No.23-8 平成21年1月17日


田母神論文に見る岸信介の亡霊
その8 田母神的「被害妄想史観」と帝国主義日本の主観的現状認識

「蘆溝橋事件」と田母神の思い違い

 正直いって田母神の雑文につきあうのはほとほと嫌気がさしている。人の文章を読むのは好きな方だが、田母神の文章を雑文というのも、雑文家の方々に大変失礼な話だとは思う。

 日中戦争開始直前の1937年7月7日の蘆溝橋事件についても、これまで日本の中国侵略の証みたいに言われてきた。しかし、今では、東京裁判の最中に中国共産党の劉少奇が西側の記者との記者会見で「蘆溝橋の仕掛け人は中国共産党で、現地指揮官はこの俺だった」と証言していたことがわかっている。「大東亜解放戦争(岩間弘、岩間書店)」もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。』(*文中カッコはママ)

 田母神は上記のように書いている。

 後の中華人民共和国の国家主席で、文化大革命の時に反革命の汚名を着せられ憤死した劉少奇(http://ja.wikipedia.org/wiki/劉少奇)が、1937年7月7日、北平市郊外の蘆溝橋付近(*現在は北京市内)にいたかどうかは私は知らない。また、「共産党のパンフレットに書いてあった」かどうかも私は知らない。また蘆溝橋事件が日本の中国侵略の証のように言われてきたのかどうかも知らない。

 蘆溝橋事件は日本語Wikipediaが記述するように、

 盧溝橋事件(ろこうきょうじけん、中国では七七事変ともいう)は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件。日中戦争(支那事変、日華事変)の発端となった。この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していった。』
(http://ja.wikipedia.org/wiki/盧溝橋事件)

 誰が発砲したかは未だに不明だし、そんなことは全然問題にならない。今歴史家で誰が発砲したかを決定的な問題とする人はいないだろう。何か田母神はひどい勘違いをしているのではないか?

 田母神が書いていることをそのままとると、「蘆溝橋での発砲は日本軍による陰謀だと言われてきたし、それが中国侵略の証拠だと言われてきた。」といっているように解釈できる。少なくともまともな歴史家ならばそんなことを誰もいってはいない。侵略だったかどうかが、1937年7月7日、誰が発砲したかによって決まるものでもない。田母神はひどい「被害妄想」に罹っている。


田母神の重篤な被害妄想

 「被害妄想」といえば、田母神はもっと重篤な「被害妄想」に罹っている。

 「日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない」と書いているが、このシリーズでこれまで検討してきたように、列強はすべて侵略国家だったのだ。侵略国家でなかった列強は一つもない。アヘン戦争を持ち出すまでもなく帝国主義列強はすべて、最もたちの悪い暴力団同様の侵略国家だったのだ。日本は侵略国家だったとは言われているが、日本だけが侵略国家だと言われている、というのは完全な田母神の「被害妄想」だ。

 従って今後田母神のような歴史観は「被害妄想史観」と呼ぶことにしよう。

 1937年(昭和12年)7月7日夜10時10分頃、蘆溝橋付近で夜間訓練をしていた日本軍の1個中隊へ向けて、十数発の小銃弾が発砲されたと信じられている。

 だれが何故こんなことをしたのか未だに諸説紛々で真相はわからない。ただ日本軍の謀略ではないようだ。日本軍の仕業なら必ず痕跡を残す。いいかれば日本軍のやることはばれやすい。必ず「俺がやった。」という人間がでてくるし、内部調査をすればわかるものだ。その痕跡はない。

 それに、緊迫した前線ではよくあることだ。こんなことでは本格戦争は起こりはしない。本格戦争が起こるには、両方か片方に戦う意志と準備が必要だ。戦争には金がかかる。兵士の集団を動かさなくてはならない。兵站準備も結構手間暇かかる。作戦計画も必要だ。繰り返すが戦争には両方か片方に戦う意志と準備が必要なのである。田母神だって曲がりなりにも航空幕僚長だったのだから、こんなことで本格戦争が起きるはずがないことはわかるだろう。要するにこんな程度のことが、本格戦争の本当の理由であるはずがない。

 もし蘆溝橋での発砲事件が、日中戦争の発端になったのだとしたら、これを本当の発端にしてしまった事件が生起しているはずだ。


宋哲元の第29軍

 この時の日本軍は支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊だった。支那派遣軍とは、ご記憶であろうか清朝末期発生した義和団事件の結果、北京議定書が締結されたが、その時に認めさせた駐兵権に基づいて駐留していた軍隊である。 

 一方対峙していた中国軍とは宋哲元(そうてつげん)(http://ja.wikipedia.org/wiki/宋哲元)の第29軍である。先に紹介した日本語Wikipediaではこの中国軍を単に「国府軍」、すなわち国民党政府軍としているがこれはやや正確さにかける。あるいはやや誤解を招くかも知れない。

 というのはこの時宋哲元は冀察政務委員会・委員長だったからである。「冀」とは河北省のこと、「察」とは内モンゴルのチヤハル(察哈爾)のことである。だから冀察政務委員会とは字義通りとれば、「河北省」「チヤハル」両省の政治を担当する委員会ということになる。まあ、言ってしまえば暫定自治政府みたいなものだ。

 だから蘆溝橋で日本の支那駐屯軍の中隊が対峙した相手は、国民党軍といっても冀察政務委員会・宋哲元指揮下の軍隊だったのである。

 話は若干ややこしくなるが、話はそれから5年前の満州帝国成立直後、1932年(昭和7年)後半にまでさかのぼる。

 満州帝国成立で日本に帝国主義は満足しなかった。同じような傀儡政権樹立の可能性を、華北五省で模索したのである。つまり満州国のまわりに傀儡地帯を作ろうとしたのである。あとで詳しく見る機会が必ずあると思うが、冀察政務委員会は、そうした日本の帝国主義と、これを阻もうとする国民党政府の妥協の産物として生まれた「暫定政府」の一つだった。しかも、関東軍はこの傀儡政権の首脳に宋哲元を念頭においていたというから話はややこしくなる。ただ宋哲元指揮下の第29軍の将兵自体は抗日に向けて士気は高かったと見られている。


全面戦争突入への本当のきっかけ

 蘆溝橋事件の第一報を受けた現地軍部(現地軍部とは支那駐屯軍と関東軍の両方を指すが政策主導権を握っていたのはもちろん関東軍である。)は、ややおかしな指示をだす。演習中だった第8中隊を現地に止めておき、別途第3大隊主力を現地に向かわせるのである。「事件」が起こったのは夜の10時過ぎだから大隊主力は夜道を現場に急行したことになる。そしてこの部隊が翌朝5時30分ごろ前進を開始し、そのまま軍事衝突に発展していくのである。

 だから蘆溝橋事件とは、最初の発砲事件が問題となるわけではなく、集結した第3大隊の主力が、最初の発砲事件から7時間後、宋哲元の29軍の部隊に攻撃を開始したことが問題になるのだ。

 田母神的「被害妄想史観」では、逆に誰が第8中隊に銃弾を撃ち込んだかが問題にされ、劉少奇まで動員してしまうのである。

 しかし、それにしてもこんなささいな事件(発砲事件ではなく、日本軍の軍事行動のことだ)が何故、「泥沼の日中戦争」と呼ばれる事態に発展していくのか、これだけだと私にはまるきりわけがわからない。第3大隊が宋哲元軍に攻撃を仕掛けたと云っても、いわば現地軍事衝突である。これが本格戦争に発展するには、それなりの理由がなければならない。

 近代戦争はすぐれて国家総動員戦争である。それには目的があり、動機があり、莫大な軍費と人命を費やすべき理由がある。

 教科書的歴史書を読んでもまるでわからない。「日中戦争は蘆溝橋事件をきっかけとして始まり、日本政府はこれを支那事変と呼んだ。軍部の暴走で泥沼の戦いに入っていった。」というばかりで、この戦争の目的や理由をキチンと説明していない。試しに先ほどご紹介した日本語Wikipediaを全文読んでみるとよい。事件の経過については微に入り細に入り記述されているが、日中戦争全体の中での蘆溝橋事件の位置づけとその歴史的評価はまるでない。木を見て森をみない典型的な文章だ。

 田母神的「被害妄想史観」に至っては、十数発の銃弾のために日中戦争が始まり莫大な犠牲を払ったといわんばかりだ。こんなものは歴史ではない。妄想そのものだ。

 だから是非この疑問を私なりに解いておかねばならない・・・。


「張作霖爆殺」がもたらした結果

 このためには蘆溝橋をいったん離れ、1931年のいわゆる満州事変の勃発の手前、張作霖爆殺事件のあたりまで遡ってみたい。

 前回(http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-7/023-7.htm)見たように、日本の帝国主義は、張作霖を抹殺することによって、満州に自らの傀儡政権を立てようとした。傀儡政権として張作霖が不都合となったのは、彼が北京政権を掌握しようとしたからであり、日本の帝国主義が一貫して狙ってきた、中国本部と満蒙の切り離し政策と真っ向から対立するようになったからである。張作霖爆殺の実行犯、河本大作らは少なくとも張作霖一個を抹殺すれば、あとは傀儡政権を立てるのは容易と考えて実行したようだ。

 しかしこれも前回見たように、事態は河本らが安易に想定したのとは逆に、張作霖の後を継いだ張学良は、南京の蒋介石国民政府への帰属を声明してしまった。つまり満蒙の切り離しどころか、蒋介石国民党の全国統一を手助けしてしまったことになる。

 こうして、蒋介石国民党は、東三省(満州)の張学良の国民政府帰属(1928年=昭和3年12月)によってひとまず中国全土の統一を成し遂げたかに見える。中国共産党は、毛沢東一派が細々と井岡山に立てこもって気息奄々だったことだ。

 しかし蒋介石国民党は2つの大きな問題に当面しなければならなかった。一つは日本帝国主義の中国東北部への長年にわたるあからさまな侵略であり、もう一つはほかならぬ蒋介石政権の権力基盤の確立だ。要するに蒋介石政権といってもその内実は、第二次北伐のところで見たように旧態依然たる軍閥の連合体にすぎなかったのである。蒋介石国民党は、この2つの問題に対処するにあたって、まず蒋介石の権力基盤の確立に着手した。


脆弱な蒋介石の基盤と中原大戦争

 というのは、その脆弱な政権基盤は蒋介石国民党政権の財政を直撃していたからである。このころ国民党政府の財政部長は浙江財閥の大立て者で、蒋介石とは義理の兄弟にあたる宋子文であったが、「中央の財政権はわずかに江西、浙江、安徽、江蘇に及ぶだけで、このうち安徽・江西の収入は中央に入ってこない。」(岩波新書「中国近現代史」P124)という報告を29年(昭和4年)1月に行っている。

 それではその他の地域はどうだったかというと、各軍閥が税金や関税を独自に徴収し、独自に消費していたのである。

 東三省(満州)には張学良、山西省には閻錫山、北京・察哈爾(チヤハル)・綏遠(すいえん)には馮玉祥、広西省には李宗仁、同じく広西省には白崇禧、広東省には李済深(りさいしん)などが割拠するという状態だった。それは第一次北伐と違って第二次北伐が軍閥内の抗争という性格を持ち、それら軍閥の力を利用して、蒋介石が形ばかりの統一を成し遂げたという事実をそのまま反映していた。

 しかも、党内には左派の汪精衛、国民党創立以来の最長老で右派の胡漢民(こかんみん)、その他最右派の西山派などがいて蒋介石に対立していた。

 蒋介石は当然これに対して自己の勢力を確立しようとする。まず手をつけたのが「軍隊整理」である。ピーク時約200万人に達した国民党軍(といっても軍閥軍隊の集合体だが)を整理縮小して70万人程度とし、しかも指揮権を中央に集中しようという計画である。各軍閥にとって、権力の源泉は「軍隊」という暴力装置であり、この蒋介石の「軍隊整理」は事実上の軍閥解消、蒋介石への権力集中に等しい。反発は必至である。

 まず叛旗を翻したのが広西派軍閥であり、この両者の抗争が蒋桂戦争(29年3月)である。5月には馮玉祥、10月には宋哲元、12月には第5路総指揮・唐生智(とうせいち)(1937年南京陥落の時の国民党総指揮官)がそれぞれ叛旗を翻し、蒋介石にとっては危機が深まった。

 翌30年5月閻錫山と馮玉祥と連合を組むと、この連合のもとにほかの各軍閥ばかりか左派の汪精衛、最右派の西山派までは集まり、様相は蒋介石軍と反蒋介石軍の決戦という姿になってきた。これが「中原大戦」である。ほぼ拮抗していたこの戦いに決着をつけたのが、奉天軍閥の張学良で、学良が蒋介石軍に味方したために一気に蒋介石軍の勝利となった。これが30年(昭和5年)末頃までの状況であった。


「満蒙」が生命線だった理由

 一方日本の帝国主義はこの事態に対してどのように対応しようとしたのか?

 日本の帝国主義にとって満蒙は「生命線」だった。ここでそのいきさつを大局的に掴んでおこう。

 話は日露戦争にさかのぼる。日本の帝国主義が日露戦争によって手に入れたものは、朝鮮半島の事実上の支配権を除けば、満州の、それも南満州東清鉄道支線(南満州鉄道)の経営権と遼東半島南部の租借権、それに南樺太だけだった。日清戦争の輝かしい戦果に較べれば、その戦費の規模や死者数に比してあまりにも惨めな結果だった。

 明治政府はこの多大な犠牲を払って獲得した満州の地を決してそのままにはしておかなかった。日露協商を結んで、南満州は日本の権益地域、北満州はロシアの権益地域と認め合った。(第三次日露協商でこの権益地域は内モンゴルまで外延された。)

 しかしこれは、あくまで日本帝国とロシア帝国が、中国を虎視眈々と狙う列強に対して、その特殊権益をお互いに認め合ったにすぎなかった。従って帝国主義日本の次なる目標は、ロシア二国間でお互いに、いわば勝手に認め合った「満州における特殊権益」(繰り返すがこの時は、満州における支配権についてはなんら具体的な内容を持っていなかった。)を列強、なかんずくアメリカとイギリスにみとめさせること、それから清の継承者である袁世凱政府に認めさせることとなった。

 それよりももっと大問題があった。日露戦争で日本が獲得した権益は、清とロシアの条約をそのまま継承したものであったため、その契約期限が満期を迎える問題である。もっとも早いものでいえば、遼東半島最南端部(関東州=旅順・大連)の租借期限は、租借期間が25年間であったため、1923年(大正12年)には期限が切れて、中国側に返還しなければならない。しかし当然これを返還することなどとんでもないことである。

 しかも、帝国主義日本は、中国とロシアとの条約にもない安泰線(安東―奉天間の軽便軍用鉄道)の敷設を強行しており、一歩も引けない状況にあった。

(* 安東は現在の遼寧省丹東市のこと。http://ja.wikipedia.org/wiki/丹東市 鴨緑江を挟んで現在の朝鮮人民共和国義州特別行政区と向き合っている。現在は中国―北朝鮮貿易の拠点となっている。当時朝鮮半島が日本の植民地統治下にあったことを考えれば、安東=丹東と奉天を鉄道で結ぶ重要性は十分納得される。この安泰線は満州鉄道の“網”に組み入れられた。なお安東が丹東に改称されるのは1965年のことだそうである。)

 もともと中国(清)は、日露戦争の結果、自国領土の権益がロシアから日本に譲渡されることは反対だった。それはそうだろう。当時中国人民は、日清戦争で痛めつけられたにもかかわらず、日露戦争では、日本に好意的だった。それはロシア帝国の長年にわたる中国侵略の歴史に中国人民が怒りを感じていたからであり、そのロシアの勢力を同じアジア人である日本が追っ払ってくれるという期待があったからである。それだけに日露戦争後の日本のどう猛な帝国主義的要求は中国人民の激しい失望と怒りとなって表出した。

 文藝春秋の、いわゆる「河本手記」の中で、日露戦争に従軍したことのある河本大作が、1926年(大正15年)関東軍の参謀として再び満州を訪れ、対日感情の悪化ぶりに、「そこで久しぶりに満州に来てみるといまさらのごとく一驚した。」(前掲 <私が張作霖を殺した> 「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻 P44)と書いているが、それも当然のことといえるのである。ただ、この手記では河本は、対日感情の悪化(河本の言葉を借りれば「侮日」「抗日」)
はすべて張作霖政権の宣伝工作によるものとしているが、それはとてもそんな根の浅いものではなかったのである。

(* これを書きながらふと気づいたことだが、このときの河本も、「日本はいわれのない非難を受けている」、という一種の被害妄想に陥っていたのではないか?もしそうなら「田母神的被害妄想史観」は、意外と戦前にさかのぼる根の深いものかもしれない・・・。)


「満蒙の権益」に内実を与えた21ヶ条の要求

 その中国人民の期待と失望は、第一次国共合作の成立した後、北京への北上の途中、神戸に立ち寄ったおり行った「大アジア主義」と呼ばれる演説の中で孫文が示した次の結びの言葉に端的に表明されている。

今後日本が世界文化の前途に対し、西洋覇道の鷹犬となるか、或は東洋王道の干城となるか、それは日本国民の詳密な考慮と慎重な採択にかかるものであります。』
(http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-5/023-5.htm 
<孫文の北上宣言><西洋覇道の鷹犬か、東洋王道の干城か>の項参照のこと。)

 この間日本の帝国主義は、ロシア帝国と満州の権益に関する秘密協定を結びながら、清、袁世凱政府、その後を継いだ北洋軍閥政府にも切り出せないばかりか、ロシア以外の列強に関してもその「特殊権益」を認めさせられないでいた。

 こうした状況のところに「大正新時代の天佑」(井上馨)といわれる第一次世界大戦が勃発した。直ちにドイツに宣戦布告した大正政府は、ドイツの租借地であった山東半島を攻撃奪取し、まだ第一次大戦も終わらないうちに「21ヶ条の要求」を中国に突きつけた。

 この「21ヶ条の要求」(関連資料「21ヶ条の要求」参照のこと)は、重層的な要求であり、絶対譲れない要求の上にさらに次の要求を積み上げたものであった。その絶対譲れない要求の中核にあったのが、遼東半島(旅順・大連)租借権、南満州鉄道・安泰線経営期限の99カ年の延長だった。層の上にいけば行くほど、要求度は下がっていくのである。

 さらにこの要求で、日本の帝国主義は絶対譲れない線として満蒙地域を設定し、鉄道経営権や鉱山採掘権などといった既存権益だけでなく、この地域における日本人の商工業・農業の経営、土地所有、居住の自由などといった項目も含まれた。また、この地域における中国政府の政治・財政・軍事に関しても、もし外国人顧問を招聘するなら、まず日本に相談することも約束させようとした。

 この時点ではまだ後の張作霖政権のように、満蒙に独立性の高い地方政権は誕生しておらず、袁世凱政府の直接の統治下にあったときで、これらの要求は、満蒙の統治権につながる、それまでの権益要求とは質の異なる、「領土的」要求というべきものであった。

 しかしこれだけの内容でも中国人民を憤激させるのには十分であった。このとき帝国主義日本は、中国人民というもっとも手強い相手を敵に回したのである。


満蒙分離政策の起源

 1915年(大正4年)5月、日本側の最後通牒を受けた形で袁世凱政府が、中国全体の保護国化につながる第5号要求を除いて、ほぼ日本側の要求を飲んだときから、日本の満州侵略は新たな段階を迎えたといってよい。

 つまり日露戦争後の余り中身のない「満州における特殊権益」は、かなり内容を伴った「特殊権益」に姿を変えたのである。この「特殊権益」は、帝国主義日本の将来の満州植民地化の契機を十二分に含んでいたからである。

 実際の話、これから一気に満州の植民地化が進んだわけではない。実効ある「特殊権益」の確保は、南満州に限られていたし、土地の租借権にしても、袁世凱政権は1914年5月の条約調印後(条約本数は1本ではない。)、6月には「懲弁国賊条例」を発布して、日本人の土地を租借する中国人は国賊として処罰するなど、対抗策を講じたのである。

 第一次世界大戦処理のためのベルサイユ講和会議は、『民族自決主義』が裏切れることによって、中国人民に大きな失望をもたらす。そしてそれが「民族独立闘争」「反帝国主義闘争」の大きなバネになって「5・4運動」という人民闘争の形をとっていくわけであるが、その矛先は日露戦争・第一次世界大戦を経て満州を侵略する帝国主義日本に向かってくることは自然な流れであった。

 このころから帝国主義日本は、はっきり満蒙と中国本部を切り離すことによって満蒙を支配する戦略を立て始める。その当面の課題は満蒙に傀儡政権を樹立し、その傀儡政権を通じて満蒙を実効支配しようというものだった。そしてその傀儡の頭首と目されたのが、段祺瑞政権のもとで有力軍閥にのし上がった張作霖だった。

 つまり、帝国主義日本は、中国全体に激しくほとばしる中国人民の「反帝国主義」のエネルギーを、そのまま全身に受けた形で、満蒙支配をすることは出来なかった。いったん中国本部と満蒙を切り離し、そのエネルギーを断ち切ったうえで満蒙を支配しようとしたわけだ。といって帝国主義日本が、中国人民の反帝国主義のエネルギーを正しく認識していたわけではない。人民のエネルギーの表層に表れてくる各種の政治的動きを通じて間接的に認識していたに過ぎない。

 帝国主義日本は、「民族独立」「反帝国主義」に燃え上がる中国人民のエネルギーを主観的には「暴徒」「暴民」としか捉えることしかできなかった。

 しかし、帝国主義日本にとって、張作霖は極めて都合の悪い傀儡になりつつあった。張は東三省に閉じこもることをせず、常に北京政権の掌握を政治目標としていたからだ。これは張作霖が中央政界の大立て者になる過程が彼の権力の確立する過程だったことを考えれば、必然の流れなのだが、帝国主義日本の「満蒙切り離し政策」の立場から云えば、極めて都合の悪いことだった。

 これを暴力的に解決しようとした事件が、張作霖爆殺事件だったということができよう。
しかし、張作霖爆殺は結果として満州切り離し政策の切り札にはならず、逆に後継者張学良、蒋介石国民党の側に追いやってしまうことになる。ここでまた日本の帝国主義は、壁に突き当たることになった。

 大ざっぱに言えば以上のようなことになろうか?


昭和天皇の若気の至り

 中国に対して力の侵略を推し進め、恐らくは張作霖爆殺についても黙認しただろうと思われる田中義一内閣は、ほかならぬ張作霖爆殺事件そのものが、命取りになって、政権を投げ出す。田中は昭和天皇裕仁になじられ、総辞職するのである。

 「昭和天皇独白録」(文藝春秋 編著者 寺崎英成 マリコ・テラサキ・ミラー 1991年3月10日 第1刷)はこの事情をかなりなまなましく伝えている。寺崎によれば、『』内は昭和天皇裕仁のコメントという。

 この事件(*1928年の張作霖爆殺事件のこと。当時は満州某重大事件という言い方がされていた。)の首謀者は河本大作大佐である、田中総理は最初私(*裕仁のこと)に対し、この事件は甚だ遺憾なことで、たとへ、自称にせよ一地方の主権者を爆死せしめたのであるから、河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表する積である、と云ふ事であった。そして田中は牧野(伸顕)内大臣、西園寺(公望)元老、鈴木(貫太郎)侍従長に対してはこの事件に付ては(*ママ)、軍法会議を開いて責任者を徹底的に処罰する考えだと云ったそうである。

 然るに田中がこの処罰問題を、閣議に附した処、主として鉄道大臣の小川平吉(*政友会の政党政治家。国粋主義者)の主張だそうだが、日本の立場上、処罰は不得策だと云ふ議論が強く、為に閣議の結果はうやむやとなって終った。

 そこで田中は再ひ私の処へやって来て、この問題はうやむやの中に葬りたいと云ふ事であった。それでは前言と甚だしく相違したことになるから、私は田中に対し、それでは前と話がちがうではないか、辞表を出してはどうかと強い語気で云った。

 こんな云ひ方をしたのは、私の若気の至り(*裕仁は1901年生まれだからこの年27歳だった。)であると今は考えてゐるが、とにかくそういう云ひ方をした。それで田中は辞表を提出し、田中内閣は総辞職をした。聞く処によれば、若し軍法会議を開いて訊問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取止めと云ふことになったと云ふのである。・・・』(同書P22−P23)

田中も田中だが河本も相当なものだ。


幣原外交の本質

 こうしたわけで田中内閣は1929年(昭和4年)7月に倒れる。あとを継いだのが民政党総裁の濱口雄幸内閣だった。ここで外務大臣はもう一度幣原喜重郎が就任する。幣原外交は一言で云えば、列強帝国主義と正面衝突を避けつつ、中国大陸を列強と共に侵略してゆこうという政策だった。それが幣原外交の本質だったといってよい。

 しかし大戦後の不況は、日本の帝国主義をさらに暴力的にしてしまった。もし仮にこのとき財閥もっと賢く、自らの利益に抑制的であり、近代資本主義国家として、その「体制維持政策」をとったなら、あるいは幣原外交も有効だったかもしれない。しかし当時の財閥は自らの利益にどん欲だった。不況は一面、資本の集中と集積を促進する。当時の主要な財閥や大手企業は、資本の集中と集積を進め、寡占化を推し進めることによって、その資本のはけ口を中国大陸に求めるしかなかったのである。濱口内閣における幣原外交は、その失敗を約束されたも同様だった。

 1929年10月、ニューヨークの株式市場暴落からはじまった世界恐慌は、本質的には脆弱だった日本の資本主義を直撃することになるのだが、日本経済はこの世界恐慌が始まる前から不況にあえいでいた。

 いわゆる「昭和恐慌」である。

 第一次世界大戦は、井上馨が「昭和の天佑」と形容したように、日本の帝国主義が「火事場泥棒」的に中国大陸に侵略・拡大する機会を提供したわけだが、同時に日本経済全体にとっても「昭和の天佑」だった。ヨーロッパの植民地帝国主義はこの第一次世界大戦のために、アジア市場に商品輸出や新たな資本投下を行う余裕が失われた。この時期中国国内でも民族資本が勃興したが、日本の資本主義も中国・アジアへ向けて輸出を中心に経済発展を遂げた。

 明治以来搾取・収奪され続けてきた日本の農村にとってもつかの間の春だった。このころ農村の主要な生産物は米と繭だったが、好景気に沸くアメリカ市場に対する生糸輸出が大きく伸びたからであった。

 この第一次世界大戦時の好景気の時に、そこで得られた富を日本国内の社会資本の充実、一般国民の生活水準の向上にあてておけば、その後の展開もまた違うことになったのかも知れない。しかし日本の帝国主義は、一般労働者や農村から収奪・搾取することに忙しく、彼らを購買力豊かな中間階級に育成していこうとは全く考えなかった。

 従ってこうした得られた富は、全く新たな価値創造再生産の過程へ投入されず、「成金」といわれた層によって刹那的な価値創造を生まない消費にあてられるか、財閥へ蓄積され、一時的な利潤を目的とした出口のない投機資金としてその出番を待つかのどちらかとなり、およそ考えられる限りの最悪のシナリオとなっていくのである。


暴力的に出口を求める日本の資本主義

 第一次世界大戦が終了すると、誰もが予想した通り、ひどい不況がやってきた。すでに生産過剰になっていた日本の国内産業は一斉に輸出に向かおうとしたが、輸出市場は徐々に回復基調にあったヨーロッパの資本主義国に押さえられた。日本国内市場は購買力どころか、農村は娘も売らなければならないほどの壊滅的な状況だった。頼りのアメリカ市場も急速に不景気がやってきていた。

 残る市場は、暴力的に支配できる朝鮮半島、台湾、そして中国大陸であった。これらから搾取・収奪する以外に日本の資本主義が生き延びていく道は無くなっていた。日本の帝国主義が極めて凶暴なファシズム帝国主義に急速に転がり落ちていく基本要素は、帝国主義日本の明治以来の経済構造そのものの中にあったのである。

 田中義一内閣は、こうした昭和恐慌に対して有効な手だてを打てないままに、また中国大陸に危険な火種をのこしたまま、内閣を投げ出した。

 従って1929年(昭和4年)7月に成立した濱口雄幸内閣の課題は、この昭和恐慌にいかに対処するかという点1本に絞られていくことになる。濱口内閣の蔵相は元日銀総裁の井上準之助であり、「金解禁」を断行した蔵相としても知られている。井上は「金解禁」の目的を、「財政の安定」、「国民経済の根本的建直し」、「日本経済の世界経済への常道復帰」、「金本位制の擁護」、「日本の経済力の充実発展」の5つにあるとしたが、これはよく考えてみると「金本位制の擁護」を除けば、当時の日本経済構造が抱えていた基本的課題そのものだといえる。

 浜口内閣のもうひとつの課題といわれるロンドン海軍軍縮条約締結すらも、軍事予算を抑え、「財政の安定」を図るという意味で、上記課題の範疇に含まれていたということができよう。

 ただ濱口・井上の「金解禁」は最悪のタイミングでおこなわれた。井上財政の緊縮政策とも相まって、日本経済はさらに生産基盤の基礎を失っていった。特に生産活動の根幹を担っていた中小企業の倒産が相次ぎ、資本の集中と独占が進行し、これがまた大陸侵略への基本的な圧力となった。

 今考えてみて、濱口・井上、それに外務大臣の幣原喜重郎の推し進めようとした政策は、日本が暴力的な帝国主義侵略の道から、列強協調型のソフトな侵略へと転換しようとした最後のチャンスではなかったか?極めて可能性の薄いチャンスであり、それが例え日本の帝国主義強化の道につながっていたとしても、『南京大虐殺事件』は起こっていなかっただろうし、広島・長崎への原爆投下もなかっただろう・・・。

 歴史の現実は、濱口雄幸は右翼テロの銃弾に斃れ、井上準之助はこれもまた後に起こる血盟団事件で右翼に暗殺される。ロンドン軍縮条約を結んだ幣原は、「軟弱外交」「統帥権干犯」として非難され、事実上葬り去られることになる。

 大正から昭和に入ってからの日本は、常に間違った時に間違った人物が檜舞台に登場し、マスコミや世間が褒めそやし、喝采を送り、その時々で選択しうる最悪の道を必ず選択し、奈落の底に沈んでいったという風に思えてならない。


満蒙問題の解決

 「中国侵略」という問題を軸に考えてみると、この時期もっとも重要な動きは、軍部内部での「革新派官僚」の登場であろう。間違った時に間違った人物群が登場してきた典型的な例である。

 彼らの当面の課題は「満蒙問題の解決」であった。それでは当時しきりに彼らが口にし、新聞・雑誌等でも取り上げられた「満蒙問題の解決」とは具体的に何だったのか?

 一言で云えば、日露戦争以来営々として築いてきた満州における帝国主義日本の権益を確保し、英米からの侵食からも、ソ連の共産主義思想からも、中国国内の民族独立闘争からも完全に遮断し、完全に帝国主義日本の支配下に組み入れ、盤石の体制を築くということであったろう。しかし、この政策は中国人民の利益とはもちろん、欧米帝国主義の利益とも根本的に衝突するものであった。

 すでに見たように幣原外交とは、中国における権益を欧米帝国主義と共有し、その意味では、日本の帝国主義を世界の帝国主義体制の中にすっぽりと組み入れ、その安全保障体制の中で、よりリスクの小さい侵略の道を歩もうというものであった。

 この幣原外交と軍部内革新官僚の「満蒙問題解決政策」とは根本から相容れない。歴史の現実は、このせめぎ合いを、右翼テロリズムの暴力で押さえきり、幣原外交が再び復活することはなかった。

 またこの軍部内革新官僚の「満蒙問題の解決」という主張は、「幣原外交」を斬って捨てた後、なおも出口の見えない日本の独占資本主義支配者層の利益とも合致するものだった。

 こうして「張作霖爆殺後」の帝国主義日本は「満蒙問題の解決」へ向かって一気に走り出すのである。従ってこれ以降の対中国侵略は決して軍部の暴走などではなく、大きくいえば日本の独占資本主義支配層の意志だったということができるだろう。


鉄道守備隊「関東軍」

 これから、満州事変から満州帝国の成立へというプロセスに入るわけだが、その前に「関東軍」について考えてみたい。というのは、満州帝国の支配者は事実上関東軍だったからである。日露戦争で手に入れた南満州鉄道の、単なる鉄道守備隊に過ぎなかった「関東軍」が、わずか25年かそこらの間に何故満州帝国の事実上の支配者になったのかという疑問に応えようとすることでもある。

 日露戦争から張作霖爆殺事件まで、帝国主義日本の最大のそして最低限の狙いは、「満蒙における権益」の確保にあった。この権益が確実に保障されることが「満蒙問題の解決」だったといってよい。ところが「満蒙における権益」といっても日露戦争が終わったころは、その内容は極めてあいまいだった。精々鉄道の経営権とか鉱山の採掘権とかいった内容だった。

 これが俄然具体性を帯びてくるのは、大隈内閣の時の「21ヶ条の要求」である。列強の反対や中国(当時は袁世凱政権)の人民の頑強な反対にあって「21ヶ条」の要求そのものはすべて押し通せなくなるものの、1915年(大正4年)5月、袁世凱政権に最後通牒を突きつけて結んだ、いわゆる「21ヶ条条約」の内容を見てみると、それはかなり具体的な内容を含んでいる。


21ヶ条条約と経済植民地化

 主なものをならべてみよう。(別途21ヶ条条約の内容参照のこと)

 『南満州及び東部内蒙古に関する条約』(大正4年5月25日、北京で調印)では、第1条で旅順・大連、南満州鉄道の租借期限を99年間とし、第2条で日本人の土地賃借権(商租権)、第3条で日本人の居住往来、商工業活動の自由、第4条で日本人・中国人の合弁事業の承認、第5条でこうした日本人の領事裁判権の承認、言い換えれば中国側からみると治外法権の承認、第6条ではこの地域の主要都市の経済開放、第7条では、吉長鉄道敷設に関する外国借款における日本の優先権、などを認めさせている。

 この通り実行されれば、南満州及び外蒙古は、事実上帝国主義日本の「経済植民地」ということになる。中国側の主権はあってなきがごとしである。さらにこの時本体条約に関連して『南満州における鉱山採掘権に関する交換公文』なども取り交わされている。

 こうして、帝国主義日本がいう「満蒙における権益」というスローガンは「満蒙の経済植民地化」という極めて具体的かつ切実な内容を帯び始める。


谷川雁の痛烈な批判

 ずっと時代は下って満州国が成立した後の描写にはなるが、谷川雁(http://ja.wikipedia.org/wiki/谷川雁 )が『北がなければ日本は三角』(河出書房新社、1995年)という本の中で次のように書いているそうだ。

「満州にでもいくか」庶民の底部から、この声がしみだしてきたのは昭和9年だったと思います。すこし腰が浮きかけています。それでもまだ一旗あげるというよりも、糊口をしのぐ意味の方が強かったようです。……。国策など信じているわけでもないのに、 庶民の一粒一粒がずるずると日本を離れてゆく。その一粒の過程こそが侵略行為そのものにほかならなかったことを、日本の庶民はまだ認めていません。』

 これは『農村の貧しさ/満州幻想国』(http://blog.goo.ne.jp/taraoaks624/e/7db8d8e6f6a48e2b5950874172512f75)という表題のブログからの引用である。

 「満蒙の経済植民地化」は帝国主義日本にとっても痛切な要求であったと同時に、その帝国という檻に閉じこめられた日本の人民にとってもまた痛切な要求でもあった。従って谷川の痛烈な批判、「庶民の一粒一粒がずるずると日本を離れてゆく。その一粒の過程こそが侵略行為そのものにほかならなかった」は、今われわれ日本の市民が一人一人考えて見なければならない今日的課題だと云えるだろう。

 こうして帝国主義日本にとって「満蒙の権益」が具体的内容を帯びるにつれ、満蒙における治安維持が大きな課題として浮かび上がってきた。治安が安定していなければせっかくの「経済的植民地」も何の役にもたたない。


治安維持軍隊としての関東軍

 ところで、普通主権国家では国内治安維持はその国家の基本的責務の一つである。従って中国ではその主権をもつ北京政府が行うべきであるが、これまで見たように、帝国主義日本の政策は中国本部と満蒙を切り離し、満蒙を傀儡化することによって、その経済植民地化を狙うというものだった。

この時点まで直接統治を考慮に入れなかったのは、列強との対立を回避するためだった。すなわち第一次世界大戦後のワシントン体制の枠組み、国際連盟の国際協調主義と大きな齟齬を来すことなく、中国侵略を推し進めていくには、直接統治という形態はいかにも都合が悪かった。)

 ここで「満蒙の治安維持問題」が大きく浮上することになる。この問題を担当したのが関東庁であり、関東軍だった。

 典型的な事例は、1922年(大正11年)4月の第一次奉直戦争で発生している。この事件では張作霖の奉天軍は直隷派に敗れ、東三省(満州)に閉じこもって、東三省の独立を宣言するのだが、この時日本側で問題になったのは満州における治安をいかに維持するかという問題だった。もし直隷軍が奉天軍を追って満州になだれ込んできたときは、当時暗殺された原敬内閣に代わって急遽登場した高橋是清内閣は、関東軍の出動まで考慮に入れていた。この時は、直隷派軍が東三省に入らなかったため、関東軍の出動はなかったが、明らかな内政干渉=国際協調主義の逸脱を覚悟してまで、「満蒙の治安維持」を優先した事例だろう。つまり当時すでに関東軍は、南満州鉄道の守備部隊という位置づけから、満州の治安維持部隊という位置づけに発展したいたわけである。


21ヶ条条約破棄通告

 さらに、1923年(大正12年)3月、帝国主義日本の満州支配を根本から揺るがす事件が起こっている。

 奉天派=張作霖を追い落とした北京中央政府は、直隷派が主導権を握っており、直隷派は英米の後押しを受けていたわけだが、1915年(大正4年)に締結した「21ヶ条条約」の破棄を突然通告してきたのである。当時加藤友三郎内閣はこの破棄に対して当然のごとく拒否する。

 21ヶ条条約こそは、帝国主義日本の満州侵略にその内実を与えたものであり、主観的には帝国主義日本にとって、日露戦争・第一次世界大戦で支払った犠牲の貴重な成果なのだ。しかし片方が破棄を通告し、片方がこれを拒否するとなると、これは戦争しかない。当時日本側は、極東の辺境地域にまで英米は軍隊を送らないと読んで、この破棄を拒否したわけだが、それは関東軍という軍隊の前提なしにはこの拒否はありえない。つまりここで関東軍は、満蒙の治安維持部隊としての役割に加え、中国侵略の現地暴力装置としての役割が付加されたといえる。

 続く1924年(大正13年)5月、中ソ国交回復協定・中国東省鉄道(東支鉄道)暫定管理協定が中国とソ連の間に成立する。この時の北京政府は直隷派政権だが、そのまた基層には、国民党と中国共産党がコミンテルンの仲介で第一次国共合作を成立させていたという政治的流れがあったことが見逃せない。

 また成立して間もないソビエト連邦を承認しようという国際的な流れがあることも大きな要因だった。たとえばその3ヶ月前の24年3月にはイギリスとイタリアが相次いでソビエト連邦を正式政権として承認している。この中ソ国交回復協定の成立で、実は関東軍はその駐留権の法的根拠を失ってしまうのだ。


駐兵の法的根拠を失う関東軍

 というのは日露戦争後のポーツマス条約を基礎にして、1915年(明治37年)12月、日本は「満州に関する日清条約」を当時の清国と締結し、東清鉄道の守備兵駐兵権を認めさせ、これが関東軍駐留の法的根拠になるのだが、これには付帯条項が付いており、清国の主張で、ロシアが鉄道守備(当時ロシアはなおも東清鉄道の経営権を保持していた。日本が継承したのはその東清鉄道の支線である南満州鉄道の経営権だったに過ぎない。)のための軍隊を撤兵させるならば、日本も鉄道守備隊を撤兵させることに同意していた。当時日本にとって、ロシアがその守備兵を撤兵するなどといった事態は、明治政府は全く想定していなかった。

 ところがその後ロシア革命が起こり、カラハン宣言でソ連が中国に対して一方的に帝政ロシア時代に結んだ条約の破棄を通告し、ロシアが侵略した領土を中国に返還すると共に、中国における権益を放棄するに及んで、関東軍の駐留法的根拠はすでに揺らいでいた。

 さらに1924年の中ソ国交回復協定・中国東省鉄道(東支鉄道)暫定管理協定は、ソ連が中国の主権を認めた上での互恵対等条約だったから、ソ連軍の中国駐留などという事態はありえない。こうして関東軍はその駐留の法的根拠を完全に喪失するわけである。

 もちろんだからといって帝国主義日本が、これまで積み上げて来た既得権益を放棄するわけではない。表面無視を決め込むわけだが、内部的には焦燥感を募らせる。「満蒙における権益」保障の基盤となっているのはなんと言っても、軍事的暴力装置である関東軍なのだ。その関東軍の法的根拠がなくなっている事態はやはり帝国主義日本にとってはその基盤を危うくする。

 日ソ国交回復協定が結ばれた1924年の同じ5月、清浦奎吾内閣は、外務・大蔵・陸軍・海軍4省間で会議を開き、「対支政策綱領」を決定する。そしてこの日ソ国交回復協定に対抗する形で、日本は北満州進出をめざすこと、「満蒙における秩序の維持」「自衛上必要と認むる時は機宜の措置をとる。」ことを決定する。「自衛上必要と認むる時は機宜の措置」とは当然のように、戦争に訴えることを意味している。この時には関東軍がその中心に座ることになる。

(* なお清浦奎吾内閣は翌1924年6月に総辞職するが、これほどなんの実績もない内閣も珍しい。唯一の仕事はこの「対支政策綱領」の作成ぐらいか。おそらく清浦自身、その意味すら理解しなかったろう。)

こうして関東軍は、もともとの鉄道守備隊という位置づけから「満蒙治安維持の主役」「中国侵略の軍事的暴力装置」という役割を次々に付加されていく。こうして張作霖爆殺事件の時には、「満州侵略政策の政策立案機構及び現地実行軍事機関」となるまで成長するのである。


関東軍暴走説に対する根本的疑問

 こうして見ていくと、よく言われるように「日中戦争は軍部の、特に現地関東軍の暴走で泥沼に引きずり込まれていった。戦前の軍隊にはシビリアン・コントロールが欠如していた。」という通説がだんだん怪しくなってくる。

 シビリアン・コントロールが欠如していたことは事実としても、それ以前に関東軍は帝国主義日本の中国侵略とともにその役割を大きくしていったのであり、政府対軍部、軍部対外務省、軍部内でも陸軍省対参謀本部、参謀本部対現地関東軍という派生的な矛盾対立、葛藤相克は抱えつつも、関東軍は日本の支配層の「中国東北部侵略執行機関」として機能した、と見るのが妥当だろう。

 「張作霖爆殺」、さらに後継者「張学良の南京国民党政府帰属」「南京国民党政府の全国統一の完成」という展開は、帝国主義日本の「満蒙分離独立」「満蒙傀儡政権化」という企図からすれば、全く袋小路に入ってしまったということができる。


帝国主義日本が取り得た3つの選択肢

この時、「満蒙分離独立」という課題に対して帝国主義日本が取り得る選択肢はおよそ以下のようなものだったろう。

1. 満蒙直接統治  この場合は当面張学良政権を軍事的に倒した上で鮮鮮・台湾同様の軍政を敷くことになるが、これは第一次世界大戦後の列強協調主義(帝国主義国家の世界侵略支配談合体制を尊重する政策のこと)の枠を飛び出すことを覚悟しなければならない。蒋介石南京政府との軋轢は必至。
2. 満蒙傀儡統治  この場合も当面張学良政権を軍事的に倒した上で傀儡国家の建設ということになるが、果たして張作霖なきあと、適切な傀儡が見つけられるかどうか不透明な上に、列強協調主義の枠内に止まれるかどうかも不透明。蒋介石南京政府との軋轢は必至。
3. 満蒙共同支配  列強の支持と支援の下に満蒙を実質共同支配していく道。この場合列国協調主義の枠内に止まることは保障されるし、張学良政権との軍事的軋轢も避けることができるだろう。蒋介石南京政府との軋轢も列強の圧力で押さえ込むことができたであろう。共同支配の形態はいくらでもあろう。実際蒋介石国民政府は列強帝国主義を敵とは考えておらず、正面の敵は中国共産党と考えていたから、この満蒙共同支配形式は大いに可能性があった。この案の最大の欠点は、満蒙における帝国主義日本の最大利益が保障されない、という点だった。

 ただし、上記いずれの場合も、中国人民との直接対決、この場合は中国人民の政治的軍事的代表である中国共産党勢力との直接対決は避けらなかった。しかし、それは今だから云えるのであって、当時帝国主義日本も、蒋介石南京政府も、列強も、中国人民がそれほどの力を持っているとは想像もしていなかった。

結局、帝国主義日本は「張作霖爆殺」後、1の「満蒙直接統治」と2の「満蒙傀儡統治」の間を迷走するわけだが、それは中国人民全体を敵に回すばかりでなく、蒋介石国民政府や列強帝国主義、ことに帝国主義アメリカを敵に回す道だった。


商工官僚岸信介の「日米戦争」イメージ

 1929年(昭和4年)といえば、蒋介石政権が各軍閥に叛旗を翻され、この対策に忙しかったころだ。中原大戦で決着がつくのはやっと30年(昭和5年)1月である。しかしすでに英米の支持を受け、中国唯一の合法政権として承認を受けている蒋介石政権は29年6月には、なんと田中義一内閣からも合法政権として承認を受ける。帝国主義日本がいかに英米に気兼ねをしていたかの証左でもあろう。

 商工省に入省した岸信介が工務局兼務となり、ドイツを初めとする欧州各国へ出張したのが1930年(昭和5年)であり、帰朝後の6月、臨時産業合理局事務官となって、統制経済の研究を開始している。すでに26年(大正15年)にはアメリカ、イギリス、インドに出張し、英米資本主義の研究と植民地経済の研究も開始していた。当時を振り返って岸は次のように述べている。
(岸のコメントは「」内)

 すなわち日米間では経済力にケタ違いの差があるために、「アメリカと戦争をするのは国力の上からも考えられない、という気持ちだった」(岸インタビュー)というものである。あたかも「日米戦争」なるものが、この時点で彼の脳裏のどこかをかすめていたかのようである。

 岸は続けていう。「(戦争になれば)日本人は追い込まれていって、全面的にアメリカに屈服するか、あるいは日本自体死滅するしかないという気持ちだった。だから、アメリカと対抗して、アメリカに勝ってアメリカに上陸しようとか、カリフォルニアをどうしようとか、そんなことを考える人は軍人でもいなかった。とにかくアメリカがこっちへ出てくるのを抑えておいて、東南アジアにおけるインドネシアの石油を確保し、中国大陸及び東南アジアの資源によって日本の生命をつないでいく、ということだった」(同前)

 岸のこうした証言は、彼が大正15年(*1926年)におけるこのアメリカ訪問時点で、すでにアメリカへの対立イメージを何らかの形でもっていたこと、しかし「日米戦争」は彼我の経済力からみて日本の破滅に終わると彼自身が理解していたことを意味する。』
(岩波新書「岸信介」 原彬久著 2007年2月5日 第12刷 P41)

ただこの文章で岸が「日本」といっているのは「帝国主義日本」と読み替えておかねばならないことは断るまでもない。

恐らくこの時点で、満州の行方を横目で見ながら、将来の日米戦争を漠然と予感し、恐れていたのは岸一人ではあるまい。少しものの見えている人間ならば皆同じ予感をもっていたはずだ。


直木三十五の「日米戦争」イメージ

 戦前、ファシズム軍部の提灯持ちをさんざんやって、軍国主義日本のイデオロギーを知識人レベルにまで浸透させるのに大いに貢献した月刊雑誌「文藝春秋」(戦後は天皇制イデオロギーの提灯持ちをやっている。)が、直木三十五の連載小説「太平洋戦争」(当時の筆名は村田春樹)の掲載をはじめるのが昭和6年(1931年)新年号からである。その連載を前にして直木は昭和5年12月付けで次のように書いている。

自分は現在の日本の、国勢および国情を基礎としてその延長線上に、一つの事件を構成し、これを小説的形式として描き「太平洋戦争」と題した。

・・・(小説ではあるがと断りつつ)それと同時に、あくまで「現在起こりつつある、日本における、経済、外交、社会、思想、軍備等の事実を基礎とした小説である」ということである。


一、経済について
・・・この小説において、言い替えると日本(*ここも帝国主義日本と読み替えておいた方が無難である)においてはその全部にも等しい重要問題である。それは、
A. その消費力において飽和点に達し、または、やや衰退的経路をとらんとする種の生産業の危機。
B. ロシア(*ここはソ連のこと)の、五カ年計画完成後における、経済的赤化政策としてのダンピング。


二、支那について
・・・従って、第三者よりみた場合支那の主張は、独立国として当然のことであり、日本は単に、既得権の擁護、または、投資物の保護位の主張しかすることができない。

自分はその詳細を、本文の中に、譲るが、日本の対支投資すら、今日は支那において拒絶されつつある。双橋無線電信の始末を見よ。日本を拒んで、アメリカの手に移らんとしているのではないか。日本、上海間の航空路を拒絶して、独逸資本と結び、独逸漢沙航空会社が、調印されたではないか?

(* 双橋無線電信は大正10年、三井物産が中国海軍から借款により受注した北京郊外の大規模通信施設らしい。この通信施設の使用権をめぐって中国、日本、アメリカ三国間の係争事例となった。詳しくは神戸大学電子図書館「新聞記事文庫」を参照のこと。http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?
METAID=00056249&TYPE=HTML_FILE&POS=1
 )


日米決戦を予感する直木

三、満州について
(* なお直木の頭の中ではすでに、中国本部=支那と満蒙は切り離されていることに注意すべきである。)
 ・・・すなわち条約において禁じられている満鉄の東西に並行を敷設して圧迫し、胡蘆島に貨物を集中せんとする策でこの二大幹線の外に多くの支線よりなる包囲網を造り、そうして最近には、国際協定を無視したる低廉なる運賃で、満鉄に挑戦しつつある。

 もしこの、協定の蹂躙、その挑戦的態度が、このままに延長せらるならば、在満鮮人が、その圧迫を受けて悲惨なる生活をしていると同じように、在満二十万の日本人と十億の投資とは、やがて駆逐され、併呑される日がくるであろう。』

(* いちいち反駁しないが歴史的に見て、よくもこれだけ勝手な理屈を並べるものだ、と思う。と同時に、ここでの直木の主観的現状認識は、田母神的「被害妄想史観」の歴史認識とそっくり同じであることを確認しておきたい。)


四、アメリカの対満野心
 ポーツマスで、日露の談判が進行中、アメリカの鉄道王、ハリマン(エドワード・ヘンリー・ハリマン http://ja.wikipedia.org/wiki/エドワード・ヘンリー・ハリマン http://en.wikipedia.org/wiki/E._H._Harriman ただしハリマンを鉄道王というのはどうか。ハリマンは鉄道に投資はしたが、基本的には投資銀行家である。日露戦争の時日本の戦時公債を一人で1000万円も引き受けている。)が渡日してきて、満州買収運動を試みた。この時から、アメリカは、満州の鉄道に垂涎していたのであろう。

(* ここも若干違うかもしれない。ハリマンは1億円の投資とともに南満州鉄道の共同経営を申し込んだ。桂太郎も大いに乗り気で「桂・ハリマン協定」まで進んでいる。)

 ・・・このアメリカの対満野心の歴史的事実を見、満鉄の包囲、並行線敷設に、アメリカの投資があることを聞く時、満州地図の上に、一抹の、不安と、暗さとが、漂いはしないか?危機を感じはしないか?・・・』


以上文藝春秋昭和6年2月号掲載 直木三十五 「太平洋戦争」を書く前に 「文藝春秋」に見る昭和史 第1巻 1988年 第8刷 P80−P83)

 「張作霖」爆殺後の帝国主義日本は、「日米決戦」の陰鬱な予感と常に同居していた、ということがいえよう。


戦前・戦後を一貫して流れる「被害者意識」

 田母神の文章を詳しく検討して見て、気がついたことなのだが、田母神の考え方の底流には一貫して、帝国主義日本は「被害者だった。」という思いが流れている。これを私は「被害妄想史観」と名付けたわけだが、さらに詳しく見てみるとこれは、どうもこれは田母神独自の思いではないらしい。戦前の軍部や政治家、実業人、文化人にも、張作霖爆殺事件の主人公河本大作にも、5・30事件のきっかけを作った内外綿の重役にも、岸信介の文章にも、直木三十五の思いにも、米議会の「旧日本軍性奴隷制度非難決議案(日本でのいわゆる従軍慰安婦非難決議案)に反発した自民党議員やマスコミにも、「南京大虐殺事件はでっち上げだとする」文化人や学者にも共通して流れている。一言で云えば「日本は不当に非難されてきた。」というセンティメントである。

 自分たちは「歴史的に不当に扱われてきた。」「不当に非難されてきた。」というセンティメントは何も日本だけに特有の現象ではない。韓国の右翼にも、ドイツやオーストリアの極右勢力にも、現在のイスラエルの右翼にも共通して見られる現象である。ただ日本の場合、それが社会の大勢に影響を与えるほど根強く幅広い、ということは云えるだろう。「日本における被害妄想史観の起源とその発展」とでも題すると結構面白い研究テーマにはなりそうだが、今そこまで踏み込む力は私にはない。

 ただ最低限云えることは、このセンティメントの淵源は相当に古く、恐らく明治初期の鹿鳴館時代にまで、あるいは幕末にまでさかのぼることができるのではないかということと、日本は列強の中でもっとも遅れてやってきた「帝国主義国家」だったこととに大いに関係している。


いじましい遅れてやってきた帝国主義日本

 実際、帝国主義日本の日清戦争・日露戦争以降の「侵略」の過程における列強に対する気の使いぶりは見てきていじましくなるほどである。日清戦争で勝ったと思ったら三国干渉で頭を叩かれ、やっとの思いで日露戦争に勝ったと思ったら、ロシアに開き直られて、雀の涙みたいな戦利品しか獲得できず、21ヶ条の要求の時は列強にさんざん油を絞られ、やっと満州の権益を獲得したと思ったら、ワシントン体制の中で「機会均等」を約束させられる・・・。張作霖の扱いについてもあれほど二転三転したあげくに爆殺してしまうわけだが、これも列強に対して気をつかわなければ、あれほど迷走する必要はなかった。 

 満州を朝鮮や台湾のように直接統治とせずに傀儡国家としたのも結局のところ、列強との枠組みの中に留まろうとした苦肉の策だった。帝国主義日本が、列強に対して開き直りを見せるのは、松岡洋右の国際連盟脱退あたりからだろうか。しかしそれでも、その後の帝国主義日本は、真珠湾攻撃までアメリカに対して完全に開き直れていない。あれを忖度しこれに気を遣いしながらとうとう真珠湾攻撃にまで走っていってしまったという感じだ。このシリーズの最終部分で、日米開戦時の御前会議の模様を扱う予定にしているが、帝国主義日本のアメリカに対する気の使い方は、屈折していていじましい。

 日米安全保障条約下の従属状態のもとで、現在日本の支配層は帝国主義アメリカに対して、ほとんど思考停止状態と思えるほどの気の使い方をしている。この姿と戦前帝国主義日本のアメリカに対する気の使い方は、底流ではよく似ている。

 こうして帝国主義日本の主観的立場に立てば、欧米帝国主義諸国に対して我慢に我慢を重ねてきたのが明治以降の歴史だったといっても過言ではない。


被害妄想史観にとりつかれた人たち

 田母神の歴史観は、戦前帝国主義日本が持っていた主観的現状認識や分析と寸分変わらないが(といっても理論的には北一輝や大川周明、石原莞爾あたりとは比べものにならないほどお粗末だが。ま、真崎甚三郎並みといえば、田母神を褒め過ぎか。しかし真崎も酷かったなぁ。)、戦前帝国主義日本が内面に鬱屈した形で抱いていた「被害者意識」をそのまま田母神も、遺伝子のように受け継いでいると考えることが出来る。

 本当の解は、帝国主義日本の過程をよく検討・批判して、2度とこのような事態を起こさない保障を社会全体に構築していくことなのだが、田母神的「被害妄想史観」にとりつかれた人たちは、ことさらこの道を否定しているかのように見える・・・。

 恐らくは、この「被害妄想史観」は意識的・無意識的にわれわれ日本の市民の中にも混ざりこんでいるのではあるまいか・・・。もし混ざり込んでいるとすれば、これこそが最大の問題だ、と断定して構わない。

 今手元にある「大辞林」(第二版 三省堂 1995年11月3日)で「被害妄想」を引いてみた。すると次のようにある。

自分が他人から危害を加えられているという妄想。精神分裂病に典型的に見られる。』

 さしずめ「田母神論文」は、歴史的資料ではなく精神病理学的資料ということになる・・・。


(以下次回)