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それはアイロニックです。今朝のことですが、多くの中国批判のことを考えてみました。それは幾分誇張されていると思うのですが、それは数十年前のアメリカと日本との間にあったものだな、と回想していました。その意味では、今日の中国に対するアメリカの政治や議会の反応のいくらかは、数十年前に戻った時のアメリカと日本の間にあったことを彷彿とさせます。そのことに何の意味があるのか私にもはっきりしません。ただそう思っただけです。』 |
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アメリカと日本の関係については・・・。それと日本は、私にいわせれば、日本は政府に出たり入ったりするエリートたちに幾分かの焦点があいつつあります。それは、しかし基本的にはそれ以上ではありません。それはよいことでも悪いことでもありません。それは単に、そうしたこと、なのです。それは単に、その意味では、今や多くのアメリカ外交政策の典型なのです。それは多くの注意を引くものではありません。』 |
ここもまた、思わせぶり謎めかした言葉だ。原文をそのまま引用しておこう。
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As for the United States-Japan relationship -- and Japan, I would say, is getting some focus on the part of elites in and out of government, and it -- but basically -- but not much more. It's not a -- not -- neither a good thing nor a bad thing; it's simply a thing. It's simply a -- in that sense, it's typical of a lot of American foreign policy now, which is not getting a lot of attention.” |
政府に出たり入ったりする“エリートたち”というのは明らかに、これまでの伝統的な日本のエリート、第1種国家公務員試験合格者、すなわち「キャリア」を指しているのではない。ハースのアメリカ帝国主義者としての世界観からは、日本のキャリアなどはアジア的後進性の遺物ぐらいにしか思っていないに違いない。(実は私はそう思っている。)特にアメリカ国務省の官僚を長く務めた彼の経験からは、叱りつければすぐに蟻子のように右往左往して途方に暮れる日本の外務省のキャリアなど、とてもエリートとは映じない。
それではハースにおいて「日本のエリート」とは何だろうか?それは、アメリカの大学に留学したり、修士や博士号をとった日本人であるに違いない。アメリカの「エリート教育」の末席を汚した経験を持つものを指して、ハースは「エリートたち」と呼んでいる。そういう目で見ると、民主党の国会議員に中にこうした経歴を持つもののいかに多いことか。恐らくハースは、こうした人間を指して「エリートたち」と呼んでいる。そうした「エリートたち」が政府の要職についたり離れたりしている現状を形容しているのだと思う。ハースにおいては、それは(アメリカにとって)良いことでも悪いことでもない、当たり前のことだからだ。どこの国においても、フィリピンにおいても、韓国においても、シンガポールにおいても成功してきた当たり前の現象だからだ。(中国においてさえこの傾向が最近顕著だ。) |