【歴史】 |
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The Atomic Bomb Casualty commission(ABCC)は、1945年8月の広島と長崎の原爆攻撃の後、8月9日に作られた。ABCCは、もともとは軍の共同調査委員会として開始されたのである。ABCCは、原爆による死傷(casualty)に関する長期間の研究をおこない、人々にその知見を得る機会を与えることを目的としてスタートした。1946年、NAS-NRC委員長、ルイス・ウィード(Lewis
Weed)は、同僚の科学者グループとともに、「人間に対する詳細かつ長期的な、生物学的かつ医学的影響の研究はアメリカと人類一般に対して緊急の重要性を持つ」と宣言した。ハリー・S・トルーマン大統領は、ABCCに対して1946年11月26日、その存続を命令した。
▽ABCC存続の進言に署名した、いわゆる「トルーマン指令」
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ABCCの鍵を握るメンバーは、ルイス・ウィード、NAS-NRCの医学者、オースティン・M・ブルーズ(Austin M. Brues)とポール・ヘンショウ(Paul Henshaw)、それに陸軍を代表して参加したメルビン・A・ブロック(Melvin A. Block)とジェームズ・V・ニール(James V. Neel)だった。ニールはまた遺伝子工学の医学博士号をもっていた。
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ルイス・ウィードについては、ジョン・ホプキンス大学の次のサイトに若干記述が見える。
http://www.medicalarchives.jhmi.edu/sgml/weed.html。
もともと同大学の出身者だったらしい。1946年同大学医学大学院の学長を務めていたというから、当代一流の医学者だったのだろう。1937年、NAS-NRCの医科学部会の会長に指名され、1947年にはこの部会長の仕事に専念するため、ジョン・ホプキンス大学医学大学院学長を辞任している。ちょうどABCCに大統領指示がおりた頃だ。先の声明と合わせて考えてみると、人体に対する放射線の調査・研究の仕事を最優先したものと見える。だから正確に言うと、ABCC設立当時、ウィードはNAS-NRCの会長だったのではなく、医科学部会長だったことになる。オースティン・M・ブルーズについては、1991年3月6日付けニューヨークタイムズ紙に訃報がみえる。http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9D0CE4D9113BF935A35750C0A967958260 が、簡単すぎてわからない。ともかくも放射線生物学の権威だったらしい。ハーバード大学医科学大学院の出身で、こちらも当代一流の医学者だった。ポール・ヘンショウについてはシカゴ大学のサイトに若干詳しい経歴がのっている。http://ead.lib.uchicago.edu/view.xqy?id=ICU.SPCL.HENSHAW&c=h。
ヘンショウは、ウィードやブルーズと違って、医学者としてはエリートコースを歩いてこなかった。ガンの研究で全米ガン医療機関の特別研究員になってから陽が当たり始めたようである。1940年に全米ガン医療機関の上席放射線研究員に昇進する。興味深いのはその後の経歴だ。1944年シカゴ大学冶金工学研究所に所属し、マンハッタン計画の生物学研究員になっている。シカゴ大学冶金工学研究所というのは、シカゴ大学で原爆開発を担当する研究グループのカバーネームである。1年後、テネシー州オークリッジにあるクリントン研究所に移る。クリントンには、原爆開発の中枢の一つを担当するクリントン工場があった。ここでも生物学研究員だった。それから1946年から47年にかけて、日本におけるアメリカ原子力委員会の共同リーダーの一人となった。またこの時、マンハッタン計画との関係が切れている。1947年から49年にかけて、東京の連合軍最高司令部の基礎研究部隊を率いて、日本の科学の復興に従事した。その後アメリカに帰り、アメリカ原子力委員会の生物理学者として働いた。メルビン・A・ブロックについてはよく分からないが、ガンに関する論文を残している。ジェームズ・V・ニールについては、英語Wikipediaの記事もあるが−http://en.wikipedia.org/wiki/James_V._Neel、ミシガン大学発表の記事の方がより詳しい。http://www.ibis-birthdefects.org/start/neel3.htm 。
これによるとニールは2000年に84歳でなくなっているから、45年当時は、29歳か30歳だったことになる。この記事に拠れば、ニールは、「近代人間遺伝子学の父」とされている。1946年にロチェスター大学で博士号を取得し、インターンを経験した後、ミシガン大学の研究所に、准遺伝子研究者として参加した。46年の後半から47年にかけて、陸軍医学部隊に入り、ABCCで現地研究を担当した。1948年、アメリカに戻って遺伝子の研究を続け、1956年には、アメリカの医学大学院最初の人間遺伝子学部を創設、その後、この分野の権威として学界に君臨した。
以上Wikipediaが指摘する、ABCCのキーパーソンの後をたどってみると、陸軍と関係の深いNAS-NRCの中でも、とくに陸軍と関係の深い、中にはマンハッタン計画と関係の深い人物が、中心だったことがわかる。) |
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【ABCCの仕事】 |
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ABCCは1946年11月24日、日本へ到着した。そして旧日本陸軍の流れを引くスタッフと親しくなった。広島と長崎を訪れ、どんな仕事が可能かを検討した。そして日本国家研究評議会(*どの組織のことを指しているのか私には分からない。)のもとに極めて効率的な組織が存在していることを確認した。(*放影研労働組合の森原ゆう子氏の講演によれば、48年からは厚生省管轄の国立予防衛生研究所がABCCの調査に参加している。http://www.jichiro.gr.jp/tsuushin/708/708_02.htm。)
この日本の組織が、原爆生存者の直接被曝および時期をずらしての間接被曝の実態を調査した。広島、長崎の両市で、一体どれほどの死傷者がったかを正確な数字として把握するのは不可能だった。戦争中であり、絶えず疎開が行われ、人口動態がつかめなかったからである。広島は、重要な軍需品補給センターとして見なされ、爆撃を受けたわけだが、そのため多くの人たちが残っていたと考えられる。また、周辺を含めて、不規則的な仕事に従事するため、多くの人の流入も見られた。ロバート・ホームズ(Robert Holmes)は1954年から1957年までのABCCのディレクターだが、「生存者は最も重要な、生きている人々である。」といっている。(*意味が上手くつかめない言葉である。いろいろに解釈できる。)
また、ABCCは、日本の科学者の仕事も一部援用した。というのは、彼らはABCCの到着以前に、すでに生存者の研究をしていたからである。(*東京帝国大学の都築正男教授などは代表例だろう。)都築正男は、放射線の生物学的影響に関する研究では代表的な権威だった。彼は、広島と長崎の両市において、4つの傷害原因があった、と言っている。熱線、爆風、初期放射線、放射能性毒ガスの4つである。都築の報告中で彼は次のように答えている。「人体に放射能エネルギーがどのくらい強い影響を及ぼすだろうか?まず、最初に血液に損傷を与える。次に骨髄などの造血器官、脾臓、リンパ節に損傷を与える。それらはすべて破壊されるか、損傷を受ける。肺、腸、肝臓、腎臓は影響を受けるか、結果として機能障害を起こす。」傷害は、その甚大さによって等級付けができる。爆心地から半径1km以内で被曝した場合は、極めて厳しい傷害に苦しむだろうし、2−3日以内に死亡するだろう。あるものは2週間くらいは生き延びるかも知れない。爆心地から半径1−2kmで被曝した場合は、中程度の傷害で2−6週間くらいは生き延びるかも知れない。2−4kmで被曝した人は軽程度の損傷で、死に至らないかも知れない。しかし被曝の後数ヶ月は健康障害になるだろう。
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【ABCCの成長】 |
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1948年から49年にかけてABCCは急速に成長した。1年間でスタッフは4倍となった。1951年までに、その数は1063名となった。うち143人が連合国側で、920名が日本人だった。恐らくは、ABCCがもっとも成し遂げたかった、重要な研究は、遺伝子研究だったであろう。妊婦や流産した赤子に対して電離化した放射能がどんな影響を与えているか、についてできるだけ長期間にわたって研究し、その環境の未確定要素を研究することだったろう。その研究は広く拡散した遺伝子からこれという証拠は見つけられなかった。しかし、原爆の放射線のため、子宮の中でもっとも近接して被曝した子供の中に、小頭症や精神発達遅滞児が多く発生していることは発見した。このプロジェクトは、ABCCの計画の中で、最大のかつ最も大きな転換をもたらした。
1957年、日本で原爆医療法(The Atomic Bomb Survivors Relief Law)が成立、認定された被爆者に年2回の医療検診が行われることになった。原爆生存者のことを日本語では「ヒバクシャ」という。医療が受けられると認定されたヒバクシャは、投下時爆心地半径数キロ以内、あるいは2Km以内にいた人たちであった。また、いかなる分類であろうが、その時子宮の中にいた子供たちで、被曝した人たちであった。(*1957年の原爆医療法は一部、ABCCへの協力だった、とでもいうのか?)
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【ABCCに対する賛否両論】 |
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ABCCには賛否両論がある。
否定論: |
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ABCCは日本人の必要としている小さな細部を見下した。母親や赤ん坊が待っている待合いの床は磨かれたリノリウムで、下駄履きの女性はしばしば滑って転んだ。サインや待合室の雑誌は英語だった。ABCCは治療しない、研究するだけだ。ABCCは週休2日制で9−5時だった。そのためにみんな1日を棒に振って稼げない。補償はほとんどなかった。 |
賛成論: |
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貴重な医療情報を提供してくれた。生まれた時赤ん坊をしっかり見てくれ、しかも9ヶ月後にもきっちり見てくれた。当時としては珍しく良くやってくれた。赤ん坊をしっかり見てくれて心配の必要はなかった。成人に対しても、しかりで医療検査の頻度が多かったのでとても良かった。 |
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【ABCCのRERF(放射線影響研究所)への編成替え】 |
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1951年、アメリカ原子力委員会は、日本におけるABCCの活動継続のための基金を打ち切った。しかしながら、ジェームズ・V・ニールはこれに抗議したため、原子力委員会は、3年間に限って、研究継続のため、年間2万ドル拠出することを決めた。このためABCCは1951年はともかく生き残った。1956年、ニールとウィリアム・J・シュールは、「広島と長崎における妊娠中絶に対する原爆被爆の影響」と題する刊行物を発行した。この中に彼らが集めたデータを詳細な説明を加えて挿入した。こうした努力にもかかわらず、ABCC存続の基金は確保できず、ABCCは、放射線影響研究財団へと衣替えすることになった。 |