No.22-6 平成20年5月18日

拝啓、河野衆議院議長殿 21世紀を、歴史的和解の世紀としませんか?
その6 「ヒロシマ・ノート」批判U−ヒバクシャは次の瞬間の私たちの姿


「心情的原爆投下肯定論」4つの類型

 前回までの手紙で、心情的原爆投下肯定論のお話をし、これが1945年の原爆投下推進勢力が、原爆投下直後から始めた「原爆投下正当化」キャンペーンの最大の成果である、と申し上げました。

 戦後60年以上も経って、心情的原爆投下肯定論は世界に広く深く根を張り、45年当時の「原爆投下推進勢力」の真の目的、すなわち核兵器を含めた「原子力産業の育成とそれに対する連邦予算の無批判な支出」、を覆い隠し、ある意味では現在の世界の、「核兵器保有」の状況を黙認し、その手助けをしてきたといっても過言ではありません。

 今日G8諸国が世界の核兵器のほぼ全部を保有している状況では、世界に蔓延する「心情的原爆投下肯定論」を批判し、排除してしまわなければ、核兵器廃絶至る地球市民の決意と合意は、決して形成されないだろう、と考えるに至りました。

 私はこの前の手紙で、心情的原爆投下勢力を、「あの戦争」に対する姿勢・態度によって、4つのグループに分類いたしました。すなわちー。

   1.積極的肯定論
   2.消極的肯定論
   3.原爆投下不必要論
   4.原爆/歴史切離論  

 です。

 4つのグループのうち、もっともわかりにくく、外観と実態が乖離し、そして自らを深く韜晦しているのが4.の「原爆/歴史切離論」です。

 「原爆/歴史切離論」では、まず「広島への原爆投下」とその「理由」「原因」「背景」、特に日中戦争・太平洋戦争との関係を切り離します。そして、そのどれについても不問に付します。つまり自ら進んで、無批判・判断停止状態に入ります。
 
 こうすることで、「原爆投下」と「あの戦争」を中心とした歴史とを切り離します。そして次に、話題を「原爆における人間的悲惨」に限定します。まるで、広島原爆について語るべきことは、その「人間的悲惨」しかないかのごとくです。その「人間的悲惨」も、先にいったん歴史から切り離しを行っていますから、戦争における「他者の人間的悲惨」との比較を拒否します。こうして「他者の人間的悲惨」との比較検討―それは歴史の相対化作業となる極めて有益なことなのですが−を断ち切った「人間的悲惨」を、私は広島原爆における絶対的「人間的悲惨」と名付けることにしました。


被爆者援護と「原爆/歴史切離論」

 「原爆/歴史切離論」者は、なぜこうした複雑で不自然なことをしなければならなかったか?

 それは、歴代保守党政府から、なにをさておいても「被爆者援護」を引き出すためでした。

 戦後被爆者は悲惨な状況に置かれました。日本人全体が悲惨な状況ではありましたが、被爆者の悲惨さはちょっと別です。「原爆」という「全く異なる質の破壊」に遭遇した被爆者には、緊急に、特に医療援護が必要でした。しかもそれは気の遠くなるほど長い時間が必要な医療でした。たとえば、1945年広島で被曝した人の、「ガン」発生リスクのピークは、医学的には2010年にやってくるという研究もあります。(広島大学・原爆放射線医科学研究所)

一方日本は戦後、日米安全保障条約のもとで、軍事的には、アメリカの世界軍事戦略網の中にどっぷりと漬かり、極東の前線基地化しました。また政治的にも、「対米従属」という言葉がぴったり来るほど、アメリカの世界戦略の中にがっしりと組み込まれました。また、できるだけ安いコストで、近隣諸国との関係修復をし、国際社会に再デビューをしなければなりませんでした。貿易立国は日本の国是となりました。

 日本政府は戦後「原爆問題」に関して、アメリカ(ここで私がアメリカといっているのは、原爆投下勢力に事実上支配されているアメリカという意味です。)と対立関係に入りたくありませんでしたし、戦後すぐ再編復活した日本の支配層もそれを望みませんでした。

 被爆者たちに、「アメリカ原爆投下責任論」や「侵略戦争と原爆との関係」など、複雑な「歴史問題」など持ち出されたくなかったのです。歴代保守党政権が、肯定しやすい形で「被爆者援護」引き出すには、「原爆/歴史切離論」が有効でした。

 1957年(昭和32年)の原爆医療法の制定、1968年(昭和43年)原爆特別措置法から1994年(平成6年)の原爆被爆者援護法にいたる、様々な被爆者援護の諸活動で、各段階の保守系議員が活躍したのも偶然ではありません。

 いま、試みに、1994年制定された原爆被爆者援護法(原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律)からその前文を見てみましょう。

昭和二十年八月、広島市及び長崎市に投下された原子爆弾という比類ない破壊兵器は、幾多の尊い生命を一瞬にして奪ったのみならず、たとえ一命をとりとめた被爆者にも、生涯いやすことのできない傷跡と後遺症を残し、不安の中での生活をもたらした。

 このような原子爆弾の放射能に起因する健康被害に苦しむ被爆者の健康の保守及び増進並びに福祉を図るため、原子爆弾被爆者の医療等に関する法律及び原子爆弾被爆者に対する特別措置に関する法律を制定し、医療の給付、医療特別手当等の支給をはじめとする各般の施策を講じてきた。また、我らは、再びこのような惨禍が繰り返されることがないようにとの固い決意の下、世界唯一の原子爆弾の被爆国として、核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の確立を全世界に訴え続けてきた。

 ここに、被爆五十年のときを迎えるに当り、我らは、核兵器の究極的廃絶に向けての決意を新たにし、原子爆弾の惨禍が繰り返されることのないよう、恒久の平和を念願するとともに、国の責任において、原子爆弾の投下の結果として生じた放射能に起因する健康被害が他の戦争被害とは異なる特殊の被害であることにかんがみ、高齢化の進行している被爆者に対する保健、医療及び福祉にわたる総合的な援護対策を講じ、あわせて、国として原子爆弾による死没者の尊い犠牲を銘記するため、この法律を制定する。」

 法律の前文からは、1945年の広島・長崎の原爆攻撃から、その歴史性が見事に取り除かれています。またその遠因だった、日中戦争・太平洋戦争については全く触れていません。ついでに戦後の歴史性も抜き取られています。まるで原爆は自然災害だったかのようです。「核兵器の究極的廃絶と世界の恒久平和の確立を全世界に訴え続けてきた。」とは云っていますが、まるでとってつけたかのようです。

 これが典型的な「原爆/歴史切離論者」の文章です。


「原爆/歴史切離論」の本質

 「原爆/歴史切離論」者にとって、歴史からの切り離しは必然でした。従って多くの「原爆/歴史切離論」者はまた「原爆被爆者援護論者」でありまたその支持者でもありました。

 「原爆/歴史切離論」の「ふるさと」がヒロシマであるのはこうした事情によります。

 私は、前の手紙で、「心情的原爆投下肯定論」を
 その心情は良く理解できるし、時には共感すら覚えるが、1945年の原爆投下に関する誤った歴史認識に基づく誤った支持、あるいは誤った認識 』
 と定義いたしました。

 この定義に当てはめてみると、「原爆/歴史切離論」は、「原爆投下は対日戦争終結のためだった」とする歴史認識を根底におきながら、「原爆」から、その「理由」「原因」「背景」を切り離し、ひたすら「原爆の人間的悲惨」にのみ、焦点をあて、その情景を描き続けるという誤りを犯しております。原爆の人間的悲惨にのみ焦点を当てることによって、「原爆が何故、誰のために実戦で使われ、そしてそのことが戦後の核兵器保有の状況とどうつながっているのか。」という根本問題から人々の目をそらし、結果として原爆投下勢力、「意図的原爆投下肯定論者」の手助けをしてきたのでした。

 ですから、これは立派な「心情的原爆投下肯定論」の一派なのです。

 しかも、「原爆/歴史切離論」は、原爆と歴史を切り離すことによって、「ヒロシマ」を完全な被害者の立場に置き、あの戦争で侵略された諸国、特にアジア諸国の人々の反発を買い、彼らをさらに心情的原爆投下肯定論の側に追いやることによって、核兵器廃絶の地球市民の決意を削ぎ、団結を壊す働きをしたのでした。

 私は、この直前の手紙で、こうした「原爆/歴史切離論」を代表する著作として、大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」を取り上げ、「原爆/歴史切離論」の本質とその働きを明らかにしようとしました。


 原爆/歴史切離論」を代表する著作にふさわしく、大江は、この「ヒロシマ・ノート」のどの箇所においても、「いかなる政治情勢のもとで、何故、また何を要因として、原爆が投下され、その結果世界がどうかわったか」について一言もふれません。

 それは彼には関心がないからなのか、あまりに自明だからか、そのことすらこの本から窺えません。大江はひたすら、「広島の人間的悲惨」の世界に、読者を誘います。

 わずかに、
 戦争の、よりすみやかな終結のために要請された武器という、原爆そのもの善の方向への意味づけの試みは、攻撃に参加した兵士の心の平安のためにすら十分でなかった。それは、連合国と日本軍をひっくるめて、攻撃非攻撃の方向のプラス、マイナスにかかわらず戦争というものの悪の絶対値をそのまま、体現するものとなった。」(X. 屈服しない人々 P110)
と述べている箇所くらいでしょうか?

 ここで、大江は「原爆は戦争終結のために使われた」といっているかというと、そうではありません。そうした理屈づけすら、攻撃に参加した兵士の「心の平安」をもたらしてはいない、と言っているに過ぎません。結局、原爆を含め、戦争というものは「悪」である、という使い古された逃げ口上の世界に逃げ込んでいるに過ぎません。大江自身の「原爆投下について歴史的評価」は、この本のどこにも記されていないのです。

 このことは「原爆/歴史切離論」者の大きな特徴として記憶しておかねばなりません。


大江の空想の意味

 この大江の議論の立て方は必然的に次のような、「広島の原爆の実相」を覆い隠す、原爆投下推進勢力が企図と同じ結果となる誤った世界へと人々を導きます。

 広島への原爆投下に当たって、その作戦を決定したアメリカの知識人たちのグループの心に、次のような<人間的な力の信頼、あるいはヒューマニズム>が、ひらめいたのではないか、とぼくは疑うのである。この絶対的な破滅のにおいのする爆弾を広島に投下すれば、そこにはすでに科学的に予想できるひとつの地獄が現出する。しかし、それは人間の文明の歴史のすべて価値を一挙に破滅させてしまうほどにも最悪の地獄ではないだろう。その地獄のことを考えるだけで、すべての人類が、人間であり続けることに嫌悪感をもよおすほどの、まさに恢復不能の最悪の地獄ではないだろう。・・・・』

 なぜなら、広島では、その地獄をもっと人間的な地獄にかえるべく働く人間たちがいるだろうから。ぼくはかれらがこのように考えて、すなわち、いま自分たちが地獄におとそうとする、敵どもの人間的な力を信頼して、すなわちそのようなパラドキシカルなヒューマニズムの確信において原爆を投下する最後の決断をしたのではないかと疑うのである。 』
(<X.屈服しない人々 P111 >


 まず大江の空想のように考えた「アメリカの知識人」は一人もいませんでした。大体、投下時に原爆のことを知っていた知識人は、マンハッタン計画に従事した科学者、スティムソンが「産業人」と呼んだ軍産学複合体制を代表するほんの一握りの大企業経営者、それに軍部トップのほんの一握りの層、軍産学複合体制の要を握った、これもごくわずかの大学人、そして政策決定に携わったトルーマン政権中枢のわずかな人間、くらいしかいなかったわけです。全員が知識階級に属していたといっても過言ではないでしょう。これを大江の云う「知識人」と想定するとー。

 原爆のことを知っていた知識人は3つのグループにわかれました。

A. 原爆の人類史的意味を察知し、原爆の実戦使用に最後まで反対したグループ。
B. 原爆の人類史的意味を理解せず、アメリカの帝国主義的な利益を優先して使用に賛成したグループ
C. 原爆の人類史的意味を理解したが、アメリカの帝国主義的な利益を優先したグループ。

 スティムソンはこの間をもっとも激しく揺れ動いた代表格だったでしょう。

 ラルフ・バードやオッペンハイマー、グルーヴズ、コンプトンは典型的なCグループだったでしょう。

 トルーマンやバーンズは典型的にBグループだったでしょう。

 レオ・シラードやジェームズ・フランク、ニールス・ボーアは典型的にAグループだったでしょう。

 確かなことは大江の空想に該当する知識人は一人もいなかったということです。それは当然でしょう。文学的空想としても、「原爆投下で地獄が出現するが、その地獄の中から必ず立ち上がる人間がいるだろう、その人間が存在することを信じて原爆を落とそう。」などという、ひねこびた「ヒューマニズム」など、だれも思いもつかないでしょう。大江の空想の方が無理なのです。不自然なのです。

 今の問題は、なぜ大江にこのような苦しい空想がうまれたのか?と言う点です。

 大江もまた、「戦争終結のために原爆が使われた」と考えていたことは確実でしょう。しかし、大江は口が裂けてもそのことには触れません。触れれば、即座に「あの戦争」と「原爆投下の関係」否応なく、踏み込んで行かなくてはならなくなります。しかし、これだけ「ヒロシマの人間的悲惨さ」を描きながら、なぜその人間的悲惨さがもたらされたのかに全く触れない不自然さは、大江も当然気づいています。ですから、「原爆投下」と「歴史」を切り離したままで、その「何故」に触れようとする、大江一流の触れ方が、先ほどの苦しい空想、と言うことになります。ですから、あの空想に何らかの根拠があったわけではありません。言い換えれば、何らかの研究や勉強の成果としてあの空想が生まれたわけではない、ということです。

 これも、「原爆/歴史切離論」者の大きな特徴として記憶しておかねばなりません。すなわち、この論者の特徴は、「広島や長崎への原爆の実相」に踏み込んで勉強や研究をしないことが特徴です。それはある意味当然かもしれません。

 「原爆/歴史切離論」は、「広島への原爆投下」とその「理由」「原因」「背景」、特に日中戦争・太平洋戦争との関係を切り離します。そして、そのどれについても不問に付し、自ら進んで、無批判・判断停止状態に入る、と私は先ほど申し上げました。判断停止状態に入った人間がそれ以上の疑問や探求をしようとするはずがありません。この論者はひたすら、「原爆の人間的悲惨さ」をのみ語ります。

 ですから、この章での力点も、当然原爆を落としたものの心情や「パラドキシカルなヒューマニズム」にあるのではなく、原爆の投下にもかかわらず雄々しく立ち上がる広島の被爆者に力点があります。

 原爆投下を決定した知識人の「パラドキシカルなヒューマニズム」などは、いわば話の「まくら」であります。


広島の原爆の実相

 「原爆における人間的悲惨」の描写、「原爆から立ち上がる雄々しい被爆者」の描写、「被爆者援護」という目的のためには、これで十分でしょう。しかし「広島の原爆の実相を考え、その作業を通じて、現在の核兵器保有の世界を考える、そして核兵器廃絶への道程を冷静に考える。」と言う作業を念頭に置いてみると、この大江の記述は、その出発点から、すなわち「広島の原爆の実相」を伝えるという作業から道筋を大きく曲げています。

 「広島の原爆の実相」は「被爆者の人間的悲惨」そのものではないからです。

 「原爆/歴史切離論」は、歴史から「原爆投下」だけを切り離し、絶縁状態においた時、「原爆投下」を巡る「原因」「理由」問題をどこに持っていくでしょうか?行き着くところは、これまでもさんざん使い古され、手垢まみれになっている「善悪問題」「モラル・倫理問題」しかありません。

 大江は次のように「ヒロシマ・ノート」の中で書いています。

 人間の歴史はじまって以来の、もっとも圧倒的な悪の攻撃にあたって、緒戦は人間がわの敗北におわったというべきであろう。 』(X.屈服しない人々 P129)

 これは原爆症と戦う広島の医師たちの努力がいかに報われないかを描写した時の文章です。しかし、こうした献身的な医師たちの努力がいつの日か実を結んで、「悪の攻撃」に対して「人間側」が勝ちどきを上げるだろう、と言いたいことも良く理解できます。

 「人間の歴史はじまって以来の」は大江独特の文学的表現ですから、これはいいとして、問題は、「原爆攻撃」を「悪」ととらえる捉まえ方です。文学的には「悪=原爆」対「善=ヒューマニズム」という対立構図があるいは成り立つのかも知れませんが、1945年の原爆は文学的空想の世界ではありません。100%散文的現実の世界です。

 その散文的現実の世界からみれば、原子爆弾自体は悪でも善でもありません。人間の生み出した科学技術上の産物です。それ以上でもそれ以下でもありません。

 原爆は「風の谷のナウシカ」に出てくる「巨神兵」ではありません。それ自体意志を持たないのですから。

 今から、6500万年まえに、地球に直径10Kmほどの隕石が落ちたとする仮説があります。この仮説に従えば、その時地球が受けた衝撃は核兵器数千個分だったとのことです。当然地球は壊滅的大混乱に陥りました。白亜紀、ジュラ紀に栄えた恐竜がこの時絶滅した、と言う説明によく使われています。

 アメリカに、もしこの時程度の隕石が地球に落下したらどうするか、と言うテーマで研究しているグループがあります。実際このグループは、地球に衝突しそうな、100個あまりの隕石を監視していて、もし衝突が避けられそうにないと分かった時の対策を立てているそうです。その対策の一つが、核兵器を搭載したミサイルを、この隕石に命中させて、地球が大混乱しない程度に粉砕するか、あるいは最低限、衝突軌道がそらそうというものです。

 随分SFチックな話ですが、大江より空想的とはいえないでしょう。この時の核兵器は、決して「悪」ではありません。

 原爆はそれ自体悪でも善でもありません。それが散文的現実です。

 だからこそ、「フランクレポート」が云うように政治的に統御できるし、スティムソンの云うように「封印」することもできます。完全廃絶もできます。

 今そうできていないのは、「核兵器を封印」「廃絶」したくない勢力があって、彼らが絶大な権力と支配力を持っているからだ、そして「核兵器保有正当化」のイデオロギーを世界中に植え付けたからからだ、というほかはありません。そしてその勢力の起源が「原爆投下推進勢力」でした。

 「原爆を使用する人間たちの邪悪な心」と言い換えてみても事態は一向変わりません。「原爆の使用」に関して「善悪問題」はその本質のひとつですらありません。最も重要な本質は「損得問題」です。原爆投下は誰にとって利益であり、誰にとって不利益だったか、この点を見抜くことが、その本質なのであり、それはそのまま現在の核兵器保有の実相に直結しています。

 「核兵器廃絶」という立場からみると、「広島の原爆の実相」のうち、もっとも重要な側面は、「核兵器保有正当化」の起源としての「広島の原爆」です。
その意味では、「広島の原爆の実相」を調査・研究することは、現在の「核兵器保有の実相」を解明する出発点であり、「宝庫」なのです。

 大江の底の浅い「原爆悪論」や、「人間的悲惨論」は、もっとも重要な「広島の原爆の実相」覆い隠す以上の意味を持ちません。

 この底の浅い、「原爆=悪」「ヒューマニズム=善」の二元論は、<X 屈服しない人々>の中で延々と続きます。私の立場から云えばこうした大江の内容のない饒舌にはいささかげんなり致します。

 ・・・それは(*広島の人間性の恢復ことです)、もちろん広島の人々自身のための努力であったが、同時に、原爆投下者の良心の負担を軽減させるための努力でもあった。 』(P112)

 科学者たちに爆発後の地獄への想像力が欠けていたはずがあるまい。・・・(それが行われたのは)・・・人間的なものを一切受けつけない悪魔的な限界の向こうでから、人間がなおかつそこに希望を見いだしうる限界のこちらがわへまで緩和されるであろう、という予定調和信仰的な打算が可能であったからであろう。 』(P113)

 ・・・襲いかかろうとする犠牲羊のもっている、自分で自分の後始末をする能力への、狼の信頼。これは僕がヒューマニズムをめぐっていだく、もっともみにくい悪夢だ。しかし、これが単に僕の妄想にとどまると僕が考えているわけではない。』(P113)



 トルーマン政権中枢は、このような浅い善悪二元論ではもちろん動いていませんでしたし、原爆投下に賛同した科学者たちも、広島や長崎がどうなるか、放射線の影響まで含めて十分承知していました。しかも原爆投下は、戦争を終結させるためではなく、全く新たな核兵器時代を幕開けさせることが目的でした。

 「原爆投下勢力」(軍産学複合体制)にとって、ヒューマニズムなどは最初から問題ではなかったのです。そこが「原爆投下勢力」の恐ろしさであり、現在の「核兵器先制攻撃論者」の恐ろしさです。彼らは自分たちの体制の利益になると、総合的に判断すれば、何でも実行します。それは大江の貧弱な想像力をはるかに超えています。

 今の問題は、大江のいう「善悪二元論」ではなく、「地球全体の人類全体にとって得」か「ごく一握りの、しかし圧倒的な権力を握った原爆投下勢力にとって得」か、の“取り引き”問題なのです。“取り引き”の価値尺度を、精々10年か20年間に置くのか、それとも文明論史的な長期間に置くのか、という「計算」尺度の問題なのです。

 従ってわれわれは、核兵器廃絶問題を考えるにあたって、大江のような底の浅い「モラリスト」であってはならないのです。冷静に計算高い「リアリスト」でなければならないのです。そして文明史論的に見て、また地球上の人類にとって、「核兵器廃絶」が損か得かを冷静に判断し、決断しなければなりません。


比治山のABCC

 大江の目には、こうした原爆投下勢力の「非人間性」が目に映りません。そこに根本的な批判が届きません。彼の視野に入っているのは、「広島の人間的悲惨」であり、そこから恢復しようする人たちでしかありません。

 比治山のABCCの患者待合室で、おだやかに順番を待っていた被爆者たちの忍耐力のことを僕は思い出す。少なくとも、彼らのストイシズムが、アメリカ人の医師たちの感情的な負い目をおおいに救っているであろうことは確実だ。 』(P114)

 広島に入ってきた占領軍にもまた、彼ら自身が解き放ったこの巨大な怪物の取らえ方がわかっているのではなかった。彼らもABCCを作り調査をはじめることから何とか手がかりをさぐり当てようとしたに過ぎなかった。 』


 ここはABCC(the Atomic Bomb Casualty Commission)の評価に関わる記述です。大江はこの記述で見る限り、ABCCを全く原爆の被害について分かっていない、民間の医師や科学者の集まりであり、内心広島に原爆を投下したことを申し訳なく思っているアメリカ人の医師たちがいた、と考えていたようです。

 ABCCには、次に述べる理由によって、医学研究者や医科学者はいましたが、病気の治療に当たる医師は一人もいなかった、と考えられます。

 といって私にABCCがわかっているわけではありません。ただこの組織について大江より若干知見が多いので、大江のような牧歌的な見方はしておらず、批判の目を向けざるを得ないのです。

 まずこの時期、『広島に入ってきた占領軍にもまた、彼ら自身が解き放ったこの巨大な怪物の取らえ方がわかっているのではなかった。・・・何とか手がかりをさぐり当てようとしたに過ぎなかった。』という認識は完全に誤っています。

 日本に対する「戦略爆撃」の効果がいかなるものだったか調査して大統領に報告しようとする「戦略爆撃調査団」は、1945年8月15日に大統領トルーマンの命令で組織され、9月には早くも東京に調査団本部を設置しました。

(* トルーマンが命令した戦略爆撃調査の命令は、太平洋戦争に関わる部分だけでした。ヨーロッパ戦線に関わる部分は「ヨーロッパ編」として44年11月3日にルーズベルトの命令で着手されています。)

 この調査団は、原爆に関わる部分だけを別編にしてまとめ、46年6月に「米国戦略爆撃調査団報告―広島と長崎における攻撃の効果―」(U. S. Strategic Bombing Survey: The Effects of the Atomic Bombings of Hiroshima and Nagasaki)として、本編とは別にいち早く報告書がトルーマンに対して提出されています。この調査団は、基本的にアメリカの陸海軍合同調査団でしたが、一部民間医学研究者や軍部の医学研究班など医学者も参加していました。

 原爆の人体に与える影響部分は、恐らくはこうした医学者、医科学者などの手によったものでしょう。この調査団の調査は45年10月から12月までの10週間と比較的短期間でありましたが、それでも相当な事実を掴んでおります。中から一節を引用しておきましょう。


1946年の戦略爆撃調査団報告

 これは、「原爆の働き」という章の「放射能」という一節からの引用です。

 爆発におけるエネルギーの大量放出を生み出す(核の)連鎖反応は、広い帯域の放射線を発散する。しかし飛び出す中性子(free neutron)や極めて高い周波数の放射線、例えばガンマ線などは新しい現象である。こうした放射線は極めて透過的でありまた破壊的(lethal)である。

(* この項の書き手がガンマ線などの放射線を表現するのにlethalという言葉を使っていることに注目してください。この言葉は文字通り「致命的」という意味です。たとえば、a lethal dose of poison -致死量の毒薬-となります。)

 放射線の損傷を与える透過性は恐らくは次の3つの発生源に由来するだろう。

a) 中性子であれ、ガンマ線であれ、他のまだ特定できていない放射線であれ、原爆の核の連鎖反応の際放出される極めて高い周波数の放射線。
b) 爆発の際ばらまかれる第一次核分裂物質の蓄積から生ずる長く消え去らない(半減期の長い)放射能。
c) 爆発の地域における、透過される物質と中性子との相互反応に起因する誘導放射能。 』

 生殖機能への影響

 人間の生殖(procreation)に対する影響はしかしながらまだ結論するには至っていない。しかし爆心地から1マイル(1.6Km)以内の妊婦の流産は増加している。また同地域内の男性の精子の数はほとんどのケースで低くなっている。爆発後同地を訪れた人たちのいろいろな障害についての話は調査の結果裏付けがとれなかった。

 爆心地から半径3000フィート(約900m)以内でのガンマ線などの放射線は、致死的(lethal)だったことが証明された。7500フィート(約1950m)以内、時にはそれ以上のケースでは、脱毛が見られた。そしてほとんど2マイル(約3.2Km)以内にわたって、何らかの軽微な影響が見られた。 』


 専門家を集めたわずか10週間の調査でもこれだけのことがわかっていました。しかも、この人体への影響という項目では、調査団はかなりの部分秘密報告にしたと考えられます。

 というのは、この手紙で何度も申し上げているとおり、トルーマン政権中枢(原爆投下推進勢力)は、原爆の持つ非人道的な実態がアメリカの一般市民に知られることを極度に恐れていました。このため、こうした人体に影響する部分のうち、一般的科学的知見でないものは、秘密としました。こうした医学的研究に関する部分はマンハッタン計画の中の保健部(Health Department)で一括取り扱われていました。それでは発表していい内容と、すべきでない内容はどうやって判別していたのでしょうか?

 それにはスミス・レポートが使われていました。


検閲マニュアルとしてのスミス・レポート

スミス・レポートは広島・長崎の原爆投下直後公表された、原子爆弾の開発・製造に関わる陸軍の報告書です。正式なタイトルは「軍事目的のための原子力エネルギー:合衆国政府の後援の下の原子爆弾開発に関する公式報告書(Atomic Energy for Military Purposes: The Official Report on the Development of the Atomic Bomb under the Auspices of the United States Government 1940-1945)というもので、執筆者の物理学者、ヘンリー・ドウルフ・スミス(Henry DeWolf Smyth)の名前をとってスミス・レポートと呼ばれました。

 もともとはアメリカ国民に原爆開発の説明責任をはたそうという意図で執筆されたもので、スミスに執筆を依頼したのは計画の執行総責任者、レスリー・グローブズです。

 この報告書の公表にはいろいろ議論がありました。というのは、あまりに原爆の秘密を漏らしすぎるという批判があったからです。ところが批判する側が実はどこまで秘密の事柄で何が一般の科学知識なのか判別できなかったので、そのまま公表したといういきさつがあります。実際にこの報告では、アメリカ政府が持つ原爆製造に関わる秘密は一切記載されてなく、すべて一般的な科学的知見にもとづく記述でした。
(* 詳細は次。http://en.wikipedia.org/wiki/Smyth_Report

 またこのWikipediaの記事では触れていませんが、陸軍長官のヘンリー・スティムソンはこの報告書の出来にはおおいに不満だったようで、これではアメリカ国民に説明責任を果たしていない、と考えていました。スティムソン日記に、スミスのことを「見識がない。」とこき下ろしています。

 一方、グローブズはこの報告書に完全に満足だったようです。ただ、報告書の中に放射能は「毒性が強い」と記述してあったが、これはグローブズ自身が削除しました。

 当時、原爆製造とその人体に及ぼす影響はかなりの部分秘密事項とされていたため、原爆に関する報告書では以後スミス・レポートを参照して、そこに書いてあることまでは公表していいこと(declassified)として、陸軍関係者だけでなく政府関係者に参照され、いわば原爆情報検閲マニュアルブックの役割も果たしました。従ってこの戦略爆撃調査団の書き手もこのスミス・レポートを参照しながら執筆したはずでありであり、相当な部分削除したものと思われます。

 ですから、大江が占領軍も手探り状態だった、とするのは大いに見当違いと言わなければなりません。(大体大江はこの部分を記述するのにどんな資料を参照したのでしょうか?)

 はっきりしていることは、トルーマン政権中枢(原爆投下推進勢力)は、こうして得られた知見を、日本側に公開して、ヒバクシャ治療に役立てとうとしたかというと、今のところ全くその証拠はありません。

 私が原爆投下勢力を「非人間的」だ、というのはこの点もあります。


軍事目的の医学調査研究機関

 次にABCCの問題です。資料にあたってみると、信頼できる資料は一致して、「ABCCは、1948年春頃、トルーマンによる大統領指令」によって組織された、となっています。(ABCCについて、参照のこと。)

 トルーマンはどこに指示を下したのかというと、「全米科学アカデミー−全米研究評議会」に対してでした。

 全米科学アカデミー(the National Academy of Science)というのは、南北戦争に起源をもつ組織で、「国家に対して公共の利益になる立場から助言を行う」となっています。

 全米研究評議会(the National Research Council)は、助言組織である全米科学アカデミーの実働部隊とも云うべき組織で、全米科学アカデミーが必要とする研究開発活動を行います。全米研究評議会は第一次世界大戦に起源を持つ組織で、当時科学技術が戦争の行方に決定的に重要になったことを受け、軍部からの科学研究開発要請に応じる組織でした。

 たとえば当時潜水艦が実用化できなかったのは、潜水時乗組員が呼吸できなかったからですが、この問題を解決したのは、全米研究評議会でした。当然この評議会は、その後軍部との協力関係を深めていきます。

 資料は一致して、この組織を表現するのに、the National Academy of Science-
National Research Council、またはNAS−NRCとハイフンで結んで表記しています。

 トルーマンは、この全米研究評議会に対してABCC設立の指示を下したのです。ところが、ここが不思議なところなのですが、ABCCは、48年春のトルーマン大統領指令以前にすでに活動を開始しているのです。英語Wikipediaの記述によれば、ABCCが活動を開始したのは、1945年8月9日としています。広島に原爆を投下してわずか3日後、長崎原爆投下の日にABCCは作られていた、と言っているのです。

 広島の平和記念資料館のバーチャル・ミュージアムでは『原爆の人体に対する影響を調べるため1947年―昭和22年―にABCC(原爆傷害調査委員会)が広島・長崎両市に設けられました』としていますから、48年の大統領指令以前に、ABCCが活動を開始していることは確実でしょう。

 ABCCが、先の全米研究委員会の管轄下に入るのは48年春ですから、45年8月から48年春まではどこの管轄下にいたのでしょうか?

 米原子力委員会が設立されるのが1946年8月1日、「マンハッタン計画」がその人員、工場、研究所を含めて全面的に米原子力委員会に移管されるのは47年1月1日ですから、当然ABCCはマンハッタン計画の中でその活動を開始し、米原子力委員会の体制が整った時点で、米原子力委員会に移管されたと考えるのが自然でしょう。

 もともと米原子力委員会は、実質的な「マンハッタン計画」の継承者でした。

 48年のトルーマン大統領指令というのは、この軍事色の濃いABCCに学術的な外観を与えるために、全米研究評議会へ移管したものと見ることができます。(*もっとも全米研究評議会も軍事色の濃い組織ではありましたが)

 というのは、1951年、予算がカットされて日本におけるABCCが存亡の危機に立ったことがあります。その時ABCCの主要人物の一人、ジェームズ・ニールが予算継続を訴えた先が米原子力委員会でした。全米研究評議会ではありませんでした。この時米原子力委員会は2万ドルの追加支出を認めて、ABCCはともかくも存続することになった、と言ういきさつがあります。

 ABCCは研究機関ではありましたが、医療のための研究機関ではなく、軍事医学研究機関だったと言うことができるでしょう。

 従って、ABCCの研究の成果も、ヒバクシャ治療に役立てた、という証拠もありません。

 ですから、大江がABCCをどんな風に見ていたかは別として、ABCCは軍事医学的資料をヒバクシャから得て、次の軍事プロジェクトのために役立てようとした、ということは確実でしょう。

 全米研究評議会の中で後に、原子力損害委員会の委員長を務めた、トーマス・リバーズ博士という人物がいますが、この人が同損害委員会の准教授だった、ハーマン・S・ウィゴドスキイ博士に宛てた手紙が残っていますが、その手紙の中でリバーズ博士が、『日本におけるABCCの活動は、科学的に見て健全ではない。』として

 日本でなされているABCCの継続した活動は、全体としては私には、陰鬱に感じられます。もし米原子力委員会がこのような(*健全な科学的研究に対する)妨害戦術を採り続けるなら、私は(*全米研究評議会・原子力損害委員会の)委員長の辞任を申し出ようと思います。 』(1950年12月27日付)

 と言っているのは、こうしたABCCの非人間的軍事目的の医科学的研究活動を指したものだと考えられます。

 大江のABCCに関する記述が、いかに的外れのものであるかは以上申し上げた点からだけでも容易に分かります。

 「原爆/歴史切離」論者としての、大江の視界に入っているものは、あくまで「広島の人間的悲惨」であり、それ以外の重要なポイントは、原爆そのものですら目に入っていません。そのかたくなな姿勢は、いささか自閉症気味ですらあります。


「人間的悲惨」の聖域化

 大江に代表される「原爆/歴史切離」論者は、「45年8月広島に起きた出来事」からその歴史性を抜き取ります。そして「原爆の実相」を事実上「人間的悲惨」にのみ限定します。いっさい行為者の責任、理由、原因に関して無批判になり、判断停止状態に入ります。こうした状態を私は「自閉症気味」と表現したわけですが、しかし大江的自閉症も、原爆を巡る因果関係から全く目をつぶるわけにはいきません。そこで持ち出されるのは「原爆善悪論」です。「戦争反対論」です。しかし、河野議長、よく考えてみてください。

 「原爆は悪だ。従って核兵器は廃絶しなければならない。」「戦争そのものが悪である。戦争反対。」と云ってみたところで、これはなにも云っていないのと同じではないですか?

 「核兵器は廃絶しなければならない。」「戦争は悪である。」という明言自体は間違いではないにしろ、これらはすべて問題の出発点です。出発点を結論にすり替えようとするから、なにも云っていないに等しいわけです。しかし「原爆/歴史切離」論者は、この論法を使わざるをえません。歴史から切り離し、歴史に対して判断停止状態にはいってしまっているのですから、一歩も進みようがありません。

 多くの広島や長崎の、「原爆/歴史切離」論者が、単に「核兵器廃絶」を唱えるだけで、今も繰り返される原爆投下推進勢力(今やこれらは軍産学複合体制に成長してしまっていますが・・・)の政治宣伝や精緻に作られたプロバガンダに無力なのはこうした事情によります。

 これまで見たように、広島は善悪問題ではありません。基本的に「原爆投下勢力」はこの問題を善悪問題としては見ておりません。「広島」を善悪問題としてとらえようとすると、「広島の原爆の実相」が、よりみえなくなる、これが第一の危険です。

 第二の危険は、「広島の原爆の実相」を、「人間的悲惨」のみとし、これを聖域化しようとすると、人々が一種の判断停止状態に陥り、健全な批判精神を奪ってしまうと言う点です。これが、ヒバクシャへの批判などはもってのほか、と言う雰囲気を広島に作ってきた原因です。お互いに自由に批判し合うという雰囲気を広島から奪ってきたのでした。

 私は、広島の被爆者運動の本質は、「被爆者国家補償運動」であり、「被爆者援護運動」であった、と考えており、その運動は結果として、新たな核兵器使用に対する大きな抑止力となり、一定の大きな業績をあげた、と考えております。しかし、自分たちの運動が、そのまま核兵器廃絶運動だと、無批判に思いこみ、「広島の原爆の実相」を自ら研究することを怠り、「人間的悲惨」を世界に訴えてこと足れり、とする態度をとり続けることによって、事実上、戦後の核兵器保有の状況を黙認してきた、と考えてもおります。

 こうして目的を見失い、方法論を喪失した「広島の核兵器廃絶運動」が一種のイベント化していくのは、必然だったともいえましょう。

 しかし、私のような発言は恐らくヒバクシャからは到底容認されないでしょう。

 ヒバクシャは、自らを「核兵器廃絶運動」の中心に座っており、その主導者であると言う立場をもって任じております。また、「被爆者の人間的悲惨」を聖域化することによって、「ヒバクシャ」を神の座に祭り上げ、彼らの主張には何か特別な根拠と権威があるかのように見なされています。

 ですから私のような主張、すなわち「被爆者運動」は、結果として戦後の核兵器保有の状況を黙認してきた、という主張は、激怒をもって迎えられるか、黙殺をもって迎えられるでしょう。

 こうしたヒバクシャが体験した、「人間的悲惨」を「聖域化」しようという試みのプロトモデルを大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」に、私は見いだします。そしてこれは極めて危険なことであります。


クロード・ロバート・イーザリー

 大江はクロード・ロバート・イーザリーについても書いています。正確にはイーザリーをダシにして、「広島が人類一般にとって共通の罪悪感の根元」であることを論じているだけに過ぎませんが。

 <Z. 広島へのさまざまな旅>の中で、大江は次のように云っております。

 広島上空の気象報告のために原爆機に先行した観測機の機長であったイーザリー陸軍少佐が、十二年後、テキサス州で郵便局を二つ襲撃して逮捕されたことはよく知られている。彼は精神錯乱の理由で無罪になったが、その精神錯乱とは、広島への罪悪感によるものだと米国復員局の精神病医が証言した。 』

 イーザリーというアメリカ人の郵便局襲撃に際してすら、陪審員たちは、すなわち人類一般は、彼を有罪と見なすことができなかった。かれらは躊躇した。それは人類一般にとって、広島が、共通の罪悪感の根元であることを示している。 』
(P156)


 これは、広島原爆投下チーム、エノラ・ゲイを含む7機のB−29のうち、広島上空気象偵察任務を担当した「ストレート・フラッシュ」の機長兼操縦士だったクロード・ロバート・イーザリー少佐のことに関する記述です。

 イーザリーとオーストリアの哲学者・平和運動家のギュンター・アンデルスとの往復書簡をまとまった本にして発行した「ヒロシマ わが罪と罰」(1987年7月第1刷 ちくま書房)によるとイーザリーは1919年テキサス州生まれです。(訳者=篠原正瑛<しのはら まさひで> あとがき P289)
 ですから、1945年には26歳前後だったことになります。

 イーザリーの任務は、B−29「ストレート・フラッシュ号」の機長兼パイロットとして、原爆搭載機「エノラ・ゲイ」に先行して、原爆の投下第一目標地点である「広島」の上空を偵察し、エノラ・ゲイに報告する任務を帯びていました。エノラ・ゲイはその報告を受けて、その日広島へ原爆投下をするかどうかを判断する、と言う体制でした。

 偵察の主要任務は、当日の上空の気象状況でした。というのは当時はまだ、原爆投下にあたっても有視界投下だったからです。ですから大江のいう「気象報告」というのは間違いではありませんが、任務は偵察です。英語の名称も、“Weather reconnaissance”とキチンとした軍事用語が使われています。偵察ですから、敵の迎撃状況も把握し報告しなければなりません。「約15機ほどの日本の飛行機が1万5000フィートの上空を飛んでいましたが、私のいる2万9000フィートの高度まで上昇する気配はありませんでした。しかしこれら日本の飛行機はまもなくどこかへ行ってしまいました。」とイーザリーは書いていますので、当然このこともエノラ・ゲイに報告したことでしょう。
(同書P168 <手紙の42 広島の上空で私のしたこと>)

 ともかくイーザリーの任務は「軍事偵察」です。

 イーザリーは、英文Wikipediaによると、1947年陸軍を除隊し、キューバのバチスタ政権転覆に関わったりした後、「広島」に原爆を落としたチームに加わっていたことに対して、激しい罪悪感を周囲に示すようになります。そのため精神的な不安定を来します。自殺も試みたようです。

 そして、自分が「戦争の英雄」であることに激しい嫌悪感を示すようになり、英雄像の破壊を企てるようになります。そのため犯罪を犯します。といってとるに足りぬ些細な犯罪です。たとえば、銀行の自分の口座に残高もないのに、小切手を切って換金したり、小銭をだまし取ったりする類の「詐欺」です。

 西テキサス銀行の強盗事件などで、イーザリーは逮捕され、1954年から55年にかけてテキサス州の刑務所で服役します。

 本人は有罪を認めていますから、恐らくアメリカの裁判制度では、陪審員は必要なく、裁判官の量刑だけだったのではないでしょうか?あるいは広い国で、土地土地で異なったやり方をしますから、本人が有罪を認めても、陪審員がついて、有罪無罪を判断する場合もあるのかも知れません。

 大江がどんな資料に基づいてここの記述をしたのかはわかりませんが、いずれにしろイーザリーが無罪とされた、というのは大江の事実誤認です。有罪で服役しています。英文Wikipediaでは、この時期を1954年から55年にかけての1年間、としています。


 イーザリーの犯罪の目的は、「戦争英雄」である自分のイメージを壊すことにありますから、とにかくあまり周囲に迷惑をかけずに自分だけが犯罪者になる、といった類の犯罪です。

 「2つの郵便局を襲撃して逮捕されたことはよく知られている。」と大江は書いていますが、実は私には全くこの事実がつかめませんでした。これは大江の書き飛ばしではないでしょうか?

 刑務所からでて、すぐにテキサス州ワコにある退役軍人病院に収容されます。統合失調症か破滅欲求症とかそんな病名だったようです。

 「精神錯乱とは、広島への罪悪感によるものだと米国復員局の精神病医が証言した。」と大江は書いていますが、私が調べた限りでは、そのような事実関係は出てきませんでした。病名は統合失調症(当時の病名は精神分裂病でしょう)か破滅欲求症でした。特に「広島への罪悪感による」と米国復員局の精神病医が証言した、というのは大江の創作ではないでしょうか?というのは、「米国復員局」(なるものがあるとして)、当局にとってイーザリーという戦争英雄が「広島への罪悪感で精神錯乱」になってもらっては、はなはだ都合が悪いのです。イザーリーは、広島とは全く無関係に統合失調症か何かになってもらい、従って、その言説は病気のなせる全くの「妄言」でなくては困るのです。その当局の精神科医が「広島への罪悪感で精神錯乱」となったと証言するはずがありません。

 従って「その故をもって、陪審員はイーザリーに無罪評決をした。」というくだりも全く大江の創作ではないでしょうか?

 問題はイーザリーが、本当に精神錯乱か統合失調症かなにか精神の病に冒されていたのかどうか、と言う点です。

 私自身はイーザリーの英語の文章をほんの一部しか読んでいませんが、内容は、個人が自分の頭で考え、価値判断をすることを訴え、既存の価値体系の中に無批判にどっぷりつかる危険性を指摘したものでした。そして本当の意味で市民が安全で幸福な暮らしを全うするためには、こうした一定方向に誘導しようとする既存の価値体系に批判の目を向け、一人一人が自分の頭で考え判断しなければいけない時代に突入している、と指摘しています。

 これはとても精神に異常を来している人間の書いた文章ではありません。特に、彼の優れた鋭い時代批判精神を感じました。それまではどうあれ、立派な人物だ、と言う感想を持ちました。イーザリーは一時的に精神錯乱になったとしても、精神に異常を来している人物とは到底思えません。

 次の問題は、刑務所を出た後、ほとんど間をおかずして、ワコの退役軍人病院に収容されているわけですが、この収容が自発的だったのか、それとも強制だったのか、と言う点です。これは、私にはわかりません。

 ただイーザリーは前掲書の中で次のように書いています。
 私はいままでアメリカのほとんどの州で、沢山の平和団体の前で講演を行い、核武装と核実験と核兵器貯蔵はぜひやめなければならないということを、つよく訴えてきました。教会の指導的な人々とテレビで対談したこともあります。しかし学校や大学では私は歓迎されません。

 これは今月はじめて起こったことですが、空軍参謀総長のトワイニング大将は、私をワシントンのウォルター・リード病院に移そうとしました。その理由はもっと十分な治療の機会をあたえるため、ということでした。

 しかし私の主治医は私を移すことに反対しました。私と同じく彼もトワイニング大将のほんとうの意図が、私と私の問題についてこれ以上事態が明るみに出されることを防ぎたいという点にあったのだと、気づいたのです。なぜならば、私と私の問題はどう考えても軍にとってあまりありがたくない宣伝材料だからです。ですから彼らは、私のしゃべらせないようにすることができれば、もっけの幸いだと思ったのでしょう。しかし、主治医は私を信頼して守ってくれ、ひきつづきこの病院に止まって、今までのようにやっていくことを許してくれました 』(P74 <手紙の5>ありがたくない宣伝材料、より。)
病院の運営方法と、僕がいつまでも留め置かれるのが不都合だということに抗議したら、また、2週間の間監禁されてしまった。監禁されると、外部へ手紙をだすことが、なかなか簡単にはできないのだ。 』(P106 <手紙の16> 原子兵器反対のリーダーに、より)

 この文章で見る限りは、アメリカの軍当局が、イーザリーを隔離する目的で、退役軍人病院に収容した、というニュアンスが強いと感じられます。

 この病院で、文通した相手がウイーンに住む、平和運動家であり哲学者だったギュンター・アンデルスでした。二人は文通を通じて急速に親しくなります。二人はいろんな議論をします。アンデルスが平和運動家で核兵器廃絶論者だった影響からか、イーザリーも核兵器廃絶論者になっていきます。

 1987年、この病院で息を引き取ったイーザリーの死後、アンデルスは二人の往復書簡を本にまとめ、「ヒロシマ 我が罪と罰」(邦題)として発表し、われわれがイーザリーの思想を知ることになったわけです。

 大江のヒロシマ・ノートに出てくるイーザリーに関する文章を、理解し、検討するには以上のような予備知識が、最低限、必要です。

 多分、大江の架空の陪審員は、イーザリーに、その精神異常の故をもって有罪宣告できなかった、と断じています。その精神異常は「広島への罪悪感」だった故に有罪とできなかった、と書いています。

 そしてこのことは、「広島が人類一般にとって罪悪感の根元だったことを示している。」と結論します。

 ここの一連のくだりは、大江独特の文学的表現も混じっていますので、細かい事実関係はどちらでもいいと私は思います。

 今私が問題にしたいのは、大江の姿勢です。アメリカのテキサス州の田舎町の裁判における陪審員(もしいたとしての話ですが)、を「人類一般」にすっと置き換える、この牽強付会さも鼻持ちなりませんが、置き換えておいて、これをいきなり「広島が人類一般にとっての罪悪感の根元だった」と結論する大江の強引な論法です。

 なにがなんでも「広島」を神棚に祭りたい、という危険な姿勢を私は感じます。「広島」や「ヒバクシャ」を神棚へ祭り上げることが、核兵器廃絶思想とは何の縁もないことは云うまでもありません。それどころか有害ですらあります。

 それは「広島」や「ヒバクシャ」を神棚へ祭り上げることによって、あの「人間的悲惨」を宗教レベルにまで絶対化し、判断停止状態に陥らせ、「広島の原爆の実相」に少しでもアプローチすることを妨げているからです。健康な批判精神と考える力を奪って来たからです。「ヒバクシャの人間的悲惨」が原爆について語る際の唯一絶対の判断評価基準となり、みんなこぞってこの評価基準の線に沿って知恵を絞ります。

 結果は、「広島の人間的悲惨さ」を強調する「イベント」のオンパレードです。
それがなにか核兵器廃絶につながるかのような、錯覚と自己欺瞞が香辛料に加えられます。

 大江はせっかくイーザリーという素材を扱いながら、「広島の人間的悲惨」の神格化・神社仏閣化に精を出す余り、この人物の貴重な側面を全く見逃しています。

 それは、イーザリーが、一人のアメリカ人として、「核兵器廃絶論者」に成長していくモデルを提供していることです。

 当然イーザリーに対しては、いろんな批判があります。エノラ・ゲイのティベッツなどは「投下の現場にいなかったのに、どうしてそんな罪悪感をもつのか?」という批判をしているそうですし、売名行為、有名になりたかったのだという批判も見られます。

 ティベッツの批判は、イーザリーの任務が気象偵察だったため、投下時にはもう引き上げて現場にいなかった、という意味の批判です。しかし、この批判はおかしいわけで、現場にいてキノコ雲を見たか見なかったか、が問題であるはずもありません。仮にキノコ雲を目撃したとしても、その下に展開される光景が見えたわけでもありません。要は自分の行為とその結果に関する想像力の問題で、イーザリーは一時、自殺を考えたほどその情景を想像したが、ティベッツはキノコ雲しか見なかった、と言うだけに過ぎません。

 そのことをさらに進んで考えてみると、イーザリーのようにB29に乗って広島上空を飛んだか飛ばなかったかすら問題ではなくなります。行為者であったかなかったかすら問題ではなくなります。きっかけとしては重要ですが、イーザリーのように、物事を深く考えたかどうか、自分を原爆投下に駆り立てた、社会や政府や社会のムードに対して根本的に批判の目を向けたかどうか、戦争や原爆投下が誰の利益のために行われ、それがいかに非人間的な行為であるかに気づいていく過程が、実はイーザリーが核廃絶論者へと成長していく過程なのでした。イーザリーはたまたまミッション13という広島原爆投下チームの一員だったため、そのきっかけが特別な体験だったわけですが、なにも時別な体験をしなければ核兵器廃絶論者になるわけでもありませんし、特別な体験をすれば皆核兵器廃絶論者になるわけでもありません。

 教育学の分野で「気づき」という概念を特別に重視しますが、「気づき」の後の思索の深め方の方がより重要なことなのだということがわかります。そして一人一人の思索を深める環境作りが、核兵器廃絶にあたって最も重要なのだと云うことが分かります。

 イーザリーは自ら核兵器廃絶論者に成長した後、今度はその環境作りに精力を注ごうとしたのだと言うことが分かります。

 この手紙で何度も申し上げているように、核兵器廃絶への決めては、国際政治のパワーゲームでもなく、原爆による人間的悲惨さを訴えることでもなく、冷静に考えた地球市民の、固い決意と地球的団結でありますし、そのまた決め手を握っているのは、アメリカ市民の決意と団結です。われわれはまずここに力を注がなくてはなりません。それは原爆の人間的悲惨さを訴えることではありません。核兵器の製造と保有がいかに地球市民全体にとって、割の合わない取り引きであるかを、説明していく仕事なのであります。

 イーザリーはこうした仕事にとって格好のモデルを提供している、というのが私の認識ですし、恐らくは原爆投下勢力も同じ認識だと思います。ですから、彼らは、イーザリーを貶め、隔離したかったのだと思います。

 核兵器の最初の犠牲者(核兵器の被害者、すなわちヒバクシャは、なにも日本にだけ存在するのではありません。ビキニ環礁の住民も、チェルノブイイリの住民も、中国の核実験場の周辺に住む人たちも、アメリカのネバダ砂漠周辺に住む人たちも、皆等しくヒバクシャなのです。)である広島のヒバクシャが、自らの人間的悲惨さのみを訴え、「ノーモア・ヒロシマ」というスローガンを唱え、「くりかえしません、過ちは」と内向きのセリフをつぶやいている限りは、原爆投下勢力は安心でしょう。

 彼らには何の実害もないのですから。「本当にそうですね、心から同情いたします。でも核兵器は必要なのですよ。」といってすましていられます。

 しかし、核兵器の製造と保有は地球市民全体にとって、「割の合わない取り引きだ。」ということを、事実をもって説得しはじめるとなると、彼らの態度は一転するでしょう。彼らにとってこれほど危険なことはないからです。

 大江の意図はどこにあるのかは全く分かりません。しかし、イーザリーをダシに使って、広島の人間的悲惨を神棚に祭りあげる限り、原爆投下勢力は喜んでいることでしょう。

 ですから、大江に代表される「原爆/歴史切離論者」は立派に、「消極的原爆投下肯定論者」の一グループなのです。


テレビ番組制作で明確になったこと

 <Z.広島へのさまざまな旅>では、先にも登場した、中国新聞の金井論説委員が再び登場します。この人は、「広島の人間的悲惨」を描くテレビ番組の制作を思いつきます。これは原爆被災者白書の制作と一体不可分の企画としてとらえられます。

 ここでテレビ番組と言っているのは間違いなく「中国放送」のテレビ番組でしょう。

 先にこの手紙で戦後の「ソフトな言論統制」のことに触れました。戦前、戦争遂行体制=国家総動員体制の一貫として、新聞の統廃合を行い、数千紙あった新聞をおおよそ100程度にまで減らし、おおむね全国紙、ブロック紙、県紙と序列をつけ、こちらは「ハードな言論統制」を行いながら、日本の市民を戦争協力に駆り立てていきました。この体制は、占領軍も便利だったと見えて、そのまま踏襲し、「独立後」も戦前軍部協力の体制を維持していきます。これを私は「ソフトな言論統制」体制と呼んでいますが、テレビ放送の普及とともに、「新聞の言論統制体制」をそのままミラーに映すようにして、テレビ放送の体制ができあがっていきます。NHKには特別な地位が与えられ、全国紙に対応する全国キーステーション局が作られました。そして基本的に全国紙に対して「放送電波」が割り当てられました。県紙に対しても放送電波が割り当てられ、各県に県紙に対応するローカルテレビ局が作られました。新聞は「県紙」と呼んだので、テレビ局は「県波」と呼んでおきましょう。

 広島県にも「県波」ができました。それが中国放送です。中国放送はもともと中国新聞に与えられた利権の結果として成立した「県波」ですから、中国放送と資本的にも人的にも密接な関係があります、というより成立のいきさつからして、中国放送は中国新聞に従属しています。

 ですから中国新聞の一論説委員に過ぎない金井という人物が、本来独立した言論機関であるテレビ局(間違いなく中国放送だったと思います)の編集権に関わる「テレビ番組」の制作を思いつき、それを実施に移すことができたわけです。

 「原爆被災者白書」については、私はよくわかっていません。

 NHKアーカイブズのWebサイトを見ると次のような記述が見られます。
 一方、被爆20(1965)年が過ぎて、被爆者の高齢化は進んでいた。広島の街は復興したが、逆に被爆体験が風化していく。地元の中国新聞の金井利博記者は「原爆は威力として知られたか、人間的悲惨として知られたか」と訴え、原爆被災の真相を掴むために「原爆被災白書をつくる運動」を提唱していた。1964年には、原水爆被災3県(広島・長崎・静岡)連絡会議の部会で「原爆被災白書を国連へ提出しよう」と提案していた。 』
( http://www.nhk.or.jp/peace/chrono/history/his_p08.html )


 ともかくも、「原爆の人間的悲惨」を網羅的に叙述しようとした報告書だったのでしょう。

 大江はこの「原水爆被災者白書」と金井の企画したテレビ番組は一体不可分の関係であると言っています。

 このテレビ・フィルムをつくる過程に立ち会って、より明確になってきたのは次の2点である。

 すなわち、アウシュビッツのナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の実態は、世界的によく知られている。しかし広島は、アウシュビッツを超えるほどの悲惨でありまがら、しかも、ふたたび、そのような悲惨の結果する危険が現にありながら(それは、国際政治のマキャベリズムにつてシニックなものの眼には、そのためにこそ!であるかもしれないが)決して十分に知られているというわけにはいかない。少なくともアウシュビッツとおなじように、広島で行われたことの人間的悲惨の実態は、広く正確に知られなければならない。 』

 そしてもう一つの焦点は、氏(金井論説委員)の文明観にかかわる問題であるが、戦争直後、戦争の悲惨を中心に置くとすると、日本人はそこから四方にむかって逃げ出した。すなわち戦争の悲惨を遠巻きにするドーナッツ型が、われわれの生活形態であった。ところが消費文明の繁栄の今日、人々は戦争の悲惨を底辺に置き去りにして上へ、上へと逃げ、」そこにはオリンピックを頂点とするピラミッド型ができあがった。 』

 しかしこのピラミッドの内部の暗闇の空洞は決してうずめつくされたのではない。広島の人間的悲惨はそこに存在し続けているのである。原水爆被災白書の運動は、対世界的には、広島の人間的悲惨を、アウシュビッツがそうであるように広く確実に、周知徹底させようということだし、日本人内部の国民的反省としては、われわれの消費生活繁栄のピラミッドの空洞を埋める作業でなくてはならない。 』
(* NHKアーカイブズは、「原爆被災白書」といい、大江は「原水爆被災白書」と言っていますが、前後の文脈からしてこれは同じものでしょう。)


ここで大江は、明確になってきたことが2点ある、と云っています。

その2点とは恐らく次でしょう。

1. 「広島の人間的悲惨」はアウシュビッツ同様に世界にひろく知られなくてはならない。
2. 消費生活繁栄のピラミッド(その頂点にはオリンピックがある)の中の暗闇を埋めなければならない。暗闇をうめる作業とは、広島の人間的悲惨を世界に周知徹底させることである。それは日本人内部の国民的反省でもある。


戦後ドイツの歴史的和解・清算事業としての「アウシュビッツ」

 「広島の人間的悲惨は、アウシュビッツを超えるほどの悲惨だった。」と言っている点は、大江独特の文学的表現ですから聞き流しておかねばなりません。もともと「原爆における人間的悲惨」と「アウシュビッツにおける人間的悲惨」が、どちらがより悲惨だったかなどという比較には、およそ意味がありません、というより、それぞれの「悲惨の実相」を覆い隠すという意味で、われわれの理解のためには危険ですらあります。

 今、ここでの問題は、大江の、「アウシュビッツ」が何故、ナチス・ドイツの「ホロコースト」の代表例として、世界中に知られ、人々の心をうったかと言う点です。

 もちろん世界のジャーナリズムや演劇、映画界などに強い影響力をもったユダヤ人が直接の被害者で、この迫害を大いに世界に喧伝したといういきさつはあります。

 しかし、より基本的には、戦後ドイツの行った歴史的清算の一貫として、ナチス・ドイツの行ったホロコーストの実態を積極的に明らかにし、自ら問題提起を行っていった、という背景が、「アウシュビッツ」を世界中の人々が知ることになった基本的要因、と考えねばなりません。

 戦後ドイツのナチス清算運動そしてそれを通じての歴史的和解運動は、本物でした。「ホロコースト」の問題に限って見れば、その清算の仕事を通じて、戦後ドイツが発見したことは、ホロコーストは一人ナチス・ドイツの犯罪ではなく、ドイツ人全体の犯罪だったこと、またドイツを含めて、中世以来ヨーロッパ社会に沈殿してしたユダヤ人に対する差別意識を発見し、その差別意識が、ナチス・ドイツの行ったホロコーストの温床となったこと、またナチス・ドイツは、ユダヤ人だけではなく、ロマ人、精神薄弱者、同性愛者などもジェノサイドの対象としましたが、これらに対するもともと存在した、人々の差別意識もナチス・ドイツの犯罪の温床となったことも発見し、ヨーロッパ社会に問題提起することになったのです。

 ヨーロッパ社会は、これを戦後ドイツの責任転嫁とは受け止めませんでした。それほど戦後ドイツの姿勢は真摯だったのです。

 自分たちの問題として、ホロコーストの問題を受け止めました。すなわち、状況と関係が変われば、いつでも自分たちが加害者となり、また被害者となりうる問題の象徴として「アウシュビッツ」が屹立しました。

 ですから、「アウシュビッツ」は、同情の対象として人々の胸を打ったのではありません。地球の市民の、自分たちの問題として、人々の胸を打ったのです。

 それほど戦後ドイツはこの問題を深めました。

 大江が、『 少なくともアウシュビッツとおなじように、広島で行われたことの人間的悲惨の実態は、広く正確に知られなければならない。 』と言うとき、大江は、「アウシュビッツ」が戦後ドイツの、歴史的清算・歴史的和解運動の一貫として知られることになった点を全く見落としています。「アウシュビッツ」はただ単にその人間的悲惨のために人々に知られるようになったのではありません。


大江の同義反復の意味

 大江の次の指摘、すなわち、これは金井の指摘でもありますが、戦後日本のピラミッド状の経済的繁栄の内部には暗渠があり、その暗渠の中心に「広島の人間的悲惨」が存在する、その暗渠を埋める作業が、広島の人間的悲惨を周知徹底させることだ、しかもこれは日本の国民運動だ、と指摘している点です。

 広島の人間的悲惨を周知徹底させることが、戦後日本の経済的繁栄の中に棲む暗渠を埋めることになり、それは日本の国民運動とならねばならない、かどうかは私には何ともいえません。それは大江や金井の信念の問題であり、論評不能です。私としてはなんと夜郎自大なものいいかと思うばかりです。

 それより、ここでは大江の論理の不自然さの方が私には気になります。大江はこのテレビ番組を制作する過程で明確になってきたことがあると断って、その2点をおごそかに指摘しました。

その2点とは、
1. 「広島の人間的悲惨」はアウシュビッツ同様に世界にひろく知られなくてはならない。
2. 消費生活繁栄のピラミッド(その頂点にはオリンピックがある)の中の暗闇を埋めなければならない。暗闇をうめる作業とは、広島の人間的悲惨を世界に周知徹底させることである。それは日本人内部の国民的反省でもある。
 でした。しかしこの2点とは、良く読むと、「広島の人間的悲惨を周知徹底させなくてはならない。」という1点に過ぎないことが分かります。

 しかし、ここで私はおかしいな、と思います。金井は「広島の人間的悲惨を周知徹底する」ことが重要と考えたからこそ、「原水爆被災者白書」制作を企画し、それと一体不可分の関係である「テレビ番組」の制作を思いついたのではなかったか?大江によれば、そのテレビ番組の制作の過程で明確になってきたことが、「広島の人間的悲惨を周知徹底する」ことの重要性だというのです。

 これでは全く「らっきょうの皮むき」です。

 何故大江はこんな苦しい同義反復の論理を展開するのでしょうか?

 ここで「明確に」なってきたことは、「アウシュビッツ」も、戦後日本の経済的繁栄のピラミッドに潜む暗渠も、日本の国民的運動も、煙のごとく消え失せ、「広島の人間的悲惨を周知徹底する」ことの重要性を、飾り立てるためのレトリックに過ぎなかった、と言うことです。

 なぜ大江はこんな無内容な、レトリックを並べ立てるのでしょうか?

 それは恐らく、「広島の原爆における人間的悲惨さ」を「歴史」から切り離すことによって生ずる「無内容」を粉飾するためでしょう。

 それではなぜなぜあの戦争と切り離して、「原爆の人間的悲惨さ」だけを語りたいのでしょうか?

 もう明白でしょう。

 それは、大江が、金井とともに、原爆が対日戦争終結のためにつかわれ、そのため日本が負け、戦争が終結したと信じているからでしょう。しかし、この点は、大江も、金井とともに、一切どこでも触れていません。

もし、それに触れれば、あの戦争の正当性に触れなければならず、あの戦争の正当性に触れれば、「広島の原爆」は、全き被害ではなくなるからです。従って、広島のヒバクシャは、完全無欠な被害者ではなくなり、たちまちその「人間的悲惨」が色褪せるからでもあります。
しかし、この問題を回避して、世界の人たちと「原爆の実相」を語り合えるでしょうか?それは不可能です。

 従って「原爆/歴史切離論者」は、常に内向きの自閉症とならざるを得ません。

 それでは、広島のヒバクシャは被害者ではなかったか?

 被害者でした。特に「佐々木禎子」に代表される何らの責任もない子供たちは、全く理不尽に将来を奪われた完全な被害者でした。

この被害者が何故、あの戦争の問題を回避しながら、原爆について語らねばならないのか?

 大江に代表される「原爆/歴史切離論者」は、何かがおかしい、どこか問題の立て方が間違っていると思わざるを得ません。

 恐らくは、それは、あの原爆が「戦争終結のために使われた。」とする誤った認識を土台としていることに由来しているのではないでしょうか?


「ヒバクシャ」は次の瞬間のわれわれの姿だ

 「なぜ、トルーマン政権中枢は、原爆投下勢力は、あの時、日本に対して原爆を使用したか?」

 それは、この手紙で再三再四触れているように、「無警告で原爆を使用すること」が、ソ連を恐怖させ、ソ連を冷戦体制に引きずり込み、準戦時体制を構築することによって、連邦予算をほぼ無批判に「核エネルギー分野」に注ぎ込み、よちよち歩きだった、「核兵器産業・核エネルギー産業」を一大産業に育て上げるためでした。

 このことが、核兵器拡張競争の原点になったのであり、現在の世界の核兵器保有の現状を創り出す出発点になったのでした。

 当時(そして恐らく今も)、原爆投下推進勢力は、こうした彼らの短期間の利益のために、核兵器が全く異なる質の破壊力をもたらすことを十分承知の上で、自分たちと同じ人類に対して使用しました。
それがたまたま日本へ向けてであり、たまたま広島と長崎であったのは、巨視的に見れば、歴史の偶然に過ぎません。)

 この点が、もっとも原爆投下推進勢力が非人間的であることの中心点であり、もっとも、恐ろしい点です。総合的に利益が得られると判断すれば、なにをするかわからないのです。

こうした視野の中で見てみなければ、本当には「広島・長崎における人間的悲惨」は理解できないと言うことでもあります。

 またこうした視野の中で見ることによって、われわれは「あの戦争」に正面から向かい合いながら、「原爆の実相」を世界の人たちと語り合うことができるのだと思います。

 そうすると、見えてくるのは私たちの正面の敵は、決して「アメリカ」という国なのではなく、世界のありとあらゆる所に潜む「原爆投下推進勢力」(それは日本の中にすら存在します)なのだということではないでしょうか?

 大江にはこの点が全く見えていません。ですから、21世紀の現在ますます勢いを増しつつある「原爆投下推進勢力」の危険性が見えていません。彼らは、自分たちの短期的利益にとって有効だと判断すれば、いつでも核兵器を使用し、地球と人類全体を道連れにしかねない連中なのです。

 1945年、広島と長崎に原爆を投下した、「原爆投下推進勢力」は、その約15年後、第34代大統領、ドワイト・D・アイゼンハワーが退任する頃には、彼が適切にも「軍産複合体制」と呼び、アメリカの市民社会を根底から覆す危険なモンスターに化けていました。

 もうこの時には、1951年のベルリン危機、1954年のベトナムにおけるディエン・ビエン・フーの戦い、1961年のラオス危機、1962年のキューバ危機、それからベトナム戦争と、ことあるごとにアメリカの統合参謀本部は時の政権に対して、「核兵器」の使用を提案していました。

 いずれの場合も、最後の一線を越えることはありませんでしたが、地球市民が、まったく自らの意志に依らずして、軍産複合体制の「体制利益」の道連れにされる危険性と共に常にあったことを忘れるわけには行きません。

そのことは、広島や長崎への原爆使用によってすでに証明されています。

従って大江健三郎は、次のような、私が全く承服できない言葉で、この「ヒロシマ・ノート」を締めくくっています。

 われわれがこの世界の終焉の光景への正当な想像力をもつ時、金井論説委員のいわゆる<被爆者の同志>たることは、すでに任意の選択ではない。われわれには<被爆者の同志>であるよりほかに正気の人間としての生き様がない。 』
(<エピローグ> P185)

 たとえば、1945年のフランクレポートの次の一節と較べてみましょう。

 われわれ全員、原子力工学の現在の状態をよく知っているわれわれ全員は、真珠湾の何千倍もの惨劇に相当する壊滅が、われわれ自身の国に、この国のひとつひとつの主要な都市に襲ってきている姿を目に浮かべながら、今日を生きている。 』


 大江も、金井も、「この世界の終焉の光景への正当な想像力」が全然足りないようです。

 大江の言い方をそっくり借りましょう。

 ヒロシマ・ナガサキの被爆者は、次の瞬間の「私たちの姿」だと思うほかに、正気の人間としての生き様はない。 』