(2009.7.17)

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<参考資料> 外交問題評議会 
 (Council on Foreign Relations―CFR) その5−1

外交問題評議会については註を参照のこと



外交問題評議会


最近の著名メンバー

エリン・バーネット (Erin Burnett)
CNBCニュースのアンカー。
<http://www.cnbc.com/id/15838220/?site=14081545>
または
<http://en.wikipedia.org/wiki/Erin_Burnett>
 
CNBCのサイトのバーネット紹介のコラムに「彼女は外交問題評議会のメンバー」と堂々と書いているのでまず間違いはなかろう。午後2時から3時帯のニュース・ショー「ストリート・サイン」("Street Signs")のアンカーである。ニューヨーク証券市場に関するレポートも行っている。もともとゴールドマン・サックスの証券アナリストだった。またそこで企業合併・買収も学んだ。CNNから記者のオファーがありCNNに移る。次にメディア担当の部長としてシティ・グループに招かれ、グループのビジネス情報ネットワークのアンカーを務めた。それからブルムバーグの金融情報番組のアンカーとして移籍、その後CNBCへ移った。


ティモシー・シュライバー (Timothy Shriver)
<http://en.wikipedia.org/wiki/Timothy_Shriver>または
<http://www.specialolympics.org/tim_shriver.aspx> 
スペシャル・オリンピックの公式サイトの紹介記事にメンバーとして紹介されているのでこれも間違いなかろう。スペシャルオリンピックス国際本部会長。スペシャルオリンピックスの創始者で、ジョン・F・ケネディの妹、ユニス・メアリー・ケネディ・シュライバー(Eunice Mary Kennedy Shriver)の息子として生まれた。障害児教育の研究家。彼自身も実績を残している。父親のサージェント・シュライバー(Sargent Shriver)は、政治家でフランス大使もつとめた。1972年の大統領選挙では、民主党の副大統領候補にもなった。


ルース・J・シモンズ (Ruth J. Simmons) 
第18代ブラウン大学学長。
<http://en.wikipedia.org/wiki/Ruth_J._Simmons> 
アイビーリーグ初の黒人学長。またブラウン大学初の女性学長。専門は比較文学とアフリカ文学。ブラウン大学の学長としては国際化を積極的に進めている。「研究面で最先端に立つとは、グローバルに同等な人たちと対話を交わすことである。」とは彼女の言葉。最近ダボス経済フォーラムに招かれた。テキサス・インスツルメンツとゴールドマン・サックスの取締役会のメンバーである。ファイザー製薬の取締役を10年にわたって務めてきたが、最近再任を望まない、と明言した。




過去の著名メンバー

出典は、外交問題評議会「理事と役員の歴史的名簿」である。
http://www.cfr.org/about/history/cfr/appendix.html> 
半角数字はそれぞれの役職の在任期間である。これまでの記述と重なる人物もあるが、ここでは新しい記述をおこなう。ただ、ここの登場する人物は優に100人を越える。こうした人々を一回の記述でまとめるのは無理があり、第一私にとっての資料的価値が薄れるので、分割することにした。分割の方法は、理事就任の年代でまとめる事にした。

【理事】<Directors>

@ 創立時メンバー 1921年就任

イザヤ・ボウマン (Isaiah Bowman)1921-50
<http://en.wikipedia.org/wiki/Isaiah_Bowman> 
1878年カナダ生まれ。1921年に外交問題評議会が設立されて、ボウマンが1950年に死去するまで、29年間理事の座を占めた。外交問題評議会を代表する人物の一人といって差し支えないだろう。ハーバード大学とイエール大学で地理学を教えた。ウッドロー・ウイルソンの有力顧問の一人。「戦争と平和」をテーマとした。

アーチボルト・ケアリー・クーリッジ (Archibald Cary Coolidge)1921-28
<http://en.wikipedia.org/wiki/Archibald_Cary_Coolidge> 
1866年生まれ。ハーバード大学の歴史学教授。外交問題評議会の機関誌「フォーリン・アフェアーズ」の初代編集長。当時外交問題の権威だった。1918年、ロシア革命の時、国務省から派遣されて、ロシアに行き、政治・経済・社会の状態について研究している。

ポール・D・クラバス (Paul D. Cravath)1921-40
<http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Cravath> 
1861年生まれ。アメリカで2番目に古く、また今日世界で最も格式が高いとれる法律事務所クラバス、スウエイン・アンド・ムーア(Cravath, Swaine & Moore)
<http://en.wikipedia.org/wiki/Cravath,_Swaine_%26_Moore>の創立時パートナーの一人。当時ミリオネアといわれた。外交問題評議会の創立メンバーの一人。

ジョン・W・デイビス (John W. Davis)1921-55
<http://en.wikipedia.org/wiki/John_W._Davis>または
<http://ja.wikipedia.org/wiki/ジョン・W・デイビス> 
1873年生まれ。アメリカの法律家。外交問題評議会の共同創立者の一人で、初代理事長。1955年死去するまで理事で、34年間つとめた。大統領ウィルソンのブレインの一人。駐英大使、下院議員、公訴務長官などもつとめた。私の読み間違いでなければ、英語Wiki、日本語Wikiとも充実した内容ながら、彼と外交問題評議会の関係については一言も触れていない。

ノーマン・H・デイビス (Norman H. Davis)1921-44
<http://www.woodrowwilsonhouse.org/timeline/ImageDisplay.
asp?ID=31>
または
<http://www.mtholyoke.edu/acad/intrel/interwar/davis2.htm>または
<http://www.time.com/time/covers/0,16641,19321212,00.html> 
1878年生まれ。第三代理事長。若い頃キューバで財産を作ったといわれている。大半を官僚として過ごしている。ウィルソン政権の時に財務長官補佐官、後に国務次官としてパリ講和会議に出席している。また1931年のジュネーブ軍縮会議にはアメリカ代表団の団長をつとめている。

スティーブン・P・デューガン (Stephen P. Duggan)1921-50
<http://www.interlingua.fi/iedprefx.htm#duggan>または
<http://www.iie.org/Content/NavigationMenu/About_IIE1/Mission_and_
Profile/History/History.htm >
または
<http://en.wikipedia.org/wiki/Stephen_P._Duggan> 
生年はわからなかった。ニューヨーク市立大学の歴史学の教授。やはり外交問題評議会の創立メンバーのエリヒュー・ルートなどと発展途上国の青年教育を目的に国際教育機関を創立し、1940年から50年まで理事長を務めている。他の創立メンバーの多くと同様、生涯理事だった。

ジョン・H・フィンリー (John H. Finley)1921-29
<http://www.picturehistory.com/product/id/15652>または
<http://schools.nyc.gov/schoolportals/05/m129/default.htm> 
1863年生まれ。40年になくなっているから生涯理事ではない。ジャーナリスト、教育家。29歳でイリノイ州のノックス・カレッジの学長になっている。
(ノックス・カレッジはこぢんまりしているが伝統のあるカレッジ。現在も学生数は1500人足らずであるが、外国人留学生が多く、日本研究コースもある。独特の校風を今も保っている。<Knox College:http://www.knox.edu/>)

後にニューヨーク市立大学の学長になる。ニューヨーク市には彼の名前をつけた公立学校もある。


エドウィン・M・ゲイ (Edwin F. Gay) 1921-45
<http://oasis.lib.harvard.edu/oasis/deliver/~hou01203>または
<http://en.wikipedia.org/wiki/Edwin_Francis_Gay> 
1867生まれ。アメリカの経済学者。ハーバード・ビジネス・スクールの初代学長。1920年から23年までニューヨーク・イブニング・ポスト紙の社長兼編集長を務めている。
英語Wikiの「外交問題評議会」の項目
<http://en.wikipedia.org/wiki/Council_on_Foreign_Relations>の中で次のように書いている。「エドウィン・ゲイは、季刊雑誌「フォーリン・アフェアーズ」の創刊を提案した。彼はアーチボルト・ケアリー・クーリッジを初代編集長に、そしてニュートーク・イブニング・ポストの記者だったハミルトン・フィシュ・アームストロングを編集長補に推した。」
<http://www.inaco.co.jp/isaac/shiryo/CFR/01.htm>)外交問題評議会の初代トレジャラー兼セクレタリー(Treasurer & Secretary)
(アメリカの法人の成立要件は州によっていろいろだが、例外なしに代表者以外に財務を扱うトレジャラーと事務を扱うセクレタリーの選任を要件としている。)

デビッド・F・ヒューストン (David F. Houston) 1921-27
<http://www.ustreas.gov/education/history/secretaries/dfhouston.
shtml>
または<http://en.wikipedia.org/wiki/David_F._Houston>または
<http://ja.wikipedia.org/wiki/デイヴィッド・ヒューストン>
 
1866年生まれ。ウッドロー・ウイルソン政権下で、第5代農務長官、第48代財務長官。もともとは農業政策の専門家。テキサス農業機械大学の学長を務めている。この大学は今はテキサスA&M大学となっている。アメリカ三大軍事大学の一つだ。彼が財務長官に就任したのは、彼の経済政策のためといわれる。第一次世界大戦後の世界にはインフレーションがやってくる、公定歩合を上げる、というのが彼の主張だった。しかし、実際にやってきたのは予想を上回る大不況だった。

オットー・カーン (Otto H. Kahn)1921-34
<http://www.h-net.org/~business/bhcweb/publications/BEHprint/v0
28n1/p0013-p0018.pdf>
または
<http://en.wikipedia.org/wiki/Otto_Hermann_Kahn> 
1867年生まれ。投資銀行家。ドイツで生まれてアメリカの市民権を獲得。アメリカ女性と結婚したが、その父親が、クーン・ローブ商会(Kuhn, Loeb & Co.
<http://en.wikipedia.org/wiki/Kuhn,_Loeb_%26_Co.>
のパートナーの一人、アデレイド・ウォルフだった関係で、同社に入社。その後投資銀行家として成功を収めた。

フランク・ポーク (Frank L. Polk) 1921-43
<http://www.flickr.com/photos/library_of_congress/3219725233/>または
<http://en.wikipedia.org/wiki/Frank_Polk>または
<http://en.wikipedia.org/wiki/Davis_Polk_%26_Wardwell> 
1871年生まれ。法律家・政治家。今も有名な法律事務所で知られる、デイビス・ポーク&ウォードウエル(Davis Polk & Wardwell)のパートナーの一人。同じくパートナーのデイビスは、外交問題評議会の創立メンバーであるジョン・デイビス(=既出)である。ポークは、ウィルソン政権下で国務長官代行、国務次官を務めた。

ホイットニー・シェパードソン (Whitney H. Shepardson)1921-66
<http://www.cfr.org/support/shepardson.html>または
http://en.wikipedia.org/wiki/Whitney_Shepardson>または
<http://www.faqs.org/cia/docs/125/0000429923/LETTER-TO-MR.
-DULLES-FROM-WHITNEY-H.-SHEPARDSON-RE-THE-PRESIDENT'S-
REPORT-FOR-T.html>
 
1890年生まれ。理事に就任したのが、外交問題評議会のできた1921年、死去する66年まで実に45年間理事を務めた。英語Wikiではビジネスマンとしても紹介されているが、それは彼が後にいくつかの企業の役員をしていたからに過ぎない。創立メンバーの一人。もともとは法律家として訓練を受けた。1919年のパリ講和会議に出席し、アメリカ代表団の裏方を務めた。第二次世界大戦中はOSS(the Office of Strategic Services 後のCIA)の秘密諜報局(Secret Intelligence Branch)の局長を務めた。第二次世界大戦後は、いくつかの多国籍企業に関係した。ロックフェラーの財団にも関係した。1953年から56年まで全米自由ヨーロッパ委員会の委員長も務めている。

ウイリアム・シェパード (William R. Shepherd) 1921-27
<http://en.wikipedia.org/wiki/William_R._Shepherd>または
<http://www.britannica.com/EBchecked/topic/539945/William-
Robert-Shepherd>
または<http://www.gutenberg.org/etext/3042> 
1871年生まれ。地図制作者・歴史家。コロンビア大学教授。有名なのは彼の出版した「Historical Atlas」だろう。エンサイクロペディア・ブリタニカは、特に彼のラテンアメリカへの傾向ぶりを記述し、いわゆるパン・アメリカニズムの主導者となったとし、ラテンアメリカに対するアメリカ帝国主義を一貫して批判し続けたとしている。

ポール・ウォールバーグ (Paul M. Warburg) 1921-32
<http://www.answers.com/topic/paul-warburg>または
<http://en.wikipedia.org/wiki/Paul_Warburg>または
<http://www.whale.to/b/warburg.html>
 
1868年生まれ。ドイツ・ハンブルグで300年続いたユダヤ系金融家の出身。その後アメリカに滞在中、クーン・ローブ商会のパートナーの娘と結婚、後にパートナーとなって、アメリカ市民権を取得。金融業界の安定化が一つの課題だったが、彼は今日FRBの基になる仕組みの創設を提案した。

ジョージ・M・ウイッカーシャム (George M. Wickersham)1921-36
<http://en.wikipedia.org/wiki/George_W._Wickersham> 
1858年生まれ。法律家。タフト政権の時の司法長官(第48代)。またフーバー政権の時は、法令遵守及び執行に関する全国委員会の委員長に指名された。第二代外交問題評議会の理事長にも就任している。


(以下その5のAへ 第二世代 27年から44年就任)


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