(2010.8.9更新) | |||||||||
(原文:http://www.doug-long.com/stimson5.htm) (スティムソン日記の註)
1945年6月1日 京都に投下してはならぬ ジョージ・ハリソンと【ハーベイ・】バンディがS−1に関する暫定委員会の、今朝始まる会議の準備文書を私のところに持ってきた。今日の委員会には4人の産業家が出席する。 それから、アーノルド将軍が入ってきた。【ヘンリー・“ハップ”・アーノルド将軍。陸軍航空隊司令官。当時、空軍は陸軍の指揮下にあった】 そしてB−29による日本への空襲について話し合った。私はアーノルドに、日本では精密爆撃だけだとするロバート・ロベット【空軍担当の陸軍長官補佐官】からの約束について語り、昨日の新聞報道は、その約束からほど遠い東京爆撃のことを示していると云った。 【1945年5月23日から24日にかけての夜間、また5月25日から26日にかけての夜間にアメリカのB−29は相当な爆撃を東京に対して行った。この日記から窺えることは、スティムソンはそのことを新聞報道で知ったものということだ。】
私は、どんな事実関係があったのか知りたかった。アーノルドは、ドイツと違って、日本では工業地帯が集中しておらず、細かくしかも一般住宅とくっついて分散しているために、空軍は爆撃に際して困難な状況にある、ヨーロッパにおけるよりも、日本では軍事生産施設だけを狙って爆撃するのは不可能である、従ってどうしても一般市民に損害を与えることになる、といった。しかし、彼はできるだけ軍事生産設備だけを狙うようにする、といった。私は、私の許可なしに爆撃してはならない都市がひとつある、それは京都だ、とアーノルドに云った。 【京都は原爆の投下目標委員会で第一番目の目標とされていたが、スティムソンは京都の爆撃を望まなかった。それは前の日本の首都であり、現在は日本文化と宗教の中心地だったからである。スティムソンには、京都への爆撃は、戦後日本をロシアの陣営に走らせるような感じを持っていた。】
私は、マシュー・コナリー氏【大統領トルーマンの面会係担当官】に電話をして、バーンズ判事は、S-1に関する暫定委員会のメンバーとして極めて価値があることを示しており、相当な時間も割いて、しかも長旅の費用だってバカにならない。だからその費用を補償されるべきだ、暫定委員会の他のメンバーのほとんどはすでに政府内公僕として地位を得ており、その費用も補償されている、と云った。 コナリーはすぐに賛成し、バーンズ判事は補償を受け取るべきであり、ホワイトハウスの予算からバーンズが受け取れるようにできる、そうしよう、と云った。 11時に、私は暫定委員と産業家との間で会合をもった。次の人間が出席した。暫定委員:(ジェームズ・)バーンズ、(ラルフ・)バード、(ウイリアム・)クレイトン、(バニーバー・)ブッシュ、(ジェームズ・)コナント、(カール・)コンプトン、(ジョージ・)ハリソン。招聘産業家:ウォルター・S・カーペンター・ジュニア−デュポン社長、ジョージ・H・ブッチャー−ウエスティングハウス電機社長、ジェームズ・ホワイト−テネシー・イーストマン社社長、ジェームズ・ラファーティ−ユニオン・カーバイド社社長。招聘参加者:グローブズ将軍、(ハーベイ・)バンディ、アーサー・ページ、そして(ゴードン・)アーネソン中尉。 この会合は科学者との委員会のそれと似たような目的をもっている。(これは前日5月31日の委員会のことを指している。)すなわち招聘した諸君の仕事ぶりに対して評価の気持ちを表すと共に戦争後のS-1の管理に関する様々な義もについて討論すること、我々が今作業している産業計画を恐らくは踏襲していくことになるだろうが、それにどのくらいの長さの時間がかかるだろうかという点に関する討論である。
討論は私専用の食堂で昼食時間も続いた。そしてその後で、私は閣議に出席するために1時30分ごろその場を離れた。 閣議は30分ほどだった。私はペンタゴンに戻り、ある執務案件に出席しそれからカーク将軍とロブ少佐の診察を受けた。 私はまた【トーマス・T・】ハンディ将軍と話をした。【ハンディは陸軍参謀本部次長でマーシャルの右腕】無条件降伏の話題についてだった。フーバー氏が私に送って寄越した、戦争を短縮しもし戦闘で決着をつけるとした時の損害を避ける可能性について論じた文書をハンディに手渡した。 【ハーバート・フーバーは「対日戦争終結に関するメモランダム」という表題の文書を書いていた。 ティモシー・ウォルシュとドワイト・M・ミラーの「ハーバート・フーバーとハリー・S・トルーマン:文書上の歴史」p50-p53による。】 |