【更新】2010..8.3 
(原文:http://www.doug-long.com/stimson5.htm)

   この記事は今からおよそ4年前にいったん掲載していたが、今読んでみると私の、背景情報の理解不足や翻訳の不備が目立つ。また当時はいらないと思って略した部分も今となっては必要かも知れない、と思うようになった。そこで更新することにした。文中小さめの青字の部分は私の註。[ ]はダグ・ロングの註である。この日45年5月31日は、午前10:00から暫定委員会が開催されている。文中「S-1」とあるのは「マンハッタン計画」のこと。しばしば「原爆」も意味している。暫定委員会のメンバーについては次を参照の事。
http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/Interim%20Committee.htm>。
 


1945年5月31日
次第に浮き上がるスティムソン



 陸軍省に8時40分についた。極めて早い時間だ。

 S−1に関する暫定委員会を招集する前に、ジョージ・ハリソンとマーシャル将軍と話をした。私はできる限り入念にこの委員会の準備をした。私には開会の仕事があったからだ。そしてそれ(暫定委員会)がなんであるかを語り、科学者たちを参加させてどんな事を話して欲しいと期待しているかを語った。以下が出席者のリストである。

暫定委員会:  [ラルフ・]バード海軍次官、[ウイリアム・]クレイトン国務長官補佐官、[元連邦最高裁判所判事。ジェームズ・]バーンズ、ブッシュ博士、コナント博士、OSRD(科学研究開局)のコンプトン博士、それにジョージ・ハリソン。 

 招聘科学者[科学顧問団] カリフォルニア大学のJ・ロバート・オッペンハイマー博士、コロンビア大学のエンリコ・フェルミ博士、カリフォルニア大学のアーネスト・O・ローレンス博士それにシカゴ大学のアーサー・H・コンプトン博士。

 招聘者: マーシャル将軍、グローヴズ将軍、ハーベイ・バンディ、それにアーサー・ページ。

 暫定委員会の書記はR・ゴードン・アーネソン中尉。(発足時は少尉だったが、昇進している。)

 私は招聘科学者に、誰が委員であるか、暫定委員会のことであるが、何のために設立されたかを語った。それから切り替えて、彼らに、招聘科学者に、欲していることについて語った。最初に彼らがなしたことにお祝いを述べ、また感謝を述べた。それから質疑応答に入った。最初は少々ぎこちない滑り出しだったが、私自身の態度やこの新たな事業に対する陸軍の態度に配慮して、彼らの頭からは幾分いい考えが出てきたように思う。

 彼らに(科学顧問団に)我々は新兵器が単に新たな軍事兵器とは見なしておらず、世界に対する人類の関係を革命的に変えてしまうものであること、この優位を何とか利用したいこと、また文明の破滅を意味すらするかも知れないこと、あるいは文明が全きものとなることを意味するかも知れないこと、あるいはわれわれを食い尽くしてしまうかも知れないフランケンシュタインとなるかも知れないこと、あるいはより世界平和を完全なものにするかも知れないこと、などを説明した。

 そしてしばらくすると、やがて非常に議論が活発となってきた。私はマーシャルを招き寄せ、私がホワイトハウスに行かなければならなくて留守にする間、マーシャルに議論を活発にする役割を委ねた。私は、科学者たちに対して、私たちが政治家らしくこの問題を見ていること、そしてどうしても単に戦争に勝とうとしている兵士でないという印象を与えたように思う。一方で、彼らはみんな素晴らしい業績の持ち主だ。フェルミ博士、ローレンス博士、コンプトン博士はノーベル賞受賞者だし、オッペンハイマー博士は、ノーベル賞こそ得ていないものの、間違いなく第1級の科学者だ。

 1時間半後、私とバードはそこを離れホワイトハウスに行かなくてはならなかった。そこで大統領がフランク・ノックス夫人に、フランクに遺贈する勲章の授与式が行われていた。[フランク・ノックスは元海軍長官。1944年4月28日に亡くなった。]

 授与式が終わった後、メイベル(スティムソン夫人)はバードがご婦人方にふるまう昼食会に行った。私はペンタゴン・ビルに引き返した。そして45分後に、(暫定委員会の)同じ連中と一緒に昼食を摂るため上階に上がった。私が戻った時、私は依然彼らが議論の真っ最中であることがわかった。みんな大変熱心だった。私もその中に入った。そして(午後)1時20分みんなで昼食に出かけ、そしてそこでも話が続いた。ために私は3時半まで抜け出せなかった。本当に長い一日だ。

 今日は、調子の悪い昨晩の後で[スティムソンはしばしば不眠症に悩まされた。]、いらいらしながら1日が始まったが、私は精一杯働いた。よくあることだが、人は何かに興味を持つと、惰気を放り投げるものだ。私は事態を成功に持って行っている感じになった。

 マーシャルは、後で彼に会いに行ってみると、とてもそれに(it。委員会にということか、当面している仕事に、ということか)情熱的だった。彼は、優秀な連中が揃っている、事態はとてもいい、それは全員の意見だ、といった。

 [その日の暫定委員会についてスティムソン長官は、そういって5月31日の日記で、結論づけている。しかし、その日の会議で何が進行したかについて若干情報を増やす意味で、私は次のようなコメントをつけた。5月31日の暫定委員会で、ジェームズ・バーンズは、ソ連と核兵器の国際管理の目的で原爆について話し合いを開始するというマーシャルとオッペンハイマーの提言に対して反対議論をした。逆にバーンズはソ連と話し合いをしないという合意を勝ち取った。ロシアに対して原爆のことを告げることに反対という合意は45年6月21日の暫定委員会で保留された。]

 [この会合でスティムソンが述べた、“戦時中の仮の管理、公式声明、法制化、戦後機構に関して勧告を行う”という暫定委員会の目的にもかかわらず、いかに原爆を日本に使用するかという議論があった。科学顧問団のメンバーである、アーサー・コンプトンは後に5月31日の会議の間、“原爆を使用するやむをえない結論だったかにみえる。”(アーサー・コンプトン著『原子の探究』p238)と書いている。]

   ダグ・ロングのコメントは面白い。この日の結果にスティムソンは満足だった、しかし現実には、満足できる結果ではなかった、ソ連と核兵器の国際管理の問題で原爆について話し合いをしようという、マーシャルとオッペンハイマーの提言を、バーンズは抑えつけたではないか、そして警告なしの使用をほぼ決めた、もしこの時、マーシャルやオッペンハイマーの議論が通っていれば、アメリカはソ連と話し合いをもって原爆の共同管理(イギリスも加えて三カ国の核兵器独占体制)が実現でき、広島・長崎への原爆投下はなかった、といいたいようにみえる。

 しかし、これは私には原爆を広島・長崎に投下させない道があったのではないか、というダグ・ロングの思いがこうした読み方をさせたのだ、と思う。暫定委員会の議事録を素直に読む限り、「日本に対する原爆の使用」そのものの是非については全く議論された跡がない。どのように使用するかの議論はあった。しかし日本に対する使用そのものは、決定事項というか、全員の暗黙の了解事項であったかにみえる。

 従って、オッペンハイマーやマーシャルの提言、「ソ連と話し合いをして原爆の共同管理を実現しよう」という提案と「日本への使用」問題は、因果関係がないと考える方が合理的だ。別な言い方をすれば、この時点で「ソ連との核兵器の共同管理」をしようがしまいが、「日本に対する原爆の使用」は実施されたであろうということだ。

 すなわち「ソ連との話し合い」の後、日本への使用となるか、日本への使用の後「ソ連との話し合い」となるかの順序の違いが生じていただけだと私は考える。
 現実の歴史は、「核兵器の日本への使用」、「ソ連の核兵器の保有」、「アメリカ・ソ連・イギリス三カ国による核兵器独占体制の構築とその失敗」(部分的核実験禁止条約)、フランス・中国を加えて5カ国による「核兵器独占体制の構築とその一応の成功」(1970年の核兵器不拡散条約の発効)、という順序で物事は生起する。

 核兵器不拡散条約が一応の成功というのは、独占体制が貫徹できなかったからだ。この時期、イスラエルとインドがすでに事実上の核兵器保有国だったにもかかわらず、核兵器不拡散条約に参加しなかったからだ。)