(2009.5.13)
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<参考資料> 外交問題評議会
(Council on Foreign Relations―CFR) その1 |
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外交問題評議会 |
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外交問題評議会(*日本語Wikiによると「外交関係評議会」と日本語表記されることもあるという。)はアメリカの超党派による(*nonpartisan)外交政策のための会員制機関である。1921年(*大正10年)に設立され、本部をニューヨーク市東68丁目58番地(パーク・アベニューに面している。)におく。またワシントンDCにも事務所をもっている。
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どうでもいいことである。この記述によれば、外交問題評議会はマンハッタンのど真ん中にある。マンハッタンは、最南端の一部を除いて、ほぼ碁盤の目のように道路が南北東西に走っている。マンハッタンでは南北にまっすぐ走る道路をアベニュー=Avenueと呼び、東西に走る道をストリート=streetと呼んでいる。有名なブロードウエイ=Broadwayは、例外的にほぼ斜めに走っている。マンハッタンの中央部をほぼ南北に走っている道がフィフス・アベニューである。フィフス・アベニュー=5番街を中心にして東側がイースト=East、西側がウエスト=Westであり、5番街を中心にして東西に順に番地がつけられている。現地の日本人社会では、アベニューを“番街”、ストリートを“丁目”と呼び習わしている。だから外交問題評議会の住所が東68丁目の58番地にある、ときけば、ああパーク・アベニューに面しているのだろうな、とおおよそ見当がつく。パーク・アベニューの42丁目から65丁目くらいまでは、ある意味アメリカの頭脳と権力の中枢である。名だたる機関の事務所がずらりとならぶ。たとえばニューヨーク日本総領事館も48丁目と49丁目の間のパーク・アベニューのビルにあるし、外国の要人が宿泊することで有名なウォルドルフ・アストリア・ホテルも、日本総領事館のすぐ近くのパーク・アベニューにある。権力の所在が二重、三重構造になっている「帝国アメリカ」を象徴するのが、パーク・アベニューのこの地域である。) |
国際的なジャーナリストやアメリカの伝統的な保守主義者(paleoconservatives)の中には、国際問題評議会はアメリカの外交政策にもっとも影響力のある民間機関であるという人もいる。国際問題評議会は、隔月刊でジャーナル、「フォーリン・アフェアーズ」を発行している。広範な話題を持つウェブサイトももっており、そのシンクタンクへのリンクを特徴としている。 |
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外交問題評議会の使命 |
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評議会のミッションは、世界にアメリカの役割と外交政策の理解を促進することにある。アメリカ政府高官、世界のリーダーや著名な人々が、主要な外交問題について討論するような会議が招集されている。国際問題について著名な研究者を雇用したシンクタンクを有しており、そうしたシンクタンクに研究の結果として生ずる本や報告書の発行の権利を与えている。評議会の中心的な目的は、「次世代の外交政策のリーダーたちを発掘し、育てること。」と述べている。1995年、政策討議を活発化するため、「独立タスクフォース」(Independent Task Force)を創設した。この独立タスクフォースは異なる専門性やバックグラウンドをもった多様な専門家で構成され、重要な問題に関し政策提言を行うべく合意形成を模索している。最近、評議会は50回以上の会合を持っている。
「デビッド・ロックフェラー研究プログラム」(The David Rockefeller Studies Program)は内部シンクタンクであり、研究員を指定している。研究員たちの諸計画は現在進行形で討議されている外交政策の目標に対して統合的に配置されている、と形容できよう。
評議会の当初、共同創立者のエリヒュー・ルート(Elihu Root)は、グループの使命について、その機関誌「フォーリン・アフェアーズ」で、アメリカの輿論を「導く」べきであると要約している。1970年代の初めごろ、評議会はその使命を変更、むしろ「輿論」に対して知らしめるべき、とした。
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デビッド・ロックフェラー。David Rockefeller, Sr. 1915年生まれ。ロックフェラー一族の当主。石油王ジョン・D・ロックフェラーの孫のうち唯一の生存者。ロックフェラー財閥の総帥。なお外交問題評議会の名誉会長。元チェース・マンハッタン銀行の会長兼頭取。もうなんといっていいか分からない。
英語Wikipedia<http://en.wikipedia.org/wiki/David_Rockefeller>もいろいろ書いているが、もうなんと言っていいか分からない状態である。いまから30年以上も前になるが、デビッドはチェース・マンハッタン銀行の頭取だった。仕事でチェース・マンハッタン銀行東京支店のある調査役に取材にいった。たまたま近々デビッドが東京にくるということで、支店中が大騒ぎだった。まるで「神様」か、日本風にいうなら天皇がやってくるみたいな雰囲気だったのを思い出す。確か日本から中国へ行った、と記憶している。) |
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早期の歴史 |
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評議会は、その最も早い起源を、「ジ・インクワイヤリー」(The Inquiry)と呼ばれる研究者集団に求めることができる。約150名の研究者のグループで、ドイツが敗北した後の戦後世界で、ウッドロー・ウイルソン大統領が取り得る選択肢に関し、大統領に説明することをその仕事としていた。1917年から1918年にかけて、この学術集団はニューヨーク市のブロードウエィと155丁目の角にある「ハロルド・プラット・ハウス」に集まって、戦後世界の戦略について討論した。この中には、ウイルソンの最も近しい友人でありアドバイザーであったエドワード・M・ハウス大佐やウォルター・リップマンなども含まれていた。
このチームは、和平会談(*これは1919年のパリ講和会議のこと)においてウイルソンにとって有益だと思われる世界的な政治、経済、社会事実に関する分析や詳述した文書を2000点以上も作成した。これら報告書は、戦争終結後のウイルソンの平和戦略の骨格を示した「14ヶ条の原則」(*Fourteen Points)の基盤を形成した。
これら研究者たちは1919年、パリ講和会議に同行した。1919年は第一次世界大戦が終結した年である。イギリスの小さなグループとアメリカの外交官や研究者たちがマジェスティック・ホテルで会合をもったのは1919年5月30日のことだった。この時アメリカの評議会とそのイギリスにおける連携機関である、ロンドンのチャタム・ハウスが生まれたのである。2つの組織のもともとの意図は関連していたものの、それぞれ独立した組織体となった。しかし非公式には密接なつながりを持つことになった。
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チャタム・ハウス<the Chatham House>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Chatham_house>
または<http://ja.wikipedia.org/wiki/王立国際問題研究所>
正式な名称は、「Royal Institute of International Affairs」である。日本語Wikiによると王立国際問題研究所と訳されているが、あくまで非政府系、非営利の団体である。チャタム・ハウスと呼ばれるのは、その所在地の名前をとったもの。非アメリカ系の、国際政治問題に関するシンクタンクとしては世界一とされている。国際問題評議会のイギリス版と思えば間違いない。ここで重要なことは、アメリカの国際問題評議会はその誕生のいきさつから、米英中心の世界戦略、スティムソンがその論文でよく遣う言葉でいえば、「アングロ・アメリカン・ブロック」のための世界戦略を構築するシンクタンクである、という点だ。) |
この会合に出席した中から、エドワード・ハウスと分かれるものが出てきた。その中には以下のメンバーが含まれている。
ポール・ウォーバーグ。
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<Paul Warburg>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Warburg>
1868年生。ドイツ系ユダヤ人(アメリカ市民)の銀行家。連邦準備システムの提唱者。ニューヨークの投資会社クーン・ローブの創始者、ソロモン・ローブの娘と結婚。ウェルス・ファーゴ社の取締役の後、1914年連邦準備制度の理事に就任。1921年外交問題評議会が創設された時の創始者の一人。マンハッタン銀行の頭取も務める。) |
ハーバート・フーバー
ハロルド・テンパーリー
ライオネル・カーティス
ユースタス・パーシー
クリスチャン・ハーター
ジェームス・トムソン・ショットウェル
アーチボルト・ケアリー・クーリッジ
チェールス・シーモア
1938年、彼らはアメリカ中で国際問題に関する様々な委員会を作った。これらは後にワシントンDCのアメリカ国際問題委員会(*the American Committees on Foreign Relations)に統括されていく。
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組織について |
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外交問題評議会はその当初から、超党派であり、共和党、民主党のメンバー双方とも歓迎した。またユダヤ人、アフリカ系アメリカ人もメンバーとして歓迎した。一方女性ははじめの頃はメンバーから排除された。こうした動きはほとんど世界的であり、私的なものであり、また秘密裏に行われていた。最初から、国務省やその他の政府の高官たちの名簿と、評議会のメンバーの名簿が重なっていたため、評議会はアメリカ政府の外交政策に大きな影響力を持つと見なされた。このように、評議会は論議の的になってきた。外交問題評議会に関する2人の批評家、ローレンス・シャープとウイリアム・ミンスターの研究によると、1945年から1972年の間での全ての政府高官のうち502名が、評議会のメンバーだった。これは同時期評議会メンバーの半数以上だった。
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ローレンス・シャープ<Laurence Shoup>とウイリアム・ミンスター<William Minster>は、共著で外交問題評議会に関する「The Imperial Brain Trust」という本を書いている。) |
今日外交問題評議会のメンバーは、5年メンバーを含めて約4300人いる。上級職に就いた政治家たち、1ダース以上の国務長官、元国家安全委員会の高官たち、銀行家、法律家、元CIAの高官たち、教授たち、マスメディアの有力者たちなどが含まれている。しかし、民間機関として、国際問題評議会(=CFR。以下同じ)は、アメリカの外交政策立案に関わる公式な機関ではないことを、そのWebサイトを通じて表明している。
1962年、選抜された空軍の高官が研究者と共に、ハロルド・プラット・ハウスに集まりある研究をするグループが発足した。陸軍、海軍、海兵隊も彼らの幹部のために同様の計画をスタートさせる必要に迫られていた。ベトナムがそのような裂け目を組織の中に作ったのである。1970年、45年間も“フォーリン・アフェアーズ”の舵取り役を務めたハミルトン・フィッシュ・アームストロングが、引退を発表した時、新たに評議会会長に就任していた、デビッド・ロックフェラーは、ロックフェラー家の友人でもあるウイリアム・バンディをアームストロングの後任に指名した。評議会内の“戦争反対”主唱者たちは、この人事に抗議の声を上げた。タカ派としてのバンディの、国務省、国防総省、CIAにおける過去の記録は、バンディが“フォーリン・アフェアーズ”誌の独立性を乗っ取る前奏曲だというのがその理由だった。あるものは、バンディはその以前の行為から戦争犯罪人だと見なすものもいた。
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ハミルトン・フィッシュ・アームストロング<Hamilton Fish Armstrong>
<http://en.wikipedia.org/wiki/Hamilton_Fish_Armstrong>
1893年生。アメリカの外交家、編集者。もともとジャーナリストだったが、1922年、アーチボルト・ケアリー・クーリッジとともにファオーリン・アフェアーズの編集主幹となる。1928年クーリッジが死去すると、アームストロングは編集長に就任、以後72年に実際に引退するまで、編集長を務めた。 |
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ウイリアム・バンディ<William Bundy>
<http://en.wikipedia.org/wiki/William_Bundy>
1911年生。アメリカの高級官僚。というより有名なバンディ兄弟の長兄。父親のハーベイ・バンディは、陸軍長官だったヘンリー・スティムソンの有能な補佐官だった。弟のマクジョージ・バンディは、スティムソンが47年に発表した有名な論文「原爆使用の決断」の実質的なゴースト・ライターだったと見なされている。ウイリアムはCIAを振り出しに官僚としてスタートし、ケネディ、ジョンソン時代のベトナム戦争を実質的に指導した人物の一人と考えられている。この記事でウイリアムが“戦争犯罪人”と見なす人たちがいた、といっているのはベトナム戦争時代のことを指していると思われる。) |
7人のアメリカ大統領が、外交問題評議会で演説し、うち2人、すなわちビル・クリントンとジョージ・ウォーカー・ブッシュの2人は大統領就任中に演説している。
ジャーナリストのジェセフ・クラフトは、彼自身外交問題評議会とトリラテラル委員会の元メンバーだが、評議会は「C・ライト・ミルズが“パワー・エリート”、表舞台から身を隠し、脆弱な地位から問題に鋭く切り込み、同じ利益を共有し、同じような外観をもっている人たちのグループ、と呼んだ機構にもっとも近い。」といっている。
経済学者のジョン・ケネス・ガルブレイスは、1970年にメンバーを辞任した。その時彼は評議会の企業活動部会(Corporate Services)で、経済界のトップたちと1年に2回会合を開き、オフレコで政府の高官たちが政策説明をしていることを、反対理由に挙げた。評議会は、もともと公共セクターと共有することのない政府の政策立案書類のための受け皿を目指しているのではないと、いった。またメンバーでもある政府の高官たちにそうすることを鼓舞することもない、ともいった。評議会によると、本部の中での討論が秘密であるのは、秘密の情報について討論したり、共有するためではなく、新しい考え方を他のメンバーと共にテストする機構のためだ、という。
アーサー・M・シュレジンジャー・ジュニアはケネディ政権のことを書いた本、「1000日」の中で、ケネディは「ニューヨーク・エスタブリッシュメント」の一員ではなかったとした上で、次のように書いている。
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特に彼は(*ケネディは)ニューヨークの法曹界や金融界に知己をほとんど持たなかった。――ニューヨークの法曹界や金融界は、常にオーソドックスで安定した人材を供給しており、またしばしば共和党といわず民主党といわず、政権に人材を送り込む才能の兵器庫だった。この社会(*community)は、アメリカの支配層(establishment)の心臓部だった。その手持ちの神々(deities)は、ヘンリー・スティムソンでありエリヒュー・ルートだった。その現在のリーダーたちは、ロバート・ロベットやジョン・J・マクロイである。その最前線に立つ機関は、ロックフェラー財団、フォード財団やカーネギー財団、外交問題評議会であり、彼らの機関誌は、ニューヨーク・タイムスであり、フォーリン・アフェアーズである。』 |
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モルガンとロックフェラーの関与 |
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パリ講和会議から戻ったアメリカ人のグループは、ニューヨークの金融家と国際的法律家からなるグループで、すでに1918年6月に組織されていたのだが、ニューヨークの控えめな、あるクラブに引きこもった。このグループは、J・P・モルガンの弁護士でもあった、エリヒュー・ルートをリーダーとしていたが、自らを「国際問題評議会」と呼んだ。そして1921年(=大正10年)7月29日に正式に評議会が設立された。エリヒュー・ルートをトップとし、地理学者のイザヤ・ボーマンとジョン・W・デイビスが創立時理事(Director)で、デイビスが理事長(*President)になった。この時の創立メンバーは108人だった。デイビスは、J.P.モルガン商会(J. P. Morgan & Co.)の主席顧問であり、ウイルソン政権の前国訴務長官(Solicitor General)だった。デイビスはまた1924年の大統領選挙に民主党候補として出馬する。
創立時のメンバーには、ジョン・フォスター・ダレス、ハーバート・H・リーマン、ヘンリー・ルイス・スティムソン、アベレル・ハリマン、アイビー・リー、ポール・ウォーバーグ(=前出)、オットー・カーンなどがいた。
当初、外交問題評議会は、モルガンと利益関係を持つ人々との強いつながりがあった。法律家のポール・クラバスなどがそうである。クラバスのニューヨークの法律事務所(後にカラバス・スウエイン・アンド・ムーア法律事務所と名付けられる)はモルガンの仕事を代表していた。またモルガンのパートナーの一人、ラッセル・コーネル・レフィングウエルは、のちに評議会の会長になる。評議会の財政委員会委員長アレキサンダー・ヘンフィルは、モルガン・ギャランティ・トラストの会長でもあった。ニューヨーク・イブニング・ポスト紙の編集長だった経済学者のエドウィン・F・ゲイは、評議会のセクレタリー兼トレジャラーだったが、そのニューヨーク・イブニング・ポスト紙はモルガンのパートナーであるトーマス・L・ラモントが所有していた。このほかにモルガンと密接に関係をもっていたメンバーをあげると、元国務次官のフランク・L・ポークはJ.P.モルガン商会の弁護士だったし、元ウイルソン政権の国務次官だったノーマン・H・デイビスは、モルガン家の銀行業務担当役員だった。しかしながら時が経つにつれ、冷酷にも権力の中心はロックフェラー家へと移っていった。ポール・クラバスの法律事務所は、またロックフェラー家をも代理していた。エドウィン・ゲイは、季刊雑誌「フォーリン・アフェアーズ」の創刊を提案した。彼はアーチボルト・ケアリー・クーリッジを初代編集長に、そしてニュートーク・イブニング・ポストの記者だったハミルトン・フィシュ・アームストロングを編集長補に推した。クーリッジは評議の執行理事を兼任した。
最初のうちだけだったが、ジョン・D・ロックフェラー・ジュニアも定期的な寄贈者になって、毎年寄付をしたし、彼の会社も東65丁目にある評議会本部に多額の寄付金を送った。1944年、スタンダード石油の重役だったハロルド・I・プラットの未亡人は、パーク・アベニューと68丁目の角にあったプラット家の4階建ての邸宅を評議会に寄付した。これが現在も「ハロルド・プラット・ハウス」として評議会の本部建物となっている。
ロックフェラーの息子たちも何人かは、その年齢になると評議会に参加した。1949年にデビッドが理事に就任した時、彼は最年少の理事となった。(*デビッドは1915年生まれだから、30代半ばで評議会理事となったことになる。)その後1970年から1985年まで評議会会長を務め、現在彼は名誉会長である。1940年、彼が兄弟とともに設立した代表的な慈善団体、ロックフェラー・ブラザース財団はずっと評議会に、1953年から少なくとも1980年まで、資金援助をしている。
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ここは英語としておかしな表現の仕方をしている。資金援助は1953年から少なくとも1980年までといいながら、資金援助している、のところはちゃんと現在完了形になっている。つまり過去のことを言っていなくて、現在も続いているとしか読めない。英文法上の誤りなのか、それとも別なことを言いたいのか、私にはわからない。) |
外部からの資金援助のもう一つの柱は「企業セクター」である。1920年代、26社に及ぶ企業が評議会に資金援助を提供していた。評議会の支配的エリートの中の学者や研究者の極めて重要な討論審議に、こうした企業の業務上の関心事を注入する機会を掴むことも同時に行われた。それに加えて、1937年カーネギー財団が資金を投入した。これによって、評議会は活動範囲を広げ、全米の8都市でその元の形を消し去る形で、同じ機構を構築していった。
第二次世界大戦後、ジョン・J・マクロイ(*前出)は、評議会にとって最も影響力のある人物の一人となった。また彼はモルガン・グループ(the Morgans)とロックフェラー・グループ(the Rockefellers)の両方にコネクションがあった。第二次世界大戦中は、陸軍長官ヘンリー・スティムソン(彼はまたJ.P.モルガンの弁護士だったが)の補佐官として、マクロイは重要なアメリカの戦争政策を統括した。マクロイの義理の兄弟にあたるジョン・ジンサー(*John Zinsser。この人物についてはよく分からない。マクロイの妻、エレンの兄弟にあたることは間違いない。)は戦争の間、J.P.モルガン商会の取締役の一人だった。戦後マクロイはニューヨークの法律事務所、ミルバンク・トュイード・ホープ・ハドリー・アンド・マクロイに参加しパートナーの一人となる。その法律事務所は長い間、ロックフェラー家とチェース・マンハッタン銀行の法律顧問を務めていた。マクロイはチェース・マンハッタン銀行の会長に就任し、ロックフェラー財団の理事を務め、1953年から1970年の間、外交問題評議会理事会会長を務めている。ハリー・S・トルーマン大統領は、世界銀行グループの総裁に任命し、また駐ドイツ高等弁務官にも任命している。また、ケネディ大統領の軍縮担当の特別補佐官やキューバ危機の時の特別委員会の委員長も務めた。彼は戦後のアメリカの外交政策にもっとも大きな影響を与えた人物といわれている。マクロイの義理の兄弟、ルイス・W・ダグラスも外交問題評議会の理事を務め、またロックフェラー財団のトラスティの一人だった。トルーマンはダグラスをイギリス大使に任命している。
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外交政策における影響 |
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1939年(*昭和14年)から続く5年間の間、評議会は政府と国務省にその名を広めていった。完全な秘密厳守の「戦争と平和研究」(War and Peace Studies)のためだった。これは100%ロックフェラー財団の資金で行われた研究である。このグループを取り巻く秘密性は、たとえばその当時663名いたメンバーでも全く議論されず、研究グループの存在自体も全く知らされていないほどだった。その研究は4つの機能的テーマ・グループに分かれていた。すなわち「金融と経済」「安全保障と軍備」「領土」「政治」である。「安全保障と軍備」グループはアレン・ウエルシュ・ダレスを長としていたが、彼は後にCIAとなる前身組織のOSSの肝心要を握る人物となる。そのグループは最終的に国務省に対して682点のメモランダムを作成するのだが、完全秘密とされ、政権内部の適切な人物にだけ回された。歴史的に見て、その当時の政府の計画に対してどれほど全体的影響を与えたかは、まだ評価が定まっていない、といわれている。
1947年フォーリン・アフェアーズ誌に「ソヴィエトの行動の源泉 」(The Sources of Soviet Conduct)」と題する無署名論文が掲載された。外交問題評議会の研究グループのメンバーであったジョージ・ケナンが「封じ込め」(*containment)という言葉を創り出した論文でもある。この論文はその後7代にわたるアメリカの大統領政権の外交政策に大きな影響を及ぼした論文であるということができよう。40年後、ケナンはソ連がアメリカを物理的に攻撃できるという理由でソ連を封じ込めるといったつもりはない、それは論文の中であまりにも明らかで、説明の必要もないと思った、と説明している。ウィリアム・バンディはNATO及びマーシャル・プランの考え方の枠組み作りで、外交問題評議会の研究グループの果たした役割を大きく評価している。
グループへの新たな関心のために、メンバーは1000人へと大きくなっていった。
ドワイト・D・アイゼンハワーはコロンビア大学の学長の時、外交問題評議会の、ある委員会の委員長をしていた。あるメンバーは後に次のように言っている。アイゼンハワー将軍がいかに経済学について詳しかろうと、彼は研究グループの会合でそれを学んだんだ。」この研究グループは、「アイゼンハワーのためのアメリカ人」という名前の拡大研究グループを創出し、大統領へのチャンスを膨らませた。アイゼンハワーは後に、外交問題評議会の上位メンバーを彼の政権の閣僚メンバーに引っ張った。彼自身がまずメンバーである。彼の主要な外交問題評議会メンバー人事は、国務長官ジョン・フォスター・ダレスだろう。スタンダード石油会社の顧問弁護士として、またロックフェラー財団の長きにわたる理事会理事として、ダレスは評議会にもロックフェラー・グループにも強い結びつきを持っていた。ダレスは、「ハロルド・プラット・ハウス」において演説をし、その中でアイゼンハワー政権の新しい外交政策を発表した。
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共産主義者の世界の強大な領域の力を単独で封じ込める局地防禦は単独では存在し得ない。局地防禦は、大量の報復力に裏打ちされた、さらなる抑止力によって補強されなければならない。』 |
この演説の後、評議会は「核兵器と外交政策」(*Nuclear Weapon and Foreign Policy)と題するセッションを開催した。そしてそのセッションの議長にヘンリー・キッシンジャーを選んだ。キッシンジャーは評議会本部でこのプロジェクトに関する学術的な仕事をその後数年続けるのである。1957年、このセッション名と同じタイトルの本がキッシンジャーの研究から出版された。一躍彼の名前は全米に知られ、本はベストセラーのトップリストに入ったのである。
1953年11月24日、ある研究者グループは、フランスとベトナムの共産主義者ホー・チミンの率いるベトミン軍との紛争に関する、社会科学者ウイリアム・ヘンダーソンからの報告を聞いた。この紛争は後に第一次インドシナ戦争として知られることになった。ヘンダーソンは、ホー・チミンの主たる理由はその本質からして、民族主義者としてなのであって、マルクス主義者としての理由は最近の革命にはほとんど関係ない、と主張した。さらにヘンダーソンの報告は、アメリカはホー・チミンと協働しうる、そしてホー・チミンを共産主義からとうざけられうる、と述べていた。
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ヘンダーソンの主張は全く正しいのであって、今日から見れば、ホー・チミン・ベトナムの課題は、民族独立・近代国家建設であった。ベトナムは社会主義移行の前に、今現在資本主義的な本源的蓄積を急いでいる。アメリカがホー・チミンを支援していたなら、ベトナムの社会主義体制化はもしあったとしても、ずっと遅れていたかも知れない。) |
しかし国務省の高官はベトナムへの直接介入に懐疑的であることを表明し、ヘンダーソンの考えはたなざらしとなった。20年以上もの間、アメリカは反共南ベトナムと同盟を組んでホー・チミンとその支持者を相手にベトナム戦争を戦うのである。
国際問題評議会は、「相互抑止」「軍備管理」「核不拡散」といった重要なアメリカの政策課題の「培養地」(breeding ground)として機能した。
1964年(*昭和39年)から1968年(*昭和43年)の間、米中関係について、4年間の長い研究が評議会内部で行われた。
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ちなみに昭和39年は東京オリンピックの年であり、日本がOECDに加盟した。オリンピック終了直後、池田勇人は退陣を表明し、佐藤栄作内閣が成立する。一方昭和43年は、「プラハの春」の年であり、佐藤首相は国会答弁で「非核三原則」を明言する。中国では文化大革命が絶頂を迎えようとしている時であった。) |
1966年、アメリカと中国の間は、政治家同士よりも市民同士でもっとオープンに話し合うべきだとする論文が発表された。キッシンジャーがフォーリン・アフェアーズに連続で発表したものだ。そして1969年、キッシンジャーはニクソン大統領に国家安全保証担当のアドバイザーに指名され、就任した。1971年、キッシンジャーは北京へ向けて秘密の旅を行い、中国対話の風穴を開けた。1972年、ニクソンは中国を訪問し、カーター政権の国務長官、サイラス・バンスの時に米中の外交関係が完全に正常化したのである。サイラス・バンスもまた評議会のメンバーであった。
1979年(*昭和54年)11月、外交問題評議会の会長、デビッド・ロックフェラーがある国際的事件に巻き込まれることになった。イランのシャー、ムハンマド・リーザ・パーレビーがリンパ腫の病院治療のため、アメリカに入国できるように、デビッドはキッシンジャー、J・J・マクロイやその他のロックフェラー側近たちと共に、国務省を通じてカーター大統領に働きかけたのだ。この行動が、「イラン人質事件」として知られる事件に発展していく。ロックフェラーは、彼の公的生活の中ではじめて、大量のメディア(特にニューヨーク・タイムス)からのしつこい監視下におかれることになった。 |
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(以下その2へ)
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(その1へ) |
(その2へ) |