No.23-9(上) 平成21年2月2日


田母神論文に見る岸信介の亡霊
その9 中国人労働者にとっては「地獄の満州国」
(上編)

「満州国人口5000万人」のウソ

脈絡のない田母神

 「田母神論文」は脈絡がない。散漫である。テーマ設定をして、単元ごとに話題をすすめ、積み上げていって、全体として「日本が侵略国家ではなかった」ことを論証する、という論文の基本形ができていない。多くの人たちから「論文の体をなしていない」と指摘されるゆえんである。

 話題も、「中国」「朝鮮半島」「日米戦争」「大東亜戦争」「満州」「植民地経営全般」「朝鮮半島出身旧日本帝国軍人」「中国出身旧日本帝国軍人」「旧帝国大学」「朝鮮李王朝と日本の皇族の婚姻関係」「満州帝国家族と日本華族の婚姻関係」「人種差別問題」「アメリカとコミンテルンの関係」「領土帰属問題」「東京裁判」「戦後日米関係」「戦後日本論」「憲法改正」・・・。こうした話題が前後脈絡なく出てくる。

 田母神の中では、これらの話題は、それぞれ自分の粗雑な結論が論証抜きにつながっているのだろうが、ひとつひとつが大テーマとして見えている私には全く支離滅裂な脈絡のなさと見える。精神分裂症気味である。

だから何度読んでも、「どうしてこれらが、日本が侵略国家でなかったことになるのだ。」という疑問が最後までつきまとう。


絶対主義・封建時代の思考様式

傑作なのは、朝鮮李王朝と日本の皇族の婚姻関係、満州皇帝家族と日本の華族の婚姻関係に関する記述だ。これは田母神の思考様式を端的に表している。皇室が最上級で次に皇族、それから華族・・・、彼らが「やんごとなき方々」で、彼らを嫁がせることは、最上級の待遇だという発想だ。この発想は帝国主義をさらにさかのぼって、封建時代の発想だ。ヨーロッパでいえば絶対主義時代の発想だ。こんな発想をする人間が、21世紀の防衛省の航空幕僚長だった、とはブラックユーモアにもならない。

ここは面白い記述なので引用しておこう。

・・・この李垠(イウン)殿下(*イ・ウン http://ja.wikipedia.org/wiki/李垠のお妃となられたのが日本の梨本宮方子(まさこ)妃殿下である。
(* 小さなことだがここもおかしな表記である。李垠の妃殿下という意味なら李方子妃殿下でなければいけないし、妃殿下になる前の方子を指すのなら「梨本宮方子王」か「方子女王」だろう。「梨本宮方子妃殿下」は見たことのない表記だ。朝鮮李家に対しても失礼だろう。この男の教養のなさは度外れている。)
この方は昭和天皇のお妃候補であった高貴なお方である。
(* いちいち引っかかって申し訳ない。「天皇のお妃」はないだろう。ここは「昭和天皇のお后」か「昭和天皇が皇太子の時のお妃」だろう。)
もし日本政府が李王朝を潰すつもりならこのような高貴な方を李垠(イウン)殿下のもとに嫁がせることはなかったであろう。』

 帝国主義日本が朝鮮李王朝を潰すはずがない。朝鮮民族の権威の象徴として李王朝を存続させておき、その権威のもとで朝鮮半島侵略・植民地経営をおこなう意図だったからだ。それは1945年トルーマン政権が、戦後の占領政策をもっとも効果的に進めるために、昭和天皇の退位すら認めず天皇制存続を決めたのと同じことだ。だから李垠と方子の婚姻は、帝国主義日本の朝鮮侵略の状況証拠の一つではあっても、決して「侵略しなかった証拠」には成り得ない。


田母神の頭の中のヒエラルキー

 次がまた傑作である。
 また清朝最後の皇帝また満州帝国皇帝溥儀(ふぎ)殿下(*ここはいかに傀儡帝国とはいえ皇帝に向かって「殿下」はないだろう。「陛下」だろう。傀儡だから殿下に格下げか。)の弟君である溥傑殿下のもとに嫁がれたのは、日本の華族嵯峨家の嵯峨浩(*ひろ)殿下である。』
(* 華族の当主に「殿下」はあるが、娘に殿下はないだろう。田母神は「なんでもデンカ」か?)

 朝鮮李王朝の場合は、まだ朝鮮人民に愛されていたといえるが、清朝廃帝、宣統帝・愛新覚羅溥儀は中国人民から疎まれていた。この婚姻も帝国主義日本としては全く空振りだった。ただ愛新覚羅溥傑http://ja.wikipedia.org/wiki/愛新覚羅溥傑は立派な人物だったらしい。またその妻嵯峨浩も尊敬さるべき女性だったようだ。

(* しかしこの「論文」が公表される前に誰もチェックしなかったのだろうか?)

 そのあとイギリスやその他のヨーロッパ列強の植民地統治では、それぞれの王族と植民地現地の王族の婚姻はなかったという意味のことをいっているが、これも田母神の頭の中身を知る上で興味深い記述だ。彼が日本の皇室を頂点にした権威のヒエラルキーを価値体系としてもっているということ、王族や皇族同士の婚姻関係が、封建主義社会や絶対主義社会までに特有の現象であり、近代帝国主義社会では、資本家家族や有力政治家、官僚など同士の婚姻関係に移行してしまっていることに全く気がついておらず、その意味では田母神は、封建主義的な(いいかえれば、前近代主義的な)価値体系をもって世界を眺めているということだ。

 次の記述は問題が残る。

 イギリスがインドを占領したがインド人のために教育を与えることはなかった。』

 何を根拠にこういうことをいっているのかさっぱり見当もつかない。私も『帝国主義と植民地経営』などというテーマで系統的な勉強をしたことはないが、その私でも、上記の記述は「嘘っぱち」だということがわかる。植民地経営にとって、一定程度の範囲で植民地現地に高等教育を普及させていくことはむしろセオリーだったことを知っているからだ。効率的な植民地経営を行うには、一定のテクノクラートとして、人材が必要だ。行政家、法律家、医療関係者などなど実に膨大な人材が必要だ。これをすべて宗主国からの人材派遣でまかなうことなどは不可能だ。特にイギリスなど世界中に植民地を抱えた国はそうだ。従って本国に留学させる道を開いたほか現地にも高等教育機関をつくった。日本の侵略では、そのため京城帝国大学や台北帝国大学、満州では建国大学が作られた。

 だから、上記記述は、田母神が高級官僚としての素養と教養を全く持ち合わせていない証左である。田母神の経歴を調べてみると、1971年に防衛大学校を卒業している。2002年には、噴飯ものだが、統合幕僚学校長にも就任している。自衛隊における教育がいかにお粗末かというサンプルが田母神であろう。私はよくわからないが、軍事技術の専門家教育ばかりで、職業軍人としての幅広い見識とか知見とか、教養とか、科学的思考を身につけることとかは全く無視されているのではないか?

(* 確か大学関係者の言葉では、こういうのを「たこつぼ教育」というんだそうだ。別な意味で日本に戦争がなくてよかった。こんな連中が軍事指導者なら勝てる戦争は恐らく一つもないだろう。)

 田母神の脈絡のない、やや精神分裂症の傾向がないとは言い切れない記述にその都度つきあっていると大変なのでテーマを絞ることにし、その他はあとでまとめて片付けよう。

帝国主義日本の無謀な試み

 帝国主義日本の中国侵略のテーマを続けることにする。

 田母神は次のように書いている。

 我が国は満州も朝鮮半島も台湾の日本本土と同じように開発しようとした。当時列強といわれる国での中で植民地の内地化をしようとした国は日本のみである。我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。満州帝国は、成立当初の1932年1月には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は。わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。』

 まず小さな誤りから訂正しておこう。「満州帝国」が成立したのは1932年ではない。1932年(昭和7年)に成立するのは満州国(大同元年)であり、この時は、政体は共和制だった。
(* もちろん後で詳しく見るようにこの「満州国」なる国は「国民」も確定できない擬制国家だった。)

 執政溥儀が皇帝になるのは1934年(昭和9年)3月であり、この年元号を大同から康徳に変更している。公文書では「満州国」と「満州帝国」を併用している。それではいつから正式に「満州帝国」を使用するようになったか、これははっきりしていない。だから歴史書でも擬制国家としては「満州国」という表現を用いており、「満州帝国」と表記したものは少ない。が、「満州帝国」としても間違いではないだろう。しかし「満州帝国」が1932年からスタートしたとするとこれは明白な間違いだろう。

帝国主義日本が「満州」「朝鮮」「台湾」を開発したのは事実だし、開発し収奪することが目的だったわけだから、ここの田母神の論旨は混乱している。田母神のいう「内地化」がどんな概念を持っているのかが不明だが、「皇民化」という意味なら、それは田母神の言うとおりだろう。

しかし、それは「侵略」の意図がなかった証拠ではなく、逆に侵略の意図があった証拠だ。すなわち「皇民化」によって、「満州」「朝鮮」「台湾」の人民を天皇制イデオロギーで統一してしまえば、「民族主義」に手を焼くこともなければ、「反帝国主義闘争」に対抗することもない。もっともてっとり早い侵略だ。それに安上がりでもある。

 しかし人の感情や思想、民族意識、帰属意識を変えて、自分の都合のいいイデオロギーに変えてしまおうとするほど無謀な試みもない。だから経験のある欧米帝国主義はそのような無謀な試みは行わなかった。天皇イデオロギーがキリスト教イデオロギーほど思想的深みのあるものならば、また一定の成功を収めたかも知れないが、それが粗雑な政治イデオロギーであってみれば、ひっかかる人もまずなかった。

今日は2009年1月21日であり、バラーク・フセイン・オバマ=Barack Hussein Obama II政権の2日目である。つい3日前のジョージ・ウォーカー・ブッシュ政権は、他の民族や市民社会の思想や帰属意識、宗教心まで、自分に都合のいいイデオロギーに変えてしまおうとした希な政権ではなかったか?もちろんブッシュ政権のイデオロギーとは「民主主義」だったが、その民主主義とは、経済的に強いもの=支配者のための「自由」だけが存在する民主主義だった。これは当然混乱を避けるために「強欲民主主義」と言う別な名前で呼んでおかねばならない。知らない人が聞いたら、ブッシュ政権の民主主義を「真性民主主義」と勘違いする。もちろん「強欲民主主義」は「民主主義」という言葉が使われていることを除けば、「民主主義」とは似ても似つかない代物であり、一皮むけば「帝国主義」、それも「金融寄生虫帝国主義」である。)

尋常ではない論旨の混乱

 次に植民地について。

 田母神論文はそこかしこに論旨の「不」首尾一貫があり、戸惑うことが多いのだが、ここの論旨の混乱ぶりは尋常ではない。

台湾や朝鮮半島、そして満州においても、その政治形態は異なるものの、基本的には、その地域の住民の意志によって、台湾・朝鮮は日本の統治下に入り、満州は旧北京政府の政治指導者たちが中心になって満州3000万の住民の自発的意志で、『五族共和』をスローガンとして建国されたのである。その意味では満州国の理念は『東洋のアメリカ合衆国』だったのある。台湾や朝鮮半島、満州を日本の植民地であったかのようにいう歴史学者も散見するが、それは、以上指摘したように誤りであって、台湾・朝鮮・満州はいわゆる植民地だったのではない。」

 これは私の作文である。

 この作文のようになるなら話もわかるが、田母神自身が、

我が国は他国との比較で言えば極めて穏健な植民地統治をしたのである。」

と「侵略」だったことを認めてしまっては、話にならない。それとも「侵略」でない「植民地統治」があったとでもいうのだろうか?

 田母神の「論旨」の混乱ぶりは、一体なんだろうか?私には、誰かに教え込まれたことを、田母神が未消化に文章にしたためと思える・・・。


日本語Wikipediaの記述も同期

 さて、特に、次の記述はとても気になる記述である。

 満州帝国は、成立当初の1932年1月(*32年は『満州国』であったことは先に見たとおり。)には3千万人の人口であったが、毎年100万人以上も人口が増え続け、1945年の終戦時には5千万人に増加していたのである。満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。」

田母神が何を根拠にこの数字を持ち出したのか、私にはまったくわからない。
例によって、引用元もない。

 日本語Wikipediaの記述を見てみると、満州国http://ja.wikipedia.org/wiki/満州国 )を見てみると、

 『  1908年(*明治41年)の時点で、満洲の人口は1583万人だったが、満洲国建国前の1931年(*昭和6年)には3000万人近く増加して4300万人になっていた。人口比率としては女性100に対して男性123の割合で、1941年(昭和16年)には人口は5000万人にまで増加していた。男性の方が多かったことに移民国家としての側面が強かったことがうかがえる。

1934年(*昭和9年)の初めの満洲国の人口は3088万人、1世帯あたりの平均人数は6.1人、男女比は122:100と推定されていた。 人口の構成としては、

満洲人(漢族、満洲族、朝鮮族) 30,190,000人 (97.8%)
日本人 590,760人 (1.9%)
ロシア人・モンゴル人等の他人種 98,431人 (0.3%)

上記の『満洲人』の中には、68万人の朝鮮族も含んでいる。なお、都市部の住民は20%程度であった。

 日本側の資料によると、1940年の満洲国(黒竜江・熱河・吉林・遼寧・興安)の全人口は42,233,954人(内務省の統計では31,008,600人)。別の時期の統計では36,933,000人であった。

主要都市の人口は下記のとおり。

営口: 119,000人 もしくは 180,871人 (1940年)
奉天: 339,000人 もしくは 1,135,801人 (1940年)
新京: 126,000人 もしくは 544,202人 (1940年)
ハルビン: 405,000人 もしくは 661,948人 (1940年)
大連: 400,000人 もしくは 555,562人 (1939年)
安東: 92,000人 もしくは 315,242人 (1940年)
吉林: 119,000人 もしくは 173,624人 (1940年)
チチハル: 75,000人     (1940年)

統計の主体によって数値に大きな差がある。これは満洲国に国籍というものがなく、国勢調査が実質実施不能だったという事によるものである。また、満洲国の行政権が及ばなかった主要都市の満鉄付属地の人口を含むか含まないかが、統計によって異なったためでもある。 』

 これは、何となく読み過ごしてしまうような記述だが、良く読んでみると驚くほど杜撰な記述である。

 この日本語Wikipediaの記述をそのまま書くと、
 「満州」の人口は、 1908年 1583万人
1931年 4300万人
1934年 3088万人
1940年 4323万3954人
1941年 5000万人      と変遷したことになる。

 ただし、内務省の統計では、1934年には31,008,600人だった、別の時期(*いつの、どこの統計かは不明)では3100万8600人だった、というのである。


「満州人」とはいったい何か?

 次に「満州国の人口」という時、「満州国の国民人口」なのか「満州国の住民人口」なのか、また住民人口だとすれば、「満州国の住民」の定義は何なのか、という問題がある。

 「満州国」には戸籍法がなかった。今考えると驚くべきことだが、「満州国」は擬制としても「国民」を定義していなかったのである。この問題はあとでも詳しく出てくることだが、ともかく「満州国」には住民はいたけれど「国民」は一人もいなかったのである。たとえば私の父親は1918年(大正7年)生まれで、1936年(昭和11年)に満州に渡り、1947年(昭和22年)日本に引き揚げて来、それまで一貫して鞍山製鉄所の発電所・電話局で電気技師をしていたが、一度も満州国民であったことはなかった。私の母親は満州に渡って、満州で父と結婚したが彼女も一度も満州国民であったことはなかった。私の兄は満州で生まれたが、満州国民であったことはなかった。3人とも日本の戸籍法に従ってずっと日本人だった。

 従って上記Wikipediaの記述でいう人口とは、「国民人口」ではなく「住民人口」であったはずである。これは満州に流入していった漢族、朝鮮族についても同じことが云える。そうすると上記統計でいう「満州人」とはいったい何か?

 学術的に満州人とは、満州族をさすだろう。すなわち「女真」の流れを汲み、満州語を話す人々のことだろう。

ところが上記Wikipediaの引用している統計では、

 1934年(*昭和9年)の初めの満洲国の人口は3088万人、・・・と推定されていた。
人口の構成としては、
満洲人(漢族、満洲族、朝鮮族) 30,190,000人 (97.8%)
日本人 590,760人 (1.9%)
ロシア人・モンゴル人等の他人種 98,431人 (0.3%)

 だった、というのである。ここで満州人の定義の話になる。満州国人はありえない。満州国人は一人もいなかったのだから。それでは満州に住居し、満州を生活の本拠としている人またはその家族という定義をあたえるなら、日本人のうち、たとえば私の父親のように少なからぬ部分は、満州人に数えられなければならない。ところが間違いなくこの統計では、日本人は日本国籍をもつもの、という定義が与えられたはずである。

 それでは上記統計で漢族、とはどんな人を指すのであろうか。それは間違いなく、出身地が中国で中国語を話し、漢族と分類されている人またはその家族あるいはその子孫ということだろう。しかしこれを満州に住居しているから満州人と分類するなら、同じく同じ理由をもって大半の「日本人」も「満州人」に分類されなければならない。

 こう考えてみると、この統計でいう「満州人」とはなんらの科学的根拠のない、また法的根拠もない分類だとわかる。つまり一定の政治的意図をもった恣意的な分類だと言うことがわかる。

 それでは、どんな政治的意図をもっていたか。それはもう明らかだろう。歴史的にも政治的にも実態をもたない「満州国」にあたかも実態があったように見せかける意図だろう。

 つまりこのWikipediaの記述者は、統計を引用するにあたって極めて、政治的意図をもった原資料を引用したのだ。従って引用元を明示することができなかった、と考えるのが合理的推測だろう。

資料出所を明示できないわけ

 そうすると、1940年時点での「主要都市人口」の幅が大きいことも理解できる。つまり一定の政治意図が混じった数字を混入させているのだ。
 
 たとえば奉天市の人口は「33万9000人もしくは113万5801人」(1940年)だったというのである。別な箇所で「都市部の人口は全体の20%だった。」といっているので、どちらの数字をとるかは全体人口に関係してくる大きな問題である。しかし全体人口は、なんの注釈もなく「4323万3954人」(1940年)だったと言い切っている。

 ここまで見てくると、この日本語Wikipediaの記述者が科学的、実証的意図をもって記述しているのではなく、なんらかの政治的意図をもってこの記述をしたのだということがわかってくる。その意図とはいうまでもなく、「満州国」の人口が増えていった、という印象を与えるためである。恐らくは、「満州国の人口」を過大に記述した政治的統計、あるいは「満州国」の人口計画値が別にあり、その統計あるいは計画値を記述することによって、「満州国」に対する歴史的認識に影響を与えようとする意図だろう。だから、この執筆者は資料の出所を明示できなかったのである。

Wikipediaは世界的に見て、信頼のできるインターネット百科事典という評価を確立しつつある。しかしこのような記述を、日本語Wikipediaの編集委員会が承認するとすれば、折角の評価を根底から崩すものになりはしないか。私もWikipediaを愛用している人間の一人として、深刻に考えている。

 ただし、信頼のできる記述かどうかは、インターネットを利用する側が、それを見分ける力を持っていなければならない。まず信頼のできる記述とは、ブランドや権威ではない。ソースが明示してあるかどうか、そのソースが信頼できるものであるかどうか、記述に矛盾がなく首尾一貫しているかどうか、などが最低限の見分け方のポイントになろう。上記日本語Wikipediaの記述はそのどれも満たしていない。)


歴史的改竄を意図する記述

 それでは、この日本語Wikipediaの記述は、どんな政治的意図を持っていたのか。それは明らかだろう。国家として実態がなかった「満州国」に実態があったかのように見せかけ、その上この「王道楽土」に「満州人」なるものが、蝟集した、という「歴史的改竄」が目的だった、といわざるをえない。

 ここに1937年(昭和12年)1月16日付けの満州日日新聞がある。記事のタイトルは「主要都市人口 康徳3年10月末」http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/Conten
tViewM.jsp?METAID=10000990&TYPE=HTML_FILE&POS=1
というものだ。

 満州日日新聞は、
明治40(1907)年10月、星野錫(*しゃく)により「満州日日新聞」として大連に創刊された。満鉄の機関紙的存在であった。昭和2(1927)年11月「遼東新報」を合併して「満州日報」と改題したが、昭和10(1935)年8月「満州日日新聞」に復題した。昭和13(1938)年に奉天に本社を移転、奉天・大連の同時発行で大連版は「大連日日新聞」となった。昭和19(1944)年5月、「満州新聞」と合併して「満州日報」となる。』
(神戸大学 図書館 新聞記事文庫の紹介文より)
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/snlist/550l.html )
だそうで、ポイントは満鉄の機関紙的存在だった、点にある。この記事は、康徳3年(昭和11年)10月末の満州主要都市の人口統計だ。調査したのは「満州国民生部」である。といってもこれは「満州国国民の人口」ではないはずだ。「満州国」には「国民」はいなかった。従って住民人口のはずだが、その住民もこの記事を読む限り定義がはっきりしない。おそらくは「満州国民生部」が独自の定義をもっていたのだろう。参考資料「満州帝国主要都市人口 満州日日新聞 1937年 1月16日付記事」はこの記事を別途に表にしたものだ。この新聞記事の記述では、処理しにくかったので表計算ソフトに転記した。

 引用しておくと、
1936年10月末人口 備考
新京 303,075     *新京は長春
    (特別市) 237,723  
    (附属地) 64,352  
吉林 127,400      
斉々哈爾 92,776     *斉々哈爾はチチハル
黒河 12,219      
佳木斯 41,237     *佳木斯はジャムス
哈爾浜 453,013     *哈爾浜はハルピン
延吉 30,509      
安東 167,082     *安東は現在丹東
満州国市街 90,258      
    (附属地) 76,824  
奉天 535,753     *奉天は現在瀋陽
    (奉天市) 446,351  
    (附属地) 89,392  
錦州 87,519       
    承徳 33,798  
海拉爾 19,610     *海拉爾はハイラル
    市政管理処管内 19,832  
興安北省管内 9,788      
満州里 7,277      
鞍山附属地 97,383      
旅順 31,647      
大連 371,435      
合計 2,477,981      

 ということになり、この数字は日本語Wikipediaが引用している「主要都市人口」の、最小数字にほぼ合致することがわかる。だからこの資料の引用元は直接にか間接にか出所は「満州国民生部資料」だろう。最大数値の引用元はまったく見当も付かない。全くの推測だが、おそらく当時作られた宣伝資料が基になっていると思われる。

 この新聞記事は、主要都市の住民人口としては、同時代一次資料としてほぼ信頼していいだろう。この主要都市の人口を合計すると、約250万人である。農村部と都市部の人口が4:1(都市部人口約20%というのは、別途研究資料によっても裏付けられるのだが、それは後回しにして)とすれば、「満州国」全体の人口は1250万人だったということになる。仮に9:1としても精々2500万人ということになり、Wikipediaのいう人口はおろか、「満州3000万人」という定説も怪しくなってくる。


満州日日新聞の座談会

 この満州日日新聞の記事が1937年(昭和12年)であることは注意していた方がいいだろう。というのはこの年蘆溝橋事件(7・7事変)が起こって日中戦争が起こり、満州が帝国主義日本にとっての後方生産基地化し、また前年1936年(昭和11年)、満州第一次5カ年計画が策定され、実施される(37年4月)に及んで、「満州の天然資源は労働力」と豪語し、日本人移住のために制限していた漢民族流入制限政策をやめて流入を促進しなければならなくなるからだ。

 同じ満州日日新聞は、1940年(昭和15年)2月から3月にかけて一連の座談会を開いている。この座談会のタイトルは「北支と満洲 (一〜完) 本社北支総局主催座談会」(参考資料 満州日日新聞 座談会 「北支と満州の経済関係」 1940年 参照のこと)というものだが、太平洋戦争勃発を控えていよいよ、帝国主義日本の生産基地化した「満州国」と華北地方(いわゆる北支)の経済関係全般を論じた座談会だ。

この時期華北(北支)には「中華民国臨時政府」という傀儡政権が誕生している。これは「満州国」同様の傀儡政権を建てて、「中国本土」と華北地方の切り離しを狙ったものだが、のちに南京に汪精衛(汪兆銘)の傀儡政権が成立したので、結局この「中華民国臨時政府」という傀儡政権はわずか4年で終わり、汪精衛南京傀儡政権に吸収合併されてその命を終わる。この座談会の時点ではまだ、「中華民国臨時政府」は存在していた。

(* 余計なことだが、この「中華民国臨時政府」が、たった4年で終了したことは田母神的「被害妄想史観」の人たちにとっては祝福すべきことだったろう。これが1945年まで続いたとしたら、田母神的「被害妄想史観」の人たちは、またせっせと新民会まで持ち出して、この臨時政府がいかに実態をもったかを汗だくで日本語Wikipediaに記述しなければならなかったところだ。今は次程度で済んでいる。http://ja.wikipedia.org/wiki/中華民国臨時政府_(北京) )


華北労働者の流入に躍起になる「満州国」

 前置きが長くなったが、この座談会は、華北(北支)を担当した帝国主義日本の担当者たちが、何もかも持って行ってしまう満州とその背後で収奪を強める日本に対して怨みつらみを並べている、といった格好だ。長く冗長な座談会だが、中に「アヘン問題」も出てくる、それなりに面白い座談会だ。

 この中で、「満州国」の労働問題が取り上げられている。座談会は、1940年(昭和15年)、中国大陸で帝国主義日本は全面的な戦争状態に入り、満州国は、その後方兵站基地の役割を果たす。満州国における労働力が絶対的な不足していたころだ。話題は華北地方から労働者をいかにして導入するかという問題と華北地方でも生じていた労働力不足といかに折り合いをつけるか、という点に話が集まる。

 さてこの座談会から関係箇所を引用しておこう。
(座談会の出席者まで説明していると長くなるので、出席者については参考資料「満州日日新聞 座談会 「北支と満州の経済関係」 1940年」の註を参照されたい。)

愛知 例えて申しますと判然とした数字は持って来ませんでしたが、昨年中において北支は満洲国に対して資金的に年一億円以上の受取り超過となっていると思われるのであります。
本来北支としては受取超過は非常に喜ぶべき事ではありますが現在北支としての受取超過の内容たるや円の資金だけであって、これが巨額であっても自由に外国の物が買えないのは勿論、日満からの物資の輸入もなかなか楽には出来ないという実情であります。
つまり北支が日満に非常に貢献をしたということがいえると同時に物をどんどん日満に差上げても代りに物資が貰えないで北支としては物が不足し物価騰貴その他の非常なる負担を負っているという訳であります。
(*日本が満州を収奪し、その満州が華北を収奪するという構造が浮かび上がってくる・・・。)
それで私は端的に満洲国との関係で私の現在持っている一つの問題をお話しますと、例えば苦力の問題であります。山東その他から苦力(*苦力という言葉はその侮蔑的響きが嫌われて、この頃には「労工」という言い方がされていたはずだが、愛知はなおも「苦力」といういいかたをしている。)が満洲国に非常な勢いで流れている、昨年中も九十何万ということであります。』

 なおこの「愛知」というのは、戦後、後の蔵相・外務大臣の愛知揆一のことである。

擬制を超えて一体だった満州・華北の経済

関連箇所の引用を続ける。

愛知 先刻押川さんからお話がありましたが、之は議論になって了(*しま)いますが持出す送金額が一人当り三十円という程度のことはないと思います。(*何故か押川の発言は記録されていない。)
河田 苦力の送金額は我々の銀行の窓口を見ますと、苦力の送金ばかりではない。大きな意味において郷里送金、親の代或は祖父さんの代に移民して此方に親戚なり、或いは本家を持っております、そういう者への送金も所謂苦力送金に含まれていますが。
愛知 それは先程も伺ったが例えば満洲で現在事業をやっております満洲国人というもののうち相当北支に本拠を持っている者もあるでしょう。(*愛知のいう満州国人とは擬制であった。大体満州国に戸籍法がない以上、法的にも満州国人を確定できない。)
河田 相当じゃない、殆ど全部ですよ
愛知 そうすると向うからの利潤その他の送金ということが非常に多くなると思います、またそういう事実がはっきり判れば、またそれで対策ははっきりする訳です。
河田 今と同じことを申しますが、郷里送金の方法といいますか何と言いますか、工人が直接に例えば奉天に出稼ぎに行って居る苦力が、山東省何県何村の親の家に金を送る時には、直接に私共の銀行を通じては出来ないから向うにある満洲の地場銀行が、天津の銀号に送って、その銀号が更にだんだんと地方的に関聯があるからいろいろな沢山な手を経て行くらしい、ですから為替調整の決済資金を我々の銀行を通じて満洲にある地場銀行から天津の銀号に送るというのが、この額が、昨年中大体七千万円になったのであります。』 

小沢 兎に角北支を大きく考えると満洲には労力が行き、資本は皆北支にやって来る、それは満洲が独立した外国だと思うから、北支だけの経済、満洲国だけの経済と吾々は考えているけれど支那人から見れば区別がないのです。
(* 満州評論・小沢開策の発言は当を得ている。満州国だの中華民国臨時政府だのといっても所詮、擬制である。経済は実は一体化しているのだ。中国人民からみれば、区別する意味がない。)
で、我々が北満を旅行して気がついたのは旧正月ですから殆ど商人の半数は此方に引上げて、最近は帰って行かないのです。特に巽(*これは明らかに冀の誤植)東地区(*河北省東部地区)、山東地区とが満洲の方から資本が返って来る根拠だろうと思います。この辺が事変で満洲も経済的にウンと膨張して金子が此方に流れて来る動機になっているのではないかと思います。だから満洲と北支を二つに考えないで満洲と北支は親子の関係のようで自由に両方に行ったり来たりしています。』


労働力不足が深刻化

下津春五郎は北京鉄路局長であり、鉄道で移動していた出稼ぎ労働者の状況をよく把握している。

下津 (判読不能)翌年また出て来るという訳で現地に残るものは二、三〇%で開発に当っていました。処が昭和十一、二三年満洲で労働統制をやり山海関、営口、大連に対して制限をしたため、最高は三十万乃至四十万に減少した。
当時私は新京で当局に「かかることは将来満洲が開発されても結局労働力の減少を来し、延いては開発に支障を来しはしないか」と提言したことがあるが、その当時制限の理由は、山東苦力の持って帰る金が多く、満洲の圧迫を受けるというのが最大原因であったように記憶しています。
それから数年後一昨年でしたか大連協会が提唱して建築或いは土木関係の仕事が出来ないから多少許して呉れと申し出た話を聞きましたが、そう殖えていないようです。
事実は色々潜入している者もあり大体五、六十万位でないかと思いますが−それで満洲は北支が期待する程な処まで開発の域に達していない、先程話の如く労働者は冬は百姓をするが、建築期或は農繁期になると百姓も忙がしいが、同時に土木建築も多忙になる、その結果百姓をやめて建築にとられる、百姓をやる労働者がなくなるという事になります。』

成沢 昨年は(*北支中心に)約九十万入満したが、その際、出来ることだろうが労働資源が枯渇しやしないかという事を耳にしたが、私はその点非常に楽観しています。事実昨年当初は緊張もし心配もしたがやって見ると各需要者側の努力に依り四月末迄に既に五十万、七月末で七十万入りました、従って本年も矢張り心配ないと思います。
小松 唯今の福田、成沢さんのお話によれば労働力は楽観されていられるようですが果してそう見ていいのでしょうか。
従来主として、山東苦力が入満したのですが、昨年は思う程行なっていないし、当然京漢沿線、津浦沿線から今年は出さねばならぬと考えるのですが、満洲、蒙疆の需要量は産業開発と共に激増し、之と併行して北支の開発も進展すれば相当北支自体必要とするでしょう。 』

 この小松というのは、満州日日新聞の記者である。満州・華北の労働者不足がこのころ深刻化し、満州・華北を一元化し、かき集めた労働者の配分をしなくてはならなくなっていた頃だ。特に「労働力」の供給源である華北地方では、華北交通会社(満鉄の子会社)の沿線の村々から労働力を絞り出さなくてはならなくなっているころだ。小松の心配はもっともである。現場の状況を余り知らぬ人たちは、労働力供給不足問題には比較的楽観的で、小松ほどの危機意識はない。小松の発言を続けよう。

小松 而も北支においては現在匪区地帯(*共産党支配地区)からは労働力は吸収出来ません。鉄道沿線にしたって、昨年の水害、或いは事変以来壮丁の死亡などにより減少しているのですから、強ち楽観ばかりは出来ないのではないでしょうか?

目下北支における労働力の源泉地は鉄道沿線に専らある訳ですが、幸い交通会社では愛路課があり労働資源の確保にも考慮されていると思いますがその対策について伊藤さんにお話を願いたいと思います。』


「点と線」の日本軍支配地域

これは、中国全体についていえることではあるが、当時帝国主義日本の支配地域は、都市と都市、及びそれを結ぶ鉄道・幹線道路の周辺だった。いわば支配地域は「点と線」だったのである。華北においても例外ではない。この小松の発言はそれを裏付けているわけだが、要するに、中国共産党支配地域(*広大な農村地帯)からの労働力をもってくることは事実上できない、日本軍支配地域の鉄道沿線からの労働力の「絞り出し」にも限界がくるのではないか、というのが小松の心配である。

 発言を振られた伊藤は、華北交通会社・資業局長・伊藤太郎のことである。華北交通会社は満鉄の子会社で、当時華北一帯の鉄道・運輸の独占事業体であった。その華北交通には、伊藤の資源局の下に「愛路鉄路課」がおかれていた。華北を支配していた支那方面軍は、中国共産党対策の一環として、華北交通鉄道線路沿線近くの村々をまとめて、自分の支配力の強い沿線各地に村を新たに作らせた。これが「愛護村」である。愛護村は当初の共産党対策としての目的の他に、「労働力の供給源」としての重要性を帯びるようになった。最初愛護村は支那方面軍が直接管理運営していたが、この頃になると、これは華北交通に移管されていた。だから、伊藤は「愛護村」管理監督の大元締めなのである。

伊藤 勿論愛路課では種々考慮している訳です。ところで私も労働力に対しては平素から疑点をもっている訳ですが−現状に於ては治安の維持も確立していないし又従来の儘の北支に於ける農業、鉱山その他資源、産業開発の関係は進展しておらず、従って満洲方面に相当送っているのですが、果してこれを以て楽観していいのでしょうか、逆に質問しますが。 』

 伊藤は現場の状況をよくわかっている。点と線では労働力の供給源を実は確保できていない。にもかかわらず支配地域の愛護村から無理して労働力を絞り出して満州に送っている。そのため華北の開発も思うように行かない、これで一体本当に大丈夫なのか、と率直に疑問を呈している。


帝国主義者の労働者観

 伊藤の後を受けて発言する成沢は、満洲労工協会・北京出張所長・成沢直亮である。満州労工協会は満州における労働者かき集め機関で、成沢はその供給地に送り込まれた現地指揮官といった格好だ。

成沢 北支自体では殖産工業の勃興を真先にする石炭、鉄鉱、鉄道、港湾、道路の修理、治水、運河、それから紡績とか製粉という様な方面に将来相当苦力を要する事は事実ですが、何も満洲国のように急激に勃興は出来ないのじゃないかと思います。
為替管理とか資材入手の困難から考えてですが、それから労働資源の方では北支の約三割が青年層であるとして、二千万河南を入れると、三千万位でしょう、而もこの農村の農民は大部分小貧農程度で約七割乃至八割を占めており、ここ数年来の天災水災、旱害、戦争に依り疲弊しており、現地で自分の土地を耕作しても暮して行けぬようになり、最近では益々深刻化しているように思います、従って労働資源の枯渇は心配しなくていいのではないですか。』

 小松、伊藤の悲観論に対して成沢は楽観論である。その根拠は、華北地方は「労働力の最大供給地である。」という一般論と、戦争や災害で、農村は疲弊している、だから落ち着いて農業のできる状況ではなく、どうしても出稼ぎにでなければならない、という論拠だ。

 成沢の一般論はその通りだが、それも日本軍が支配していてはじめて成り立つ一般論であり、農村地帯が次々に中国共産党支配地域に入っていけば、その一般論は成り立たない。

 それより見逃せないのは、この成沢の帝国主義者としての発想だ。なるほど華北には青年層が二千万、三千万も存在し、労働力の源泉なのかも知れない。しかし、その二千万、三千万の青年一人一人に、人生があり、可能性があり、妻や子や、恋人があり、両親兄弟があり、友人があり、夢があり、希望があったのである。そうした青年の夢や希望をできるだけ叶えてやるような仕組みを作るのが政治の役割ではないのか。

 しかし成沢には、こうした青年は、満州に送り込む「労働力」としか見えていない。こうして送り込まれた「満州国」とは、華北の青年たちにとっては「地獄」「監獄」以外のなにものでもなかったろう。

この成沢の労働者観は、2009年現在の経団連、御手洗某の労働者観と一直線につながっている。キヤノンU.S.A.にいた時の彼は決してこんな人間ではなかった・・・。)

 引用が長くなったが、1940年、満州における労働力は深刻な供給不足の様相を呈してきた。供給源は華北だが、その華北からの供給は大丈夫なのか、といった心配が出てき、この座談会の結論は多々疑問点はあるものの、まだまだ華北からの供給は十分できるという見通しとなった。ところがこの見通しは伊藤や小松の心配通り、大狂いに狂うのである。


(No.23-9(中)満州住民人口推定の試み へ)