No.22-3 | 平成20年4月9日 | ||||||||||||||||||||
前回は、「広島への原爆投下」を機に、一気に「冷戦構造」が表面化し、戦後の「赤狩り」に代表される集団ヒステリアを通じて「共産主義に対する戦い」という準戦争体制が定着し、アメリカ連邦政府の、核兵器開発に対する予算獲得を容易にさせ、気がついた時には、「核兵器保有」が世界の「常識」となってしまったこと、これが今日「核兵器廃絶」を困難にしている一つの要因となっていること、を見てきました。 しかしながら、「核兵器保有が常識」となってしまったことより、もっと核兵器廃絶を困難にしている要因が存在することをあげておかねばなりません。 それは今もなお、「広島」「長崎」への原爆投下に対して、世界の少なからぬ市民の「心情的支持」があるということです。 今日核兵器廃絶に向けてもっとも力強い決め手となるのは、世界の市民たちの「核兵器廃絶」に対する強い決意と合意であることは、おそらく論をまたないでしょう。中でもアメリカの市民たちの「決意」と「合意」がその中核をなすことは、誰の目にも明らかです。 ところが、「日本への原爆投下」に対する心情的支持は、今必要とされる「核兵器廃絶へ向けた世界の市民の決意と合意」を鈍らせ、分裂させる要因となっています。これは「核兵器保有が国際政治の常識」になっていることより、もっと深刻な要因であります。 「日本への原爆投下に対する心情的支持」は「日本への原爆投下はやむを得なかった」「日本への原爆投下は対日戦争終結を早めた」とする議論から「原爆投下は100万のアメリカ人将兵の命を救った」「原爆投下によって、凶暴な天皇制軍国主義の圧政から解放された」とする議論まで様々です。 私はこれら「心情的支持」を実は、一概に否定できません。それは当時のアメリカ市民の、韓国や北朝鮮市民の、多くの中国市民の、シンガポールやフィリッピン市民の、ベトナム市民の、その他の多くの世界の市民の、そして実は、日本の市民の中にさえ存在した、「心情」だったからです。 最近久間(きゅうま、と読むそうです。)という自民党の政治家が、「アメリカによる日本への原爆投下はやむを得なかった。」と発言したことがありました。驚くことにこの人は長崎県選出の国会議員だったため、地元や被爆者団体の猛烈な抗議を受けて、あとでこの発言を撤回したそうです。 しかし撤回したあとでも、この久間という政治家は内心「それでも、原爆投下はしかたがない。」と思っていたと、私は想像します。それは少なからぬ日本人の偽らざる心情でもありました。 |
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私はこの話を聞いてすぐに、「米国戦略爆撃調査団報告―広島と長崎に対する原爆の効果―」の中の記述を思い出しました。 軍事的に見て、広島と長崎への「原爆投下」は「ゲルニカ爆撃」や「重慶爆撃」にはじまる戦略爆撃の一つでした。その意味では「東京大空襲」や「大阪空襲」に代表される「都市空襲」の延長線上にありました。 こうした「戦略爆撃」がいかなる効果を持ったかを、終戦直後アメリカは調査団を組織して調査分析し、報告書としてまとめています。前述の報告書は、「原爆」という特別な爆弾を使った戦略爆撃であったため、本編とは別に、特別報告としてまとめられました。 この報告は、軍事的な側面ばかりでなく、政治的側面・社会的側面・日本人の心理にまで立ち入って調査し検討しています。全体として軍人特有の狭い視野に立った、非人道的な報告ですが、そのことさえ注意して読めば、今日読んでも、結構面白い参考になる報告です。 この調査報告の中に「士気」と題する一章が設けてあり、「原爆投下」が日本人に与えた「戦意」に対する影響を調べ、報告した文章があります。 以下その章の中から、抜粋引用します。 (原文は:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ large/documents/index.php?documentdate=1946-06-19&documentid=65& studycollectionid=abomb&pagenumber=1 訳文は:http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_ Bombing_Survey/03.htm )
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またまた余計なことですが、私はこの部分を翻訳する時に、次のような自分自身のコメントを入れていました。
戦略爆撃報告を続けましょう。
私が久間の発言を聞いて、すぐに思い出したのが、戦略爆撃報告にあった、この「shikata-ga-nai」でした。 そして日本人の多くは、戦後60年以上にもわたって、「広島・長崎」への原爆投下を「shikata-ga-nai」と考え続けて来たのだ、と思いました。 「原爆許すまじ」という傍らで「仕方がなかった」という気持ちと同居する、実に複雑な感情をずっと抱いて来たように思います。 なぜ日本人は、戦後60年以上にもわたって「原爆投下」を仕方がない、と考え続けて来たのでしょうか? 戦争だったから仕方がない、と考えたのでしょうか?私は必ずしもそうではないような気がします。日本人の多くが原爆投下を仕方がないと考え続けてきた背景として、まず上げなければならない要因は、「あの戦争の性格」ではなかったかと思います。 |
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戦前の天皇制軍国主義は(天皇制ファシズム=日本型ファシズム)は、考えたくないことではありますが、凶暴・残忍でした。彼らの暴力は物理的に凶暴だったばかりでなく、人間性を完全に圧殺しさった点でも残酷でした。 その天皇制軍国主義が戦った戦争は、また、必然的に残忍な戦争でした。その残忍さは、必然的に天皇制ファシズム以外の要素すべてに向けられた残忍さでした。「敵」か「味方」かを全く区別しませんでした。旧日本軍がアジア一帯で展開した「性奴隷制度」も「南京大虐殺事件」も、自決を強要された沖縄も、横浜事件も「国体護持をめぐって最後まで紛糾した御前会議」も根は一つです。 天皇制ファシズムにとって不利益な人間は日本人であれ、中国人であれ、朝鮮人であれ、皆敵であり、殺戮の対象でした。 もし原爆が日本の敗戦をもたらし、従ってこの凶暴な「天皇制ファシズム」の軛から人々を解放したとすれば、多くの日本人にとって「原爆投下」は「仕方がない」ことではなかったでしょうか? 私は多くの「日本人」の底に横たわる「原爆投下は仕方がない」という感情のそのまた底には、「戦争だったのだから仕方がない」という諦観よりも、「天皇制ファシズム=日本型ファシズム」から解放された、すなわち「戦争が終わった」という安堵感が流れていたと思います。 天皇制ファシズムから、助け出された徳田球一が、マッカーサー占領軍を「解放軍」と規定したのは今日からみれば大きな間違いでしたが、しかし、徳田を誰も笑えないでしょう。「解放された。助かった。」という感情は徳田だけでなく多くの日本人が抱いた感情だったのですから。 しかし、同時に、日本人が、60年以上にもわたって、「広島・長崎」への原爆投下を、「shikata-ga-nai」と考え続けて来たことということは、「ヒロシマ・ナガサキ」を、あらゆる角度から、「今なぜ核兵器がなくならないのか」「その原因はどこにあるのか」という角度も含めて、調べ、分析し、考えてこなかったことでもある、と思います。 もし、原爆が日本の戦争を終わらせるために使われたのではないとしたら、まったく別な目的で使われ、それが現在の「核兵器に取り囲まれた地球」を作り出してきたのだとしたら、「shikata-ga-nai」ではすまされなくなるだろうからです。 私は、「原爆投下を支持する心情」を一概に否定するものではない、と申し上げました。それは原爆が投下された時と同時代の多くの人々−日本人も含めて、が共有した心情だからです。そうした心情が当時幅広く存在し、今に至るも幅広く存在しつづけていることは事実だからです。 それでも私がそれを「心情的支持」と呼ぶのは、その支持が歴史的事実に基づくものではなく、大変言いにくいことではありますが、「感情に基づく支持」だからです。忌憚なく言えば、誤った歴史認識に基づく、誤った「支持」だからです。「心情」はよく分かるけれども、その心情に由来する「支持」は誤っているからです。 従ってこうした「心情的支持」、すなわち「原爆があの戦争を終わらせた」という「心情」が何に由来しているのかを調べておくことは極めて重要なこととなります。 |
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「原爆投下は対日戦争早期終結のために是非とも必要だった。」とする「心情」は、アメリカ人の中にも早くからありました。 「パールハーバーみたいなことをやる日本は徹底的にぶちのめせ。」とか「原爆は100万人のアメリカ人の将兵の命を救った。」とする議論も、大きくこの「原爆対日戦早期終結論」に代表される「心情」の中に含めてかまわないと思います。 こうした心情は、次の電文の内容に代表されるでしょう。 広島へ原爆が投下された時、トルーマン大統領は、ポツダムからアメリカの帰途、大西洋上にいました。ワシントンに到着するのは8月7日以降のことになります。広島への原爆の投下直後、このトルーマンの帰還をまって、ジョージア州選出のリチャード・ラッセル上院議員はトルーマンに1通の電報を送ります。 全文を引用しておきましょう。
これは、広島への原爆投下を知ったラッセルがトルーマンに送った電報ですが、ラッセルのために弁護しておくと、彼は原爆が一体どんな爆弾だったか、ましてや、どんな人類史的意味を持つものか、全く分かっていませんでした。 多くのアメリカの市民も同様です。 原爆は従来型の爆弾よりも、はるかに巨大な爆弾、というぐらいの認識しかなかったのです。ましてや、広島に落とした爆弾が、ほんの「よちよち歩きのベビー」で、20年を経ずして「地球全体を破壊し尽くすモンスター」に大化けするなどという認識は全然なかったのです。 こうした正しい認識と見通しを持っていたのは、スティムソンやマンハッタン計画に従事した科学者の中でもほんの一部だけでした。 こうして、当時多くのアメリカ市民は、日本に対する原爆投下を熱狂的に支持したのです。 |
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しかし、実際のところ、日本への原爆投下を決定したアメリカの政権中枢は、原爆の使用と対日戦争終結を直接結びつけて考えてはいませんでした。彼らの関心は全く別なところにありました。そこはこれまでの手紙で見てきたとおりです。 暫定委員会の議事録では、どの箇所においても、「原爆の使用」の議題が、対日戦争終結とは全く無関係に語られていましたし、トルーマン自身、「ソ連が対日戦争」に参加すれば、日本は降伏すると考えていました。 今でも根強く、「原爆投下は必要なかった。」という議論があります。この議論の前提にあるのは、実は「原爆投下は対日戦争終結のために必要だった。」という論点です。 この誤った論点に対して、「いや、そんなことはない。対日戦争終結のためには原爆投下は必要なかった。」と反論し、数々の証拠を挙げているのです。その数々の証拠はほとんどの場合、正しい歴史的事実ですが、それは「原爆投下は必要なかった」証拠なのではなく、それらは「対日戦争終結と原爆投下が直接関係なかった」証拠です。 先にも見たように、トルーマン政権にとって「警告なしの原爆投下は必要」でした。対日戦争終結とは全く無関係に、戦後の「ソ連との冷戦」という準戦時体制をもっとも華々しくオープンするためであり、対日戦争が終わっても核兵器を中心とする核エネルギー分野への連邦予算支出を容易にするためでした。 1945年6月18日、午後3時30分、ホワイトハウスで、「対日戦争の現状と見通し」とでも表題をつけるべき会議がスタートします。 この日集まったのは、次の顔ぶれです。 トルーマン大統領の他は、ウイリアム・D・レーヒー海軍元帥、G・C・マーシャル陸軍元帥、E・J・キング海軍元帥、I・C・イーカー陸軍中将(H・H・アーノルド陸軍元帥代理)、スティムソン陸軍長官、フォレスタレル海軍長官、マクロイ陸軍長官補佐官の9名。書記として議事録作成に当たったのはA・J・マカファーランド陸軍准将でした。 レーヒーはこの時大統領顧問、マーシャルは陸軍参謀総長、キングは海軍参謀総長、イーカーは空軍長官のアーノルドの代理です。マクロイはスティムソンの側近です。 (なお、当時、今はどうか調べていませんが、元帥という階級はありませんでした。戦時においてのみ陸軍も海軍も元帥という階級が認められました。それに相当する名称は、General of the Army が陸軍、Fleet Admiralが海軍でした。時々レーヒーのことを「提督」と表現している文献がありますが、これはおかしいと思います。海軍においてadmiralは称号ではなく階級ですから大将とすべきです。なお当時空軍は、陸軍省=The Department of Warに所属していました。) この日の会議の目的は、トルーマンがポツダム会談を目の前に控え、対日戦争がどんな、現状にあり、どのように推移するかを分析することでした。 原爆開発は、もう最初の実験が秒読みの段階でした。実際には、原爆実験は、7月初旬に予定されていたポツダム会談の日程に間に合わないことは確実となって、トルーマンは会談を2週間延期し、7月18日からはじまります。そしてポツダムでスターリン相手の交渉の真っ最中に、「実験成功の知らせ」を受けるわけですが、それはこのホワイトハウス会議の約1ヶ月後のことになります。 |
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トルーマン政権は、「日本の降伏はソ連の対日参戦が鍵を握っている」という見方をしており、この会議の目的は、いかに「安いコスト」でソ連に対日参戦をさせるか、ソ連の参戦がなかった場合、アメリカ独自で、どの程度の代償を払って、日本を降伏に追い込むことができるか、を分析する会議でもありました。 河野議長は、ここの事情はよくご存じでしょうから、釈迦に説法となることは覚悟でこの議事録を引用しながら、当時のトルーマン政権の意志決定の過程をたどってみたいと思います。 6月18日といえば、6月1日の暫定委員会の後ですから、日本への「警告なし」の原爆投下が決定した後のことです。このことも念頭に置いてください。 会議は、沖縄上陸作戦の後、九州への侵攻作戦のことからはじまります。 マーシャルは、
45年9月1日に九州上陸作戦を敢行し、本格的に日本本土侵攻を開始する計画を説明し、この計画には太平洋戦線の陸軍総司令官マッカーサー、海軍総司令官ニミッツの同意も取り付けてある、と付け加えます。 そして九州上陸作戦を「ヨーロッパにおけるノルマンディー上陸作戦のようなものだ。」とした上で、次のようにその見通しを述べています。
と述べています。 話は変わるようですが、ここはちょっとおもしろい記述です。 この時点でトルーマン政権は、ソ連に満州を利権として差し出すことを覚悟していたことになります。 中国大陸を支配下に置くことは、アメリカ資本主義にとって20世紀に入っての基本的戦略でした。太平洋戦争は、中国大陸の支配権を巡ってのアメリカ資本主義と日本の絶対天皇制資本主義(日本型ファシズム)との戦いという側面もありました。いわゆる「満州事変」後の「スティムソン・ドクトリン」もそうした文脈で理解することができます。 しかしこの時点で{蒋介石軍}の要請があったにもかかわらず、スティムソンは中国に米軍地上部隊を派遣することは、絶対反対の立場でした。中国はあくまで、中国人民の武装蜂起と統一戦線で、日本を追い出すべきだと考えていました。 この記述から窺えることは、トルーマン政権はこの時点で、永年の念願だった中国大陸の支配権のうち、「満州」を対日参戦の代償としてソ連に差し出し、場合によっては、朝鮮半島の一部もそれに加え、自らは満州をのぞく中国大陸を支配下に置くつもりだったのだな、と分かります。 しかしアメリカが支援した蒋介石の国民政府は、結局中国人民の支持するところとはならず、この目論見はもろくも崩れてしまいます。満州を支配下に置こうとするソ連の目論見も、崩れます。しかしソ連は、中華人民共和国成立後、長春鉄道(「満州国」時代の南満州鉄道)と旅順港の租借権だけはしっかり確保しました。この2つの利権が、中国側に返還されるのは、毛沢東中国が人民の支持を受けた揺らぎのない政権だと世界が認めた1952年のことでした。 一方アメリカの中国支配は、その後形を変えて、今度は支配=被支配の関係ではなく、対等な形で、中国市場の門戸開放・開放改革経済という形で、その夢を実現していきます。それは1970年代、ロックフェラー財閥の大番頭、ヘンリー・キッシンジャーの中国訪問とそれに続く電撃的ニクソン訪中という形で実現しました。 面白いもので、ついつい話が横道に逸れて申し訳ありません。もとに戻しましょう。 |
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こうしてトルーマン政権の「日本本土上陸作戦」は、ソ連参戦を前提条件としながら、日本を無条件降伏に追い込むことを目的にしていたものでした。 この会議では、続いて「日本上陸作戦」でどの程度の損害が生ずるか、の議論に入ります。 ここでも口火を切ったマーシャルは、「そもそもどれくらいの人的損害が生ずるかの数字的推定を行うのは馬鹿げている。」と断りを入れた上で、陸軍省のスタッフが調べた数字を紹介しています。 「ノルマンディー上陸作戦の時、最初の30日間で4万2000人だった。沖縄上陸作戦の時が陸海あわせて約4万1000人だった。」 注意していただきたいのは、この数字は人的損害の数字で、死者、負傷者、行方不明者、捕虜すべてを含んでいることです。負傷者はどの程度の負傷なのかははっきりしませんが、少なくとも戦闘行為が不可能な程度の負傷という意味でしょう。 これに対して死者となると、 「マッカーサー将軍の44年3月1日から45年3月1日までの作戦での死者数は1万3742人だった。」とマーシャルは述べています。 そしてマーシャルは、「日本上陸作戦に関わる損害は、ルソン島上陸に関わる損害を上回るものではないとする根拠がある。」と結論します。 それではルソン島上陸に関わる損害はどのくらいだったかというと、マーシャルによれば、3万1000人でした。この数字には負傷者、行方不明者を含んでいます。 その後いろんな議論がありますが、ここでは、この会議における「日本上陸作戦に伴う損害が、戦闘不能となる負傷者を含んで3万から多くて5万人と見積もられていた、ことを確認しておけば充分でしょう。 そして会議は九州上陸作戦の戦略的価値を検討し、もっとも効果の大きい作戦であることを確認します。 そしてロシアの参戦が、対日戦争の決め手となることは全員の一致した見解でしたが、ポツダムに出発する大統領に対して、海軍のキングは、少々余分なコストがかかろうが、アメリカ単独でやってやれないことはない。だからあまりソ連に譲歩してもらわなくても結構だ、という意味合いの勇ましいことをいいます。 この会議の間中、議事録から削除されたのでなければ(またその証拠もありません)、原爆のことは話題にも上っていません。 トルーマン政権中枢部の目線に立って考えてみて、「原爆投下」(ないしは使用)は、対日戦争終結とは全く関係のない話題として意識されていた、と考えるのが順当でしょう。 これは暫定委員会の問題意識と全く同一の「意識」でもあります。 |
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またこのことは、先にも引用した、「米国戦略爆撃調査団報告―広島と長崎に対する原爆の効果―」の結論とも一致しています。 この報告書では「日本の降伏の決断」という一章が設けてあり、原爆投下が「日本降伏」に与えた影響を、当時の政府首脳陣、軍人などに面接調査をした上で、次のように述べています。
つまり原爆の投下は、日本政府と日本の軍部にとって、「降伏の口実」となったにすぎない、軍部のメンツを救ったのが精々関の山、だと述べています。 トルーマン政権は「原爆の投下」と「対日戦争早期終結」を直接関連づけてはいません。それどころか、投下直前のいきさつを見ると、「対日戦争」が終結しそうなので、投下を急いだ節があります。 ポツダム会談の時、スターリンはトルーマンに45年8月15日対日参戦することを約束しています。トルーマン政権はソ連が対日参戦すると、日本が降伏してしまうと見ていましたので、それまでに原爆投下を決行しないと、「日本への使用」の機会が失われると考えました。天候などにより、その最短時間が8月6日でした。 広島への原爆投下は皮肉なことに、ソ連の参戦を早めてしまいました。スターリンとすれば、ソ連の参戦をトルーマン政権に対して高く売らねばなりません。原爆が投下された後、時間が経てば経つほど、「対日参戦」の価値は下落していきます。そこで8月8日から9日にかけてソ満国境を越えました。 「原爆投下」と「ソ連参戦」は、お互いが玉突きしながら、事態の展開を加速していきました。 (しかしこのいきさつは私が拙く要約しなくても、すでによく知られた事実となっています。) |
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このように、「原爆の投下」は「ソ連参戦」という決定的なできごとのバイプレーヤーとして登場するだけで、「原爆投下が、結果的にソ連の参戦を1週間か10日ほど早めた、従って対日戦争終結を早めた。」ということはできても、「対日戦争早期終結のために原爆が投下された」ということはできません。原爆投下の政治的意図は全く別なところにあったのですから。 それでは、「対日戦争早期終結のために原爆は投下された」とする見解は、いつごろから、流布しはじめたのでしょうか? 私は、トルーマン政権が当時意図的に、「原爆投下は日本の戦争終結を早める」という話を、まず軍関係者に当初から流していたのだと考えています。 はっきりした文書による証拠はありません。しかし傍証はいくつかあります。 「アメリカ人の日本人観」(American Attitudes Towards Japan 1941-1985) という本を書いた、アメリカの文化人類学者のシーラ・ジョンソン(Sheira K. Johnson)はその本の中で、
その翌日というのは、「原爆投下に伴うトルーマン大統領声明」がニューヨーク・タイムスに掲載された翌日という意味ですから、1945年8月8日のことになります。 ここでクルチス・ル=メーといっているのは、21爆撃集団司令官だったカーチス・ルメイ(Curtis Emerson LeMay)のことでしょう。ルメイは、「日本焦土作戦」の立案者・実行責任者としても有名です。東京大空襲、大阪大空襲の実行責任者です。この談話の時には少将(Major General)でした。48年に中将に昇進しています。 現場の少将クラスのルメイが、当時どの程度「日本への原爆使用」に関する政策決定に関わっていたか、またはそれを知りうる立場にいたかは私には分かりません。想像では、「薄々察する」レベルではなかったかと思います。 ですから、これはルメイの個人的見解と読むこともできます。 しかし、当時広島への原爆投下に関する広報は、大統領及び陸軍省管轄で、厳重な報道管制が敷かれていましたから、この談話が政権中枢の承認なしに公表されて、ルメイが「個人的見解」を述べた、と考えることはおよそ不可能です。明らかに政権中枢が、ルメイを使って、意図的に流した「見解」です。 そうして読むとこの談話は、いかにも白々しい話になります。仮の話としても1943年時点で原爆が開発されるなどと言うことはあり得ません。ルメイ自身もよく知っていたはずです。絶対あり得ない仮定をもちだして、ルメイは、すなわちトルーマン政権は、「原爆投下は戦争終結のために行われた。」「原爆は対日戦争終結」のために使われた、という印象を一般に与えたかったのだ、ということになります。 |
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シーラ・ジョンソン自身も「原爆投下は対日戦争終結」のために使われたと信じていたようで、トルーマン大統領声明自体も、そのことを裏付ける資料として使っています。
この原爆に関する発表、というのは45年8月7日に発表された「大統領声明」のことでしょう。シーラ・ジョンションは“The New York Times, 1946,8,7P1”と註を入れていますからまず間違いありません。 これは陸軍長官スティムソンが何度も練り直して、ポツダムにいるトルーマンの手元にクリーエを使って送り、もぎ取るようにして署名を入れさせて発表したものです。というのは、「原爆投下」は軍事としては、1945年7月25日、トーマス・T・ハンディ大将(陸軍総参謀本部・参謀総長代行)から米陸軍戦略航空隊・司令官、カール・スパーツへ送った指示書が正式な命令書となるわけですが、「原爆の使用」という政治問題に関しては、トルーマン大統領の正式な命令は存在しませんでした。ですからスティムソンは、この大統領声明にトルーマンの署名を入れて、正式な政治的文書としようとしたわけです。 ですから、この大統領声明は、報道発表であると同時に署名入りの正式な政治文書でもあります。 シーラ・ジョンソンの引用では、「ポツダムで警告したのに、日本の指導者はこれを拒否した。ポツダム宣言を飲まないなら、原爆をもっと落とすぞ。」とトルーマンは声明の中で述べていたように取れます。 しかし、この引用は誤りとはいえないまでも、私には違和感があります。実際にはトルーマンは、声明で次のように述べていたのです。
ここでトルーマンが言っていることは、「今原爆を完成した。日本の人々を救うはずのポツダム宣言を、今飲まなければ、この原子爆弾で、日本に破壊の雨を降らすぞ。」ということです。 この文書の草稿を作成したスティムソンの頭には、「対日戦争終結のために原爆を日本に対して使用する」という意識はありませんでした。ですから、原爆投下とポツダム宣言の関連は、切れています。 ですから、 1.今原爆を完成し、これを投下した。 2.(これとは別に)ポツダムで警告を出しておいた。 3.ポツダムでの警告を受け入れなければ、今完成し、投下した原爆をもっと落とすぞ。 という構成になっています。 一方シーラ・ジョンソンの頭の中には、「対日戦争終結のために原爆が投下された」という「刷り込み」がありますから、 1.対日戦争終結のために原爆が使われた。 2.このことはポツダムでも警告していた。 3.にも関わらず、拒否したので、原爆を投下した。 4.拒否し続けるなら、もっと原爆を落とすぞ、 という構成になっています。 第一ポツダム宣言では、前にもみたように原爆には全く触れませんでした。 日本の人々を救うといいながら、日本を破壊し尽くすぞ、というのもおかしな論理構成ですが、シーラ・ジョンソンが、「誤解」といって悪ければ、「ニュアンスの解釈間違い」を犯したのは、彼女に「原爆は対日戦争終結のために投下された」という「刷り込み」があったためです。従って、この本の訳者である鈴木健次という人にも「刷り込み」があった筈です。もし、そうでなければ、鈴木は、もっと批判的にこの部分を読んだはずです。 シーラ・ジョンソンは決して、先ほど見たルメイや後で見るグローヴズのようなデマゴーグではありません。むしろ良心的な文化人類学者です。しかも彼女は知識人と目される階級に属しています。 この本が出版された1980年代の半ば頃には、アメリカでは、知識人の間ですら(一部の研究者をのぞけば)、「原爆投下は対日戦争早期終結のために使われた。」という「歪んだ原爆投下観」が定着した、ということができるでしょう。 |
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さて、今は原爆投下直後のルメイのコメントから、「この歪んだ原爆投下観」が、トルーマン政権から意図的に流されたのではないか、という疑いを申し上げました。 また、先にはバーチェットの記事に対抗して、グローヴズが「原爆には放射能の影響は全くない」というデマ記事を全米の一流新聞を使って流させたことも申し上げました。 ところが、現場の実戦指揮者クラスの将校クラスになると、どうも本気で信じていた形跡があるのです。 エノラ・ゲイの機長、ポール・W・ティビッツ(Paul Warfield Tibbets Jr.)は、当時陸軍大佐ですから、決して一般大衆ではありません。むしろ当時としては知識階級に属するのではないかと思います。退役する時には准将に昇進していました。 そのティビッツは2007年に亡くなるまで、「原爆投下は対日戦争終結には絶対必要だった。多くのアメリカ人将兵がそのために助かった。」と言い続けたことは私もよく知っております。 シーラ・ジョンソンによれば、1946年6月の時点で、「日本人に戦争をやめさせるためには、5発の原爆が必要だと思った。」と語っているのだそうです。これはジョンソンが先ほどの本の中に、「Paul W. Tibbets, Jr., as told to Wesley Price "How to Drop an A-Bomb," Saturday Evening Post, 8 June 1946 P18」と註を入れていますから、まず事実だろうと思います。 もちろんこの記事は、当時軍の検閲を受けていますから、ティベッツの発言は軍当局、トルーマン政権中枢の見解と見なして差し支えありません。しかし、それとは別に、私はティベッツ自身がそう信じていたのではないかと思います。 ティベッツが、「原爆投下は正しかった。これが対日戦争を終結させ、ひいては多くのアメリカ人将兵の命を救ったのだ」と個人的にも考えたかったことは良く理解できます。 しかし、トルーマン政権は、当初から軍関係者に対して、「原爆は対日戦争終結のために使うのだ。」という話も系統的に流していたと私は想像しています。 |
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1946年、1947年になると、ヘンリー・スティムソン自身の「原爆投下擁護論」が、アメリカの「論壇」に登場します。 今確認できるところでは、ハーパーズ・マガジンの46年3月号に「原爆と機会」(Harper's Magazine March 1946 "The Bomb and Opportunity")という記事が出ましたし、同誌の47年2月号には「原子爆弾使用の決断」(February 1947 "The Decision to use the Atomic Bomb")という記事が出ました。 また46年12月には、カール・テイラー・コンプトンの「もし、原子爆弾が使われていなかったら」という記事がアトランティック誌に掲載されます。 (The Atlantic Monthly December 1946 “If the Atomic Bomb Had been not Used” by Carl Compton) ご記憶だと思いますが、カール・テイラー・コンプトンはマサチューセッツ工科大学の学長で、暫定委員会8人のメンバーの一人でした。この記事を書いたときにもMITの学長でした。 47年のスティムソンの記事「原子爆弾使用の決断」は特に有名で、この記事が、ワシントン・ポスト、ニューヨーク・タイムス、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンにも転載されたり、紹介されたそうです。 (私はこのことを直接確認していませんが、おそらくそうだと思います。) 私はこの部分を、エグゼクティブ・インテリジェンス・レビューに載った、スチュー・ローゼンブラットの「いかにスティムソンは、広島にそして長崎にも原爆投下をしたか」という記事に拠って書いています。この記事は1992年3月12日に発表されました。 (Executive Intelligence Review:“How Henry Stimson Bombed Hiroshima, and Nagasaki too”by Stu Rosenblatt 原文は以下で読めます。http://larouchepub.com/other/1999/rosenblatt_stimson_2611.html ) この記事の中で、ローゼンブラットは、
と書いています。ローゼンブラットが何を根拠にこう書いたのかは分かりませんが、おそらく、本当でしょう。「原子爆弾使用の決断」を見ると、これはとてもスティムソンの手になるものではない、という感じがします。 同じような感じを、あのレオ・シラードも持ったものと見えて、1960年USニューズ・ワールド・リポートとの「Truman Did Not Understand」と題するインタビュー記事の中で、「あの時のスティムソンはちょっと別物と考えておかねばなりません。」といっています。 (http://www.peak.org/~danneng/decision/usnews.html) この中であげられた、ハーバード大学学長ジェームズ・コナント、ニューヨーク金融界の大物、ジョージ・ハリソンは暫定委員会のメンバーでした。ジョージ・ハリソンは、委員長代行(Acting Chairman)として、スティムソン不在の時には、委員会を主宰していました。 ハーベイ・バンディはスティムソンの補佐役で、招聘者として暫定委員会の常連でした。「息子」のマクジョージといっているのは、のちにケネディ政権の時に国際安全保障担当の顧問をつとめ、ヴェトナム戦争にも深く関わったマクジョージ・バンディのことです。マクジョージは1919年生まれですから、この時はまだ30前だったはずです。 またグローヴズもマーシャルとともに招聘者として、暫定委員会の常連でした。 ゴードン・アーネッソンはメンバーではなく、暫定委員会の書記でした。当時陸軍中尉です。今日私たちが読むことのできる暫定委員会の議事録はすべて彼がまとめたものです。 また、前に出てきた「大統領声明」は、スティムソンがポツダムにいたトルーマンに草稿をクーリエで送って、署名を取り、正式な政治文書となったいきさつがありますが、その時クーリエをつとめたのが、このアーネッソンです。 よほどスティムソンが信頼していたものと見えます。 執筆陣がこの顔ぶれだとすると、これはもう「暫定委員会」の見解としか言いようがありません。 |
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「原子爆弾使用の決断」は、原爆開発のいきさつに触れた後に、 「暫定委員会の、最初のそして最大の問題は、原爆を日本に対して使用すべきかどうか、という問題であり、また使用するとすれば、どのような形で使用すべきか、だった。」と述べています。 そして、 「6月1日の暫定委員会で、特別な警告なし日本に対して使用することを(大統領に)勧奨することにした。それは原爆の破壊的な力を明確にするためでもあった。」とし、 「その他の方法は、日本の速やかな降伏をかちとるには、主要な危険性があった、というのが委員会の一致した意見だった。デモンストレーションンなどの見解もあったが、われわれは直接の軍事的使用以外に、この目的のための代替案を見いだせなかった。」と述べます。 しかし、ここまで読んで、私はおかしいな、と思います。すでにこの手紙で45年6月1日の暫定委員会議事録は、詳細にとはいわないまでも、骨格については検討してきました。 「原子爆弾使用の決断」でいうように、6月1日の暫定委員会での「最初のそして最大の問題」が「日本に対する原爆の使用」であり「その使用の仕方」だったでしょうか? ここで当日の議事録をもう一度持ち出すつもりはありませんが、議事録を読む限り、「原爆の使用」と「対日戦争」の関係は全く議論されておらず、「最大の問題」は「戦後の原子力エネルギー産業を巡る体制」であり、「ソ連との関係を中心にした国際体制をどう構築するか」という議論でした。 そしてこの議論の過程で出てくるのが「日本への原爆使用」の問題であり、この文脈からして「原爆の使用」は「警告なし」に行う、と決まったのではなかったでしょうか? しかし、暫定委員会の議事録は50年間秘密文書でしたから、当時のアメリカ市民はこれを読むわけにも行かず、しかもヘンリー・スティムソンの名前で書かれたこの記事の内容を信用する他はなかった、と思います。 (もしこれが、ジェームズ・バーンズの名前で書かれていたら、多分説得力は半減したでしょう。スティムソンの名前はトルーマンの名前より価値がありました。) そしてこのスティムソン署名入りの記事は、
と結論しています。 |
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私は、この記事を「完全にウソだ」というつもりはありません。何分の一かの真実を含んでいるからです。 1945年の夏、対日戦争終結、「日本の降伏」がアメリカ社会の主要な問題の一つだったことは事実ですし、先にも見たように、「原爆の投下が対日戦争終結を早めた」側面があったことは否定できません。 しかし、「対日戦争終結のために原爆を使用した。」ということになるとこれはどうでしょうか? さらに進んで、45年6月1日の暫定委員会の主要な問題が、「対日戦争の終結であり、その手段としての原爆の使用だった。」とまでいいきれば、これはウソでしょう。 当時暫定委員会のメンバーが一致して、「暫定委員会の最大の問題が、原爆を使用すべきかどうか、だった」といえば、それに反論するすべは全くありませんでした。 この「ウソ」の狙いは明白です。当時ありもしなかった全く別な論点を提示して、全く別な論争を創作することです。 「つまり原爆は対日戦争終結のために使われた。」というウソの論点を提示すれば、「対日戦争終結のために、原爆投下は必要だったか?」という論争を創作することになります。それは「原爆投下の真の理由」が論点となることを遠ざけます。 今日から見て、「世界は見事にひっかかった」ということができるのではないでしょうか? 実は、ここでの最大の、私の関心は、この記事のウソそのものや、この「隠された目的」ではありません。 この記事を引用して、「いかにスティムソンは、広島にそして長崎にも原爆投下をしたか」という論文を書いて、スティムソンを激しく弾劾しているスチュー・ローゼンブラットという書き手の「問題意識」に大いに関心があるのです。 ローゼンブラットは、数々の証拠をあげて、当時日本降伏直前だったことを論証します。そして、「原爆投下は必要なかった。」ことを証明します。そしてそうした数々の証拠にもかかわらず、原爆投下を強行したスティムソンを激しく弾劾しています。 この記事は1992年の記事です。原爆投下後ほぼ50年経っています。 もし、この記事が1992年の段階でも有効性のある議論として見なされているとすれば(実際そうなのですが)、原爆投下後50年たっても、「日本の降伏に原爆投下は必要だったか、そうでなかったか」という議論を延々と続けていたことになります。 このことは、「原子爆弾使用の決断」という記事が1947年の時点で書かれた目的を十二分に達成し、今なお有効であることを示しています。 この記事を作成したグループ、仮に「原爆投下推進勢力」とでも呼んでおきましょう、この勢力の目的は、第二次世界大戦後、膨大なコストのかかる「原子力エネルギー産業」の開発研究を、連邦政府予算をつかって推進することにありました。 この原子力エネルギー産業の研究開発は、もちろん将来は原子力の平和利用というテーマを視野においているのですが、とりあえずは、まだまだ初期段階にあった原子力爆弾の引き続きの発展継続という形を取らざるをえません。 しかし、連邦予算を引き続きつかうためには、「原子爆弾の非人道性」「無差別大量破壊兵器」「地球最終殲滅兵器」である実態を、できるだけアメリカ一般市民の目から隠しておかなければなりません。 またこの連邦政府予算を、潤沢につかうためには、準戦時体制がもっとも望ましいことでした。こうして「冷戦」が作り出されました。「広島への無警告の原爆投下」は、この冷戦をもっとも劇的に開幕する手段でした。 (「冷戦」はおそらく「原爆投下推進勢力」にとってだけでなく、他の勢力にも好都合だったはずですが、それは私は調べていません。) |
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原爆投下推進勢力にとっては、従って、その真の目的に触れた議論はできるだけ避けたいところです。そして原爆投下直後から、全く別な論点を創作し、ありもしなかった議論を提出しました。 その議論の論点は「原爆投下は対日戦争終結のために行われた」とするものでした。「多くのアメリカ人将兵の命を救った、ばかりでなく、多くの無辜の日本人の命をも救った。」とする議論は、そのバリエーションに過ぎません。 しかも、「原爆投下は対日戦争終結のために行われた」と言う議論は、「原爆投下は対日戦争終結を早めた」という議論と外形上非常によく似ており、しかも「原爆投下は対日戦争終結を早めた」という議論は、一部事実だったために、この2つの議論を混同して、結果「原爆投下は対日戦争終結のために行われた」という創作をさらに本当らしくみせたのでした。 つまり「原爆使用対日戦争早期終結論」の中身をよくよく見てみると、外形上非常によく似ているが、中身は全く異なる2つの議論が混在してきたのだ、ということができます。しかもそのうちの一つ「原爆投下は対日戦争終結を早めた」という議論は、幾分かの妥当性をもっているのに、もう一方の「原爆投下は対日戦争終結のために使われた」とする議論は、まったく事実に基づかない、別に秘めた目的を持った「作られた議論」だったということになります。 (実は、私自身がこの2つの議論を混同してきたため、余計実感をもっていうのですが・・・。この二つの議論の因果関係を考えていくと、確実に自家撞着に陥ります。) |
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今日からみてこの狙いは成功したし、今も成功し続けている、ということができるでしょう。 この議論が、「原爆正当化論」につながり、多くのアメリカ人の「良心」を癒し、あるいは原爆投下を積極的に支持させ、さらに日本の凶暴な天皇制軍国主義に痛め尽くされた中国、朝鮮半島を含むアジアの人々の気持ちを納得させ、原爆投下に積極的に賛成しないまでも、「アメリカによる原爆投下はやむを得なかった。」という消極的賛成に回らせているのです。 また先にも見た、多くの日本人の中にある、「原爆投下はshikata-ga-nai」という感情も、もとをたどっていけば、「対日戦争終結のために原爆は使われた」という議論に逢着します。 こうした積極的あるいは消極的「原爆投下肯定論」がある限り、「核兵器廃絶」へ向けて決定的力となるべき、世界の市民の「廃絶への意志と決断」は決して一つにまとまって、大きなうねりとはならないでしょう。 私は、この手紙の中で、米国戦略爆撃報告に引用された「shikata-ga-nai」は、「消極的な原爆投下肯定論」だと申し上げました。その意味では、「原爆投下肯定論」はわれわれ日本人の中にも蔓延しているのです。久間という政治家だけを非難してすませるわけには行きません。 「スティムソン論文」がでたあと、トルーマンが自らの回想録の中で、スティムソン論文を補強する議論を展開します。この頃には「原爆は対日戦争終結のために使われた」とする議論は、アメリカ社会に定着し、原爆の惨状を知った多くのアメリカ市民は、ヒバクシャの被った惨状に同情し、時には涙もながしつつ、しかし、「原爆の投下は正しかった」という確信を深めていくのです。 ニューヨークタイムス・マガジンは、1965年8月1日号で「広島の今:広島に“リトル・ボーイ”が投下される決断はいかになされたか」と題する特集を組み、「もう一度原爆を落としますか?」という表題のもとに、ロバート・オッペンハイマー、エドワード・テイラー、ユージン・ウィグナー、レジール・グローヴズなどのコメントを載せました。(The New York Times Magazine 1 August,1965 Hiroshima now; How the decision was made to drop 'Little Boy' on Hiroshima; Would you make the bomb again?) (http://www.antiqbook.com/boox/nort/827a4512.shtml) この中で、グローヴズはこういっているそうです。 (私はこのコメント部分を『アメリカ人の日本人観』の63Pから引用しています。)
グローヴズがこれらの数字を一体どこから持ち出してきたのか全く不明です。 少なくとも、1945年6月18日、ホワイトハウスの「対日戦争の現状と見通し」会議で、マーシャルが陸軍参謀本部スタッフの分析数字として紹介した数字とは、まったく違うことだけは確かです。またこの時ニューヨークタイムス・マガジンを読んだ少なからぬ読者、この部分を引用したシーラ・ジョンソンもこのグローヴズの破廉恥なウソを信じたこともまた確かでしょう。 グローヴズは、ティベッツやルメイとは違います。マンハッタン計画の現場総執行責任者であり、暫定委員会メンバーではありませんが、マーシャルとともに招聘者として暫定委員会にも頻繁に顔を出し議論の流れをよく知りうる立場にありました。この暫定委員会の4人の科学者顧問団にも圧力をかけられる立場でした。また軍部が構成した「原爆投下目標委員会」の主要メンバーの一人でもありました。 今日歴史的に見れば、「原爆投下は対日戦争終結のために使われた」とする議論は、「原爆投下正当化論」を直接に補強し、アメリカや中国、アジアの人々の「原爆投下に対する心情的支持」を様々な形で今日まで維持し、「核兵器必要悪論」にまで発展させました。 そして核兵器廃絶に向けた世界の世論を分裂・分断させ、核兵器廃絶へ向けた統一した世論形成を妨げているのです。 21世紀を迎えた今日、45年9月にスティムソンが構想したように、本来は「核兵器を製造・保有すること自体が人類・人道に対する犯罪行為」であり「それを製造したり保有したりする国家は『ならずもの国家』であり『テロ国家』だ」という世界世論が定着していなければならないのに、そうなっていない淵源は、「原爆投下は対日戦争終結のために使われた」とする「ウソ」にあることは明白でしょう。 河野議長、この長い手紙を書いていると、時々疲れます。そんな時、気分転換に散歩に出ることがあります。ほとんどが真夜中ですが。 散歩に出ると行っても私にどこか行く当てがあるわけではありません。足は自然に広島の平和公園に向かいます。何しろ事務所から歩いて2-30分ですから、散歩にはちょうどいいのです。 こんな時期ですから、平和公園の川沿いの桜並木の下では、夜中の12時、1時になっても夜桜見物の若い人が騒いでいます。それを避けて足は自然と、原爆慰霊碑の方へ向かって行きます。 さすがに慰霊碑の前は人っ子一人ありません。ガスで燃えている炎が、慰霊碑の文字をほのかに浮かび上がらせて、しかしはっきりと読めます。こう書いてあります。 「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」 私は、不意に、この言葉に怒りとまではいいませんけれど、随分無責任なセリフだな、という思いが頭をもたげたことに気がつきました。 なんで、この言葉に無責任さを感じたんだろうと反芻してみました。 「過ち」というが誰の過ちなんだろう、ここでは人類の過ち、ということだろう、繰り返しません、という以上、原爆投下の真の理由がはっきり分かり、その原因はすでに除去されているということだろう、とまで考えて、「無責任な言葉だ」と感じた理由がはっきり分かりました。 原爆投下の真の理由はまだ明らかになっていない、少なくともみんなが合意していない、また仮に明らかになっても、その先まだまだ、乗り越えなければ難関がいくつもある、現に地球を何回も滅ぼすだけの核兵器が存在するではないか、「過ちは繰り返しませぬから」はスローガンとしては分かるけれど、死んだ人に対して軽々と今、約束できることではない、と思ったのです。 だから無責任な言葉だと感じたのでしょう。 そう思うと「安らかに眠ってください」という言葉にも共感を覚えなくなりました。
そしたら、夜更けてきたのでしょう、それまでなかった風が急に出てきました。寒くなったので、またとぼとぼと事務所まであるいて帰りました。 |
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(以下次号) |