No.23-3 平成20年12月15日


田母神論文に見る岸信介の亡霊
その3 日本の国家意志だった大陸侵略
中間階級創設をしなかった明治政権

 列強の傀儡となった清帝国は完全に中国人民から見放された。こうして1911年10月(明治44年)辛亥革命がおこった。翌1912年(明治45年)1月1日、中華民国南京臨時政府が成立し、孫文が臨時大総統に就任する。翌2月には宣統帝が退位し、名実ともに清朝は滅ぶ。

 ところが1911年の辛亥革命は、袁世凱に代表される、旧清帝国以来の、列強の傀儡化を図りつつ中国人民からの収奪を強めようとする勢力と、孫文に代表される列強からの支配を脱し中国の民族的独立を図ろうとする勢力の妥協の産物であり、軍事力では圧倒的に勝る袁世凱は、12年3月臨時大総統の孫文に替わって大総統の地位につく。12年8月(大正元年。明治45年は7月30日まで)孫文は中国同盟会を改組して国民党を成立させるが、袁世凱は13年3月(大正2年)国民党の重鎮宋教仁を暗殺するなどして、国民党に圧迫を加え、時代錯誤の、清朝に替わる新王朝開設を狙う。もともと清朝の封建的地主階級や清朝末期に急速に台頭してきた官僚資本家層がその権力基盤だった袁世凱にとって、孫文らが夢見た近代的国民国家などは眼中になかったことになる。

 明治から大正にかけての日本は、大地主制度など封建的社会システムの要素を色濃く残しながらも、工業化の側面では急速な発展を遂げつつあった。しかし、資本主義の根源的蓄積を最大の課題とした日本の資本主義は、国内に中間階級の厚い層を作らなかった。

 もし明治維新政府の権力基盤が、真に人民のための権力基盤であったなら、まず人民の生活の安定とその向上をめざしたであろう。これはやがては日本に層の厚い中間階級を創出し、かれらが「国内市場」の中核となっていったことだろう。

 しかし実際はそうではなかった。農村は政府に収奪され、重工業を中心とした根源的蓄積に回されていった。一方地主階級は農民から搾取した富を資本にして近代的工業を日本各地で開始し、新興資本家階級へと転化していった。

 しかし「資本」には膨大な「労働市場」と共に、「商品市場」が必要である。ヨーロッパの資本主義、アメリカの資本主義と日本の資本主義との決定的な違いは、日本が国内に自ら核となる「商品市場」を持たなかったことであろう。

(  戦後も日本経済は輸出に大きく依存しているが、その体質は明治維新後に作られた。教科書的説明では、「日本は資源のない国なので、外国から原材料を輸入して加工し輸出する他のない『貿易立国』なのです。」と言うことになるが、これは物事の1/3しか説明していない。残り2/3の説明は、『明治政府は何故国内商品市場を創設しようとしなかったのか』と『そうした明治政府の権力基盤とは一体何だったのか。』にあてられなければならない。)

 日本は「商品市場」を日本の外に求める他はなかった。このことは明治政府に「強力な軍隊」を要求した。軍事的暴力を伴わずに日本に都合のいい「国外商品市場」を手に入れることなどおよそ不可能だった。

( ついでに言えば、この強力な軍隊への要求、明治政府のスローガンで言えば『富国強兵』、は結局日本人民に二重、三重、四重の苦痛を強いた。そして1945年で区切ってみた時、その苦痛は夥しい命の犠牲となって現実化した。恐らくは広島・長崎の犠牲もその範疇に入るであろう。)


第三次日露協約

 偶然にも清朝の滅亡(1912年2月)と明治の終焉(1912年7月)はほぼ同じ時期だったが、「日本の中国侵略」というテーマを扱うとき、この時点で乱暴な図式を描くと以上のようなことだったのではないか。

 こうした基本構図の他に、1912年、後の日本による中国侵略の基本骨格の一つが形作られている。それが第三次日露協約である。

 日露戦争で、それまでロシアが持っていった満州の権益の一部を引き継いだ日本は、この年第三次日露協商と呼ばれる秘密協定を結ぶ。

 話は日露戦争(1904年―1905年、明治37−38年)の講和条約であるポーツマス条約にさかのぼる。

 日露戦争で日本がロシアから得た権益は、一言で云えば東清鉄道の支線、長春―旅順間の鉄道(南満州鉄道)の経営権、遼東半島の租借権だけだった。(もちろん日本の帝国主義にとって朝鮮に於ける日本の支配権をロシアに認めさせたことは大きい)

 このポーツマス条約の追加条約で、日露両国はそれぞれの鉄道(ロシアは東清鉄道の本線、日本は南満州鉄道)における鉄道守備兵の駐屯を認め合う。両国の合意は、ポーツマス条約を肝心の中国には、1905年12月の「満州に関する日清条約」で、中国にも認めさせる。

 田母神論文との関係で言えば、この条約などは酷いもので、清そっちのけで日露両国の権利を調整しておいて、その結果を清に通告したようなものだ。清の了解がまずあって駐兵したのではない。

( 田母神は、それでも条約があったのだから国際的には合法だ、と言うのであろうが、もしそうであれば田母神は2008年の今日においても、帝政ロシアとファシズム日本の論理を使って『侵略』問題を考えていることになる。なんでこんな時代錯誤の男が、21世紀日本の防衛省航空幕僚長になってしまったのか?)

 ついでに言えば、この時両国間で合意した鉄道守備兵が、日本側でいえば関東軍である。関東軍の『関東』は先にも見たとおり、山海関の外、東側という意味で遼東半島を指すが、そこに至る鉄道の守備兵軍が関東軍だった。この時は関東都督府(都督は現役将官)陸軍部と称していた。

( 『関東軍』と呼ばれるのは1919年―大正8年―都督府が関東庁と陸軍部に分離された後のことである。)

 またまたついでに言えば、後の蘆溝橋事件の時の「日本軍」とはすなわち「支那駐留軍」であり、これは義和団事件の時の条約で日本が手に入れた権益だった。一方関東軍は日露戦争後の条約で手に入れた権益だったことは良く記憶しておかねばならない。


南北満州分割の密約

 こうして締結されたポーツマス条約だが、早くも1907年、日露両国は日露協約(第一次)を結び、秘かに北満州をロシアの勢力圏、南満州を日本の勢力圏とすることを決めた。同時にロシアは日本の朝鮮における『特殊利益』を承認し、見返りに日本はロシアの外蒙古における『特殊利益』を承認した。

 わかりやすく言えば、朝鮮半島・南満州は日本のもの、北満州・外蒙古はロシアのものと言うことである。

 この取り決めをはっきりさせたのが1912年、中国が辛亥革命で揺れていた時、日露両国が結んだ第三次日露協約である。この時日本の『特殊利益』の及ぶ範囲は内蒙古まで延長され、熱河省(長城の北、南満州のほぼ西側の省)まで延長されることになったのである。

 この時日本の帝国主義にとって「満州問題」は「満蒙問題」になったのであるが、この時はまだ日本とロシアの2国間だけの秘密の取り決めだった。従って日本にとっての「満蒙問題」は、満蒙における日本の特殊利益を、ロシア以外の列強、特にアメリカとイギリスに承認させ、中国にもそのことを承知させる問題となったのである。後年『満蒙問題の解決』という言葉がよく使われるようになったが、この言葉の本質は、結局「満蒙における日本の特殊利益」を中国はもとより、世界の列強に認めさせることだったということになる。

 こうしてみると、日本の中国大陸への『侵略』は、決して昭和になってから突然始動したのではなく、すでに日露戦争の時からの「国家の意志」だったと言うことができよう。

 列強に「満蒙」の「特殊利益」を承認させることが、『中国侵略』と言うテーマにとって次のステージだった日本の帝国主義にとって、千載一遇のチャンスが訪れた。第一次世界大戦の勃発である。1914年(大正3年)7月のことである。


「天佑」の第一次世界大戦

 この時、明治の元勲井上馨は「日本国運の発展に対する大正新時代の天佑」と言ったという。

 大戦が勃発するとドイツに対して日本も連合国に加わり、その翌月、1914年(大正3年)8月には、ドイツの租借地だった山東半島を攻撃、11月には青島を陥落させる。

 アメリカが第一次世界大戦に参戦するのは、1917年(大正6年)だから、ヨーロッパ列強は欧州での戦争に忙しく、その間日本は事実上やり放題だったといえる。

 こうして、第一次世界大戦の最中、1915年(大正4年)、例の『21ヶ条の要求』を中国に突きつける。日本は大隈重信内閣、外務大臣は加藤高明だった。

 教科書的解説では、大隈重信は明治藩閥政府に反対した気骨の人ということになっている。しかし、日本の進路について大隈と藩閥政府が大きく違っていたわけではない。日本の政治指導者層は一致して、「中国大陸侵略」に日本の資本主義の将来を賭けていたのである。彼らが賭けるのは一向構わない。

 問題は彼らが絶対的権力を握り、徴税権・徴兵権を握って、自由に日本の国民を兵隊として動かし、天皇制イデオロギーを日本国民の中に浸透させつつ、殺生与奪、好き放題にしたことだ。挙げ句の果てには、多くの日本人同胞の命を奪っただけでなく、中国・朝鮮をはじめ多くの人たちの命と「平穏な暮らし」を奪ったことだ。


21ヶ条の「要求」

 さてとりあえず『21ヶ条の要求』に戻ろう。

 中国に対して要求した、と言ってもその当時中国は、袁世凱の「国民政府」だった。袁世凱は、すぐこの後帝政を復活させようとしたほど、時代錯誤の人物である。間違った時に間違って登場してしまった、という典型的な人物だ。この点、我がお調子者、田母神俊雄と全く変わらない。

 「21ヶ条の要求」の中身を見てみると、日露戦争以来、日本の大陸侵略主義者たちの思いがここぞとばかりぶつけられている。

 以下並べてみよう。

第一号 山東権益。山東省における権益には日本がドイツと協定を結んだ場合、中国政府はすべて承認すること。
第二号 南満州東部内蒙古(熱河省のこと)における日本の優先権。旅順・大連及び南満州鉄道の租借期限の延長、日本人の居住・営業の自由、不動産取得権、鉱山採掘権を認めること。
第三号 漢冶萍公司の合弁。(湖北・湖南にまたがる鉄鋼コンビナート。大冶の鉄鋼石が日本の八幡製鉄所にとって重要な意味をもっていた。)
同公司を将来日中の合弁事業とすること。その資産及び採掘権を保全すること。
第四号 領土不割譲。中国沿岸の港湾・島嶼を他国に譲渡・貸与しないこと。
第五号 第五号はいわゆる「希望条項」とよばれている項目だが、歴史家の言葉使いは良く理解できない。というのは「21ヶ条の要求」そのものが、要求であり、中国に対する「希望」だろうが、その中で「要求」と「希望」の違いが素人の私には理解できないのだ。

 察するに第一号から第四号までは「要求」で是非とも飲ませたいと言うことだろう。では飲まないとどうなるのか。それは武力に訴えても飲ませる、ということだろう。一方「希望条項」は武力に訴えることまではしない、と言うことだろう。

 こんなものは外交交渉ではない。ほとんど「宣戦布告」に近い。

 普通の日本語の使い方では、「要求」したが断られた、ということはあり得る。また「希望」したが叶えられなかったということもあり得る。しかし当時の大隈内閣の言葉使いでは、「要求」とは必ず通るものであり、「希望」とは相手の言い分も認めてやろうというものだったらしい。

 昭和に入ると日本は(軍部だけではない)、中国のものは日本のもの、これを守るのは日本の自衛上の措置といったのぼせ上がり方をするが、そののぼせ上がりは、すでに大正時代の、この「21ヶ条の要求」にはっきり見て取れる。

 アメリカのブッシュ政権にも似たような、のぼせ上がりが見られるが、今の問題は過去にのぼせ上がったことではない。過去にのぼせ上がったことを自己批判して将来へ向けての学習をしたかどうかだ。「侵略戦争ではなかった」と主張する田母神は学習能力は全くもちあわせてはいないようだ。


中国の保護国化を狙う「希望条項」

 さてこの「希望条項」と称する第五号とはどんなものだったか?

@ 中国政府に日本人の政治・財政・軍事顧問を雇うこと。
A 必要な地方の警察を日中合同とするか、警察に日本人を雇うこと。
B 兵器は日本に供給を仰ぐか、日中合弁の兵器工場をつくること。
C 華中・華南にも日本の鉄道敷設権を認めること。
D 福建省の運輸施設に対する日本資本の優先権を認めること。
E 日本人の布教権を認めること、などだった。

「21ヶ条の要求」項目については、岩波新書「中国近現代史」P77をほぼ丸写しである。なお、次のサイトも参考になる。http://ja.wikipedia.org/wiki/対華21ヶ条要求 )

 この内容がそのまま通れば、中国に「日本の保護国」になれ、と言っているに等しい。

 列強はこの要求に対してどんな反応を示したかというと、第五号には当然のことながら強い反対を示したが、第一から第四号にはさして強い反対をしなかった。つまりこの時日本の中国における「特殊権益」を承認したのである。また袁世凱政権も、日本と戦ってまでこの要求を拒否しようという気概はなかった。つまり清朝末期の政権と同じ対応をとったのである。こうした政権は、傀儡政権の道筋をたどる他はない。

 第三次日露協約以降、中国における「特殊権益」を列強に認めさせるという日本帝国主義の願望はここに実現された。


歴史の主人公を見落とした日本の帝国主義

 しかし、日本の帝国主義はもっとも肝心なポイントを全く見落としていた。中国人民の動向である。日本の帝国主義にとって、中国侵略のポイントは列強の動向であり、時の中国政府の動向である。

 歴史を動かす主人公は時代であり、その時代を最終的に支配するのは結局の所人民である。特に中国はそうである。高杉晋作がアヘン戦争でイギリスに手もなく打ち破られる中国を見て、「ヨーロッパ列強恐るべし」の強烈な印象を抱いたが、これに頑強に抵抗する中国人民(平英団)は見なかった。

 日本の帝国主義にとって、人民は導いてやるものであり、馴致すべき存在であった。自らの脅威、正面の敵とは考えなかった。この日本帝国主義の発想は明治維新以来のものであり、中国との戦争、太平洋戦争を通じての一貫した世界観だった。

 この世界観・歴史観は「田母神論文」の奥底にも一貫して流れている。田母神は戦後60年以上たっても日本の凶暴な天皇制ファシズムが、一体誰に敗れたのか理解できないでいる。


「恫喝」に激しく抗議する中国人民

 この「21ヶ条の要求」の時にも、日本政府は中国人民の動向を全く見落としていた。

 「21ヶ条の要求」に対する中国人民の反応は、きっぱりとしたものだった。
 
要求の内容が新聞に報道されると、国民各階層に亡国の危機感が拡がり、「要求を拒絶せよ」という世論が高まった。運動はやがて日本製品ボイコット、愛国貯金(日中開戦に備えて武器購入資金を購入する)の形で全国的に展開され、民国始まって以来の民族運動となった。』
(前掲書「中国近現代史」78P)

 1915年(大正4年)5月のことである。

 1915年5月7日、日本政府は袁世凱政府に対し、21ヶ条の要求のうち五号条項を削除して最終案を作り、5月9日を最終期限として受諾せよ、と迫った。袁世凱政府は屈服し、これを受諾した。

 侵略に対して武器をもって戦おうとしない袁世凱政府は、中国人民に見捨てられた。「5月7日」と要求に屈服した「5月9日」が中国の「国恥記念日」とされているゆえんである。


「歴史を現在の基準で断罪するな」の欺瞞

 私は今日(2008年12月14日)、在広島のある大手新聞社の若い記者と話をした。話題は自然「田母神論文」に向かっていく。彼は田母神論文を否定しながらも、「しかし、現在の価値観で歴史を断罪するのは間違いだ。歴史はその時代の価値観で判断すべきだ。」と主張した。

 私は「おや?」と思った。この主張は、何も右翼系の論調だけではなく、かなり一般に浸透している「歴史に対する」見方である。彼の口からこの手の使い古された論調を聞くとは思わなかったからである。

実は、この一見もっともらしい主張には帝国主義的侵略肯定と暴力で支配するものの強烈なイデオロギーが、危険な匕首のようにオブラートに包まれて隠れている。

 この大正時代に起こった「21ヶ条の要求」に例をとって考えてみよう。日本の要求(要求とは日本政府の使った言葉で、その内実は武力を背景にした恫喝である。これ自体ごまかしを含んだ『歴史用語』である)が、『正当』だとすればそれは当時の「列強帝国主義の論理」であり、「列強帝国主義の価値観」である。

 『現在の価値観では、「21ヶ条の要求」は「不当」だが、1915年当時の、列強帝国主義の時代の価値観では、これは「正当」な行為だった、それが当時の価値観だった。』と誰かが言ったとしよう。この論者は明らかに、「当時」の列強帝国主義者の価値観に従って歴史を判断している。

 というのは1915年の「当時」においてすら、この「列強帝国主義の価値観は誤りであり、不当である。」と主張する価値観が存在したからである。先ほどみた中国人民の論理がこれだ。

 すなわち、1915年当時列強帝国主義者の価値観だけが存在したのではなく、これを「不当」だとして激しく抗議する価値観がすでに存在したのである。

今の問題は2008年の現在、われわれが、1915年当時の2つの相互に対立する価値観のうち、どちらを正しい歴史的価値観として選択するか、ということである。

 もし、「当時は帝国主義的侵略は誤りではなかった。」というものがあれば、その論者は現在も帝国主義者の論理を自分の論理としていることになろう。

 「当時としても帝国主義的侵略は誤りであり、そのことは当時の中国人民の命を賭けた抗議がそれを証明している。」というものがあれば、その論者は反帝国主義・民主主義の立場にしっかり立っていることになる。

 やっかいなことは、『現在の価値観で歴史を断罪するのは間違いだ。歴史はその時代の価値観で判断すべきだ。』という主張をする人の多くは(ごく少数の真性帝国主義者を除いて)、自分自身を「反帝国主義者・民主主義者」であると思いこんでいることだ。これが危険な「オブラートに包まれた匕首」の意味である。

 「田母神論文」との関係で言えば、田母神論文を批判しながら、実は自分はしっかり田母神の側に立っているのだ。

 自分が今なにものであるかは、その人の「歴史認識」が決定する、その人の主観的な思いこみが決定するのではない、と言うことでもある。

 次の問題は、こうした曖昧な首尾一貫しない「歴史認識」を社会の懐に深く抱えたまま、日本は次の世代の展望を自らの力で切り開いていけるのだろうか、という課題である。

 今、仮に、こうした曖昧で首尾一貫しない、極めて主観的な歴史認識のことを『即自的歴史認識』、歴史の実相を正しく捉え、未来を切り開いていける歴史認識を『対自的歴史認識』と名付けておこう。

 「田母神論文」が突きつけている問題は、実は田母神という道化の問題ではない。田母神という道化を通じてぱっくり口を開き、日本社会がその懐に深く抱え込んだ『即自的歴史認識』なのだ、と言うことがいえよう。


(以下次回)