トルーマンと原爆、文書から見た歴史
           編集者 Robert H.Ferrell(ロバート・H・ファレル)


第10章 陸軍省広報発表 C.1945年8月6日


 
合衆国大統領に承認された広報発表資料ですら、原爆開発計画の詳細な陳述という意味では、新兵器に関する一般アメリカ人の強い好奇心を十分に満足させるものではなかった。従って陸軍長官スティムソンは、追加データを盛り込んだ自分自身の広報発表資料を用意した。

注 記

スティムソン陸軍長官の広報発表

1.第2節 第1段落
  1939年、アルバート・アインシュタインは原爆を製造する計画にアメリカ政府が支援するよう要請する手紙に署名した。実際は、その手紙は1938年にドイツで実験に成功しその後警告を発するようになった2人の物理学者、ユージン・ウインガーとレオ・シラードがアインシュタインために書いたものだった。その手紙はルーズベルトにすぐコンタクトのできるニューヨーク市の経済学者、アレキサンダー・サックスに託されサックスが届けた。
サックスがルーズベルトを2度訪問した後、ルーズベルトは委員会を任命し、イタリアからの移民であり、コロンビア大学で教鞭を執っていた科学者、エンリコ・フェルミを委員に指名、6000ドルの基金で原子層を構築できる黒鉛を購入させた。全体的な研究開発に着手する決定が出たのは、1941年12月6日、パールハーバーのまさに前日であった。この間2年実際のところ3年経過している。この結論がベルリンの実験の直後に行われていたとしたら、2−3年の時間的ロスはなかったことになり、1943年までには原爆は完成していたろう。そうすれば原爆はナチス・ドイツに対して使われていたろう。その時ソビエト軍はまだ東部戦線に突入していなかった。


2.第3節 第1段落
  マンハッタン計画の開発初期段階から、ソビエト連邦への内通者や諜報員は核研究や技術の心臓部に浸透していた。戦争の終わり頃にはスパイの証拠が明らかになっては来ていたが、散在的なものだったし恐らくはさして重要ではなかったろう。
最初に、深刻な保安上の損害が発生したのは、オタワ(カナダの首都)のソビエト大使館の通信担当職員が書類ファイルをもって、亡命した時だった。その書類ファイルでは、有名なイギリスの科学者の一人、アラン・ナン・メイとカナダの国会議員の一人に罪を着せる内容を含んでいた。書類自体は原爆の更なる改良に関わる内容だった。1948年アメリカとソビエトの関係が悪化した時、連邦捜査局(FBI the Federal Bureau of Investigation)は、1944年にニューヨークのソビエト通商公社から入手した文書類の解読に着手した。極めて短時間にその文書の暗号を解読した。その文書はいわゆる1回限りの暗号通信法(one-time-pads)で表記されていた。
その結果、1947年まで原爆開発計画の心臓部にいた、もう一人のイギリス人で優秀な物理学者、クラウス・フックスに対して諜報活動の嫌疑がかかった。暗号解読から割り出した秘密情報の性格から、FBIはこのことをイギリスの諜報機関に知らせた。そしてイギリスの諜報機関は、押さえていた証拠を突きつけることなしに、フックスから自白を引き出したのである。1950年も1月の終わりのことだ。
この暗号は同時に2人のアメリカ人のことについても触れている。ジュリアスとエセルのローゼンバーグ夫妻である。2人はフックスのクーリエでロス・アラモスでコンタクトをとっていた。ローゼンバーグ夫妻は他の証拠や証言で裁判にかけられ、死刑を宣告された。死刑は1953年に執行された。その時までに、戦争中のソビエト連邦による核諜報活動は広く一般に知られるようになった。

 * ファレルがいかなる意図で「ローゼンバーグ事件」について言及しているのかよく分からない。もし戦争中のソビエトによる、核兵器を巡るスパイ活動の代表例として「ローゼンバーグ事件」を持ち出したのなら、それは必ずしも効果を挙げていない。ローゼンバーグ夫妻がソビエト側と連絡があったことは事実としても、死刑判決を受けた裁判で有罪とされた内容の活動はしていなかった、と言うのが現在の常識である。この意味でこの事件はデッチ上げということになる。ローゼンバーグ事件が何故発生したのかは現在でも議論のある所だ。なお、日本語のホームページでは、この事件に関する客観叙述が意外と少なかった。陸井三郎氏の以下の記述ぐらいであろうか。
(http://homepage2.nifty.com/tkeizo/20011205.html)
英語のページでは最新の研究も含めて、次のページが比較的客観的である。
(http://en.wikipedia.org/wiki/Rosenberg_Case#Background)


3.第5節 第2段落
  後年、アメリカで製造された原子炉が他の諸国や国民に供与されたり、販売されたりしたが、U-235やプルトニウムを使った核兵器レベルの燃料桿に転用することは不可能だった。フランスの原子炉はそうではなかった。転用可能な燃料桿を使用しているため世界の政府の中には、これを軍事目的に転用する恐れもあった。
 不幸なことに、その時までに、科学レベルで、原子爆弾を製造する技術はどこでもよく知られるようになっていた。核クラブのメンバーになろうとする一致した努力は、ほとんど必然的に核兵器を製造する努力となったのである。

 * ファレルのこの記述は、期せずして、その後の核拡散の端緒を叙述している。トルーマンの原爆投下決断のバックグラウンドの一つといってもいい。ここではっきり認識しておきたいことは、原爆が生まれた当初から、拡散への要求があったという事実だ。広島の原爆投下はその要求勢力の第一歩という見方も成立する。)

4.第5節 第4段落
  日本に対する核兵器使用の必要性に関するアドバイスは、オッペンハイマー、アーネスト・O・ローレンス、フェルミ、そしてアーサー・H・コンプトンの4人からなる科学者顧問団(の報告)に根拠をおいている。戦後オッペンハイマーは、科学者顧問団が軍事的状況については「何も知らなかった」(did not know beans 米口語の表現)ことを認めている。しかしながら一方でマンハッタン計画に参加した科学者たちは、彼らのなした仕事を軍事的に使用することについては別の考え方をもっていた。
すなわち何十人もの科学者が、原爆の使用は不必要とする請願書に署名していたのである。こうした科学者たちの関心は、戦後機構の設立と科学誌の創刊―これは「原子力科学者紀要」で50年後の今日でも他の発行物の中でもとりわけ盛んである、核拡散そして世界的な環境に対する脅威という結果として現実のものとなった。