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土地改革問題は共産党にとって根幹にかかわる問題だったが、それぞれに事情があり、簡単には行かなかったことが窺える。
話は若干さかのぼって28年2月のことになる。コミンテルンはそれまでの指示をあらため、ソビエト化された「農民地域」では土地改革と紅軍の建設に全力をあげるべきであるとした。この指示に基づいて28年6−7月モスクワで開かれた中国共産党第6回全国大会も内容を新たな方針として採択した。
見方をかえていえば、これはコミンテルンの指示に忠実でなかった「毛沢東路線」を、コミンテルン、共産党中央が追認したものと言えよう。なおこの時、「長沙退却」の責任をとらされていた毛沢東は中央委員に復帰している。またこの時、中国共産党の実権は、瞿秋白から李立三に移った。李立三といえば、1925年(大正14年)、中国革命運動の一大転機を作った「5・30運動」の指導者である。陳独秀、瞿秋白とコミンテルン路線(*スターリン路線)に忠実な指導者は、大きな犠牲を払った上に、その失敗の責任をとらされる格好で失脚をするのであるが、「5・30運動」の英雄、李立三までその運命が待ち構えているとはこの時予想した人は少なかったのではないだろうか? |
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