No.23-2 平成20年12月11日

田母上論文に見る岸信介の亡霊
その2 「道化者」田母上の「歴史認識」の危険性
田母神論文の3つの特徴

 田母神論文を一読すれば了解されるように、この論文は次の3点を大きな特徴としている。

(1) 歴史的事実と確認されていないことがらを使って論を進めている。ありていに言えばデマやウソに近いいいかたをしている。
(2) 歴史観の共有を徹底的に拒否している。多様な見方から歴史の真実を見つけ、他者との共有を通じて歴史は社会科学と発展していくのに、田母神のこの姿勢は歴史を「神話」のレベルへと引き下ろすものだ。
(3) これは(1)(2)からする当然の方法論となるが、詭弁が多い。しかも「核抑止論」のようなある意味洗練された詭弁ではなく、粗雑な詭弁が多い。これが彼が本当の「天皇制ファシズム」のイデオローグたり得ず、支配階級から使い捨てにされた理由であろう。

 (岸信介もあの世で眉を顰めているに違いない。)

 『日本は侵略国家であったのか』と題する田母神論文は、『アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。』という書き出しで始まる。

 のっけから問題を多く孕んだ文章である。

 「アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。」という認識は中学生なら合格であるが、防衛省の航空幕僚長の認識としては落第である。日米安全保障条約(http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19600119.T1J.html)のどこを読んでも、アメリカ合衆国軍隊は日本国内に軍隊を駐留できるとは書いていない。

 第6条、
 日本国の安全に寄与し、並びに極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため、アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される。

  前記の施設及び区域の使用並びに日本国における合衆国軍隊の地位は、千九百五十二年二月二十八日に東京で署名された日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定(改正を含む)に代わる別個の協定及び合意される他の取極により規律される。 』

 とある。この第6条に基づき、別途行政協定(日米地位協定=http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/sfa/index.html)が締結され、この行政協定に基づいて、「合衆国軍隊」が日本に「軍事駐留」を行う法的権利を得ているのである。

 合衆国軍隊を日本に合法的に駐留させる根拠が、日米安全保障条約にはなく、日米地位協定にあるという点は、アメリカが国外に基地を展開させる常套手段である。いわば軍事機密を最大限に保ったまま、外国に基地を置くのにこれほど都合のいい手段はない。

 日米安全保障条約は、日本の国会・アメリカの議会の批准を要するが、「日米地位協定」は行政協定だから、日本の首相とアメリカの大統領が承認すればそれで成立する。日本における米軍基地とその展開は、日本の首相がOKといえば全く自由にできる。

 アメリカの軍部が一番恐ろしいのは、日本の国会でもなければ日本の世論でもない。アメリカの議会とアメリカの世論だ。外国における基地の実情を、アメリカの議会の前にさらけ出し、その批准を受けるために審議されることは避けねばならない。そのためには行政協定とすることがミソである。この点は日本に限らず、外国に基地を置く際、例外はない。

 しかしこのミソは、同時に「アキレスの腱」ともなる。


行政協定を許さなかったフィリピンの民衆革命

 その「アキレスの腱」ぶりが遺憾なく発揮された事件が、1991年フィリッピンのクラーク空軍基地とスービック海軍基地の閉鎖、フィリッピンからの米軍基地撤退であろう。1986年、半ばアメリカの傀儡マルコス政権を打倒したフィリッピンの市民(フィリピン民衆革命)は、すぐに新憲法の作成に着手、1987年2月コラソン・アキノ政権のもと、圧倒的多数で新憲法を採択、発効した。「戦争放棄」「フィリッピンの非核兵器化」条項を含んだこの世界史的憲法は、また「外国軍事基地」の廃棄条項を含んでいた。すなわち第25条第8項である。

 この条項では、「条約として締結されるのではない限り、フィリピンには外国の軍事基地は置かれない。」と銘記されていた。すなわち米比地位協定の期限が来る1991年以降、もしアメリカ軍が引き続きフィリピンの基地を継続したければ、フィリピン議会と米議会の批准を必要とする、いわば「行政協定」ではなく、条約化することを要求したのである。このためアメリカ軍はフィリピンからの撤退を余儀なくされたのである。このときアメリカは「ピナツボ火山噴火による基地のダメージは回復不可能」という捨て台詞を残して、撤退したが、本当の理由は「民衆革命」のダメージだったのである。
(http://www.inaco.co.jp/isaac/back/022-8/022-8.htm 「事実上米軍基地撤退を謳ったフィリピン憲法」の項参照のこと。)

 従ってもし日本から米軍基地撤退を狙うのであれば、フィリピンにならって、2010年日米安全保障条約の期限が来る時を念頭に置いて、「条約によるのでなければ、日本にはいかなる国の基地も置かれない。」とする法律を作れば良いと言うことになる。

 「田母神論文」で、米軍基地の法的根拠を日米安全保障条約にある、とした点が誤りであることの意味は以上である。


条約によらない軍事駐留と「侵略」を同義におく粗雑な詭弁

 次に田母神の「粗雑な詭弁ぶり」がいかんなく発揮される箇所が次の点である。すなわち、「条約によらない外国の軍隊の駐留」と「侵略」を同義に置き換え、「日本と中国、朝鮮半島の政権に軍事駐留の条約があった。」(これも厳密にはすべてが条約とは言い切れないが)、従ってこれは侵略ではない、といういいかたである。

 田母神の言い方を借りると、「条約によらない軍事駐留」は侵略だが、「条約による軍事駐留」は侵略ではない、という論法になる。従って米軍による日本における軍事駐留をだれも侵略とは呼ばない、という言い方になる。(ところが困ったことに、前述のごとく在日米軍の法的根拠は、厳密には日米安全保障条約にはなく、日米地位協定にあるのだが・・・)

 「侵略」と「軍事駐留」は、全く異なる概念だ。だから「軍事駐留」があるからといって「侵略」とは言い切れない場合もあるし、「軍事駐留」のない「侵略」もあり得る。この程度の論理思考もできない人物が、防衛省の航空幕僚長だった、と考えてみると、ゾッとしないだろうか。

 大体この人物が科学的思考の全くできない人であることは、この論文を一読してみれば、すぐ分かる。自分の使う言葉に全く概念規定を与えようとしていないことがその特徴としてあげられる。「侵略」についても同様だ。田母神は「日本は侵略国家であったのか」という表題を掲げ、「日本が侵略国家」ではなかったことを論じているが、肝心の「侵略」あるいは「侵略国家」なりの一般的定義を行おうとしていない。田母神のいう「侵略」には、「言葉」だけあって、内容が与えられていない。だから科学的な議論が全くできない。


科学的議論をしない「大東亜戦争賛美」論者

 しかし、これは何も田母神だけの特徴ではない。

50年が過ぎたとはいえ、第二次世界大戦が侵略戦争であったか否かの評価は、定まってはいない。それは歴史のどの部分をどう取り上げるかによって異なる様相を歴史が示すからである。容易に黒白をつけることのかなわないのが歴史の複雑さであり実態である。」
(櫻井よしこ著 <論戦> ダイヤモンド社 1996年6月13日 初版 P136)

 このもっともらしい櫻井の文章は、田母神の言いたいことを上手に表現しただけだ。日本の戦争が侵略戦争だったどうかの判定は、櫻井の言うように歴史のどの部分を取り上げるかによって変化するわけではない。「侵略」なり「侵略戦争」の定義を行えば済む話だ。

 しかし、日本の近現代史を「賛美する勢力」は、ひたすら「歴史的概念」の定義、言い換えれば「歴史の科学化を行おうとする努力」を放棄するのが大きな特徴である。そして行き着くところは次のような文章になる。

歴史は民族によって、それぞれ異なっていて当然かもしれない。国の数だけ歴史があっても、少しも不思議ではないかもしれない。個人によっても、時代によっても、歴史は動き、一定ではない。しかしそうなると気持ちが落ち着かず、不安になるだろう。だが、だからこそ歴史を学ぶのだともいえる。」
(扶桑社 <新しい歴史教科書 市販本> 2001年6月10日 初版 7P)

 この本によれば、民族(この民族の定義も与えられていない。)が、いつの間にか国にすり替わり、その民族なり国の数だけ歴史があってもおかしくない、と言うことになる。なるほどこれなら、「歴史的事実」「歴史的認識」をめぐっての議論は不必要になる。しかし、それはもう科学としての「歴史」ではない。「神話」としての歴史と言うべきであろう。


「侵略」の概念

 一体「侵略」とは一体どんな概念なのか?

 学術的にはいろんな議論があろうが、われわれ一般市民レベルではおよそ次のような定義が妥当ではないか?

その戦争が侵略戦争であったかどうかでいちばん大事なことは、それが自国の領土拡張や他国の支配をめざした戦争だったかどうかです。」
(不破哲三 <日本の戦争 領土拡張主義の歴史> 日本共産党出版局 2006年10月10日)

 この不破の定義に従えば、これまで歴史上のほとんどの戦争は侵略戦争だったと言うことになる。またこの不破の定義を援用すれば、戦争によらない「侵略」もまたあり得ると言うことになる。戦争は「侵略」のための一手段に過ぎないからだ。

 問題は、それが領土拡張や他国の支配をめざしているのかどうかの評価だ。

アヘン戦争に見るイギリス帝国主義の手口

我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外と知られていない。』

 これは冒頭に引用した田母神の文章に続くくだりである。

 田母神の混濁した頭では、軍事駐留と侵略の概念的区別がついていないため、前段と後段の論旨が一貫しない。しかし、今ここで問題にしたいのは、「条約」に基づいた軍事駐留は許される、という田母神の発想だ。

 「軍事侵攻」を行って、軍隊の圧力の下、自分に一方的に有利な条約なり協定を結ばせる。それを法的根拠にして更に侵略を進める・・・しかし、これは何も天皇制ファシズム特有の手口ではない。それどころか19世紀帝国主義の常套手段だった。天皇制ファシズムはそれを忠実に模倣して、極めて乱暴な形で20世紀になっても行った。これが問題視されたのだ。20世紀に入ると欧米の帝国主義はもっとスマートに侵略し、その経済的目的を達成しようとした。

 「意外と知られていない」どころか、われわれは歴史でよく知っているところだ。

 話を中国大陸に限ってみよう。

 19世紀初頭、インドを植民地としたイギリス帝国主義は、中国大陸への侵略を次の目標とした。中国の資源(この資源には、天然資源だけでなく歴史的文化資源も含まれる)、労働市場、商品市場が魅力的だった。しかし、イギリスが輸出しようとした綿製品や毛織物はさっぱり売れず、逆に中国からの茶(紅茶)や生糸の輸入が多くなり、イギリス側の大幅な入超となった。イギリスはこの決済を南アメリカで手に入れた銀をもってしなければならなくなった。これが19世紀初頭の状況である。

 イギリスはすでに18世紀末にインド(ベンガル)のアヘン専売権を手に入れており、これを中国に輸出することでこの入超を解消しようとした。しかし封建主義帝国である清帝国といえども、アヘンは禁制である。これを中国に輸出しようとすれば、密輸とならざるを得ない。有名な商社ジャーデン・マセソンはこの時、対中国アヘン貿易で大きくなった会社である。

 (岩波新書「中国近現代史」小島晋治・丸山松幸著21頁によれば、1800年―1801年4570箱<1箱は60Kg>だったアヘンの輸入量は、1830年―31年には2万箱、1938年―39年には4万箱になったという。)

 アヘン輸入の激増によって、1827年を境に中国側の銀の入超が逆転し、以降中国側の出超となった。銀本位制をとっていた中国は当然銀が高騰し物価が高騰し、経済に破壊的影響が現れてきた。それよりも壊滅的影響はアヘン吸引による人間への破壊効果である。

 1939年(天保10年)道光帝は、林則除を欣差大臣(特命全権大臣)に任じ、広州に派遣した。林はアヘンを扱う外国商人に対して断固たる措置をとり外国商人にアヘンの提出と今後一切アヘンを中国に持ち込まぬと言う誓約書をとって没収したアヘンを海に廃棄した。(以上「中国近現代史」を要約。)

 この時没収、廃棄したアヘンは2万箱だったという。この量はほぼ年間輸入量の半分に相当する。また林の措置が「断固たる」ものだったというのは、林は別な方法もとれたからである。すなわち他の多くの清国の役人のように、袖の下を取り、アヘン密売を見逃し私腹を肥やすこともできたからである。

 林のような人物を「愛国者」と呼ぶのであり、のちに見るように、財閥の経済的利益のためにその手先になって、多くの同胞を危険な戦争に導き、自国を破滅に陥れた旧日本帝国軍人たちを「愛国者」と呼ぶのでは、断じてない。


軍事侵略の基礎ある経済的利益

 イギリスはこの事件を利用して「対華貿易を安定した基礎の上に置くのに必要な諸条件の獲得」に乗り出し、1939年10月中国(清)との開戦を決定した。時の内閣はパーマストン内閣である。40年4月英国議会はこの決定を承認し、20隻の軍艦、4000名の中国遠征軍の派遣を承認した。イギリスの名誉のために付け加えておくと、この議会では「汚れた戦争」だとして、反対派のコブデン、グラッドストーンは反対したし、宗教的理由から多くの英国国教会徒、クエーカー教徒は反対した。

 しかし、清はすでに腐敗していた。イギリス軍の最新軍備に驚倒した清国政府は林則除を罷免し、妥協派を起用、仮条約に調印した。すなわち没収アヘンの賠償、香港島の割譲である。この決定に激怒した道光帝は、妥協派を罷免したため、イギリス軍は攻撃を再開した。軍事的にはイギリスは圧倒的だった。賠償金の支払い、清軍の広州城からの撤退、イギリス軍の広州駐留承認を約束する条約を締結した。(広州和約)

 この時イギリス軍の暴状は目に余るものがあり、広州近辺の農民たちが自衛軍を組織して抵抗戦に入った。これが平英団である。イギリス軍は戦線を拡大、厦門、寧波を占領、42年にはインドから1万人の増援を派遣して上海、鎮江を占領、南京に迫った。


軍事侵攻の後に成立した南京条約

 こうしてイギリスの要求をほぼのむ形で南京条約が1942年8月締結された。2500万ドルの賠償金、5港の開港、公行制度(清時代の独占貿易商制度)の廃止、香港島の割譲などを約束させられ、さらに43年の追加条約で、関税自主権を失い、領事裁判権を与え、開港場における土地租借権(これがのちに租界に発展する)を与え、一方的最恵国待遇を認めた。

 清の無力を見たアメリカとフランスは44年、南京条約とほぼ同様の内容を持つ条約、それぞれ厦門条約、黄埔条約を結ぶ。こうして列強の中国侵略は開始され、清帝国下の中国はその主権を失っていく。
 (別途関連資料「中国近現代史」年表を参照のこと)

 田母神の論法では、イギリス、アメリカ、フランスがそれぞれ清国内に駐兵権を得たのはそれぞれの条約に基づくものだから、「侵略」ではなかったことになる。

 ところで、この事件のほぼ100年後、遅れてやってきた日本の帝国主義は、古色蒼然たる天皇制ファシズムの外観をまとって中国大陸を侵略する。その手口はアヘン戦争の時のイギリスとそっくりだった。

 東アジアの大帝国清朝の惨めな敗北は、日本の支配層に大きな衝撃を与えた。密航していた高杉晋作も、このアヘン戦争下の中国を目撃している。そして日本の支配層は、明治維新をはさんで、「富国強兵策」をとるのである。

 しかし高杉は近代的技術や近代的軍事力は見たが、平英団に見られる一般民衆の「愛国心」は見なかった。国を守るのは、決して軍備ではなく、「自主独立」のもとに「安心して落ち着いた生活」を守ろうとする一般民衆の力であることを決して見ようとはしなかった。それは明治維新後に現れた日本の各界指導者にも共通していた。

 台湾を侵略した日清修好条規、朝鮮半島侵略の足がかりを作った江華島条約など、例外なしに「条約」の前に軍事侵攻があった。つまり軍事侵攻、軍事的威嚇を背景に条約を結ばせ、それを根拠に自らの侵略行為を正当化した歴史的アリバイ作りであった。でも田母神の発想ではそれは正当な行為だと言うことになる。これは田母神の歴史的認識であると同時に、現実認識でもある。こういう人物が、現在の憲法下における防衛省航空幕僚長だったということである。


自衛隊廃止論が起こらない方が不思議

 考えて見ると、極めて危険な人物を重要なポストに置いていたものだ。さらにもっと危険なのは、この発想が防衛省・自衛隊の体質になっていると考えられることである。われわれはとんでもない「軍隊」を「自衛隊」と称して、日本の国内に抱えている、しかも年間4兆円を優に越す費用を税金で賄いつつ、危険を養っていることを決して忘れるべきではない。

 「田母神論文」が、自衛隊廃止論の導火線にならない方が不思議なくらいだ。

現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって、国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。』

 なんともおかしな文章である。軍事的進出を行い、「中国大陸に権益を得て」これを守るために軍を配置したから、「日本の侵略」と形容されることになったのではないか。田母神は「侵略」の定義をしないから、変幻自在である。『国際法上合法的』だったから侵略ではない、と言いたいのか?

 2つだけ例をあげよう。一つは「リットン調査団」の報告に基づく国際連盟の決議「満州国は自発的な国家としては認められない。」に反発して、国際連盟を脱退した事件である。当時としても、満州国成立は国際法上認められなかった、と解すべきではないのか?(http://ja.wikipedia.org/wiki/リットン調査団)

 もう一つは、ポツダム宣言である。(http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/potsudam.htm)

 13項目からなるこのポツダム宣言の骨子は、1945年7月以前に日本が得た領土・権益などは全て不法なものであり、侵略の結果得られたものであって、直ちに放棄すべきであること、こうした軍国主義ファシズムは徹底的に破壊し、国際平和に貢献する国づくりをすべきこと、だったのではないか?

(6) 日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、全ての時期における影響勢力及び権威・権力は排除されなければならない。従ってわれわれは、世界から無責任な軍国主義が駆逐されるまでは、平和、安全、正義の新秩序は実現不可能であると主張するものである。

(8) カイロ宣言の条項は履行さるべきものとし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国及びわれわれの決定する周辺小諸島に限定するものとする。

(* なおカイロ宣言については、http://ja.wikipedia.org/wiki/カイロ会談及びhttp://en.wikipedia.org/wiki/Cairo_Declaration を参照のこと。)

 日本政府(鈴木貫太郎内閣)は、条件付きでこのポツダム宣言を受け入れ、日中戦争及び太平洋戦争は、日本の降伏をもって終結したのではなかったか?

 すなわち、国際法上は日本が侵略の事実を認め、降伏することによって、戦後日本が現行憲法の下に新たな出発をしたのではないか?田母神はそれともポツダム宣言を認めないのか?

 認めないのは自由である。ただし、防衛省航空幕僚長にはその自由はない。憲法の規定を忠実に守る義務があるからだ。「歴史認識と発言」の自由を得たければ、防衛省を辞めてからにすべきであろう。


河本大作の告白

 歴史的事実は、当時日本国内に抱えていた諸矛盾を、朝鮮半島・中国大陸に侵略することによって解決しようとした、ただその軍事的侵略が拙劣であり、また極めて凶暴であったために、朝鮮半島・中国大陸の多くの民衆ばかりでなく、日本の人民にも多くの災危をもたらした、ということだ。

・・・私は、つらつらと沈思するの時を掴んだ。世は滔々として自由主義に傾き、彼らは満蒙問題の武力的解決に対しては、非難攻撃を集中し、甚だしい論者中には、満蒙放棄論をさえ唱え出す外交官を見るのであった。

年々に増大する我が国の人口問題は如何、食糧に対する政策は?これらから生ずる経済問題の根本的立て直しを必要とする時代ではないか、その当然の解決策として大陸への確固たる方策なくして何ができよう。・・・日本の将来に直面しているものは、満蒙問題解決に他ならないことは不動の事実であることに間違いのないことを確かめた。新しい構想の下に、あくまでも満州問題を解決すべきであるという強固な決意を深めるばかりであった。』

 この文章は、満州事変のきっかけを作った張作霖爆殺事件の張本人、河本大作の文章の一節である。「私が張作霖を殺した」と題するこの論文は、昭和29年(1954年)12月号の文藝春秋に河本自身が寄稿したものである。河本は張作霖の列車をいかにして破壊したかを詳細に説明した後、この論文の最後の方で、満州侵略の意図について上記のように説明している。(文藝春秋に見る昭和史 第一巻 1988年4月5日第8刷 P52)

 明治維新以来、豊かな中間階級を形成させてこなかった日本の資本主義は、昭和恐慌に代表される経済恐慌にひとたまりもなかった。その経済的矛盾を海外侵略という形で解決しようとしたのが、ここでいう「満蒙問題の解決」の本質だった。河本自身が告白している。問題は、河本が1954年当時も自分の考え方は正しかったと信じていることだ。もっともあの侵略戦争が、「日本が取り得るべき道として正しかった」と信じていたのは何も河本一人ではない。逆に、あの侵略戦争は「日本の取り得るべき道として正しかった」と考えた人たちが、戦後も政府を組織し国政を担当し、「国家総動員法」に基づく官僚組織をそのまま引き継いで来たのだ。

 1960年日米安全保障条約を締結し、アメリカに従属した形で日本の独占資本主義を、満州帝国時代の官僚統制の下で再構築しようとした岸信介は、戦後もあの戦争は正しかったと考えていた。

(岸が)戦犯容疑者に指名されて田布施を離れるとき、長州出身で一高時代の恩師でもある杉敏介から、「名を惜しむなら命を捨てよ」という意味の「自決」を促す短歌を贈られる。岸はこれを拒否して次のような返歌を杉に届けている。「名にかへてこのみいくさ(聖戦)の正しさを来世までも語り残さむ」。』
(岩波新書「岸信介」原彬久著121P)

 すでに阿南惟幾(終戦時の陸軍大臣)、近衛秀麿は自殺を遂げていた。東条英機は自殺に失敗していた時だった。岸は開戦時の商工大臣であり、東条内閣の事実上の軍需大臣だ。しかし上記の本の著者原彬久は、次のように続けている。

しかし、岸が自害の誘惑に駆られた形跡は全くない。それどころか今時戦争における日本側の「正当防衛」を主張し、みずからに理あるところを立証したいというのが岸の立場だった。したがって岸が太平洋戦争を反省することなどありえない。』

 その後の岸の言動を調べるにつれ、私もまた原に同感する。


国際関係を軍事的支配関係でしかみない

 田母神の論文に戻ろう。

 続く田母神の文章は、「侵略」の概念を扱うとき、条約があったかなかったかのみを問題としている点で、またその条約もポツダム宣言受諾でまったく無効になってしまっているという点で、無意味な文章となる。

圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。』

 なんだ。本人も認めているわけか。「多少」というのは言葉の綾だろう。
 ただ、条約一般の話だとすると、「多少の圧力」を伴わない、対等互恵に基づく条約は昔も今も存在するので、田母神はここでもエラーを犯している。

 そもそも国と国の関係が、軍事力を伴う支配関係の中でしか存在しえない、という田母神の発想は、現実の一面しかみていない、職業軍人としても偏狭な世界観と言うべきであろう。

 繰り返しになるが、この人物はついこの間まで防衛省航空幕僚長だった。この程度の人物が航空自衛隊のトップだったと言うことは、航空自衛隊は一体どんな組織か?こんな人物をトップにいただく組織を維持するためにわれわれは税金を払っているのか?納税意欲を著しく減退させる人物である。こんな自衛隊なら要らない、日本の安全にとって危険極まりない、ということにならないのか?


自衛隊が米軍基地を襲えば「テロ」とはいわない

 田母神の文章は次のように続く。

この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に対する米軍横田基地や横須賀基地になどに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族を暴行、惨殺するようなものであり、とても許容できるものではない。』

 この文章は田母神の頭の中身を知る上で、また彼の歴史認識を知る上で、従って今の自衛隊の上層部の歴史認識を、さらに田母神を航空幕僚長に任命し、彼を懲戒免職としなかった政府自民党の首脳部の歴史認識を知る上で極めて、興味ある文章だ。

 「蒋介石国民党のテロ行為」「邦人に対する大規模な暴行」「惨殺事件」などが、具体的にどの事件を指すのか明示されてないので、論評のしようがないが、はっきりしていることは、田母神は「中国と日本は交戦状態にはなかった。」と考えていると言う点だ。

 あとで出てくる文章で「日中戦争の開始直前の1937年7月7日の廬溝橋事件」といっているので、「廬溝橋事件」以前は、日本と中国は戦争状態になかったと考えているのかもしれない。

 また繰り返しになるが、この認識は田母神一人のものではない。アパグループ代表の某もそうだし、審査委員長としてこの論文を第一位に推した渡部昇一もそうだ。自民党靖国派の国会議員もまたそうだ。自衛隊の他の多くの幹部もまたそうだ。

 日本と中国は、日中戦争開始以前は戦争状態になかったか?「蒋介石国民党の戦闘行為」田母神のいう「テロ行為」だったか?一般中国市民に対する大規模な暴行」を行ったのは日本人の側ではなかったか?「惨殺事件」の被害者は日本人ではなく中国人ではなかったか?

 ただこの男の頭の悪さはどうにかならないか?

 「例え」が余りにも悪すぎるのだ。「正体不明の不法な暴力行為」だから「テロ行為」なのだ。歴とした日本の軍隊たる「自衛隊」が治外法権たる米軍基地を襲撃すればこれはテロ行為とはいわない。立派に国家間の戦闘行為だ。
 
 この男の頭の悪さは、「とても許容できるものではない。」
 
 この頭の悪い男のことはほっといて、ざっと当時の中国の状況をおさらいしておこう。


中国大陸を襲う列強というハイエナ

 明治維新を達成した日本は、その近代化・工業化を、領土拡張政策のもとに、朝鮮半島・中国大陸に市場を求め、その資源・労働力を収奪しながら達成し、資本主義の本源的富の蓄積を達成しようと試みる。明治政府ができるとすぐに「征韓論」が出てくるのは偶然ではない。その後は、台湾出兵、日韓併合、満州帝国の成立と明治以降は、侵略戦争の歴史といっても過言ではない。これが第一の要素。

 1898年米西戦争に勝利したアメリカは、スペインからラテン・アメリカ、太平洋の覇権を奪い、この記事との関連で言えば、フィリピンの独立を抑圧してフィリピンを植民地とし、中国大陸へ進出する足がかりを作った。その後の20世紀は、アメリカの戦争の世紀といっても過言ではない。アメリカもまた中国への野心を持っていたのである。これが第二の要素。

 ツアーリに支配される半封建的な国家ロシアもまた、永年中国大陸への進出を狙っていた。20世紀の初め頃までに弱体化した中国(清帝国)に乗じて、南満州鉄道の敷設や旅順・大連などの租借地を足がかりにして着々と地歩を築いていった。ただ1917年のロシア革命でボルシェビキ政権が成立すると様相は一変する。これが第三の要素。

 早くから中国大陸への帝国主義的進出を果たしていたイギリス・フランス・ドイツといった、いわゆるヨーロッパの列強は、アヘン戦争やアロー号事件など、日本が後にお手本とする露骨な帝国主義的進出を行い、いろいろな条約を締結して、田母神の表現を借りるなら「合法的に」中国を侵略していく。これが第四の要素。

 さていよいよ最も重要な要素、中国の動きである。

 列強の侵略に、清帝国はその統治能力を失っていく。アヘン戦争は「大国清」が実は見かけ倒しの張り子のトラであることを露呈し、その後列強の帝国主義的侵略は露骨になっていく。しかし広大な中国を単独で支配できる国はついに登場せず、中国は「半植民地」と呼ばれる状態になる。

 全体として腐りきった清帝国は、自らの延命のため、中国の資源・労働力・市場や本源的富を列強に譲り渡しながら、次第に列強の傀儡政権化しつつ、中国人民からの収奪を強めていく。

 中国人民はこうした清帝国に反発を強め、太平天国運動(太平天国の乱)の経験を通じて、中国人民の利益を守り独立した国家を作るには、帝国主義列強の傀儡政権化した清を打倒して、帝国主義的列強を中国から追い出す必要があることに気がついていく。


義和団事件で半植民地化する中国

 それを象徴する事件が1900年(明治33年)に起こった「義和団運動」(義和団事件)である。19世紀を通じて、列強は中国への侵略を強めていった。不平等条約で関税の自主権と領事裁判権を奪われた中国(清)は、中国人民に対する収奪を強める他はなかった。この列強の経済的収奪に対して中国人民が暴動を起こした事件が義和団運動である。この運動は反キリスト教運動の形をとったものの、その実態は反帝国主義運動だったのである。

清帝国はこの義和団に対して懐柔政策をとった。義和団の民衆は清帝国を自分たちの味方だと思ったのである。だから彼らのスローガンは「扶清滅洋」(清を助け、外国を滅ぼす)だった。しかし、結局清は中国民衆を裏切り義和団を弾圧した。この弾圧の先頭にたったのが、新任巡撫袁世凱である。

 この時義和団運動に参加した中国人民は約10万人だったと言われる。

 1900年6月、北京でドイツ公使と日本公使館員が殺されると言う事件が起こった。この事件をきっかけに、列強が中国に共同出兵する。ドイツ、日本、イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、オーストリア、イタリアの8カ国の連合軍である。総勢約3万6000人の連合軍の主力は2万2000名の日本軍だった。

 この時地の利を占めていたのはロシアと日本である。列強と中国(清帝国と中国民衆)がもっとも警戒したのはロシアである。ロシアは北から中国侵略を強めており、すでに旅順・大連に橋頭堡を築いていた。イギリスは南アフリカ植民地で手を焼いており。アメリカは米西戦争の後フィリピンの独立戦争で手がいっぱいだった。いわば日本はイギリスとアメリカの代理人として、ロシアに対抗する形で大量出兵したのである。


北京議定書で中国を半植民地化

 1894年―1895年(明治27年―28年)の日清戦争で、日本は台湾・澎湖島を手に入れていたものの、この時までにはさほど大きな権益は中国大陸には持っていなかった。にもかかわらずこの義和団事件の際に大量出兵したのでは、こうしたイギリス・アメリカの代理人のとしての背景がある。

 この時連合軍は北京の町で暴行・略奪をほしいままにした。円明園が破壊されたのもこの時だし、清の宮殿故宮の財宝・文化財・芸術工芸品が数多くもちさられたのもこの時である。

 観光旅行で故宮に入ってみると、防災用の巨大な金属製の水甕が置いてある。この水甕はもと純金のメッキがしてあったそうだ。いわれて良く眺めてみると、無数の擦ったような傷跡が残っている。これは義和団事件の時に各国の兵士たちがこそげた跡なのだそうだ。この時日本軍も馬蹄銀を120万両奪って明治政府に献上している。

 この義和団事件で清国は、連合国各国と和平の最終協定を締結する。これが1901年9月の北京議定書である。1900年の議定書では清国政府は当事者としてこの議定書に参加していたが、1901の北京議定書では清国は全く発言権はなかった。列強(11カ国)がいわば勝手に「中国権益」の分け前調整したのが、この北京議定書だった。

【円明園の一部。
壊された当時のまま保存されている】
【故宮内の大和殿横にある水甕
義和団が金を削った跡。
「削った」と一目見てわかるほど酷かった】

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Photo by Sarah Amino
 主なものを並べてみよう。

 まず賠償金4億5000万両。1895年(明治28年)、日清戦争当時日本が課した賠償金は2億両だった。これは当時清国政府の全年間歳入の2.5倍だったと言うから、清国政府の年間歳入は8000万両と言うことになる。1901年当時この数字が大きく変化していないとすれば、清国の背負った賠償金は年間歳入の5.5倍と言うことになる。当然清国政府はこれをすぐに払えない。したがって年賦で支払えと言うことになる。この時は39年間の年賦で元利合計9億8000万両の賠償金となった。担保には関税・塩税・厘金による収入があてられた。
(* 厘金は大平天国事件賠償のために創出された税金で、交通の要所に徴税所をもうけ、通過する貨物からその約1−2%を徴収した。)


 こうなると賠償金の名目のもとに各国は、国家主権の一部である徴税権を清国政府から取り上げたに等しい。義和団事件を通じてよく「中国は列強の半植民地化」したと言われるが、その実態は国家の主権を奪っていくということだった。

 北京に居住を認めぬ公使館区域を設定し、ここに外国軍隊が駐留する権利を認めさせた。また北京から山海関(万里の長城の東端にある要塞。ここから外にでるといわゆる関外、あるいは関東といい、北京へ向けて進むことを入関といった。後の関東軍の名称もこの語用法を踏襲している。)までの沿線に外国軍の駐兵権を認めさせた。

 この時日本が認めさせた北京及北京近郊における駐兵権に基づいておかれた軍隊が、「清国駐屯軍」である。話がやや先走るが次の辛亥革命の時、清国が滅亡したので、日本はこの「清国駐屯軍」を「支那駐屯軍」と改称する。話がまた先走るが、この北京議定書の1901年(明治34年)から36年後の1937年、北京郊外(今は北京市内)の蘆溝橋で、広西派軍閥の宋哲元第29軍と日本軍は対峙し、これが蘆溝橋事件となるわけだが、この時の日本軍とは北京議定書に基づいた支那駐屯軍の一部隊だったのである。

 田母神は「国際条約に基づいて中国に軍事駐留を行ったので、これは侵略ではない。」と主張するが、その条約と称するものも以上のような代物だった。


軍事侵略に基づいた条約

 田母神の言い方をそっくり借りれば、「条約に基づいた軍事駐留」なのではなく「軍事侵略に基づいた条約」だったのである。

 もし私のこの記事をお読みになる方があるとすれば、考えてみて欲しい。

 それも政治家や歴史学者や法学者としてではなく、一人の普通の日本の市民として考えて欲しい。

1901年でもなく、1937年でもなく、2008年の今を生きる一人の日本の一市民として考えて欲しい。

 「条約に基づいて軍事駐留を行ったのであって、侵略ではなかった。」と公言する人物が、防衛省航空幕僚長として任命されている日本を考えてみて欲しい。そして、その人物を懲戒免職するのではなく、定年退職させ、7000万円の退職金を気前よく支払う日本政府のありかたを考えてみて欲しい。これはその歴史認識に置いて一蓮托生だとみるべきではないか。

 そして考えてみて欲しい。もし中国の普通の一市民、どこか北京の片隅でつつましく自分の生活を必死で守って暮らしている中国の一市民が、この田母神の発言、それも狂った日本人としてではなく、防衛省航空幕僚長としての田母神の発言を聞き、日本政府が懲戒処分もとらなかったことを知ったら、なんと感じるだろうか。

 直感的に「日本はチャンスさえあればまたやるな。」と思わないだろうか?

 そして考えて見て欲しい。われわれ日本の多くの市民は、「チャンスさえあればまたやろう。」と考えているだろうか?(ごく一部の日本人は考えていると言わざるを得ない)

 大多数の日本人は「侵略」や「戦争」などとんでもない、と考えている。また戦争などできないほど世界が密接につながっていることも知っている。

 だとすれば、「田母神論文」は誤ったメッセージを、たとえば北京の片隅の一市民に送っている。

 われわれ日本の一般市民が、田母神論文に示された歴史認識に、激しい抗議と批判を行わないとすれば、日本政府とともに、この「歴史認識」に無言の肯定を与えたことになりはしまいか?

 確かにわれわれは、食うのに忙しい。生活を守るのに精一杯だ。「田母神」などというヒマ人につきあっている間はない。しかしここでよく考えて欲しい。

 われわれ一般の日本の市民が、今田母神の「歴史認識」を徹底的に粉砕しておかねば、いつ粉砕するのだ?

 確かに田母神自身は、粗雑な頭の、突然飛び出してきた一道化者にすぎない。しかし彼を道化者のまま、航空幕僚長に押し上げた勢力は厳然として存在し、彼らの歴史認識が語られている(非常に稚拙な語り口だが)、とすれば「田母神問題」、すなわち「田母神の歴史認識」問題を甘く見ることはできない。

「道化者」田母神の背後には非常に危険な勢力が存在している・・・。


(以下次回)