(原文:http://www.doug-long.com/stimson5.htm) (スティムソン日記の註) 1945年6月6日 トルーマンに報告するが (6月6日にスティムソンは、5月31日・6月1日の暫定委員会勧告の報告をする。) それから私は私の議題を持ち出した。先週の暫定委員会の討論の結果のことである。 トルーマンはすでにバーンズから報告を受けていると云った。(バーンズは6月1日の暫定委員会の後、すぐにトルーマンに会っている。スティムソンは自分の農場に戻って必要な休息を取らなければならなかった。この時、スティムソンは持病の心臓病の上に、不眠症に悩まされていた。) バーンズは、この委員会で達成されたことに極めて満足したようだ。 私は合意のポイントとそこでの重要な見解の事を述べた。基本的には以下の様なことになる。 “日本への最初の原爆投下が成功裏に終わるまで、S−1の事はロシアにも他にも明らかにしない。 “最大の、そして最も複雑な問題は、3巨頭会談(ポツダム会談のこと)で何が起きるかであろう。 時間を稼ぐため彼は(ポツダム会談を)、7月15日まで延ばしたといった。 それでもまだ、(原爆実験が)遅れるかも知れないこと、もしロシアが自分からこの問題を提起して、(原爆開発の)パートナーになりたいと申し込んできたら、ロシアだったらわれわれにしたであろうこと、すなわち、まだその用意が調わないとロシアにいうべきであろうこと、などを指摘した。 “私は、将来の管理に問題について委員会が提言できることは、それぞれの国が自分のなしたことについて公表を約束すること、この約束が守られているかどうか国際査察する権利を、国際委員会に、すべての国の参加の下に、与えることだけだ、と指摘した。 私は、これは不完全ではあり、ロシアも同意しないかも知れないが、まったくどうしようもない事態からはしっかり守ってくれるだけ、十分先を行っており十分な原材料も蓄積している、このことだけは分かっているといった。 “私は、このような管理体制がはっきりできあがることが約束されるまでは、いかなる情報も誰に対しても公開すべきでないことはもちろんであると云った。 それから私たちは、賛成にしろ反対にしろ、将来ロシアをパートナーに引き入れる方法について話し合った。トルーマンは私が考えているのと同じようなことを考えていると云った、すなわちポーランド問題、ルーマニア問題、ユーゴスラビア問題、満州問題についてである。 “それから、彼は私にハリー・ホプキンスがモスクワでやり遂げたことについて聞いているか、と私に尋ねた。 私は聞いていないと答えると、満州は大連港の99年租借を除いて中国に帰属すること、大連問題の解決について書面でスターリンに約束させた、と述べた。 (ハリー・ロイド・ホプキンス。http://en.wikipedia.org/wiki/Harry_Hopkins もともと社会福祉行政畑の出身で、ニューディール政策の基本設計者の一人と云われている。 ルーズベルト大統領の信任が厚く、ヤルタ会談などはすべてルーズベルト大統領のもっとも身近なアドバイザーとして活躍した。 チャーチル、スターリンとも親しく、何度も交渉している。 そのため、ホプキンス一人で国務省全体より大きな仕事をしているといわれた。 ルーズベルト大統領が死んだときに辞任を申し出たが、トルーマンのたっての頼みで、ポツダム会談前にトルーマンの密使として、モスクワにスターリンを訪れ、5月26日から6月6日まで会談を行った。) 私は、大統領に、満州を走る鉄道に関して50:50の管理権では、ロシアは中国における事実上の力を確保しようとその重心を置いているように見えると、警告した。 彼はそれは分かっているが、今回の約束は完全に明確であり、その他の約束とは異なっているといった。 “私は、彼に対日戦争のわれわれの管轄の仕事を考えるのに忙しいといった。 また空軍にどうやって正確な爆撃をさせるか考えるのにも忙しい、といった。(ここでいう正確な爆撃とは、一般市街区ではなく、産業地区・軍事地区への爆撃、という意味) ただ日本の区分けではなかなか一般市街区と区別するのは難しいといった。 私は2つの理由で今回の戦争の性質を心配していると彼に云った。 一つは、残虐行為に置いてアメリカがヒトラーを上回る、という評価があってはならないこと。 2つ目は、アメリカの空軍が、日本を空襲で完全に破壊しつくし、新しい兵器(原爆)の効果が、その威力を公平に判断できなくしてしまいはせぬか、と少しばかり恐れているといった。 彼は笑って、分かった、といった。 時間が少なく、私は私の抱えている議題にそれ以上立ち入ることができなかった。 ―略― |