No.22-2 | 平成20年4月12日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前回は、G8の歴史的性格、G8が世界のGDPの7割近くを産出し、軍事予算の7割以上、核兵器のほとんど全部を保有していることを申し上げました。 従って、その気になりさえすれば核兵器廃絶などは明日からでもできるはずなのに、何故核兵器はいつまでたってもなくならないのか、という点を出発点としました。 その疑問を解く鍵は、原爆誕生のいきさつの中にありそうだということで、原爆誕生に関わるいきさつについておさらいを致しました。 そのおさらいをするに当たって、米国公文書館やトルーマン博物館などで手にはいる同時代・同時進行形資料すなわちトルーマン日記、スティムソン日記、暫定委員会議事録、ホワイトハウス会議議事録、フランクレポート、米国戦略爆撃調査団報告書などを使いました。 そうすると、「日本への原爆使用」(すなわち広島への原爆投下。長崎への投下は完全に軍事的意図からなされたもので政治的意図は皆無に近かったと思います。これは後で説明できるかと思います。)は、当時の政権首脳・軍首脳の中では、「戦後の核エネルギー研究開発体制構築」「ロシアとの関係をどう扱うか」という話題の中で語られていることが分かりました。 特に1945年6月1日の暫定委員会議事録を検討してみると、「国際体制の構築」が要するに「ロシアと原爆の情報を共有する」か「あくまでロシアに対して秘密の帳をおろしておくか」の議論だったことが分かります。 「ロシアと原爆の情報を共有する」ということは、とりもなおさず、「原爆の秘密」をアメリカだけのものとせずにロシアと共有し、結果この核兵器を国際管理に移行することになります。このことは必然的に、核兵器廃絶体制を構築することを暗示しています。 一方、「ロシアに対して秘密の帳をおろしておく」ということは、ロシアに対して、核兵器保有の優位性を誇示することになり、必然的にロシアに恐怖心を呼び起こすことを意味します。これは必然的に将来の核兵器軍拡競争を暗示しています。 そうして、この話題はバーンズの主導で、ロシアに対して「原爆の秘密を公開しない」ことが決まります。 |
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そして「直近の予算」のことが語られます。これは1942年9月からはじまる「マンハッタン計画」の総予算19億5000万ドルが33ヶ月後の45年6月末で期限切れになるからです。 この議題は今日われわれの目線から見れば、いかにも議題の配列として唐突と見えるかもしれませんが、暫定委員会のメンバーから見れば唐突でも何でもありませんでした。つまり「戦後ロシアとの関係」が「直近の予算」、すなわち1945年7月1日以降の予算立てと大いに関係があるからです。 そして「直近の予算」の手当ができていることが確認されて、「日本への使用」の問題が語られます。ここでは「警告なし」で使用することが決まりました。そして「警告なし」の使用が、「原爆」をもっとも「劇的」に世界にデビューさせる方法論として採用されたことも分かりました。 ここまでが前回のお話でした。 |
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ここでどうしても解いておかねばならない疑問は、「原爆」をもっとも「劇的」に世界にデビューさせることと、「直近の予算」と一体どんな関係があるのかということです。少なくとも暫定委員会の議事録は「直近の予算」を議論した後に「日本への使用」を議論しています。この両者にはなんらかの関係があると見なければなりません。 この関係を理解するためには、もう一度「ロシアと原爆の秘密を共有する」とする議論を振り返っておかねばなりません。この議論は、必然的にロシアと協定を結び、「原爆を国際管理の下に置くこと」を意味します。 1945年6月当時、「原爆を国際管理」のもとに置くという構想は、主としてマンハッタン計画に従事していた科学者たちの間には存在していました。もともとは、デンマークの科学者ニールス・ボーアあたりのアイディアと思われますが、1945年6月当時、フランクレポートははっきり構想として提言を行っていました。 フランクレポートは1945年6月11日、シカゴ大学冶金工学研究所の科学者たちが、原子爆弾の完成を目前にして、「原爆の使用」に深い憂慮を抱き、陸軍長官スティムソンにあてて提出した「警告と勧告の書」ともいうべき報告書です。タイトルが「政治ならびに社会問題に関する委員会報告」となっているように内容は、科学理論や工学的なものではなく、日本に対する原爆の使用は、必然的に核競争を招来するとした内容でした。通称フランクレポートと呼ばれているのは、この委員会の委員長、ジェームズ・フランクの名前を取っているからです。 引用がやや長くなるかもしれませんが、ご容赦ください。 冒頭にこの報告書は、
と述べます。そしてこの報告書を提出する動機を、
としています。そして原爆がいよいよ完成する時代を次のように規定しています。
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繰り返しとはなりますが、これは1945年6月当時の現状認識です。そのような「デジャブ」を回避する手段は、ある、とこの報告書はいいます。
一体どんな方法論なのでしょうか?
すなわち、アメリカが核兵器の使用放棄宣言をした上で、国際協定を成立させることだと言うのです。そして、次のように現在のIAEAの査察制度に非常によく似た仕組みを提言しています。
そして最後に、次のように締めくくっています。
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もし、6月1日以降の暫定委員会がこのフランクレポートに大きく影響されていたなら、実際に4人の科学顧問団は、こうした主張に大きく影響され、「警告なしの日本への使用」をめぐって大きく紛糾したと信ずる根拠があるのですが、もしそうなら、「直近の予算」の問題も、それに続く「日本への使用」の問題も、暫定委員会の議題とはならなかったでしょう。 実際には、このフランクレポートは、利権政治家、産学協同路線の大学経営者、産業界の利益代表者、金融界の大立て者からなる暫定委員会からは黙殺されました。(ジェームズ・バーンズは『道路建設のチャンピオン』の異名を取る、田中角栄ばりの利権政治家でもありました。) そればかりか、
ことを5月31日の暫定委員会で決定し、こうした科学者をマンハッタン計画から排除していくのです。 |
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ここでついでに、レオ・シラードの請願書にも、是非とも触れておきましょう。レオ・シラードは、最後まで日本に対する原爆の使用に反対しました。 「ヒロシマ・ナガサキ」をめぐる数々のドラマの中で、シラードは実に不思議な人物として登場します。ナチス・ドイツの迫害を逃れてアメリカにやってきたシラードは、ナチス・ドイツが原爆を開発しているのを知っていました。ナチス・ドイツがもし原爆を所有したら、世界はナチス・ドイツが世界を支配すると考えたシラードは、永年の友人でアメリカに影響力のあるアインシュタインに頼んで、対抗上ルーズベルト大統領に原爆を開発するようにとの手紙を書いてもらいます。実際には、アインシュタインは署名だけをし、ルーズベルトあてにシラードを紹介します。 (この時の紹介状は下記で読めますhttp://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Robert-14.htm)シラードはこの手紙を持ってルーズベルトに会い、原爆開発を力説します。 このことがきっかけになって、アメリカが原爆開発計画をスタートさせます。シラードもまた前述のシカゴ・グループの一員としてマンハッタン計画に参加するのですが、1945年になっていざ原爆が完成間近になり、また、すでにナチス・ドイツは事実上崩壊し、原爆開発の見込みもないと分かると、シラードは、原爆の使用に対して鮮明に反対の姿勢を取り始めます。 前述のフランクレポートを提出したフランク委員会のメンバーでもあったシラードは、フランクレポートとは別にトルーマン大統領に対して請願書を書き、原爆の使用をやめるよう説得しようと試みます。 のちにシラードは、「無駄とは分かっていたが、反対の科学者が大勢いたことを歴史にとどめたかった」といっていますが(http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/reo.htmを参照のこと)、ご紹介するのは、1945年7月3日付けの請願書です。この第1稿は表現がきついという批判があったため、第2稿を書き起こし、シカゴ大学でマンハッタン計画に従事する科学者、自身も含めて、70名の署名を添えて、7月17日にトルーマンに送られました。トルーマンがこの請願書を読んだ形跡はありません。 私たちが、今、読んでも、胸を打つ、切々とした響きがあります。短いので全文引用します。
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マンハッタン計画での科学者の中にこうした人がいた、そして秘密保持契約違反・投獄の危険を冒して、日本への原爆の投下に反対した少なくとも70人の科学者がいた、ことは、広島や長崎で死んだ日本人、朝鮮人、アメリカ人、ドイツ人など多くの国の人たちへの、少なくとも小さな慰めとはならないでしょうか? この請願書はシラードの予測したとおり、トルーマン政権中枢では歯牙にもかけられませんでした。 またシラードなどは、45年5月31日の暫定委員会で、グローヴズが指摘した「シカゴの雑草」に過ぎませんでした。 そして6月21日の暫定委員会では、 (原文は以下:http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ large/documents/fulltext.php?fulltextid=11)
ことを決定していきます。この暫定委員会では、戦後の核エネルギー政策に対して、年間2000万ドルを超えない予算を割り当てる、としていますが、実際には、1945年7月1日から1946年7月31日までの期間、2億6840万ドル支出され、米原子力委員会として暫定委員会の役割が引き継がれた1946年8月1日以降の20年間は毎年平均約17億ドルが支出されたことが分かっています。 |
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こうした一連の議論をまとめてみますと、次のようなことがいえるかと思います。
暫定委員会のメンバーの一人、ジェームズ・コナントはハーバード大学の学長ですし、カール・コンプトンはマサチューセッツ工科大学の学長です。 また原爆投下直後の陸軍長官声明を見てみると、この原爆投下推進勢力の産業界の中には、次のような企業名が見えます。
ところで、「産業界の貢献を詳細に語ることのできる日」はついにやってきませんでした。原爆の非人道性、残虐性が明らかになるにつれ、肝心の産業界が、「貢献を詳細に語られること」を迷惑がったからです。 私は以前このことに関連し、イーストマン・コダックの社史を調べたことがありましたが、インターネットで知りうる同社社史では (http://www.kodak.com/US/en/corp/kodakHistory/1930_1959.shtml)、テネシー・イーストマン・コダックがクリントン工場の運営を担当して、「原爆開発に貢献した」ことが一行も触れられていないことに驚いたことがあります。 さて話を元に戻しましょう。 今日から見て、この時点での決定的対立項は、「原爆を国際管理とし核兵器廃絶へと導くか」あるいは「ロシアを恐怖させて底なしの核兵器軍拡競争」でした。 |
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この2者択一の間を、「ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下」という出来事を挟んでもっとも激しく揺れ動いたのが、他ならぬヘンリー・スティムソンでした。 ヘンリー・スティムソンは「マンハッタン計画」の最高責任者であり(グローヴズを選んだのもスティムソンでした。)、陸軍長官であり、暫定委員会の創設者で委員長でした。 スティムソンは、「東京大空襲」の報告を受けて空軍総司令官アーノルドを呼びつけ、「約束が違う。軍事施設だけを狙うはずではなかったか。」と激しく責めるなど根っからの人道主義者でした。(スティムソン日記:45年6月1日付け。6月1日といえば今話題になっている暫定委員会と同じ日ですね。この日の暫定員会は11時から始まって昼食を挟んで再開し午後3時30分に終了していますから、終わってからアーノルドを呼びつけたのでしょうか?) しかしスティムソンは同時に冷徹・老練な国際政治家でもありました。ですから、「ロシアを恐怖させて底なしの核兵器軍拡競争に引きずり込むこと」が産業界の要求であり、ロシアに対して「原爆カードを切る」ことの圧倒的優位性を知らなかったはずはありません。 スティムソン日記や大統領宛メモランダムを読む限り、この6月1日時点ではスティムソンの考えはまだ固まっていなかった様に思います。それが「ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下」を挟んで急速にその思索が深まり、国際政策として明確な形をとっていきます。フランクレポートの内容も知っていたと思われる証拠もありますし、間接的にニースル・ボーアの主張も知っていたと思われます。 ここで是非とも確認しておきたいことは、今私たちがここで扱っている資料は当時すべて第1級の秘密資料だったということです。フランクレポートも秘密資料でしたし、陸軍長官の大統領宛メモランダム、ホワイトハウスでの対日戦争会議、スティムソン日記の公開もスティムソンがなくなったあとのことです。暫定員会の議事録もまたしかりです。戦後50年以上たって公開された資料も少なくありません。ですからこうした同時代資料をすべて一手に入手できる立場にあった人はごくわずかでした。しかも仮に入手できる立場にあっても、読むつもりがなければ、何の影響も与えません。たとえばトルーマンはフランクレポートも「レオ・シラードの請願書」も読んだ形跡はありません。スティムソンといえどもすべての同時進行形の資料を手に入れられたわけではありません。 |
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45年8月8日、すでに大統領に辞表を提出していたスティムソンは、9月21日、自分の78歳の誕生日を最後の執務日と決めていました。トルーマンはスティムソンのために、ホワイトハウスでは極めて異例だった昼食形式の閣議を開くことにしました。この閣議でスティムソンは閣僚全員にある訴えをすることに決めていました。このため事前にスティムソンは、トルーマンにあてて「原爆管理のための行動提言」(Proposed Action for Control of Atomic Bombs) という9月11日付けのメモランダムを送りました。 スティムソン側にこのメモランダムが残っているかどうかは調べていませんが、几帳面なトルーマンはこのメモランダムも秘書に命じて保管させ、戦後そのままトルーマン博物館に移管し、いわゆるトルーマン・ペーパーズの一つとなり所蔵されました。 歴史学者でトルーマン研究者のロバート・ファレルがこの文書の重要性を喚起してくれたので、私も読むことができたというわけです。 やや冗長にわたるかもしれませんが、ご紹介したいと存じます。 (訳は例によって拙訳です。原文はここで読むことができます。行替え、段落切りは私が勝手につけました。) (原文、全訳はこちらからご覧いただけます。 http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/stim-letter/stimletter19450911.htm)
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ここで確認のために、このメモランダムの内容をまとめておきましょう。 まずスティムソンは 1.原爆の出現は、政治・軍事的に見て文明社会を貫いてもっとも重要な問題だ、と規定します。 このスティムソンの認識は、後でも検討する機会があると思いますが、フランクレポートや先にご紹介したレオ・シラードの認識と全く同一地平線上にあります。「原爆」を人類史上の問題ととらえている点であります。これは極めて重要な「視点」であります。 次に、 2.この問題に対処するにはなにがなんでも、時には脅しを使ってもソ連を引きずり込んで、原爆の国際管理の体制を作らなければならない、 と主張します。今はアメリカしか原爆を保有していないのだから、それは可能だ、とも述べています。 それから、 3.2までできれば、戦争の手段としての核兵器の使用を禁止する協定を結び、これ以上の核兵器の製造保有自体を認めない、すなわち『核兵器を永久に封印する』ことだ、またアメリカしか核兵器を保有していない状況ではそれができるはずだ、といっています。 ところでこのスティムソンの構想は、現在の核兵器不拡散条約の理念より革命的に進んでいます。核兵器不拡散条約は条約締結時その時点の核兵器保有国(アメリカ、ソ連=当時、イギリス、フランス、中国)の「核兵器保有の権利」を認めていますが、「スティムソン構想」では全く認めていません。例外を認めないのです。 そして、 4.核エネルギーの開発は平和利用に限定する。 として「世界の平和を確かなものとする」ことが重要だと述べ、この行動提言の最後を「世界の歴史の中で、極めて重要な一歩を達成する最も現実的な手段がこの方法だ」という言葉で締めくくっています。 ここでも「世界の歴史」という言葉を使って、「原爆の出現が人類史上」の問題である点を確認し、彼の視点は全く揺らいでいません。 |
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さて、スティムソンのメモランダムをお読みなってどのような感想をおもちでしょうか? 私はこのメモランダムを「原爆をこの世に送り出した張本人、米国陸軍長官ヘンリー・ルイス・スティムソン」の政治的遺言として河野議長に読んでいただきたいのです。 このメモランダムの内容は1945年9月11日に開かれたホワイトハウスの閣議では一顧だにされませんでした。もっとあからさまに言えば「おいぼれのたわごと」以上には受け止められませんでした。 トルーマン政権の閣僚たちは、トルーマンも含めて、スティムソンの提起する問題を理解にはいかにも準備不足であり、この問題を地球文明史的に解釈する見識も持ち合わせていませんでした。現実は良くご承知のようにスティムソンの提案とは全く逆のコースをたどっていきます。 ですから、このスティムソンのメモランダムは、今われわれに対する政治的遺言として現在的価値を持つのだと思います。 このスティムソンに対して、大統領トルーマン、すでに国務長官に就任していたジェームズ・バーンズの視点は全く別なところにありました。 1945年9月5日付けのスティムソン日記には次のような記述が見えます。
スティムソンは、8月12日から9月3日の間、ジョン・マクロイと『原爆管理のための行動提言』作成しました。
トルーマンやバーンズにとって、「原爆の出現」は人類の文明史上の問題とは映らず、あくまでアメリカが、スティムソンの言葉をかりれば、「アングロサクソン・ブロック」が世界に覇権を確立する「偉大な兵器」としか映らなかったのです。 |
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1945年6月1日の暫定委員会議事録の中に出てくる「日本への原爆使用」と「直近の予算」がいかなる関係にあるのかが今回のお話の出発点でした。いきなり迷路に迷い込んだような組み立てで申し訳ありませんでしたが、ここを押さえておかなければ、つまり原爆の扱いを巡る全く相反した二つの立場があったことを理解しておかなければ、「日本への原爆使用」と「直近の予算」の関係が上手く理解できないのです。 これまで見てきたように当時政権内部では、後の「スティムソン構想」に代表される、「原爆の秘密」をロシアと共有するかあるいは「アメリカのみの秘密」とするかの2者択一問題が議論されていました。 その後のいきさつを見る限り、「ロシアを恐怖させて底なしの核兵器軍拡競争に引きずり込む勢力」、すなわち「原爆投下推進勢力」が完全勝利したことは明白です。 しかし、原爆投下勢力は大きな問題を抱えていました。新たな「予算獲得」です。 前にも申し上げましたように、当時「原爆投下推進勢力」の重要な一翼を担う産業人の意見は一致して、「核エネルギーの開発は、核兵器開発を中心に、中断なく進めて行くべきだ。」という主張でした。 そしてその開発は、その基礎的研究を含めて連邦予算で進めていくべきであり、産官学のパートーナーシップは引き続き戦後も維持されるべき、という点でも一致していました。 「マンハッタン計画」は、戦時予算でしたから、原爆投下直後の陸軍長官声明でも説明されているとおり、議会がその内容を全く問わず、いわば「目隠し予算」として連邦政府を信用し、総額だけを承認してフリーハンドを与えていました。 そのマンハッタン計画の予算は45年6月で期限切れになるのです。対日戦争が続いている間は、暫定措置で継続されるでしょうけれど、対日戦争が終了すれば、当然の話、予算の内容を議会に諮らなければなりません。 米連邦政府は戦争のために膨大な予算をつかっていました。 Infopleaseの資料によれば(http://www.infoplease.com/ipa/A0104753.html)、1945年米連邦予算の歳入は約451億ドルでした。それに対して歳出は、約927億ドルでした。戦時国債などで穴埋めをしたのでしょうけれど、約476億ドルの赤字でした。戦後は非軍事分野にお金を使いつつ、連邦予算を均衡させなければなりません。 そうした中でなおかつ「核兵器開発」に連邦予算支出を要求するなら、当然議会に対して、核兵器開発の予算に関して詳しい説明をしなければなりません。 |
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このことは、必然的に「原子爆弾」の実態を議会の前に、いいかえれば一般アメリカ市民の前に明らかにしなければなりません。 しかし「原子爆弾の実態」をアメリカ市民の前に明らかにすることこそ、「原爆投下推進勢力」がもっとも恐れていたことでした。 というのは、もし原子爆弾の実態が明らかになり、その非人道性・残虐性が暴かれ、特に放射線障害という将来に大きな問題を起こす実態がさらけだされれば、アメリカの一般市民は、決して「トルーマン政権」を容認しなかったでしょうし、ましてやそのような恐ろしい兵器の開発に新たな予算の支出などは認めなかったでしょう。 これは私が想像で言っているのではありません。現に声は小さかったものの、原爆投下直後から、人道主義の立場でトルーマン政権に対する批判がありました。 たとえば、全米キリスト教会連邦会議事務総長・サミュエル・マクレア・カバートは、広島への原爆投下直後の45年8月9日、トルーマンへ次のような抗議の電報を送っています。
このカバートは、一般市民よりも特に原爆に対する知識が深かったというわけではありません。優れた宗教者の直観が働いたのだ、とする他はありません。なお、ここに見える「ジョン・フォスター・ダレス」は、あのダレス当人です。 |
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また、先ほど紹介したフランクレポートの中にも次のような一節があります。
こうしてトルーマン政権中枢と軍部にとって、「原爆の実態」をアメリカの一般の市民の目から遮断しておくことが、原爆投下後の最大の課題となりました。 もしこれに失敗すれば、新たな核兵器開発予算を連邦議会に承認させることは極めて困難となります。 トルーマン政権中枢は原爆投下の前からすでにこの努力を始めていました。 たとえば原爆投下直後の陸軍長官声明には次のような一節があります。
また、1945年7月25日、陸軍参謀総長代行のトーマス・ハンディは陸軍戦略航空隊司令官カール・スパーツに対して1通の指示書を出します。軍事的にはこれが広島への原爆投下の正式指示書になるわけですが、5項目からなる指示書の第4項目には次のような文言が見えます。
ここでいう、現地司令官は日本現地で言えば、マッカーサー司令部となりますが、マッカーサーも忠実にこの命令を守りました。 |
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マッカーサー司令部は、戦後日本を軍事占領したときに、原爆に関するすべての報道を検閲しました。そして「原子爆弾の放射線の影響に拠って死ぬべきものはすでに死に絶え、もはやその残存放射能による生理的影響は見られない」という内容のデマ発表すらしました。(大江健三郎著 「ヒロシマ・ノート」 岩波新書 1999年7月5日 第74刷 56P) この時、「あの時点では、放射能の影響のことはよく分かっていなかったのだ。」と言い逃れることはおそらく不可能でしょう。 というのは、このデマ発表とほぼ同じ時期、「米国戦略爆撃調査団」がすでに日本で活発な医学的調査活動を開始しており、ガンマ線の影響、白血球の減少、生殖器官への悪影響、遺伝子への悪影響など、が医学的に判明していたからです。 (この調査団の報告は「放射線症」という項目名のもとに以下のURLで読むことができます。 http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/U.%20S._Strategic_Bombing_Survey/03.htm また原文は http://www.trumanlibrary.org/whistlestop/study_collections/bomb/ large/documents/index.php?pagenumber=24&documentid=65&doc umentdate=1946-06-19&studycollectionid=abomb&groupid= で読むことができます。) 従って、この時、マッカーサー司令部は、すべての報道関係者の南日本立ち入りを禁止しました。 この時期アメリカ軍の規制をかいくぐって、南日本に潜入したジャーナリストは3人いました。 ウィルフレッド・グラハム・バーチェット記者、ウイリアム・H・ローレンス記者、ジョージ・ウエラー記者の3人です。 バーチェットはフリーのジャーナリストですがこの時はロンドンのデイリーエクスプレス紙の特約特派員として日本に来ていました。 H・ローレンスはニューヨークタイムスの特派員で、原爆投下の後広島へ入り、その惨状と急性放射能障害を詳しくレポートしました。 ウエラーはシカゴ・デイリー・ニュースの特派員で、長崎の惨状をレポートしました。 しかしH・ローレンスの記事も、ウエラーの記事もマッカーサー司令部の検閲にかかりボツになりました。本国への送信手段を持たないため、どうしても検閲にかからざるを得なかったのです。 バーチェットだけはロンドンに向けての打電に成功しました。彼だけは、東京ミズーリ号上の「降伏調印式」を抜け出し、立ち入り禁止の規制をかいくぐりながら、20時間汽車を乗り継ぎ、広島に到着するまで、肌身離さずモールス信号発信器を持っていました。 そして広島で取材した内容をデイリーエクスプレスに打電しました。このレポートが、9月5日付け同紙に掲載された「The Atomic Plague」(原子の伝染病)となりました。世界が初めて原爆の実戦使用の惨状を知った記事としてジャーナリズム史にその名をとどめます。 |
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このバーチェットの記事を知ったレジール・グローヴズは、ただちにバーチェットの記事はデマ記事だとして反撃に出ます。 そして全米から厳選した50人のジャーナリストを最初の核実験場アラモゴードに招いて、「放射能の危険は全くない」という記事や放送を流させます。 この時グローヴズのかわりに、陸軍発表プレス・リリースの原稿を書いたのが、ニューヨークタイムスのウイリアム・L・ローレンスでした。 このプレス・リリースは、アラモゴード砂漠を詳細に点検したが、どこにも放射能の痕跡はみあたらなかった、というもので、バーチェットの記事に全面的に反論したものでした。L・ローレンスも自分の書いたプレス・リリースを参照しながら、ニューヨークタイムス向の記事を書いたことでしょう。今日から言えば、L・ローレンスの記事がデマ記事です。 ここがややこしいのですが、日本に潜入してボツ原稿を書いたウイリアム・H・ローレンスと「原爆には放射能の危険はない」という記事を書いたウイリアム・L・ローレンスとは同じニューヨークタイムスの記者でも全く別人です。 (私もこれまで何度も間違えました。つじつまがあわなくて混乱したこともあります。同じニューヨークタイムスの記者で、全く同時期の同姓同名の別人だと知ったときにはあまりの偶然に唖然とし、一人で笑ってしまいました。それからは間違えないように、H・ローレンス、L・ローレンスとミドル・イニシャルで区別するようにしています。面倒なら「善玉ローレンス」「悪玉ローレンス」とでもして区別してください。お忙しいでしょうから・・・。 またまた余計なことになりますが、「悪玉ローレンス」はアラモゴード砂漠での原爆実験にもグローヴズの好意で立ち会っています。また長崎の原爆投下の時にも、グローヴズの好意で観測機に乗り込み、長崎の原爆を目撃しています。 従ってL・ローレンスは、原爆の実験と実戦使用を目撃した唯一のジャーナリストということになります。彼が唯一最後のジャーナリストであることを心から願いますが。 彼はいずれも原稿をニューヨークタイムスに送り、デマも含めて、原爆賛美の記事を書きました。その後、悪玉ローレンスは一連の原爆報道記事でピューリッツア賞を受け、その後ニューヨークタイムスの科学部長に出世します。その後このピューリッツア賞が取り消されたという話は寡聞にして聞いていません。) |
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最後に一つだけあげておきましょう。広島の原爆投下に成功した直後、サンタフェにいたグローヴズとニューメキシコ州ロス・アラモス研究所にいたオッペンハイマーの電話での会話記録が残っています。 (原文はhttp://www.dannen.com/decision/opp-tel.html で読むことができます。 ) 内容を一部ご紹介しましょう。
ここでグローヴズが「次なる目標」といっているのは、「世論操作」であり「世論誘導」であることは前後の流れからして明白でしょう。それはアメリカ市民に「原爆が残虐で無差別な大量破壊兵器」であることを知られないことでした。 そしてその目的は、1945年7月以降の「核兵器開発予算」を連邦政府にすんなり認めさせることでした。 |
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ここでいったんまとめておきましょう。 原爆の実態をアメリカの市民の前に明らかにしないまま「核兵器開発を中心とする核エネルギー産業」に対する連邦予算の支出を認めさせるには、日本との戦争が終わっても、新たな戦争状態が存在すればいいのです。 こうして冷戦(Cold War)が作り出されました。 この冷戦を効果的に進めるためには、できるだけソ連を震え上がらせなければなりません。それには日本に対する「警告なしの使用」が、衆目の一致するもっとも効果的な方法です。こうして広島へ原爆が落とされました。 果たして「恐怖に髪を逆立てたスターリン」は原爆の開発に狂奔しました。そしてありとあらゆる手段、これは「製造の秘密」をアメリカから盗むことも含めてですが、を使って、本来は第二次世界大戦で荒れ果てたソ連国土の復興に使うべき資金も「原爆開発」に注ぎ込んで、1949年最初の核実験に成功し、アメリカに続いて「核保有国」になるのです。この時の原爆は、何故か「アラモゴード」で炸裂した人類史上最初の核兵器「ガゼット」と、爆発規模までうり二つのプルトニウム型原爆でした。 この時のソ連が軍備に向けて、いかにお金を使うべきでなかったか、どんな数字をあげるより、ミハイル・ゴルバチョフの次の描写が雄弁に物語っているでしょう、
しかしスターリンは、原爆開発に狂奔せざるを得ませんでした。
「広島への原爆投下」をもって、「作られた冷戦」は華々しくその幕を切って落とされ、世界は底なしの「核兵器競争」へと突入していきます。 そして次の問題、すなわち「新たな予算獲得」の問題は、上記「冷戦構造」という準戦時体制を作り出した上で、一般のアメリカ市民から「原爆の実態」を覆い隠した上で、議会工作で解決していきます。 (ここまで進めてきて、最近似たようなことがあったな、という感じに突き当たりました。そうです。9・11後のジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権のことです。ありもしないイラクの大量破壊兵器を言い立て、またありもしないイランの核兵器疑惑をいいつのり、対テロ戦争を宣言し、米議会から気も遠くなるような巨額の戦費を引き出しているブッシュ政権のことです。ただ、これはおそらく外形上一致したように見える偶然でしょう。偶然に違いありません。 いや、そうでしょう。偶然以外には考えられませんから。それにしても、何故「国際社会」はこんな子供だましにコロッと参るのでしょうか?) |
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さて、こうしたトルーマン政権中枢の狙いは見事にあたりました。 ただ一つ誤算は、トルーマンやバーンズが予測したように、ソ連が核兵器を持つのに20年もかからず、スティムソンが予測した最短年数4年で達成してしまった点でしょうか。「原爆の優位性」は4年しか持たなかったのです。 しかしこれはスティムソンも言うように4年か20年かは大した問題ではないのかもしれません。最初から分かっていたことでした。 ここで私の結論をもう一度確認しておきましょう。 広島への原爆投下は、「冷戦」を華々しく開始するために、そして引き続きアメリカを準戦時体制下においておくために、そしてその後の「核エネルギー予算」を議会にできるだけ審議抜きで承認させるために、スターリンを震え上がらせるために、「無警告」で行われた、ということになります。 もちろん、戦後の冷戦構造のなかで原爆カードを有利に使おうという意図はあったと思います。しかしそれはこうなってみれば枝葉末節です。その原爆カードの優位性も高々4年しか持たなかったのです。 それに、スティムソンが辞任時の提言の中で言っているように「ソ連との冷戦」を避ける道もあったのを、あえてトルーマン政権はそれを選択しなかった、分かっていて冷戦の道を選びました。従ってもっと積極的に冷戦を作りだしていったということができるでしょう。 あるいは私の結論はやや突飛に映ずるかもしれません。専門家・学者からは失笑を買うかもしれません。しかし、思いこみや頭にすり込まれた観念、戦後手探りの中で行われた研究成果(中には相当プロバガンダも混入しています。)を避け、同時代の同時進行資料だけを使って組み立ててみるとどうしてもこういう結論になります。 ところで、広島への原爆投下の後、「核エネルギー政策」への米連邦予算支出はどうなっていくのでしょうか? 暫定委員会での議論のように、戦後この委員会の機能と役割は全面的に米原子力委員会(U.S. Atomic Energy Commission)に引き継がれます。 米エネルギー省歴史部発行の「米原子力委員会の歴史」(A History of the Atomic Energy Commission)の「はじめに」は次のように述べています。
なかなか力強い明晰な文章で、うっかり読むと「広島・長崎への原爆投下の反省」の上に立って、原子力エネルギーの軍事力使用から平和利用に大きく舵を切り、軍部からその権限を奪って、シビリアン・コントロールを確立した、と読めます。(うっかり読まなくてもそういう印象を与えます。) この米原子力委員会は、暫定委員会で構想された「戦後体制」をほぼそっくり実現したものですから、原子力エネルギーの軍事利用・開発が当面の目的でした。 もう少し有り体にいえば、核兵器独占を狙う勢力とそれを阻止しようとする勢力の間で繰り広げられる「核兵器軍拡競争」の、アメリカにおける作戦参謀本部兼最高司令部が米原子力委員会でした。 |
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その狙いは、アメリカ世論の無盲目的な支持を背景に、連邦予算を獲得し、「原子力の軍事利用」を軸にして、「原子力産業」の無限の可能性を開いて行こう、というところにありました。 この巨視的な流れの中で「広島への原爆投下」という出来事を位置づけてみると、それは大きな序盤の全体布石の中で投じられた「ほんの一石」でしかないことがおわかりでしょう。 このことは米原子力委員会の年表を見てみるとよく分かります。(米原子力委員会年表 参照のこと) 原子力委員会(以下AEC)が設立されて4ヶ月後、それまで陸軍の中にあったマンハッタン工区(Manhattan Engineer District)がそっくり、AECに移管されます。原爆製造・研究開発機構がそっくりAEC傘下に入ったのです。 AEC初代委員長は、例のルーズベルト大統領のテネシー河流域開発計画で名を馳せた、経済界の大物、デビッド・リリエンタールでしたが、事務方トップの委員会運営理事長(The General Director)はケネス・ニコルスでした。ニコルスは、マンハッタン計画で運営責任者のレジール・グローヴズの補佐役で副責任者でした。もちろん軍人です。もっともこの時は現役軍人ではないと思いますが。 グローヴズはどうしていたかというと、さっさと軍人をやめて、コンピュータ業界大手のスペリーランドの副社長に納まっていました。 この年表をご覧いただいておわかりのように、50年代の終わりまで話題は核兵器に関することがほとんどといっても過言ではありません。60年代に入るとやっと「平和」や「平和利用」に関する話題が出てきます。しかも、この年表の作者は、AECが原子力平和利用機関だった、と印象づけようといろいろ腐心しています。 49年の項に「ソ連の最初の原爆実験」を掲載していますが、62年の項に「キューバ危機」は記載していません。 1954年3月は「一連のキャッスル作戦、太平洋で開始さる。」としか記載していません。ご承知のようにこの作戦はビキニ環礁を中心に行われた6回の水爆実験「作戦」で、最初の「ブラボー」の時に出力予測を誤って、影響範囲を小さく見積もったために、周辺の諸島にすむ市民約2万人が「死の灰」を浴びたほか、日本の市民も「第5福竜丸」事件で甚大な被害を被りました。 AECの年表を見ると、最終的にエネルギー省の機構に吸収合併されるまで、核兵器を使った冷戦の尖兵だったことがよく分かりますが、AECが実施した核爆発となるとそのことがさらに鮮明になります。 (年度別アメリカが実施した核爆発 参照) |
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このリストの1945年3回は、最初の原爆実験トリニティ、広島への投下、長崎への投下で都合3回です。AEC成立前ですからこれは陸軍省のプロジェクトです。46年は2回行っています。これも陸軍省管轄です。クロスロード作戦と呼ばれ、敗戦国の捕獲艦船を太平洋の島に集め、原爆で沈めた有名な実験でした。長崎型と全く同じ、出力も2万トンですから、何か科学的実験と言うより、原爆の力を誇示するショーみたいなものでした。 48年以降はAECのプロジェクトでした。49年ソ連が原爆を保有すると、「爆発件数」は増加します。月に1回か2回は爆発させていたことになります。 特に58年は55件ですから「週に1回」爆発させていたことになります。59年、60年は件数ゼロです。これはアイゼンハワー大統領の原爆実験凍結宣言によります。ケネディが大統領に就任してからまた原爆実験が再開されますが、キューバ危機の発生した62年は、89件ですから、これはもう“準核戦争状態”に近かったのではないでしょうか。単に「人の住んでいる場所に落とさなかっただけ」という気がします。 |
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「連邦予算の獲得」はもっとドラスティックな成功を収めます。 「アメリカ連邦政府の原子力計画への投資」を見ていただくとよく分かるのですが、マンハッタン計画を含めてこの分野における連邦予算支出は陸軍省を中心に米原子力委員会が成立するまでの期間、約22億2000万ドルでした。 このうちマンハッタン計画に直接投じられた資金は、「原爆投下直後の陸軍長官声明」などから、42年8月〜45年6月の間で19億5000万ドルだったことが分かっていますから、この33ヶ月間を12ヶ月換算してみますと、1年間に約7億1000万ドル程度だったことが分かります。 これが当時どのくらいの実勢価値をもつのか私には換算の手段がありませんが、少なくとも私に分かることは、19億5000万ドルで、全米に展開する原爆の製造工場群の初期建設コスト、それから工場操業に必要な費用、ロス・アラモスをはじめとする全米に展開する基礎・応用研究所の初期投資・運営費用、シカゴ大学、ハーバード大学、マサチューセッツ工科大学など全米にわたる大学内研究所を運営する費用などすべてをまかなっていたと言うことです。 その費用はおおざっぱに言って毎年約7億ドル程度かかり3年間続いたということになります。 陸軍長官声明によれば、クリントン技術工場はテネシー州ノックスビルの近郊に作られたのですが、この工場で働く従業員やその家族のためにあらたにオークリッジという町を作りました。この町の人口は7万8000人でした。7万8000人の人間を19億ドル5000万ドルの一部で、養うことが可能だったわけです。 ハンフォード技術工場はワシントン州にありましたが、ここも同様に従業員のためのリッチモンドという町が建設され、人口は1万7000人でした。 小さな工場は全米に散らばり、カナダまで広がっていた、と陸軍長官声明は説明しています。 従って19億5000万ドルが当時いかに巨額なお金だったかが推測できます。 一方マンハッタン計画をそっくり受け継いだ形の米原子力委員会の予算は、46年8月から65会計年度までちょうど20年間となりますが、この合計が346億4300万ドルになります。会計年度ごとに出してくれればもっとわかりやすいのでしょうが、これを1年平均にしてみますと、17億3200万ドルということになります。 実際には物価の変動につれてじわじわと予算はおおきくなっていったのでしょうが、1年間に17億ドルとみて大きく外れないでしょう。 つまりマンハッタン計画時に年間7億ドルの規模が、原子力委員会時代には2.4倍の17億ドルに成長しているのです。 65年から75年までは会計年度別に予算支出が明記されています。この間はほぼ、22億ドルから25億ドル弱と平均しています。 |
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先にスティムソンの辞任時の大統領あてメモランダムをご紹介いたしました。 その中でスティムソンは、この恐ろしい兵器から、人類が逃れ得る唯一の方法は「この兵器に封印」してしまうことだと、と指摘していました。まさに慧眼でした。 またスティムソンに全く対立する考え方、すなわち「ロシアを恐怖させて底なしの核兵器軍拡競争」に世界を導き、連邦予算をふんだんに使って「核兵器を含む原子力産業の未来を切り開こう」とする勢力があったことも申し上げました。(実際には、スティムソンは政権内部では孤立していたのですが・・・) 歴史の現実は、「警告なしの広島への原爆投下」から「ソ連との核兵器軍拡競争」へと一瀉千里になだれ込んでいき、作り上げられた「冷戦構造」の中で、アメリカの世論は、マッカシーイズムなどにもあおられながら、「共産主義との対決は正義」とし、原爆開発へ連邦予算をつかうことに何のためらいも見せなかった、盲目的にこれを支持して行くわけです。 そして朝鮮戦争が終わり、デタントの兆しが見え始める頃になると、ようやく集団ヒステリアも収まり冷静になっていくわけですが、巨額の核兵器開発予算もすでに既成事実化し、みんなこれを当たり前のこととして、根本的な疑問を提出する人も(少なくとも表面上は)、見あたらなくなりました。 また50年代ダレスの「ドミノ理論」のような粗雑な政治理論は影をひそめ、60年代になると、「国政政治論」は精緻を極める理論を展開し始めます。 原爆投下直後にすでにその萌芽がみられた「核抑止論」は、理論的にますます精緻化の一途をたどり、アメリカでは一つのたしかな理論として確立されます。 「核抑止論」はよくよく読んでみると、「同義反復」と「先決問題解決の要求」を常に満たしていない「へ理屈」なんですが、何をいってもはじまらない一つの「聖典」として、ブランドと権威をもって、国際政治理論の中にその居場所見つけ、どっかり腰を落ちつけてしまいました。 戦後こうして「核兵器保有」は、主として核兵器保有国からさまざまな既定事実化、正当化、正当理論化が行われ、一つの「常識」となっていくのです。 それがアメリカから、ありがたい「科学的ご託宣」として世界中にばらまかれ、「学問的」外形を装いながら、「核兵器保有」は「国際政治の常識」となっていきます。 これが今日「核兵器廃絶」を困難としている大きな要因のひとつだと、私は考えています。 しかしながら、「核兵器廃絶」をもっと困難にしている要因が別にあります。 それは今もなお、「広島」「長崎」への原爆投下に対して、世界の少なからぬ市民の「心情的支持」があるということです。 |
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(以下次号) |
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