No.23-9(中) 平成21年2月2日


田母神論文に見る岸信介の亡霊
その9 中国人労働者にとっては「地獄の満州国」
(中編)

満州住民人口推定の試み

昭和6年「文藝春秋」座談会

 それでは全く手がかりがないのかというとそうでもない。要するに満州の人口の増加部分は、華北を中心とした中国人労働者の「入満・離満」が大部分を占めているのだから、中国人労働者の「入満・離満」の推移を見てみるとわかりやすいのかも知れない。

 中国人歴史研究者の王紅艶は「満州における特殊工人に関する一考察」(上)はという論文の中で、中国人労働者「中国人労働者入離満数の年度別統計」<関連資料>を掲げている。(この論文の初出はわからないが、国立情報学研究所のCiNii<サイニイ><http://ci.nii.ac.jp/>で閲覧することができる。しかし有料コンテンツである。)

 この統計の検討に入る前に、ざっと華北労働者の中国東北地方への流入の歴史を概観しておこう。

 昭和6年(1931年)10月と言えば、満州事変のきっかけを作った柳条湖事件の翌月である。

 文藝春秋は10月号で「満蒙と我が特殊権益座談会」を開いている。
出席者は
建川美次(参謀本部第一部長陸軍少将)、
佐藤安之助(前代議士・陸軍少将)<http://www.purunus.com/index.php/佐藤安之助>、
高木陸郎(中日実業副総裁)(中日実業はいつかも引用したことのある渋沢栄一が総裁を務めた、対中国ビジネスの日本側総元締めである。浙江財閥と密接につながっていた。高木についてはよくわからないが、実業家としていろいろな資料に出てくる。戦後も軍国主義賛美者として活躍したようで、静岡県熱海市伊豆山にある興亜観音の境内には「七士之碑」が昭和35年―1960年に建立されたが、この「七士之碑」は高木陸郎の奔走によってできたものだそうだ。ちなみにこの「七士」は、「A級戦犯殉国刑死者」で松井石根、廣田弘毅、土肥原賢二、板垣征四郎、東条英機、木村兵太郎、武藤章のことだそうである。またこの時碑の揮毫をふるったのは例の『臣茂』だそうだ。http://www.geocities.jp/bane2161/kouakannon.htm )
森恪(この時は政友会代議士の肩書きで出席している)
中野正剛(この時の肩書きは民政党代議士)
大西斎(http://ja.wikipedia.org/wiki/大西斎(東京朝日新聞前支那部長。そういえば、この間「朝日新聞創刊130周年記念号」を見たけれど、戦後の記事ばかりで戦前軍部の提灯持ち記事は全然なかった。この大西が論説委員時代に書いた「支那側の対日態度にかんがみ、外務といはず、軍部といはず、はたまた朝野といはず、国策発動の大同的協力に向つて、その機運の促進と到来とをこの際日本のため痛切に希望せざるを得ない。」の有名な社説も当然掲載されていなかった。あれは朝日新聞創刊半分の、「65年周年記念号」だったのかしらん?)、
神川彦松(東京帝国大学助教授法学博士)<http://ja.wikipedia.org/wiki/神川彦松>、
司会は、戦後リベラリストのマントを上手に着こなした、商売上手な文藝春秋の重鎮、佐々木茂索<http://ja.wikipedia.org/wiki/佐佐木茂索>である。

 この座談会は、佐々木が上手に煽りながら、帝国主義者に勝手な気炎を上げさせ、軍国主義体制を文化面で準備していこうという露骨な企画意図をもったものだが、中で神川だけが一人冷静に、社会科学者の目で客観的な発言をする。 

 後で皆からよってたかって袋だたきに合い、サンドバッグ代わりにされるという大変失礼な趣向だ。

冷静な神川彦松の分析

 随分前置きが長くなったが、引用したいのはこの時の神川の発言である。中国東北部の状況について極めて簡潔に手際よくまとめている。ちょっと長くなり、また「満州の人口」というテーマからは若干逸脱するかも知れない。

・・・日露戦争は日本が勝って、朝鮮からロシアの勢力を逐い、さらに長駆してロシアが取ろうとしておった満州の一半を譲り受けることになった。

これをいろいろ愛国的な言葉で飾れば理由がありますが、要するに日本の古来重要視しておった朝鮮問題というものを解決してしまった。その外交問題政治問題を解決して、そうしてロシアと同じように、支那に向かっていわゆる帝国主義的活動をすることになった。

しかし実際日本が独力でなしたんではない。日英同盟また米国というような同情があってなしたことであります。従って日本だけで満州を思うように処分することは不可能、どうしたって他の帝国主義的な牽制というものを免れなかった。

世界大戦中(*第一次世界大戦)は帝国主義が一大飛躍する好時期であった。が、日本の活動は思うようにいかなかった。それは民族自決主義という旗印が風靡しておりましたから、日本は時代に逆行する活動というものはできなかった。従って二十一ヶ条、シベリア出兵は目的を達し得なかったことはやむを得ない。それで帝国主義的の活動というものが、世界大戦まで来てあれで形勢が一変したと申さなければなりません。』

 神川の話の途中であるが、これが昭和6年(1931年)時点での発言であることを考慮に入れなくても、学者としての神川の高い見識には驚かざるを得ない。2009年の今私が読んでも学ぶところが多い。2009年の今、ほとんど80年前の神川の現状認識(今からいえば歴史認識)をもった日本の市民がどれほど存在するだろうか?

神川の満州人口に対する認識

 神川の話をつづけよう。
 そうして旗印は民族自決主義、これが支那にも移ってきた。それから満州にも及んで局面は展開してきたのであります。

満州は清朝時代には愛新覚羅朝廷の私有地同様で他人入るべからずとの制札を建てられておりました。ところが清朝の末から禁制が緩みまして、漢人が入り、最近朝鮮人が入ってきましたが、そこへ日本人の満州経営というものが幸いしまして、戦後の今日は二千万、三千万近くとなりました。』

 当時(1931年=昭和6年)の常識でも満州の住民人口は2000万人は越えているが3000万人には達していないというものだったようだ。

日本人も二十年の経営を経てきて二十万人、朝鮮も百万人、外国人も数万人はおりますが、・・・民族的に申しますれば、漢人が圧倒的に優勢を占めておる。そうしますと満州は歴史的に支那の領土であり、民族的にもそうである。そこへ他国の帝国主義的活動、金融資本の活動を許すべからずとする打倒帝国主義的活動の活動が対立してくる。・・・』

 神川の話は興味深いのであるが、ここらへんにしておこう。この座談会は、『「文藝春秋」に見る昭和史』第1巻(私のテキストは1998年4月5日第8刷)のP85〜P107で読むことができる。

 神川の話をもう少し学術的な見地からアプローチした論文が、王紅艶の博士号取得申請論文『「満州国」の労工に関する史的研究:華北からの入満労工を中心に』であろう。これは王紅艶が一橋大学大学院時代に書いた論文で、本体400字詰め原稿用紙900枚、添付図表だけでも80点という代物である。審査要旨を見てみると、王の研究は当時日本側の資料ばかりでなく、最近になってようやく利用可能になった中国側一次資料も使い、また当時の労工から聞き取り調査も実施した網羅的・本格的研究だ、としている。

王紅艶の研究とその認識

私も本体自体まだ読んでみる機会がない。従ってここで引用するのは、その
論文の「要旨」である。(http://www.soc.hit-u.ac.jp/research/thesis/doctor/
?choice=summary&thesisID=44


・・・華北労工(*労工は当時の用語で一般労働者という程度の意味である。)の入満は長い歴史があり、清朝末期からすでに多くの人々が満州に入り、農業を行った。東清鉄道(*帝国主義ロシアが敷いた満州の鉄道網。その建設は19世紀末から始まっている。南満州鉄道も元はといえば東清鉄道の一支線である。若干不正確な記述だが以下<http://ja.wikipedia.org/wiki/東清鉄道>)の敷設の開始後、さらに入満ブームとなった。19世紀における華北からの入満者は後の華北からの入満の道を開いた。即ち多くの入満者が満州に定住し、一定の生活基盤を築いたため、家郷の家族、親戚、友人、隣人などの縁故者が華北の貧しい生活を捨て、先の入満者を訪ね、満州に向かったのである。』

 これがほぼ19世紀末までの満州の現状であった。つまりもともと清王朝の私有地で満州人以外入ることを許されなかった満州に、禁制が緩むと共に漢人が入植し始め、ロシアの鉄道建設と共に、労働力が必要になって、故郷での貧しい暮らしを捨て、爆発的に満州に人口が増えたのである。

 農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、(*1932年の満州国成立以後)、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。』

満州に流入する華北の中国人

 王紅艶を続けよう。
 20世紀に入ってから、列強各国の侵略、軍閥の混戦、匪賊の横行など多数の人的災害に加え、水害、旱魃などの自然災害が相俟って、人口の80%以上を占める農民の生活は極度の貧困、苦痛の状態に陥った。
満州に近い山東省、河北省を中心とする華北地区は、人口密度が高く、1920年代における直皖、直奉、北伐などの多くの戦争のため、また従来水害、旱魃、蝗の被害など自然災害が多いため、多数の農民が出稼ぎ、移民を選択せざるを得なかった。
一方、満州では東清鉄道の建設及び日露戦争後「満鉄」による鉄道建設に多数の労働力を必要とし、また鉄道の整備に伴い工場、鉱山、運輸、土建業などが発展し、労働力の需要が急増した。同時に華北の各鉄道は大幅に運賃を値下げし、労工の入満をさらに加速させた。』
(* 直皖は安直戦争ともいう。安徽派と直隷派の戦争。直奉は直隷派と奉天派の戦争。2回大規模なものがあった。北伐は第一次と第二次と2回あった。第一次北伐を除けばいずれも軍閥間の勢力争いの戦争。この他中小規模の軍閥間の戦争はしょっちゅうあった。)

 これが満州事変前の華北労働者の入満状況ではなかったろうか。以上をまとめると、かつて禁制の土地だった満州は、華北を中心とした、貧しい中国人にとって残されたフロンティアだった。そして農業を中心に開拓されていった。やがてロシアが満州を侵略し、その過程で鉄道が敷かれ、鉱山、工場、港湾、運輸設備はなどが整備されていき、それまでの農業労働中心の形態から、都市プロレタリアートなども生まれていった、ということになろうか。

満州国成立後の日本人流入

 一方、漢人(中国人)は、満州事変前には、日本人人口に較べれば、相当な人たちが流入し、また相当な人たちが流出していった。王紅艶は、「1923年から1931年までの間に年間平均64万人が入満し、離満者数は平均約35万人であった。」と前掲論文要旨で推測している。1年間で平均約30万人の増加であり、この間計約270万人の純増である。

 それでは、全時代を通じて、日本人はどれくらい満州にいたのであろうか?満州に居住していた日本人はすべて日本国籍をもっていたのだから、この総数を割り出すのは比較的簡単と思ったがそうでもない。

 インターネットレベルでもっとも信頼できる数字は、日本財団の「ディスカバー・ニッケイ」http://www.discovernikkei.org/ja/ではあるまいか?日系移民に関する専門サイトで学術的な研究も行っている。同サイトの「日本人移民者統計」http://www.discovernikkei.org/ja/resources/encyclopedia/Table_1_3_ja.pdfを見てみると、1942年(昭和17年)当時の「満州」(この満州の定義もなかなか難しいのであるが・・・。ここは熱河省なども含む「満州国」という理解をしておいて)の日本人人口は87万4,348人だったとしている。 この統計はパスポートに基づいているという。この統計の註に次のようにある。

 戦前の移民統計は外務省と拓務省により集められたもので、合法的に出国した「移民」に発行されたパスポート数に基づいている。ここで注意が必要なのは、アメリカ大陸、その他の目的地に移民以外のパスポートを用いて、またはパスポートを持たずに渡った人が多数存在していることである。これらの移民はここでは含まれていない。それゆえ、移民の実数はここに示されているよりかなり多くなるはずである。 』

 密入国日本人移民がどれほどいたかはわからない。しかし軍人を除けば、おおよそ100万人を越えない数だったろう。

 中華人民共和国在福岡総領事館のサイトhttp://www.chn-consulate-fukuoka.or.jp/jpn/xwdt/t259441.htmを見ると、『侵略の道具から友好の種へ 在留日本人送還60周年(1)』と題するコラムが設けてあり、「100万人を数える在留日本人は、主に中国東北地方に暮らし、日本による同地方への侵略政策と密接な関係を持っていた。」という記述が見え、上記推測を傍証する。


朝鮮人の流入状況

 それでは朝鮮人はどれくらいいたか?

 金沢大学の「人間社会環境研究」第15号(2008年3月号)に掲載された金仙花の論文「中国朝鮮族の法的地位について」によれば、中国にいた朝鮮人は、1945年時点で216万人に達していた、という。その多くは中国東北部に居住していたのであり、満州にいた朝鮮人は約200万人だったといっても大きく外れてはいまい。

 論文から関係したところを引用しておこう。

 封禁政策(*ここでは清朝の満州不入政策のことを言っている。)の廃止により、朝鮮農民の(*満州への)越境は容易になった。・・・「満州朝鮮人人口増加統計」によると、1910年満州朝鮮人人口は1万5,600人いた。しかし1931年には東北朝鮮人人口は約70万人に達した。』

 それでは、1931年の70万人から、1945年の200万人、約130万人の激増ぶりはどうしたのか?この論文は次のように説明する。
 1932年の「満州国」の成立以後、「日本の帝国主義の移民管理が朝鮮人を村の建設の補助金と農業資金で誘惑し、移民を促した。」(*中国少数民族教育史委員会編「中国少数民族教育史」1993年広東教育出版社 P470)
という。

 金による政策誘導で朝鮮人の満州流入を促した結果と、
 1938年の「鮮農管理綱要」基づいて、強制移民政策を実施した。・・・中国への朝鮮人移住は日本の「満州国」支配に付随した朝鮮人の計画的移民によるものであったと考えられる。』

 すなわち、満州における朝鮮人は、31年までは自然増による増加で70万人に達したが、32年から37年(昭和7年から昭和12年)までは、金で朝鮮人農民を満州に誘導し、38年(昭和13年)からは、強権を発動して朝鮮人を満州に移住させた結果、1945年時点で約200万人になったというのである。

 特に強制移住の開始は、満州経済5カ年計画のスタート、日中戦争の勃発、ソ連との満蒙国境緊化、太平洋戦争の勃発などで、満州が帝国主義日本の生産基地化し、絶対的な労働力不足に陥ったことと大いに関係しているとみなければならない。


45年満州国崩壊時の人口

 さてここで、考えてみたいことがある。1945年満州帝国崩壊の時の住民人口は一体どれくらいだったか、という問題である。

 1940年(昭和15年)の日本の内務省調査による「満州国」の住民数約3100万人という数字はほぼ実態に近かったと思われる。注意しておかねばならないことは、「満州国」は伝統的に中国東北部といわれる東三省、すなわち黒竜江省、吉林省、遼寧省よりも範囲が広かったということだ。即ち熱河省・興安省の2省が加わっているということだ。この両省は、今は行政区分にはなく、いずれも内モンゴル自治区に属している。すなわち内務省の統計でいう「満州国」とは現在の中国東北三省に内モンゴル自治区のほぼ半分を含んだ地域を指している。

 1931年(昭和6年)、文藝春秋の座談会で東京大学の神川彦松が満州の人口を「2000万人を超え3000万人になろうとしている。」といった時の満州は、伝統的な満州の地、つまり東三省を指していたはずである。

 それから、華北中国人の流入、朝鮮人の流入を考えてみると、それから9年後の1940年(昭和15年)3100万人だったという内務省の統計は、ほぼ実態に近いものとして信頼ができる。

 それでは、1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年)の間、「満州国」の住民人口はどれくらい増えたのか?

 まずわかりやすいところでいうと日本人。先ほど1945年時点の日本人人口を100万を超えないとしていた。42年(昭和17年)時点で約90万人とすることができるから、この間大ざっぱにいって10万人増えたことになる。

 日本からの満蒙農業移民は約27万人だったが、先ほどの「ディスカバー・ニッケイ」で引用した資料の註に満蒙農業移民約27万人は、実は42年時点の数字に含んでいるということだから、これはもう計算に入っている。

 朝鮮人は31年から45年までの15年間の増加が約130万人。38年から強制移住が始まっているから、40年から45年までの5年間の増加を全体の近くと見て約60万人。


決め手を握る中国人入離満数

 ここでも結局、満州に流入した華北を中心とした中国人の流入実増数が決め手を握ることになる。

 王紅艶がまとめた資料<関連資料> 中国人労働者入離満数の年度別統計を見てみると、1940年から1943年8月までの実増数は、約270万人であることがわかる。

 43年後半から45年までの華北労働者の流入はどうだったかというと、これはほとんど増えていないと考えられる。というのは華北地方(*当時事実上日本の帝国主義は華北地方も支配していた。)も独自の5カ年計画がスタートしており、危機的な労働力不足に陥っていく。これは、先に引用した満州日日新聞の座談会や論評記事で見たとおりである。

 1942年(昭和17年)には、満州国は「国民勤労奉公法」を出して、流入労働力をあてにしない体制を構築しようするが、そんな自分勝手な法律が、在満日本人に対してならいざ知らず、在満中国人に通用するわけはない。そこで1943年(昭和18年)には、強権的な「全民皆労体制」に移行していく。

 そして1945年の満州国「労務動員計画」合計220万人を見てみると、66%まで行政供出(緊急就労規則による)という満州国内での強制的な労務供出で賄い、16%を勤労奉公隊の自主的な労務提供で賄おうとせざるをえなかったのである。<関連資料> 中国人労働者入離満数の年度別統計中の<参考資料>1945年度「満州国」労務動員計画を参照のこと。

 この計画においてすら、華北労働者の流入見込みは5%しか見込むことはできず、実際には、満州から逃げ出す中国人労働者をいかに防ぐかという対策に終始するのである。

 そうすると1945年満州帝国崩壊時点での「満州国」の住民人口は、大ざっぱに言って40年の3100万人に日本人・朝鮮人・中国人の実質増、約340万人を足した数、すなわち3500万人足らずだったのではないか、という数字になる。


単純「田母神」に教え込んだ学者グループ

 確かに「満州国の住民人口」を確定していく作業はむつかしい。その難しさの根源は、「満州国」が国家としての実態をもたない擬制国家であり、「国民」が確定できない、と言う点にあったわけだ。

 にもかかわらず田母神は「満州帝国の人口は1932年には3000万人、45年には5000万人」と断定しているのである。

 この数字を田母神は一体どこからもってきたのか?

 田母神自身が独自に研究した痕跡はまったくないから、田母神にこの数字を教え込んだ、恐らくは被害妄想史観の学者グループが背後に存在する、ということになる。

 そうすると問題は、この学者グループは一体この数字をどこからもってきたのか、という問題に置き換わる。

 一つの推測だが。当時軍国主義日本政府は満州国の将来についていろいろな計画をもっていた、その学者グループはそうした資料を見ながら、あたかも実際当時その計画通りであったかのように見せかけているのではないか、という推測が十分成り立つ。

 これは全く私の当てずっぽうなのではなく、傍証がある。

 1936年(昭和11年)時の広田弘毅内閣は「満州開拓移民推進計画」を閣議決定し、1936年から1956年の20年間の間に500万人の日本人の移住を計画、推進した。実際送り込むことができたのは30万人足らずであった。1944年(昭和19年)になると、肝心の海上制海権を失っており、船で中国に渡ること自体が困難になるのである。

 この計画では「500万人の日本人を送り込めば、満州全体人口の約10%を日本人が占めることになる。」という目論見がつけられている。すなわち満州の将来人口は5000万人と計画されていたのである。

 この学者グループはこうした計画人口を、「事実」のように田母神に吹き込んだと推測されるのである。しかも田母神はその論文の中で、この数字を、

 満州の人口は何故爆発的に増えたのか。それは満州が豊かで治安が良かったからである。侵略といわれるような行為が行われるところに人が集まるわけがない。農業以外にほとんど産業がなかった満州の荒野は、わずか15年の間に日本政府によって活力ある工業国家に生まれ変わった。』

 と「満州国」が、あたかも日本の帝国主義が、満州を近代的な国家に変えたかのような印象を与える文章の根拠として使っているのである。満州の人口が満州国成立後、爆発的に増えたのかどうかはこれまで数字としては検討してきた。それはウソであった。それも臆面もない大ウソであった。


「正当性」を刷り込もうとしている学者グループ

 今ここでの問題点は、こうした学者グループが、単純幼稚な田母神を使って、「大東亜共栄圏」の虚構を、今21世紀の日本の中で、あたかもそれが歴史的事実であったかのように、社会の中に刷り込もうとしていることだ。狙いがどこにあるかはこれから、追々明らかになるであろう。

 今ここで指摘しておきたいことは、この学者グループのターゲットは、田母神レベルの単純幼稚な、21世紀の日本人層にあるということだ。

 現在の日本人は、全体として決して愚かとは云えない。市民社会の進展とともに、かなり賢くなってきている。しかしこと歴史問題に関して言えば、その大層は無知だ。この学者グループは、その無知につけ込んで、田母神を使って誤った歴史観(被害妄想史観)を21世紀の日本人に刷り込もうとしている。

 田母神は恐らく1回こっきりの使い捨てだろう。私が田母神を道化者と呼ぶゆえんである。

 この稿の冒頭のところで、日本語Wikipediaの「満州国の人口」を取り上げその変梃さを検討したことを思い出して欲しい。あの日本語Wikipedeaの執筆陣の書き方と資料引用の手法、田母神の主張とその手法は、よく似ているではないか? 本当ではないことを、本当らしく見せかける手口である。

(* もっとも田母神の場合は本当らしく見せかけることすらできないが。)

 この「満州国の人口」を書いた人間は、同じ学者グループの誰かであろうことは恐らく推測以上のものがあろう。

 彼らは日本人の頭に刷り込もうとしている。あの戦争は「正当だった。」「正しかった」と。

 田母神の「満州帝国の人口は5000万人だった。」という記述をめぐって、ここまでやってきた。そしてその背景に、田母神を操る学者グループが恐らく存在するだろうことを推測した。

 しかし問題はそれでは終わらない。

 本当の問題は、日中戦争勃発後、華北から流入した中国人労働者の数字にあるのではなく、その流入の中身にあるのだ。その中身こそ、帝国主義日本の満州支配の実態を暴き立てるものなのである。


(No.23-9(下)中国人労働者にとって「地獄」「墓場」と化した「満州国」 へ)