(原文:http://www.doug-long.com/stimson10.htm)
(スティムソン日記の註)

1945年9月5日
再びロシア問題



 ペンタゴンで、私は離任のため、できる限り自分ができることの整理をしようとしていた。―中略―

 (最初の昼食会形式閣議の後)
 閣議が終わった後、私はバーンズと話をし、マクロイと一緒に、セント・ハーバートで作った提言の問題を提起した。すなわち、原爆問題でロシアをどう取り扱うかの問題である。
 (スティムソンは、8月12日から9月3日の間、静養した。
その静養期間中に、マクロイを呼んで「原爆管理のための行動提言」と題する文書を作成した。
この文書の日付は9月11日となっており、大統領宛のメモランダムの形式となっている。
この提言の中でスティムソンは、ロシアと話し合って原爆に関する情報を交換し、核兵器を国際管理に移そう、といっている。)

 私はバーンズがロシアと原爆問題について協力する企てに大反対であることが分かった。
バーンズの頭の中は、来るべき外相会談のことでいっぱいである。
そしてポケットに原爆を詰めて臨もうとしている。
原爆はいわば、彼にとって思いを通せる偉大なる兵器である。
また、バーンズはスターリンがポツダムでした、いわゆる裏切り行為の数々を並べた。
だから彼らからの約束はどんなものであれ信をおけないとも、云った。私はメモランダムで述べている私の見解を彼に伝えた。
私が会議に持参しなかった最新の原稿をもっていたので彼に渡した。
それから彼と別れ、彼は海外における使命へと出発した。

 (静養先からワシントンへと)戻る飛行機の中で私は、大統領に提出する辞任文書の原稿を書いた。そして陸軍省で、手書きで清書し、仕上げた。
今日の昼食会の後、別れ際に大統領に手渡した。
その後大統領は翌日12時の私との面会をセットした。