80には「フランスにおける言語分布」という図が掲載されているが、下の図はそれをトレースしたものである。



 フランス国家は長い間(現在もそうだが)、こうした非フランス語言語をジャルゴン(言語としては未完成の卑俗な言葉)として正式に独立した言語として扱ってこなかった。当然こうした地域はまた、フランスでは低経済開発地域であり、高失業率地域でもある。

 『 「フランスの少数民族」と、彼らの住む「ヨーロッパ内植民地」に注意を注ぐようになったのは、ごく最近のことである。それはなぜ植民地と呼ばれるのか。フランス政府は、たとえば危険の伴う原子力発電所を、これら非フランス語の話し手の住む辺境地帯に建設することによって反対運動をかわそうとしてきたからであった。つまり原発建設は、これら非フランス語の母語の話し手たちへの差別を一挙にあらわにするきっかけを作ってしまった。』(同p82)

 原子力百科事典「ATOMICA」に「フランスの原子力発電分布地図」があるが、これを「フランスにおける言語分布」に重ねて得られたのが、下図「フランスにおける言語分布と原発所在地」である。



 フランス語圏にも確かに原発は存在するが、これは恐らくロワール川沿岸に原発を建設する必要があったからだと思われる。主要な原発は「オック語圏」やアルザス語、プロバンス語、フラマン語、ブルトン語あるいは旧ブルトン語圏に集中している様子がよく見てとれる。カタロニア語圏やバスク語圏に原発がないのは、山の中でありまた近くに大きな川がなかったせいだと思われる。決してそのままではないが、田中克彦の指摘に良く当てはまっている。

 原発立地は、その意味ではあらゆる差別の象徴とも言える。こうしてみていくと、先に紹介した和歌山県民の反原発の闘いがいかに偉大だったがわかるだろう。彼らは単に原発を拒否したのではなく、そこに塗り込められた「差別」そのものと闘い、これを敢然と拒否したのだ。まさに「原発のないことは誇るべき現実」なのである。

 またこうしてみていくと、朝日新聞の描写する「おおい町」が、いかにこうした「差別の受け入れ」を、生活のためと称して「是」とするものであるかがわかるであろう。(私はおおい町民全部が、ここに描写されている通りだとは思わない)「生活のため」に原発を受け入れることは「恥ずべき」である―こうした考え方が一般的にならない限り、日本から、世界から原発はなくならないであろう。少なくとも朝日新聞のこの記事は、「原発のないことは誇るべき現実」と高らかに宣言する和歌山県民の思想と真っ向から対立しているとはいえよう。

 世論調査という名の世論誘導

 さて4月15日(日曜日)、朝日新聞はまた性懲りもなく「橋下持ち上げ記事」を書いている。32面(社会面)に掲載された『橋下維新 民主と対決へ』と題する記事だ。中身は、『橋下徹大阪市長は率いる大阪維新の会は14日の緊急幹部会で、国政進出に際し民主党政権と全面対決する方針を固めた。』と書き出している。ほほう、どう全面対決するのかと読んでみると、中身は「再稼働は妥当と判断したことを激しく批判」し、「民主党政権を倒すべきだ」と発言した、というだけのことである。(署名は池尻和生、坪倉由佳子の連名)

 翌4月16日(月)の朝日新聞朝刊(大阪本社版14版)は、1面トップで『大飯再稼働判断「反対」55%』に見出しのもとに、自社世論調査の結果を伝えている。(無署名)リード記事は、

 『 朝日新聞社が14、15日に実施した全国定例世論調査(電話)によると、定期検査で停止中の関西電力大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の再稼働を野田政権が妥当としたことについて、賛成は28%に止まり反対は55%にのぼった。』

と書いている。
 
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 一見朝日新聞の世論調査で、国民の大多数が反対していることをアピールする記事かのように見せている。しかし、大手新聞社やNHK、共同通信の実施する世論調査で世論誘導の意図をもっていない調査はないという鉄則をこの世論調査に当てはめてみると、設問に少なくとも2つ世論操作の意図をもったものが含まれていることに気づく。

 一つは「野田政権が再稼働を妥当と判断した」ことについて賛成か、反対かという設問である。これまでその②やその③で見てきたように、野田内閣には政治判断で再稼働を決断する権能をもっている。しかし、野田内閣は独立した原子力規制組織ではないので、再稼働が安全であるかないかを判断する権能はない。しかるべき機関が判断した結果を実施に移すだけだ。従って野田内閣としては「大飯原発再稼働が安全かどうかは判断できないが、政治決断として再稼働を妥当だとする」ということはできる。しかし「大飯原発再稼働は安全だ」という事はできない。これは、その②やその③で見たように原子力規制官庁の機能不全や空白を利用した、一種の政治的奇術だった。

 この設問は、「野田内閣の関係閣僚会議が大飯原発の安全性を妥当と判断した」ことについて賛成か、反対かという設問にしてみれば、世論調査の結果は恐らく90%以上「反対」だったろう。一方「再稼働という政治判断は妥当だったか」という設問にしてみれば、反対の答えは55%程度だったかもしれない。要するにこの設問は、野田内閣が「安全性」について判断したことの違法性を覆い隠すことによって、野田政権の「政治的奇術」を免罪してやったようなものだ。

 前回でも見たように、野田内閣には原発再稼働を安全かどうか判断する権能はない。この問題を「暫定基準の不信性」に景気よく逸らせていったのが、大阪市長の橋下であり、朝日新聞だった。果たしてこの世論調査では『暫定的な安全基準について「信頼する」は17%で、「信頼しない」は70%。』だった。冷静に考えれば、もともと安全性について判断する権能のない内閣がどんな基準を決めようが、そんなものは信頼する、しないの話ではなく、問題にすらならない。

 「国民」が当事者から除外される調査

 もうひとつ世論操作の意図をもった設問で、こちらの方がさらに重要な操作意図をもったものが、原発を再稼働する場合「地元の市町村や県の同意が必要か、それとも政府が判断すればよいか」という設問である。

 この設問で特徴的なことは、同意の必要な対象に「国民全体」が入っていないことだ。かくいう私もその1人だが、そして今首相官邸前に集まる夥しい数の首都圏の諸君も大飯原発再稼働を人ごととは考えていなかった。それはそうだろう、日本の将来、ということは私たちの未来を左右する福島電発事故が目の前で発生し、まだ放射能は止まっていない。この現実を目の前にして、もうひとつ原発が再稼働するというのだ、いい加減にしてくれ、君たちは気が違ったのか、といいたいのが多くの人々のホンネではなかったか?問題は近畿圏だけの問題ではない。いまや国民全体が当事者なのだ。なのにこの質問は同意を得る対象を地元の市町村や県に限定している。国民全体が慎重に排除されている。朝日は国民全体の同意は求めたくないのだな、と私が感じる理由である。国民全体の同意は必要ないと考えるのは、野田政権も同様である。何度も引用する4月7日づけ朝刊に掲載された、「大飯原発再稼働へのロードマップ」をもう一度見てみよう。



 このロードマップは3月までに野田政権によって立案されたシナリオなのだが、このシナリオには「国民全体の同意」などいうステップは入っていない。野田政権の朝日新聞も、「国民全体の同意」が必要だとはさらさら考えていなかった。(これが大誤算であることが、今や私には明白なのだが、野田政権も朝日新聞もまだわかっていないようだ。朝日新聞は7月下旬大飯原発の2つの原子炉がフル稼働したあとは、一丁あがりとばかりに大飯原発に触れた記事はほとんど姿を消す。政局がらみのき記事の場合も、大飯原発は出てこない。野田政権にとっても、関西広域連合にとっても、そして朝日新聞にとっても「大飯原発再稼働問題」はすでに過去の問題なのだ。)

 つまり、朝日新聞の世論調査は、野田政権のシナリオに沿った設問票だということが了解されるだろう。この設問に対する回答は88%までが、「地元の了解が必要」と答えているが、それは他に選択肢がなかったのでそう回答したにすぎない。要するに世論誘導の意図をもったこの設問に多くの人がひっかかったのである。「地元」をロードマップの「⑦ 滋賀・大阪・京都に理解を求める」という意味に限定するならば、もともと野田政権のロードマップには織り込み済みである。そしてこの地元を「関西広域連合」という狭い意味に解釈すれば(実際野田政権も関西広域連合も、そして朝日新聞もそう解釈するのだが)、その同意が取れることはすでにこの時点で織り込み済みであった。

 「地元の同意」とは「関西広域連合の同意」と同義、とみなして事態はどんどん進んでいく。後は橋下徹の「降参宣言」を待つばかり、という仕掛けである。

 枝野が「一瞬ゼロ」で示した自信

 世論調査に名を借りた世論誘導記事にこれ以上深入りする必要はないだろう。この日4月16日の2面には1面トップ記事の関連記事として、『経済界必至の攻勢』の4段見出しで、経済界の再稼働をめぐる雰囲気を伝えている。

 『経済界が再稼働を熱望するのは、電気料金が値上がりし、経営を圧迫するからだ。・・・関西電力についても枝野経産相は14日、「原発停止が長引けば、電気料金の値上げは避けられない」と明言した。』と書いているように、中身は経済界の悲鳴に名を借りた、「原発が稼働しなければ電気料金の値上げになる」という一種の脅し記事である。(またこれは「電力不足」同様真実ではない)(なおこの記事も無署名である)
 
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 また16日の朝日は、1面に例の有名な枝野幸男の「原発、一瞬ゼロ」発言を論評、批判抜きに伝えている。(この記事は中川竜児・神谷毅の連名署名)

 『 枝野幸男経済産業相は、15日徳島市内で講演し、国内で唯一稼働している北海道電力泊原発3号機が5月5日定期検査で運転を止めると「5月6日から(国内で稼働する原発は)一瞬ゼロになる」と述べた。関西電力大飯原発3、4号機の再稼働が5月6日以降にずれ込むと見ているためだ。野田政権が、国内で運転中の原発がゼロになるという見通しを示したのははじめて。』
 
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 とこの記事はトンチンカンなことを書いている。4月15日の時点で5月5日までに大飯原発が再稼働する見込みはない。再稼働までには政府が示したロードマップでクリアしなければならないステップがいくつも残っている。「5月6日以降にずれ込む」のは一つの見方ではなく、避けがたい現実だ。従って「原発がゼロになる」のは見通しでも何でもない。避けがたい現実を指摘したに過ぎない。それよりも枝野の発言が重大なのは、北電泊原発の停止から「一瞬」と表現できるほどの時間差で、「大飯原発再稼働」ができると枝野が見ているという点だ。つまりこの時点で枝野は「一瞬」と表現できるほど短時間で大飯原発再稼働ができると考えていることになる。

 一体この見通しはどこから生まれたものだろうか?4月の時点では、「反原発の闘士」橋下徹は、すなわち関西広域連合は完全に、「反再稼働」のポーズを崩しておらず、対決姿勢丸出しだった。ちょっと注意深い観察者には、橋下の真意は「再稼働反対」にはなく、「再稼働反対をダシに、国民的人気をさらい、来るべき国政選挙で維新の会の大躍進を狙ったもの」という状況が見えていた。しかし、多くは関西広域連合はなかなか手強いだろうと見ていた。にも関わらず「一瞬」と表現する枝野の自信はどこからきていたのか?

 唯一合理的な説明は、すでに「再稼働までのシナリオができていた」というものだろう。枝野は徳島で所属派の議員の面々を前にその自信を示したにすぎない。

 毎日新聞も次のように書いている。『政府は15日、国内の原発54基の一時的な全面停止を容認する方針を固めた。枝野幸男経済産業相が15日、徳島市内で講演し「(原発は)5月6日から一瞬ゼロになる」と明言した。』(<http://1topi.jp/1/mainichi.jp/select/news/20120416k0000m020031000c.html>)

 こういう記事をみていると、野田内閣や枝野、あるいは朝日新聞、毎日新聞の編集幹部や現場の記者と私たちの一般市民の間に越えがたい認識の溝が存在していると思わざるを得ない。

 繰り返すようだが、4月15日の時点で、5月5日までに(後20日しかない)、大飯原発を再稼働する見込みはない。これは避けがたい現実だ。決して野田政権が「見通しを示した」だの「一時的な全面停止を容認した」と表現されるべき事象ではない。にも関わらず朝日は「見通し」と書き、毎日は「容認」と書いている。私は朝日や毎日が「野田政権」の目線に立って記事を書いていると、思わざるを得ない。

 「枝野の自信」から論点そらし

 枝野は大飯原発再稼働について、「一瞬」と表現できるほどの自信を示した、と書いた。朝日も先の記事を掲載した後で、ことの政治的重大さに気がついたと見える。問題の本質は、枝野が「一瞬」と表現するほどに再稼働に対して自信を示した、点にある。

 翌日17日の朝日新聞は、5面(大阪本社版10版)ですぐこの点(つまり自信を示したこと)の打ち消しに走った。それが主見出し『「一瞬ゼロ」発言に波紋』、副見出し『大飯原発の再稼働「すぐ」と裏読み』の記事である。(この記事は無署名)

 リード記事は次のように書く。

 『 国内で動く原発は「一瞬ゼロになる」という枝野幸男経済産業相の発言が波紋を呼んでいる。(当たり前だ。これほどの自信の根拠は何か?この発言の重大さに気付かぬ前日記事は大ボンクラである。失礼、先を続ける。)大飯原発3、4号機の再稼働はこれから地元が判断するのに(白々しい)、再稼働が決まったように言ってしまったからだ。(実はそうではないこの発言の重大さは枝野の自信の根拠にある)
   
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 次の『枝野氏に批判集中』の見だして書かれている内容は、「枝野の失言」にしてしまうことを眼目にしている。そして枝野の発言はこれまでも大揺れに揺れてきた、と枝野の発言の定見のなさに問題をすり替えていく。ご丁寧にこの記事の横に『枝野幸男経産相の発言は揺れる』と題した一覧表をつけている。簡単に見ておこう。

 「1月15日 大臣の立場を離れれば、原発再稼働慎重の心情に限りなく近い」
 「1月26日 原発なしで夏は乗り切れる可能性がある」
 「3月8日 安定供給よりも安全性が優先」
 「4月2日 安全性について精査している段階。得心していない。現段階では反対」
 「4月3日 安全性について精査中で、賛成という段階ではない」
 「4月6日 電力に余裕があれば、電力需給逼迫の観点からの必要性はない」
 「4月13日 将来の原発依存度ゼロ目標は内閣の方針だ」
 「4月14日 日本経済の現状を考えると原発は重要な電源だ」
 「4月15日 原発が、5月6日から一瞬ゼロになる」

 これがどうして枝野の発言が揺れている根拠になるのか理解に苦しむ。枝野は一貫して個人としては原発に嫌悪感をもっている、しかし経産相としてはそうはいかない。将来はゼロにすべきだが、現在ただ今は必要だ。(これが脱原発論である)再稼働については4月初旬の時点では、安全性、需給関係の両面からただちに賛成とはいかない。しかしこの表には出てこないが、4月13日夜の閣僚会合ですでに「安全宣言」を出している。つまり精査したが安全だと判断したわけだ。これもそれまでの発言と矛盾するものではない。「一瞬ゼロ」発言も前に見たように、枝野の見方を示したものではなく、避けがたい現実を指摘したものに過ぎない。

 つまり朝日は「揺れる枝野発言」を印象づけることによって、問題の本質である「枝野の自信」から、「枝野の失言、信頼の置けない枝野発言」に逸らせようと必死なのだ。

 この記事全体で興味深いのは『大飯原発の再稼働「すぐ」と裏読み』の見出しである。普通新聞の見出しをつける時、記事中の重要なキーワードやキーフレーズを拾って見出しに立てるものである。でなければ、ちょうど週刊誌やスポーツ紙のように羊頭狗肉の批判を免れないからだ。ところが、記事中に「すぐと裏読み」に相当する本文記事がないのだ。

 あえて指摘すると、関連記事の「経産相の発言に官房長官不快感」の見出しの記事中に、『藤村氏は(官房長官・藤村修)「一瞬」というと、その日にまた次が稼働するのかと受け止められない』と述べ』とあるぐらいだろう。

 つまりこの見出しは、全体ができあがった後で、誰かもののわかった編集幹部が後付でつけたものだ。それは「一瞬ゼロ」は、「枝野の自信を示したものではない。それは裏読みに過ぎますよ」というメッセージを表現したものに他ならない。

 「枝野自信発言」打ち消しに走る社説

 これでは足りないと見たのか、17日付け紙面では『原発政策 首相は方向性示せ』のタイトルで社説を掲載している。内容は、

1. 政府の原発政策に対する国民の信頼感が低下している。(3.11以降ずっと低下している)
2. これは「脱原発依存」への中長期的方向性を示さないからだ。
(そうではない。フクシマ事故が解決の目処も立たないうちに次の原発を動かそうとしているからだ。危険極まりない綱渡りをしようとしているからだ)
3. 中長期方針を示さないまま夏場の対策として大飯原発を動かす必要性を説く。これでは国民の理解を得られるはずがない。(中長期方針があろうがなかろうか、今原発を動かすべきではない)
4. 原発・エネルギー政策の改革は、国民が大きな方向感を共有しながら冷静に議論し、長期的に取り組まないと実現しない。
 
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 要するに、野田政権が原発・エネルギー政策の中長期的方針を示さないから、国民の信頼を得られていない、という論旨である、逆に言えば、中長期方針を示せば、大飯原発再稼働に理解を得られるという論旨でもある。しかし、大飯原発再稼働反対は、一言で云えばフクシマ事故がメドもついていないのに、次の危険因子のタネをまくな、そんな危ないことはするな、というものだ。中長期方針があろうがなかろうが、取りあえず別問題だ。

 この社説の眼目も、野田政権の中長期方針(今すぐそんな方針ができるはずがない)にはない。言いたいことは、次の一言である。『担当大臣である枝野経済産業相の発言が、ぶれているとの批判も強まっている。』

 枝野は「次の再稼働対する自信を示したのでない。単にぶれているだけだ」と打ち消すのがこの社説の狙いである。

 電気料金値上げ批判記事?

 さてしつこようであるが、もう一度「再稼働ロードマップ」を見ていただこう。



 これまで見たように、福井県やおおい町で再稼働反対が打ち出されるわけはない。従ってロードマップとは言いながら②から⑥及び⑧はいわば儀式である。

 本当に取り組みの対象とするのは⑦である。しかも単に関西広域連合と称する「首長会議」では不十分である。そこに住んでいる住民を納得させなければならない。(野田政権が国民全体を納得させなければ、再稼働は順調に運ばない、と考えた形跡はこの時までも、その後もない。ことの重大さに気がつくのは再稼働を決めた6月中旬以降のことである。これが私には本当に不思議である。理解がつかない。)

 関西圏の住民を納得させるツールはすでに決まっていた。「電力不足=計画停電」と「電気料金値上げ」の2つの脅迫である。

 4月18日(水曜日)の朝日3面(大阪本社版10版)は、いわば「電気料金値上げ」を原発再稼働への脅迫材料として使う電力会社への「反論・批判記事」の外観を呈している。この記事は『電力値上げ 説得力は?』と題する記事。(署名は中川透、神谷毅の連名)

 原発なしでは火力発電に依存せざるを得ない、発電用の原油などでは電力会社9社の燃料費は年間に約3兆円上がる、と経産省の試算を紹介しつつ、このままだと電力会社は料金値上げをせざるを得ない、関電社長で電気事業連合会の会長八木誠は、『この日(4月13日)、「経営効率化をしているが再稼働できないと大変厳しい」と値上げをの可能性を示唆した。』とこの記事は、書いた上で『しかし、本当だろうか?』と続ける。
 
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 しかしその中身は、「電力会社の社員の給与は高い」と「電力会社には利益の積立金がある」、これを吐き出さないうちは電気料金の値上げを認められない、というものだ。

 燃料費高騰による経営圧迫の話と「利益の内部留保」や「社員の平均給与が高い」問題、いいかえれば経営合理化の話とは本来別物だ。この論旨に従うと、「社員の平均給与が世間並みになって、利益積立金を吐き出してしまえば、電気料金値上げはやむをえない」という結論になってしまう。

 「原発なしでは火力発電に依存せざるを得ない、そのために燃料費が高騰している。従って料金値上げを」というシナリオそのものに斬り込まなければ全く「説得力がない。」

 高コスト体質の関電火力

 発電用原油や重油は日本の環境基準によって低含有硫黄ものと決まっている。ということはあまり選択の余地(油種数)がない。全原発停止で、ただでさえつけ込まれて値段をつりあげられやすいところへ、電力会社と原油や重油を納入する商社や石油会社を限定している。つまり電力会社は高い原油や重油を購入していることになる。

 次の問題は、1kWhあたりの火力発電の燃料別コストである。一般に次のように言われている。(というのは私自身確認したわけではないからだ。)

石油火力 3.8kWh/リットル 12.9円/kWh(発電効率38%の時)
ガス火力 5.6kWh/m3 5.9円/kWh(発電効率43%の時)
石炭火力 3.0kWh/kg 2.6円/kWh(発電効率41%の時)
(因みに原発の発電効率は33%、つまり発熱の2/3は捨てられている)

 つまり原油や重油を燃料とする火力発電所は高コストなのだ。以下の表は関電火力発電所の燃料源表である。


 一瞥して了解されることは、高コストの石油系燃料、すなわち原油や重油を燃料とする古いタイプの火力発電所が多い、ということだ。関電は原発依存型で火力発電を低コスト化する努力を怠ってきた、ということでもある。

 今火力発電の主要な燃料源は、LNGなどのガス燃料、それからさらに低コストのシェールガスに向かっている。関電は火力発電についても高コスト体質(その体質には、少なからず大手商社や石油会社との癒着構造があると考えられる)なのである。この問題に深く立ち入らない限り、関電のいう「燃料費高騰」の話は検証できない。

 従って関電批判記事と見えるこの『電力値上げ 説得力は?』と題する記事は、その実関電援護射撃記事ではないかと思うほど説得力がない。

 ウソで固めた関電島本恭次の話

 この日4月18日には6面(経済面)で明らかに関電援護射撃記事が登場する。『火力再稼働進まず』『関電慎重 費用足かせ』と題する記事だ。(署名は北川憲一)

 
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 リード記事から引用する。

 『 関西電力が長期休止している火力発電の再稼働が進まない。夏の電力不足懸念される中で注目を浴びるが関電が稼働を決めたのは休止中の5基のうち1基のみ。原発の再稼働を織り込み、コストや時間がかかる火力の再開は慎重だ。』

 一読してわかるのは、完全に関電の立場に立って書かれた記事、ということだ。従って「3.11」以降原発稼働が難しくなる情勢がわかっていたのに、なぜ再稼働を準備しなかったのかなどと言った批判の視点はない。また関電の火力発電所の高コスト体質を批判する視点もない。以下本文。

 『 関電の島本恭次・火力センター所長(島本は関電の取締役ですらない)は17日大阪府岬町役場を訪問。同町が求めていた多奈川第二発電所1、2号機の再稼働について、「中長期的な供給確保を検討する中で判断したい」とすぐに再稼働させる考えがないことを伝えた。』

 すでにこの時点では、「今夏原発なしで関電管内は電力不足」、その幅は15%、あるいは18%、19%といった数字が出され、厳しい節電を要請せざるを得ない、と言う話が出ていた頃だ。今みなさん、この記事を読んで関電の言いぐさを聞いてどのように思われるだろうか?

 『 島本所長は「設備の大幅な取り替えが必要で、再稼働には三年程度かかる」と説明。今夏に間に合わないうえ施設の復旧には約2000億円かかるという見方も示した。』

 とこの記事を書いた北川憲一は平然と言い放っている。2000億円もあれば、出力100万kW級の火力発電所が建設できる。神戸製鋼所が神戸市内にもつ石炭火力の神鋼神戸発電所は出力140万kWの日本でも最大級の石炭火力発電所で、2002年に1号機が、2004年に2号機が営業運転を開始したが、総工費は約2000億円である。(<http://www.kobelco.co.jp/column/topics-j/messages/154.html>)また2002年4月の話だが、『当事業を採算面からみると、1号機稼働中は300億円程度の売上高、2号機が運転開始となる2004年度以降は600億円程度の年間売上高を見込んでいます。売上高経常利益率も15年平均で20%以上を見込んでいます。』ということだ。(同)

 関電の話とは相当違う現実が進んでいる。それとも関電の経営陣は救いがたいほど無能なのか?

 今になってみれば関電の島本の話も嘘っぱちだとわかっている。というのは今夏、多奈川第二発電所は稼働しているからだ。8月18日、関電の「でんき予報」から「供給力に関するお知らせ」をクリックするとその日の電力供給状況がわかるが、この中で停止中の火力発電所の中に多奈川第二発電所はない。
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 (今となってはどうでもいいことだが、8月も半ばを過ぎるとやたらと「作業中」で発電停止の火力発電所が増える。そのため、火力発電の設備利用率がどんどん低下していく。関電管内ではまだ節電要請をしている。不思議な現象だ。これも経営陣が無能なせいなのか?関電サイトのトップページ、「8月18日は計画停電の実施予定はございません」のメッセージが白々しい。)
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 島本の話は頭から終いまでウソなのだ。そして北川はそのウソをまことしやかに読者に伝えている。 

(以下その⑤へ)