No.22-4 | 平成20年4月26日 |
私は前回までの手紙でおおよそ以下のことを申し上げてきたかのように思います。 |
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以上が前回までのおおよそのまとめでした。 従って、トルーマン政権中枢の「原爆は対日戦争終結のために使われた」とする大キャンペーンが大成功をおさめ、いわばこれに「世界が見事にひっかかった」ことが、今日いかに世界の市民の「核兵器廃絶」に向けた決意を鈍らせ、合意を分裂させているか、を見ていくのが、これからのテーマと言うことになります。 その前に前回の続き、確認として、この時期トルーマン政権の中枢が、いかに「原爆は対日戦争終結のために使われた。その政策決定は正しかった。」とする「原爆正当化」の世論作りに躍起になっていたかを、カール・コンプトンの論文を紹介しながら、見ておきましょう。 コンプトンの論文の表題は「もし原爆を使用しなかったら」と題するもので、アトランティック・マンスリー46年12月号に掲載されました。翌年ハーパーズ・マガジンに掲載されるスティムソン署名入り論文の露払いの役割を果たすものです。 カール・テイラー・コンプトンは、当時マサチューセッツ工科大学(MIT)の学長でもあり、また暫定委員会8人のメンバーの一人でもありました。早い時期に、「学」と「軍」の協働体制作りを手がけた人物としても、知られています。いわば当時「軍産学」協働体制の要の一人であったということができます。 弟のアーサー・コンプトンは、ノーベル賞学者でもありますが、当時シカゴ大学冶金工学研究所の所長として、「マンハッタン計画」全体の中心科学者の一人でもありました。またアーサーは暫定委員会4人の科学顧問団の一人でもありました。 カール・コンプトンの論文は原文と共に別添資料としておきましたので、お時間のある時、ゆっくりお読みください。 この論文についてここで私が申し上げたいことは、トルーマン政権中枢の意向を受けたカール・コンプトンの主張が、「原爆投下肯定論者」の論法を見事なまでに体現している、ということです。かつての「原爆投下肯定論者」は、今現在では、「核兵器保有正当化論者」「核兵器抑止論者」に衣替えし、かつ危険なことに「核兵器先制攻撃論者」となる兆しをみせていますが、こうした論者の原型が、この論文だと言うことです。 |
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たとえば、コンプトンは「私は、いろんなことを知りうる恵まれた立場にいた」として、読者に対して自分の「知見」の優位性を誇示します。たしかに秘密委員会の暫定委員会のメンバーだっただけでなく、日本の敗戦直後マッカーサーとほぼ同じ時期来日し、精力的な調査情報収集活動をして、一般では得られない知見を彼は得ています。日本の情勢についても詳しく精通していたことでしょう。 しかし本来ならこうしたすべて知見を開示して、そこから得られる自分の見識や見解を述べ、判断は読者に委ねる、というのが科学者あるいは良心的な知識人の態度でしょう。しかしこの論文でコンプトンは一貫してそのような姿勢を見せません。自分の「知見」を誇示します。目的が世論誘導・操作にあるからです。 従って時にはウソをいいます。「ウソを言うなら大きなウソを言え、その方が本当らしく見える。」と言ったのは「我が闘争」におけるヒトラーですが、コンプトンのウソはヒトラーよりも巧妙です。 「本当のことを言わない」、というウソをつくのです。これは自分が「知見」において優位に立っていてはじめて可能なことです。 たとえば暫定委員会の役割を次のように述べています。
「そのグループ」とはとりもなおさず暫定委員会のことでしょう。ここでコンプトンは、暫定委員会の役割を「原爆の実験、使用、それに関連した事柄について陸軍長官を補佐する」ことだ、といっています。暫定委員会の実態はほぼこれから50年後に明らかになるのですが、この時点では一般アメリカ市民は何も知りうる立場にありませんでした。 これを読んだ、また何も知らされていないアメリカ市民は、「暫定委員会は、対日戦争終結のため、原爆を日本に対して使用するか、しないか、またどのような形で使用するかについて、話し合ったのだ。」と思うでしょう。
暫定委員会で「日本に対する原爆の使用」を話し合ったことは事実です。この限りではコンプトンはウソをついていません。しかし暫定委員会の役割は決して対日戦争終結のために、原爆のことを話し合うことではありませでした。 |
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そもそも暫定委員会(the Interim Committee)という命名そのものが、この委員会の性格を浮き彫りにしています。これは、「あらたな発見である原子のエネルギーを取り扱うにあたって、戦争後、正式な機構ができるだろう。とりあえず戦時中の今は『暫定』としておこう」というのがその意味でした。 決して日本への原爆使用だけを話し合う委員会でもなければ、ましてや対日戦争終結を議論する委員会でもありません。 『暫定』“Interim”という言葉の中に、この委員会の役割が暗示されていたわけで、コンプトンは上記論文の中でも単に「そのグループ」というだけで、決して正式な委員会名称を、アメリカ市民の前に明らかにしませんでした。 1945年5月31日といえば、ほぼ原爆実験のめどもつき、原爆の実戦使用がそろそろ日程に上ってくる頃でした。この日開催された暫定委員会で、陸軍長官であり、また暫定委員会の委員長のスティムソンは、その日の議題のポイントを次のように要約します。
この時点では、戦後の恒久的な組織はまだ構想の段階でしたが、戦争が終わるとすぐ、米原子力委員会が組織され(46年8月)、翌年47年には、マンハッタン計画が主要な人員ごと原子力委員会に移管され、原爆の製造・蓄積から水爆の開発へと一瀉千里に走っていきます。そしてそこでつけられた予算は年額に換算して、「マンハッタン計画」時の2・5倍から3・5倍という巨額なものでした。 翌45年6月1日にも暫定委員会が開かれ、この日は、原爆開発に協力した産業人も招聘参加者として参加していましたが、この日の議題もスティムソンの冒頭発言から引用すると、
というようにこの日の重要議題の一つが、「ロシアが原爆を保有するのにどれくらいの時間がかかるか」を検討するのが大きなテーマでした。そしてロシアとの関係はどうあるべきかの議論の過程ののなかで、『日本に対する原爆の使用』問題が決定されていきます。 ですから、コンプトンが「暫定委員会で原爆のことを話し合った」といえばそれはウソではないのですが、コンプトンが「暫定委員会」について語らなかったことと合わせて考えれば、この論文でアメリカの一般市民に誤った認識を与えている、有り体に言えばヒトラーよりも巧妙に大ウソをついていることになります。 |
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この「事実に触れないでウソをいう」論法は、随所に見られます。 たとえば、原爆と「東京大空襲」を比較して原爆がより非人道的とはいえないとした部分があります。原爆と東京大空襲という全く違う「質」を比較するのもおかしなものですが、ともかく。
全然異なる『質』を単に死者という『量や数』に還元して比較するというのも科学的とはいえませんが、それより、人道性の観点から言えば、ここでコンプトンは「放射線」の影響について全く口をぬぐっています。 放射線の影響について何も知らされていなかった一般アメリカ市民ならともかく、コンプトンが原爆の破壊力の大きな一つの要素が「放射線の影響」にあることを知らなかった筈はありません。自ら優秀な物理学者であり、元アメリカ物理学会の会長でもありました。 原爆の非人道性は、その破壊の大きさにあるのではなく、破壊の『全然異なる質』にあることはコンプトン自身が一番よく知っていた筈です。しかし彼はこの点にはついては口をぬぐっています。 もうひとつだけ、この論法の典型例を上げておきましょう。 「原爆は第二次世界大戦終結のためにつかわれた。そしてその政策は正しかった」という命題を論証することを目的としたこの論文では、その白眉とも言うべきくだりです。
この『事実』を列挙したコンプトンの記述からは、巧妙に「ロシアの対日戦争参戦」の事実が省かれています。当時、「日本降伏」の決め手は、「ロシアの対日参戦」にあるとは、トルーマン政権の一致した見解でした。また「国体護持」(天皇制存続)を認めるか、認めないかが、「ソ連の対日参戦」と絡んで、日本の降伏を決定づける、という点でも認識は一致していました。 コンプトンが知らないはずがありません。日本は、ポツダムでトルーマンが自身の日記にも書いている見通しのとおり、また6月18日ホワイトハウスで開かれた「対日戦争会議」で分析したとおり、ソ連が参戦して「降伏」するのです。その降伏を促進したのが、「天皇制存続」の日米暗黙の了解でした。 原爆投下はその展開を早めただけです。 しかし、コンプトンはその肝心な要因には触れずに、強引に「原爆が戦争を終わらせた。」という結論に持って行きます。 もうこれ以上コンプトン論文に立ち入ることはやめましょう。話が前に行かなくなります。 ここでは、コンプトン論文が、従って「原爆投下肯定論者」が、従って現在衣替えをした「核兵器保有肯定論者」が、従って「核兵器抑止論者」が、いかに保有情報量の誇示を背景に、詭弁を重ねながら、みずからの立場を正当化しているかを確認すれば十分でしょう。そしてその正当化の目的は全く別なところにあることも合わせて確認しておきたいものです。 |
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話が単にコンプトン批判ならば、さほど害もないでしょう。 しかしこうした批判は、当時の同時代資料を読み込んで、比較検討し、またその後の事実経過を合わせて分析する中で生まれてくるものです。何も知らされていない、もっといえば、言論統制化でトルーマン政権に都合のいい情報が一方的に流されている中で、生活に追われる一般アメリカ市民がコンプトン論文を批判しきることはおよそ不可能でした。信じる他はなかったのです。 このコンプトン論文が出た翌年にはスティムソン論文がでます、そして引退後のトルーマン回想録が出ます。一方で冷戦という準戦時体制ができあがり、朝鮮戦争が始まります。アメリカのマスコミは「共産主義は敵、赤は追い出せ」の集団ヒステリアを演出していきます。 こうして気がついた時は、「原爆は対日戦争のために使われた」という「ウソ」が世間の常識となっていき、アメリカは「核兵器開発」のために、年間20億ドルから25億ドルの巨額の予算を計上するようになっていきます。 一方で、数々の事実を上げながら、「原爆投下は必要なかった」という学者が、研究者が現れます。アプルロヴィッツ、ダワー、バーンスタイン、ハセガワ、シャーウインといったところが代表的でしょうか? しかしこうした学者の研究も、結局「トルーマン政権は対日戦争終結のために原爆を使用した」という論点を出発点としているために、「原爆投下は必要だったか、そうでなかったか」という議論にならざるを得ません。 |
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ところが原爆肯定論者の議論の立て方は、コンプトン論文を詳細に検討すれば判明するように、「仮定に仮定を重ねた上に、そこから得られる推測を事実として扱い、そこから一定の結論を導く」という論法になっています。なぜこうした詭弁論法をとらざるをえないかというと、事実を語らないためです。
こうした議論に反論するためには、必然的に仮定に仮定を重ねなければなりません。こうした議論の行き着く先は「水掛け論」です。そして延々60年以上にもわたってこうした水掛け論が続いています。 |
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事実は単純で、ソ連の参戦とそれを補足する形で「天皇制存続」の暗黙の了解ができていた、それで対日戦争が終結した。でも原爆は投下された。 ですから、原爆投下と対日戦争終結の間には直接の因果関係はないと見るべきでしょう。しかし、やはり原爆は投下されたのです。 以前広島の無名の被爆者のおばあさんのセリフを読んだことがありました。
私には、「原爆投下不必要論者」の学者の長い論文よりも、このおばあさんの短い言葉の方がよほど真実を突いていると感じられます。 人が落とすとすれば理由があります。その理由説明が仮定に仮定を重ねる詭弁論法だとすれば、真実は語られていない、と見るべきでしょう。 今、ここでの大きな問題は、こうした詭弁論法が、「原爆投下肯定論」として、意外に世界で幅広く、また奥深い支持を得ていることです。 私はこの支持をトルーマン政権中枢から発せられた意図的な「原爆投下肯定論」と区別して「心情的原爆投下支持」と呼ぶことにしています。その支持自体は、誤った歴史認識に基づく誤りだけれども、その「心情」はよく理解できるし、あえて時には共感すら覚えるという意味を含んでいます。 アメリカの多くの市民は、今もなおこの「心情的原爆投下支持」論者であります。しかし、意図的な原爆投下肯定論者とは区別しなければなりません。 しかし、この「心情的支持」は世界中に蔓延し、今日「核兵器廃絶」へ向けての「世界の市民の決意を鈍らせ、団結を妨げています。 ですから、彼らの(あるいは私たちの中にある)心情的支持がどのようなものかは是非とも知っておかねばなりません。 |
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2005年、イギリスのBBCは、原爆投下60周年に際して、生き残った原爆投下チームの中から3人に直接インタビューをし「広島に原爆を落とした男たち」(The men who bombed Hiroshima)と題した、小さな特集を組みました。
3人の乗組員は、原爆投下機のエノラ・ゲイからセオドア・バン・カーク元大尉、同じくエノラ・ゲイのモリス・ジェプソン元少尉、それから爆発観察・計測を担当したグレート・アーチーストに乗り込んだ科学者のハロルド・アグニュー博士です。 インタビューの2005年当時、カーク元大尉が84歳、ジェプソン元少尉が83歳、アグニュー博士が85歳ですから、1945年当時は逆算してみると、それぞれ24歳、23歳、25歳だったことになります。509混成航空群・司令官のポール・W・ティベッツ大佐自身、2007年なくなった時92歳でしたから、45年当時はやっと30歳だったことになります。 みんな驚くほど若かったのです。 エノラ・ゲイの航空士だった、カーク元大尉は、完璧にうまくいった自分の任務を説明した後、次のようにいいます。
核攻撃士補( assistant weaponer)として原爆の自動爆発装置を担当していたジェプソン元少尉は次のようにいいます。
二人とも、明らかに、広島への原爆投下が戦争を終結させる、と信じていました。 |
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3人目のハロルド・アグニュー博士になると、やや違うかもしれません。というのは、アグニュー博士は1970年から1979年まで、米原子力委員会及び米国エネルギー省の管轄下にあったロス・アラモス科学研究所の第三代目の所長(the Director-1945年当時のロバート・オッペンハイマーと同じ地位)となって、一連の地下核実験を指揮し、「核兵器保有正当化論者」に成長していくからです。
また、ジョージ・ワシントン大学の、ソ連原爆開発の時のスパイ活動を研究しているサイトはアグニューのインタビュー記事をアーカイブしており、このインタビューで「1949年、ソ連が最初に核実験に成功した時、どのように思ったか」と聞かれたアグニューは「予想しており、大きな驚きはなかった。しかしわれわれはもう核兵器を独占してはいないのだとは思った。」と答えています。 1949年といえば、ヒロシマの任務を終えたアグニューが、シカゴ大学へ戻ってエンリコ・フェルミの指導の下で研究を続けていた頃ではないかと思います。
アグニュー博士は、2005年のBBCの小特集で、次のように述べます。
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この3人のインタビュー記事の後、この記事の執筆者BBCワシントン支局のマシュー・デイビス記者は、
との表題記事で、エノラ・ゲイ機長で509混成航空群の司令官だったポール・W・ティベッツJr.元准将のコメントを掲載しています。
おそらくデイビス記者は、ティベッツに直接会えずに電話でインタビューしたものと思います。このコメント記事の中で、ティベッツは次のように述べています。
これは、恐らくは、ティベッツの偽らざる気持ちであり、信念だったと思います。 2007年、ティベッツが亡くなった時、AFP通信東京は、一人のヒバクシャのコメントを次のように伝えています。
ティベッツと藤平というヒバクシャの間の隔たりは、いったいなんなのでしょうか? その間に60年以上の歳月が流れているのです。もう歴史的歳月と言っていいほどの時間です。 河野議長、その間私たちはいったい何をしてきたのでしょうか? ティベッツと藤平との間の「隔たり」は、埋められるのでしょうか?埋められるとすれば、どうやって? その隔たりが埋められるものとすれば、その時、広島の平和記念碑の犠牲者は、自分の犠牲が無駄ではなかった、として安らかに眠れることでしょう。 |
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トルーマン政権中枢は、「日本への原爆」投下の真の目的を隠して、「原爆投下は対日戦争を終結させるためだ」とまず現場に説明していたと私は想像していますが、それにしても、ティベッツは自分の行為に誇りをもっていたことは疑いようがありません。 この一連の記事で、エノラ・ゲイの3人の乗組員は、「われわれには全く後悔がない。」と題する共同声明を発表しています。
この共同声明は、この手紙のはじめに見たコンプトンの論文やスティムソン署名論文のなぞりに過ぎません。しかし彼らの個人的見解や心情は紛れもなく、彼らのものなのです。 「心情的原爆投下肯定論」がいかに意図的「原爆投下肯定論」に支えられているかがおわかりでしょう。 |
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アメリカ市民に一般的な、「心情的原爆投下肯定論」をエノラ・ゲイ乗組員に代表させるのはいささか乱暴かもしれません。しかし、広島の平和資料館を訪れて、原爆の惨状に衝撃を受け、涙すら流しつつ「ヒバクシャ」の受けた被害に心から同情しながら、「それでも原爆投下は必要だった。」というアメリカ人女性市民も、大きく言えばこの共同声明に示された、「心情的原爆投下肯定論」なのです。 もし「核兵器廃絶」の決め手が、世界の市民の「核兵器廃絶」への固い決意と合意にあるとするなら、核兵器廃絶への道は遠いと言わねばなりません。 しかも、こうした「原爆投下肯定論者」は今や「核兵器保有正当論者」へと発展しており、「核兵器使用肯定論者」へと変貌を遂げるのではないかという危惧すら覚えます。 さすがにアメリカの社会の上層に大ぴらにそれを唱える人たちはいませんが、現在のブッシュ政権が、「核の先制攻撃」の可能性を唱え始めていることに恐怖を覚えているのは私だけではないでしょう。 いままで、核兵器保有肯定論者は「核兵器抑止論」を唱えてきました。ところが冷戦の終結とともに、核抑止論は破綻し、核兵器保有肯定論者は「核兵器先制攻撃論者」に衣替えしつつあります。 「核抑止論」の論理からして、「核兵器先制攻撃」は導き出されません。 「核抑止論」に関しては河野議長は良くご存じでしょうから、私の受け売りの説明などは笑止千万だろうとは存じます。ですからここは私の頭の整理のためと思ってお聞きください。 核抑止論では、相互確証破壊戦略(*Mutual assured destruction)に代表されるように、相手国がはっきり分かっていて、もし相手国が核攻撃をしたいと考えても、自国が報復攻撃の姿勢を見せれば、相手国は報復攻撃を恐れて、核攻撃をしてこない、と説明しています。つまりもともと相互確証関係においてのみ有効な理論です。そして、この核抑止論は、だから核兵器を保有することは、相手国の核兵器の使用を抑止する効果をもち、その意味において「核兵器保有時代における平和理論」だと説明します。 しかし、内容を良く検討すれば、この理論は説明しなければならない命題を使って説明の根拠とする、典型的な「先決問題解決の要求」を満たさない「同義反復」なのであります。そして必ず、「自国の安全のためには、核兵器を製造・貯蔵・配備しておかねばならない。」とする「核兵器保有正当化論」を結論とします。 従って、「核抑止論」では先制攻撃はあり得ないのです。 ところが、「冷戦構造」という準戦時体制が終わり今度は「対テロ戦争」という準戦時体制が構想されるようになると、困ったことがおきました。「核抑止論」が破綻してしまうのです。冷戦時代はそれぞれ仮想敵国を想定できました。つまり相互確証ができました。 しかし「対テロ戦争」では、相互確証はできません。そもそも相手の身元確認ができないから「テロ」なのですから。相互確証できる相手なら、それはもうすでに仮想敵国、仮想敵グループなのです。 すなわち「テロ戦争」という準戦時体制下では、核兵器保有・製造正当化理論としての核保有論は、破綻してしまったのです。 それでは、相手がどこにいるか分からないテロ勢力に、どうやって「先制核兵器攻撃」をかけるのでしょうか?できません。従って「テロ支援国家」なるものを創作しなければなりませんでした。そうしてテロ支援地域、テロ支援国家に先制攻撃をかける、というのです。 2006年1月フランスのシラク前大統領も、全く同じ趣旨から、テロ勢力に先制攻撃をかける可能性を示唆しました。もっともこの演説は良く読むと、最後には、「だから、核開発には予算をつけろ」という結論になります。 こうした「核兵器保有論者」、「抑止論者」、「核兵器使用肯定論者」、「先制攻撃論者」の理論を根底で支えているのは、「ヒロシマの教訓」ではないでしょうか? すなわち、「原爆の使用は、短期的に見れば悲惨な状況を作り出す。しかし長い目で見れば、多くの人命を救う。」とするあの理論です。 現在のところ、「ヒロシマ」「ナガサキ」の記憶と経験が、世界で唯一、真の「核兵器使用抑止力」となっております。その意味では、広島・長崎の「ヒバクシャ運動」の力は偉大と言わざるを得ません。 しかし、地球に核兵器が存在する以上、いつその一線を越えるか、いや越えることはないと誰にも保証できません。 ついつい話が先走ってしまいました。 |
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私がここで指摘したかったことは、アメリカ社会の上層では、さすがに「核兵器使用正当化論を大ぴらに主張する人はいませんが、底流ではどうでしょうか? 英語版Wikipediaに「509作戦航空群」という項目があります。
このサイトは見出し項目名こそ、「509作戦航空群」ですが、内容は60年以上も前の前身、広島・長崎に原爆を投下した「509混成航空群」に関する記述です。内容の的確さ、出典の明確さ、一次資料の豊富さ、使っている用語の的確さなど、「第509混成航空群の研究」とでも名付けたいほど優れた記述です。 同時にこの記事の執筆グループについてもいろいろと推測のできる内容になっています。つまりこの記事の執筆グループは、509混成航空群関係の退役軍人グループあるいはそれを支持する研究者のグループではないか、ということです。 この記事の最後の方に以下の記述があります。
私は、この記事は「509グループ」によって書かれたと考えていますから、この部分を読んで衝撃を受けました。 私は、「第二次世界大戦の終了時、広島と長崎に合計2個の爆弾が投下された。」と考えています。 ところが彼らの見方は全く違うのです。 すわなち、彼らは、「ヒロシマ」「ナガサキ」を「最初の核戦争」ととらえているのです。そしてその核戦争はヒロシマの45年8月6日にはじまって、日本がポツダム宣言受諾・降伏を発表した8月15日の間、9日間続いたと考えていること、これが彼らの歴史認識なのだ、と読み取った時に衝撃を覚えたのです。 「第一次原子戦争は8月6日から8月15日までの9日間続いた。」と100年後の教科書にはかかれるのでしょうか?だとすれば第二次原子戦争はいつなのでしょうか? アメリカの底流には、間違いなく「アメリカに正義がある限り、ヒロシマ・ナガサキの教訓に従って、核兵器は使用すべきである。」とする勢力があります。 そうした勢力が、2005年のスミソニアン博物館におけるエノラ・ゲイ展の展示設計変更を迫り、成功を収めたと考えることができるでしょう。 安倍という日本の前の首相が、岸信介の亡霊に取り憑かれていたように、アメリカの原爆投下推進勢力はトルーマンの亡霊に取り憑かれているのです。 |
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こうした、アメリカ社会にある「心情的原爆肯定論」の背景にあるのが、太平洋戦争・日中戦争時における、凶暴な天皇制軍国主義(=日本型ファシズム)・侵略主義にあることはあまりにも明白です。 いいえかえれば、凶暴な天皇制軍国主義・侵略主義が「心情的原爆投下肯定論」とセットになって、アメリカの市民社会の中に根強く、がっちりと定着しているのだと言うことになります。 われわれ、日本の市民社会は、あの凶暴な天皇制軍国主義を克服し、批判しきったかという問題は当然出てくるわけですが、それは後で触れる機会があると思います。 原爆投下に対する心情的支持は、凶暴な天皇制軍国主義の蹂躙にあった、中国、韓国をはじめとするアジア諸国の方が、アメリカ社会よりさらに幅広く、根強いのではないかと想像します。 想像というのは判断する資料があまりに少ないからで、これは一度本格的な各国における世論調査を日本政府、あるいは国会の予算で実施してみては?と考える次第です。 ただ以下のような、報道を見てみると、心情的な「原爆投下支持論者」は想像を越えて多いのではないかと存じます。 2005年4月10日付朝鮮日報のキム・記者の「日本の若者も丸太を見たら驚愕」と題する731部隊博物館・王鵬館長インタビュー記事です。
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1995年、8月6日広島原爆50周年にはじめて、韓国KBSから特派員として広島にやってきたユ・スンジェ特派員は次のように本国へ向けて報告しました。
河野議長、この手紙を書くために、今回広島の平和資料館を見て回りました。2年前とは違い、平和資料館では、広島原爆へ至るいきさつの中で、『南京大虐殺』、『朝鮮人強制労働』などに簡単にふれる様になりました。 後でも見るように、このこと自体私は大きな進歩として評価したいと思います。 しかし、「広島への原爆投下」と「日中戦争・太平洋戦争」との関係、原爆投下をめぐる近隣職国の人たちの思いと感情、原爆投下とその理由、など広島原爆をめぐる重要な社会・政治的諸問題については、ほとんど触れられていません。 また被害の様相も、日本人中心の展示で、特に7万人に上る朝鮮人被害者の悲惨な状況、戦後朝鮮半島に引き上げた朝鮮人被爆者が、いまも援助と保護、補償の外にいること、などについても触れておりません。 今時大戦で広島と長崎で被爆した朝鮮人こそ、最大の被害者でした。三重の被害者でした。第一、日本の植民地化による民族的被害を被りました。第二、青年達は強制連行による基本的人権侵害・奴隷労働の被害に遭い、若い女性たちは、旧日本軍性奴隷制度の標的とされ無惨な目に遭いました。第三、広島・長崎での被爆と被曝です。 もし広島の平和記念資料館が、被爆者の惨状を世界の人に伝え、もって二度と核兵器の使用を許さないための「平和資料館」であるなら、朝鮮人被爆者こそもっとも悲惨な状況を体験したのではありませんか? |
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将来は必ず変わると思いますが、現在の広島平和記念資料館は、原爆の投下を、依然、「アメリカによる日本への原爆攻撃」という視点に固定しています。したがって、日本人以外はどうしてもその視野からこぼれがちになります。 スティムソンが45年9月、大統領に対して提出した「行動提言」の視点、「フランクレポート」の視点、レオ・シラードが大統領宛に提出した「請願書」の視点、「私がマンハッタン計画に参加した目的は、原爆の実戦使用を食い止めるためだ。」というニールス・ボーアの視点、すなわち「原爆の出現は、人類史上の大きな問題である。原爆の出現によって、人類は破滅の危機に直面する。」という視点、この視点に立てば、広島への原爆投下は、「アメリカによる日本への原爆攻撃」などという生やさしいものではなく、「人類の人類による最初の核兵器攻撃」という視点が浮かび上がって参ります。 こういう視点に立った時、先ほど紹介した英語Wikipediaの最後の記述、「1945年8月6から8月15日の9日間が、世界最初の原子戦争(第一次核兵器戦争)だった。」という見方が、核兵器保有論者からの見解だけに、一層生々しく、実感をもってわれわれに迫ってくるのです。 この手紙の冒頭、私は、G8諸国は、世界の核兵器をほぼ独占している、というわかりきったことを申し上げました。その時、日本はアメリカの核の傘の下にいる、という、これまたわかりきった事も、もうし上げました。 平和資料館の2階に上がると、戦後冷戦時における核軍拡競争のいきさつ、核実験の経過などが展示されています。その冒頭に、日本の「国是」とされる「非核三原則」が無批判に掲げられています。 「核兵器をつくらず、持たず、持ち込ませず」です。 これを日本政府の「非核三原則」として定式化したのが、1968年、時の内閣総理大臣佐藤栄作です。彼のノーベル平和賞は、このことが受賞理由となりました。(釈迦に説法ですね。) またその2年前、時の外務省外務次官下田武三が、
と立派なことをいったので、「非核三原則」と「核の傘」の間の関係は矛盾なく整合すると、多くの日本人は安心したのでした。
私はここの部分を、日本の支配層を代表する良心的な経済学者・都留重人の「日米安保解消への道」(岩波新書 1996年 第一刷)によって、書いています。 その後、日本政府が「日本はアメリカの核の傘の下にいる」ことを公然と認めるようになりますが、「非核三原則」と「アメリカの核の傘」の間の矛盾は、長い間、問題視されてきませんでした。 しかし問題視されてこなかったことと問題ではなかったこととは違います。 都留に「非核三原則と核の傘にいることは矛盾する」といわれてみれば、なるほどそうだ、といわざるを得ません。 「核兵器を作らず、持たず、持ち込ませず(これも実はウソだったわけですが)」どころか、われわれは、核の傘の中にどっぷり漬かっているのです。 「非核三原則」はアメリカの核の傘の中で「絞殺死」しています。 平和記念資料館はこうした、核兵器廃絶をめぐる基本的事柄にも、依然盲目的でした。 私は、平和記念資料館を一方的に非難しようとは思いません。広島平和記念資料館の見識のなさは、われわれ広島市民の見識のなさでもあるのです。 その見識のなさが、そのまま平和資料館の展示に表れているというに過ぎません。それはまたそのまま、この手紙の次のテーマになります。 河野議長、せっかく広島で開かれるG8議長サミットです。下院議長といえば、近代民主主義革命が獲得したもっとも貴重な財産である「国民会議」の代表です。「原爆」の人類史的意味も合わせて話し合ってほしいな、と思います。 政治とは一面現実の利害調整です。しかし、それは洞爺湖でやってもらいましょう。生臭いのが揃います。 政治とは一面理想でもあります。戦後ある良心的な保守政治家が、たしか「政治とは倫理の近似値をもとめる作業である。」ということを言ったと記憶しています。(誰でしたか?お父さんではありませんね、これは確実です。) 核兵器廃絶をめぐって、広島で、その現実的な倫理の近似値を求めるとしたら、どんな政策提言がでてくるでしょうか? |
(以下次回) |