No.22 | 平成20年4月1日 | |||||||||||||||
広島地元の新聞、中国新聞で河野議長、あなたが第7回先進8カ国下院議長会議(G8議長サミット。英文正式名称=The 7th G8 Speakers Meeting)を広島で開くことを決めたという記事を読みました。 自ら広島に乗り込んで、会場を下見した上「広島開催」を決めた、と書いてあったその記事を読んで、ふっとこの手紙を出して見ようという気になりました。それは、あなたが第二次宮澤内閣の官房長官だったとき、自分で「従軍慰安婦問題」に取組み、何人かの被害者と直接面談の上、「河野談話」を出したことを知っていたからでもあります。 「河野談話」は、事務的な内閣官房の報告書とは違って、真摯な姿勢に貫かれておりました。ご自分で書かれたのか、それとも誰かに書かせたのかは知りませんが、難しい政治情勢の中で、あなたの気持ちは十分伝わっております。読むものの胸を打つ響きがあります。だからこそ、アメリカでも国連でも高く評価されたのだと思います。 広島でG8議長サミットを開催しようとした意図は、どこでも明確に語られていません。「河野氏は会見で『米国のペロシ下院議長から了解もいただいている。核問題は私のライフワークでもあり、各国議会の取り組みを話し合いたい』と述べた。」と新聞記事は伝えています。 おそらくここで「核問題」といっているのは「核兵器」のことであり、「ライフワーク」とは「廃絶に向けての取組み」のことだと思います。そうであるなら、私はみなさんで「20世紀に生起した諸問題の歴史的和解と清算」について話し合って欲しいと思います。 というのは「核兵器廃絶問題」は「20世紀の歴史的和解と清算」と切っても切り離せない関係にあるからです。 もちろんG8議長サミットという“場”では、この問題の追求に限界があるのは承知しています。それはG7なり、G8なりの生い立ちに関係があるからです。 |
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1973年世界を襲ったオイルショックとそれに起因する世界的リセッションが先進工業国首脳の関心事となりました。このため1974年、アメリカで、アメリカ、イギリス、西ドイツ(=当時)、日本、フランスの金融当局首脳が非公式に集まるライブラリー・グループ(The Library Group)が結成され、これが現在のG8の淵源とされております。 翌1975年、よく知られているように、フランスのジスカールデスタン大統領が、ライブラリーグループにイタリアを加えて6カ国とし、毎年1度持ち回りで首脳会談を行うことをランブイエで提案し、各国の首脳の賛同を得て、正式にG6としてスタートし、翌76年にカナダが加わってG7となりました。 ですからG8(当時はG7)は、マルクス経済学流に言うなら、「高度に発達した先進資本主義国同士が、その共通の利害について話し会う場であり、その利害を調整する場」ということであり、基本的にその性格は今も変わっていないと思います。 これにロシアが加わったのは、冷戦終結後の1994年、ナポリサミットからであり、このサミットに関連した先進国金融担当首脳・中央銀行総裁会議にはロシアは今も正式メンバーとされていません。 国際連合との整合性や経済大国となった中華人民共和国が加わっていないこと、貧困問題、エネルギー問題、発展途上国に対する医薬品が特許で高価についていることなどをあげて、このG8サミットを批判する向きがあるようですが、このG8が「高度に発達した先進資本主義国間の共通利害を協議する場であり、調整する場である」と考えてみれば、これら批判は的外れということになるのでしょう。 ロシアの加入には当時から批判がありました。というのはG8は「主要先進工業民主主義国」(Industrialized Democracies)ということであり、ロシアは民主主義国ではない、という批判です。今アメリカの大統領選挙で共和党の候補と決まったジョン・マケイン上院議員は当時からその点を指摘していましたし、大統領予備選挙の演説の中にもそうした主張が散見されます。 お金がなくて民衆の3割近くが事実上医療サービスの受けられない国が、民主主義のチャンピオンを標榜するというのもおかしな話ですが、これも結局「21世紀の民主主義はどうあるべきか」「誰のための、何のための民主主義であり自由なのか」という解釈問題でしょう。 そう考えれば、マケイン上院議員の主張も「ある特定の立場に立った民主主義」からの発想であり、批判のように見えて実は「民主主義の解釈の違い」ということのようです。 |
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実は極めて重要な問題は別にあります。 この8カ国で世界の人口の約14%を占めるわけですが、同時に世界の国内総生産の65%を占めております。(別紙国別国内総生産リスト参照のこと) また、世界の軍事予算の72%を占めております。(別紙世界の国別軍事予算リスト参照のこと) さらに重要なことはこのG8諸国で世界の核兵器をほとんど独占していることであります。(別紙世界の核兵器保有状況参照のこと) G8諸国で「世界の軍事パワーの70%以上」を握り、決定的な軍事要素である核兵器のほとんどすべてを握っていると言うことは、G8そのものが、「地球の安全」に対する「最大の脅威」ということになりませんか? G8の中で最大の核兵器保有国はアメリカとロシアであります。この2カ国で世界の核兵器保有を2分していると言ってもいいかと思います。フランス、イギリスも核兵器保有国です。 また核兵器は保有していないものの、ドイツ、イタリアはNATO軍のもとでアメリカの核の傘にはいっていますし、日本は日米安全保障条約でアメリカの核の傘に入っております。 「核兵器廃絶」を理念とした国際条約は現在核兵器不拡散条約(the Treaty on the Non-Proliferation of Nuclear Weapons)です。この条約は「既存核兵器保有国の核兵器独占をはかるもの」という批判がある一方で、この理念を実現するために、様々な努力が重ねられています。 その努力の中でも最も重要なことは、予告なしのIAEA査察権を認めた追加議定書の締結でしょう。現在この追加議定書締結国は日本を含む84カ国です。(2007年9月28日現在。外務省「IAEA追加議定書」平成19年11月26日) この追加議定書締結国の中に、イギリス、フランス、中国の名前はありますが、どうしたことかアメリカとロシアの名前はありません。「核兵器保有国の核兵器独占をはかるもの」という批判があながち的外れではない印象を持たせます。 しかし私は、IAEAをはじめとした世界の多くの人の「核兵器廃絶」へむけた真剣な努力を知っておりますので、こうした批判に全面的に与するものではありません。 ここでまとめて見ますと、
というところでしょうか。「G8こそ地球に対する脅威」といえば識者、専門家から笑われそうですが、案外私は「裸の王様」を指さした素直な「子供」かもしれません。 |
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ところで「G8下院議長サミット」が実は私にはよく分かっていません。今回英文の正式名称は、「The 7th G8 Speakers Meeting」(衆議院事務局)とのことです。昨年ドイツで開かれた時は「G8 Speakers Conference」だったそうですから、決まった名称もなさそうです。今まで、共同声明や宣言などがだされたわけでもありません。 それだけにある意味率直に皆さんで意見交換ができ、自由な雰囲気の中でおしゃべりできるのかなとも思います。 またそのときの議題(話題)はホスト国が決められるとのことですから、あんまり失礼にならなければ、人類普遍の価値なども話題に出せるのでしょう。実はこの点も私が、河野議長に手紙を出してみようという気にさせた要因でもあります。 もしそうだとすれば是非「核兵器廃絶」の問題と「20世紀に生起した諸問題の歴史的和解」との関係について話し合ってもらいたいのです。 考えてみればずいぶんおかしな話です。これだけ原爆の恐ろしさについて語られ、広島・長崎の惨状が明らかになり、広島型原爆に換算して5万発以上に相当する核兵器が存在しているにもかかわらず、なぜ核兵器がなくならないのか。しかもこれまで見てきたように、世界の民主主義国の看板を高々と掲げているG8諸国がその核兵器の大半を所有している現状において、核兵器がなくならない・・・。「裸の王様の中の素直な子供」である私の目からは何とも不思議な感じがいたします。 核兵器は何故今もこの地球から廃絶できないのか? この答えを得る鍵は、原爆誕生・最初の原爆実戦使用のいきさつの中にそのヒントがあるような気がします。 |
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いま、ざっと原爆誕生・最初の原爆実戦使用のいきさつをおさらいしてみましょう。 第二次世界大戦中、ナチスドイツは「原子の解放」「原子力エネルギー」を利用したあらたな兵器の開発に着手していました。ナチスドイツがこの恐ろしい兵器を手中にし、それを独占したときに世界がどうなるかを恐怖したドイツから亡命した科学者を中心としたグループは、対抗上アメリカのルーズベルト大統領に、「原子爆弾」開発を進言に行きます。この手紙はアルバート・アインシュタインの名前で書かれていました。1939年のことです。 当時「原子を解放すれば想像を絶するエネルギーが得られる」こと自体は秘密でも何でもなく、科学者によく知られた知見でした。しかしそのことと、このエネルギーを「兵器」として利用することとはまた別のことです。「原子爆弾」を製造するためには、どうやってその兵器級燃料を製造するか、また爆弾の様式はどうあるべきか、爆発させるのか、爆縮させるのかなど問題は山積していました。 当時アメリカの政権内部で語られていた「原子爆弾の秘密」とは主として、この原爆の製造過程のことを指していました。なお当時政権内部で語られていたことは、当時「第1級の秘密事項」でしたが、今では秘密でも何でもありません。米国公文書館からでも、トルーマン博物館からでも自由に取りさせて閲覧することができます。 ルーズベルト大統領は、ナチスの原爆開発の情報をヨーロッパの科学者から刻々得るにつれ、対抗上「原爆開発」を国家プロジェクトとして立ち上げることを決意します。いわゆる「マンハッタン計画」のスタートです。1942年のことでした。 このマンハッタン計画は国家プロジェクトでありながら、その内容は全くの秘密でした。予算はどうしたかというと米議会は、連邦政府を信用して全くのフリーハンドを与え予算総額をだけを承認し、内容は問わないいわゆる「目隠し予算」( a blind appropriation)でした。1942年9月から1945年6月の間で約19億5000万ドルの巨額にのぼりました。戦争中だからこうしたことがまかり通ったことは明らかです。 このいきさつは広島原爆投下直後の米国陸軍長官声明に詳しく述べてありますので一度ご参照ください。 |
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当代一流の科学者達を集めて開始したマンハッタン計画は1945年になるとほぼ原爆製造の目処がついて来ました。ノルマンディー上陸作戦が1944年6月、ベルリン陥落ドイツの事実上の降伏は1945年4月でした。 しかしここで思いがけないことが起こります。ルーズベルト大統領が脳溢血で急死するのです。45年4月のことです。ただちに副大統領だったハリー・S・トルーマンが大統領に就任し、戦争を指導するのですが、困ったことにトルーマンは大統領になって初めてマンハッタン計画のことを知ったほど「原爆」について何も知りません。 そこで当時陸軍長官でありマンハッタン計画の総責任者であった陸軍長官のヘンリー・ルイス・スティムソンが、新大統領のために「原爆」に関する諮問・提言機関として暫定委員会(Interim Committee)を組織することを進言し、トルーマンはこれを受け入れます。 とこう申し上げるといかにも暫定委員会がおおぴっらに作られたような印象をあたえますが、マンハッタン計画自体が秘密ですから、当然暫定員会の存在も秘密です。45年7月に国務長官に就任するジェームズ・バーンズは、すでにこの暫定委員会のメンバーでしたが、そのことを知っているのはほんの一握りの人たちでした。 この暫定委員会が事実上、「原爆」の扱いに関する最高意志決定機関でした。この委員会の提言に基づいて、トルーマン大統領が最終意志決定をするという仕組みがこの時できあがりました。 またこの暫定員会ができたおかげで、その議事録が残され、現在われわれが「原爆投下に関する意志決定のプロセス」をある程度まで知ることができるわけです。 ここではっきりしておかねばならないことは、「日本に対して原爆を使用する」ことは政治問題であり、「日本のどこに投下するか」は純粋に軍事問題だったということです。 従って、暫定委員会では常に政治的に問題を扱うときには「use」(使用)という言葉が使われ、投下目標委員会などで軍事問題として扱われる時は「drop」(投下)という言葉が使われていました。 暫定委員会の委員長は、陸軍長官たるスティムソンでしたから、軍事を中心とした委員会もスティムソンの管轄下にあったわけです。 |
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さて暫定委員会で話し合われていた内容は、対日戦争のことではありませんでした。もっとも重要な会議は、45年5月31日と6月1日の委員会ではなかったかと思います。 ちなみに5月31日の会議の内容を見てみましょう。(5月31日議事録) この日の会議で、委員長のスティムソンは、会議の役割を、核エネルギー問題に関して大統領に「戦時暫定管理、公式声明、法制化、戦後機構などについて勧告を行うことである。」と述べ、「暫定、としているのは戦後にはこうした諸問題を恒久的に扱う機関ができるであろうからだ。」と述べ、「暫定委員会」の性格をはっきりさせようとしています。実際戦後この暫定委員会の役割は、米原子力委員会に形を変えて引き継がれていきます。 この日の会議では、8人の委員の他に、招聘科学者として4人の著名な科学者が招かれ、また参考人のような形で、「マンハッタン計画」の開発総責任者、レジール・グローヴズ将軍と陸軍参謀総長のジョージ・マーシャル将軍も招かれていました。 議題はまず「核兵器の将来はどのように発展し、いまどの段階にいるか。」という点について科学者の意見を聴取するところからはじまります。この設問に対して科学者たちは、
実際、広島に落とされた原爆は1万2000トンの規模、長崎に落とされた原爆はプルトニウムを使った爆縮型で2万トンの破壊力だった、と後に米国戦略調査団爆撃報告は述べています。また50年代に開発された水素爆弾の破壊力はメガトン級、すなわち10億トン規模でした。 次に話題はアメリカの国内問題に移ります。科学者の提言を受けてこの会議では、
つまりこういうことです。「原子力エネルギーは将来有望な産業であるため、戦争目的のマンハッタン計画が終了しても引き続き開発していかねばならない。そのためには、工場そのものを維持するばかりでなく、核兵器燃料や兵器を引き続き製造しなければならない。また兵器としてではなく、平和産業としても育てて行かなくてならない。」ということです。 なぜ製造を続けて行かなければならないのか、という点ですが、これは原子力産業に限りませんが、原爆製造を支える膨大な関連産業を維持発展させていくためには、製造を続けなくてはならないわけです。それをストップすると企業が立ちゆかなくなるばかりか、技術レベルも後退し、原子力産業の発展を阻害するということです。 |
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次に話題は、「基礎的研究」に移ります。オッペンハイマーは「今は戦争中なので、研究の成果をすぐもぎ取れる形で進めている。しかし本来この方法は誤っている。成果がすぐ上がらなくても本来基礎的研究は幅広く行わなければならない。」と述べ、戦後の研究体制の整備問題を提言しています。 次が「原子力エネルギーの管理問題」です。この議題では、原子力の幅広い応用範囲のことが話され、招聘科学者の一人アーサー・コンプトンは原子力エネルギーの将来の応用について、「艦船の推進力、健康、化学やその他の産業分野」について触れ、科学者の総意として「こうした研究開発は、世界の 科学者が一線に並んで研究することが新しい諸開発の鍵を握るだろう。」と語りました。 しかし、原子力の平和利用にために世界中の学者が横一線に並ぶと言うことは、「情報の公開」「学者間の共有化」が前提です。この議論にマーシャルは、「他の国の科学者にあまり信を置きすぎるのもいかがなものか。」と釘を刺しています。 話がここまでくると、当然議題はロシアになります。というのは、当時原爆を開発できる能力のある国はソ連だけと見られていたからです。ここでオッペンハイマーは、「原爆開発」に関して、詳細は語らずにロシアの科学者と話し合ってみてはどうか、と提案します。 このオッペンハイマーの提案には二通りの見方ができます。一つは彼がいわゆるニューディラーの思想に共鳴しており、社会主義ソ連を好意的にみていた、だからソ連の科学者と原爆の情報を共有し、前段の議論の「世界の科学者」が横一線に並んで研究するというやり方を実現したかった、と考える見方です。実際、オッペンハイマーは国際共産主義運動に共鳴している「共産主義シンパ」と見られていました。FBIのチェックも受けており、マンハッタン計画に参加するときも、グローヴズの面接を受けて入った、いわばグローヴズが身元引受人のような形で参加しているいきさつがあります。戦後のレッドパージでは真っ先に血祭りに上げられました。 もう一つの見方は、「原子爆弾」の秘密はできるだけ早い機会に、世界の科学者との間に「情報共有」していたほうがいい、と考える立場からの発言です。この考え方は、マンハッタン計画に参加していた多くの科学者が胸に抱いていた考え方でもありました。その淵源はデンマークの有名な物理学者のニールス・ボーアの思想に求めることができるでしょう。人道主義的な立場はさておいて、
とする考え方です。私は、この時のオッペンハイマーの発言はこうした立場からの発言だったと考えています。(もっともオッペンハイマーはこうした立場を最後まで貫きはしませんでしたが・・・) |
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このオッペンハイマーの発言に、マーシャルは「ロシア(ソ連)はあまり信用すべきではない。」とやんわり反論します。そして「たとえば、これから行われる原爆実験にロシアの科学者を招待してはどうか。」と提案します。 議事録によれば、このオッペンハイマーの発言に猛然とかみついたのはバーンズです。拙訳ですが、該当箇所を引用しましょう。
イギリスとの関係とはケベック協定を指しています。しかしこれは後のいきさつを見てみるとさして障害にはなりませんでした。このバーンズの話のポイントは、「ロシアに情報公開するなど、とんでもない。」の一言に尽きます。 結局この時の議論はバーンズペースで進められました。バーンズが国務長官に就任するのは、ポツダム会談直前の45年7月ですから、彼の発言は大統領全権代表という立場からの発言と受け止められました。 バーンズはルーズベルト大統領の「刎頸の友」として知られ、同大統領の「大統領全権代表」に就任します。急遽大統領になったトルーマンも、前大統領の人的資源をそのまま引き継がざるを得ませんでした。ですからバーンズの「大統領全権代表」もそのままでした。そればかりではなく、トルーマンはバーンズと気があったようです。二人とも高等教育を受けずに功成り名を遂げたこと、「現実主義的政治家」という体質もよく似ています。(もっとも後には同じ民主党でありながら喧嘩別れをしますが・・・) この後、トルーマンは事実上内閣N0.2のスティムソンよりもバーンズを重用していきます。ポツダム会談の時は、陸軍長官でありながら、スティムソンは完全に蚊帳の外でした。 この時バーンズの頭にあったことは、「ポツダム会談」でロシアからいかに有利な条件を引き出すかということであり、それで頭がいっぱいだったと思います。 よく言われるように、第二次世界大戦は「民主主義対ファシズム」の戦いと「進んだ帝国主義と遅れてやってきた帝国主義の戦い」という両側面を持っているわけですが、ポツダム会談は「帝国主義同士の戦い」という側面が露骨にでた局面でした。わかりやすくいうと「戦勝国同士の分け前ぶんどり合戦」でした。その意味ではトルーマンもバーンズもぴったりの役どころでしたが、「原爆のもつ人類史的意味」を考え、その政策決定を行うには不向きな役者だったということになります。実際トルーマンもバーンズも結局「原爆の持つ人類史的意味」はついに理解しなかったのではないでしょうか?
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この会議は当然次の話題、すなわち「国際計画」へと進みます。今後10年間の目標として次の3点を決めます。
注目しておいていいのは、この時点ではまだバーンズが少数派だったということです。 次の議題が「日本とその戦意に関する原爆投下の効果」です。ここで注目しておいていいのは、「日本に対する原爆投下の効果」という議題が、「国内計画」、「基礎的研究」「管理と査察の問題」「ロシア」「国際計画」という文脈の中で語られており、決して対日戦争早期終結という文脈の中では語られていないと言うことです。 つまり「原子爆弾を含めた核エネルギー産業を今後どう政府の政策として扱うか、国際的な関係、特にロシアとの関係をどうすべきか」という文脈の中で語られているのです。 「原子爆弾は対日戦争早期終結のために使われた。」と信じている立場からはこの議題はずいぶん唐突に見えるかもしれませんが、「今後アメリカの核エネルギー政策はどうあるべきか。」という立場から見ると、この議題は決して唐突でも何でもなかったと思います。少なくとも出席者全員にとって決して唐突な議題ではありませんでした。 ですからわれわれも、この会議出席者と全く同じ発想、すなわちトルーマン政権にとって、「原爆を含む戦後の核エネルギー政策はどうあるべきか」という立場に立って、この「日本に対する原爆使用」の問題を眺めてみなければなりません。 ここの部分は議事録全文を引用しておきましょう。
ここではっきりしていることは、「日本に原爆を落とした場合、どれほど世界に対して効果的に映ずるか」という点に議論が集中しているころです。もちろんこれまでの文脈からして、世界とは「ロシア」を強く意識していることは言うまでもありません。 |
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面白いのは、この暫定委員会のメンバーですら「核兵器」に対する理解がまったくなかったというより、想像を絶していたことが窺える点です。 というのは、誰かが「原爆1発じゃ、通常爆撃との区別はつかないんじゃないか?」と質問をしているからです。当時実戦で使われていた爆弾で、一番破壊力が大きかったのは、英空軍が保有していた1000Kg爆弾(TNT換算。以下すべて同じ)でした。1トン爆弾はあまり重いため爆撃機に1個しか詰めず、効率が悪かったため、通常よく使われたのは500Kg程度でした。 原爆は、広島型が1万2000トン、長崎型が2万トンですから、どんな破壊力かは、ちょっと想像がつかなかったのでしょう。 多分うんざりした顔だったと想像しますが、オッペンハイマーが視覚的効果やキノコ雲まで持ち出して、「1発で充分だ」と説明します。まだ誰かがこれに疑問を呈したようで、オッペンハイマーは「複数投下」も可能だ、と答えます。 これに対してグローヴズは「複数投下」の可能性を必死になって打ち消します。というのは、アラモゴードの砂漠で最初の核実験が行われるのは、この会議の1ヶ月半後ですが、この核実験分を含めて、核兵器燃料製造の点から見てとりあえず3発しか作れないことをグローヴズは知っていたからだと思います。 また目前に迫ったポツダム会談までに、核実験を成功させて、トルーマンに「原爆カード」を持たせて送り出すことできるかどうかについても、この時点では全く確証がなかったからでもあります。 |
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ここではっきりしていることは、この会議の時点で日本に対する「警告なし」の原爆投下を行うことがきまったこと、その狙いは、世界を、特にソ連を周章狼狽させることにあったことです。 会議はこの後「望ましくない科学者」、「シカゴグループ」の取り扱いを議論し、この会議に出席していた「科学顧問団」の位置づけを議論して散会しますが、長くなりますので割愛します。望ましくない科学者とは、人道主義的な立場から、原爆の投下に反対する動きが、マンハッタン計画の中にあったことを指します。そうした人たちの牙城はシカゴ大学の冶金工学研究所でありました。 翌6月1日も暫定委員会は開催されました。 この日の中心議題はマンハッタン計画に参加している産業人から意見を聞いて、今後の提言の参考にしようというものでした。 委員長のあいさつに続いて、「競争力の懸隔」という議題で、ロシアの原爆開発がアメリカに比べてどれくらい遅れているかの分析からはじまりました。 ハンフォード工場(ワシントン州にある兵器級プルトニウム製造工場)の建設を請け負ったデュ・ポンのカーペンター社長は、同工場を建設するのに27ヶ月かかっていることを明らかにし、ロシアなら4-5年はかかるだろう、もしドイツから科学者や技術者を連れてくることができて、有力なドイツ企業が協力するならもっと早く建設できるかもしれないと、述べました。 テネシー州でY−12電磁分解工場を操業している、テネシー・イーストマン・コダックの社長、ホワイトは中級クラスの技術者の確保に苦労した話をし、ロシアの場合もっと苦労するだろうとのべました。当時すでにドイツは降伏していましたが、オブザーバーで出席していた国務次官補のクレイトンは、「ロシアはドイツの技術者をすでに確保しているようだ。」と補足します。 こうして産業人の見解に従えば、ドイツ人科学者・技術者、ドイツ企業の助けを借りれば、予想外に早く原爆を完成させるかもしれないと言うことになりました。 次の議題が戦後の「原子力産業の構造」は、どうあるべきかという話題でした。ウエスティングハウス、ユニオンカーバイドなどマンハッタン計画に参加した産業人の一致した見解は、
原子爆弾を製造し続けることが重要な訳です。貯蔵といっているのは、実際に使えないとすれば貯蔵しかないのでこういったわけですが、原子爆弾は複雑多様で裾野の広い産業の最終製品だから、これを作り続けることは、こうした産業を維持するばかりでなく、その技術水準を維持発展することにもなるし、基礎研究も進んでいくだろう、ということになります。 ここに何故現在地球を何十回も破壊できるほどの「核兵器」が積み上げられたかの説明を見いだすことができます。しかしこれは何も原子爆弾ばかりでありません。自動車産業を維持発展させるためには自動車を製造し続けなければならないのと同じ理屈です。しかし、自動車産業と違うのは、自動車は販売して実際消費されますが、原子爆弾はむやみに使うわけにはいかず、貯蔵される一方という点が違います。原爆や核兵器を製造し続けるのは、国防や「敵の脅威」のためではなく、裾野の広い産業を維持・発展させるためだ、ということが分かります。 |
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この後産業人は退出し、会場を替えて戦後の「原子力産業の構造」を委員会内部で議論します。結論として、 「暫定委員会は、恒久的な機構設立に導く勧告について責任を持つものである、こうした機構がこうした細部の問題を扱うのにふさわしい、と述べた。科学者から提出された文書の中で、必要な法整備のために、その基礎になる草稿を考慮すべき、としている点に賛意が示された。」とまとめています。この機構が戦後の米原子力委員会として結実します。 ここで「連邦予算」のことが話題になります。今日のわれわれから見れば、随分唐突な話題だな、と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。原爆開発計画―マンハッタン計画の予算は45年6月末で切れるのです。議会はそれまで戦争中だったこともあって、全くの目隠し予算を承認してくれたのですが、戦争が終わっても産業界や政権指導者の要求通り、巨額の「原子力エネルギー開発予算」を認めてくれるとは限りません。すなわち戦後予算をどう手当てするかは、戦後の「原子力産業の構造」を考える点で最も根幹となる話題でした。 この点では議事録は短く、暗示的です。
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バーンズが、次の予算措置を考えておけよ、と指示したのに対し、グローヴズは、大丈夫根回しはすんでいます、と答えた格好になります。 |
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次の話題が「日本への使用」です。もちろん原爆の使用のことです。「予算」が何故日本への「原爆の使用」なのか、関連ある話題なのか、あるいは全く関連のない話題なのか。とにかく短いですから全文引用してみましょう。 |
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もうこの日は完全にバーンズペースで進んでいますが、やはり「予算」と「日本への使用」は関連があると見るのが自然でしょう。言葉は少ないですが、これで委員の全員には、政治的に見て「日本への使用」が何を狙ったものなのかは了解されたのだと思います。 それでは、「予算」と「日本への使用」はどう関連があるのか?「できるだけ早く日本に対して原爆は使用さるべきである。」といっていますが、何故可及的速やかでなければならないのか? もうここから先は、裏付け資料が見あたらないので、合理的推測に頼る以外にはないでしょう。 まず簡単なことから片付けましょう。「できるだけ早く」は、ぐずぐずしていると日本が降伏しかねないからでしょう。1945年6月1日時点では、日本は完全に戦争遂行能力を失っていました。6月18日ホワイトハウスに政府首脳・軍首脳が集まって、「対日戦争の現状と見通し」とでも題すべき会議が開かれているのですが、その中でマーシャル将軍は自身が用意した、メモを読み上げています。
「九州上陸作戦」はヨーロッパ戦線における「ノルマンディー上陸作戦」にも比肩し得るものだ、とマーシャルはこの会議で言っていますが、それは外形上似ていると言うことで、内実は全く違います。ノルマンディー上陸作戦時には、ナチスドイツにはまだ旺盛な戦闘能力がありましたが、九州上陸作戦の時は、日本は軍事的にはほぼゼロに等しい状態でした。 もうひとつ、ノルマンディー上陸作戦時のドイツとこの時点の日本が違うことは、日本の戦争指導部から「降伏してもよい」というサインが出ていたことです。実際に7月のポツダム会談時に、「近衛特使」の話をトルーマンはスターリンの口から直接聞いています。 つまり日本は当時いつ「降伏」してもおかしくない状態でした。ですから「原爆の使用」を急ぐ必要あったということでしょう。 |
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次に「事前の警告なしに使用さるべきである。」と言う点です。この点はもっとも議論の大きかった点であります。「人道主義国家アメリカがこのような無差別大量殺戮兵器を事前の警告なしに使用するとはなにごとか。」という議論です。 この点については、暫定委員会のメンバーの一人で海軍次官だったラルフ・バードが「警告なしの原爆使用」が正式決定された後、「かかる非人道的なことは到底容認できない」と言う内容の、「留保意見」の書簡を委員長のスティムソンに送っているほどです。バードは当時海軍次官というより、金融界の大立て者でした。 私がここで「留保意見」と形容したのは、バードがこの点に抗議して暫定委員会のメンバーを辞任したかというとそうでもないからです。すくなくともこれは「抗議」ではなかった、記録に自分の所感をとどめたかった、ということでしょう。スティムソンが味わった苦悩に比べれば、いい気なものだという気がします。 当時のスティムソン日記を見ても、フランクレポートを見ても、警告なしの使用には根強い反対意見があったことを窺わせます。 この暫定委員会の4人の科学顧問団の間でもこの点は真っ二つに割れていたようです。科学顧問団が最終的に「警告なしの使用」に同意するのは、6月16日のことですが、相当な議論があったことを窺わせます。ただどのような議論の過程があったのか、誰がどんなことを言ったのか、についてはかき消すように記録が残っていません。 また「警告なしの使用」が決定されたため、後のポツダム宣言からはそれに類した表現がまったく挿入されなかったといういきさつもあります。 なぜそれほどまでに「警告なしの使用」にこだわったのでしょうか?途方に暮れる他はありません。第一警告したとしても、当時の日本にその警告をまともに受け入れる用意があったとは思えません。常識的に考えれば、「警告するか、しないか」は枝葉末節の問題だったはずです。 |
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この問題を解くヒントの一つが、「フランクレポート」の中にありました。 前述のごとく、マンハッタン計画に参加したノーベル賞級の科学者の中には主として、「人道主義」の立場から、「原爆の実戦使用」に根強く反対している科学者グループがありました。彼らの拠点がシカゴ大学冶金工学研究所です。「冶金工学研究所」というのは真の研究の目的を隠すためのカバーネームです。 その科学者の主立った人たちが集まって委員会を結成し、陸軍長官のスティムソンにあてて「政治ならびに社会問題に関する委員会報告」と題するレポートを45年6月11日に完成させます。 この委員会の委員長がノーベル賞学者のジェームズ・フランクだったため通例「フランクレポート」の名前で知られています。この7人の委員の中には後にノーベル化学賞を受賞するグレン・シーボーグ、のちに「トルーマン大統領に対する請願書」を執筆するレオ・シラードも含まれています。
という文章ではじまるこのレポートは、すぐに「われわれ科学者は、過去5年間にこの国の安全にとって、また世界のすべての国々の将来にとって、容易ならざる危険が存在することを知りうる、一つの小さな市民グループでもあった。しかもわれわれをのぞくその他の人類はこの危険を知らないのだ。」とこのフランクレポートを執筆した動機を説明しています。 このレポートは、こうした危険を避ける唯一の保護装置は「適切な政治の機構」である、とした上で、もしそうしなければ直ちに核兵器軍拡競争がはじまるだろう、核兵器軍拡競争で優位性を保とうとすれば、平和時においても核兵器を作り続けなければならない、それだけ人類の危険は大きくなり、それだけに「適切な政治機構」「国際的合意」が重要だ、それに失敗すれば、「最も早ければ、核兵器の存在を最初に誇示した翌日の朝から、核装備競争が始まることになるだろう。」と述べています。
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すなわち「今後核兵器に関する国際合意の可能性を壊したければ、日本に対して、適切な目標に一発の原爆を、警告なしに使用すればこと足りる。」とし、
ここまでを要約して言えば、フランクレポートの主張は、「核兵器は人類にとって非常に危険な存在である。これは国際管理に委ねなければならない。こうした国際管理の可能性を壊したければ、日本に1発の原爆を警告なしに落とせばいい。世界は恐怖に震えて、その翌日から世界は核兵器軍拡競争に突入するだろう。」ということになります。 フランクレポートの立場からいえば「警告なしに使用するかどうか」は、枝葉末節の問題どころではなく、「ほとんど運命的な重要性を帯びる」ことになります。 ところでこのレポートが書かれたのは1945年6月のことですから、「初めて原爆を世界に登場させる方法」が「ほとんど運命的な重要性を帯びる」ことは暫定委員会のメンバーや科学顧問団の認識でもあったはずです。 ここでやっと暫定委員会が「警告なしの使用」にこだわったのかが理解できます。つまり「核兵器を国際管理に移行する可能性を打ち壊し、世界に華々しく核兵器軍拡競争へと突入させるため」に「日本への警告なしの使用」を実施したのだということができます。 こうしてみると何故グローヴズがあれほど、「京都への原爆投下」に固執したのかも理解できます。軍部の原爆投下目標委員会では「広島」と並んで「京都」が「AA」で、第一目標とされていました。どこへ投下するかは完全に軍事問題として、軍部の判断に任されていましたが、スティムソンは「京都への投下」を排除します。45年6月1日付けのスティムソン日記にはこういう記述があります。
()内は私の註ですが、この日記の内容は同時進行形の内容としてまず信用できるでしょう。その点マッカーサー回顧録やトルーマン回顧録のように後付の弁解や自己賛美が混じった資料とは違うと考えています。 |
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ところがグローヴズはなおも「京都への原爆投下」の許可をスティムソンに求めています。7月21日といえば、アラモゴードの原爆実験に成功した頃です。スティムソンはトルーマンに同行し、ベルリン郊外のポツダムにいました。同じく暫定委員会のメンバーで委員長代行のハリソンから「原爆実験成功」の電信を受け取ります。 7月21付けのスティムソン日記の記述です。
グローヴズが原爆の「京都投下」に固執した理由は明白です。広島に投下するより、京都に投下した方が「原爆を華々しく世界にデビュー」させることになるからです。それだけ「核兵器の国際管理の機会を失わせ、核兵器軍拡競争」へと世界を導くことにもなります。 |
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(以下次号) |
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